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休戦・両軍の対峙


 1871年1月28日。前年7月19日の仏宣戦布告から始まった普仏戦争は在パリ仏国防政府の「白旗」により休戦協定が結ばれますが、パリ以外に国防の権限を持っていた在ボルドー国防政府派遣部はこれを拒絶する動きを見せます。

 既にパリのファーヴルたちとボルドーのガンベタたちの間に意見の一致は少なく、主戦論で融通の利かないボルドー派遣部と包囲下で何をしても状況改善が見られないパリ政府はまるで同じ言葉を話す「別の国」のようでした。

 しかし、この1月下旬、声高に議論を吹っかける人々以外の仏「サイレントマジョリティー」は和平を請い願って「最早抵抗は無益」と信じており、主戦論を掲げるボルドー一派とは相容れないところがありました。


 ボルドーのガンベタが休戦交渉が始まったことを知ったのは1月27日、交渉が成立したとの知らせは29日にベルサイユからの電信(独軍がファーヴルの名で送信しました)で届きます。ガンベタは絶望しますが、やがて選挙を経てボルドーに正式な国会が成立し、それにより成立する「本物の政府」が独との交渉権を得るとの状況を受け入れ、それでは、と「和平に偏る面々を新議会に選出されぬように」するため、1月31日に「特別法令」を発布しました。それによれば、「普通選挙」を約定した休戦協定を無視して「1851年12月2日以来の帝政において官職を得ていた者(官選の議員も含まれます)には被選挙権を与えない」とありました。これで和平を急ぎ勢力の再興を願っていたボナパルティストは排除されてしまいます。

 前述通り休戦協定ではこの手の制限無く候補者を募ることとなっていたため、これを知ったビスマルクはファーヴルに対し「ボルドーの命令が履行された場合、休戦は直ちに終了するだろう」と脅します。権力二分の悪例がここにもあった訳で、ファーヴルは2月1日に急ぎボルドーへ閣僚のジュール・シモンを送りました。シモンはガンベタやボルドーの首脳陣(フレシネなど)がパリの命令に従わない場合の解任も託されており、これ以上の「無駄な抵抗」により独に更なる要求を持ち出す口実を与えないためにも急がねばならない処置でした。

 当然ながらガンベタら「ボルドー一派」に拘禁される可能性もある任務でしたが、シモンは四面楚歌の状況から後援を得ようと、再び表に出る機会を窺っていたあのティエールとも会って賛同を得、和平を願う穏健な各地の知事や市長にもガンベタに反抗するよう説き伏せます。やがてパリから3名の閣僚が送り込まれ派遣部内での抗戦維持勢力が数的に不利となると、ガンベタも自らの行動で仏が二分され内戦となる危険が高まることを危惧し、その場合は独が更に有利となることと、自身の立場が次第に戦争に厭きた仏国民から受け入れられなくなっていることを自覚します。

 ガンベタは2月6日に辞任し(フレシネら派遣部も選挙により解散します)有力な主戦派の知事、市長らも後に続きました。状況はファーヴルたち和平派がほっとする流れとなりましたが、ガンベタが命じた立候補制限を取り消すには手遅れで、準備期間も僅か、立候補者も選挙活動がほとんど出来ない国政選挙では何が起こるか分からない状況で、ファーヴルたち(当然立候補しています)和平派は不安なまま投票日を迎えることとなります。選挙は2月8日に実施されました。


 独ベルサイユ大本営は、選挙次第で主戦派が台頭(辞任したとはいえガンベタら主戦派は国会に立候補するはずと考えました)すれば新政府は戦闘再開を命じるかも知れず、そこまで行かなくとも講和条約へ進むことが困難となることも考えられ、油断なく休戦期間を過ごすこととなりました。


 休戦協定の中で示された軍事に関する協定は直ちに実行されることとなります。休戦中立地境界線(いわゆる休戦ライン)はセーヌ河口・トルヴィル=シュル=メール(カジノで有名なドーヴィルのトゥック川対岸)から南へ、カルヴァドスとオルヌ両県を二分しマイエンヌとサルト、メーヌ=エ=ロアールとサルト、メーヌ=エ=ロアールとアンドル=エ=ロアール、ヴィエンヌとアンドル=エ=ロアール、アンドルとロアール=エ=シェール、シェールとロワレ、ニエヴェとヨンヌ各県境を進み、コート=ドール県境に至るまでとなっていました(1月29日の協定)。同時に仏北軍が確保していたル・アーブルとノール県などは別途休戦ラインを設け、パリ、ジヴェ、ラングルの三ヶ所も仏支配地とされます。独仏両軍はこの休戦ラインからそれぞれ10キロ下がった線まで後退し対峙することとなるのでした。


挿絵(By みてみん)

一服する独軍歩哨(クロレオン画)


☆休戦時当初パリ地域の状況


 パリ周辺では休戦協定に従い独軍がパリの分派堡へ進駐し、これは大きな混乱無く執行されました。


 1月29日、協定成立直後に独軍はパリ休戦ライン10キロ後方(以下前哨線とします)まで前進し、包囲網南・西面を担当した独第三軍はマルヌ川とセーヌ川の合流点・シャラントン(=ル=ポン)の橋梁から西へ、セーヌ川ヌイイ(=シュル=セーヌ)の橋梁までのマルヌ・セーヌ両河川左岸、このヌイイ橋からブゾンに通じる街道(街道自体を含みます。現・国道D992号線)までの前哨線に配置され、包囲網北・東面を担当したマース(独第四)軍はマルヌ川とセーヌ川両河川の右岸と残されたジャンヌヴィリエ半島の北側部分(コロンブ、アニエール、ジャンヌヴィリエなど)に配置されました。

 各分派堡(とその周辺部)の担当は以下の通りとなります。


○モン=ヴァレリアン堡 第5軍団

○イッシー(ディッシー)堡 第11軍団

○ヴァンブ堡 バイエルン第2軍団

○モンルージュ堡 バイエルン第2軍団

○オート=ブリュイエール小堡 第6軍団

○ビセートル堡 第6軍団

○イヴリー堡 第6軍団

○シャラントン堡 バイエルン第1軍団

○グラヴェルとラ=フザンドリ角面堡 ヴュルテンブルク師団

○ノジャン堡 第12軍団(翌30日ヴュルテンブルク師団に変更)

○ロニー堡 第12軍団

○ノアジー堡 第12軍団

○ロマンヴィル堡 第12軍団

○オーヴェルヴィリエ堡 近衛軍団

○レスト堡 近衛軍団

○サン=ドニ市街各分派堡(ドゥーブル・クーロンヌ、デュ・ノール、ラ・ブリッシュ) 第4軍団

○ジャンヌヴィリエ半島北部 第4軍団

○ヌイイ橋梁周辺 後備近衛師団


 これら分派堡や角面堡は当然ながら「外側」に向けて防備が厚くされていましたが、独軍諸隊は各地で急ぎ「内側」に向けて防備を固める工事を開始します(サン=ドニ以外)。これには元々のパリ外堡がパリ内部の異変(市民の蜂起)にも対抗可能なように「内側」に向けても砲門や防御施設の準備があったためその分仕事が捗るのでした。


挿絵(By みてみん)

モン=ヴァレリアン堡塁 接収し独帝国旗を掲げる独兵


 独軍の前哨線には交代で兵員が配され、協定で解放された諸街道にも交通管制と監視のため検問と兵員を配置します。この街道を通行可能な仏人は仏官憲が発行した書面に独官憲が認証した通行証を持つ者だけでした。

 パリでは休戦成立早々に飢餓を救うため独軍は糧食倉庫を開き予備を放出してパリ政府に与えますが、これは全く焼け石に水であり、急ぎパリに向け糧食を運び入れるため、独大本営は諸軍本営・各占領地総督府・各兵站総監部に向け「仏官憲が要望する食料・物品の運搬を助けるため必要とする鉄道・街道を解放し使用させる」よう命令を発しました。また、運河や河川の水運を復旧させるため両軍共に設置した障害物や水雷を除去するのでした。


 1月30日に締結された休戦協定の付則条項により独軍が優先利用する主要鉄道も糧食輸送に利用されることとなり、ディエップ~ルーアン~アミアン~クレイユ~パリ線とヴィエルゾン~オルレアン~パリ線、そしてヌヴェール~モンタルジ~モレ~パリ線が仏に解放され、これで輸送は速度・量とも飛躍的に向上しました。独軍余剰の糧食で糊口を凌いでいたパリにも2月3日、待望の糧食輸送一番列車が到着するのでした。

 電信に関しては2月2日に独仏間で通信協定が締結され、今まで音信不通だった地方とパリが結ばれました。また、燃料不足で暖房もままならなかったパリに周辺地から薪や石炭が運び込まれ、攻囲の間に多大の損害を受けて断水状態だった水道も復旧工事が始まるのです。


挿絵(By みてみん)

仏軍の糧食徴発


 パリ市内に監禁されていた独軍捕虜は1月31日にバイエルン第1軍団の管区に返還され、仏軍の武器と軍用資材の収容は2月6日からイヴリー、ビセートル、オーヴェルヴィリエ、ロマンヴィルの四分派堡において始まりますが、この仏軍の処置は当初非常に緩慢で応対した独軍を苛立たせます。それでも次第に作業は捗り大方2月18日までに引き渡しは終了するのでした。これら武器の内、修理が困難で直ぐには使い物とならないもの(主に鋳鉄製の大砲でした)は完全に破壊され、残り(主に旧式の青銅砲でした)は一部が分派堡の兵備として利用され、残りの全ては戦利品として(主に民衆に対する勝利のアピールとして)独本国へ輸送されました。独軍が受け取った使用可能な大砲は最初502門で、収容が遅れた西面砲台と南方の分派堡からは146門が引き渡されたのです。


 パリ市には「軍税」として2億フランが課せられますがこれは2月12日までにベルサイユの軍経理に引き渡されます(現在の日本円で60億前後。但し物価上昇率や当時の資産価値等を無視しての数字なので実際の価値は遥かに上となります)。

 当初心配されたパリ市民や周辺住民と独将兵との軋轢は不思議と目立たず、両軍の間で発生するであろう数々の問題を裁くために設けられた独仏合同委員会も手持ち無沙汰の様子でした。また、独軍将兵が入城を禁じられたパリ市内の治安は全て仏側に任せられたのでした。


☆休戦時当初第一軍方面の状況


 第一軍の代理指揮官アウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン歩兵大将は1月29日、独仏が休戦に入るとの第一報を受け取ると、ソンム県の全てが独軍占領地となることから「ソンム沿岸方面に展開する諸隊は更に北部要塞地帯(ソンムとパ=ドゥ=カレー県境)方向に向け前進する」ことと「ディエップ(ルーアンの北53.4キロ)を占領する」ことを命じ、追って休戦協定の謄本がアミアンに届くと「これを直ちにフェデルブ将軍に通達せよ」と命じ、直ちに実行させます。ゲーベン将軍は敵方フェデルブ将軍がこの休戦協定に従うかどうか疑問に思っていましたが、「もしフェデルブ将軍がこれを承諾するならば、両軍の予定分離境界線外に突出している諸隊は直ちに境界線まで退却するように」訓令を発するのでした。


 フェデルブ将軍は独仏休戦を通告されると参謀士官1名を独軍に軍使として送り、「大方においては協約を承認するがアブビル(アミアンの北西40キロ)やその他若干の地点においては未だ撤退命令が出ていない」として休戦実行に一部留保の態度を見せます。このためゲーベン将軍は仏側から休戦の詳細が伝わるまで寛容に、疑義ある地点の仏軍残留を認めました。

 2月1日。パリからの休戦命令が届いた時点でフェデルブ将軍はソンム県内にある仏北軍諸隊をパ=ドゥ=カレー県内まで引き上げさせ、郊外で待機していた独軍収容部隊はディエップに入ります。最後まで休戦に難色を示していたアブビルも2月6日に独軍入城を認めるのでした。このアブビルは最初の軍税支払いを拒否したため、独軍は市役所にあった市の貴重品を押収するのでした。


 ゲーベン将軍が想像したより容易に休戦に入ったソンム県北部と比べ、セーヌ下流域における休戦実施には多少の混乱が見られます。


 セーヌ下流の左岸(概ね西側)で独軍の占領地となる地域は、大方無事に収容が終わりました。しかし、休戦の通達を受けていないのか拒絶していたのかは分かりませんが、仏軍の一部に未だ反抗する部隊がおり、1月30日にセーヌ河畔エジエ(ルーアンの西34.2キロ)に配された哨所とコドゥベック(=レ=エルバッフ。同南南西18.7キロ)の守備隊はセーヌを遡上して来た仏砲艦から砲撃を受け、リールボンヌ(ル・アーブルの東30.9キロ)の収容に向かった独軍部隊も同地から銃撃を受けると言う事件が発生しています。

 この日、ル・アーブルに籠城するロイゼル将軍とノルマンディー地方を抑える仏第19軍団の司令官ポール・アベ=ダルジャン将軍は休戦ラインについての協議のため全権委員を任命するよう独軍に申し入れて来ました。しかし、セーヌ下流域の最高指揮官、独第13軍団長のメクレンブルク=シュヴェリーン大公は、仏軍将官が中央政府から十分な説明を受けておらず、また時間稼ぎをするために協議を申し入れて来ている、と断じて仏軍の両将官に対し「休戦協定を基に直ちに交渉の場に付く様、承諾しない場合は戦闘行為を再開する」と宣じます。

 このような状況では大公が休戦と同時に行うよう大本営から命じられた「第13軍団を解隊し第22師団は第11軍団へ返し、第17師団と騎兵第5師団は後命あるまで第一軍の指揮下に留まる」ことは延期せざるを得なくなりました。


 結局、大公は再び戦闘行為を再開させることを避けることが出来ます。これは仏国防政府の実質首班ジュール・ファーヴルがビスマルクの要求に従い2月2日に仏軍の前線指揮官に「明確な休戦遵守の命令」を送ったからでした。命令を受け取ったダルジャン将軍は独軍の主張する休戦ラインを認めて兵を引かせ、ロイゼル将軍も休戦協定に従い4日にル・アーブル地区の休戦ライン(エトルタからサン=ロマンまでの線)を定める条項を承認し地域協定に署名したのです。これでセーヌ下流域でも両軍兵力の引き離しが完了し、メクレンブルク=シュヴェリーン大公は第13軍団を解散、前線高級指揮官から独帝国の一領邦主に戻ったのでした。


挿絵(By みてみん)

メクレンブルク大公フリードリヒ・フランツ2世


 フォン・ゲーベン将軍は各地に散っていた麾下第一軍の編成を元に戻すため、2月1日、第8軍団の助っ人としてソンム河畔にあった第1軍団諸隊に対してセーヌ河畔に展開する第1軍団本隊へ戻るように命じます。同時に第17師団・近衛騎兵第3旅団・騎兵第5師団は第1軍団に、予備第3師団・近衛混成騎兵旅団・騎兵第3師団は第8軍団にそれぞれ所属するよう、また騎兵第12師団は2月5日にコンピエーニュへ進み、パリ監視の親部隊・第12軍団に復帰するよう命じられるのでした。

 この諸命令は2月中旬までにすべて完了するのです。

 結果、2月中旬における第一軍団隷下の諸隊は次のように展開しました。


*ソンム河畔北方前哨線

○右翼;第16師団

○左翼;第15師団

*アミアン周辺

○予備第3師団

○第8軍団砲兵隊

*アミアン南郊外からボーヴェまで

○騎兵第3師団

*アミアン北方の休戦ライン前哨線に沿って海岸まで

○第2師団

○第1軍団砲兵隊

○近衛騎兵第3旅団

*セーヌ河畔・右岸ルーアン周辺

○第1師団

*セーヌ河畔・左岸

○第17師団(ル・アーブル対岸からエヴルー~オルベック~ベルーの線上まで)

○騎兵第5師団(その南方・アランソン北北東43キロのガセまで)


 これに対峙する仏軍は次のように展開しています。


*パ=ドゥ=カレー、ノール県/リール、アラス、カンブレ、ヴァランシエンヌの四要塞都市とその内側

○仏北軍の主力(歩兵約25,000名、砲兵16個中隊)

*パ=ドゥ=カレー、ノール県/他の要塞・要地(ブローニュ、カレー、エスダン、ベテューヌ、バポーム、モブージュなど)

○仏北軍残部(歩兵約55,000名。主に臨時護国軍兵)

*セーヌ左岸/カルヴァドス、オルヌ県

○フェリクス・ギュスターヴ・ソーシエ准将師団(第19軍団)と義勇兵諸中隊

*ル・アーブル地域

○ロイゼル将軍の兵団(約30,000名・主に未練成で武装貧弱な臨時護国軍兵)


☆休戦時当初第二軍方面の状況


 親王フリードリヒ・カール元帥率いる第二軍方面では、休戦は殆ど障害なく実施されました。


 カール王子は早くも1月29日に休戦協定の謄本を入手し、その日のうちに対峙する仏軍の各将官に軍使を送ってその写しを示し同意を求めます。この時点では第二ロアール軍に属する諸隊は休戦協定の中身を知らず、ただ単にボルドー派遣部から対敵行為を中止せよとの命令を受けていただけですが、軍司令のシャンジー将軍は謄本に示された休戦ラインの後方に下がるよう麾下に命令すると答え、ロアール川南方に展開する第25軍団を率いるジョセフ=オーギュスト=ジャン=マリエ・プルシェ将軍も独軍使と数回の協議を経た後で休戦ラインを認めますが、派遣部のあったトゥールと対峙していた護国軍部隊の指揮官は中々納得せず、トゥール在の騎兵第1師団長フォン・ハルトマン将軍(「ヘッセン大公国師団の孤軍奮闘」を参照願います)が対敵行為を再開する、と脅したため渋々休戦ライン後方へ撤退するのでした。

 独第二軍の管区内では2月5日を以て休戦が完全実施されます。

 

 シャンジー将軍は1月28日、ノルマンディ地方のカーンから反攻を開始しようと軍主力を北方へ移転しようとしますが、独の休戦通告によってこれを中止し、麾下をセーヌ河口に始まりメーヌ=エ=ロアール県都アンジェまでの間の広大な地域に留めます。

 第二ロアール軍はこの時点で第16、17、19、21の各軍団と独立師団1個、リボウスキーとカトリノー率いる義勇兵集団からなり、総兵力はおよそ156,000名、砲兵54個中隊と数だけ見れば対峙する独第二軍の1.5倍になりますが、中身は既述通りとても野戦に使用出来ない悲惨な有様でした。これとは別にヴィエルゾンを本拠にロアール川左岸にプルシェ将軍の第25軍団が約30,000名を展開させていました。


挿絵(By みてみん)

アンジェのサン=モーリス大聖堂(20世紀初頭)


 対するカール王子は仏軍各将官から休戦について遵守するとの言質を得ると、1月31日には仏軍の後退前に休戦ライン後方へ全ての部隊を引き上げさせます。

 休戦当初の第二軍諸隊宿営地は以下の通りです。


*ゼー(アランソンの北20.2キロ)~アランソン間

○騎兵第4師団

*アランソン~ル・マン間

○第3軍団

○騎兵第2師団

*ル・マン~モントリシャール(シェール河畔。トゥールの東南東38キロ)

○第10軍団

○騎兵第1師団

○騎兵第6師団

*オルレアン周辺

○第9軍団

*オーセール周辺

○フォン・ランツァウ支隊


 これら宿営地に第二軍麾下部隊は2月3日までに入りますが、フォン・ランツァウ支隊のみ2月9日に前哨部隊をブレノー(ジアンの東23.8キロ)とジアンに残し、主力はシャティヨン=コリニー(同北東22キロ)に進みました。これは休戦直前にオーセールを巡る攻防が発生し、パリ包囲網からやって来たフォン・ファベック将軍の支隊が2月2日にオーセールを確保したため、休戦中の部隊配置が確定するまでの処置でした。


 2月6日には休戦協定に定められた休戦ラインは全域で遵守され始めますが、既述通りビッチュとラングルの両要塞ではひと悶着ありました。


挿絵(By みてみん)

ビッチュ要塞(1867年)


 ビッチュ要塞では頑固な要塞司令テイシエール少佐が包囲するバイエルン軍のコーラーマン大佐による休戦協定通知に対し「正規の政府より明確な命令がない」として承認せず、バイエルン軍は仕方なく積極的な敵対行為こそ避けたものの包囲を続け、2月末まで戦時体制が維持されました。この間も休戦に従うよう交渉が続けられますが要塞守備隊は頑として明け渡しを拒否したため、仮条約を経て講和条約の話が始まろうかと言う3月下旬、独軍は包囲兵力を増強して本格的な攻撃を行うとの警告を発し、テイシエール少佐はようやく折れて3月24日から25日に掛けて要塞を出て行くのでした。

 ラングル要塞も当初同様の理由で休戦受け入れを拒否し、休戦ラインを越えた周辺地に展開し続けますが、こちらは元々攻囲が始まる寸前だったため、独軍は実際の攻囲兵力で威圧しつつ攻撃を開始すると脅し、仏守備隊は2月7日になって休戦ラインの内側に引き下がったのでした。


挿絵(By みてみん)

ラングル要塞の出撃門(20世紀初頭)


☆休戦時当初南軍方面の状況


 当初は休戦協定から外れたドゥー、ジュラ、コート=ドール三県とベルフォール要塞は2月13日、追加の交渉によって休戦が確定します。

 この地域を戦線としていた独南軍は、既述通り仏軍を完膚なきまでに叩き、仏第1ロアール軍の継承部隊・仏東部軍は主力がスイスに去りベルフォールの守備隊も後一週間もしたら、という状況でした。南軍支配下で問題となったのは休戦下で仏が保持するとされたオーソンヌ要塞とブザンソン要塞都市です。


挿絵(By みてみん)

オーソンヌ(20世紀初頭)


 オーソンヌでは休戦が始まっても(2月17日)「訓令が来ていない」として協定で許されていた要塞の脇を通過するディジョン~グレー、ディジョン~ドール両鉄道線の独軍使用を認めず、休戦が延長された後の3月5日になってようやく認めるのでした。

 ブザンソンでは要塞都市の司令官ローラン提督が「要塞に糧食を運搬し、同時に傷病患者を搬送するため要塞の南と東に対してスイス国境まで支配地を延長したい」と申し入れますが、これは到底独が認めるはずもなく、2月19日に至ってようやく休戦協定に従い要塞の外堡から10キロ以内に前哨部隊を引き上げさせました。

 なお、コート=ドール県南端の要衝ボーヌ(ディジョンの南南西36.5キロ)は、休戦ラインとなるソーヌ=エ=ロアール県境から約9キロの地点にあり、ここに独軍が入城して支配したため仏軍側から「休戦ラインから10キロは中立地帯」との協定違反と異議が出ました。独大本営は2月21日に裁定を下し、「確かに違反」として独軍部隊をボーヌ市街から郊外の自軍前哨線へ引き上げさせるのでした。


挿絵(By みてみん)

ボーヌ(20世紀初頭)


 休戦期間中の南軍の展開は休戦発効直前から大きく変わりません(「ドゥー、ジュラ、コート=ドール三県の占領」を参照下さい)。

 対する仏軍は、クレメー将軍がジュラからアン県へ逃亡した仏東部軍残兵をサヴォワ県のシャンベリー(スイス・ジュネーブの南南西72.8キロ)周辺に集合させ、再び「第24軍団」を名乗って指揮を執り、その数約23,000名と伝わります。

 伊の英雄ガリバルディ将軍が率いていたヴォージュ軍は、ガリバルディ将軍とその一派が休戦によって手を引くと代わって前・第18軍団第2師団長のジェローム=イヤサント・パノアット提督が指揮を代わり、その総兵力は約40,000名、シャロン=シュル=ソーヌ周辺に集合しました。

 このヴォージュ軍とプルシェ将軍の第25軍団との間には、ロアール川の東・ニエーヴル県を抑えるポワント・ドゥ・ジェヴィニー将軍が指揮を執る10,000から12,000名と、デュ・タンプル将軍が率いる約8,000から10,000名の臨時護国軍兵と義勇兵が中心となる兵団がありました。しかし、これらの仏軍は既に激しい消耗と敗戦による離散によって本格的な野戦に対応不可能な状態にあったのです。



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