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休戦後半の独仏両軍状況と兵力

※再録


独仏休戦境界線(仏北部・1871.2.28休戦終了時)


挿絵(By みてみん)


独仏休戦境界線(仏南部・1871.2.28休戦終了時)


挿絵(By みてみん)




☆ 1871年2月の仏国政選挙


 2月8日の選挙は準備期間も少なく不完全なまま実施されます。選挙自体は松井道昭教授のブログほかネットでも詳細に参照出来るためここでは多くを語りませんが、簡単に説明すると、国政選挙は各県や特別市区が公示(主に新聞に頼ります)した候補者リストを見て投票するというもので、リストの最多得票者が当選とされました。ガンベタの制令が効いていた地方も多くボナパルティストは多くが排除されますが、国民の和平に対する願いは強く、投票は和平を唱えていた、または「和平を望むであろう」穏健な人物に集まります。この手の人々はいわゆるハト派の保守やカトリック派、王党派(正統派、オルレアン派など)に多く、彼らは順当に当選しました。しかしリストは各県ですり合わせることなく公示されたため重複してリストに乗った候補者も多く、現代の基準からすれば公平と言えるかどうかは疑問符が付くところでした(当時はこれが一般的らしく独でも重複立候補は当たり前でした)。また、地域の置かれた状況(不満高まるパリや独に編入されることが確実視されていたアルザス・ロレーヌ地区など)で極左や外国人(ガリバルディ)、徹底抗戦を叫ぶ主戦派も多数当選しており、特に目立ったのは戦争で名を上げた軍人たちがリストに載せられ一部は当選したことでした。


 しかし一番目立ったのは多くの県でリストの上位に載せられ、なんと31県で当選したベテラン政治家でした。

 アドルフ・ティエールです。


 ティエールは開戦を決めるあの下院議会でも圧倒的少数だった戦争反対を唱えており、その後も戦争の早期終結のため動いていたと信じられていました。多くの国民は、この穏健中道(と思われ)、パリの外壁にも名を残し王党派の流れを汲む大ベテランに戦争の幕引きを託そうと考えたのでした。


 選挙が終わりボルドーに新国会(議員768名)が召集(2月13日)されますが、21日間の休戦は期限が迫って(当初は2月19日12時。その後延長されこの時点で2月22日24時)おり、独仏両軍とも時間切れで戦闘状態が避けられなくなった時のため準備を進めるのでした。


☆ 戦闘再開に向けた仏軍の準備


 休戦時に仏軍で万単位の部隊を率いていた高級士官なら誰しもが痛感したことですが、兵力数では勝っていても今(71年当時)の独軍は世界最高水準と呼んでも構わない最強の軍隊であり、しかも仏軍は休戦間際にどの方面においても徹底して「痛み付けられていた」ため、今後再び作戦を発動しても端から圧倒的不利にあることは明らかでした。それでも最善を求めるのなら兵力展開を定め直すしかないわけで、先ず声を上げたのは北部軍を率いていたフェデルブ将軍でした。


 2月15日。フェデルブ将軍が発議した兵力再展開案(孤立して戦略的価値が低く圧倒的に不利な北部から多少なりとも戦勝の可能性が残る南西部への戦力移譲)はパリ国防(今や臨時)政府に認められ、北部軍は解隊されて18,000名・砲兵10個中隊の第22軍団はカレーやブローニュで輸送船に分乗し仏海軍の主要軍港シェルブールへ向かいます(海は「仏のもの」です)。同軍団は2月26日にシェルブールからコタンタン半島を下ってサン=ロー(ル・アーブルの西南西96キロ)やバイユー(サン=ローの北東33キロ)、即ちノルマンディー地方西部に至りました。

 北部ノールとパ=ドゥ=カレー両県は残された第23軍団が諸要塞に頼って護ることとなります。


 フェデルブ将軍と並んで憂国の情に駆られる第二ロアール軍司令のシャンジー将軍は、軍主力をロアール(Loire)左岸(南方)に移動させて独軍の手が届かない南仏・ボルドーとの連絡を確実にし、ロアール右岸のブルターニュ地方には別に一軍を設けて守備範囲を分割することを提案しました。これは2月10日にパリで開催された軍事評議会で許可され、最小100,000から最大150,000までの兵員で「ブルターニュ軍」が創設され、指揮官には前・第17軍団長のルイ・ジョセフ・ジャン・フランシス・イシドロ・ドゥ・コロン将軍が任命されました(先の第22軍団もこれに属します)。新軍は従来シャンジー将軍が護っていたマイエンヌ川以西の土地を守る任務を受け、今や「ロアール軍」を名乗るシャンジー将軍の軍とはアンジェ付近で連絡し休戦ラインを維持することとなったのです。

 これによりシャンジー将軍は麾下約160,000名となり、左翼はアンジェ東面から右翼はシャトールー(トゥールの南東100キロ)まで休戦ラインに沿って展開するのでした。休戦に入りジャン=バティスト・ビオ将軍(前・第18軍団長)によってゲレ(シャトールーの南72.6キロ)で編成された新「第26軍団」(主として南仏の護国軍兵でリヨンに集合していた集団です)はこのシャトールーへ進みロアール軍に所属することとなりました。


挿絵(By みてみん)

コロン将軍


挿絵(By みてみん)

ビオ将軍(1870)


 休戦までパリ軍以外の仏野戦各軍(第二ロアール、北部、東部)の任務はパリの包囲を解くことと独軍の後方連絡を遮断することが主な任務でした。しかし休戦に入り「もし戦闘が再開する」とした場合、全うに考えるのであれば最初に為すべきことは軍備の崩壊が著しい仏南東部の防衛強化で、積極的なマントイフェル将軍率いる独軍(南軍)の南仏突進を防ぐことが急務と言えました。とはいえ、パリの仏軍首脳陣の算出では総軍併せても野戦に耐えられると考えられた兵力は「251,900名を越えない」との悲観的な見解もあり、この貴重な戦力はボルドー方面を死守することに費やすしかありませんでした。


 この見解の根拠となった調査は、休戦直後にパリと地方との連絡が可能となったことで急ぎ行なわれたもので、この報告によれば「野戦軍の総兵力は534,452名・各種野砲1,242門、但し総兵力に含む国民衛兵は戦時に役立つものではない」とされ、「登録された義勇兵は士官1,500名・下士官兵36,000名以上であるが戦闘に際し信頼に足る部隊以外は解散を要求した」とありました。また、「各種補充兵・演習野営地駐屯兵・アルジェリア等の植民地には総計354,000名が予備として控え」「地方編成の砲兵57個中隊があり」「1871年度入隊予定の召集新兵は132,000名であるが召集令を発したものの未だ徴募に至らず」とされます。更に海軍について「その艦隊兵員と艦載備砲の多数を陸戦用として上陸させており、半数以上の艦船は武装を解除して就役せず、故に仏艦隊は直ちに大作戦へ使用すること不可能」とされ、「北海、シェルブール、ダンケルクには交代しつつ2個の小艦隊が碇泊または巡航しており、ル・アーブルには通報艦と砲艦からなる1個の艦隊があり、ローヌ川の就航可能な区域には装甲砲艦2隻あり」とされます。また「ロアール川にあった河川小艦隊は独軍により破壊または鹵獲された」との記述も見られました。


挿絵(By みてみん)

パリ・セーヌ川のファルシー砲艇


※1871年2月8日・マイエンヌの後方に在った仏軍兵力表(仏軍主力のロアール軍とブルターニュ軍に当たります)


○本営(この時点でシャンジー将軍の司令部)

 士官231名・下士官兵1,889名・馬匹897頭

○歩兵 士官1,124名・下士官兵44,170名・馬匹1,207頭

○海軍兵(歩・砲) 士官96名・下士官兵3,308名・馬匹43頭

○護国軍兵 士官1,443名・下士官兵62,163名・馬匹410頭

○臨時護国軍兵 士官658名・下士官兵79,845名・馬匹68頭

○義勇兵 士官247名・下士官兵5,115名・馬匹79頭

○騎兵 士官632名・下士官兵9,313名・馬匹9,030頭

○砲兵 士官229名・下士官兵12,639名・馬匹11,476頭

○工兵 士官60名・下士官兵2,425名・馬匹229頭

○憲兵 士官68名・下士官兵1,727名・馬匹817頭

○その他の業務に従事した者 士官164名・下士官兵4,767名・馬匹2,541頭

合計 士官4,952名・下士官兵227,361名・馬匹26,797頭

 同砲兵の備砲別編成は以下の通り

・12ポンド砲 5個中隊 ・8ポンド砲 4個中隊 ・7ポンド砲 4個中隊

・4ポンド砲 29個中隊 ・4ポンド山砲 7個中隊 ・ミトライユーズ砲 10個中隊

・その他口径砲 15個中隊

合計 74個中隊 砲430門

*総兵力中、ロアール軍としてロアール川左岸へ移動した兵力(後に加わった第26軍団含まず)

下士官兵128,733名・馬匹20,048頭・砲兵54個中隊

*残余はブルターニュ軍としてコロン将軍指揮下となる(第22軍団含む)

下士官兵98,628名・馬匹6,749頭・砲兵20個中隊


挿絵(By みてみん)

マイエンヌ 市場の光景(19世紀末期)


☆ 戦闘再開に向けた独軍の準備


 対する独軍もモルトケ率いる参謀本部以下抜かりなく休戦期間を利用し戦闘再開に向けて準備を整えます。


 最初に参謀本部が取りかかったのは錯綜した野戦軍の配置を正すことと戦時定員を充足し装備の補充を完全実施することでした。

 中でも潜在的に最も脅威となる巨大なパリに対しては、「極めて強力な威嚇を示し戦う前から圧倒する」ことを目指すのです。

 このため、ロマンヴィルからオーヴェルヴィリエに至るパリ北東の高地に多数の砲台を設け、鹵獲した仏の62門を含む158門の要塞砲を配し、諸分派堡にも防御用の備砲367門の他、パリ北西側の要衝モン=ヴァレリアン(山)堡塁周辺に14門、パリ南方のイヴリ堡とビセートル堡に各8門、モンルージュ堡に10門、シャラントン堡・ヴァンブ堡・イッシー堡に合計43門、計83門の仏鹵獲要塞砲をパリ市街に向けて配備し、イヴリ堡~ビセートル堡の間にも72門の普製要塞砲を並べパリを狙いました。これら分派堡と諸砲台・砲列には2月20日までに長期砲戦に耐えられるだけの弾薬を搬入し終えるのです。独軍「鬼の」砲兵総監フォン・ヒンダーシン将軍は2月19日、1月のパリ砲撃時とは比較にならないほど近距離(中心街まで5キロ前後)にある680門の各種要塞砲が砲撃準備を終え市街に照準を合わせている、との報告を受け重々しく頷いたのでした。


 独大本営ではこの処置により「パリ包囲の兵力から2、3軍団引き抜いても包囲は安全」との意見が続出し、この兵力を少々不安な地方の休戦ライン前哨線に充当する案が出ます。確かに、ゲーベン将軍の第一軍やマントイフェル将軍の南軍方面では対峙する仏軍が弱小であるため現在の配備に補充を加えれば十分と言えましたが、カール王子の第二軍方面では愛国心に燃え逆襲の機会を狙うシャンジー将軍とその配下だけではなく、ノルマンディーからブルターニュに掛けても北部軍から増援を受けて新たな軍が出現しており、増強の必要性が高まっていました。このため、独大本営は正式にパリ包囲軍から第二軍へ兵力の移譲を行うことを決し、フォン・キルヒバッハ将軍率いるそれまではパリ西方を担当していた第5軍団をロアール(Loire)河畔に送り、代わってフォン・マンシュタイン将軍率いる第9軍団をパリへ引き上げる命令を下します。第5軍団は2月9日に任地を離れて順次ロアール方面へ向かいました。また、同月10日にはパリ北方を担当していたグスタフ・フォン・アルヴェンスレーヴェン将軍率いる第4軍団もシャルトルを経由し第二軍の右翼へ向かうよう命じられて出立するのでした。

 この移動により包囲網に空いた穴は隣接する諸隊が順次横へ兵力を延伸させて埋めました(北方は近衛軍団、西方は第11軍団)。また、第4軍団は第二軍に転属しますが「独最強」第5軍団は第三軍所属のまま「貸し出す」形となりました。この辺り、カール王子(元帥)と皇太子(元帥)のバランスを考えた処置に見え(第二軍が第三軍より突出して「強力」に見えないよう)微笑ましく思えます。

 こうして独大本営は各所のバランスも考えて休戦明けに備えるのでした。


 2月13日。ビスマルク帝国宰相は奏上し、仏国の選挙は未だ未了か集計中の県があり、休戦終了の22日までに新政府が立ち上がることが非常に困難となったため、仏臨時政府は休戦の延期を申し入れて来ている、と報告します。このため独大本営は同日、各軍司令官に対して敵対行為再開のため既に開始している軍の準備行動を一時中断するよう命じました。

 結果、シャルトルを越えて行軍中の第4軍団はノジャン=ル=ロトルーまで前進した所で停止し、パリへ引き上げる予定だった第9軍団は第5軍団と交代を終えた後にバンドームとヴーヴレ(トゥールの東8.6キロ)並びにブロア間で留まるよう、残りの軍団と諸隊(第3、第10軍団と騎兵第1、2、4、6師団)は第4と第9軍団の宿営地を空けるためやや接近して再展開しました。


 2月12日に召集された仏国新国民議会はボルドーで開催され、15日に休戦は24日正午まで延長されることとなり、新たな「政府」の母胎となる行政府の長官にアドルフ・ティエールが推挙されたのは「早く戦争を終わらせたい」という世論の流れを汲んで、と言えました。

 ティエールは2月19日、国会において演説し「全く挽回の余地がないこの戦争を終わらせるため心血を注ぐ」と告げます。そしてその日の内にジュール・ファーヴルを伴いパリへ向かったのでした。

 情勢は和平に偏り始めますが休戦が小刻みに延期されるため、独大本営ではモルトケ参謀総長が20日、諸軍司令官に対して訓令を発しその主旨は「休戦が再延期されることがないと考え(つまり、油断せず警戒怠るなな、ということでしょう)、各軍は警戒に必要な諸般の行動を直ちに実施し戦闘再開に備えなくてはならない。但し、その攻撃は大本営からの明確な命令を受けて初めて開始される」とのことでした。翌21日、休戦期間は更に26日24時まで延長されるのです。


挿絵(By みてみん)

休戦期間 独哨兵に火を貸す仏哨兵


☆ 2月中旬・独第二軍の対応


 態勢を整えるのに時間が出来た独第二軍は命令を発し、それによれば「第4軍団は騎兵第4師団と共にフレネイ=シュル=サルト(アランソンの南17.3キロ)とボンネターブル(ル・マンの北東25.8キロ)までに展開し軍の右翼となり、第3軍団は騎兵第2師団と共にル・マンとその周辺に、第10軍団は騎兵第6師団と共に騎兵第1師団が展開するトゥール周辺に至り、第9軍団は第3と第10軍団の間に展開、第5軍団はオルレアンを中心に東西ロアール河畔を警戒せよ」とのことでした。


☆ 2月中旬・独南軍の対応


 面前の敵が殆ど「素人か経験の少ない弱兵」と見なしている独南軍では、既に大本営より戦闘再開に際して行うべき作戦の概要が伝えられており、その内容は「優勢な兵力を使用してオータン(ディジョンの南西70キロ)及びシャロン=シュル=ソーヌ(同南61.6キロ)付近に在る敵に対し素早く攻勢を仕掛け、これらをリヨン方面へ駆逐する。しかしリヨン要塞都市は広大にして攻囲に時間が掛かるため大本営としてはこれを攻略しないと決めているため、南軍はリヨンに接近せず、いかなる場合においてもマコン(リヨンの北59.8キロ)より南方に進んではならない。前進中、第14軍団はシャロン=シュル=ソーヌで停止し、軍主力は西進しヌヴェール(ディジョンの西146.6キロ)かムーラン(ヌヴェールの南49キロ)を経てブールジュ(同西58.8キロ)地方へ突進すること。同時にラングル要塞の攻囲を開始すること」とのことでした。


 この命令によって第2軍団はドール南方ポリニーとロン=ル=ソニエ間に展開し、第7軍団はディジョンからニュイ=サン=ジョルジュ(ディジョンの南21.8キロ)間にあって西方側面防御に1個支隊をソンベルノン(ニュイ=サン=ジョルジュの北西26.3キロ)からブリニー=シュル=ウシュ(ソンベルノンの南22.7キロ)に掛けて派出しました。南軍司令官のフォン・マントイフェル将軍は両軍団共に命令一下、南方ジュラ山脈端のブールカン=ブレス(マコンの東南東32.5キロ)方面とソーヌ=エ=ロアール県境のシャニー(ボーヌの南南西14.2キロ)、そしてオータンへ進出するための準備を命じたのでした。

 将軍は第14軍団に対しても、事あれば予備第1師団と予備第4師団を合流させてブザンソンとオーソンヌ両要塞都市を改めて包囲し、軍の後方連絡が脅かされぬようにすると同時に割くことが可能な兵力(バーデン師団と後備大隊若干が想定されます)でシャロン=シュル=ソーヌに向かいこれを占領するよう命じるのでした。


 ラングル要塞に対しては、休戦前の「生温い対応」ではなく強力な兵力で要塞を屈服させる準備を計画し、これをフォン・デア・ゴルツ将軍に託します。将軍は自身の部下だけでなくロンウィーから到着しつつあるクレンスキー大佐麾下の諸隊も与えられ、ロートリンゲン総督府から派遣された後備歩兵10個大隊による「ラングル要塞攻囲兵団」をも隷下にして、「これでも足りない」とばかりにベルフォール要塞の攻城厰から要塞砲兵8個中隊と要塞工兵3個中隊を呼び寄せます。攻城各資材や要塞砲はベルフォールの攻囲終了で不要となったものと、既にロンウィーからショーモンに運搬を終えていた資材と要塞砲を使い、それら膨大な量の貨物を攻囲準備指定場所まで輸送する段取りを命じるのでした。


☆ 2月中旬・独第一軍の対応


 仏北部軍が減少し比較的楽となったフォン・ゲーベン将軍(実際北部軍は解散しますがこの時点で独軍はそれに気付いていません)の第一軍は2月19日から第1軍団をセーヌ河畔、第8軍団と予備第3師団、そして騎兵第3師団をソンム河畔に、第17師団を総予備としてディエップ周辺に配置します。その後、休戦終了により仏軍が攻勢に出た場合を考慮して、2月23日にソンム河畔にある兵力をペロンヌ要塞とサン=カンタン市街の間、更にアミアンとアブヴィル付近に集合させ、これを三個の悌団にまとめました。この日には大本営から命令も届き、それによれば、「第一軍は一部をソンム河畔に残留させた後、主力を左翼(西・海峡方面)に集中させるよう」とのことで、これは第22軍団が海峡方面へ移動したことに気付いた大本営がフェデルブ将軍による「海峡沿いル・アーブルへの突破作戦」の可能性を考慮して命じたものでした。しかし直後に大本営は「海峡付近に集合していた仏将兵はカレーやブローニュで乗船して出航しシェルブールで下船中」との情報を得、この頃には後述する講和に向けた仮条約の交渉も始まったため、翌24日にこの命令は実施前に取り消されたのでした。


 同じ24日には「シャンジー将軍率いる仏ロアール軍はポワティエ(トゥールの南南西94キロ)周辺を中心に集合し始め、ヴォージュ軍の司令官が更迭された」との情報も独大本営に流れますが、これも講和に向けての動きにより黙殺されました。第二軍と南軍が行っていた陣地転換も2月末までに殆ど終了するのです。


☆ 休戦間の独軍後方連絡


 独仏間で休戦が決定(1月30日) すると、独軍が後方連絡に使用可能な鉄道線の区域は一気に拡張し、また輸送量も飛躍的に拡大しました。独軍の鉄道隊は妨害の恐れなく修繕や改良工事を行うことが出来るようになり、それまでは破壊することに注力していた仏側もパリや主要都市に食料・物資を速やかに送達しなくてはならなくなったため、破壊された鉄道や橋梁の修理に全力を挙げて立ち向かったためでした。

 しかし、当然ながら鉄道は独側に優先利用権があり、前述通り大本営は各軍諸隊の人・物の充足を最優先として本国から補充兵や補給品の輸送を促進し、仏側もパリの飢餓を回避するため膨大な量の食料を輸送しようと運行可能な鉄道線の使用を申請したため、鉄道に対する要求はあっという間に限界を超えてしまうのでした。結果各鉄道幹線には過大な負荷が掛かり、その運行と保守管理を担う独軍と独鉄道省の役人たちは猫の手も借りたい状態となりますが、仏人の手を借りるにはまだ信用出来ないこともあって過酷な状態に陥るのでした。

 この仏が使用可能な鉄道には更に仏領域マイエンヌ県都のラヴァルから独占領下ル・マン~パリへと至る幹線、同じく仏領域オルヌ県のアルジャンタンから独占領下ドルー~パリ線、独軍専用線のオルレアン~トゥール線とルーアン~ポアシー~パリ線も加わり、パリへの輸送は拍車が掛かるのでした。

 この独鉄道関連部署の危機の際し、救いとなったのは仏政府が200台の機関車と5,000輌の貨車を放出したことで、従来壊れかけた機関車や常に不足する貨車を遣り繰りしていた独鉄道運行係はやっと一息吐けるのでした。


 そんな中でも不通だった鉄道線区の復旧が続き、独第一軍の管区ではルーアン~ディエップの海峡沿岸線が開通し、それまで仮の修繕で臨時のみに利用が制限されていたベルサイユ~ウーダン~ドルー線も定時運行が許され、鉄道隊はその先、既に仏軍が仮開通させていた前述のアルジャンタン線の改良を続けるのです。

 また、仏側が復旧させたアミアン~アブビル線とサン=カンタン~テルニエ(サン=カンタンの南21キロ)線は仏人ばかりでなく独軍も使用するようになります。


 パリ周辺に展開する第三軍とマース(第四)軍管区では、それまでの端末駅(第三軍はラニー=シュル=マルヌ、マース軍がスブランやゴネス)をパリの外縁まで延ばし、パリを周回する環状鉄道(プティット・サンチュール。現在は廃線状態)も独軍の貨物列車と患者輸送列車に限り利用が可能となり、これでパリの西部(ベルサイユなど)にある第三軍やその先の第二軍の輸送が非常に楽となるのです。

 第二軍管区では2月9日にヨンヌ川に架かるラ・ロシュ(ミジャンヌ)鉄道橋の修繕を終え(「11月以降の後方連絡線・鉄道線の補修と延伸(後)」を参照下さい)、2月11日にニュイ(=シュル=アルマンソン)からパリ南の補給端末・ジュヴィジー=シュロルジュへ至る南方路線が復旧したため、駐屯地への輸送が格段に改善されます。ほぼ同じ頃、第二軍管区では前述のオルレアン~トゥール線にル・マン~ボーモン=シュル=サルト(ル・マンの北24.8キロ)線が復旧し休戦ライン付近に駐屯する将兵たちの物資不足を救い始めるのでした。


 南軍管区ではベルフォールの開城後、鉄道隊は直ちにブズール~ベルフォール鉄道の復旧を目指しました。また、難工事だった例のエルティニー高架橋工事も2月下旬に完成し、2月24日にナンシー~ヴズール~グレー全線がようやく開通するのです。

 なお、休戦に至っても元々中央の支配が希薄だった義勇兵たちも日を経る毎に休戦協定を遵守するようになって行きますが、独憎しが高じて殆ど山賊状態になっている部隊もあるため、後方諸隊は巡察を欠かさず休戦中でも占領地の隅々まで警戒部隊を送らねばなりませんでしたが、仏側の輸送も滞ることを知っていたのか神出鬼没で過激な部隊も鉄道を襲うことは滅多にありませんでした。


☆ 休戦期間の独沿海地方


 休戦に入った2月になっても気を緩めることがない独沿海地方防衛の責任者、ヴォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン将軍は、独大本営からの「休戦終了の場合に敵対行動が開始される」との警告に従い、戦争再開となった場合の準備を怠りなく進めます。

 ブレーメンとハンブルク防衛に当たる混成2個旅団については、ブレーメン旅団が1個大隊を仏に送って5個大隊になったものの、この2個旅団以外にも歩兵28個大隊を未だに沿海へ展開しており、他に騎兵3個中隊と野砲兵3個中隊も沿海の要地に詰めていました。この沿海地域の砲台や堡塁には要塞砲兵24個中隊が配され、他にも要塞工兵4個中隊と補充工兵1個中隊、そして海軍砲兵と予備海軍砲兵の9個中隊も要地に駐屯していました。

 また、これら正面部隊とは別に歩兵13個大隊半、猟兵5個中隊、騎兵14個中隊、野砲兵1個中隊が後方の駐屯地にて編成中で、その他野砲兵第9と同第10連隊補充兵大隊のそれぞれ一部と、予備となった要塞砲兵6個中隊に工兵補充部隊2個、輜重兵補充部隊4個が管区内にあり、これら諸隊はいざとなればファルケンシュタイン将軍が使用可能でした。

 これを合わせれば多くの後備部隊を仏に送った沿海地方でも未だ歩兵52個大隊半(猟兵にキール軍港の海軍歩兵大隊と予備海軍歩兵大隊を含みます。この内後備14個大隊が仏に出征準備中でした)、騎兵25個中隊、野砲兵6個中隊がファルケンシュタイン将軍の隷下にあり、その他にこの地域には22個の衛兵大隊と22個の補充騎兵中隊があって仏軍捕虜の監視を行っていました。

 休戦期間中、ファルケンシュタイン将軍は手薄と思われていた独蘭国境エムス河口のエムデン(ブレーメンの西北西111キロ)の沿海砲台群にミンデン(同南88キロ)要塞から要塞重砲を搬送させ、海軍泊地のクックスハーフェン(ブレーメンの北87.5キロ)の防衛砲台と同じ泊地のヴィスマル(リューベックの東51キロ)を護るホーエン=ヴィーシェンドルフ(ヴィスマルの北西10.4キロ)の岬砲台も拡張を命じました。更には要港を仏艦隊の侵入から守るため、水雷の設置場所を増やし、船舶を沈めて閉塞するための準備と仏艦が現れた時に速やかに浮標を撤去するための訓練も行わせるのでした。


挿絵(By みてみん)

ミンデン要塞(1873年)


 海軍ではこの休戦期間中、装甲フリゲート「ケーニヒ・ヴィルヘルム」「フリードリヒ・カール」「クロンプリンツ」が4隻の砲艦と共にヴィルヘルムスハーフェン(ブレーメンの北西67.5キロ)の防衛に就き、ミンデンのあるエムス河口には「コメート」「ナッター」の砲艦2隻、ヴェーザー河口(ブレーマーハーフェン付近)には「イェーガー」「ハイ」「ヴォルフ」の砲艦3隻が、そしてエルベ河口には装甲ブリッグ「プリンツ・アーダルベルト」と「シークロップ」「フックス」「ハイエナ」「ハビット」の砲艦4隻が、それぞれ警戒配備されていました。

 また、休戦によってそれまでスペインの大西洋岸ビーゴ湾に閉じ込められていた汽帆走コルベット「アガスタ」も出航が可能となり、2月7日にスペインを発ち途中ノルウェー南端のマンダールで給炭後、2月21日に無事ヴィルヘルムスハーフェンへ戻って来たのでした。


※1871年3月1日・仏国内に在る独軍の総兵力


◎野戦軍


◇第一軍 アウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン歩兵大将

 歩兵64,398名・戦闘用馬匹数(騎兵)14,661頭・砲数(砲兵)246門・総計(非戦闘員を加算)110,696名


○第1軍団 ゲオルグ・フェルディナント・フォン・ベントハイム中将

 歩兵22,336名・戦闘用馬匹数(騎兵)1,194頭・砲数(砲兵)84門・総計(非戦闘員を加算)40,252名

○第8軍団 フォン・ゲーベン歩兵大将兼務

 歩兵24,276名・戦闘用馬匹数(騎兵)1,207頭・砲数(砲兵)90門・総計(非戦闘員を加算)33,012名

○第17師団 ヘルマン・ハインリッヒ・テオドール・フォン・トレスコウ中将

 歩兵11,703名・戦闘用馬匹数(騎兵)1,672頭・砲数(砲兵)36門・総計(非戦闘員を加算)17,060名

○予備第3師団+近衛混成騎兵旅団 親王フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニコラウス・アルブレヒト・フォン・プロイセン中将

 歩兵6,083名・戦闘用馬匹数(騎兵)2,280頭・砲数(砲兵)18門・総計(非戦闘員を加算)9,658名

○近衛騎兵第3旅団 ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク少将

 歩兵0名・戦闘用馬匹数(騎兵)1,038頭・砲数(砲兵)0門・総計(非戦闘員を加算)1,345名

○騎兵第3師団 伯爵ゲオルク・ラインハルト・フォン・デア・グレーベン=ノイデルヘン中将

 歩兵0名・戦闘用馬匹数(騎兵)2,221頭・砲数(砲兵)6門・総計(非戦闘員を加算)3,058名

○騎兵第5師団 カール・ヴィルヘルム・グスタフ・アルベルト・フォン・ラインバーベン中将指揮

 歩兵0名・戦闘用馬匹数(騎兵)5,049頭・砲数(砲兵)12門・総計(非戦闘員を加算)6,311名


◇第二軍 親王フリードリヒ・カール・フォン・プロイセン元帥

 歩兵91,460名・戦闘用馬匹数(騎兵)17,261頭・砲数(砲兵)378門・総計(非戦闘員を加算)144,902名


○第3軍団 レイマー・コンスタンチン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将

 歩兵22,973名・戦闘用馬匹数(騎兵)1,143頭・砲数(砲兵)84門・総計(非戦闘員を加算)31,854名

○第4軍団 グスタフ・フォン・アルヴェンスレーヴェン歩兵大将

 歩兵24,019名・戦闘用馬匹数(騎兵)1,119頭・砲数(砲兵)84門・総計(非戦闘員を加算)33,165名

○第9軍団 アルベルト・エーレンライク・グスタフ・フォン・マンシュタイン歩兵大将

 歩兵21,636名・戦闘用馬匹数(騎兵)1,756頭・砲数(砲兵)90門・総計(非戦闘員を加算)31,457名

○第10軍団 コンスタンチン・ベルンハルト・フォン・フォークツ=レッツ歩兵大将

 歩兵22,832名・戦闘用馬匹数(騎兵)1,222頭・砲数(砲兵)84門・総計(非戦闘員を加算)32,687名

○騎兵第1師団 ユリウス・ハートウィグ・フリードリヒ・フォン・ハルトマン中将

 歩兵0名・戦闘用馬匹数(騎兵)3,448頭・砲数(砲兵)6門・総計(非戦闘員を加算)4,272名

○騎兵第2師団 伯爵ヴィルヘルム・ツー・シュトルベルク=ヴェルニゲローデ中将

 歩兵0名・戦闘用馬匹数(騎兵)2,914頭・砲数(砲兵)12門・総計(非戦闘員を加算)4,081名

○騎兵第4師団 親王フリードリヒ・ハインリッヒ・アルブレヒト・フォン・プロイセン騎兵大将

 歩兵0名・戦闘用馬匹数(騎兵)3,016頭・砲数(砲兵)12門・総計(非戦闘員を加算)4,047名

○騎兵第6師団 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニコラウス・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン中将

 歩兵0名・戦闘用馬匹数(騎兵)2,642頭・砲数(砲兵)6門・総計(非戦闘員を加算)3,339名


◇第三軍(パリ周辺に在る諸隊のみ) 皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニコラウス・カール・フォン・プロイセン元帥

 歩兵88,364名・戦闘用馬匹数(騎兵)6,740頭・砲数(砲兵)382門・総計(非戦闘員を加算)131,927名


○第6軍団(ファベック支隊を除く) ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・カール・クルト・フリードリヒ・フォン・テューンプリング騎兵大将

 歩兵18,235名・戦闘用馬匹数(騎兵)878頭・砲数(砲兵)76門・総計(非戦闘員を加算)26,433名

○第11軍団 ハンス・フォン・シャハトマイヤー中将

 歩兵22,103名・戦闘用馬匹数(騎兵)1,189頭・砲数(砲兵)84門・総計(非戦闘員を加算)31,499名

○バイエルン第1軍団 男爵ルートヴィヒ・ザムゾン・ハインリヒ・アルトゥール・フォン・ウント・ツー・デア・タン=ラートザームハウゼン歩兵大将

 歩兵25,242名・戦闘用馬匹数(騎兵)2,067頭・砲数(砲兵)114門・総計(非戦闘員を加算)37,646名

○バイエルン第2軍団 ヤーコブ・フォン・ハルトマン歩兵大将

 歩兵22,784名・戦闘用馬匹数(騎兵)2,606頭・砲数(砲兵)108門・総計(非戦闘員を加算)36,349名


◇第5軍団とファベック旅団(第三軍より派遣中)

 歩兵29,314名・戦闘用馬匹数(騎兵)1,464頭・砲数(砲兵)92門・総計(非戦闘員を加算)37,813名


○第5軍団 フーゴ・エヴァルト・フォン・キルヒバッハ歩兵大将

 歩兵23,460名・戦闘用馬匹数(騎兵)1,181頭・砲数(砲兵)84門・総計(非戦闘員を加算)31,187名

○ファベック支隊 ヘルマン・ヴィルヘルム・アレクサンダー・フランツ・フォン・ファベック少将

 歩兵5,854名・戦闘用馬匹数(騎兵)283頭・砲数(砲兵)8門・総計(非戦闘員を加算)6,626名


◇マース(第四)軍 ゼクセン王太子フリードリヒ・アウグスト・アルベルト・フォン・ザクセン歩兵大将

 歩兵80,646名・戦闘用馬匹数(騎兵)7,576頭・砲数(砲兵)258門・総計(非戦闘員を加算)112,468名


○近衛軍団(第一軍に派遣中の諸隊を除く) ヴェルテンベルク親王フリードリヒ・アウグスト・エベルハルト・フォン・ヴェルテンベルク騎兵大将

 歩兵29,655名・戦闘用馬匹数(騎兵)2,435頭・砲数(砲兵)90門・総計(非戦闘員を加算)39,208名

○第12「ザクセン」軍団 ゼクセン親王ゲオルグ・フォン・ザクセン中将

 歩兵25,413名・戦闘用馬匹数(騎兵)3,442頭・砲数(砲兵)96門・総計(非戦闘員を加算)39,305名

○ヴュルテンベルク野戦師団 男爵フーゴ・モーリッツ・アントン・ハインリッヒ・フォン・オーベルニッツ中将

 歩兵14,545名・戦闘用馬匹数(騎兵)1,699頭・砲数(砲兵)54門・総計(非戦闘員を加算)21,398名

○後備近衛師団 男爵レオポルト・アウグスト・ゴットハルト・ヨーブスト・フォン・ロエン中将

 歩兵11,033名・戦闘用馬匹数(騎兵)0頭・砲数(砲兵)18門・総計(非戦闘員を加算)12,557名


◇南軍 男爵エドウィン・カール・ロテェス・フォン・マントイフェル騎兵大将

 歩兵110,039名・戦闘用馬匹数(騎兵)7,860頭・砲数(砲兵)318門・総計(非戦闘員を加算)145,866名


○第2軍団 エデュアルド・フリードリヒ・カール・フォン・フランセキー歩兵大将

 歩兵21,519名・戦闘用馬匹数(騎兵)1,100頭・砲数(砲兵)84門・総計(非戦闘員を加算)30,445名

○第7軍団(クネゼベック支隊を含む) ハインリッヒ・アドルフ・フォン・ツァストロウ歩兵大将

 歩兵28,366名・戦闘用馬匹数(騎兵)1,679頭・砲数(砲兵)84門・総計(非戦闘員を加算)37,882名

○第14軍団(バーデン師団・ゴルツ兵団・予備第4師団) 伯爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・レオポルト・アウグスト・フォン・ヴェルダー歩兵大将

 歩兵34,617名・戦闘用馬匹数(騎兵)4,249頭・砲数(砲兵)114門・総計(非戦闘員を加算)47,043名

○予備第1師団 ハンス・ルートヴィヒ・ウード・フォン・トレスコウ中将

 歩兵10,421名・戦闘用馬匹数(騎兵)568頭・砲数(砲兵)24門・総計(非戦闘員を加算)12,963名

○クレンスキー支隊 パウル・アントン・カール・フォン・クレンスキー大佐

 歩兵5,707名・戦闘用馬匹数(騎兵)264頭・砲数(砲兵)12門・総計(非戦闘員を加算)7,731名

○ラングル要塞攻囲兵団(ロートリンゲン総督府から派遣の後備歩兵10個大隊)

 歩兵9,409名・戦闘用馬匹数(騎兵)0頭・砲数(砲兵)0門・総計(非戦闘員を加算)9,802名


◎野戦軍総計

 歩兵464,221名・戦闘用馬匹数(騎兵)55,562頭・砲数(砲兵)1,674門・総計(非戦闘員を加算)683,672名

【内訳】

●パリ付近に在るもの

 歩兵169,010名・戦闘用馬匹数(騎兵)14,316頭・砲数(砲兵)640門・総計(非戦闘員を加算)244,395名

●地方に在るもの

 歩兵295,211名・戦闘用馬匹数(騎兵)41,246頭・砲数(砲兵)1,034門・総計(非戦闘員を加算)439,277名


挿絵(By みてみん)

集められた戦利品(仏の4ポンド砲)


◎後方部隊・要塞砲兵等


○第一軍兵站総監部

 グスタフ・アウグスト・ヴィルヘルム・マロートキー・フォン・トルゼビアトウスキー休職(予備役)中将

 歩兵4,954名・戦闘用馬匹数(騎兵)135頭・砲数(砲兵)0門・総計(非戦闘員を加算)5,246名

○第二軍兵站総監部

 ビルニス・オットー・フォン・ティーデマン少将

 歩兵9,113名・戦闘用馬匹数(騎兵)758頭・砲数(砲兵)0門・総計(非戦闘員を加算)約10,700名(集計時想定数を報告した部隊在り)

○第三軍兵站総監部

 フリードリヒ・アドルフ・フォン・ゲッツェ休職(予備役)中将

 歩兵9,450名・戦闘用馬匹数(騎兵)1,274頭・砲数(砲兵)8門・総計(非戦闘員を加算)11,609名

○マース(第四)軍兵站総監部

 カール・ルイス・フランツ・アマーリッヒ・ウルリヒ・フォン・ブリュッヒャー大佐

 歩兵4,234名・戦闘用馬匹数(騎兵)287頭・砲数(砲兵)0門・総計(非戦闘員を加算)4,664名

○エルザス総督府

 伯爵フリードリヒ・テオドール・アレクサンダー・フォン・ビスマルク=ボーレン中将

 歩兵27,176名・戦闘用馬匹数(騎兵)1,211頭・砲数(砲兵)18門・総計(非戦闘員を加算)33,451名

○ロートリンゲン総督府(南軍に派遣中の後備歩兵10大隊を除く)

 アドルフ・アルベルト・フェルディナント・フリードリヒ・フォン・ボニン歩兵大将

 歩兵18,709名・戦闘用馬匹数(騎兵)990頭・砲数(砲兵)18門・総計(非戦闘員を加算)22,188名

○ランス総督府

 アドルフ・ルイス・フォン・ローゼンベルク=グルシュティンスキー中将

 歩兵18,466名・戦闘用馬匹数(騎兵)750頭・砲数(砲兵)18門・総計(非戦闘員を加算)23,478名

○メッス総督府(ティオンヴィル・ロンウィー派遣含む)

 ユリウス・ヨーゼフ・アダルベルト・フォン・レーヴェンフェルド中将

 歩兵13,170名・戦闘用馬匹数(騎兵)276頭・砲数(砲兵)6門・総計(非戦闘員を加算)16,843名

○ベルサイユ総督府

 ゲオルグ・フリードリヒ・アルフレート・フォン・ファブリース中将

 戦闘部隊を持たず

○第一軍管区内の要塞砲兵3個中隊

 総計543名

○パリ南面の攻城砲兵

総計5,002名

○パリ南面の要塞工兵

総計920名

○パリ北面と東面の攻城砲兵

総計4,548名

○パリ北面と東面の要塞工兵

総計782名


◎後方部隊・要塞砲兵等総計

 歩兵105,272名・戦闘用馬匹数(騎兵)5,681頭・砲数(砲兵)68門・総計(非戦闘員を加算)139,974名


■仏国内に在る独軍総計(本営・司令部に属する者や他所への派遣、電信関連任務に従事する者を除く)

 歩兵569,493名・戦闘用馬匹数(騎兵)61,243頭・砲数(砲兵)1,742門・総計(非戦闘員を加算)823,646名


※1871年3月上旬における独軍本国補充兵部隊の保有兵力


○近衛軍団

 士官172名・下士官兵9,442名・戦闘用馬匹数2,086頭

○第1軍団

 士官195名・下士官兵11,490名・戦闘用馬匹数1,649頭

○第2軍団

 士官182名・下士官兵10,310名・戦闘用馬匹数1,329頭

○第3軍団

 士官165名・下士官兵11,882名・戦闘用馬匹数1,700頭

○第4軍団

 士官205名・下士官兵11,000名・戦闘用馬匹数1,733頭

○第5軍団

 士官156名・下士官兵9,905名・戦闘用馬匹数1,707頭

○第6軍団

 士官186名・下士官兵11,527名・戦闘用馬匹数1,664頭

○第7軍団

 士官166名・下士官兵10,373名・戦闘用馬匹数1,266頭

○第8軍団

 士官231名・下士官兵13,522名・戦闘用馬匹数1,240頭

○第9軍団

 士官216名・下士官兵11,887名・戦闘用馬匹数1,386頭

○第10軍団

 士官195名・下士官兵10,028名・戦闘用馬匹数2,011頭

○第11軍団

 士官163名・下士官兵9,266名・戦闘用馬匹数1,410頭

○第12「ザクセン」軍団

 士官151名・下士官兵12,044名・戦闘用馬匹数1,617頭

○第25「ヘッセン」師団

 士官94名・下士官兵5,987名・戦闘用馬匹数637頭


◎旧・北ドイツ連邦の軍管区総計

 士官2,477名・下士官兵148,663名・戦闘用馬匹数21,435頭


○バイエルン第1、第2軍団

 士官653名・下士官兵37,879名・戦闘用馬匹数3,643頭

○ヴュルテンベルク師団(下士官兵には兵站補給部隊を含む)

 士官115名・下士官兵11,509名・戦闘用馬匹数941頭

○バーデン師団

 士官43名・下士官兵6,633名・戦闘用馬匹数584頭


◎南ドイツ三ヶ国の総計

 士官3,288名・下士官兵204,684名・戦闘用馬匹数26,603頭


挿絵(By みてみん)

独軍に引率されて行く仏軍捕虜(クラリス画)


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