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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・11月以降の後方連絡線
505/534

鉄道線の補修と延伸(後)


☆ 11月以降の鉄道後方連絡線(承前)


 一方、ロアール戦線の第二軍に向かう後方連絡は第三軍のそれに比して不利な状況にありました。


 同軍司令官親王フリードリヒ・カール元帥は運送に時間が掛かり義勇兵等によって危険なナンシーからショーモンを経由する陸路兵站連絡線に代わって可及的速やかに鉄道を開通させることを強く要求しています。

 この要望を受け、同軍がショーモンからトロアに掛けて前進した11月6日前後、ブレーム(ヴィトリ=ル=フランソワの東14キロ)~ショーモン鉄道線の修繕工事が開始されますが、正にこの工事の初期段階でジョインヴィレ~ショーモン線のヴィリエール=シュル=マルヌ(ジョインヴィレの南12.7キロ)の上下流南北二本の鉄道橋とフロンクル(ヴィリエールの南5キロ)北方の鉄道橋が相次いで爆破されてしまいました。これにもめげず工事担当の第4野戦鉄道隊は第1分隊をこの三本の橋の修理に派遣し、同分隊は第5軍団要塞工兵第1中隊の協力を得ながら工事を進め、第4野戦鉄道隊は12月7日までに全線開通させています。これら諸隊は兵員不足によって通常必要となる護衛隊を付けることが出来ず、当初は工事地区を徘徊する義勇兵を警戒しつつ作業を進めなくてはなりませんでした。


 この後、第二軍はピティヴィエ(オルレアンの南東40キロ)方面へ進むため路線を更に西へ延伸させなくてはならなくなります。この後方連絡にはシャティヨン=シュル=セーヌ並びにトロアを経由してモントルー(フォンテーヌブローの東19キロ)方面へ向かう路線が選ばれ、第4野戦鉄道隊第1分隊は前述の工事と共にこの路線復活にも人員を振り向け、12月9日にはトロアまで開通させました。しかし、その先ではノジャン=シュル=セーヌとモントロー付近においてセーヌ川を渡る鉄道橋が橋脚までも完全に爆破されており、これは「修繕」の部類ではなく新橋梁施工の類で野戦鉄道隊ではどうすることも出来ず、断念するしかありませんでした。その後モントルーの鉄道橋はバイエルン野戦鉄道隊が同国兵站工兵中隊の力を借りて11月20日から12月22日まで掛けて何とか仮橋梁を施工しています。


 このため第二軍兵站総監部は代わりにショーモン~シャティヨン=シュル=セーヌ~ニュイ(=シュル=アルマンソン)~モレ=ロワン=エ=オルヴァンヌ~モンタルジ~ジュヴィジー=シュロルジュ*を経てオルレアンに至る路線の復活を期し、人材と資材をこちらの工事へ振り替えました。しかしこの路線も数多くの破壊と義勇兵の妨害があり、工事は遅れに遅れたため第二軍の補給末端は当初のジョインヴィレを12月中旬にトロアへ進め、その先陸路を使用する兵站線はトロア~サンス~ピティヴィエ迄としました。

 この状況から独大本営は第二軍の現状後方連絡線は「長大に過ぎ安全ではない」として11月下旬、「しばらくの間第二軍の糧食や軍需品、弾薬は第三軍の備蓄品から補給する」と決定、専用列車も第三軍が使用するラニー=シュル=マルヌまで運行することを許可するのでした。しかしこの処置にしてもラニーからオルレアンまではなお直線でも120キロ以上あり、当然ながら第三軍の兵站にも大きな影響を与えたのでした。


※当時(1870年)ではモンタルジから直線的にオルレアンへ至る鉄道はありません。一端南に下ってロアール沿岸のジアン方面へ行くか、パリへ進んでパリ~オルレアン線に進むかどちらかですが、当時ロアール沿岸では強力な仏軍が出没しており、この場合パリ方面へ迂回し、独軍が押さえるパリ南方セーヌ河畔の一大鉄道操車場と分岐点のあるジュヴィジー=シュロルジュで方向転換しオルレアンへ進むしかありませんでした。


挿絵(By みてみん)

ジュヴィジー=シュロルジュの停車場(20世紀初頭)


 ジュヴィジー=シュロルジュから先、オルレアンまでの路線は第一次オルレアンの戦い(10月11日)以降速やかにバイエルン野戦鉄道隊の一部が修繕工事に取り掛かりますが、線路の修繕こそ進んだものの肝心の機関車は殆ど手に入らず、11月7日までに鹵獲した機関車一輌を使用するのが精一杯という状況でした。クルミエの戦い(11月9日)以前では馬匹に無蓋貨車を曳かせる馬力運行が細々と続けられていたのです。このクルミエ戦後のオルレアン撤退では先の鹵獲機関車が大活躍し、オルレアン北の停車場にあった糧食貨物列車二編成は、このたった一輌の機関車の往復運転により仏軍に渡すことなくアルトネ以北に脱出させることが出来ました。第二軍の後方連絡は11月20日までコルベイユ(=エソンヌ)~ジュヴィジー経由でエタンプまで機関車による輸送を続けて傷ついたバイエルン第1軍団を助けたのでした。

 その後、同軍団は西方へと転向し後方連絡はシャルトルを端末とするものに変更されます。この方面の鉄道線は、パリ西方に進んだ諸隊のため、バイエルン野戦鉄道隊の第2分隊が主力となって突貫で修繕を終え、11月上旬以来ベルサイユ~ランブイエ経由でシャルトルまで馬匹運行の輸送を実現したところでした。この路線は11月24日に端末停車場をクルヴィル=シュル=ユール(シャルトルの西18.3キロ)へ進めています。


 第二軍のカール王子は第二次オルレアンの戦い(12月3日~4日)のよる戦勝でコルベイユ~ジュヴィジー~オルレアン鉄道線を復活させ、まだまだ馬匹運行が主力だったものの幾らかは機関車による列車運行も開始させました。

 これによって第二軍の後方連絡は第三軍の後方連絡と兵站に依存していた状態から幾らかは脱却し、ラリー兵站基地の混乱を多少は改善させましたが、後方連絡鉄道の未だ一本化しない乗換の多い状態は続き、機関車も数輌が運行しているだけでした。鉄道隊は破壊され遺棄されていた機関車・貨車を出来るだけ修理し、結果2輌の機関車と80輌の貨車が使用可能となりますが、これだけでは全く「焼け石に水」の状態でした。また、騎兵第6師団はヴィエルゾン(オルレンの南76.5キロ)においてそれなりの量の鉄道資材を手に入れ、これを陸路輸送でオルレアンへ送り、1月上旬にはショーモンから機関車1輌が送付されジュヴィジー~オルレアン間の輸送に従事し始めました。


 独第二軍がル・マンへ進撃する頃(71年1月上旬)になると後方連絡線も従って延伸し、1月13日(ル・マン会戦翌日)には待望のショーモン~ジュヴィジー間が開通し、これで後方連絡が幾らかは楽になったカール王子でした。しかしブレティニー=シュル=オルジュ(ジュヴィジーの南南西11.6キロ)で再び分岐しロワール(Loir)河畔のヴァンドームへ向かう鉄道線は至る所無数に破壊されており、復旧には年単位が掛かりそうだったためこの路線を修繕し利用する計画は諦めるしかありませんでした。


 ショーモン~ジュヴィジー間の工事も前述通り義勇兵らによる絶え間ない妨害工作と冬に至って寒気が到来し天候も不順となったため、想像を絶するものとなって予定の遅延を繰り返しました。


 コルベイユ~モンタルジ~モレ線とモレ~ブリノン(=シュル=アルマンソン)線の工事は12月下旬から1月上旬に掛けてバイエルン野戦鉄道隊の第1分隊が中核となって行い、特にヌムール南方のスープ=シュル=ロワン(ヌムールの南9.5キロ)北郊の爆破されたロワン川鉄道橋を見事に復活させます。同時進行で行われていたジュヴィジー~オルレアン線の工事を担当していた第2野戦鉄道隊と第6軍団要塞工兵第2中隊も、コルベイユ~モンタルジ間の工事に人員を割き手伝っています。

 ブリノンの東にあるアルマンソン川鉄道橋も破壊が酷いものでしたが、これも第2野戦鉄道隊と第6軍団要塞工兵第2中隊が1月5日から10日に掛けて集中工事を行い完成させました。

 同じくアルマンソン川に架かり2ヶ所に爆薬を仕掛けられて落とされていたニュイ(=シュル=アルマンソン)の鉄道橋は第4野戦鉄道隊の第2分隊がヴィエルジー・トンネルの開通後に移動して11月下旬から修理に取り掛かろうとしましたが、当時はリッチョッティ・ガリバルディによるシャティヨン=シュル=セーヌの襲撃(11月19日)による混乱が続いており(後述します)、貴重な鉄道要員の安全を確保するのに手間取って、工事は12月10日になってようやく開始されたのでした。


挿絵(By みてみん)

ブリノン近郊の鉄道(20世紀初頭)


 この間、11月25日にショーモンに至り待機となったこの鉄道分隊は「何もしないよりは」と27日、度々ラングル要塞守備隊の遊撃隊や義勇兵が出現するフラン(ショーモンの南南東9.9キロ)へ進み、ラングル要塞へ続く鉄道線を破壊しました。

 ラングル要塞の南では12月下旬にフォン・デア・ゴルツ将軍の混成支隊が要塞の南に進み、ロンジョー付近までの鉄道線が修理されますがフォン・デア・ゴルツ支隊は再び南へ去り、するとたちまち鉄道は何者かによって破壊されてしまうのでした。


 ニュイのアルマンソン川鉄道橋復旧工事現場には、12月18日になって第4野戦鉄道隊の第1分隊が応援にやって来ました。この分隊は第5軍団要塞工兵第1中隊と共にヴィリエ=シュル=マルヌ付近の鉄道橋が洪水で破壊されたため長らく修理工事を行っていました。この応援を得てもニュイの鉄道橋工事は時間が掛かり、1月12日になってようやく完成するのです。

 この工事完了によって独本国とオルレアンが鉄路で結ばれました。それでもこの連絡線はナンシー~オルレアンの直線距離の2倍近い距離、およそ700キロに及ぶ迂回だらけの鉄路でした。


挿絵(By みてみん)

ニュイ=シュル=アルマンソンの停車場(20世紀初頭)


 一方、メッス陥落に続きティオンヴィル(独名ディーデンフォーフェン。11月25日開城)とメジエール要塞(1月2日開城)も陥落したため、仏北方を通る鉄道線も全線開通することとなります。


 ベルサイユ大本営はメッス開城前に、この重要なアルデンヌ鉄道(メッス~ティオンヴィル~メジエール~ランス)の修理を計画しており、まだメジエールとモンメディ要塞を攻囲中の11月中旬、第1野戦鉄道隊を仏軍が籠もる両要塞間に派遣して工事を開始させます。こうして先にメッス~ロンギュヨン(ベルギー国境付近・ティオンヴィルの西北西42.1キロ)間の修理を完了し、同鉄道隊は11月17日、ロンギュヨンから先(~モンメディ)の工事に取り掛かろうとしますが、ベルギー国境の要塞・ロンウィー(ロンギュヨンの北東14.6キロ)には侮れない仏守備隊がおり、当時独軍はこの要塞に対し少数の監視を派遣するだけで我慢していたので、同月26日までは警戒してロンギュヨンに保線材料を集積したり路線の保護に努めただけに終わりました。

 11月30日になって第1野戦鉄道隊は活動を再開し、その一部はフォン・マントイフェル騎兵大将の第一軍に従いアミアン方面での活動に入りましたが、残り本隊はアルデンヌ鉄道の工事を続け、1月20日まで掛かってコルメ(ロンギュヨンの北西3.4キロ)のシェール川鉄道橋とモンメディ(12月14日開城。同北西18.8キロ)のトンネルを開通させます。残されたロンウィー要塞の攻囲のため、攻城材料を運搬するためにロンギュヨン~コン=ラ=グランヴィル(同北東8.3キロ。ロンウィーまで6.3キロ)までの鉄道が必要となったために第1野戦鉄道隊は第9軍団要塞工兵第3中隊の協力を得てこれを修理します。ロンウィー攻囲の諸材料は占領したモンメディやメジエールから運ぶのでした(後述)。


挿絵(By みてみん)

破壊される橋梁(パリ郊外)


 71年1月中旬ともなると、後方連絡鉄道線も充実し、南方と北方にも連続運行可能な路線一本を得ることが出来たためベルサイユ大本営は1月11日に占領地の鉄道使用区分を改正しました。


※71年1月11日・占領地鉄道線の各軍配分

*北方路線 第一軍とマース(第四)軍が専用使用

 本線/ザールブリュッケン~メッス~ティオンヴィル~メジエール~ランス~ラ・フェール~アミアン~ルーアン

 支線/ラ・フェール~ソアソン線、ラ・フェール~コンピエーニュ~ミトリー(=モリー)又はゴネス線

 地方線/メッス~フルアール線、ランス~エペルネー線、ランス~クレルモン=アン=アルゴンヌ線、アミアン~クレイユ線、ボーヴェ~クレイユ線


*中央路線

 ●第三軍が専用使用

 本線/ブレーム(ヴィトリ=ル=フランソワの東13.9キロ)~バール=ル=デュク~ヴィトリ=ル=フランソワ~シャロン=アン=シャンパーニュ~エペルネー~シャトー・ティエリ~モー~ラニー=シュル=マルヌ

 ●第三軍、第二軍、南軍が共用使用

 本線/ストラスブール~ヴァンデンハイム、同じくヴァイセンブルク~ヴァンデンハイム~サヴェルヌ~リュネヴィル~ナンシー~コメルシー~ブレーム

 支線/ダムルヴィエール(ナンシーの南東21.3キロ)~エピナル線


*南方路線 第二軍が専用使用(一部南軍の第2、第7軍団も使用)

 本線/ブレーム~サン=ディジエ~ショーモン~シャティヨン=シュル=セーヌ~ニュイ(=シュル=アルマンソン)~モレ=ロワン=エ=オルヴァンヌ~モンタルジ~ジュヴィジー=シュロルジュ~エタンプ~アルトネ~オルレアン


挿絵(By みてみん)

エピナル(20世紀初頭)


 1月21日に北方路線本線が完全な運行を開始し、これで独軍の後方連絡は一気に楽になります。同時に戦場に近い路線の修理も一気に進みました。


 第1野戦鉄道隊の一部は1月10にコンピエーニュ~ラ・フェール線を開通させますが、この路線は元々複線で同月18日にもう片方の線路も開通させたため、第一軍はソンム川戦線(ちょうどサン=カンタン会戦が行われていました)に送り込む弾薬や補充の輸送が非常に楽になりました。


 第三軍はパリ西方へ独り派遣した騎兵第5師団の後方連絡として12月下旬にバイエルン野戦鉄道隊の第2分隊を送ってベルサイユ~ウーダン(ドルーの東北東18キロ)線を修理させました。この路線は当初馬力で運行されますが、これを憂いたリーゲル中尉(所属不明。多分騎兵第5師団所属と思われます)がドルー停車場に放置されていた機関車2両を人馬だけで陸路をマルシリ=シュル=ウール(同北10.1キロ)経由でウーダンまで運ぶという驚くべき苦行を行います。しかし機関車は1月末まで修理が終わらず戦争には間に合いませんでした。

 バイエルン野戦鉄道隊は1月21日までにドルー東郊外のウール川鉄道橋を修繕してウーダン~ドルー間を開通させました。


 第二軍はル・マン占領後シャルトル~ル・マン鉄道の修理を急がせました。この任に当たる第2野戦鉄道隊と協力隊の第6軍団要塞工兵第2中隊は、1月17日までに先行してノジャン=ル=ロトルー(ル・マンからは北東に58キロ)~ル・マン間の修理を完了させ、同月19日にはル・マン~コンリー兵営までの支線を開通させました。問題は破壊が酷かったクルヴィル(=シュル=ウール。シャルトルの西18.3キロ)西のウール川鉄道橋でしたがこれも1月24日に修理を終え、これによってベルサイユ~ドルー~シャルトル~ノジャン=ル=ロトルー~ル・マンが一本の路線で結ばれ、ル・マンで鹵獲した鉄道材料や貨車、機関車を使用し1月29日から運行を始めるのでした。


 この第二軍の「生命線」となる後方連絡鉄道線は前述通りニュイ(=シュル=アルマンソン)~ジュヴィジー=シュロルジュ線とベルサイユ~ル・マン線とに分かれますが、ジュヴィジー~ベルサイユ間は鉄道の連絡が行われず、軍需物資は陸路馬車縦列によって搬送されます。これら連絡線はル・マン方面に展開する第二軍本隊への連絡を担い、オルレアンのロアール上下流域にある諸隊にはジュヴィジー~オルレアン線が使用されますが、1月下旬バイエルン野戦鉄道隊は第1分隊を出動させて更に下流のブロアまで路線を修繕しました。


 独軍後方連絡の鉄道線はこのように西へ西へと延伸されて行きましたが、東方二本の幹線ではこの1月下旬に大きな損害を受ける事件が発生します。


 1月22日。中央本線のフォントノワ=シュル=モセルのモーゼル川鉄橋が義勇兵により爆破されると言う事件が発生、第二と第三軍向けの軍需輸送が中断されてしまいました。ナンシー管区の鉄道運行係は数珠つなぎに立往生した列車を全てメッス及びエペルネーへ迂回させる処置を行いますが、運行は数日間大いに乱れてしまいます。

 この混乱の最中、25日には1月10日に完成したばかりのブリノン(=シュル=アルマンソン)東にあるアルマンソン川鉄道橋と、その先ミジャンヌのヨンヌ川鉄道橋が別の義勇兵により爆破され、また付近の線路が外され持ち去られると言う事件が発生してしまうのです。

 この事態に対応してフォントノワの鉄道橋修理には第14軍団の臨時編成隊から南軍の野戦鉄道隊に昇格した第5野戦鉄道隊が出動し、1月31日まで掛かって取り合えず橋梁の仮補修を行い、人力で貨車を押して橋梁を通過させると言う無理を行いました。その間も同野戦鉄道隊は昼夜敢行で修理補強作業を続け、完全に機関車による列車の通過は2月4日を待たねばなりませんでした。


挿絵(By みてみん)

修復したフォントノワの鉄道橋で記念撮影する鉄道隊


挿絵(By みてみん)

拡大(修繕した部分)


 ブリノンの鉄道橋と付近で外された線路の修繕は第4野戦鉄道隊の第2分隊が担当し、2月5日に工事を終えます。ミジャンヌの鉄道橋は一本の橋脚が完全に破壊されていましたが、バイエルン野戦鉄道隊の第1分隊と第5軍団要塞工兵第1中隊は2月9日までに開通させました。

 従って第二軍は1月末の休戦に至るまで、第三軍の専用線である中央本線を使いラニー=シュル=マルヌ経由で補給を行うしかありませんでした。


挿絵(By みてみん)

ミジャンヌ停車場(20世紀初期)


 このナンシー~ラリーの中央本線はただでさえパリ包囲網の半分を担う第三軍を支えパリ砲撃の砲弾弾薬などを運んだため運行は困難を極めていましたが、この路線は一部で南軍の補給をも支えなくてはなりませんでした。


 第14軍団がディジョンへ進撃する頃、その後方連絡線として独軍はナンシー南東の分岐点・ダムルヴィエールからエピナル~リュール~ブズール又はグレーに至る鉄道線を利用しようとしますが、これも各地で破壊工作が行われて分断されていたため、10月上旬にフォン・ヴェルダー将軍が麾下工兵により「臨時鉄道隊」を作り、この隊が修繕を始め、バイヨン(ダムルヴィエールの南南西10.5キロ)付近の鉄道橋とラングレ(エピナルの北北西22.6キロ)の鉄道橋、そしてエピナル北郊複数の高架を修繕し、12月14日、第5野戦鉄道隊に昇格した同隊はダムルヴィエール~エピナル鉄道を開通させるのでした。

 同隊はアイユヴィエ=エ=リオモン(エピナルの南南西29.5キロ)の鉄道橋修理も1月初めに終えますが、このエピナル~ブズール鉄道はエルティニー(同南14.8キロ)北1.6キロにあるコーヌ川高架橋が2ヶ所爆破されて修理の目処が立たなかったため、1月に入っても開通の目途が立ちませんでした。


挿絵(By みてみん)

エルティニーの破壊された鉄道橋


 第14軍団長フォン・ヴェルダー将軍は1月に入って左翼(東)へ転進することとなったため、後方連絡線も東側へ動かす必要性が生じます。このため、エピナルよりプロンピエール=レ=バン(エピナルの南23.2キロ)又はリュール経由の街道(現・国道D63~D157/N57~D64号線)を使いブズールやモンベリアール方面へ向かうこととして、同軍団の各縦列や輜重はこの街道を使って南下しました。しかし、追加の軍需品や糧食、弾薬などはリュネヴィルやストラスブールからベルフォール攻囲兵団に至る同兵団の後方連絡線を借用しました。


 このベルフォール攻囲兵団の後方連絡線はストラスブール~コルマール鉄道を使用しますが、この路線はエルザス総督府が10月後半、麾下の第8軍団要塞工兵第2中隊に修繕を命じて開通させたもので、この鉄道がベルフォール方面へ予備第1と予備第4師団を運びました。後方連絡鉄道は11月末までにミュルーズ(独名ミュールハウゼン)まで開通し、12月上旬にはヴォージュ山脈の入り口、ゼントハイム(ミュルーズの西21.4キロ)とスイス国境にも近いダンヌマリー(独名ダンマーキルヒ。同南西20.8キロ)までそれぞれ開通・延伸されました。

 リゼーヌ河畔の会戦(1月15から17日)が行われている頃には第14軍団の補給はこのベルフォール攻囲兵団の後方端末ゼントハイムとダンヌマリーから敵を避けて迂回しつつ受けると言う綱渡り状態でしたが、仏東部軍がベルフォールとの連絡に失敗し、西と南へ後退を始めるとヴェルダー将軍も後方連絡を元のエピナル経由に切り替えるのでした。


 同じ頃、南軍を率いるフォン・マントイフェル将軍も第2と第7軍団のための後方連絡をエピナル経由に改めようとします。


 当初、ベルサイユ大本営はこの両軍団がラングル高地の西へ集合した時に第二軍用の南方線(既に第7軍団は借用しています)を第2軍団にも割り当て、同時にニュイ(=シュル=アルマンソン)~ディジョン線をも修理を命じました。この工事は第4野戦鉄道隊の第2分隊が行うことになり、少し遅れて1月21日に工事を開始、ビュフォン(モンバールの北西5.5キロ)付近のアルマンソン川鉄道橋を25日までに修理しますが、前述のブリノン(=シュル=アルマンソン)の橋梁などが破壊されたため、同鉄道分隊は現場へ急行しディジョン線の工事は中断してしまいました。

 このラングル高原周辺はディジョンに居座るガリバルディ将軍率いるヴォージュ軍とラングル要塞守備隊によって後方連絡線が度々襲撃され、伝令騎兵などが拉致される事態が生じたため、マントイフェル将軍は一時期ニュイ(=シュル=アルマンソン)~シャティヨン=シュル=セーヌ鉄道を起点としてラングルの南を東へ向かう南軍の後方連絡を廃止して、現在行軍中の輜重や縦列、一部の野戦部隊をエピナル経由でオニヨン川方面へ迂回させる処置を取ったのでした。


挿絵(By みてみん)

エピナル~リュール鉄道の修繕された鉄道橋


 この状況はリゼーヌ河畔の会戦が独勝利に終わったことで改善に向かいます。

 エピナルの南方から義勇兵を含む仏軍が消えたことで、マントイフェル将軍は第2、第7両軍団の後方連絡をエピナル~サン=ルー=シュル=スムーズ~リュクスイユ=レ=バン~ブズールを経てグレーへ向かう諸街道に、第14軍団には、当初エピナル~エルティニー~バン=レ=バン~リュクスイユ=レ=バン~リュールに至る街道にそれぞれ指定しました。第14軍団はブザンソンへ向け南方へ転向する頃にはリュールからブズールへ後方連絡路を変え、独りドゥー上流に離れた予備第4師団のみベルフォール攻囲兵団の後方連絡線を借用するのでした。


 この間の1月21日に第5野戦鉄道隊は仏東部軍の前進で中断していたエピナル~ブズール~グレー鉄道の修繕工事を再興し、難関のエルティニーの高架橋以南の工事に集中してわずか6日間でエルティニー~ブズール間を開通させ、2月12日までにブズール~グレー間も開通させるのです。しかしエルティニーのコーヌ川高架橋(現存します)だけは休戦を越えても修繕が終わらなかったため、南軍は結局、仏東部軍に関する作戦中全期間をエピナルから陸路で補給を受けることになったのでした(同様にダンヌマリーの高架橋も復旧が間に合いませんでした)。


挿絵(By みてみん)

ダンヌマリーの破壊された鉄道橋


 仏南東三県も休戦に入る(2月15日)少し前、ようやく仏南東戦線でも後方連絡鉄道線工事が活発化します。

 ニュイ(=シュル=アルマンソン)~ディジョン線は2月7日に第4野戦鉄道隊第2分隊が現場に帰って来て再開されます。この時にはせっかく直してあったビュフォンの鉄橋も2月2日夜に再び仏軍によって落とされてしまっていました。これも同鉄道分隊が素早く修繕して開通させ、その後は妨害も無くなり工事は大きく進捗してビュフォン~ディジョン間は2月11日に開通しました。

 これによって南軍も作戦域に達する専用線を得ることが出来るようになりましたが、直後に休戦を迎え、戦争は終わったのでした。


挿絵(By みてみん)

エルティニー 修理を終えた鉄道橋





普仏戦争要図・南西部

挿絵(By みてみん)


普仏戦争要図・南東部

挿絵(By みてみん)



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