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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・11月以降の後方連絡線
504/534

鉄道線の補修と延伸(前)


☆ 独軍における野戦鉄道敷設・運行に関する任務を実施した組織


 鉄道を各軍で共同使用しようとすれば、その調整機関や統一指揮組織が無ければ混乱を招くことは明らかです。普仏開戦後間もなく(70年8月上旬)、独軍ではその弊害が表面化し、動員による大混乱を引き起こした仏軍ばかりでなく独軍も進撃するに従い同じ轍を踏み始めてしまいました。しかし独大本営はこのために組織を準備しており、鉄道各隊は各軍に所属するものの原則として常時大本営の「鉄道輸送運営管理課」からのみ命令を受領・実施することとなって、単に各軍独占で使用する鉄道線についてはその運行・保守は各軍に一任されていました。


 独における大本営鉄道輸送運営管理課は戦時中、敵国内の軍需輸送に関する鉄道の管理・運行を計画、各鉄道隊に対し指揮命令を行う部署です。

 この敵国フランス国内の占領地における実際の鉄道の修理と保線を担当したのが「出征線区担当係」でした。この部署は各路線をプロシア王国の基準に準じて整備し、軍の要求に応えるための路線・停車場の改装や増設を行い、輸送を調整することが主な仕事でした。

 この軍事利用の鉄道を実際に動かしていたのが「鉄道運行係」で、この部署は文字通り占領地区での鉄道運行を司りました。つまり運行表(ダイヤ)を定め、鉄道員や保線員を準備配置し、保線や施設維持のための諸材料を手配し、各路線の事務や技術的問題を処理しました。鉄道運行係は軍ではなくプロシア王国商務省の管轄となります。


 1871年1月にこれら組織の大幅変更が行われ、三本の主要後方連絡鉄道線には改めて出征線区担当係がそれぞれ1個置かれ(ランス、エペルネー、ショーモン)、休戦後の2月にはベルサイユにも置かれますが、近い将来独領となることが決定的だったエルザス総督府では既に戦後を見据えて鉄道運行係がこの任を兼務していました。


 鉄道運行係は1月から以下の通りとなります。


◯ザールブリュッケン管区(戦前からある商務省鉄道管理局の支所が兼務しました)

 仏北方鉄道線の内、独国境からメジエールまでの間を管轄

○ランス管区(旧エペルネー管区)

 セダン西方(シャルルヴィル=)メジエール以西の仏北方鉄道線を掌握

◯ストラスブール管区

 バ=ラン(上アルザス)県~ナンシーまでの中央部鉄道線を掌握

◯ナンシー管区

 ナンシー以西の中央部鉄道線を掌握

◯ショーモン管区

 仏南方鉄道線を管轄


 ショーモン管区と同地の出征線区係に関しては休戦後に再び配置転換があり、両方共にコルベイユ(=エソンヌ。パリの南南東28.6キロ)へ移転しました。


挿絵(By みてみん)

ショーモン停車場(20世紀初頭)


 第一、第二、第三の開戦時からあった三軍に関しては、その兵站総監部に野戦鉄道部長が置かれます。これは各軍兵站総監部に任された独占使用の鉄道路線に対する運行と保守修繕に関する指揮命令権を有するものでした。


 占領地の鉄道修理や新線敷設を行う実働部隊が「野戦鉄道隊」となります。この部隊はそれぞれの軍に属して開戦時四個隊(第一軍は第1、第二軍は第4、第三軍は第2、ライン河畔に第3・後に大本営直轄)が創設され、商務省鉄道管理局の鉄道技師20名と平時から存在する軍の鉄道中隊(工兵士官4名、下士官兵200名前後で工兵中隊規模となります)により編成されました。その隊長は鉄道技師グループから選ばれ、鉄道中隊に人手が必要ならば臨時に派遣される要塞工兵や軍属、時には占領地住民を使って任務を行いました。


 これら占領地における鉄道行政に携わる軍人・官僚の人々が担う任務は実に大きなものでした。


 軍の補給はこの時代、人馬による陸路輸送が主流とはいえ鉄道輸送に軸足が移りつつあり、その需要は日に日に増して行きました。

 その任務は糧食・補充人員・軍需物資・攻城諸材料・弾薬・大砲・傷病者と捕虜輸送など尽きることはなく、義勇兵が後方連絡線を妨害し始めると、「脚が早く大量に輸送可能」=「義勇兵の妨害を受け難い」鉄道は益々重要となったのです。

 しかしフランス国内の鉄道は多くが単線で仏軍の抵抗や工作により膨大な箇所で寸断されており、これを修理するには少ない人員を遣り繰りして行かねばならず、9月から11月に掛けての独軍後方連絡は常に遅延と輸送力不足で危機とも呼べる状態にあったのです。

 これは運行する人員不足も相まって終着停車場に着いた糧食列車から貨物を降ろすにも時間が掛かり、一時は到着列車が返送列車(傷病兵や時には捕虜も乗せました)よりも多くなり、この患者を乗せる列車は運行と積み卸しにどうしても時間を要したため、往々列車が数珠繋ぎに立ち往生するという、あの仏軍動員時に見られた光景も現出するのです。このためしばしばダイヤが大きく乱れ停車場に乱雑に積まれた貨物が溢れる光景が見られました。

 とはいえ、そこは独軍です。遅れこそありましたが運行が中止されることは起こらず、それはフォントノア=シュル=モセル(ナンシーの西14.9キロ)付近で義勇兵による橋梁爆破事件が発生した時にも鉄道運行部は即座に他の路線に列車を転換し、橋が応急修繕されるまでの8日間、臨機に運行して荷を止めることはありませんでした。


 仏の鉄道会社や仏軍、そして帝政政府が独軍に渡すこととなった鉄道の車輌と保線資材は「現有の軍所有物に現地調達で何とかなるはず」と独軍が期待したものより遙かに少量でした。これは撤退する仏軍が極力資材を持ち去り、運搬不能なものは使用不能としたり隠蔽したりと徹底して独軍の手に渡さないよう試みた結果でもあります。独軍が鹵獲した仏の機関車で使用することが出来たものは僅かに50輌(71年1月末、即ち休戦まで)と言う記録もあり、また徴用した仏の鉄道職員も一部でしか使用されませんでした(信用されなかったのでしょう)。

 このため、独本土から多くの鉄道職員を招き入れなくてはならず、1月下旬までにその数3,600名と言われ、それでも足りずに多くの後備兵や後方部門の軍属を鉄道運行に使用せざるを得ませんでした。機関車についても鹵獲した(使用可能な)50輌の他に75輌を「仏の鉄道会社から購入」し、これではとても足りずにプロシア王国鉄道管理局から280輌を送らせて使用しています。また客車や貨車(天蓋・無蓋問わず)は「終始移動していたため総数は全く想像出来かねる」(独公式戦史)ものの、戦争後半に本国から送られた車輌はおよそ30,000輌とも言われています(当然鹵獲された車輌も使用されました)。


 この鉄道に対する過重な要求は1月末の休戦によりやっと軽減されるのでした。


挿絵(By みてみん)

1870年の仏機関車


※普仏戦争時、独軍における野戦鉄道敷設・運行に関する任務に従事した高級士官・文官と野戦鉄道隊など


◇鉄道輸送運営管理課


*参謀本部

 カール・ベルンハルト・ヘルマン・フォン・ブランデンシュタイン中佐(第3課長)

 ルドルフ・アウグスト・ツィングラー大尉(参謀)

 フーゴ・ハンス・カール・フォン・ヴィンターフェルト大尉(参謀)

*商務省から出向

 テオドール・ヴァイスハウプト鉄道管理局長兼技師

 キネル技師(同参事)

*陸軍省官房より出向

 ゴルツ大尉(兼ルミリーからポンタ=ムッソンへの野戦鉄道新線建設指揮官)


挿絵(By みてみん)

ヴァイスハウプト

(普王国鉄道部門の第一人者で、実質彼が普仏戦争中鉄道運輸の計画を立てました)


◇出征線区係


◯ザールブリュッケン線区(71年1月10日まで)→ランス線区(以降)

 スターフェンハーゲン大尉(参謀本部付)

 ヴェルデ鉄道敷設監督官

◯ナンシー線区(70年12月12日まで・71年3月以降)⇔エペルネー線区(70年12月13日から71年2月末まで)

 イェンス大尉(参謀本部付・70年10月3日まで)→エーベルリンク大尉(参謀本部付・以降)

 ブッフホルツ鉄道敷設監督官(70年11月9日まで)→ゼバルト鉄道敷設監督官(以降)

◯ショーモン線区(71年1月初設置から2月9日まで)→コルベイユ線区(71年2月10日以降)

 クノイゼルス大尉(第28連隊付)

 フンケ鉄道敷設監督官

◯ベルサイユ線区(71年1月27日設置以降)

 カール・パウル・エドラー・フォン・デア・プラニッツ大尉(参謀本部ザクセン王国派遣参謀)

 レント技師


挿絵(By みてみん)

独軍大砲備品・砲弾輸送列車


◇鉄道運行係


◯ザールブリュッケン管区(独国内・商務省鉄道管理局の支所が兼務)

 管区長 パーペ参事官

 幕僚 レードリヒ参事官兼技師、フォン・ゲラルト主事補

◯ストラスブール管区

 管区長 デュルベルク参事官

 幕僚 ケンゼル建設監督官、クロナウ参事官兼技師、シュルツ博士(主事補)

◯ナンシー管区

 管区長 フレック主事補(70年12月31日まで)→ウルジヌース主事補(以降)

 幕僚 フリュー鉄道敷設監督官兼運行監督官、シュタッペンベック主事補

◯エペルネー管区(70年12月31日まで)→ランス管区(以降)

 管区長 フリューリヒ博士(主事補)

 幕僚 スティーグマン鉄道敷設監督官兼運行監督官、ブレフェルト主事補

◯ショーモン管区(71年1月1日設置・2月9日まで)→コルベイユ管区(以降)

 管区長 フレック主事補(ナンシーより異動赴任)

 幕僚 シュルツ参事官兼技師、フンケ鉄道敷設監督官(出征線区と兼任)、ブライトハウプト主事補


◇各軍の野戦鉄道部長


◯第一軍兵站総監部 ヴロン予備役参事官兼技師

◯第二軍兵站総監部 フォークト予備役参事官兼技師

◯第三軍兵站総監部 シモン参事官

◯マース(第四)軍兵站総監部

 この軍に関しては戦時中に設立されたため部長を置きませんでした。代わりに開戦までフランス北部の某鉄道会社に雇われていたグラゼル氏を鉄道輸送運営管理課が採用し鉄道敷設技師として軍に同行させます。グラゼル氏はプロシア王国東部出身でフランスに帰化していました。彼はパリ包囲網北部における鉄道網の修理・敷設に活躍しました。


挿絵(By みてみん)

輸送列車に便乗する独軍軍医たち


◇野戦鉄道隊


◯第1野戦鉄道隊

 隊長 ジルクゼン参事官兼技師

 中隊長 ノイハウス中尉(後備第20連隊より出向)

◯第2野戦鉄道隊

 隊長 ヴェックス参事官兼技師

 中隊長 エーケル大尉(予備・後備第37大隊より出向)

◯第3野戦鉄道隊

 隊長 シモン参事官兼技師

 中隊長 ビュルガー中尉(予備・後備第35大隊より出向)

◯第4野戦鉄道隊

 隊長 メンネ鉄道敷設監督官(70年9月下旬まで)→代理 フィールエッゲ鉄道敷設監督官

 中隊長 フォン・ザイドリッツ=クルツバッハ=ルートヴィッヒスドルフ大尉(後備第23連隊より出向)

◯第5野戦鉄道隊

 この鉄道隊は戦時編成された隊で、70年10月上旬、第14軍団長となったフォン・ヴェルダー歩兵大将が南仏に向けて別働する軍団のために、軍団付技術顧問クローン技師と工兵中隊長ヴァルター中尉に命じて工兵諸中隊から人員を抜粋して編成しました。70年11月下旬、ベルサイユ大本営に認可され人員を補充し正規の「第5」野戦鉄道隊となりました。

 隊長 クローン技師

 中隊長 ケターホット中尉(後備第45連隊より出向)

◯バイエルン王国野戦鉄道隊

 隊長 ギースリング技師

 中隊長 ウルリヒ大尉(バイエルン王国工兵団より出向)


◇鉄道隊として使用された要塞工兵中隊


 各鉄道隊に配属された1個の鉄道中隊だけでは作業が困難な場合、付近の後備部隊や時には野戦部隊が応援に駆け付けましたが、長期に渡る工事の場合、要塞工兵中隊が一時的に転属し作業に当たりました。


*ルミリーからポンタ=ムッソンへの野戦鉄道新線建設に動員されゴルツ大尉の指揮下で従事した諸隊(70年8月15日~9月28日まで)

 ・第3軍団要塞工兵第2,3中隊

 ・第4軍団要塞工兵第2,3中隊

*第4野戦鉄道隊に配属(70年11月10日~71年1月10日まで)され、後にバイエルン王国野戦鉄道隊に配属(71年1月27日~2月9日まで)

 ・第5軍団要塞工兵第1中隊

*第2野戦鉄道隊に配属(70年11月7日以降)

 ・第6軍団要塞工兵第2中隊

*トリユポール(マルヌ河畔。モーの東5キロ)付近の鉄道架橋工事に動員(70年9月22日~11月10日まで)

 ・第8軍団要塞工兵第3中隊

*第2野戦鉄道隊に配属(70年11月2日~同月19日まで)

 ・第11軍団要塞工兵第1中隊

*第2野戦鉄道隊に配属(70年11月7日~12月5日まで)

 ・第11軍団要塞工兵第2,3中隊

*トリユポール付近の鉄道架橋工事に動員(70年10月15日~11月11日まで)され、後にバイエルン王国野戦鉄道隊に配属(70年11月15日~12月27日まで)


挿絵(By みてみん)

鹵獲された貨車と独軍野営(メッス)


☆ 11月以降の鉄道後方連絡線


 11月9日。ベルサイユ大本営は各軍の鉄道使用につき混乱を避けるため使用路線を次のように規定します。


*第一軍

 ザールブリュッケン~メッス~フルアール~エペルネー又はランスまで

*マース(第四)軍

 第一軍と同じ路線を使用し、それ以降はランス~ソアソン~パリ近郊まで

*第三軍

 ヴァイセンブルク~ヴェンデンハイム~フルアール~エペルネー~シャトー=ティエリ~パリ近郊まで

*南独三ヶ国(バイエルン・ビュルテンベルク・バーデン)

 ケール~ストラスブール間のライン川橋梁が修理を終えた後、ストラスブール~ヴェンデンハイム線を使用し、以降第三軍と同じ路線を使用。

*第二軍

 ヴァイセンブルク~フルアール~ブレーム~ショーモン線とヌシャトー~ショーモン線(ヌシャトーまではナンシーから陸路使用)


 このため独軍後方連絡線ではその全てがフルアール(ナンシー北)~ブレーム(ヴィトリ=ル=フランソワの東)の鉄道路線一本に支えられ、このままでは輸送が滞ること必至であり、輸送を分散するために陸路を積極活用しなくてはならない状況はそれまでと変わりませんでした。そうなれば次第に増えて行くフランク・ティラール(義勇兵)の襲撃に備えなくてはならず、少ない後備部隊が広大な占領地を巡回しつつ、神出鬼没でしつこく、時には痛い目に遭わされる義勇兵との「小戦闘」を繰り返すのでした。

 その他にも大本営の命令通りの鉄道路線は未だ完全に復活している訳でなく、なお各軍に隷属する野戦鉄道隊が大いなる努力を重ね、開通を急ぐしかありませんでした。


 第4野戦鉄道隊と第1野戦鉄道隊は必死となって寸断された線路、落とされた鉄道橋、爆破されたトンネルなどを修繕し、結果エペルネー~ランス~ソアソン線が10月末に、ヴィエルジー~クレピ=アン=ヴァロワ~ミトリー線が10月27日にそれぞれ開通し、この北ルートによってマース(第四)軍の兵站線が確保され、またクレピ~シャンティイ~ゴネス線も仏の鉄道備蓄資材と人員を徴用して10月中に運行を開始します。


 ヴィエルジー(ソアソンの南10.5キロ)の東にある鉄道トンネル(約1,300m)*はソアソンが攻囲される以前(9月中旬)、仏軍によってトンネル内二ヶ所が爆破され使用不能となっており、第4野戦鉄道隊の第2分隊が10月9日から修復工事を開始、追って第1野戦鉄道隊からも一部人員が動員されて作業を手伝い、工事は昼夜兼行・休みなく行われますが、これは元より難工事であって11月18日にようやく開通します。兵站輸送列車は同月20日からパリ包囲網北東部の補給末端ミトリー(=モリー)かゴネスまで運行を開始し、マース軍はこれで攻城砲兵や資材を直接搬入することが出来るようになりました(12月中旬には末端駅がスブランまで延伸されます)。


※このヴィエルジー・トンネルでは普仏戦争から100年後の1972年6月、二本の列車が閉じ込められる崩落事故が発生し、108名死亡・111名負傷と大惨事(仏鉄道史上三番目に多い犠牲者)となってしまいました。原因は普仏、第一次、第二次と続いた戦争でトンネルの損傷と応急修繕を繰り返した結果、レンガのアーチで作られた内壁が耐久限度を超えたため、この年に壁面をコンクリートで固める補強工事が列車の運行と同時進行で行われ、その工事の工程にミスがあったため、と結論されています。


挿絵(By みてみん)

ヴィエルジー・トンネル(20世紀初頭)


 第一軍はメッスからシャンパーニュ地方に進む間、メッス北西方のブリエ~ダンヴィエ~デュン=シュル=ムーズ~ヴージエを経てルテルへ至る諸街道と、ブリエ~エテン~ベルダンを経てランスに至る諸街道とを兵站連絡線に指定して整備することに決し、その後に同軍が11月後半、パリの包囲網援護のために前進を命じられると、ソアソンまでの鉄道線とコンピエーニュに至る街道を後方連絡線に追加指定して兵站等の輸送を維持しました。


 クレピ=アン=ヴァロワ(ソアソンの南西35.3キロ)~シャンティイ(クレピの西31キロ)鉄道線からクレイユを経由してコンピエーニュ(北東)やクレルモン(北)又はボーヴェ(北西)へ通じるそれぞれの鉄道線は10月中に修繕を終え運行を開始しています。なお、シャンティイの北でオワーズ川を越える鉄道橋はパリの包囲が始まった9月中頃に破壊されましたがこの工事も進められ、仮橋の架設で凌いでいた鉄道は12月22日に修繕の完了した固定橋に切り替えられました。

 第一軍はその後アミアンやルーアンに向けて進撃し、これに従い12月上旬に破壊が一部で済んでいたクレルモン~アミアン線は第1野戦鉄道隊の一部が、アミアン~ルーアン線は第8軍団の野戦工兵第1中隊の一部がそれぞれ修理しました。この鉄道開通によって第一軍は仏北西部作戦域と本国までの鉄道輸送が可能となり、またソンム河畔とセーヌ河畔の間での行き来が容易となって手強い仏北部軍やル・アーブルの仏兵団との戦いに寄与することとなったのでした。


 この第一軍だけでなくマース軍も使用するソアソンからシャンティイまでの路線は陸路を並行使用しても渋滞が続き、鉄道輸送運営管理課は負担軽減を図るため11月中旬にランス~ラン(Laon)に通じる鉄道路線の修理を命じました。この路線はラ・フェール要塞が陥落(11月28日)した直後、要塞直下までの部分で修理を完了しますが、その先は1月3日まで掛かってアミアンまで開通させるのでした。

 この遅延が発生した大きな原因は12月9日に発生したアム(サン=カンタンの南西19キロ)を仏北部軍の強力な遊撃隊が襲撃した事件で、第3鉄道隊(と護衛に付いていた第81「ヘッセン第1」連隊の一部)は多くの捕虜を出してしまったために工事が一時中断されたのでした(アムの襲撃で第81連隊は戦死2名・負傷2名・捕虜59名、第3鉄道隊は負傷1名・捕虜141名を出します)。


 第三軍が使用した鉄道路線はナンシーの西、トゥール要塞の陥落直後にノジャン=ラルト(エペルネーの西47キロ)まで開通した鉄道線でしたが、その先パリの包囲網に至る路線は仏軍によって多くの鉄道橋やトンネルの爆破、線路の取り外し、切り通しの封鎖などの妨害工作が行われており、鉄道隊はここでも難工事の数々を成さねばならなくなりました。

 特にエスブリー(モーの南南西8キロ。現在その南郊外にパリ「夢の国」があります)のマルヌ川上・下流側(東西マルヌ架橋)にあった二本の鉄道橋とトリユポール付近の鉄道橋の復旧は重要で、第2と第3野戦鉄道隊にバイエルン野戦鉄道隊が加わり、更には第8軍団要塞工兵第3中隊とバイエルン兵站工兵中隊からも応援を呼ぶ難工事でした。

 アルマンティエール(=アン=ブリ。モーの東10.5キロ)西郊の爆破されたトンネル(長660m)復旧も難しい工事でしたが、これは第3野戦鉄道隊の一部が11月11日までに開通させます。この間に北口部分を爆破され封鎖されたナンテュイユ=シュル=マルヌ(モーの東25キロ)西郊のトンネル(長940m)も第2野戦鉄道隊の第1分隊が工事に取りかかりますが、工事中の11月6日に再び崩落事故が発生し、このためトンネルの修理は断念(完成が終戦後になると予測)されます。幸いにも10月19日以来このトンネルを迂回する新線の工事が行われていましたが、トンネル修繕の資材と人材はこちらへ振り向けられました。この工事促進のため、第11軍団要塞工兵第1中隊がストラスブールから、同軍団要塞工兵第2,3中隊に第6軍団要塞工兵第2中隊が本国から召集され、おかげで迂回新線は11月18日に無事完成し同月23日から運行を開始するのでした。


挿絵(By みてみん)

鉄道を破壊する仏軍


 独大本営は、このノジャン=ラルト以西のパリ方面鉄道線のラニー=シュル=マルヌ(モーの南西15.6キロ)を以て第三軍の主要兵站基地と定め、エスブリーとモーを以て貨物降着地と定めます。パリ北部からも攻城砲撃を行うため、マース軍の大砲・弾薬を含む攻城資材の降着地はその先、ヴェール=シュル=マルヌ(ラニーの西4.8キロ)とされました。また同時に、パリ南方で初期から包囲網に参加する諸隊のため使用されて来たエペルネー~モンミライユ~クロミエ~トゥルナン=アン=ブリの陸路連絡街道と、これに接続したコルベイユ(=エソンヌ)並びにヴィルヌーブ=サン=ジョルジュへの街道は一端兵站路指定を解除され、代わりに鉄道補給端末となったモー並びにラニーからコルベイユ並びにヴィルヌーブ=サン=ジョルジュへ向かう街道が兵站路に指定されたのです。念願だったコルベイユ付近の常設橋梁修理は第三軍兵站総監部の強い要望によって工事が進められ12月28日に完成しパリ砲撃のための弾薬運搬を後押ししています。


挿絵(By みてみん)

ラニー=シュル=マルヌ(20世紀初頭)


普仏戦争要図・北部

挿絵(By みてみん)


普仏戦争要図・北西部

挿絵(By みてみん)


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