南軍の後方連絡とファルスブール要塞
☆ 休戦までのラングル要塞周辺
既述通りフォン・ヴェルダー将軍が仏東部軍のベルフォール救援を確信してディジョン放棄を決定し東へ軍団を動かせた時、ラングルを攻囲しようとしていたフォン・デア・ゴルツ兵団もまた第14軍団に召還されました。
この時点でラングル要塞は守備隊が16,000名に達しており、司令官も1月初旬にアルベロ准将からメイエレ准将に交代しています。
メイエレ准将はフォン・デア・ゴルツ兵団による攻囲準備が行われている間は大きく動くことはせずにいましたが、要塞周辺から目立つ独軍部隊が消えたとの報告に外部への遊撃を考え始めました。
この出撃は最初こそ監視に残った後備諸隊を驚かす程度のものでしたが、次第に積極さを増して1月11日の夜にはクルバン(シャティヨン=シュル=セーヌの北東13.5キロ)付近でショーモン~シャティヨン=シュル=セーヌ鉄道の破壊工作を試み、一部線路を外して独の糧食運搬列車を脱線させています。
しかしこの1月中旬は、フォン・マントイフェル将軍の南軍本隊が始動しラングル方面にも監視隊を置いていた頃で、ラングル守備隊も遊撃隊を繰り出しては独の監視隊に見つかって蹴散らされることを繰り返していました(「独南軍・壮絶な行軍の始まり」を参照ください)。1月16から17日に掛けて独軍がショーモンとフランからロランポン(ラングルの北北西10.2キロ)に向けて偵察行に及んだ時も、仏軍は微弱な兵力で短時間抵抗しただけで要塞方面へ後退しています。
※1月17日・ロランポンへ威力偵察に出た独後備部隊
○ボーテン後備大隊
○ドイツ後備大隊
○ザクセン王国守備第4大隊・第2中隊
○予備驃騎兵第4連隊・第4中隊の1個小隊
少々遡って1月上旬。
ラングル要塞の北方にいた義勇兵の数個集団は要塞からの後援(補給など)を受けて活発に行動しており、ロートリンゲン総督府はこの義勇兵に対抗するため、比較的薄かったヌシャトー(ショーモンの北東49キロ)の兵力を強化することを決しました。
※1月初旬におけるヌシャトー守備隊と以降強化された増援諸隊
◇従来の守備隊
○ドイツ後備大隊・第5中隊
○第10軍団の回復期患者による傷病兵隊(300~400人規模)
○予備驃騎兵第4連隊・第3中隊の1個小隊
◇増強諸隊(それまで第14軍団の後方連絡線を守備していました)
○予備猟兵第1大隊・第2,3中隊
○予備驃騎兵第4連隊・第2中隊の1個小隊
この後、リゼーヌ河畔の会戦でヴェルダー第14軍団が勝利し攻勢に転じ再び西へ行軍を開始すると、ロートリンゲン総督府でもラングル要塞と周辺の義勇兵に対し攻勢に出ることを考え、総督フォン・ボニン将軍はヌシャトーの指揮官アーダルベルト・コンスタンティン・フォン・ドブシッュツ中佐に対しラングル方面への出撃を命じます。
中佐は1月20日、守備隊(ほぼ全力)を直率して先ずはブルモン(ヌシャトーの南南西19.6キロ)へ進みました。
ドブシュッツ
※1月20日・ヌシャトー守備隊の出撃
○予備猟兵第1大隊・第2,3中隊
○ドイツ後備大隊・第5中隊
○予備驃騎兵第4連隊・第2,3中隊の各1個小隊
翌21日に支隊はラマルシュ(ラングルの北東40.5キロ)を目指しますが、道中のヴレクール(ラマルシュの北北西13キロ)南西1.5キロにある小林(現存します)で南仏ガール県(県都ニーム。マルセイユの西、ローム河口に近い場所です)の護国軍大隊と遭遇し戦闘に至りました。
この時、予備猟兵両中隊は後備兵の援護射撃を貰い銃撃しつつ断固として前進し、気迫に押された仏護国軍将兵は次第に壊乱して多くがヴレクール(北東)へと逃走し、南方へ逃れた一部は驃騎兵がこれを追って駆逐するか捕縛するのでした。
ドブシュッツ中佐はそのまま部下と共にヴレクールへ前進しますが敵の抵抗は弱く、街は中佐らによる一回の突撃により占領されます。仏軍は損害を受けつつ北方の山中へ逃げ込み姿を消しました。ドブシッュツ中佐はこれ以上無理をせずこの21日夜までにヌシャトーへ帰還しました。
この日の独軍損害は戦死3名・負傷6名・行方不明1名(馬匹損失7頭)と軽微で、仏軍は士官1名を含む41名の死傷と無傷の捕虜56名を出しています。
ヴレクール(20世紀初頭)
ドブシッュツ中佐はその後も休戦に至るまで何度か出撃を繰り返しますが目立つ成果はありませんでした。森林地帯故に義勇兵たちも逃げることが容易で尻尾を掴ませないということでしたが、独軍としては義勇兵の襲撃を潰すという目的はしっかりと達成するのでした。
1月27日には前述のヘンゼル中佐支隊の一部が2個縦隊でノジャン・ル・ロワとロランポンへ向かい、この道中仏の警戒隊数個を駆逐し要塞へ追い払いました。損害は負傷1名・行方不明1名と軽微です。
※1月27日のヘンゼル支隊出撃
*ノジャン・ル・ロワへ向かった縦隊(グリューナー少佐指揮)
○ローゼンベルク後備大隊
○予備驃騎兵第4連隊・第4中隊の1個小隊
*ロランポンへ向かった縦隊(ガイベル少佐指揮)
○ボーテン後備大隊
以下28日に遅れて到着
○予備驃騎兵第4連隊・第4中隊の1個小隊
○野砲兵第8連隊・予備重砲中隊
ベルサイユ大本営としてもラングル要塞を何とかしようとその後も動いており、南軍が仏東部軍をほぼ「詰み」の状態としたことでマントイフェル将軍指揮によるラングル攻略を計画しましたが、既述通りこの命令が形になる前に休戦を迎えています(「ドゥー、ジュラ、コート=ドール三県の占領(2月3日から14日)」を参照下さい)。
このため、ラングルもまたブザンソン同様対敵行動禁止の仏軍保有地域となったのでした。
ラングル(20世紀初頭)
☆ 第14軍団の後方連絡
ラングル要塞の東側には、10月上旬以来ヴォージュ県とオート=ソーヌ県そしてコート=ドール県へ侵入した独第14軍団の後方連絡線がありました。この兵站路守備には11月一杯、サン=ルー=シュル=スムーズ(ブズールの北北東30.4キロ)まではロートリンゲン総督府がこれを担当して、この街以南を第14軍団自身が担当します。
12月上旬。第14軍団長フォン・ヴェルダー将軍は麾下主力をディジョンに集中させますが、手薄となったオート=ソーヌ県内の後方連絡線警備はロートリンゲン総督府・エピナル兵站監のフォン・シュミーデン大佐に任され、大佐はブザンソンの仏軍(仏海軍ロラン准将指揮)を警戒してブズールを占領しました。
※12月9日時点・ロートリンゲン総督府所属部隊の第14軍団後方連絡線警備に当たった諸隊
*ダムルヴィエール(旧名ブランヴィル=グランド。ナンシーの南東21.3キロ)とロジエール=オー=サリーヌ(ダムルヴィエールの北西5.8キロ)に駐屯
○ノイス後備大隊(デュッセルドルフのライン対岸)・第5中隊
*バイヨン(ダムルヴィエールの南西10.4キロ)、シャルム(バイヨンの南11.8キロ)、シャテル=シュル=モセル(シャルムの南東9.9キロ)、ミルクール(同南西14.1キロ)に駐屯
○デュッセルドルフ後備大隊・第1,2,5中隊
*エピナル駐屯
○ザクセン王国守備第1大隊・第2中隊
○オイペン後備大隊・第5中隊(現・ベルギー「ドイツ語共同体」首府)
○驃騎兵第5「ポンメルン」連隊・守備中隊(正規連隊の後備部隊)半数
*エルティニー駐屯(高架橋修繕工事護衛兼務)
○予備猟兵第1大隊・第2中隊の半数
*サン=ルー=シュル=スムーズ駐屯
○ヴュルテンブルク王国歩兵第4連隊・第5,6,8中隊(正規軍。ヴュルテンブルク軍には後備に相当する部隊がありません)
*ブズール駐屯
○オイペン後備大隊・第1,2,3,4,6中隊
○野砲兵第7連隊・予備重砲中隊の2個小隊(4門)
*ラマルシュ(エピナルの西方45キロ周辺)地方は後述
12月2日。副曹長に率いられたデュッセルドルフ後備大隊の兵士15名は、戦時占領税を徴収するためヴィッテル(ヌシャトーの南東25.5キロ)に向かいますが、その道中義勇兵に奇襲され兵士1名が戦死し残りは捕らえられてしまいました。
ロートリンゲン総督府は12月6日、義勇兵討伐のために予備猟兵第1大隊長のフォン・パツィンスキー・ウント・テンツェン少佐に一支隊を預け、エピナルよりラマルシュ地方へ送ります。
※12月6日・ラマルシュ地方に派遣されたパツィンスキー=テンツェン隊
*エピナルより
○予備猟兵第1大隊・第1,3,4中隊
○驃騎兵第5連隊・守備中隊半数
○野砲兵第7連隊・予備重砲中隊の1個小隊(2門)
*エルティニーより
○予備猟兵第1大隊・第2中隊の半数
*ミルクールより(7日に合流)
○デュッセルドルフ後備大隊・第4中隊
パツィンスキー=テンツェン隊の予備猟兵第1大隊第1中隊は9日朝、ドンブロ=ル=セック(ヴィッテルの南南西6.7キロ)で義勇兵中隊(約150名)に襲撃され本格戦闘となります。
この仏軍は神出鬼没・勇猛果敢で名を成した義勇兵集団・ヴォージュ猟兵隊の一部で、ベルナール大尉に率いられ11月中旬以降ラマルシュ地方を策源地として活動していた隊で、ラングル要塞とは直接関係していない「一匹狼」の部隊でした。
この襲撃に対し予備猟兵を率いていた男爵ヘルマン・カール・エルンスト・モーリッツ・フォン・ヴェルツェク大尉(近衛猟兵大隊から異動しています)は落ち着いて部下を掌握し反撃、次第に義勇兵を圧倒して遁走させました。予備猟兵の損害は負傷6名と記録されます。
パツィンスキー=テンツェン隊は他にも軽微な遭遇戦を経て11日にラマルシュに到達し、周辺を捜索・威圧した後に14日エピナルへ帰還しました。以降終戦までこの地方は平穏となったのです。
フォン・シュミーデン大佐の兵站守備隊は1月中旬までに順次増強されますが、12月末にブズールからポート=シュル=ソーヌ(ブズールの北西11.2キロ)に派遣したオイペン後備大隊長フォン・シャック少佐率いる支隊*は1月初旬、第14軍団に臨時配属され、そのままリゼーヌ川の戦いに参加することとなりました(「ニュイの戦い以降の第14軍団(12月19日~1月5日)」他を参照下さい)。
※ポート=シュル=ソーヌにあったフォン・シャック支隊
○オイペン後備大隊(6個中隊制)
○予備驃騎兵第4連隊・第1中隊
○野砲兵第7連隊・予備重砲中隊
☆ リゼーヌ河畔の戦い前後の南軍兵站線事情
ブルバキ将軍率いる仏東部軍がブザンソンからベルフォール方向へ進撃を開始すると、ベルサイユ大本営は独軍の主要後方連絡がブルバキ軍によってズタズタにされる恐れが出たことを憂慮し、1月6日、第2軍団と第7軍団に対してニュイ(=シュル=アルマンソン)方面へ移動し集合せよと命じ、ロートリンゲン総督府とエルザス総督府にも命令を送り、ロートリンゲン総督には各兵站地に分散配置している兵站守備諸隊を集合させるよう、アルザス総督にはフォン・ヴェルダー将軍とその軍団の背後において占領地住民が蜂起しないよう監視するように、また両総督府には仏軍進路上にある鉄道の破壊準備をなすよう命じるのでした。
※1871年1月6日ロートリンゲン総督に与える大本営命令(同様の命令がエルザス総督にも送付されました)
「ベルサイユ大本営に於いて 1871年1月6日
ロートリンゲン総督 歩兵大将フォン・ボニン閣下
フォン・ヴェルダー歩兵大将の報告によればかなり優勢となる敵軍が集合しベルフォールを救援し我が軍の後方連絡を長く遮断することを狙っている模様である。
この敵軍の行動を抑止するため第7軍団は既に歩兵31個大隊によりシャティヨン=シュル=セーヌ付近に集合するべく、また場合に因って第2軍団をもこれに増加する予定である。しかし、この兵力展開前に敵軍が我が軍の主要なる後方連絡を襲うことも考えられるため、閣下は各兵站要地に点在する所属諸隊を集合させ敵軍の前進を厳に監視し同時にトゥールを奪還されぬよう守備しておくことをお願いする。敵軍は編成不十分にして殆ど糧食と弾薬縦列を随行していないことが(情報から)明らかであり、その作戦のためには常に鉄道を利用するしかない。従ってその鉄道を適宜破壊すれば例え敵軍の前進を阻害することとならなくとも必ず重大な遅延を発生させることが出来るはずである。
よって閣下は、ラングル~ショーモン鉄道線及びサン=ルー=シュル=スムーズ~エピナル鉄道線を数ヶ所で破壊する準備を行い、もし敵軍がこれに迫り破壊することとなった場合には、その破壊は修理に要する時間を8日以上14日以下とする程度にお願いしたい。
但し、サン=ルー=シュル=スムーズ~エピナル鉄道線に関しては爆破されたアイユヴィエ(=エ=リオモン。サン=ルーの北東6.1キロ。「11月以降の後方連絡線・鉄道線の補修と延伸(後)」を参照下さい)の鉄道橋修理に着手する前に敵軍が来襲した場合、運搬し蓄積した修繕木材料を鉄道によって適宜後送するだけで足りるはずである。
伯爵モルトケ(筆者意訳)」
大本営から指令を受けた直後、エルザス総督の伯爵フリードリヒ・テオドール・アレクサンダー・フォン・ビスマルク=ボーレン中将は、総督府管内南部において守備隊を増員しヴォージュ山脈内の山道を特に警戒するよう指令を送りました。
※1月8日時点・エルザス総督府所属部隊の配置
*ストラスブール
歩兵6個大隊・騎兵半個中隊・砲兵1個中隊
*セレスタ
歩兵1個大隊
*ヌフ=ブリザック
歩兵半個大隊
*上アルザス(オ=ラン県) とミュルーズ
歩兵5個大隊半・騎兵3個中隊・砲兵1個中隊
*ストラスブール西方~セレスタ西方のヴォージュ山脈内諸山道
歩兵1個大隊半・騎兵半個中隊
*ヴァイセンブルク~ヴァンデンハイム~アヴリクール(ストラスブールの西70キロ)線 沿線
歩兵5個大隊・騎兵2個中隊
*アグノー~サルグミーヌ鉄道沿線とビッチュ要塞周辺
歩兵3個大隊半・騎兵1個中隊と4分の3個中隊
*兵站拠点サール=ユニオン(サルグミーヌの南19キロ)、マルサル(サール=ユニオンの南西39キロ)、シャトー=サラン(マルサルの北西8.2キロ)
歩兵半個大隊 騎兵半個中隊
*総計 歩兵23個大隊と4分の1・騎兵8個中隊と4分の1・砲兵2個中隊
*1870年9月30日・ストラスブルク(ストラスブール)要塞総督に元陸軍士官学校長で前コブレンツ要塞司令のルドルフ・カール・フォン・オレッヒ中将が任命されます。
*エルザス総督府は12月下旬と1月上旬に本国より補充兵大隊10個を受け取りますが、後備歩兵8個大隊・騎兵2個中隊、砲兵2個中隊をフォン・デブシッツ少将の指揮下、ベルフォール攻囲兵団に送り出しました。
オレッヒ
仏東部軍がベルフォール救援に前進すると、ブズール周辺に潜んで機会を窺っていた義勇兵と、同じく周囲の独兵の様子を観察していたラングル守備隊は、リュクスイユ=レ=バン~サン=ルー=シュル=スムーズ間の鉄道を狙って出撃します。
1月16日の夕刻。サン=ルー守備のヴュルテンブルク軍歩兵1個中隊は仏の優勢な義勇兵集団に襲撃されプロンビエール=レ=バン(サン=ルーの北東16.5キロ)方向へ逃れますが、義勇兵は各地から湧き出すように現れ、独軍は結局リュクスイユ=レ=バンも放棄する羽目となりこれら各地にあった兵站諸隊はエルティニーへ撤退しました。ヴュルテンブルク軍の損害は、戦死2名・負傷2名・捕虜14名でした。
※1月15日時点・エピナル~ブズール鉄道の兵站守備隊配置
*エルティニー
○ザクセン守備歩兵第2大隊・第2,3中隊
○驃騎兵第5連隊・守備中隊の半数
*リュクスイユ=レ=バン
○ヴュルテンブルク歩兵第4連隊・第6,8中隊
○予備驃騎兵第4連隊・第1中隊
*サン=ルー=シュル=スムーズ
○ヴュルテンブルク歩兵第4連隊・第5中隊
*アイユヴィエ(=エ=リオモン)
○ザクセン守備歩兵第2大隊の50名
*プロンビエール=レ=バン
○ザクセン守備歩兵第2大隊・第1,4中隊
エルティニーの教会
兵站路の南部を侵されたエピナル兵站基地のフォン・シュミーデン大佐は1月17日、エピナルよりエルティニーへ歩兵2個中隊を送り、この地を防御拠点として歩兵9個中隊、騎兵1個半中隊を集中させ、義勇兵の襲撃に備えました。翌18日には歩兵2個中隊をアイユヴィエへ送りますが、19日にアイユヴィエ付近に義勇兵の大集団が現れたため、この独軍両中隊はエルティニーへ後退しました。
このまま押され続ければ第14軍団の兵站線は完全に分断されてしまうところでしたが、この時、当の第14軍団はリゼーヌ河畔の戦いに勝利し、同時にマントイフェル将軍麾下の南軍もソーヌ川を越えブズールに迫ったため義勇兵も姿を消し、シュミーデン大佐麾下も21日にサン=ルーを奪還、22日にはリュールに入りブズールに向け進撃中の第14軍団最右翼にあったフォン・ヴィリゼン大佐支隊と連絡を通すのでした。
翌23日にブズールは奪還され、これでエピナル~ブズール間の兵站路は完全に復活するのです。
この後方連絡・兵站線はこれ以降、第14軍団のみならずドゥー河畔に至った南軍本隊にも利用されることとなり、2月上旬にはフレンヌ=サン=マメス(グレーの北東23.2キロ)以南は南軍自体が兵站路を守備することとなるのでした。
この当時、ニュイ(=シュル=アルマンソン)~ディジョン鉄道は男爵フォン・ケットラー将軍の旅団(第4師団第8旅団)が守備していましたが、ブッフォン付近の橋梁守備にあった衛所隊が2月2日にモンバールへ動くやガルバルディ将軍麾下の一隊が翌3日朝、この橋梁を爆破してしまいました。しかし、この後、南軍はこの鉄道線復旧を計画し兵站守備を強化しています。
☆ ファルスブール要塞の顛末
中央連絡線は南方連絡線より義勇兵の出現も少なく、正に独軍の「生命線」だったため後方守備も多く、ヴァイセンブルク又はストラスブール~ヴァンデンハイム~ナンシー~ショーモンの鉄道両側には強力な兵站守備隊が展開していました。
ストラスブールとナンシーの間には中世来多くの要塞都市や城塞が築かれ、この19世紀となっても独仏間に確執が残っていたため国境からナンシー~ラングルを結ぶ線までの間には多くの要塞や城塞が現役として存在しています(これは後に有名なマジノ線の南方部分となりました)。普仏戦争でも緒戦の勝利で独軍がパリを目指して急進撃したため、大小様々な要塞や城塞が攻略されぬまま取り残されますが、ビッチュのような後方連絡から離れた場所ならともかく、ファルスブール(独名パルツブルク)やサヴェルヌ(同ツァベルン)、サルブール(同ザールブルク)のような後方連絡上や至近にある要塞や城壁に囲まれた市街は独軍にとって大いに邪魔者で、特にその守備隊がしっかりと護っていた場合には貴重な野戦戦力や多方面で必要とされる後方予備・兵站路守備部隊を使用して包囲・投降を呼びかけねばなりませんでした。幸いにもサヴェルヌやサルブールにはヴルトの戦い敗戦による仏マクマオン軍の急速退却行による影響で碌な守備隊が残らず、簡単に陥落(サヴェルヌは1870年8月8日、サルブールは同月12日)しましたが、ビッチュ、ファルスブール両要塞守備隊は頑固でしっかりとした指揮官に率いられ抵抗を続けていたのです(9月までのビッチュ、ファルスブール等の様子は「独第三軍ナンシーへ(前・後)」「セダン会戦までの独軍後方事情・独第三軍の後方連絡(前・後)」を参照願います)。
8月31日。既述通り独軍包囲陣はファルスブールを野砲で砲撃しますが要塞は全くびくともせず、包囲を担当するエアフルト後備大隊長のフォン・ギーゼ少佐は9月3日、セダン陥落の第一報を受けて要塞指揮官のピエール・アンドレ・テーラン少佐に対し降伏勧告(都合三回目)を行ったものの「信用ならず」と拒絶されてしまいます。
テーラン少佐は9月13日の深夜、一大出撃に及び、500名からなる一隊は包囲網拠点の一つビュシュルベール(要塞の北2キロ)を襲い、抵抗した警戒の哨兵を撃退すると部落に侵入し、部落守備のゾンダースハウゼン後備大隊第1中隊と戦闘に至りました。しかし、独後備兵は素早く集合すると倍近い仏軍を押しまくり、少時で仏軍は要塞へ撤退するのでした。
ファルスブール(フランス門)
※9月3日時点の独アルザス総督府ファルスブール包囲諸隊
指揮官 ヘルマン・フィリップ・フォン・ギーゼ少佐
◇後備第31/第71連隊*
○エアフルト後備大隊(チューリンゲン州都/フォン・ギーゼ少佐)
○ゾンダースハウゼン後備大隊(ライプツィヒの西104キロ/ヘス大尉)
○ザンガーハウゼン後備大隊(ゾンダースハウゼンの北東31.7キロ/マイスナー大尉)
○予備竜騎兵第3連隊・第4中隊
○野砲兵第8連隊・予備軽砲第2中隊
*この後備連隊は、第三軍の兵站総監部所属として8月13~15日に掛けて国境を越え、そのままファルスブール包囲に参加しました。9月23日に連隊は正式にエルザス総督府傘下となり、12月14日、ザンガーハウゼン後備大隊のみ第三軍兵站総監部に再び所属変更となっています。当初連隊本部は存在せず11月26日にようやくフォン・ダウム大佐が連隊長に任命され12月1日から31日まで1ヶ月だけ(形だけ)指揮を執ったものの、大佐は年が変わるとフォン・デブシッツ少将の支隊(ベルフォール攻囲)に招聘され、連隊を去ります。結局連隊としては一度として一緒に行動することはありませんでした。
ファルスブール要塞周辺には義勇兵中隊もまた多く潜んでおり、隙あらばと窺っていたため、包囲するギーゼ少佐等は背後にも注意を怠らず常に緊張状態に置かれるという状況で、しかも要塞には戦前から半年は十分に戦えるだけの砲弾・弾薬が備蓄されており、要塞は時折激しく包囲網を砲撃して来ました。このような状態は11月下旬まで続きますが、ギーゼ少佐らは包囲を緩めることなくテーラン少佐ら守備隊と「我慢比べ」を続けるのです。
この間の10月22日、予備竜騎兵第3連隊の第4中隊はバイエルン王国シュヴォーレゼー(軽)騎兵第6連隊の第4中隊と交代し、同月30日、包囲網では野砲兵第8連隊の予備軽砲第2中隊が野砲兵第2連隊の予備軽砲第1中隊と交代します。11月2日には先のバイエルン軽騎兵は同僚の第1中隊と交代します。
11月24日夕刻にはギーゼ少佐が動き、レ・バラック・デ・メーゾン(現・トロワ・メゾン。要塞の南2.3キロ)、キャトル=ヴァン(同東2.7キロ)、そしてフェッシュハイム(同北北西3.9キロ)の三方に野砲中隊の各1個小隊2門を配置させ要塞を砲撃しました。しかし要塞も素早く反応して対抗砲撃を行いますが、結局双方とも損害は軽微に終わりました。
12月4日になると包囲網に待望の増援が到着し、これはブレスラウ第2後備大隊の第3中隊(士官3名・下士官兵115名との記録が残り、当時の後備中隊兵員実数が定員200名の6割に満たなかったことが忍ばれます)とバイエルン第4連隊第12中隊でした。
流石に包囲も8月から4ヶ月に達し、要塞では備蓄された糧食も底を突き始め、更に厳しい冬の到来で寒気も本格的になったことにより住民や兵員の健康状態が悪化、加えて天然痘が流行し(これは独軍も一緒)当時は種痘も一般化していましたが包囲下では防疫も治療もままなりませんでした。11月30日、薄々事情に感付いたギーゼ少佐は再びテーラン少佐に降伏勧告を発し、まずは会談を求めました。それまで話し合いを断固拒否していたテーラン少佐もこの時は会談を承諾しますが、あくまで無条件降伏を主張するギーゼ少佐にテーラン少佐は交渉打ち切りを告げ席を蹴ってしまいます。しかし要塞内部では守備隊将兵が心身共に限界を超えており、12月12日、遂にテーラン少佐はギーゼ少佐に対し自ら無条件降伏を申し入れたのでした。
ギーゼ少佐は12月14日、部下と共に要塞へ入城します。ところが少佐らが鹵獲物品を調べたところ、火薬庫は注水され深く水没した弾薬は使い物にならず、打ち捨てられた小銃もまた殆どが再使用不可能なように破壊されていました。
テーラン少佐始め投降した将兵は例外なく全員捕虜(降伏時に納めるはずの武器を棄損したことで怒った独軍が士官も特別扱いを認めなかったということでしょう)となり、その数は士官52名、下士官兵838名を数えます。要塞砲もまた火門に大釘を打ち込まれて使用不能となっており、その数は65門に及びました(一部は修繕し再利用されます)。これ以降、全面休戦(2月中旬)までファルスブールは後備歩兵2個中隊によって警備されることとなりました。
ファルスブール要塞の攻囲は1870年8月12日~12月14日と長期に渡りますが、その間の独軍損害は、戦死8名・負傷39名・行方不明(多くが捕虜)5名、計52名ですが、天然痘など疫病や長期に渡る包囲で避けられない疾病や負傷もこの数倍あると思われます。仏軍の損害は先の捕虜以外不詳です。
ファルスブール(中心街)




