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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・11月以降の後方連絡線
511/534

占領地総督府の任務と11月以降の独沿岸地方防衛


☆占領地総督府


 独在ベルサイユ大本営は1870年11月中旬から12月上旬に掛け、戦線が大きく西へ動き拡長したため、ランス総督府の管轄範囲(ロートリンゲン総督府西境界以西の占領地)が広大に過ぎると判断し、四番目となる占領地総督府*の創設を決します。

 12月16日、ベルサイユ大本営に詰めていたザクセン王国陸軍大臣のゲオルグ・フリードリヒ・アルフレート・フォン・ファブリース中将(前・第五防衛管区総督。普墺戦争では敵方ザクセン軍団の参謀長でした)はヴィルヘルム1世から新設「ベルサイユ占領地総督府」の総督に任命されました。

 ベルサイユ総督府の管轄地域はソンム、セーヌ=アンフェリウール(現・セーヌ=マリティーム県)、オワーズ、セーヌ=エ=オワーズ、ロワレの各県とウール県のセーヌ右岸(東)部分にロアール=エ=シェール県のロアール(Loir)右岸(北)部分*とされますが、総督府自体は軍隊を持たず、後方連絡線や占領地の治安任務は必要に応じて当該地の野戦軍部隊が担うこととなりました。


挿絵(By みてみん)

ファブリース


※セーヌ=エ=オワーズ県は1964年に解体され1968年までにヴァル=ドワーズ、イブリーヌ、エソンヌの3県に再編されています。また、同県のパリ東側など一部地域は切り離され、同時に解体され再編されたセーヌ県の三県(セーヌ=サン=ドニ、オー=ドゥ=セーヌ、ヴァル=ドゥ=マルヌ)に編入されています。

※総統府の管轄外とされたウール県のセーヌ左岸(ブリオンヌ、エブルー、ブルタイユなど)と、ロアール=エ=シェール県のロアール(Loir)左岸(シャンボール、コントル、サルブリなど)は当時第一軍と第二軍の作戦(交戦)地域です。

※普仏戦争中に創設された総督府の内、エルザス総督府とロートリンゲン総督府は11月中旬以降「近い将来(終戦後)に新領土となる地域」の「ドイツ化」を図る準備を開始し、自然に「占領地」の名を外します。これは11月末に創設されたメッス総督府も同じで、ランス、ベルサイユ両総督府との違いを感じさせるものがあります。因みに「ストラスブルク総督」は「府」ではなくストラスブール(独名ストラスブルク)要塞とその市街・周辺地のみを管轄する「要塞司令官と市長」を兼ねたような立場でした。


 これら総督の下には実際の行政を司る「民政長官」が配属されました。


※各総督府の民政長官

*エルザス総督府

 フリードリヒ・クリスティアン・ヒューベルト・フォン・キュールヴェター(前・デュッセルドルフ県知事)


挿絵(By みてみん)

キュールヴェター


*ロートリンゲン総督府

 伯爵ヤコブ・ルートヴィヒ・ギスベルト・ヴィクトール・マルクイゼ・フォン・フィラース=グリノンクール(前・ジグマリンゲン郡長)


*ランス総督府

 伯爵カール・フォン・タウフキルヒェン・ツー・グッテンベルク(バイエルン王国公使・外交官/71年1月上旬に帰国)→カール・アーダルベルト・コンスタンツ・ハインリヒ・プリンツ・ツー・ホーヘンローエ=インゲルフェンゲン公子(ルブリニッツ郡長、パリ砲撃指揮官の兄)


*ヴェルサイユ総督府

 ヘルマン・フォン・ノスティッツ=ヴァルヴィッツ(ザクセン王国財務参事官)


挿絵(By みてみん)

ヘルマン・フォン・ノスティッツ


 この民政長官の下には当然ながら地方行政実務に当たる役人が多数配されるのですが、それまで各県郡市で行政実務を担当していた中央政府任命の高級官吏たちの多くが「敵に協力するなどもってのほか」とばかりにドイツ人長官の命令を拒絶し、執務をボイコットするか無視して仏国内法に従い自治を続けました。このため、各総督府の民政担当官たちは占領地を支配するため相当な苦難を味わいますが救いだったのは、中・下級のフランス人官吏たちの多くは上司が離脱しても職場放棄をせず黙々とドイツ人の命令に従って仕事を行ったことで、これは万国共通「戦争だろうが何だろうが自治がある限り誰かが働かねば無法地帯となる」という当たり前を理解し、感情を抑えて地方住民のために働く「真面目なお役人」があった、ということだと思うのです。


 このように占領地を治めるための役人が大いに不足したため独ベルサイユ大本営は本国から多数の官吏を呼び寄せ、不在となった県知事・郡長・市長等に就任させ、その一部は総督府に補佐官として詰め行政事務を担当しました。

 しかし、一部の仏人官吏たちこそ従順だったものの多くの仏住民は敵愾心を以て独人に接し、命令を無視するか陰日向に抵抗したため、その実行には総督府所属の軍隊による強制執行や相当な威嚇を伴うのが常でした。この威嚇や圧力にしても、限られた数でしかない総督府所属部隊が義勇兵やセダン、メッスから逃げ出した多くの軍人によるゲリラ活動に対抗する任務に割かれていたため、独官吏たちは多くの郡市で反抗されるがまま・身の安全を確保するのが精一杯の状態にあったのです。しかも多数の県では占領後に独野戦軍が去ると、前述通り高級官吏たちが元通り仏国の法律で自治を行い、総督府民政長官の通達を無視し、これに加えて9月から10月に掛けては仏中央政府の政変があり、帝政下の官吏たちが罷免され新たな官吏が就任したたため混乱はさらに大きくなるのでした。


 それでも各総督府は早急に占領地を独監視の下通常の経済活動へ戻すために奔走し、商工業の通常営業許可・軍の任務使用外の鉄道や街道、運河の復旧を行い、交通は軍優先ではあるものの出来るだけ仏住民にも公開するように努めました。また郵便も占領地内のみですが復活させるのです(エルザス総督府では「ドイツ化」の第一歩として早くも9月上旬に普王国郵政省管轄の郵便局が開設され始めました)。


 しかし、いくら民政官が仏住民の経済活動を通常に戻そうとしても、結局は占領地であることは変わらず、全てが「独軍優先」で、カネも物資も先ずは軍の需要に応えるために消費されたのです。


 各総督府は「公衆利益のために官吏を独から呼び入れたため」の費用を地方住民と郡市に求めます。これは間接税として徴収されることに決まりますが、仏の税務職員も離散し機能不全となった状態ではこれこそ「言うは易し行うは難し」で、最初の徴収は「人頭税」として行われました。これは各市郡庁に保管してある前年1869年の納税記録を参照して住民に課しました。

 また、独大本営は「仏は多数の独船舶を拿捕し、また仏在住だった独人を追放して一部その資産を奪った」(戦争なので当然では?との疑問はありますがハーグ陸戦条約はまだ未来の話です)として、「その損害賠償を求める」とし、各総督府は各県に対して月100万フラン(当時の1フランは純銀4.5gと同等。当時の銀価格は1g6セント前後なので100万フランの価値は当時の27万ドル。現在の日本円で2,800万円前後となります。但し物価上昇率や当時の資産価値等を無視しての数字なので実際の価値は遥かに上です)を「軍税」として納めるよう強制するのです。この徴収は先の「人頭税」とは別に度々軍隊を動員して取り立てを行いました。


 一方、占領地の司法執行(警察業務と裁判)に関しては、仏人の裁判官たちが「仏国防政府」の命令で職務を一斉に放棄してしまったため、秩序を維持するためにその復活が緊急課題となります。

 最も「ドイツ化」を推進していたエルザス総督府では、住民同士が犯人・被害者となる軽犯罪について裁判所に代わる「常設軍法会議」を設置し、この執行には独本国から多数の検事が召集され簡易裁判を執行しました。

 他の総督府では、この種の軽犯罪について「誓願制」とし、被害を被ったとの訴えに対して県知事が判決を下しました。ロートリンゲン総督府では主邑ナンシーに「特別裁判所」を設け、独人に対する犯罪をまとめて審理しました。


 この(正規軍人ではない)仏人が独軍の行動を妨害したり、軍人軍属に対し危害・損害を与えるなどの犯罪の処理に総督府は大いに悩みました。

 つまり占領地におけるこの手の犯罪は全て軍法によって裁かれ(即ち軍法会議の開催)るものですが、被告となる者がほとんど「不明」で出廷出来ない(つまりは逮捕されない)場合が多かったため、判決は被疑者不詳のまま有罪となり、執行が不能となるのが常だったからです。

 そのため独大本営は総督府に対し「犯行が行われた土地の市区町村に対しその責任を負わせることを許す」とするのです。

 この場合、その土地から罰金として相当する金品・産物を強制徴収することが多く行われますが、それも無い場合には住民に対する強制労働や一部反抗的な者に対する虐待(むち打ち等)も行われたようで、この「見せしめ」は只でさえ軍税や糧食徴発等が横行する占領地で「独憎し」の感情を高めることとなります。しかし独からすれば「この方法に頼らなければ地方住民が交戦に関与する無法を防止することが出来ない」(独公式戦史・筆者意訳)となるわけで、これも近代まで続く戦時下の常なのでした。


 仏国防政府は独の占領地住民に対しても「挙国一致」を名目に軍への徴募を行っており、独の監視が緩い地方では臨時護国軍兵が召集され密かに占領地を脱して軍に参加する、などという独総督府にとっては「悪夢」のような事例も考えられたため、各総督府では兵役に耐えられる人間の名簿を作製し、この人々を重点監視することまで行いました。特にスイスと国境を接するアルザス総督府南部では、この施策が厳重に実行されたのです。

 また普仏戦争の期間中は天然痘と牛畜の疫病が流行したため、総督府はこの衛生問題に関しても骨を折らねばなりませんでした。


 このように占領地総督府は数々の困難を抱え、独人の持つ几帳面さにも支えられ辛うじて任務を遂行しましたが、これは71年1月末の休戦によって多少は救われることとなります。

 休戦に入ると地方住民は肩の力を抜いたようで、服従する者が加速度的に増します。戦争に辟易していた仏住民たちの多くが「とりあえずの平安無事」を願ったのは当然で、これはどのような歴史・戦争であってもその終末期「敵味方関係なくその他大勢の名も無き人々」が思う願いなのでした。

 とは言うものの、熱し易い仏人を前に独軍は油断することなく構えており、休戦によって多くの野戦軍も占領地の警備に使用出来る(圧を高める)こととなったことも、独による民政が支障なく回り始めた理由の大きな一つだったのです。


※1870年8月21日大本営発令「占領地総督に与える訓令」

各占領地総督閣下

訓令

一.占領地総督はその管轄区域にて行政並びに軍事一切の権力を行使せよ。総督は厳密にその権限を執行し出来得る限りにおいて占領地とその住民を保護すること。

二.敵方仏国政府の権限は占領地総督府管内においてその効力を停止され、占領地総督が有する軍事権限が代わってこれを行使する。

70年7月25日に発した敵地における占領軍諸隊指揮官に与える訓令は占領地総督が軍事権を行使するに当たっても留意すべきものである。

占領地総督はその管内において総軍の編成内に属さないもの全ての指揮権を有する。

三.占領地総督はその行政権を行使するために隷属する民政担当官1名を使用し、当該担当官は占領地総督府管内の行政各庁を管理監督せよ。適当な行政各庁が無い時は占領地総督は必要なる行政庁を設置せよ。

四.占領地総督並びに総督府の行政事務が最初に成すべき任務は旧来諸々の国税を引き続き徴収することである。徴収した税金はこれを全て総督府の金庫に納めること。総督府にて使用した後の残金はこれを陸軍本部の金庫に送金すること。

五.占領地総督は管内で行使される仏国内刑法が軍事上の利益と合致する範囲内において警察権を執行すること。ただし、民事裁判に関しては当該地の条例に照らし執行せよ。

六.各軍の後方連絡に要する交通路線は特に注意を払いこれを保持せよ。

七.占領地総督は地域公衆の郵便・電信・鉄道交通を監視し利用を規定し、状況に応じてその全て又は一部を停止する権限を有する。

八.占領地総督府管内で執行される徴収と徴発は占領地総督の裁量によって実行される。また、各軍の経理部長も占領地総督に対し同じ請求を行うことが可能であり、占領地総督がこれを許可することで各軍は執行可能となる。

占領地総督府管内で軍の給養金額(供給者に支払う糧食や物資の対価)を決定する必要がある場合、占領地総督は軍経理部長と協議の上これを決定せよ。

九.占領地総督は毎月1日と15日に状況報告を行い、特記すべき事態とその処分等は朕に報告せよ。

1870年8月21日 在ポンタ=ムッソン大本営にて

(御名)ヴィルヘルム

(署名)伯爵フォン・ビスマルク

(署名)フォン・ローン

(筆者意訳)


☆1870年11月中旬以降の独沿海(バルト海・北海)地方の防衛


挿絵(By みてみん)

19世紀後半・ハンブルク=アルトナ地区の光景


 独の沿海地方では秋が深まるにつれ、仏による侵攻の可能性は限りなくゼロとなります。これは独有利の戦況だけでなく地理的な影響のためで、緯度の高い北海・バルト海では風浪激しく気温が零下になる時期に至れば例え世界2位の海軍を持つ仏といえども、艦隊を襲来させ遠浅の海岸から乗船させた陸戦隊を上陸させることなど到底不可能でした。従って陸上では仏本土深く侵入した独軍は前線だけでなく占領地の警備のためにも更なる兵力を必要としたため、沿岸警戒に残されていた後備部隊と最後まで要塞にあった正規部隊も全て仏へ送られることとなります。

 そんな中、ハノーファーやホルシュタインに動員された後備2個(近衛と第2)師団はメクレンブルク=シュヴェリーン大公が統括指揮していましたが、8月下旬に大公はメッスの包囲へ進み、後備師団も前後して戦場へ移動し5つあった防衛管区も悉く廃止されてしまいました。

この時、第1、2、9、10軍団の各管区内に残った部隊は全て旧第一防衛管区総督のエドゥアルト・エルンスト・フリードリヒ・ハンニバル・ヴォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン歩兵大将に一括して指揮が任されるのでした(「7月上旬から31日までの普仏海軍動向・北海沿岸防衛」を参照ください)。


挿絵(By みてみん)

ファルケンシュタイン将軍


 フォン・ファルケンシュタイン将軍は後備と戦時召集兵がほとんどとはいえ一軍に相当する兵力を手中にして張り切っており、既に仏海軍襲来の可能性は無くなったと幕僚たちが太鼓判を押しても「油断することなく任務を遂行する」、としてセダンの大勝以来緩み勝ちな部下を叱咤しつつ沿岸防衛に心血を注ぎました。

 仏海軍も完全に諦めた訳でなく荒天が続く北海には度々小艦隊を繰り出し、11月6日から16日に掛けては11隻から成る艦隊がヘルゴラントから独蘭国境の島ボルクムまでの間を威嚇しつつ巡航しました。これに対しファルケンシュタイン将軍も11月中旬にハンブルクとブレーメンに各1個の混成旅団を配して緊急時には36時間以内に集合出来るよう準備をさせました。また、秋の荒天で一旦は監視哨から引き上げていた海岸監視隊も再び配置に就くのでした。


挿絵(By みてみん)

19世紀後半のブレーメン


挿絵(By みてみん)

ハンブルク レーディングスマルクト通りの光景(1870年)


※1870年11月中旬のハンブルク・ブレーメン配置混成守備隊

◇ハンブルク守備混成旅団

指揮官 テオドール・ルドルフ・アウグスト・ヴィッティヒ中将*

歩兵6個大隊・騎兵4個中隊・砲兵4個中隊・工兵1個中隊

◇ブレーメン守備混成旅団

指揮官 ヘルマン・カール・ルドルフ・ゲプハルト・フォン・アルヴェンスレーベン中将

歩兵6個大隊・騎兵4個中隊・砲兵1個中隊と2個小隊・工兵1個中隊


※テオドール・ルドルフ・アウグスト・ヴィッティヒ中将は当時58歳。バーデン革命の鎮圧戦に活躍して頭角を現し、正式化されたドライゼ小銃を現場に適応させる軍の委員会にも参加しています。第14連隊長から普墺戦争ではシュタインメッツ第5軍団麾下第10師団(キルヒバッハ師団長)の第20旅団長として活躍、赤鷲勲章2級を受けました。70年7月9日、中将昇進と同時に待命となりましたが、直後普仏戦争が勃発し7月29日に召集され、第1、第9、第10の各軍団管区で後備兵・補充兵の訓練や編成に従事し、ファルケンシュタイン将軍に請われてハンブルクの警戒部隊を率いることとなりました。


挿絵(By みてみん)

ヘルマン・フォン・アルヴェンスレーベン


※ヘルマン・カール・ルドルフ・ゲプハルト・フォン・アルヴェンスレーベン中将は当時61歳。近衛の名門「ガルド・デュ・コール」(親衛・教導胸甲騎兵)連隊から軍歴を始め普墺戦争では第1騎兵師団を率い戦後は近衛騎兵師団長となります。この時、ベルリンにあった普軍騎兵学校が王国の拡張と北ドイツ連邦の成立によりハノーファーへ移転、規模も拡大され新たな騎兵戦術などの研究も促進されることとなり、名門騎兵一筋に軍歴を重ね中将となったヘルマンに対し校長として赴任するよう命令が下りました。彼は普墺戦争で将来が不安視され始めた騎兵をエリートのまま維持するために腐心することとなります。その後の普仏開戦で、本国に残った有力な将官としてファルケンシュタイン将軍の右腕となり第1、2、3軍団の留守部隊を率いた後、ブレーメンで警戒部隊を率いることとなります。余談ですが彼の孫はSS中将のルドルフ=ヘルマンで、第二次大戦中ポーランド人に対する大量殺人を犯しますがアルゼンチンへ逃亡し欠席裁判で死刑判決を受け名門貴族の名を汚してしまいました。


挿絵(By みてみん)

1870年のブレーメン港


 冬が訪れた12月にも仏艦隊は北海に出現して独の海岸沿いを航行し、23日には数隻がエルベ河口付近に接近しました。この時、独海軍の装甲艦は全艦改良工事を行うためにヴィルヘルムスハーフェンでドックに入っていましたが、さすがに仏艦も海岸砲の射程内に入ることなく去って行きました。

 冬に入っても海岸要地守備隊と補充兵による予備隊は吹きすさぶ強風・寒気・降雪に耐えて監視任務を続行し、同時に新規召集された衛兵諸大隊や補充騎兵諸中隊と協力しセダンやメッスの捕虜約60,000名の監視も行っていました。

 しかし、厳寒期に至ると仏海軍が沿岸に上陸作戦を行う可能性は消えたとして、切実に増援と補充を求める前線諸隊に沿海地方の兵員も順次占領地や前線へ送り込まれるのでした。


 ファルケンシュタイン将軍と補充兵・後備兵たちは度々配置を交代し、緊張感を保ちつつ厳寒期を過ごしますが、1月末に独仏休戦の知らせが届き、ようやく警戒態勢を緩めたのでした。


挿絵(By みてみん)

ブレーメン中心マルクト広場(19世紀後半)


※11月上旬から休戦(1月末)に至るまで沿海地方から仏に送られた諸隊

◇後備混成第22「オーバーシュレジレン第1」、第62「オーバーシュレジエン第2」連隊 →第一軍兵站総監部へ

◇後備混成第23「オーバーシュレジエン第2」、第63「オーバーシュレジエン第4」連隊 →ロートリンゲン総督府へ

○後備第13「ヴェストファーレン第1」連隊・ヴァーレンドルフ後備大隊 →エルザス総督府へ

○同連隊・ミュンスター後備大隊 →メッス総督府からクレンスキー支隊へ

○後備第41「オストプロイセン第5」連隊・バルテンシュタイン後備大隊 →ロートリンゲン総督府へ

○同連隊・ラシュテンブルク後備大隊 →ロートリンゲン総督府へ

○後備第42「ポンメルン第5」連隊・シュターガルト後備大隊 →ロートリンゲン総督府へ

○同連隊・ナウガルト後備大隊 →ロートリンゲン総督府へ

○後備第44「オストプロイセン第7」連隊・リーゼンブルク後備大隊 →ロートリンゲン総督府へ

○後備第49「ポンメルン第6」連隊・シュラヴェ後備大隊 →ロートリンゲン総督府へ

○同連隊・シュトルプ後備大隊 →ロートリンゲン総督府へ


○予備後備第33大隊 →ロートリンゲン総督府へ

○予備後備第34大隊 →メッス総督府からクレンスキー支隊へ

○予備後備第35大隊 →不明


○予備驃騎兵第1連隊 →第二軍兵站総監部へ


○擲弾兵第3「オストプロイセン第2」連隊・補充兵大隊 →エルザス総督府へ

○擲弾兵第5「オストプロイセン第4」連隊・補充兵大隊 →エルザス総督府へ

○擲弾兵第9「ポンメルン第2」連隊・補充兵大隊 →メッス総督府へ

○第14「ポンメルン第3」連隊・補充兵大隊 →メッス総督府へ

○第17「ヴェストファーレン第4」連隊・補充兵大隊 →メッス総督府へ

○第25「ライン第1」連隊・補充兵大隊 →メッス総督府へ

○第85「ホルシュタイン」連隊・補充兵大隊 →メッス総督府へ

○第92「ブラウンシュヴァイク」連隊・補充兵大隊 →メッス総督府へ


○要塞砲兵第1連隊・第2,3,11中隊 →ティオンヴィル攻囲へ

○同連隊・第5中隊 →ロートリンゲン総督府へ

○同連隊・第13中隊 →エルザス総督府へ

 他同連隊の4個中隊

○要塞砲兵第2連隊・第5中隊 →メッス総督府へ

○同連隊・第16中隊 →ロートリンゲン総督府へ

 他要塞砲兵第9連隊の2個中隊


○第1軍団要塞工兵第2中隊 →メッス総督府へ

○第9軍団要塞工兵第3中隊 →メッス総督府へ


※11月中旬時点で沿海地方に残留した諸隊

○仏へ出征準備にある後備歩兵大隊8個

○国内のみで使用可能な後備歩兵大隊20個

○補充歩兵大隊38個と補充猟兵中隊5個

○予備並びに補充騎兵中隊30個中隊

○補充砲兵中隊12個

 他多数の要塞砲兵中隊と要塞工兵中隊


挿絵(By みてみん)

椅子に座ってポーズを取るファルケンシュタイン将軍



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