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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・11月以降の後方連絡線
507/534

第二軍兵站総監部(後)


☆ 第二軍兵站総監部の出来事(11月から1月)


 12月3日。第3軍団第6師団傘下、フュージリア第35「ブランデンブルク」連隊・補充兵大隊のリヒャルト・ヨハン・フォン・ビショフスハウゼン中尉は、補充兵152名を引き連れて本隊を追い、ヨンヌ河畔のサンスからロワン河畔のヌムールへ向かっていました。しかし途上で道に迷い、間違ってクルトネに向かって(西へ向かうところを南西へ)進んでしまい、この3日夜は仕方なく予定にはなかったエグリセル=ル=ボカージュ(サンスの南西11.4キロ)で宿営を得ました。

 ところが夜半時、「逸れた微少な独軍部隊がいる」との情報を聞き付けた約170名の義勇兵中隊が部落を襲い、独兵たちは辛くも教会に集合し抵抗しますが、義勇兵は教会に火を放ち炙り出す作戦に出ました。しかし独兵たちも粘って猛烈な銃撃を義勇兵に浴びせ、我慢出来ずに義勇兵たちは銃弾を避け遠巻きに引き下がります。独兵は消火活動を行いながら教会を離れませんでしたが、夜明け前に火勢が強まったため消し止めることは不可能となり、彼らは覚悟の上で教会を棄てました。これを見守っていた義勇兵は再び前進して攻撃を行いますが、独兵たちはこれを返り討ちにして撃退し、クルトネ方向へ逃げる義勇兵を少時追撃した後にサンスへ退却するのでした。

 ビショフスハウゼン中尉らは2名の捕虜を与えてしまいましたが、仏の義勇兵は指揮官1名・兵士12名の戦死者を遺棄して逃げ去ったのでした。


挿絵(By みてみん)

エグリセル= ル=ボカージュの教会


 第10軍団第20師団傘下、第56「ヴェストファーレン第7」連隊の一中隊長、ハンス・アレクサンダー・コンスタンティン・フォン・モンバルト大尉(当時普軍に同姓同階級が居たので軍の書類上「モンバルト第2号」と呼ばれました)は、11月28日の「ボーヌ=ラ=ロランドの戦い」において勇猛果敢なフォン・ヴァレンティーニ大佐指揮下で戦闘中、ジュランヴィルで右肩に銃弾を受け、ボーモン=デュ=ガティネ(ボーヌ=ラ=ロランドの北北東8.5キロ)の病院に収容されました。

 当時32歳になったばかりのモンバルト2号大尉は槍騎兵第4連隊長を務めた父を持ち、18歳で入隊すると第56連隊(旧・後備第16連隊)一筋で軍歴を重ね、普墺戦争でもミュンヘングレーツとケーニヒスグレーツの会戦で活躍、70年2月に大尉へ昇進し念願の中隊長となりました。普仏戦争でも同連隊の中隊長としてマルス=ラ=トゥール会戦に参加、左腕に榴散弾の破片を受け右脚も挫きましたが応急手当だけでグラヴロットでも戦い、メッスとティオンヴィルの包囲に参加していました。

 幸いにも順調に回復したモンバルト2号大尉は後数日で退院と言う12月11日、「独軍が去ったボーヌ=ラ=ロランドに仏軍が戻って来ている」との噂を聞き、同じ患者の中で行軍に耐える者20名を志願させ、ボーモン=デュ=ガティネの街を守っていた騎兵小隊から数名を借りるとボーヌ=ラ=ロランドの偵察を決行するのです。しかし、ボーヌの市街には確かに仏軍が居たものの、それは独軍に許された仏軍の軍医が仏将兵の負傷者を看ていた病院でした。安心した大尉でしたが、恐れ知らずの大尉はこれで満足するはずもなく、敵を追い求めて行軍を続行すると、15日にロワン河畔のモンタルジ(ボーヌ=ラ=ロランドの東南東24キロ)で義勇兵に遭遇し、数倍する敵にも怯むことなく直ちに攻撃して駆逐すると、この街に囚われていた独軍捕虜多数を奪還、鹵獲した武器や集めたドライゼ銃などで武装させ、回復した患者を含め250名の一隊を作って行軍し、そのままこれを第10軍団まで届けたのでした。大尉は直後に「本物の英雄」として第一級鉄十字章を受勲し連隊と共にル・マンまで進撃、会戦前後には同連隊第1大隊長代理を務め活躍しています(「ル・マンの戦い/1月11日(後)」後段を参照下さい)。


挿絵(By みてみん)

モンタルジ(20世紀初頭)


 このような事件が続く中、第二軍兵站総監部はヌムールとピティヴィエ(ヌムールの西南西34キロ)を経由して行軍を続け、12月14日にオルレアンに入りました。その麾下諸隊も順次追従して年末までにはブリノン=シュル=アルマンソン(サンスの南東33.6キロ)とエスティサック(トロアの西20.5キロ)からサンス~ヌムール~ピティヴィエ、そしてトゥーリー(ピティヴィエの西23.8キロ)へ通じる諸街道沿いに配備を完了するのでした。

 この配置に就いた兵站守備隊のうち、デトモルト後備大隊と予備驃騎兵第5連隊の第2中隊は別命を受け、12月24日にモンタルジに向かいます。これはヘッセン大公国騎兵旅団長の男爵ヘルマン・カール・ディートリヒ(フリードリヒ)・フォン・ランツァウ少将(普軍人)の支隊がモンタルジからブリアール(モンタルジの南39キロ)へ前進したための動きでした。

 

 12月7日。ベルサイユ大本営は「第二軍の兵站線が余りにも長くなり過ぎた」として、パリ南・西方包囲網の第三軍から兵站守備隊の後備5個大隊を引き抜き第二軍兵站総監部へ送ります。第三軍はこの頃、パリ東郊のラニー=シュル=マルヌに兵站基地を設け、兵站守備諸隊の任務は比較的楽になっていたからでした。但しその移動配置には時間が掛かり、結局全てが配置に就いた時には12月末になってしまいました。

 しかし第二軍兵站総監部はその引き換えにライン河畔のムラン(フォンティーヌブローの北15.2キロ)やフォンティーヌブロー、そしてモントローまでもが守備範囲に加えられてしまったのです。


※12月7日に第二軍兵站総監部へ異動となった後備大隊

◇後備混成歩兵第27「マグデブルク第2」・第67「マグデブルク第4」連隊

連隊長 アレクサンダー・ゲオルグ・フォン・ヒッパー大佐(~1/16)→代理/フォン・ハーゲン少佐

◯アッシャースレーベン後備大隊(ベルリンの南西158キロ/フォン・ツァルスコウスキー少佐)

◯ハレ後備大隊(アッシャースレーベンの南東46キロ/フォン・ハーゲン少佐→代理フォン・ケットラー大尉)

◯ビッターフェルト後備大隊(同東南東60キロ/フォン・ゲルター少佐)

◯トルガウ後備大隊(ビッターフェルトの東49キロ/男爵フォン・リンデマン少佐)

◇後備歩兵第31「チューリンゲン第1」連隊より

◯ミュールハウゼン後備大隊(ハレの西南西109キロ/ロッホス少佐)

*これら諸後備大隊は兵站・後方守備としての任務を受けるため6個中隊制となっています(最初から攻城や前線に向かう大隊は4個中隊)。但し一部例外で5個中隊と言う後備大隊も存在しました(後備混成第28・第68連隊の4大隊)。


 それ以前の11月上旬、第三軍兵站総監部はベルサイユ大本営から「第二軍が極力安全にロアール河畔へ至るようモレ~モントレー鉄道を敵の攻撃から守れ」との命を受け、予備竜騎兵第3連隊長のテューレ・エルンスト・グスタフ・フォン・クイレンスツェルナ少佐に強力な混成支隊*を預け出動させていました。


※11月初めにモントロー方面へ出撃したクイレンスツェルナ支隊

◯アッシャースレーベン後備大隊・第1,3,4,5,6中隊

○ハレ後備大隊・第5,6,7,9,10中隊*

○バイエルン王国後備第3連隊・第1,3中隊

○予備竜騎兵第3連隊

○ヴュルテンベルク王国砲兵連隊・4ポンド(軽)砲第8中隊(但し11月27日に師団へ帰隊)

*普軍後備大隊の中隊番号は必ずしも第1から始まりません。野戦(戦闘)用の後備大隊は第1~4か第5~8、後方(守備)用の後備大隊は第1~6か第7~12となりますが、このハレ大隊のように4個中隊制大隊との組み合わせで第5~10のような変則もありました(詳しくは「リゼーヌ河畔の戦い/1月15日(前)」の末尾をご覧ください)。


 クイレンスツェルナ少佐は行軍中幾度か義勇兵の小集団に遭遇しますが、その都度これを駆逐しつつ進み、11月2日から3日に掛けてムラン~フォンティーヌブロー、そしてモントローとモレを確保します。但し既述通りモントロー付近の橋梁は独軍の姿を見た義勇兵により爆破されてしまいました。少佐は次の段階として後方連絡鉄道の周辺部から義勇兵を一掃しようと多くの遊撃隊を作って付近を巡回させますが、相手は神出鬼没で中々捕捉することが出来ず、12月25日にはモントロー北西のヴァロンスの森(モントローから8キロ。現存します)に入ったアッシャースレーベン後備大隊の巡視隊2個(想像ですが併せても分隊以下・十名前後だったと考えられます)が義勇兵中隊(100名前後)に襲われ6名戦死・1名負傷・1名行方不明と、ほぼ全滅という損害を出してしまう悲劇も起きています。

 なお、クイレンスツェルナ支隊の後備大隊はバイエルン後備連隊以外前述通り12月上旬に第二兵站総監部へ移籍しました。


挿絵(By みてみん)

モントロー(20世紀初頭)


 一方、第14軍団のフォン・ヴェルダー将軍は12月14日、フォン・デア・ゴルツ将軍の兵団をラングル要塞の監視に向かわせますが、12月17日にフォン・ツァストロウ将軍の第7軍団がベルサイユ大本営の命令でオーセールへ向かってしまったため、フォン・デア・ゴルツ将軍は強大なラングル守備隊の前に後援なく晒されることとなってしまいました。これによりロンジョーの戦いが発生し、フォン・デア・ゴルツ兵団は進撃して来たラングル守備隊を返り討ちにすると要塞の包囲準備に取り掛かりますが、ほぼ同時にニュイ(=サン=ジョルジュ)の戦いがディジョン南方で発生し、年末には仏東部軍の進撃によりフォン・デア・ゴルツ兵団もラングル周辺から引き上げることとなります(「12月中旬・ジアン方面と第7軍団」「12月中旬・ロンジョーとニュイ=サン=ジョルジュ」を参照ください)。


 ラングル要塞守備隊は、このフォン・デア・ゴルツ兵団による半包囲下でも隙を見て出撃し、クリスマスイブの夜にはブリオン=シュル=ウルス(シャティヨン=シュル=セーヌの北東9.1キロ)で鉄道線路を外す妨害工作を行い、ちょうどショーモンから来た列車を脱線させることに成功、列車の搭載物を狙って襲撃を行います。しかし仏軍にとって運の悪いことにこの軍需列車は糧食や武器弾薬の輸送列車ではなく兵員輸送列車で、第7軍団に隷属することとなった第72連隊の第2大隊が搭乗しており、独軍は直ちに反撃して仏軍は戦死者11名・捕虜12名を残して遁走するのでした。


 ベルサイユ大本営は未だ一部の野戦部隊が後方連絡線を防御する任務に就いている状態を解消しようと、12月23日、ロートリンゲン総督府に「コート=ドール県内にある鉄道も守備範囲としてこれを護衛するよう」命じました。

 このため、総督のフォン・ボニン歩兵大将は麾下諸隊を南進させ、1月上旬ブレーム~シャティヨン=シュル=セーヌ鉄道沿いに歩兵6個大隊半、騎兵1個中隊、砲兵1個中隊を展開させました。


※1月上旬・ロートリンゲン総督府のブレーム~シャティヨン=シュル=セーヌ間に展開した諸隊


指揮官 ヘンゼル中佐(後備混成第23・第63連隊長)

◇後備混成歩兵第23「オーバーシュレジエン第2」・第63「オーバーシュレジエン第4」連隊

○ナイセ後備大隊(現・ポーランド、ベルリンの南東360キロのニサ/ストルテ少佐)

○ボーテン後備大隊(現・ポーランド、ニサの東113キロのビトム/ガイベル少佐)

○ローゼンベルク後備大隊(現・ポーランド、ニサの南東30キロのロストコビツェ/グリューナー少佐)

*以上三個大隊はメッス陥落で創設された「メッス要塞総督府」の当初部隊として所属していましたが、早くも11月10日にロートリンゲン総督府へ異動し12月11日、第7軍団へ転属した第60連隊の代わりにへ異動したものです。

○アンダーナッハ後備大隊(ケルンの南南東65キロ/ヘルヴァルト・フォン・ビッテンフェルト少佐)

○ドイツ後備大隊(ケルンのライン東岸地区/第5中隊はヌフシャトー守備/フォン・ペスター・ドレッペンシュタット少佐/5個中隊大隊)

○ザクセン王国守備歩兵第4大隊(ロールシャイト少佐)

○エルケレンツ後備大隊・第1,3,4中隊(ケルンの東南東47.5キロ)

○予備驃騎兵第4連隊・第4中隊

○野砲兵第8連隊・予備重砲中隊


 ロートリンゲン総督府がコート=ドール県内も守備範囲とされると同時にシャティヨン=シュル=セーヌ以西の鉄道については再び第二軍兵站総監部の管轄となり、同総監部は第三軍から送られたばかりの新戦力を使用することとして、3個大隊をシャティヨン=シュル=セーヌ~トロア線とシャティオン~ニュイ(=シュル=アルマンソン)~トネール線に配置します。その上で第二軍兵站総監部はその他オルレアンを守備し、野戦部隊のル・マン進撃後(1月中旬以降)はボージョンシー地域も守備範囲に加えられてしまいました。しかもこの時期、それまでは第三軍兵站総監部が担当していたエタンプ、ラ・フェルテ=アレ(エタンプの北東14.7キロ)、ジュヴィジー=シュロルジュさえも第二軍の管轄とされてしまいうのです。

 このため、同兵站総監部の負担を少しでも軽減するため、カール王子はル・マン~シャルトル線の警戒は野戦部隊に任せ、シャルトル~ベルサイユ間の警備は第三軍にお願いすることとなったのでした。


 71年1月初旬。ロアール(Loire)川とセーヌ川上流域との間には、ブリアール(オルレアンからは南東に69キロ)周辺にあったフリードリヒ・フォン・ランツァウ少将の支隊と、シャティヨン=シュル=セーヌの南方に展開するクレメンス・フランツ・ヴィルヘルム・フォン・ダンネンベルク大佐の支隊があり、この中間に南東へ進む「新軍」・独南軍の主力第2と第7軍団がありました。この両軍団が東へ去った後、南軍司令官フォン・マントイフェル将軍は第8旅団長、男爵フリードリヒ・カール・フォン・ケットラー少将の支隊を自身の後方連絡線(ニュイ=シュル=アルマンソン~シャティヨン=シュル=セーヌ間)守備に残します。ケットラー将軍は既述通り1月19日にディジョンのガリバルディ将軍に対し攻勢に出る際、第21「ポンメルン第4」連隊の第5,6中隊をモンバールに留めて先の連絡線を防御させますが、フォン・ダンネンベルク大佐の支隊も東へと去ってしまったため、以降ロワン川とセーヌ川上流域までの間は第二軍兵站総監部の守備隊に任されることとなってしまいました。

 パリ南郊からボージョンシーまで、同じくロアール河畔からセーヌ上流域やアルマンソン河畔までという広大な地域を任されることとなった第二軍兵站総監部は、1月末の休戦に至るまで、重要な停車場と幾つかの分岐点など要地のみに兵員を駐屯させ、諸街道や鉄道沿線には斥侯と巡察隊を派遣して警戒するしかなかったのです。


 この機会に仏軍の残党が動かない訳はありません。


 第7軍団がオーセールを去りシャティヨン=シュル=セーヌに向かうと、ヌヴェール(ブリアールの南南東78.8キロ)に本拠を置き、ランツァウ支隊を1月14日にジアンからも追い出したジャン=バティスト=ルイ・ドゥ・ポワント・ドゥ・ジェヴィニー将軍率いる師団クラスの集団が、そのままオーセール方面へ北上を開始しました。ドゥ・ポワント・ドゥ・ジェヴィニー将軍は1月19日にボルドー派遣部の実質陸軍大臣だったドゥ・フレシネから「ニュイ=シュル=アルマンソンを襲いその橋梁を破壊せよ」と命じられ、この命令はディジョンのガリバルディ将軍も受けますが、ガリバルディは動く気配を見せず、そのためドゥ・ポワント・ドゥ・ジェヴィニー将軍は単独でビュフォン~ニュイ(=シュル=アルマンソン)~サンス鉄道に対し破壊工作を計画し、これを1月25日に決行するのでした。


 この作戦は複数の遊撃隊が同時多発的に前線の重要な鉄道橋や停車場を襲うというもので、その内の一隊は25日午前6時過ぎブリノンに向かって進むと、同地の停車場を守っていた独軍守備隊を襲撃し、その一部を捕虜とすると既述通り東側にあるアルマンソン川橋梁を破壊して線路の一部を切断しました。同隊は外壁に守られたブリノンの街を襲い、特に隔壁で頑丈に護られた城館を攻撃しますが、ここに籠ったフォン・エーレンシュタイン大尉が率いるパーダーボルン後備大隊の第3中隊から激しい抵抗を受け、やがて逆襲された仏遊撃隊はオーセール方面へ退却して行きました。

 別の仏遊撃隊(臨時護国軍1個大隊と記録されます)はミジャンヌの停車場を襲います。この停車場にはパーダーボルン後備大隊第4中隊からの1個小隊(士官1名・下士官兵30名)が駐在しておりポエルマーン少尉が率いていましたが、正に多勢に無勢の有様で、少尉たちは短時間の抵抗で駅舎に追い込まれてしまいます。小隊は包囲され駅舎が穴だらけになるほど銃弾を浴びますが1階で抵抗を続けました。しかし救援は現れず、圧された少尉たちは2階へ後退して更に防戦を続けます。仏軍はここで駅舎に火を放ち、進退窮まった少尉たちは抵抗虚しく投降するしかありませんでした。この時、ヨンヌ川の鉄道橋も襲われ、ここにいた僅かな独軍兵士は駆逐されて橋は爆破されたのです(既述)。

 この仏軍部隊に後続していた別の隊はジョワニーの停車場を狙いましたが、こちらの部隊はバスー(ミジャンヌの南4.4キロ)でジョワニーから発した独軍の巡察隊(パーダーボルン後備大隊の第4中隊本隊と予備驃騎兵12騎)を発見し攻撃を断念しています。

 この日、パーダーボルン後備大隊は戦死2名・負傷2名・捕虜42名を出してしまいました。


挿絵(By みてみん)

ブリノン(20世紀初頭)


 同日夕刻には別の仏遊撃隊がビュフォンに現れます。

 ビュフォンのアルマンソン鉄道橋はこの時修繕を終えており(既述)、5キロ離れたモンバールから1個小隊32名の正規兵(前述のケットラー将軍麾下第21連隊兵)が派遣されていましたが、夜間に臨時護国軍兵に襲われ橋から追い出されてしまいます。しかし異変に気付いたモンバールから本隊の2個中隊主力が駆け付け、このために仏軍は夜陰に紛れて退却し、鉄道橋は破壊を免れたのでした。


 三ヶ所で鉄道橋を破壊され捕虜も出したという報告を受けたベルサイユ大本営は、この仏軍に対抗するためパリ包囲網から第6軍団の1個旅団に騎兵、砲兵を加えた強力な混成支隊を派出することにして、「ランツァウ支隊と協力しオーセール北方地域より義勇兵を駆逐せよ」と命じました。この分遣隊の指揮は第24旅団長ヘルマン・ヴィルヘルム・アレクサンダー・フランツ・フォン・ファベック少将が採ることとなります。

 ファベック将軍は第23「オーバーシュレジエン第2」連隊と騎兵、砲兵各1個中隊を先発させ、これを列車で現地に向かわせるよう手配し、この前衛隊は1月28日モンタルジに到着、後を追った本隊は翌29日ジョワニーに到着しました。


※フォン・ファベック支隊の出動(1月28日)

◇前衛隊 ロイス・アルトゥル・フォン・ブリーゼン大佐(第12師団・第24旅団所属・第23連隊長)指揮

○第23「オーバーシュレジエン第2」連隊

○竜騎兵第15「シュレジエン第3」連隊・第3中隊

○野砲兵第6「シュレジエン」連隊・軽砲第4中隊

◇本隊 男爵フェルディナント・ヴィルヘルム・フォン・ボック大佐(第11師団・第21旅団所属・第18連隊長)

○第18「ポーゼン第1」連隊

○竜騎兵第8「シュレジエン第2」連隊・第3中隊

○野砲兵第6連隊・軽砲第3中隊の1個小隊(2門)


 フォン・ファベック将軍は29日ジョワニーに到着すると「約2,000名の仏軍がドゥ・タンプル准将*の指揮下オーセールに集合している」との情報を得て、オーセールを包囲攻撃することを計画、直ちにランツァウ将軍に連絡します。この時、ランツァウ将軍にも大本営からファベック将軍に協力するよう命令が出ており、ランツァウ将軍はファベック将軍に対し28日に「現在地のウズーエ=シュル=ロアール(モンタルジの南西31.5キロ)から出立しシャティヨン=シュル=ロワン(現・シャティヨン=コリニー。同南南東21キロ)に向けて行軍する」と連絡していました。ファベック将軍はランツァウ将軍に協力しオーセールを合撃する計画を知らせるのでした。

 これにより、ブリ―ゼン隊はシャトー=ルナール(モンタルジの南東16キロ)~アイヤン=シュル=トロン(オーセールの北西18.7キロ)を経由してオーセールへ向かい、ボック隊はアッポワニ(同北北西9.4キロ)を目標に進み、ランツァウ隊はシャルニー=オレ=ドゥ=ピュイゼイユ(モンタルジの南東29.6キロ)からトゥシー(オーセールの西南西23キロ)へ進むこととなりました。

 翌29日にはブリーゼン隊がシャトー=ルナール、ボック隊が前述通りジョワニー、ランツァウ隊がシャルニー=オレ=ドゥ=ピュイゼイユと計画通りに進みます。30日にはファベック将軍はブリーゼン隊と合流し共にセポー(オーセールの北西29.8キロ)に到着しました。

 この行軍中にファベック将軍は「独仏間に休戦が成立した」との急報に接し、ジョワニーから発とうとしていたボック大佐に対し「ジョワニーに留まり次の命令を待て」との伝令を送り、ランツァウ将軍には「トゥシーまで前進し待機」を要請します。

 31日の夜。ファベック将軍は休戦協定の全文を受け取り、協定によってヨンヌ県が全域独軍占領下となることを知り、2月2日、デュ・タンプル兵団が去ったオーセールに入城するのでした。


挿絵(By みてみん)

オーセール ヨンヌ河畔(1915年)






挿絵(By みてみん)


フェリクス・デュ・タンプル・ドゥ・ラ=クロワ(1823-1890)


 15歳で仏海軍に入隊し第二帝政期にクリミア、イタリア、メキシコ(海軍歩兵を指揮)で従軍し、41歳で中佐(フリゲート艦長)に昇進しました。普仏戦争では帝政崩壊後、戦時昇進の准将としてロアール軍に参加(『普仏戦争/仏「ロアール軍」の再起と独「メクレンブルク=シュヴェリーン大公軍」の誕生』を参照願います)、兵団を率いて戦いその後発展的にジョレス将軍の第21軍団第3師団第2旅団長となりました。ル・マンで戦ったタンプルは軍団が四散した後に東へ向かいドゥ・ポワント・ドゥ・ジェヴィニー将軍と合流しその麾下となったと考えられます。

 タンプルが歴史に名を残すのは飛行機に関する発明で、1857年に弟のルイと共にプロペラ推進の動力飛行機を製作し、700グラムの物は小型のエンジンを積んで短時間飛行を記録しています。無人で模型ではありましたが、これが人類初の動力飛行と言われ、67年には独自設計のエンジンを発明、戦後の74年には単葉機を作りますが、これが短距離・短時間飛行を記録し、これも最初の動力飛行機の飛行と言われています(ライト兄弟の本格的有人初飛行は1903年12月です)。



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