ビッチュ要塞の顛末(附・兵站総監部と総督府の所属部隊)
☆ ロートリンゲン、ランス総督府の後方連絡路防衛(11月以降)
独軍中央の兵站鉄道・ヴァイセンブルク~パリ線の内、アヴリクール(ナンシーの東46キロ)~エペルネー(ランスの南24キロ)間の警戒は70年11月からロートリンゲンとランス両総督府が行いました。
12月中旬、第三軍兵站総監部が5個大隊を第二軍兵站総監部に移譲させた時、ランス総督府は加えてドルマン(ランスの南東35キロ)とシャトー・ティエリ(ドウルマンからは西へ17.5キロ)とその鉄道沿線の警備も任される(エペルネーからは40キロ西へ延伸)こととなりますが、第三兵站総監部はこの時点で兵站守備に使用可能な部隊を未だ歩兵11個大隊・騎兵9個中隊・砲兵2個中隊と、軍の兵站総監部最大の兵力を擁しており、比較的距離が短いシャトー・ティエリ~ラニー=シュル=マルヌ本線(沿線60キロほど)と同陸路兵站線、パリ南方郊外の鉄道線と陸路、そしてベルサイユ~シャルトル間の鉄道沿線警備だけを請け負うという、他の総督府や兵站総監部が羨む状況となっていました。
とはいうものの、マルヌ、セーヌ両河川間にはエペルネーから西、モンミライユ(シャトー=ティエリの南南東22キロ)、ノジャン=シュル=セーヌ(モンミライユの南42キロ)、クロミエ(同西南西33.7キロ)などの周辺に散在する森林地帯を抱えており、ここにパリとその周辺の人口稠密地から派出した数多くの義勇兵中隊が隠れ潜んでいたため、パリまでの諸街道と鉄道は常に厳重な警戒を要することとなっていたのです。
この義勇兵中隊の跋扈に業を煮やした第三軍兵站総監、フリードリヒ・アドルフ・フォン・ゲッツェ中将はヴュルテンベルク軍のフォン・ゾイベルト大佐を指揮官に遊動支隊を編成*させ、クロミエからセザンヌ(モンミライユの南東21.3キロ)並びにプロヴァン(セザンヌの南西36キロ)に至る地域を巡察させました。
これとほぼ同時にランス総督府もこれら森林地帯に巡察隊を繰り返し送り、この中の一隊*は12月20日にエペルネーから前進してマレイユ=アン=ブリ(エペルネーの南西18.2キロ)付近で滞留していた義勇兵中隊を駆逐するのでした。
※12月中旬のフォン・ゾイベルト大佐支隊
指揮官 アドルフ・フリードリヒ・フォン・ゾイベルト大佐
○ヴュルテンベルク王国第6連隊
○ヴュルテンベルク王国騎兵第2連隊・第2中隊
○ヴュルテンベルク王国補充砲兵第1中隊
※12月20日のランス総督府派遣巡察隊
○ポツダム後備大隊の下士官兵50名(当時としては中隊の三分の一の規模)
○予備重騎兵第1連隊・第4中隊の1個小隊
*ゾイベルト大佐は開戦劈頭、ヴュルテンベルクとバーデンで一大欺瞞作戦(最も効果を上げた地名から独では「ケーファーホルツの欺瞞」と呼ばれます)を実施してフェリクス・ドゥエー将軍の仏第7軍団を翻弄しヴルトの戦いに微妙な影響を与え名を上げます。
ゾイベルト
12月下旬。ランス総督府所属の予備猟兵第2大隊第1中隊は、ドルマンより発して先の森林地帯を巡察しますが同時に占領税を徴収する任務も受けており、年が明けて1月2日、この任務を遂行しようとしてマルシリ=シュル=セーヌ(トロアの北西39.6キロ)~コンフラン=シュル=セーヌ(マルシリの西2.3キロ)間を進んでいた時、数倍する強力な義勇兵集団と遭遇してしまいます。戦時編成の予備とは言えしっかりと訓練された独猟兵は、数を頼みに包囲を狙って迫り来る仏義勇兵と激戦を繰り広げますがその最中、中隊長のヨハン・ベルント・ハインリヒ・フォン・バゼドウ大尉が頭部に銃弾を受け瀕死の重傷を負ってしまいます。直ちに指揮を代わった先任小隊長のシェルヴィッツ少尉はなおも数時間マルシイーとその周辺で戦い続けました。しかし、どうやら正規に訓練された護国軍兵も混じる義勇兵集団は増援を呼び寄せ、少尉ら予備猟兵たちは完全に包囲されてしまいます。それでも少尉たちは敵の不意を突き一点に集中し突破戦闘を敢行して脱出し、追撃を振り切ってサン=カンタン=ル=ヴェルジエ(マルシリの北北東7.2キロ)まで逃げ延び、小休止後ヴィトリ=ル=フランソワに向かい、翌朝無事に独の一大拠点である同地に到着するのでした。しかし、決死の脱出時に手の施しようもなかった大尉と2名の重傷者を置き去りにせざるをえなく、仏の記録では大尉等は戦闘後の2日夕刻、義勇兵らに拉致され間もなく全員息を引き取ったとのことでした。
この日の予備猟兵第2大隊第1中隊の損害は中隊長を含む3名が戦死推定、負傷16名、行方不明2名、馬匹4頭喪失でした。
独軍猟兵(1870年)
在トロアの兵站地司令はこの戦闘に関する報告を受けると、バゼドウ大尉の「敵討ち」とばかりに討伐隊を組織し、1月7日、この一支隊をコンフラン=シュル=セーヌへ派遣します。
※1月7日・トロアから発した支隊
○ブランデンブルク後備大隊・第2,3中隊
○トルガウ後備大隊・第12中隊
○騎兵若干
この支隊はコンフラン周辺まで義勇兵が潜みそうな森林や部落を捜索しつつ進みますが、遭遇したのは小規模な義勇兵集団だけでそのどれもが戦わず逃げ出し、しかも逃げ足早く戦闘には至りませんでした。ランス総督もセーヌ川に沿った森林地帯より義勇兵や護国軍残兵を一掃しようと考え、1月下旬にエペルネー、クロミエ、トロアの各拠点から強力な混成諸隊を発したものの、やはりこれら遊動隊も敵を発見することが出来ず、遊撃諸隊は休戦直前の27日にノジャン=シュル=セーヌで集合し任務を終了するのでした。
忍び寄る仏義勇兵たち
11月以降のロートリンゲン総督府管内において特筆すべき事件は、既述のフォントノワ=シュル=モセルの鉄道橋爆破事件で、この橋を襲ったのは例のヴォージュ県義勇猟兵集団の一中隊・数百名でした。
この集団は1月22日の早朝、副曹長が指揮を執るゲルダーン後備大隊第6中隊の50名が護っていたフォントノワ停車場を襲い、その隙に別動隊がモセル(独名モーゼル)川の鉄道橋へ爆薬を仕掛け程なく爆破してしまったのです。この襲撃直前、ナンシーからパリ包囲網へ向かう郵便列車が停車場を通過しますが、たまたま本隊を離れていた一後備兵が橋梁の異変に気付き機関車に駆け寄ると必死に合図して橋の袂で停車させたため、列車は爆破の寸前で難を逃れることが出来たのでした(義勇兵は列車の通過を狙って列車ごと吹き飛ばすつもりだったはずです)。
フォントノワ=シュル=モセル 鉄橋爆破直前で停車する独郵便列車
この列車には様々な理由で本隊を離れ、用が済んだので帰隊しようと諸連隊から40名の将兵が同乗していましたが、最先任士官の第46連隊所属ケッセル大尉がこれら将兵を集合させ、襲われたと聞くフォントノワ停車場へ急行しました。しかし時既に遅く仏義勇兵たちは姿を眩ませており、ケッセル大尉等はライン辺境の後備兵たちと並んで周辺を捜索しますが僅か数名の落伍兵を発見して捕虜とするだけに終わります。爆破直後にトゥールやナンシーからも異変に気付いた諸隊が駆け付け、彼らも翌日まで捜索しましたがヴォージュの義勇猟兵たちはラングル方面へ逃走したとしか判明しませんでした。
1月22日のゲルダーン後備大隊の損害は戦死1名、負傷7名、行方不明7名でした。
☆ 9月以降のビッチュ要塞
ヴァイセンブルク~ナンシー間の鉄道が(ファルスブール付近で警戒を要したものの)完全に開通した後(8月下旬)、独軍にとってビッチュ要塞の存在は「兵站中央線と北方線との連絡を図るアグノー~サルグミーヌ線の運行を妨害するだけ」となります。この兵站線もサヴェルヌからサール=ユニオンを経て北上する街道へ迂回すれば連絡可能だったため、ベルサイユ大本営は後述の攻城砲撃終了後、無理に陥落させることを望まず、本格的な「攻囲」を行うことを放棄し、単に監視を行って要塞から守備隊が出撃することを抑制するだけに留めたのです。
ビッチュ要塞(1870年)
9月4日、パリで政変が発生した当日、ビッチュ要塞司令官ルイ=カジミール・テイシエール少佐(前日、独軍白旗の軍使からセダン陥落・皇帝捕虜の顛末を聞かされています)は守備兵700から800名による一大出撃を敢行し、イルスヴィラー~シュルバッハの線に向かって進撃するものの、ここを護っていたバイエルン王国(以下B)第8連隊の第1大隊が冷静に迎撃し短時間の戦闘によって撃退されました。
同月6日には独軍(B軍)の包囲支隊*がゲルマースハイム要塞から進んで来た歩兵2個大隊と要塞工兵半個中隊の増援を受け入れます。
包囲指揮官、B軍のヴィルヘルム・コーラーマン大佐はこの増援で歩兵4個大隊・要塞砲兵2個中隊・要塞工兵1個中隊・騎兵28騎を有することとなりましたが、大佐としてはまだまだ要塞の攻略を諦めておらず、それまでに到着した要塞攻城砲と要塞砲兵・工兵を使って「猛烈な砲撃を行い開城を促す」ことを望んでおり、要塞を望む見晴らしの良い西方と南方高地に手持ちの資材と要塞砲を使って砲台6個を築き、この援護に歩兵の大部分を割いて要塞北方と東側は遊動隊によって警戒する作戦を発動するのでした。
※9月6日の独軍ビッチュ要塞包囲支隊(●印は以前からあるもの○印は同日に増援として到着したもの)
*レイエヴィレ(要塞の西南西3キロ)~「フロイデンベルクの家」(フロイデンベルクホフ。農家。同西北西2.8キロ。現存します)~「シュゼルの家」(シュゼルホフ。フロイデンベルクの家北800m。ホテルとして現存します)
●B第8連隊・第1大隊
○B第4連隊・第3大隊
●B第4連隊・第5,7,8中隊
*「シムサーの家(シムサー=フェルム)」(独名ジマー=ホフ。フロイデンベルクの家北北西1.8キロ。現存します。同西1.6キロのホテルは同名ですがここではありません)
予備として
○B第8連隊・第3大隊
●Bシュヴォーレゼー騎兵第6連隊・第2中隊の20騎
*オヴィレ(独名ホットヴィラー。ビッチュ要塞の北西5.7キロ)東方の煉瓦工場(部落北東1.4キロにあるロータリー交差点付近にありました。現存しません)付近
◇砲兵厰と工兵厰
●B要塞工兵第2中隊の半数
○B要塞工兵第2中隊の半数
*東方及び北方警戒(ツヴァイブリュッケン、ヴァイセンブルク、レッシュショフェンに至るそれぞれの街道にあるバリケード検問)
○B第4連隊・第6中隊
●Bシュヴォーレゼー騎兵第6連隊・第2中隊の4騎(交代制)
*ランベルク(レイエヴィレの南4.2キロ)付近にいたB後備第5大隊の2個中隊はこの日、任を外れて去ります。
※9月6日から築造を始めた砲台
*第1号砲台
レイエヴィレの北東800m付近
12センチカノン砲x4門
*第2号砲台
ビッチュからレイエヴィレへ至る山道の脇・第1号の北西200m付近
60ポンド滑腔臼砲x4門
*第3、4、5、6号砲台
第2号砲台と「フロイデンベルクの家」北方までの間
各12センチカノン砲x4門
*砲台砲手と管理
攻城砲指揮官/シュラー少佐
○B要塞砲兵第2連隊・第4中隊
○B要塞砲兵第4連隊・第3中隊
*9月13日から
○B要塞砲兵第2連隊・第3中隊
同13日、6ポンド野砲4門が到着しますが、これは運搬して来たB軍の「ゲルマースハイム要塞出撃砲兵隊」が砲手として操作しました。
ビッチュ要塞付近(1870.9)
砲台築造は折からの秋の長雨によって泥濘の中で行われたため困難を極めましたが要塞からの妨害は殆どなく、9月10日夜には完成して重砲を運び入れ、翌11日の午前、要塞重城に対して砲撃が開始されました。
これには要塞の砲兵も猛烈な対抗射撃で応じますが、B軍要塞砲兵の連続砲撃によって翌12日にはかなり間隔の開いた微弱な応射に変わります。ここで砲撃指揮官のシュラー少佐は目標を市街に変え、するとたちまち各所で炎が上がるのが見え、気を良くした少佐は出撃砲兵に命じて野砲で重城と市街地の間に見える野営にも砲撃を決行するのでした。
砲撃が続く中、14日にコーラーマン大佐は包囲網を縮めることにして歩兵を前進させ、東方と北方には更に1個中隊(B第4連隊の第7中隊)を送って増強しました。
攻城砲撃は9月17日まで連続して続きます。しかし市街の損害こそ甚大(家屋130戸全焼か全壊・100戸半壊)でしたが要塞は多少各所が破壊されるものの要塞としての機能に問題はなく、この程度の砲撃では「歴史ある国境の要衝」はびくともしないのでした。しかも連続砲撃で要塞攻城砲の多くが磨耗や熱に起因する砲身変形を起しており、前線各所でビッチュ以上に必要な攻囲に対し攻城材料が送られ不足が目立ち始めたこの頃、「消耗品の補充無しではこれ以上砲撃を続行しても大した効果を望めない」と断念したコーラーマン大佐は翌18日、シュラー少佐に攻城砲と砲台撤去を命じ、砲と砲台は21日までに撤収され、要塞砲兵は撤去した要塞砲と資材を持って包囲網を去るのでした。
既に戦争は独有利に進んでおり、パリでは包囲が始まりアルザス地方でも先ずは主邑のストラスブール攻囲が最優先とされたため、独軍はこれ以降ビッチュの攻囲を考えることはありませんでした。
この場合、通常であれば兵糧責めで敵の飢餓を待つところですが、国境の町ビッチュは戦争が始まれば真っ先に包囲されると信じられており、独軍が包囲するまでには住民の殆どが疎開してしまい、糧食も十分に蓄えていた要塞は住民のことを考えずに食い繋ぐことが出来、独軍も戦争が比較的短期で終了することを見込んでいたため、エルザス総督の伯爵ビスマルク=ボーレン中将も「今後ビッチュ要塞に対する攻城は放棄、ただ監視のみを行うこと」と命令するのでした。
これにより包囲網兵力は縮小され、監視任務にはB第8連隊の2個大隊のみが就くこととされ、指揮官もシュロット大佐に代わりました。
大佐はシュヴァンガーバッハ(レイエヴィレの南東1.3キロ)付近とファッフェンベール山(要塞の南東3.4キロ付近)の南方麓に宿舎を築造させ隊を宿営させます。この時、騎兵も居残りますが要塞工兵はパリの包囲網に召還され、10月16日隊と装備を整えるため先ずはゲルマースハイム要塞に向けて去りました。任を外れたB第4連隊の2個大隊と出撃砲兵もエルザス総督府で他の任務に向かうのでした。
攻城砲撃が終了し独包囲網の兵力が減ったことを嗅ぎつけた要塞守備隊は9月29日と30日に出撃しますが、B第8連隊はこれを迎撃し難なく撃退します。
10月以降は要塞守備隊も偵察行以外本格的な出撃を行うことはなく、攻守互いに監視と対峙の退屈な日々がただ延々と続いたのでした。
B第8連隊の2個大隊は10月末にB第4連隊の第2、3大隊と交代しました。その後も両連隊は11月下旬と1月下旬にも互いの任務を交換しています(マンネリ化や意識散漫による傷病阻止のためでしょう)。また、休戦に入るとコーラーマン大佐が復帰し諸大隊を率いて要塞の包囲を続ける(頑固な要塞司令テイシエール少佐が休戦に応じなかったためです)のでした。
開城後のビッチュ要塞内部
最終的にビッチュ要塞の門が開くのは71年3月11日。戦闘はとっくに終わり講和条約が仮調印され再々延長された休戦が終わる直前になっていました。
ビッチュ要塞の包囲は70年8月8日から始まり71年1月31日まで(実際は休戦中の3月11日まで)とほぼ戦争の全期間に及びましたが、この間の独軍の損害は初期以外殆ど監視に徹していたため戦死19名・負傷62名と期間に比して軽微でした。
テイシエール少佐と守備隊は、ベルフォール要塞のダンフォール=ロシュロー大佐とその部下と同じく「降伏しなかった」人々として仏国民から称賛され、憎き独に対する抵抗精神の象徴ともなって行くのですが、ベルフォールと違い攻城攻撃をほとんど受けなかった事とビッチュが戦後独領となったことで、抵抗によって仏領に留まり脚光を浴びたベルフォールとダンフォール大佐らとは対照的に少佐ら守備隊の人々のことは忘れ去られる運命だったのです。
開城後のビッチュ要塞 鹵獲砲
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☆ 資料 1871年1月下旬(休戦直前)の各軍兵站総監部所属部隊
表記のない場合は後備歩兵大隊は6個中隊制、予備騎兵連隊は基本4個中隊制、一部6個中隊制(但し充足度によって兵員数は様々です)
◎第一軍兵站総監部
○後備第30「ライン第4」連隊・ ザンクト・ヴェンデル後備大隊(ザールブリュッケン北)
駐屯各地(以下同);シャンティイ、クレイユ、コンピエーニュ、サン=ジュスタン=ショッセ(クレイユ北)、ブルタイユ(アミアン南)
◇後備混成第22「オーバーシュレジレン第1」、第62「オーバーシュレジエン第2」連隊
○連隊本部 ;ペロンヌ
○リブニック後備大隊(現ポーランドのリブニク。チェコのオストラバ北東) ;ボーヴェ、エリー=シュル=ノワイエ(アミアン南)、ショルンヌ(アミアン東)
○ラティボール後備大隊(現ポーランドのラチブシュ。リブニク西) ;アミアン
○ヴライヴィッツ後備大隊(現ポーランドのグリビツェ。カトヴィツェ西) ;ペロンヌ、アム
○コーゼル後備大隊(ドレスデン北東・国境付近。シュレスヴィヒ地方の同名市とは違います) ;ペロンヌ
○予備驃騎兵第6連隊・第1中隊 ;シャンティイ、クレイユ
*第一軍総計:歩兵5個大隊・騎兵1個中隊
独の兵站路後方部隊
◎第二軍兵站総監部
◇後備混成第16「ヴェストファーレン第3」、第55「ヴェストファーレン第6」連隊 *連隊本部なし
○ゾースト後備大隊 ;シェロワ(サンス西)、ヌムール、スープ=シュル=ロワン(ヌムール南)、ゴンドルヴィル(モンタルジ北西)、ピュイゾー(ヌムールの西南西)
○ウンナ後備大隊 ;ヴィルヌーヴ=シュル=ヨンヌ(サンス南)、サンス、ポン=シュル=ヨンヌ(サンス北)、モントロー、モンタルジ
○デトモルト後備大隊 ;オルレアン、ボージョンシー
○パーダーボルン後備大隊 ;エスティサック(トロア西)、ヴィルヌーヴ=ラルシュヴェック(サンス東)、ジョワニー、ラ=ロシュ(ミジャンヌ)、サン=フロランタン
◇後備混成第27「マグデブルグ第2」、第67「マグデブルグ第4」連隊
○連隊本部 ;オルレアン
○アッシャースレーベン後備大隊 ;シャティヨン=シュル=セーヌ、ミュシー=シュル=セーヌ(シャティヨン=シュル=セーヌ北)、レーニュ(シャティヨン=シュル=セーヌ西)
○ハレ後備大隊 ;ムラン、モレ、フォンティーヌブロー、マルゼルブ
○ビッターフェルト後備大隊 ;ジュヴィジー=シュロルジュ、ラ・フェルテ=アレ(エタンプ北東)、エタンプ、ピティヴィエ、トゥーリー(ピティヴィエ西)、ボージョンシー
○トルガウ後備大隊 ;ブリエンヌ=ル=シャトー(トロア北東)、トロア
○後備第31「チューリンゲン第1」連隊・ミュールハウゼン後備大隊 ;ニュイ(=シュル=アルマンソン)、アンシー=ル=フラン(トネール南東)、トネール
○予備驃騎兵第1連隊
・連隊本部 ;ニュイ(=シュル=アルマンソン)
・第1中隊 ;シャティヨン=シュル=セーヌ
・第2中隊 ;トネール、ジョワニー
・第3中隊 ;ニュイ(=シュル=アルマンソン)
・第4中隊 ;モンタルジ
○予備驃騎兵第5連隊・第1中隊 ;ヌムールとその周辺
○予備驃騎兵第5連隊・第2中隊 ;オルレアンとその周辺
○第5軍団要塞工兵第1中隊 ;ラ=ロシュ(ミジャンヌ)
*第二軍総計:歩兵9個大隊・騎兵6個中隊・工兵1個中隊
独軍後備兵(1870年)
◎第三軍兵站総監部
○後備第31連隊・ザンガーハウゼン後備大隊(ライプツィヒ西) ;ラニー(=シュル=マルヌ)、コルベイユ
○バイエルン王国(以下B)後備第3大隊 ;ラニー(=シュル=マルヌ)、コルベイユ=エソンヌ(ムラン北西)
○B後備第7大隊 ;コルベイユ=エソンヌ
○B後備第9大隊 ;ブリ=コント=ロベール(ムラン北)、ランブイエ(ベルサイユ南西)、シャルトル
○B後備第13大隊 ;トゥルナン=アン=ブリ(ブリ=コント=ロベール北東)、エスブリー(モー南西)
○B後備第15大隊 ;ラ・フェルテ=スー=ジュアール(モー東)、ブリ=コント=ロベール
○B後備第27大隊 ;ナンテイユ(=シュル=マルヌ)、エスブリー
○B後備第29大隊 ;エスブリー、ラニー(シュル=マルヌ)
○ヴュルテンベルク王国(以下W)第6連隊・本部と第1大隊 ;クロミエ(モー南東)
○W第6連隊・第2大隊 ;ノジャン=ル=ロトルー(ル・マン北東)、ナンテュイユ=シュル=マルヌ(ラ・フェルテ=スー=ジュアール北東)
○バーデン大公国(以下Ba)後備第1大隊 ;シャンジ=シュル=マルヌ(モー東)、トリユポール(モー東)、モー
○予備竜騎兵第3連隊
・連隊本部、第1,2,4,5中隊 ;コルベイユ=エソンヌ
・第3中隊 ;ラニー(=シュル=マルヌ)
・第6中隊 ;エスブリー
○B兵站騎兵中隊 ;コルベイユ=エソンヌ
○Wライター(軽)騎兵第2連隊・第2中隊 ;クロミエとその周辺
○Wライター騎兵第2連隊・第3中隊 ;エヴェルリー(ノジャン=シュル=セーヌ西)よりクロミエに向かい行軍中
○W砲兵第1補充中隊 ;エヴェルリーよりクロミエに向かい行軍中
○W砲兵第2補充中隊 ;コルベイユ=エソンヌ
○第8軍団要塞工兵第3中隊 ;ラニー(=シュル=マルヌ)
○第11軍団要塞工兵第2,3中隊 ;ラニー(=シュル=マルヌ)とその周辺
○B兵站工兵中隊 ;コルベイユ=エソンヌ
*第三軍総計:歩兵11個大隊・騎兵9個中隊・砲兵2個中隊・工兵4個中隊
包囲網の暮らし
◎マース(第四)軍
◇後備混成第53「ヴェストファーレン第5」、第56「ヴェストファーレン第7」連隊 *連隊本部なし
○ヴェセル後備大隊(ライン沿岸デュイスブルク北) ;ミトリー=モリー、ダムマルタン(モー北西)、ナンテュイユ=ル=オードゥワン(モー北)、クレピ=アン=ヴァロワ(ナンテュイユ=ル=オードゥワン北東)、ヴィレ=コトレー(ソアソン南西)
○ボルケン後備大隊(ヘッセン州。カッセル南) ;サンリー、クレイユ、シャンティイ
○ボーフム後備大隊(ドルトムント西) ;ソアソン
○イーザーローン後備大隊(ドルトムント南東) ;ポントアーズ(ベルサイユ北)
○予備驃騎兵第5連隊・第3中隊 ;ダムマルタン、ナンテュイユ=ル=オードゥワン、クレピ=アン=ヴァロワ、ヴィレ=コトレー、ソアソン
○予備驃騎兵第5連隊・第4中隊 ;シャンティイ、ポントアーズ
*第四軍総計:歩兵4個大隊・騎兵2個中隊
独軍徴発隊
☆ 資料 1871年1月下旬(休戦直前)のエルザス、ロートリンゲン、ランス、メッス各総督府所属部隊
◎エルザス総督府所属部隊
○後備第10「擲弾兵シュレジエン第1」連隊・ヴォーラウ後備大隊(現・ポーランドのボウウフ。ヴロツワフ北西)
;ミュルーズ(独名ミュールハウゼン)、フェレット(ミュルーズ南)
○後備第13「ヴェストファーレン第1」連隊・ヴァーレンドルフ後備大隊(ミュンスター東)
;サルブール(独名ザールブルク)、ニーデルブロン=レ=バン
○後備第35「ブランデンブルク・フュージリア」連隊・ベルリン後備大隊
;サルブール
○後備第71「チューリンゲン第3」連隊・エアフルト後備大隊(チューリンゲン州都)
;ミュルーズ
○後備第71連隊・ゾンダースハウゼン後備大隊(エアフルト北北西)
;ミュルーズ、セルネー(独名ゼンハイム。ミュルーズ西)、タン(セルネー西)、サン=タマラン(タン北西・ヴォージュ山脈内)
○後備第84「シュレスヴィヒ」連隊・シュレスヴィヒ後備大隊(キール北西)
;サール=ユニオン(サルグミーヌ南)、モランジュ(同南西)、シャトー=サラン(ナンシー北東)、マルサル、リュッツェルブール(ファルスブール南)、アヴリクール
○後備第85「ホルシュタイン」連隊・キール後備大隊
;ロウファッハ(コルマールの南南西)、エンシスハイム(ミュルーズ北)、ゾウルツ=レ=バン(ストラスブール西)、ボルヴィラー(ミュルーズ北北西、エンシスハイム西)、ルターバッハ(ミュルーズ西北西)、アルトキルシュ(ミュルーズ南南西)、ユナング(独名ヒューニンゲン。スイス・バーゼル北。三国境の街)
○後備第85連隊・レンズブルク後備大隊(キール西)
;モルスアイム(ストラスブールの西、ゾウルツ=レ=バンの南)、ムツィグ(モルスアイム西)、オベルネ(モルスアイム南)、バール(オベルネ南南西)、シルメック(オベルネの西・ヴォージュ山脈内)、サン=ブレーズ=ラ=ロッシュ(シルメック南南西)、サアール(サン=ブレーズ=ラ=ロッシュ南南西)
○B第4連隊(正規歩兵)・本部、第2、第3大隊
;ビッチュ周辺
○W第4連隊・本部、第1大隊と第7中隊
;ストラスブール、サント=マリ=オー=ミーヌ(独名マルキルヒ。コルマール北北西)
*第5,6,8中隊は71年2月4日にロートリンゲン総督府から本隊復帰、ストラスブールへ。
○B後備第5大隊 ;ヴァイセンブルク
○Ba後備第3大隊・第4中隊 ;ブリュマト(ストラスブール北)
○Ba後備第5大隊・第2中隊 ;ビシュヴィレール(アグノー南東)
*バーデン中隊は6週間交代制でラシュタット要塞より交代要員が送られました。
○擲弾兵第3「オストプロイセン第2」連隊・補充兵大隊 ;アグノー(独名ハーゲナウ)
○擲弾兵第5「オストプロイセン第4」連隊・補充兵大隊 ;ストラスブール
○擲弾兵第6「ヴェストプロイセン第1」連隊・補充兵大隊 ;サルグミーヌ、ロアバッハ=レ=ビッチュ(ビッチュの西)
○第22連隊・補充兵大隊 ;ストラスブール
○第31連隊・補充兵大隊 ;ストラスブール
○第47「ニーダーシュレジエン第2」連隊・補充兵大隊 ;ストラスブール
○第50「ニーダーシュレジエン第3」連隊・補充兵大隊 ;サヴェルヌ(独名ツァーベルン)、ファルスブール
○第52「ブランデンブルク第6」連隊・補充兵大隊 ;セレスタ(独名シュレットシュタット)
○第60「ブランデンブルク第7」連隊・補充兵大隊 ;コルマール、ヌフ=ブリザック(独名ノイ=ブライザッハ)
○第67連隊・補充兵大隊 ;ストラスブール
○予備驃騎兵第6連隊・第4中隊 ;コルマール
○予備驃騎兵第6連隊・第5中隊 ;ストラスブール、シルメック
○予備槍騎兵第6連隊・第1中隊 ;ユナング
○予備槍騎兵第6連隊・第4中隊 ;ミュルーズ
○Bシュヴォーレゼー騎兵第6連隊
・連隊本部、第1中隊 ;セレスタ
・第2中隊 ;モランジュ、サール=ユニオン、ビッチュ付近
・第3中隊 ;エルリメ(サルグミーヌ南西)、ピュットリンゲン(独国内。ザールブリュッケン北西)
・第4中隊 ;サルブール、サヴェルヌ
○野砲兵第12連隊・予備重砲第1中隊 ;ストラスブール
○野砲兵第12連隊・予備重砲第2中隊 ;ミュルーズ
○要塞砲兵第1連隊・第13中隊 ;ストラスブール
○要塞砲兵第5連隊・第2中隊 ;ストラスブール
○要塞砲兵第5連隊・第6中隊 ;ストラスブール
○要塞砲兵第5連隊・第11中隊 ;ストラスブール
○要塞砲兵第6連隊・第8中隊 ;ストラスブール
○要塞砲兵第7連隊・第2中隊 ;ストラスブール
○要塞砲兵第7連隊・第6中隊 ;セレスタ
○要塞砲兵第8連隊・第11中隊 ;ストラスブール
○要塞砲兵第10「大隊」・第1中隊 ;ヌフ=ブリザック
○要塞砲兵第10「大隊」・第6中隊 ;ストラスブール
○第6軍団要塞工兵第3中隊 ;ストラスブール、セレスタ、ヌフ=ブリザック
○第8軍団要塞工兵第1,2中隊 ;ストラスブール
*アルザス総督府総計:歩兵22個大隊と3個中隊・騎兵8個中隊・砲兵2個中隊・要塞砲兵10個中隊・要塞工兵3個中隊
捕らえられ独驃騎兵に連行される仏義勇兵
◎ロートリンゲン総督府所属部隊
◇後備第17「ヴェストファーレン第4」連隊
○連隊本部 ;トゥール(ナンシー西)
○ゲルダーン後備大隊(デュイスブルク西・オランダ国境)
;フォントノワ=シュル=モセル、トゥール、フ(トゥール西)、ヴォワ=ヴァコン(同)、リニー=アン=バロワ(同)
○デュッセルドルフ後備大隊
;シャテル=シュル=モセル(ナンシー南)、シャルム(同)、バイヨン(同)、ブランヴィル=シュル=ロー(リュネヴィル南西)、サン=ニコラ=ドゥ=ポール(ナンシー南東)、リュネヴィル、アンベルメニル(リュネヴィル東北東)
◇後備混成第23「オーバーシュレジエン第2」、第63「オーバーシュレジエン第4」連隊
○連隊本部 ;ショーモン
○ナイセ後備大隊 ;ショーモン、シャトーヴィレン(ショーモン南西)
○ボーテン後備大隊 ;ヴオール=シュル=オーブ(シャティヨン=シュル=セーヌ北東)、フラン(ショーモン南南東)
○ローゼンベルク後備大隊 ;ショーモン
○後備第25「ライン第1」連隊・アーヘン後備大隊(独、オランダ、ベルギー三国国境の街) ;ナンシー
○後備第25連隊・オイペン後備大隊(現・ベルギー、ドイツ語共同体首府) ;ブズール
◇後備混成第28「ライン第2」、第68「ライン第6」連隊
○連隊本部 ;ベルダン
○ジークブルク後備大隊(ボン北東) ;エピナル、ジェラールメ(エピナル~コルマール間)、フルアール(ナンシー北・モーゼル、ムルト合流点)
○ブリュール後備大隊(ケルン南南西) ;ベルダン
○ノイス後備大隊(デュッセルドルフのライン対岸) ;ポール=シュル=ソーヌ、ポ-ル=ダトリエ(ポール=シュル=ソーヌ北)、ヌシャトー
○ドイツ後備大隊 ;ショーモン
*この4個大隊は1個中隊欠の5個中隊で出征しています。
○後備第65「ライン第5」連隊・エルケレンツ後備大隊(デュッセルドルフ西)
;サン=ディジエ、ジョインヴィレ(サン=ディジエ南南東)、ドンジュー(ジョインヴィレ南)、コメルシー(ナンシー西)、ロンギュヨン(ロンウィー南西)
○後備第65連隊・ユーリッヒ後備連隊(アーヘン北東) ;バール=ル=デュク
○後備第69「ライン第7」連隊・ジンメン後備大隊(マインツ西)
;モンメディ(ロンギュヨン北西)、オーダン=ル=ティッシュ(ティオンヴィル北西・ルクセンブルク国境)、ブリエ(サン=プリヴァ北西)、フルアール
○後備第69連隊・アンダーナッハ後備大隊(コブレンツ北西) ;ショーモン
○予備猟兵第1大隊 ;エピナル、ヌシャトー
◇ザクセン王国(以下S)守備歩兵旅団
○旅団司令部 ;エピナル
○守備第1大隊 ;ナンシー
○守備第2大隊 ;エルティニー、サン=ルー=シュル=スムーズ
○守備第3大隊 ;リュネヴィル
○守備第4大隊 ;ショーモン、ブリコン(ショーモン西南西)、ボローニュ(ショーモン北)、ヴィニョリー(同)、ヴィリエ=シュル=マルヌ(パリ東郊)
○W第4連隊・第5,6,8中隊 ;エピナル、リュール
*2月4日連隊に復帰・エルザス総督府所属へ
○後備第11「擲弾兵シュレジエン第2」連隊・シュヴァイドニッツ後備大隊(現・ポーランド、ヴロツワフ南西シュフィドニツァ) ;アグノー付近を鉄道輸送中
○予備後備第38大隊 ;リュネヴィル付近を鉄道輸送中
*この2個大隊はミルクール(エピナル北西)かヌシャトーへ向かい、後にラングル攻囲で使用予定でした。
*「予備後備大隊」は後備大隊出征後に召集・編成された部隊で、仏軍の「臨時護国軍」と遠からず、といった部隊です。
○後備第41「オストプロイセン第5」連隊・バルテンシュタイン後備大隊(現・ポーランド、グダニスク東のバルトシツェ) ;ショーモンとその周辺で待機
○後備第41連隊・ラシュテンブルク後備大隊(現・ポーランド、バルトシツェ南東のケントシン) ;フォントノア=ル=シャトー(エピナル南西)とその周辺で待機
○後備第42「ポンメルン第5」連隊・シュターガルト後備大隊(現・ポーランド、グダニスク南のスタロガルト=グダニスキ) ;ウエクール(ヌシャトー東南東)とその周辺で待機
○後備第42連隊・ナウガルト後備大隊(現・ポーランド、シュチェチン北東のノボガルト) ;エピナル、サン=ルー=シュル=スムーズで待機
○後備第44「オストプロイセン第7」連隊・リーゼンブルク後備大隊(現・ポーランド、スタロガルト=グダニスキ南東のプラブティ) ;ジランクール(エピナル西)とその周辺で待機
○後備第49「ポンメルン第6」連隊・シュラヴェ後備大隊(現・ポーランド、グダニスク西のスワブノ) ;ショーモンで待機
○後備第49連隊・シュトルプ後備大隊(現・ポーランド、スワプノの北東隣のスウプスク) ;ナンシー、リュネヴィル、トゥールで待機
○予備後備第33大隊 ;本国(出立準備中)
*以上8個大隊はラングル攻囲に使用される予定でした。予備第33大隊は2月1日に本国を出立したため現在地がありません。
○後備第51「ニーダーシュレジエン第4」連隊・ミュンスターベルク後備大隊(現・ポーランド、ヴロツワフ南のジェンビツェ) ;トゥール
*1月22日ロートリンゲン総督府に到着、2月2日にランス総督府へ異動しました。
○予備驃騎兵第4連隊
・連隊本部 ;ナンシー
・第1中隊 ;エピナル
・第2中隊 ;リュネヴィル、シャルム=ラ=コート(ナンシー西)、エピナル
・第3中隊 ;ナンシー、ヌシャトー
・第4中隊 ;ショーモン
○驃騎兵第5「ポンメルン」連隊・守備中隊
;ブズール、ポール=シュル=ソーヌ、サン=ルー=シュル=スムーズ、エルティニー
○第7軍団予備驃騎兵中隊 ;ブリエ、ベルダン
○槍騎兵第9「ポンメルン第2」連隊・守備中隊 ;バール=ル=デュク、コメルシー、ヴォワ=ヴァコン
○野砲兵第7連隊・予備重砲中隊 ;エピナル
○野砲兵第8連隊・予備重砲中隊 ;ショーモン
○野砲兵第12連隊・予備軽砲中隊 ;ル=メニル=シュル=オジェ(ランス南)付近
*エピナルへ行軍中
○要塞砲兵第1連隊・第5中隊 ;ベルダン
○要塞砲兵第2連隊・第16中隊 ;モンティニー
○要塞砲兵第7連隊・第5中隊 ;ベルダン
○要塞砲兵第7連隊・第10中隊 ;トゥール
○要塞砲兵第7連隊・第16中隊 ;トゥール
○要塞工兵各分遣隊 ;トゥール、モンメディ、ベルダン
*詳細不明。想像するに諸要塞工兵中隊から抽出された分隊か小隊規模で各占領要塞の修繕や保守を行っていたものと思います。
*ロートリンゲン総督府総計:歩兵31個大隊と3個中隊・騎兵7個中隊・砲兵3個中隊・要塞砲兵5個中隊・要塞工兵若干
フォントネー=シュル=モセルで撮影された独軍後備隊
◎フォン・クレンスキー支隊所属部隊
(旧・ロンウィー攻囲兵団。フォン・マントイフェル騎兵大将指揮下でラングルを攻囲する予定でした)
○後備第9「擲弾兵ポンメルン第2」連隊・シヴェルバイン後備大隊(現・ポーランド、シュチェチン北東のシフィドビン)
○後備第9連隊・ケスリン後備大隊(現・ポーランド、シュチェチン北東のコシャリン)
○後備第13連隊・ミュンスター後備大隊(ドルトムント北)
○後備第59「ポーゼン第4」連隊・オストロヴォ後備大隊(現・ポーランド、グダニスク北のオストロボ)
○後備第63連隊・オッペルン後備大隊(現・ポーランド、ヴロツワフ南東のオポーレ)
○予備後備第34大隊
○予備重騎兵第2連隊・第3,4中隊
○野砲兵第11連隊・予備軽砲第1,3中隊
○近衛要塞砲兵第2,4,5,13中隊
○要塞砲兵第4連隊・第13中隊
○要塞砲兵第8連隊・第14中隊
○第2軍団要塞工兵第3中隊
○第9軍団要塞工兵第1,3中隊
*クレンスキー支隊総計:歩兵6個大隊・騎兵2個中隊・砲兵2個中隊・要塞砲兵6個中隊・要塞工兵3個中隊
*すべてコメルシーとその周辺を通過・行軍中。ロンウィー要塞の顛末で後述します。
◎ランス総督府所属部隊
■後備第2師団
○師団司令部 ;ランス
□後備第3旅団
○旅団司令部 ;ランス
◇後備混成第8「擲弾兵ブランデンブルク第1・親衛」、第48「ブランデンブルク第5」連隊
○連隊本部 ;ソアソン
○フランクフルト・アン・デア・オーデル後備大隊 ;ランス
○キュシュトリン後備大隊(ベルリン東・国境のキュシュトリン=キーツ) ;ランス、シャトー=ティエリ
○ランツベルク後備大隊(ライプツィヒ北西) ;ソアソン、ブレーヌ(ソアソン東)
○ヴァルデンブルク後備大隊(ライプツィヒ南) ;ラン(Laon)、テルニエ(サン=カンタン南)
◇後備混成第12「擲弾兵ブランデンブルク第2」、第52連隊
○連隊本部 ;セダン
○クロッセン後備大隊(ベルリン南) ;ランス、トロア
○ゾーラウ後備大隊(現・ポーランド、ドレスデン北東国境のジャリ) ;カリニャン(セダン南東)、セダン、ヴージエ、ルテル(ランス北東)
○ルビン後備大隊(ベルリン南南東・ドレスデン北) ;ロクロワ(メジエール北西・ベルギー国境)、セダン
○コットブス後備大隊(ドレスデン北北東) ;ランス、ムールムロン=レ=グラン(シャロン=アン=シャンパーニュ北)、バザンクール(ランス北東)
□後備第4旅団
○旅団司令部 ;ランス
◇後備混成第20「ブランデンブルク第3」、第60連隊
○連隊本部 ;エペルネー
○ポツダム後備大隊(ベルリン南西) ;エペルネー
○ユーターボーク後備大隊(ベルリン南南西) ;ドルマン
○ノイシュタット・エーバースヴァルデ後備大隊(ベルリン北東のエーバースヴァルデ) ;エペルネー、フィム(ランス西北西)、ブレーム(ヴィトリー=ル=フランソワ東)
○テルトー後備大隊(ポツダム東) ;シャトー=ティエリ
◇後備混成第24「ブランデンブルク第4」、第64「ブランデンブルク第8」連隊
○連隊本部 ;ランス
○ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル後備大隊(ポツダム西) ;トロア
○ハーフェルベルク後備大隊(ベルリン北西) ;シャロン=アン=シャンパーニュ
○ルピーン後備大隊(ハーフェルベルク東ノイルピーンを中心とした郡) ;ヴィトリー=ル=フランソワ
○プレンツラウ後備大隊(シュチェチン西南西) ;バル=シュル=セーヌ(トロア南東)、ミュシー=シュル=セーヌ(シャティヨン=シュル=セーヌ北)
○後備第2「擲弾兵ポンメルン第1」連隊・アンクラム後備大隊(プレンツラウ北) ;ラ・フェール
○後備第11連隊・グラッツ後備大隊(現・ポーランド、チェコのフラデツクラーロベー/ケーニヒグレーツ東のクウォツコ) ;セダン、ロノア=シュル=ヴォンス(メジエール南西)
○後備第51連隊・ブリーグ後備大隊(現・ポーランド、ヴロツワフ南東のブジェク) ;シャルルヴィル、メジエール
○予備猟兵第2大隊 ;エペルネー、ラ・シャペル=サン=リュック(トロア北西郊外)
*同大隊第2中隊は2月上旬にランス(又はコンデ)へ向け出立しました。
○槍騎兵第1「ヴェストプロイセン」連隊・第1中隊 ;セダン、メジエール、ロクロワ
○予備重騎兵第1連隊
・連隊本部 ;ランス
・第1中隊 ;ランス
・第2中隊 ;ムールムロン=レ=グランとその周辺
・第3中隊 ;フィム、ソアソン、ラン(Laon)、ラ・フェール
・第4中隊 ;エペルネー、シャロン=アン=シャンパーニュ、ヴィトリー=ル=フランソワ、トロア
○混成要塞砲兵第10「大隊」
・本部、予備重砲中隊 ;ランス
・予備軽砲第1中隊 ;ランス、トロア
・予備軽砲第2中隊 ;ランス、エペルネー
*エペルネーの1個小隊(2門)は、ランスに向かい行軍中です。
○要塞砲兵第2連隊・第3中隊 ;ラン(Laon)、ラ・フェール
○要塞砲兵第2連隊・第15中隊 ;セダン、ロクロワ
○要塞砲兵第5連隊・第5中隊 ;ソアソン
○要塞砲兵第7連隊・第4中隊 ;メジエール
○要塞砲兵第8連隊・第7中隊 ;メジエール
○要塞砲兵第10「大隊」・第7中隊 ;セダン
○要塞砲兵第11「大隊」・第7中隊 ;メジエール
○B砲兵第2連隊・要塞砲兵第2中隊 ;セダン
○第7軍団要塞工兵第3中隊 ;セダン、メジエール
○第9軍団要塞工兵第2中隊 ;ラ・フェール
*ランス総督府総計:歩兵20個大隊・騎兵5個中隊・砲兵3個中隊・要塞砲兵8個中隊・要塞工兵2個中隊
牛を徴発し喜ぶ独兵
◎メッス総督府所属部隊
*メッス総督府は野戦軍(第7軍団)から引き継ぐメッス、ティオンヴィル両要塞の警備とザールブリュッケン~メッスまでの兵站路に鉄道警備、ティオンヴィルからロンウィーまでの仏ル国境地域警備等のため11月27日に新設されました。メッスが独領となる事が決定的となったための布石(メッス、ティオンヴィルは新たな独仏国境の独側要衝となります)と見る事も出来ましょう(後述します)。
○第9連隊・補充兵大隊
○第13連隊・補充兵大隊
○第14「ポンメルン第3」連隊・補充兵大隊
○第17連隊・補充兵大隊
○第25連隊・補充兵大隊
○第30連隊・補充兵大隊
○第85連隊・補充兵大隊
○第92「ブラウンシュヴァイク」連隊・補充兵大隊
*以上8個大隊はメッス要塞駐屯
○後備第6連隊・ゲルリッツ後備大隊(ドレスデン東、国境の街) ;メッス
○後備第18「ポーゼン第1」連隊・ポーゼン後備大隊(現・ポーランドのポズナン) ;メッス
○後備第58「ポーゼン第3」連隊・ノイトミスル後備大隊(現・ポーランド、ポズナン西のノビ・トミシル) ;ティオンヴィル(独名ディーデンフォーフェン)
○後備第58連隊・コステン後備大隊(現・ポーランド、ポズナン南西のコシチャン) ;ザールブリュッケン~メッス鉄道沿線
◇後備混成第19「ポーゼン第2」、第59連隊 *連隊本部なし
○ノイシュタット・アン・デア・ヴァルテ後備大隊(現・ポーランド、ポズナン南東のノベ・ミアスト・ナト・バルトン) ;ティオンヴィル
○シュリンム後備大隊(現・ポーランド、ポズナン南のシレム) ;ロンウィー
○ラヴィッツ後備大隊(現・ポーランド、ヴロツワフ北のラビチ) ;ロンウィー
○予備重騎兵第2連隊・第1中隊 ;メッス
○予備重騎兵第2連隊・第2中隊 ;メッス
○野砲兵第11連隊・予備軽砲第2中隊 ;メッス
○要塞砲兵第1連隊・第4,7,9,10中隊 ;メッス
○要塞砲兵第2連隊・第5中隊 ;メッス
○要塞砲兵第7連隊・第7中隊 ;ロンウィー
○要塞砲兵第7連隊・第15中隊 ;メッス
○要塞砲兵第9「大隊」・第1中隊 ;メッス
○要塞砲兵第9「大隊」・第5中隊 ;メッス
○要塞砲兵第11「大隊」・第6中隊 ;ティオンヴィル
○第1軍団要塞工兵第2中隊 ;メッス、ティオンヴィル、ロンウィー
○第3軍団要塞工兵第1中隊 ;メッス
*メッス総督府総計:歩兵15個大隊・騎兵2個中隊・砲兵1個中隊・要塞砲兵10個中隊・要塞工兵2個中隊
※後方兵站警備部隊兵力総計
歩兵124個大隊と2個中隊・騎兵42個中隊・砲兵13個中隊・要塞砲兵39個中隊・工兵15個中隊
独軍の予備驃騎兵(第3連隊)




