決戦前夜~オーストリア側の事情
1866年7月1日。オーストリア北軍司令官ベネデック元帥は、北軍の工兵長(仮設橋を架けたり陣地や砲台を作る部隊の指揮官)ピドル大佐に対し、クルム(フルム)高地東側のネデリスト(現・ネジェリシュチュ/ケーニヒグレーツ北北西7キロ)とリパ(リーパ/ネジェリシュチュ西4キロ)部落の間に防御施設を作るように命じました。
既に6月30日の命令(北軍のクルム高地集合)により、北軍の各部隊はケーニヒグレーツの北トロチナ(トロティナ)から西に円弧を描いてクルム高地に野営し、その一番左翼(西)はザクセン軍となっています。
ピドルは直ちに現場に赴いて調査を行い、翌2日朝8時45分、ベネデックに報告します。
「ネデリストとリパ間には砲台を5つ建設出来ますので、工兵四個半中隊に命じて工事に取りかかっております。出来ましたら工兵や人夫を増やして頂きたいのですが」
ピドルも現場に行き敵が迫る状況や疲れ切った自軍の兵士を見ています。早く完成しないと、との焦りもあったことでしょう。
工兵の増加は認められ、更に二つの砲台が作られました。また、ザクセン軍の工兵と協力し、高地の西側にも陣地が作られます。
砲台ばかりでなく、塹壕や障害物や柵が各地で作られて、クルム高地一帯は1日から3日早朝にかけて急速に強力な防衛陣地へと変貌していきました。
7月2日、正午。ベネデックはケーニヒグレーツ中心街のホテルに置いた本営に司令官たちを呼び寄せ、作戦会議を開きました。
この会議に参集したのは各軍団司令官と軍団付き将官(副司令格)、騎兵師団長、参謀長、軍直轄砲兵司令官、軍弾薬廠長でした。
ケーニヒグレーツ前面(北から西)にほぼ全軍が集中しつつあり、そこで防御工事が始まっています。敵もすぐ近くまで迫る中、誰もが決戦を覚悟していました。この召集はいよいよベネデックが腹を括り、敵との一大決戦をするに当たっての指示を下すために違いない。将官誰もがそう考えたことでしょう。
ところがベネデックは口を開くや、規律の維持だの無用の戦いを避けろだの、遠方に偵察騎兵を放って情報を得ろだの警備を厳重にしろだの、軍の管理に関することばかりを話した後、「諸君の部隊で露営中、飲料水や糧食が不便と感じている部隊はあるか?」と尋ねるのです。
この問いに指揮官たちはきょろきょろと周りの顔色をうかがうばかりで誰も答えません。
誰からも答えがない、即ち露営はうまく行っていると信じたのかベネデックは将官たちを見渡すと、
「我が軍は現在の野営陣地にて、もう一日か二日休息することにする」
すると、第1軽騎兵師団長のエデルスハイム少将が発言します。
「我が軍が休息を得るのは極めて難しい状況にあると思われます。なぜなら、敵は目前に迫っており、明朝には我らと衝突するのではないか、と思われるからです。本日夕刻、敵に対し先制して奇襲を仕掛けたらいかがでしょうか?」
エデルスハイム将軍は、この戦争ではクラム=グラース将軍の第1軍団と行動を共にし、6月23日、この戦争で最初に敵と接触し戦ったのは彼の騎兵部隊でした。その後も遠方への偵察行や敵に突撃を敢行し、ギッチンの戦いでは敵の第5師団と激闘を繰り広げた強者です。
プロシアという強敵の実体を知る彼は、今は敵の目前でのんびり休息などしている場合でなく、敵が強行軍で迫る中、こちらから撃って出れば、敵は行軍の疲労と、まさかオーストリア軍から積極的な攻撃はないだろうとの油断から、味方は敵に一矢を報いる可能性が高くなるだろう、そう思ったのでしょう。
エデルスハイム
しかし、ベネデックは彼の方を見ることもしません。完全に無視して話を結びます。
「みな遠距離偵察を怠ってはいけない。騎兵を有効活用するように」
そう言うなりベネデックは席を立ち、これで会議は終了してしまいました。
結局、将官たちには、ベネデックはクルム高地で決戦を行うのだろう、という漠然としたことしか分かりません。作戦はどうなっている?命令はないのか?将官たちは焦燥を押し殺し、自分の部隊へと帰って行ったのです。
午後3時30分。ベネデックはウィーンの皇帝へ電文を発します。
「我が北軍はケーニヒグレーツ周辺の陣地にてもう一日休息します。休養の後、現在の陣地から退却する可能性もあり得ます」
午後4時には、「全ての軍団、騎兵師団は現在位置を動かず、明日一日休養に充てるべし」と、指揮官会議での決定を命令にした形で各部隊に電信を送りました。
しかし、これでは本当に戦うのかどうかが指揮官たちには分かりません。各軍団は敵との戦いを想定して応戦準備に入りたいところでしたが、ひょっとすると突然退却を命じられるかも知れず、指揮官たちは夜を迎えてますます憂鬱になっていくのでした。
この日はまた、各地から敵がやって来るとの報告が殺到した日でもありました。
午前11時、ヨセフシュタット要塞より。「敵は既にククス(同/ヨセフシュタット北7キロ・エルベ川東岸)、サルナイ(ザロニョフ)に入ったとの情報あり」
同じく11時、第1予備騎兵師団のソルムス少将騎兵旅団より。「ウルショーニック(ヴルホウニツェ)にて敵の一大部隊を発見、前衛はこれと交戦するも直ぐに退却した」
午後三時、第2軽騎兵師団の斥候より。「ヨセフシュタット要塞の周囲で敵の動きが見え、また、ドゥベネック(ドゥベネツ)やミンチン(ミレティーン)にも既に敵が入っている」
午後8時、ホローラゥ(ホロフラヴィ/ケーニヒグレーツとヨセフシュタット中間)の第2軽騎兵師団より。「午後二時頃、斥候がヨセフシュタット要塞の至近で敵歩兵一個中隊と遭遇、要塞はこの敵を射撃したという」
午後3時、第3軍団より。「敵の縦隊列はセレウィック(ツェレクヴィツェ)とフネイコウェス(フニェヴチェヴェス)の線上にあり」
午後4時半、ノイ=ビゾー(ノヴィー・ビジョフ)の市長より。「敵は既に町の大半を占領し、その先頭部隊はザクセン軍の陣地に向かっている」
この報告で第一軽騎兵師団が動き、強力な斥候部隊二隊をノイ=ビゾー方面に向かわせました。
午後8時、その第1軽騎兵師団斥候が本営に到着し報告しました。「敵はスチャ(スハ)からネカニック(ネハニツェ)に迫っている。我らは敵の前衛と交戦しこれを追い払った。ネカニックのエルベに架かる橋を敵に渡さぬため爆破した」
これらの報告を見れば、プロシア軍がオーストリア北軍とザクセン軍が野営するクルム高地を北と西から圧迫しつつあるのが分かります。
ベネデックはこれらの情報からフランツ・ヨーゼフ皇帝に約束「させられた」決戦の計画をようやく練り始めました。
そして、指揮官たちが待ちに待った命令が2日夜11時、ケーニヒグレーツの北軍本営から出されました。
「本日(2日)受領した諸々の報告によれば、敵はクルム高地西のノイ=ビゾー、スミダル、東はホリック(ホジツェ)を占領し、その前衛部隊がコビリック(コビリツェ)やスチャ近郊で我が北軍の前哨と交戦するに至っている」
「敵のこの運動から察するに、明朝我が軍を攻撃する可能性がある。その主力はザクセン軍が布陣するクルム高地西側に向かうと思われる。この攻撃に備えるため以下の命令を諸隊に発する」
この命令による部隊配置は以下の通りです。
ザクセン軍(アルベルトザクセン親王指揮。以下同)はポポウィック(ポポヴィツェ)とトレソウィック(トジェソヴィツェ)の両高地に布陣、騎兵はこれを援護する形で野営。
ここが最も敵に狙われやすいと考えたベネデックはアルベルト親王に対し「前哨を出すだけに留め、こちらから敵と交戦しないこと」と念を押します。
第1軽騎兵師団(エデルスハイム少将)はザクセン軍の左翼(西)、プロビウス(プロブルス)とプリム(ドルニー・プリーム)近郊の地の利が良い地点に野営。
第10軍団(ガブレンツ中将)は、ザクセン軍の右翼(東)に布陣。
第8軍団(ウェーヴェル少将。スカリッツで戦った前司令レオポルド親王は病に倒れ、30日にウィーンへ帰りました)は、ザクセン軍の予備としてその背後近郊に布陣。
第3軍団(エルンスト親王中将)は、第10軍団の右翼、リパ(リーパ)とその東500メートルのクルム(フルム)までの一帯に布陣。
ここまでの布陣は、プロシア軍がザクセン軍めがけて総攻撃を掛けた場合(ベネデックはそうにらんでいました)の対策で、その他の部隊はクルム高地東側で待機すること、とされます。
ただし、敵が思惑通り動かないことも考えて、ベネデックはこう命じました。
「しかし敵の攻撃が、我が左翼(西・ザクセン軍)ばかりでなく中央や右翼に及んだ場合は、全軍総動員でこれに対する。残りの部隊は以下の布陣で臨む」
第4軍団(フエスティス中将)は第3軍団の右翼(東)に接して布陣、クルムからネデリスト(ネジェリシュチュ)周辺までを担当。
第2軍団(ツーン中将指揮)は第4軍団の右翼に接してトロチナ(トロティナ)から西へセンドラシック(センドラジツェ)周辺までを担当、北軍の最右翼となります。
第2軽騎兵師団(タキシス親王少将)はネデリストの後背地で野営。
第6軍団(ラミンク中将)は ウェセスタル(ヴシェスタリ)に集中して待機。
第1軍団(ゴンドルクール中将)はロスニック(ロスニツェ)に集中して待機。
第1予備騎兵師団(ホルシュタイン=グリュックスブルク中将)と第3予備騎兵師団(クーデンホーフェ少将)はシュウェティ(スヴィニティー/ヴシェスタリ東1キロ)付近で野営。
第2予備騎兵師団(ザイチェク少将)はブリザ(ブジーザ/ロスニツェ南東)付近で野営。
軍直轄の砲兵集団は第1と第6軍団の後方に展開。
これら、第1と第6軍団、五個の騎兵師団と砲兵集団が北軍の総予備部隊となりベネデックの直轄となりました。
ベネデックは各部隊に対し直ちに準備に掛かるよう命じ、明朝に備えよ、とします。
しかし、現在地から余り動かないとはいえ、深夜の合戦準備であり、また敵の来襲まで早ければ数時間という状況は惨いものです。
配置が終了しても、兵たちは一睡もせずに戦うことになりそうです。不利を承知とは言え、なぜもっと早くに命令しなかったのでしょうか?
ベネデックのやる気のなさは本当に酷いものでした。皇帝に和平を勧めて断られ、嫌々一大決戦に臨むその態度は、こうした命令の遅さや部下に真意を伝えない姿によく現れています。
確かに彼は選ばれて国家の存亡を担う指揮官となりました。ミュンヘングレーツやシュヴァインシェーデルの戦いまでは、ぐらつきながらも何とか態勢を立て直そうとするボクサーのように「ファイティングポーズ」を取っていました。虚勢だったのでしょうが、自信満々な態度で副官や下級指揮官をびびらせもしました。
しかし、ギッチンの敗戦が彼のやる気に止めを刺したように見えます。
悩んだ挙げ句の和平案を蹴られ、意気消沈し自信を喪失したベネデックをなおも指揮官のままで戦わせたのは、皇帝の責任と言えます。参謀長や参謀、果ては北軍の一翼を担うクラム=グラースを解任しても、皇帝はベネデックの解任はしませんでした。
打ち込まれたエースを、あとワンアウト投げさせようとするプロ野球の監督のように、あと一会戦、戦わせよう、そう思ったのかも知れませんが、その一戦は戦争の行く末を決める文字通りの決戦となることは、自明の理だったはずなのです。
この「ケーニヒグレーツの戦い」の後ベネデックは実権を失い、その後の休戦で解任されますが、皇帝はこんなことならもっと早く指揮官の交代をすべきだったと後悔したのかも知れません。また、交代させようにも適任者がいなかったのかも知れません。この7月当初の時点ではイタリア戦線の南軍指揮官、アルブレヒト親王を呼び戻すには遅過ぎ(とは言うものの、結局彼がウィーンを護る羽目になるのですが)、後に普仏戦争で活躍しドイツ帝国の元帥にまでなるアルベルト=ザクセン皇太子は、優れた指揮官でしたが「外国人」で全軍の指揮は任せられません。
いずれにせよ、投げやりにすら見える総指揮官を戴いたまま、オーストリア北軍とザクセン軍は、戦場にやって来たモルトケと勝ち誇ったプロシア軍を迎えねばならなかったのでした。
ルートヴィヒ・アウグスト・リッター・フォン・ベネデック元帥




