ベルサイユ仮講和条約
☆ 仏選挙結果と仮講和条約の交渉
1871年2月16日。ボルドーはグラン・テアトルで開催されていた国民議会で、当座行政を司る「共和国臨時政府」、いわゆる行政府の長官に推されたルイ・アドルフ・ティエールは、閣僚の任命権も得てその主義・党派を越えて個人的な信頼関係を結んでいた人々を行政府に引き入れ、その中にはジュール・シモンやエルネスト・ピカール、ル・フロなど国防政府の閣僚が残留し、逆に議席の半数を占めた王党派(オルレアン家を推すオルレアニストやブルボン家を担ぐレジティミストなど)からはオルレアニストのフロの他レジティミストから1名しか選ばれず、殆どが共和党系の中道右派か中道左派の人々で占められました。
首相格となる「副長官」は共和党中道派の首魁ジュール・アルマン・スタニスラス・デュフォール、議会議長は後に「模範的な」大統領となる共和党中道派でも右寄りのフランソワ・ポール・ジュール・グレヴィが選ばれました。
第1期デュフォール内閣(顔をはめこんだモンタージュ写真)
ジュール・グレヴィ
1871年2月8日に行われたフランス第三共和制第1回の「国民議会」(一院制)選挙結果は以下の通りです。
*オルレアニスト(オルレアン家の王朝を支持する王党派の一派。元々ティエールもこの党派の一員でした。立場的には穏健右派) 214議席(33.54%) 代表 アンリ・ドルレアン(1830年7月革命の仏王ルイ・フィリップの子)
*レジティミスト(サリカ法を奉じてブルボン家王朝を支持する王党派の一派。正統王朝派とも呼ばれます。立場的には強固な右派) 182議席(28.53%) 代表 アンリ・ダルトワ(最後のブルボン家の仏王シャルル10世の孫)
*共和党中道派 112議席(17.55%) 代表 ジュール・デュフォール
*共和党リベラリスト(共和党中道左派又は穏健左派とも呼ばれます。ファーヴルたちがこの党派となります) 72議席(11.29%) 代表 ジュール・ファーヴル
*共和党連合(共和党急進左派又は抗独派。パリ選出4名の社会主義者を含みます。主にガンベタ一派がこの党派となります) 38議席(5.96%) 代表 レオン・ガンベタ
*ボナパルティスト(保守) 20議席(3.13%) 代表 ウジューヌ・ルエル(ナポレオン3世の元宰相)
ジュール・デュフォール
因みに()内のパーセントは確定638議席に対する割合です。定数は768ですが外国人(ガリバルディ)は除かれ重複した当選者、例えばティエールの31選挙区(26との説もあります)、ガンベタの10選挙区などが居たため115議席が空いてしまいました。その後、後述する理由で35議席が空き、パリ・コミューンの後始末が終わった7月に補欠選挙を行い114議席を埋め最終的に定数は752議席となります(独領となったアルザス=ロレーヌ地域の選挙区が省かれました)。
アドルフ・ティエール
2月19日。ティエールは外務大臣として閣内に残ったジュール・ファーヴルと数人の議員を引き連れてベルサイユへ向かいます。
「新政府」最初の仕事は目前(22日深夜)に迫った休戦失効を避けるため、休戦延長を独帝国宰相ビスマルクと交渉することでした。21日の午後にベルサイユ入りしたティエール一行は早速ビスマルクと交渉し仮講和条約の協議を行う時間を5日間と定め、休戦は2月26日深夜まで延長されました。
講和交渉は休戦延長の取り決めを行った直後に開始され、それはほぼ一方的に独の要求を仏が認める形となって進みます。それもそのはず、ティエールたちはビスマルク(を代表とする独帝国)によって「フランスそのものを人質」に捕られており(特にパリは戦闘再開ともなれば砲弾が雨霰と降り注ぎます)、国民の大多数が和平を望んでいることを信じていたティエールは「独が満足する条件を認める」、即ちアルザス地方とロレーヌ北部を独に割譲し60億フランの賠償金を認めるしかないことを知っていたからでした。
ジュール・ファーヴル(1870年)
それでもティエールとしては独語系エルザス語を話す人々が大多数を占めるアルザス地方(バ=ラン県とベルフォール地区を除くオ=ラン県の大部分)やロレーヌの同様独語圏を独に渡すことは仕方がないと諦めたものの、何とかメッスだけでも救おうと考え、要求された戦時賠償金を数億フラン積み上げても良いのでメッス(71年時のモセル県中央部)を仏領に残すよう求めます。
しかしビスマルクはこの要求を頑なに拒否しました。
彼は「そのようなこと(メッス除外)が起きれば国民はモルトケ(軍部)が獲た勝利を私(政府)が台無しにしたと非難するだろう」と言い「軍部は我が国の安全保障のためメッスは絶対に必要と言っている」「メッスを放棄するなど全く無理な相談だ」と一切認めません。ティエールは「メッスの代わりにルクセンブルクを独帝国が併合しても黙っている」とまで言い出しますが結局ビスマルクは折れることが無く(いくら独系とは言え永世中立国となっているルクセンブルクを併合すれば英が黙っていません)、メッス、ティオンヴィルを含むロレーヌ北部モセル県の殆ど(西側ブリエ地区などがベルギー国境までに細長く仏に残り、新設された仏ムルト=エ=モセル県の北部となります)とムルト県の東部(モーゼル川支流セイユ川とその南北延長線で分割され、その西側仏領がムルト=エ=モセル県南部となりました)が独領ロートリンゲンとされます。同じくヴォージュ県最東端(シルメック郡とサアール郡の一部)、バ=ラン県、ベルフォール地区を除くオ=ラン県は独領エルザスとなりました。
ロレーヌの分割(黒線が現在の県境・モセルとムルトの東部、バ=ラン、オ=ランが独へ)
このベルフォール地区(テリトワール=ドゥ=ベルフォール・「ベルフォール領土」と呼ばれる特殊地区となります。県に昇格したのは第一次大戦後の1922年)がオ=ラン県から切り離されて仏に残された経緯(ベルフォールの代わりにモセル県のいくつかの小郡が追加で独領に加えられます)については、「仏軍の激しい抵抗により休戦まで降伏せずにいたから」「独語系のエルザス語を話す住民が多数を占めるアルザス地域にあってベルフォールは仏語圏だったから」などと言う理由が伝わりますが、モルトケを始めとする独軍首脳陣が「メッス要塞は独の新国境防衛に必要不可欠だがベルフォールは独にとって価値がない」と断じたことが決定的理由だったと思います。
しかし後知恵を許して貰えるのなら、ベルフォールが仏の抵抗の象徴として「独に渡すな」との声が高まっている中「奪ってしまうと後が面倒」とモルトケたちが考え、勝者の余裕で「いらない土地なので赦免しよう」等と考えていたのならば、それは甘い考えだった、と言えるのです。
モルトケは単純に軍事上の優劣を考えて合理的に「メッスやティオンヴィル(独領となることでメッツとディーデンホーフェンとなります)は必要・ベルフォールは不要」としたと思いますが、このメッスはナンシーと並ぶロレーヌ地方の中心都市であるばかりでなくベルフォールと同じフランス語圏で、ここを奪われたことが決定的理由となって誇り高い仏人にいつまでも消えない「傷」を作り、またベルフォールも「独に対する逆襲の拠点」「抵抗の聖地」となり、やがて第一次世界大戦への道を開くのでした。
※ベルフォール郡が独領エルザスから除かれ仏に残留すると正式に決定するのは71年5月のフランクフルト講和条約となります。後述するベルサイユ仮講和条約では、ベルフォール市街とその周辺部を仏側に残し、代わりにマルス=ラ=トゥールやグラヴロットの戦いで戦場となったメッス西郊外の二村が独領となる、とされていますが、ベルフォール領土の範囲と代償となるティオンヴィル西の地方などはこの時点で確定していません。
ベルフォール要塞(20世紀初頭)
ベルフォールのライオン像・大きさが良く分かる一葉
ビスマルクは領土割譲が殆ど独の要求通りに通ったことで賠償金に対しては鷹揚に「60億を50億フランに負けてもよい」とします。とは言うものの50億フランでも気が遠くなるような金額であり、これについてティエールは著名な銀行家アルフォンス・ドゥ・ロチルド(出身地独語読みはロートシルト、英語読みではロスチャイルドです)に交渉と金融を依頼しました。ロチルドは所有するフェリエール城館(ファーヴルがパリ攻囲直後にビスマルクと会談したフェリエール会談で有名です)が独に接収され、やがては大本営もここへ移動(後述)しますが、ヴィルヘルム1世が城も備品も一切接収せず傷ひとつ付けるなと命じたおかげで城館はしっかり保持されました。ビスマルクもパリ攻囲中はここに宿泊しており、アルフォンスとも旧知の中(ビスマルクは首相の前に駐仏大使です)だったため話は早かったと思われますが、アルフォンスもさすが世界有数の銀行家、家系がドイツ系で無論独語も話せましたが強かにも交渉中は仏語で通し、ビスマルク(こちらも仏語は得意です)をイラつかせたというエピソードが残ります(かくいうビスマルクもティエールやファーヴルとの交渉では独語で通したそうですが)。
アルフォンス・ドゥ・ロチルド
こうして交渉は5日間、大急ぎと言った感が拭えないまま休戦限界の2月26日を迎え、仮条約は調印となりました。この仮条約はお互いの政府がお互いの国会(若しくは権力者・国王)に諮って正式な条約交渉へ向かいますが、この承認の時間として休戦は3月12日まで延長されました。また同時に仮条約が批准されるまでの保障として独軍の「パリ進駐」を認める附則協定も結ばれるのです。
☆ 1871年2月26日に締結された独仏仮講和条約並びに同附則協定書
プロイセン国王兼ドイツ国皇帝陛下より講和協議全権を委任されたドイツ国宰相伯爵フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン
バイエルン国王陛下の国務大臣兼外務大臣伯爵オットー・フォン・ブライ=シュタインブルク
ヴュルテンベルク国王陛下の外務大臣男爵アウグスト・フォン・ヴィヒター
バーデン大公殿下の国務大臣兼内閣首班ユリウス・ヨリー
以上諸氏はドイツ国を代表する。
フランス国共和政府の行政長官アドルフ・ティエール
同国外務大臣ジュール・ファーヴル
以上諸氏はフランス国を代表する。
双方の全権委員による委任状が真正証明された後に追って締結する講和本条約の基礎となる次の条項を協定する。
ブライ=シュタインブルク
ユリウス・ヨリー
第一条
フランス国政府は次に掲げる境界線の東方に位置する土地を全てドイツ国に移譲しこの土地に関する一切の権利と所有権を放棄する。
この境界線はルクセンブルク大公国に接するカットゥノム小郡北西の境界に始まり、同郡とティオンヴィル小郡の西境を南に進んでブレイ郡に入り、モントワ=ラ=モンターニュとロンクール両村の西境とサント=マリー=オー=シェンヌ~サン=アイル~アボンヴィル各村の東境に沿いゴルズ小郡に至り、同小郡内のヴィオンヴィル~ビュシエール~オンヴィル各村の境界を南西に沿ってゴルズ郡を分断し、メッス郡の南境とシャトー=サラン郡の西方境界を進んでペットンクールに至り、この村の西境と南境を辿ってセイユ川とモンセル川(現・ルートルノワール川)の間にある高地尾根を通ってラガルドの南方でサルブール郡の境界線に達する。ここから境界線はサルブール郡の西境に沿いタンコンヴィル村の北境に達し、ここからザール・ブランシュ川とヴズーズ川の源流付近の間に在る高地尾根を進みシルメック小郡の北西境に至り、同小郡の西境を進んでサアール小郡のサアール、ブール(=ブリッシュ)、コロワ=ラ=ロシュ、プレンヌ、ランリュプト、ソーユール、サン=ブレーズ=ラ=ロシュ各村を東(即ち独領域)にして、その先はバ=ラン県とオ=ラン県の西県境を辿ってベルフォール小郡北境に至り、同小郡の南境をヴルヴナン近郊(の東側)で離れブローニュとフォワッドフォンテーヌ両村の南境に沿い、デル小郡のジョンシュレとデル両村の東境をスイス国境まで下るものとする。
ドイツ国は永久に全ての主権と権利を保持しこの土地を占有すること。両締結国はこの土地収納のため双方から同数の委員を任じて共同委員会を組織し、この仮条約の双方批准後直ちに前掲の協約に従い実地に赴き新境界線の確定作業に従事すること。
新境界線によって二分される地区において従来その地に在る諸財産で分割される両地に共有する物は共同委員会にてその分割方法を定めること。万が一境界線の確定又はその執行法につき両国委員の意見が相違する場合は各々所属する政府に疑義を申告すること。
以上詳細を示した境界線は普王国参謀本部統計課と地図課が1870年9月ベルリンにて出版した「エルザス総督府施政区画図」二葉に青色線により記入しこれを各一葉双方の仮条約書に添付すること。
(追記)新境界線は両国委員の合意により以下のように修正する。モセル県のサン=プリヴァ=ラ=モンターニュ近郊におけるサント=マリー=オー=シェンヌ並びにヴィオンヴィル両村をドイツ国に割譲し、これに対しベルフォール市街とその付属堡塁は追って定める周辺の若干地域を附してこれをフランス国に還付すること。
第二条
フランス国はドイツ国政府に50億フランを支払うこと。
この額の内少なくとも10億フランは1871年内に支払いを終え、残額は本条約批准の日から数えて三箇年内に完済すること。
第三条
ドイツ国軍隊が駐屯するフランス国領土より撤兵するのはボルドー市において開設される国民議会にて講和条約を批准した後、直ちにこれを実行する。この撤兵順序は批准後最初にパリ市及びセーヌ川左岸地域の諸分派堡を返還し、同時に両軍官憲の協議により出来得る限り早期にカルヴァドス、オルヌ、サルト、ウール=エ=ロワール(Loir)、ロワレ(Loiret)、ロワール(Loir)=エ=シェール、アンドル=エ=ロアール(Loire)、ヨンヌの各県に駐屯する全てのドイツ国軍隊、その他セーヌ=アンフェリウール、ウール、セーヌ=エ=オワーズ、セーヌ=エ=マルヌ、オーヴ、コート=ドールの各県、即ちセーヌ川左岸にあるドイツ国軍隊も全て撤退させる。これに対しフランス国軍隊はロアール(Loire)川以西に退いて本条約批准に至るまで同河川を越えてはならない。パリ市街及び各分派堡の現状を維持するに必要な衛兵はこの規定に含まれない。但しパリ市の衛兵は4万名を越えて配置してはならない。
セーヌ川右岸とフランス国東部国境との間に在る各県に駐屯するドイツ国軍隊の撤兵は講和条約が批准され確定された後(本条約)第二条に掲げた賠償金の内第一回の5億フラン支払いを終えたと同時にパリ市直近の郡県から開始する。その後賠償金残金の支払いが実行される毎に順次実行すること。最初の5億フラン支払い実行によるドイツ国軍隊の撤兵は次の各県において実行する。ソンム、オワーズの両県、セーヌ=アンフェリウール、セーヌ=エ=オワーズ、セーヌ=エ=マルヌ各県の一部並びにセーヌ県の一部からセーヌ川右岸に在る諸分派堡まで。
(賠償金)20億フランが支払われた後におけるドイツ国軍隊によるフランス国土占領地域はマルヌ、アルデンヌ、オート=マルヌ、ムーズ、ヴォージュ、ムルト各県及びベルフォール要塞とその周辺地域とする。その駐屯軍兵力は5万名を越えて配置してはならない。但し、この占領地は(賠償金)残金30億フランの担保とするものであり、フランス国政府がドイツ国皇帝陛下によってドイツ国の利益に十分適うと認めた条件により財務上の担保を提供した時にはこれを認めることも許可する(担保の内容によっては占領地から撤兵)。支払いを延期する場合30億フランについては本条約批准以降年利5分の利子を付すべきものとする。
第四条
ドイツ国のフランス国駐屯軍隊はその駐屯地域内において物資あるいは正貨の徴発を行わない。しかしフランス国政府はドイツ国駐留軍隊の経理官と合議し適当とされる糧食を供給する義務を負う。
第五条
フランス国がドイツ国に割譲した領土に在る住民の商業及び個人の権利上の利益は講和条約の条件を定める時に当たってなるべく寛大にこれを決すること。このため同地住民の生産物に対し一定期間特に輸出に関する特例便宜を与え、また移住の自由を与え、その身体及び財産については何ら制限を設けないこと。
第六条
フランス国軍隊の捕虜の内、捕虜交換によって放免された者以外の者、即ちドイツ国に残るフランス国軍隊の捕虜は、本(仮講和)条約批准後において速やかにフランス国へ送還すること。この送還作業を速やかに行うためフランス国政府はドイツ国領土内のドイツ国官憲に対し鉄道輸送上の諸材料の一部を貸与すること。但しこの車輌数並びに貸与条件は両国官憲間に別に協約を以て定めること。またその賃貸料はフランス国政府の軍隊輸送に対し(民間に)支払う賃貸料と同一に定めること。
第七条
この仮講和条約に対しドイツ国皇帝陛下及びフランス国国民議会において批准を得た後には直ちに(中立国ベルギーの)ブリュッセルにおいて講和条約の協議を始めること。
第八条
講和条約が締結批准後もドイツ国軍隊は(賠償金担保保全のため)フランス国領土内に駐屯するが、その県の行政事務はフランス国政府に引き渡すこと。しかしドイツ国軍隊の司令官よりドイツ国軍隊の安全、需要、物品供給、その軍隊配置に関する諸命令を発する場合フランス国県行政官はその命令に従いその命令実行を助けること。
この仮条約批准の後はドイツ国軍隊の駐留する各県の国税についてこれをフランス国政府の収入とし徴収はフランス国官憲において行うこと。
第九条
この仮条約に掲げた諸条はドイツ国軍隊の官憲にその駐屯地域以外の郡県に対するいかなる権利も与えるものではないこと、自明の理である。
第十条
この仮条約に規定された諸条は直ちにこれをドイツ国皇帝陛下及びボルドー市に開設したフランス国国民議会に提出し速やかに批准を行うことに努めること。
以上証明として下名はこの仮条約書に署名を行う
1871年2月26日ベルサイユにおいて協定する
(署名)フォン・ビスマルク
(署名)A・ティエール
(署名)ジュール・ファーヴル
バイエルン、ヴュルテンベルク両王国並びにバーデン大公国はドイツ国の一部を成し同時にプロイセン王国の同盟国として今次戦役に参戦したため、各委員は以上邦国を代表し仮条約に副署するものである
1871年2月26日ベルサイユにおいて
(署名)伯爵ブライ=シュタインブルク
(署名)ヴィヒター
(署名)ヨリー
ベルサイユのビスマルク、ファーヴル、ティエール
※1871年2月26日のベルサイユ仮条約附属協約
ドイツ国政府とフランス国共和政府との各全権委員間に次の協定を成す。
第一条
本日両国全権委員の間にて協定した仮条約の批准を行うため1月28日及び2月15日の休戦協定はこれを来る3月12日まで延長する。
第二条
休戦延期はこれを1月28日の休戦協定第四条の場合に適用しない。同条項は両国委員の合意により次のように変更する。
パリ市城郭内の一区域であるセーヌ川とフォーブール(郭外街)・サン=トノーレからテルヌ街道(セーヌ右岸のコンコルド広場、シャンゼリゼ通り、エトワール広場を越えてヌイイまで。パリ市の8区南部と16区東部に当たります)はドイツ国軍隊がこれを占領しその軍隊の兵力は3万名を越えてはならない。この区域におけるドイツ国軍隊の占領及び宿営に関する諸条件は両国軍隊の司令官による合議を経て定めること。ドイツ国軍隊がこれを占領する間はフランス国軍隊並びに武装する国民衛兵はこの地域に入ってはならない。
第三条
ドイツ国軍隊は将来、その(パリ)駐屯地において軍税を徴収してはならない。既に徴収を命じた上で未納である者は当然これを免除とする。この条項を知らずに今後軍税を納めた者にはこれを返納すること。これに反し国税はドイツ国軍隊駐留地内に限り引き続き徴収を行う。
第四条
両国委員は3月3日以降随意に休戦を取り消す権利を留保する。但し戦闘を開始する場合は必ず3日間の猶予を設ける(予告する)こと。
1871年2月26日ベルサイユにおいて両国委員の合意を経て協定する。
(署名)フォン・ビスマルク
(署名)A・ティエール
(署名)ジュール・ファーヴル
※1871年2月26日のベルサイユ仮条約附属「ドイツ国軍隊のパリ占領に関する」協約
1871年2月26日ベルサイユにおいて
ドイツ国軍隊のパリ市占領に関する別約
第一項
ドイツ国軍隊は3月1日水曜日午前10時を期してセーヌ川右岸とパリ市外郭の間、即ちポン・デュ・ジュールからポン・デ・テルヌに至る外郭と、フォーブール・サン=トノーレからシャンゼリゼに至る地域及びこの地域内にある倉庫、海軍省、チュイルリー公園等を占拠する。但しフランス国陸軍の糧食倉庫は範囲外としアルマとイエナ両橋はこれを(一般の)交通路とする。
第二項
(ドイツ国軍隊以外の)武装する者は一切この地域内に進入してはならない。しかし(ドイツ国軍隊は)軍人でなく非武装の者は自由な通行を許すこと。
第三項
占領軍たるドイツ国軍隊将兵はルーブル博物館並びに廃兵院を観覧することが出来る。これに関する規定は両国軍務官憲の協議によって定めること。但しドイツ国軍隊兵士は銃を携行せず、同国士官の引率によってのみ観覧すること。
第四項
占領軍たるドイツ国軍隊は公共の建造物又は民家にて適宜宿営することが出来る。これに関する規定を協議するため各街区町村の代表者並びにドイツ国軍隊士官若干名を以て委員会を設け、2月28日火曜日午後2時にセーブルのセーヌ河畔にて会合すること。
第五項
占領軍たるドイツ国軍隊は自炊を行うこと。
☆ 独軍のパリ進駐
こうして仮講和条約は全権委員たちによって署名されますが、3日後の3月1日には双方に批准されるまでの間、独軍3万名がパリ中心地を占領することとなりました。
この間、ボルドーの国民議会ではナポレオン皇帝血統の廃絶を議決して正式に第二帝政を終了させます。
ベルサイユから戻ったティエール行政長官は仮講和条約の批准を求め、独に割譲されるアルザス=ロレーヌ地域の議員による悲愴な訴えもあったものの、仮講和条約とその付帯条項は3月1日に投票に付され賛成546・反対107の賛成多数で批准されました。その後独領となる選挙区で当選した議員(独仏に分断された選挙区議員も)35名は辞任しました。その中にはガンベタもいたのです(後に一部仏領に残った選挙区などは議席が復活し失われたのは15議席となります)。
このため、独軍によるパリの占領は僅かの時間、限定的に実施されただけで終わりました(ティエールたちが必死になって批准を急いだのはこの協定を実施させないためでもありました)。
この事実に対し独参謀本部戦史課の公式戦史では「このため仏首都を占領する規定は完全実施されずに終わった。しかし独軍は規定の一部を実施しただけとはいえ敵首都パリに入城したことは敵を完全に屈服させたという事実を証明しこの意義たるや誠に重大である」(筆者意訳)と未練がましく記しています。
ボルドーのグラン・テアトルで演説するティエール
「独軍幻のパリ占領」は次の手順で行われることが計画されていました。
先ず独軍は3個の梯団を編成し、第1梯団が3月1日、第2梯団が同月3日、第3梯団が同月5日に各々パリへ入城し交代するという段取りでした。
※パリ進駐を予定された三個の梯団
◇第1梯団
○第6軍団から選抜11,000名
○バイエルン第2軍団から選抜11,000名
○第11軍団から選抜8,000名
◇第2梯団
○近衛軍団と後備近衛師団から選抜29,200名
○擲弾兵第7「国王・ヴェストプロイセン第2」連隊(第5軍団第9師団)の2,200名
○要塞砲兵並びに要塞工兵諸中隊から選抜3,000名
◇第3梯団
○第12「ザクセン」軍団から選抜15,000名
○バイエルン第1軍団から選抜7,200名
○ヴュルテンベルク師団から選抜7,000名
これを見れば分かる通りパリの包囲網を構成した諸隊から万遍なくパリに入れるよう計画されており、第1梯団こそ規定通り30,000名ですが第2では規定を越える兵員数となっており、この辺り「お登りさん」感覚でパリ見物を熱望する出来るだけ多くの兵士たちに機会を与えようとした参謀本部や皇帝の思いやりが透けて見えます。この直前に包囲網を離れた第5軍団こそ居残っていたその一部(擲弾兵第7連隊)が梯団に選ばれましたが、全てがパリ周辺から離れてしまった第4軍団の兵士たちは残念だったに違いありません。
パリ(1871.3.1)
*青線は休戦ライン(パリでは独軍の前哨線)
*赤線内は独軍占領地域。緑線は3月1日の独パレードルート
3月1日早朝。ヴィルヘルム1世皇帝はパリ西郊セーヌを臨むロンシャン競馬場にてパリ攻城作業の責任者だったゲオルグ・アーノルド・カール・フォン・カメケ中将が率いる第1梯団の観閲式を行いました。式が終わると第1梯団はそのまま軍楽隊を先頭に隊列を組み、それぞれの軍旗を掲げ誇らしげにブローニュの森を横切り、ヌイイ門から堂々パリ入城を果たし凱旋門を越えシャンゼリゼ大通りをコンコルド広場まで行進しました(ヌイイからコンコルドまで直線の大通りを3キロ超)。この時軍楽隊は前回のパリ入城(ナポレオン戦争)を記念して作曲された「1814年パリ入城行進曲」を演奏し続けたのでした。
しかし独軍兵士たちにとって残念だったことに、3月2日の午前、ベルサイユ仮講和条約の批准書が双方講和協議委員の手で交換され、この時点で独軍のパリ占領は終了してしまうのです。独大本営は同日午前11時「直ちに占領地より撤兵せよ」との至急令を発し、第1梯団は翌3日午前早くにパリ市街を離れ(撤退に時間が掛かったのは出来るだけ長くパリに居たい将兵の気持ちを表しているのでしょう)、ほぼ同時にロンシャンでは第1梯団と交代するため待機していた第2梯団(さぞがっかりしたことでしょう)が結局パリに入ることを許されず不満顔の皇帝陛下を前に観閲式を挙行するのでした(ヴィルヘルム1世皇帝がパリに入ったりしたら既に不穏な動きを示していた市民が一気に暴発したことでしょう)。
ロンシャン1871.31. 観閲式
3月2日、ヴィルヘルム1世皇帝は仮講和条約が仏国に批准されたと聴き、次の電報をベルリンの決して仲が良いとは言えないアウグスタ皇后宛に発信しています。
「朕はたった今講和条約(実際は仮)を批准したところである。昨日フランス国民議会はこれを可決し、これで7ヶ月間連勝により成功を収めた大事業が終局を迎えることとなった。このような成功は一つに国軍に属する各将兵の比類なき忠誠と勇気そして忍耐と、祖国民衆の誠意在る奉公によって成し得たことである。軍神は常に我が軍に対して顕著な天佑を与え賜い、またその恩恵を得て光輝ある平和を見ることが出来た。軍神に只只感謝を捧げるものである。朕は国軍と祖国に対し深く謝意を表そうと考える。
ヴィルヘルム」(筆者意訳)
独軍の「形式的」パリ入城(1871.3.1)




