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ベルフォール攻囲(後)/名誉の開城


1870-71 ベルフォール攻城図


挿絵(By みてみん)




挿絵(By みてみん)

ベルフォール要塞遠景


 1871年2月8日。早朝よりオート・ペルーズ分派堡直前の対壕から堡塁内の気配や音に聞き耳を立てていた独の哨兵は「堡塁内は全く静穏」との報告を後方へ送ります。独の要塞工兵たちは昨夜、この分派堡外壕直前まで延びていた対壕から外壕に向かって殆ど一人が進めるだけの急造対壕を分派堡の外壕に接するまで掘り進んでおり、そこは堡塁の塁壁上からも死角となっていました。

 報告を聞いて、分派堡が油断しているのかまたは守備隊が消えたのか、何れにしても機会到来と捉えた対壕当直士官の第2軍団要塞工兵第1中隊長、カール・オスカー・ベルンハルト・フェリクス・レーゼ大尉は午後1時前後、部下5名と共に対壕先端に至ると運び込んだ堡籃を分派堡の外壕(仏資料では深さ2.5m、幅4m)に落し込み、部下と共に壕内へ飛び込むと堡籃を階段状に設えて急ぎ垂直な外壁(壕の底からは8、9mになります)を登りました。

 塁壁の上に立った大尉は分派堡内の捜索に入りますが、砲撃を受けて穴だらけの中庭でスープを作る1名の士官と約20名の兵士を発見します。今やこの小人数となった守備隊は煮炊きに集中していたため独工兵の侵入に気付けなかった様子で、突然現れたレーゼ大尉らの姿に驚き慌てた仏士官は10名ほどの部下と共に咽喉部から逃げ出してしまい、逃げ遅れた残り半数は大人しく降伏するのでした。ちょうどこの時、今朝方最前線まで偵察に繰り出してそのまま壕内待機していた第29号軽臼砲砲台の指揮官クローズ中尉とその部下30名が工兵の侵入ルートを使って現場に到着し、すると付近の対壕監視兵たちも次々に壕内へ侵入し始めました。


 「オート・ペルーズ堡に敵なし」との報に、第二平行壕で待機していたヒルシュベルク後備大隊の2個(第1,2)中隊も前進して分派堡内へ入り、午後2時頃、オート・ペルーズ堡は完全に独軍の手に落ちたのでした。

レーゼ大尉は麾下中隊が揃うと、追って到着したエルス後備大隊の2個(第1,2)中隊の協力を仰ぎ、共に要塞に向けて開いた咽喉部に防御を施す工事と南方正面に通路を開く工事(即ち攻守方向の180度反転)を始めるのでした。

 この時、オート・ペルーズ堡内の有様は悲惨極まる光景だったようで、独軍は砲弾直撃に因るか腔発(砲身内での砲弾爆発)による破損で使用不能となった要塞砲(12センチカノン砲)4門とその砲架数輌を発見し、また累々と散らばる軍備品(その多くが破損していました)を見るのです。堡塁内部で原形を留めていたのは咽喉部二ヶ所の掩蔽部と塁壁内部の銃座だけでした。クローズ中尉は直ちに第29号砲台から15センチ滑腔臼砲4門を運び込み堡塁内に即席の砲座を設け、西隣のバス・ペルーズ分派堡と要塞重城との中間地点(仏軍の反撃が考えられる方向)への砲撃を開始するのです。

 午後3時。仏軍はオート・ペルーズ堡の喪失を知って、この分派堡に向け猛砲撃を開始しました。レーゼ大尉やクローズ中尉らは直ちに作業を中断し分派堡内の独将兵は多くが堡塁南側の深い外壕に入って難を避けるのでした。


挿絵(By みてみん)

オート・ペルーズ堡の惨状(仏19世紀のの絵葉書)


 このオート・ペルーズ堡の陥落は、お隣バス・ペルーズ堡に面していた独将兵を刺激して一気果敢に堡塁へ殺到させることとなります。

 こちらではユリウス・テオドール・ツェツィ・アポリナリウス・フォン・ヴェルツィン中尉(第10軍団要塞工兵第2中隊長)とリーベスキンド副曹長が率いるエルス後備大隊にヒルシュベルク後備大隊、そして第10軍団要塞工兵第2中隊にそれぞれ所属する5、60名で、彼らはリーベスキンド副曹長のどら声に続いて鬨を上げて壕と塁壁を乗り越え分派堡内部に乱入しました。

 この時の仏守備隊はオート・ペルーズ堡より多く(約1個中隊強)存在し、左右の稜角に控えた仏兵は中堤に登って来た独将兵を狙撃しますが押さえ切れず、独将兵は中庭になだれ込んだため堡塁各所で配置に就いていた仏将兵は咽喉部に集合した中隊主力と合流し、仏中隊は銃撃を行いつつベルフォール郭外街ル・フルノーへ向けて後退して行くのでした。


 バス・ペルーズ堡でも内部は攻城重砲による破損が甚だしく、独軍は残置された12センチカノン砲5門と破損した各種機材少々を鹵獲しました。独軍はこちらの堡塁でも緊急工事を行い咽喉部ではヒルシュベルク後備大隊の第4中隊が守備に就きます。

 要塞重城に程近いこの分派堡には、たちまち仏軍の銃砲弾が降り注ぎ始め堡塁の防御工事は邪魔され続けますが、独軍は危険を冒して工事を続け、午後5時には第30号砲台から15センチ滑腔臼砲4門が運び込まれて設置されると、直ちにル・フルノーへ臼砲弾を撃ち込むのでした。

 同時に危険なベルヴュー堡からの仏軍出撃を防ぐため、独軍は止まない弾雨の中で第35と36号の二砲台から9センチカノン砲2門を狭い対壕に苦戦しながら運搬し、1門の砲架には弾丸が当たるという際どい作業でしたがバス・ペルーズ堡の西側高地縁に急遽設えた肩墻に据えるのです。この砲台は第36号a砲台と命名され、8日夜間の危険な時間帯、仏軍の出撃に備えたのでした。この臨時急造砲台は翌日昼間に撤収されています。


 8日夜。独攻囲兵団は仏軍のペルーズ高地奪還に備えてコーニッツ後備大隊がバーゼル国際鉄道線路際まで前進し、ここより各1個中隊を交通壕と平行壕を経由して両分派堡へ送り、シュナイデミュール後備大隊は対壕地帯の左翼(西側)外となるダンジュータン部落の警備に、第67「マグデブルク第4」連隊は対壕地帯の右翼(東側)で警戒態勢に入り、グネーゼン後備大隊は第二平行壕の両翼に分かれて何時でもペルーズ高地上に前進出来るよう待機しました。

 両分派堡の守備隊はヒルシュベルク後備大隊のそれぞれ2個中隊と、砲兵1個隊(士官1名・下士官4名・砲兵24名からなります)で構成されましたが、後にシュナイデミュール後備大隊(バス・ペルーズ堡で苦杯を嘗めたマンシュタイン大尉の部隊です)から各1個中隊が増援として送られました。

 これでハンス・ルートヴィヒ・ウード・フォン・トレスコウ中将は要塞本郭に対する近距離・同高度からの攻城作戦を展開出来ることになったのです。


 ペルーズ高地の両分派堡が陥落した夕べ、ピエール・マリエ・フィリップ・アリスティド・ダンフォール大佐はU・トレスコウ将軍に宛てて白旗の使者を送り、スイスに派遣したシャテル大尉が戻って状況を報告するまで敵対行為を休止するよう申し入れます。実はこの日昼間、ダンフォール大佐は「仏独間の休戦は本物だがその範囲からベルフォールが除かれている」との情報を、密かに入手した新聞紙面から知ったのです。しかしU・トレスコウ将軍は「ベルフォールの開城を拒む限りでは休戦はあり得ない」としてこれを拒絶します。


挿絵(By みてみん)

ダンフォール=ロシュロー大佐


 独攻囲兵団は翌9日の午前、ペルーズの森北縁に苦労して築いた第37、38、39号三つの砲台から15センチカノン砲合計12門の強力な攻城砲撃を開始しました。目標は要塞の核心部分である重城、ラ・ジュスティス堡、そしてラ・ミオット堡でした。

 翌10日には第二平行壕で断続的に工事が進められていた第40号臼砲砲台(砲撃当初は27センチ滑腔臼砲2門で、後刻同臼砲4門と22センチ滑腔臼砲2門に強化されます)が完成し重城に向けて巨大な臼砲弾を撃ち込み始めます。12日になると攻城砲撃に第41号臼砲台(60ポンド滑腔臼砲4門)が加わり、更にはラ・テュイルリー家屋群(バヴィリエの東北東1キロ。現存しません)付近に急造された第42号臼砲台(15センチ滑腔臼砲4門)が完成、こちらは北へ僅か500mしか離れていないベルヴュー堡に対して砲撃を始めました。

 なお、ペルーズ高地の両堡塁が占領されたため、この両堡塁を目標としていた、又は役目を両堡塁間に新設される第三平行壕の砲台群に譲るため次の砲台が8日夜までに役目を終え、廃止されます。


挿絵(By みてみん)

ダンジュータンからベルヴュー堡(71年2月12日)


※2月8日夜までに廃止された独攻囲兵団の攻城砲台

*23号砲台 15センチカノン砲x4門

*26号砲台 28センチ滑腔臼砲x4門

*28号砲台 60ポンド滑腔臼砲x4門

*29号砲台 15センチ滑腔臼砲x8門

*30号砲台 15センチ滑腔臼砲x4門

*30号a砲台 15センチ滑腔臼砲x4門

*34号砲台 9センチカノン砲x2門

*35号砲台 9センチカノン砲x1門

*12号砲台 12センチカノン砲x4門(廃止は2月9日。備砲の砲身が焼損し穴が開いたため)


 オート・ペルーズ、バス・ペルーズ両分派堡の「攻守正面180度転換工事」と両堡間のペルーズ高地尾根上に第三平行壕を設置する工事は、両堡塁占領直後の8日夕から連続集中して行われ、9日夜には殆ど完成した第三平行壕は長さ634mの交通壕となります。独攻囲兵団はこの工事に両分派堡へ守備隊以外にそれぞれ150名を増員、第二平行壕には500名の対壕警戒監視兵を配置して仏軍逆襲に備え、工事には500名を投入しました。定員充足なら後備2個大隊・12時間で交代としても倍の後備4個大隊で賄えるこの作業も、攻囲兵団は24時間通しの作業に後備6個大隊を要したと伝わります。

 ペルーズ高地尾根には合計28門の攻城要塞砲を搬入、砲台は第三平行壕上に7個新設することが決められますが、作業途中でまだ砲台を設置する隙間があることが分かり追加3砲台が増設されます。現場は岩の多い高地上で、工事は変わらず困難でしたが堅い地面を必要とする重砲陣地としては最適でした。しかし実際砲撃して見ると積雪や霜により地盤が沈下することが分かり、要塞砲兵たちは板や粗朶束を砲の下に差し入れて照準が狂うのを防ぎます。各砲台には平均50名の要塞砲兵と10頭の馬匹が配備されました。

 この攻城砲台増設工事により不要又は備砲を譲る事となった第14、17、18、27各号砲台は10日中に廃止されました。

 また、オート・ペルーズ堡の西隣にも仏軍の逆襲に備えるため砲台を一個設置(第34号a砲台)しますが、この工事中、仏軍の砲撃により工事を指揮していたシルマー中尉が戦死してしまいました。


 これにより、10日夜にベルフォール要塞施設に砲撃を行うのは55門の攻城重砲となり、この夜から毎日平均1,300から1,400発の砲弾を要塞に撃ち込むのでした。


挿絵(By みてみん)

第一平行壕後方の砲台(71年2月12日)


※2月10日夜までに起工された独攻囲兵団の攻城砲台

●第三平行壕上

*43号砲台 12センチカノン砲x4門 

*44号砲台 12センチカノン砲x4門

*45号砲台 15センチカノン砲x4門

*47号砲台 15センチカノン砲x4門

*49号砲台 12センチカノン砲x4門

*51号砲台 15センチカノン砲x4門

*52号砲台 15センチカノン砲x4門

●同・追加施工

*46号砲台 28センチ滑腔臼砲x4門

*48号砲台 12センチカノン砲x4門

*50号砲台 12センチカノン砲x4門

●オート・ペルーズ堡西

*34号a砲台 9センチカノン砲x2門

●2月10日に廃止された砲台

*14号砲台 15センチカノン砲x4門 

*17号砲台 12センチカノン砲x4門

*18号砲台 15センチカノン砲x4門

*27号砲台 12センチカノン砲x4門

●砲撃を続行した既存砲台

*7号砲台 鹵獲15センチカノン砲x4門

*9号砲台 27センチ滑腔臼砲x2門

*21号砲台 27センチ滑腔臼砲x2門、21センチ施条臼砲x2門

*22号砲台 鹵獲15センチ短砲身カノン砲x4門

*24号砲台 15センチカノン砲x4門

*25号砲台 12センチカノン砲x4門

*31号砲台 60ポンド滑腔臼砲x6門

*32号砲台 12センチカノン砲x4門

*33号砲台 15センチカノン砲x4門

*36号砲台 9センチカノン砲x1門

*37号砲台 15センチカノン砲x4門

*38号砲台 15センチカノン砲x4門

*39号砲台 15センチカノン砲x4門

*40号砲台 27センチ滑腔臼砲x4門、22センチ滑腔臼砲x2門


挿絵(By みてみん)

第三平行壕の砲台(71年2月21日)


 この既存砲台で最も効果を上げたのはB軍要塞砲兵が操るペルーズ森北縁の第37・38・39号砲台で、ペルーズ部落南縁から安全に移動可能な交通壕が加えられたこの15センチカノン砲12門はラ・ジュスティス堡と重城地区に大損害を与え、重城からベルフォール市街へ通じる崖にあった階段も使用不能となり、市街との連絡が困難となりました。


 このB軍砲台を重城の砲撃に専念させるためペルーズ部落南方の交通壕上に新砲台を築造することが計画されます。

 この砲台は第53号砲台と名付けられ、強力な15センチ長砲身カノン砲x4門が設置されることとなってラ・ジュスティス、ラ・ミオット両分派堡の徹底破壊を目指しました。しかしこの工事は資材搬入から大変な難事となり、それは付近の街道が泥濘深く沈み込んで通行困難となったためでした。要塞工兵たちは沼と化した道路を直そうとしましたが中々改善までは至りません。当然ながらこの泥濘は要塞砲の運搬や弾薬輸送に影響し、とりあえず用のない野砲兵やその弾薬縦列は全ての馬匹を攻城部隊に引き渡すよう命じられるのでした。


 この期間、コルマー・フォン・デブシッツ少将とその支隊はポンタルリエ方面での任務(主に捕虜の取り扱い・護送でした)に従事していましたが、2月8日までに任務を終了しベルフォール包囲網外まで帰着しました。同じく2月10日、11日の両日にロベルト・フォン・ツィンメルマン大佐が予備第4師団の後備6個大隊と野砲兵2個中隊を率いてベルフォール包囲網へ到着したため、U・トレスコウ将軍は歩兵29個大隊を使用することが出来るようになります。

 2月12日に独攻囲兵団は包囲網の配置増強を行い、結果、攻囲西方サブルーズ河岸~オー・デュ・モンの森までを4個大隊、攻囲北方オー・デュ・モンの森~ヴァルドア~ヴェトリニュ(ペルーズの北3.7キロ)に3個大隊、攻囲東及び南方のヴェトリニュ~ペルーズ~ダンジュータンに6個大隊を配して各々包囲網の監視に当たらせ、残り15個半大隊を要塞攻城のために使用するのです。この時デブシッツ隊の後備2個中隊はモルトーとモンベリアールに1個中隊ずつ守備隊として後置されていました。

 しかし部隊数こそ増えたものの2月に入って雨が続いたため将兵の疾病罹患率が更に高まってしまい、定員約800名から1,000名の歩兵1個大隊が度々実働300名以下となってしまいます。要塞工兵のある中隊は2月10日に94名の傷病者を報告しています(工兵中隊は250名の充足定員ですが戦場では多くて実働200名程度だったと思われます)


 2月11日の夜になると、気温は再び氷点下に下がり、戦場に氷の世界が戻って来ます。寒気は疲弊した将兵の身体には堪えるものの激しい運動で身体が温まる攻城作業では寒さは二の次、水が消えれば作業は捗りました。将兵は懸命に働き13日の早朝にはペルーズ高地尾根の右翼第34号aから左翼第52号砲台まで、途中第46号を除く全ての砲台に要塞攻城砲が備え付けられ砲撃準備が整いました(ただ第44号砲台の12センチカノン砲1門が搬入途中深い泥濘に沈み込み、梃子でも動かなくなり放置され同砲台は3門配備となります)。ペルーズ森東の第53号砲台は翌14日夜に竣工予定で、残された第46号砲台のみ設置が難しい重臼砲用砲台のため多くの問題を抱えてなお工事が続きました。


 こうして着々と「最終総攻撃」の準備が進む中の12日、U・トレスコウ将軍に宛てたベルサイユ大本営よりの電信命令が届き、それは、「ベルフォール要塞司令官であるダンフォール=ロシュロー大佐がもし、『守備隊が制約なく自由に退去出来るならば要塞を開城する』と提案して来たのならば、その条件で合意することを許可する」とのことで、その場合は開城交渉の権限を将軍に委任する、との内容でした。U・トレスコウ将軍はモルトケ参謀総長に対し、「現在ペルーズの尾根に要塞砲を搬入している最中ですので、この提案を出すのは48時間後にしたいと考えます」との返信を行っています。


挿絵(By みてみん)

ベルフォール 独軍白旗の使者


 前述通り13日昼に攻囲兵団は計97門の要塞砲・各80発の各種砲弾を用意し終え、翌14日朝にはベルフォール要塞の「壊滅的飽和砲撃」を開始する準備を成しました。要塞工兵はこれに満足せず各所で作業を続行しています。

 U・トレスコウ将軍はこの砲撃前にダンフォール大佐に対し警告を送ろうと白旗の使者を要塞へ送りました。その伝言は「既に貴官らが成し遂げた素晴らしい防衛戦の名誉は赫々たるものであり、今ならばその名誉によって有利な条件で要塞を開城出来るので、その方が得策であろう」との主旨でした。また、大佐に向けた書簡も手渡し、これには「スイスに至った貴官の士官が帰還するまで攻城作業を遅らせていたが」(どう考えても嘘です)として「即答は求めないものの12時間後に一斉砲撃を行うことを通告する」と、U・トレスコウ将軍はあくまで「降伏」を求めていることを暗に示すのです。

 この「降伏勧告」を受け取った直後、ダンフォール大佐は再び訪れた独軍の使者から「帝国首相ビスマルク伯を介してU・トレスコウ将軍に託する仏国臨時政府からダンフォール大佐へ宛てた電報」なるものを受け取るのでした。

 「ベルフォール要塞司令官は適切な時期に独軍に対して開城することを許す。守備隊は軍人の名誉を保持し要塞の機密文書を携帯し仏軍の支配地域へ向かうこととなる。外務大臣代理 エルネスト・ピカール」

 これでダンフォール大佐ら守備隊は「降伏」ではなく「要塞の明け渡し」をするだけで、宣言や条件なしで捕虜とならずに仏の支配下へ向かうことが可能となりました。


挿絵(By みてみん)

仏守備隊にダンフォール大佐宛の書簡を渡す独軍使(ヌーヴィル画)


 しかし頑固なダンフォール大佐は独を介して送られた命令が気に入らず、「直接政府から本官に対し命令を受けない限り」開城は出来ない、と拒むのです。このため再び士官1名をバーゼルに送りパリ政府に直接連絡を取ることを許すよう要求しますが、この時、先にスイスへ向かったシャテル大尉が帰還する旨連絡が入りました。

 正にこの時、ベルサイユでは再びビスマルクとファーブルが会して先の休戦からは除外されていた仏南東部三県とベルフォールにも休戦を拡張する追加協約が合意されていたのです。


 これはあらゆる意味でぎりぎりのタイミングでした。


 U・トレスコウ将軍はベルサイユの意向に従って(これ以上の流血なしに)要塞を手に入れることとし砲撃を中止させました。ダンフォール大佐は15日午前、シャテル大尉が到着する前に休戦発効を知り、またシャテル大尉が先に送った書簡でパリ政府が「直接ダンフォール大佐に開城するよう」命じたことも知りました。

 この時、U・トレスコウ将軍は気にしていませんでしたが、ベルフォールは「降伏する前に休戦となった」即ち「仏軍が保持したまま休戦に至った」たとえばラングルやブザンソンと同様の土地となったのです。この休戦追加協定では第一条でベルフォールは独が支配する占領地とされ、その意味で仏支配下とされたラングルやブザンソンとは違いましたが、これもベルフォールがこの2ヶ所の要塞都市とは違い独軍が本格的な攻囲を行い本気で取りに行った(犠牲も多い)場所だったため、「独軍の名誉も保持するため」仏が明け渡した形でした。

 この「引き分け」の幕引きの意味は大きく、和平条約を待たず既に決まった感のある「アルザス・ロレーヌ」が「エルザス・ロートリンゲン」として独帝国領となる事実からベルフォールが「またもや除外される」根拠ともなったのでした。

 こう考えた場合、独攻囲兵団が焦ってペルーズ両分派堡を奪取しようとせず地道に正攻法を続けていたならば、ほぼ2日早くペルーズ高地は独の手に入っていたのかも知れず、その場合、休戦の追加交渉前にベルフォールは廃墟となって陥落し、「テリトワール・ドゥ・ベルフォール(ベルフォール領)」なる現在まで続く特別な存在になることもなく、ただエルザス州オ=ラン県南端の地として50年後まで独領国境の街となっていたのかも知れないのです。


 「もしも」の遊びはここまでとして、ベルフォール・2月15日に戻りましょう。


 勤勉な独要塞工兵と後備兵たちは、上司が開城を巡って駆け引きをしている間にもペルーズ高地から要塞地区に向け対壕掘削を続け、バス・ペルーズ堡から100m先まで前進していました。この15日夕刻、独仏間で最終的な要塞引き渡しの交渉が始まり、長い話し合いは翌16日午後まで掛かってようやく妥結終了するのでした。ダンフォール大佐は最後まで是が非でも要塞砲を全て保有して退去する、と現実的ではない主張もしていましたが、最後は折れました。


 2月17から18日に掛け、要塞守備隊はその武器と車輌を手放すことなく整然として要塞を後にし、数個縦隊でブレトラン(ロン=ル=ソニエの北北西11キロ)とボールペール=アン=ブレス(同西12.3キロ)方面に達し仏支配地域(ソーヌ=エ=ロアール県)へ入るため、イル=シュル=ル=ドゥー経由とサンティポリット経由に別れて行軍することとなります。行軍は一つの縦隊各1,000名で、各縦隊間は5キロの間隔を開け、その糧食は要塞備蓄の糧食を独軍が提供した糧食車輌150輌で運びました。ダンフォール大佐自身は最後の縦隊を直率して要塞を去るのです(最終目的地はグルノーブルでした)。因みにベルフォールとその周辺から参加した臨時護国軍兵や国民衛兵は武器を投棄してベルフォール市内に留まりました。


挿絵(By みてみん)

ベルフォールを去る仏守備隊(仏第45連隊の将兵)


 独攻囲兵団は2月18日午前10時、引受委員の士官数名が要塞に入り引渡委員の仏軍士官から要塞を引き取りました。正午には歩兵3個大隊・騎兵1個中隊そして要塞砲兵若干と要塞工兵2個中隊が当初の要塞守備隊としてベルフォールに入城しました。


※2月18日・ベルフォール要塞に入城した独軍守備隊

○ヒルシュベルク後備大隊

○ヤウエル後備大隊

○エルス後備大隊

○予備槍騎兵第6連隊・第2中隊

○要塞砲兵第6「シュレジエン」連隊・混成分遣隊

○第8軍団要塞工兵第2中隊

○Ba要塞工兵大隊・第2中隊


挿絵(By みてみん)

ベルフォール重城内の独軍守備隊

挿絵(By みてみん)

重城内の要塞砲でポーズを取る独要塞砲兵


 U・トレスコウ将軍は午後3時、攻囲兵団の各団隊より抽出した将兵による混成隊の先頭に立ち、ベルフォール要塞に入城します。


 独軍が戦利品として得た主な武器は、各種大砲341門(うち破損したもの56門)、砲架356輌(うち破損したもの119門)、小銃22,000挺で、その他大量の要塞器材と比較的大量に残されていた弾薬と糧食を納めました。

 ダンフォール大佐がU・トレスコウ将軍に報告した要塞守備隊の総数は包囲当初(11月3日)、士官372名・下士官兵17,322名で、死傷・疾病・捕虜・脱走等様々な理由で士官32名・下士官兵4,713名を失いました。同じく攻囲中のベルフォール住民(包囲当初約4,000名が居残っていました)の死者は236名で、この内砲撃などによる戦闘が理由の死者は約50名でした。

 独軍の戦闘による人的損害(疾病は含みません)は70年11月2日から71年2月19日まで士官16名・下士官兵279名・馬匹8頭が戦死、士官71名(内軍医2名)・下士官兵1,379名・馬匹31頭が負傷、士官4名(内軍医1名)・下士官兵391名・馬匹1頭が捕虜と行方不明で、総計士官91名(内軍医3名)・下士官兵2,049名・馬匹40頭となりましたが、その数倍の人員に疫病・疾病があったのです。


挿絵(By みてみん)

再建されたラ・ミレット分派堡の見張塔(破壊前も上部以外同様でした)

挿絵(By みてみん)

開城直後のラ・ミレット分派堡見張塔


 ベルフォール市街の物的被害も相当なもので、特に被害が激しかったのは市街南部とレ・フルノー、モンベリアールの両郭外街でした。市街の民家は殆どが何某かの損傷を受けており、その内34戸は攻城砲弾で跡形もなく吹き飛ばされたのです。また市郊外の諸部落も大きな被害を受け164戸が吹き飛ばされますが、その多くが要塞からの応射によるものでした。

 要塞自体の損害では、やはり集中砲火を受けた重城の被害が凄まじく、その上層部砲座は階段や通路がすっかり落ちてしまい、梯子を掛けて上る状態で、正面塁壁の被覆方石は殆ど壕の中へ落下してしまい、装甲砲門は大半が埋没してしまっていました。中央園郭の火薬庫は爆散して多くの塁壁内通路や部屋には砲弾が貫通し穴だらけとなっていました。

 ラ・ジュスティス分派堡やラ・ミレット分派堡も重城に劣らず悲惨なもので、もし14日に予定されていた一斉砲撃が実施されていたのなら短期日で降伏が実現しただろうことは明らかでした。


挿絵(By みてみん)

開城後のベルフォール市街(砲撃で破壊された様子が分かります)

挿絵(By みてみん)

開城後の重城


 攻囲兵団の中核を占めた予備第1師団は、2月23日正式に攻囲任務を解かれ、正規軍歩兵3個大隊・後備歩兵12個大隊・騎兵4個中隊・工兵1個中隊による完全編成に戻り、リオ経由でドールに向かい要塞地区を去りました。なおフォン・ツィンメルマン大佐の旅団はそれ以前にベルフォールを離れ予備第4師団の指揮下に復帰していました。

 代わってベルフォールの守備に入ったのはフォン・デブシッツ将軍麾下の兵団で、彼らは以降ベルフォール要塞地区を管轄するエルザス総督府の隷下に復する(元よりこの総督府傘下です)こととなります。デブシッツ将軍とその部下たちは直ちに要塞の修繕と戦備の復興を目指し、正攻法で掘削された土地の埋め戻し作業に奔走することとなったのです。


挿絵(By みてみん)

ベルフォールを後にする仏軍

挿絵(By みてみん)

独軍のベルフォール入城(非難する仏住人)


 ※1871年2月16日・ベルフォール要塞引き渡しに関する協定と追加協定


「ベルフォール開城協定

1871年2月16日午後4時 ペルーズにおいて


ベルフォール攻囲兵団司令官普王国陸軍中将フォン・トレスコウとベルフォール要塞司令官仏国工兵大佐ダンフォール=ロシュローとの間に次の協定を結ぶ


第一条

 ダンフォール大佐は仏国政府より情勢によって特別に付与された全権を以て要塞及びその分派堡をトレスコウ中将に引き渡す。

第二条

 要塞守備隊はその勇敢なる防衛を認め軍人としての名誉を保持しその団隊が所持する軍旗・兵器・馬匹・車輌・軍用電信機器並びに士官の行李及び兵卒の背嚢その他要塞の記録書類一式を携行し自由に退去することを許される。この守備隊には正規兵・護国軍兵・税関監視兵・憲兵を含む。ベルフォールとその周辺地域に属する護国軍兵・国民衛兵はベルフォールに留まり要塞の引渡し前に武器一切を手放しこれを市庁舎に納めること。

第三条

 全ての軍用資材並びに退去する守備隊が要する携行数量以外の糧食及び弾薬その他各種要塞貯蔵品及び一切の仏国有財産は、本協定記名締結の時点で現状のまま要塞司令官の任命した委員により2月18日午前10時を以てこれを独軍の委員に引き渡すこと。

第四条

 2月18日午前10時を期して独軍の砲兵士官及び工兵士官は各分派堡及び重城内に入り仏軍の同兵科士官の案内により火薬庫及び地雷の引き渡しを行うこと。

第五条

 仏守備隊は2月18日正午迄に要塞から撤退し同時刻に独軍は将兵を要塞に入れてこれを占領する。

第六条

 要塞に止む無く残留する傷病者は病状回復後その武器を携行し最近の中立線を越えて仏領に輸送される。その際兵役に耐えられぬ者は各々その郷里に直接送還されること。

第七条

 退去する仏守備隊は入院患者のために必要なる軍医等を残留させること。この人員についてはジュネーブ条約に基き待遇されること。

第八条

 ベルフォールに捕らえられていた捕虜となる独軍人は負傷者か否かを問わず合計士官7名及び下士官兵243名を18日午前10時を以て現在の営舎において独軍に引き渡すこと。

第九条

 退去する仏士官の私物は一般の私有財産と同様保護されること。

第十条

 ダンフォール大佐は退去する仏守備隊の現員報告を退去方法を処理する資料とすべく速やかにフォン・トレスコウ中将に送付し、両軍の患者及び捕虜引き渡しの任務を受けた委員もまたこれに関する報告を速やかにすること。

第十一条

 ベルフォール市民に必要とする食糧・医師その他物資を供給する任は独軍経理部が行い、なるべく保護に努めること。


以上の協定書は以下の者が調整しこれに署名を行う。

独軍第67連隊大隊長少佐フォン・ラウエ、参謀大尉フォン・シュルツェンドルフ、仏軍第84連隊大隊長シャブロー、補助工兵大尉クラフト、以上各々はその司令官の正当な委任を受けこれに署名するものである。

独仏両国語を以て正本各々二通を作成する。

歩兵第67連隊大隊長 少佐フォン・ラウエ

参謀大尉 フォン・シュルツェンドルフ

戦列歩兵第84連隊大隊長 シャブロー

補助工兵大尉 クラフト  (筆者意訳)」


挿絵(By みてみん)

ラ・ミレット分派堡の引き渡しを行う独仏士官


「ベルフォール要塞開城追加協定


一. 要塞の衛兵及び哨戒兵は独軍入城後両軍高級士官の指揮下において交代を終了するまで駐留し交代後集合して守備隊に続行するものとする。

二. 退去する守備隊は各々一千名の集団を作り二縦隊となりソーヌ=エ=ロワール県に向かい行軍すること。各集団は少なくとも互いに5キロメートルの間隔を開けること。

  四個の集団は2月17日に退去を開始しその内二個集団はエトゥプ~エクサンクール~オダンクール~スロンクール方面(ブラモンへの街道)に、他の二個集団はアルネー~エリクール(イル=シュル=ル=ドゥーへの街道)に各々向かうよう、各集団には独軍士官1名が同行する。

三. 退去する守備隊は必要とする糧食を携行すること。フォン・トレスコウ中将はこの運搬に要する車輌を用意すること。

四. 退去する守備隊は独軍の占領地を通過する間、その内部規律維持は当該部隊の任として、隊外における犯行は普王国の法律に照らし合わせこれを処する。

退去する兵士が所属部隊又はその宿営を離れること4キロメートル以上に及ぶ者及び守備隊の出立後12時間以上ベルフォール要塞地域に滞留する者は独軍捕虜として扱う。


以下全権委員は独仏両国語を以て正本各々二通を作成しこれに署名する。

1871年2月16日 ペルーズにおいて

歩兵第67連隊大隊長 少佐フォン・ラウエ

参謀大尉 フォン・シュルツェンドルフ

戦列歩兵第84連隊大隊長 シャブロー

補助工兵大尉 クラフト  (筆者意訳)」


挿絵(By みてみん)

市街から重城を眺める(20世紀初頭/「ベルフォールのライオン」が見えます)



挿絵(By みてみん)

独軍占領後の重城内部


挿絵(By みてみん)

破壊された重城(遠方にラ・ジュスティス分派堡)


挿絵(By みてみん)

戦後のダンフォール


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