ベルフォール攻囲(後)/苦闘の平行壕掘削
1月26日深夜から27日早朝に掛けて、ペルーズ高地二つのベルフォール要塞分派堡、オート・ペルーズ堡とバス・ペルーズ堡を狙った独攻囲兵団の強引な奪取作戦は無惨な失敗に終わります。
明けて27日正午頃。第一平行壕に仏軍白旗の使者が現れ、「分派堡の周囲で倒れている戦死者の遺体を回収し葬る」ため2時間の休戦を申し入れ、独軍もそれを受け入れました。双方の戦死者はそれぞれ戦友たちに収容されその日の内に仮埋葬されました。
独攻囲兵団司令官U・トレスコウ将軍はその光景を見つめながら、自らの焦りが生んだ失敗を深く反省していたのかも知れません。
バヴィリエの教会(20世紀初頭)
泣く子も黙る鬼将軍、男爵フォン・マントイフェル騎兵大将が率いる独南軍は、驚異的な進撃力でブルバキ将軍率いる仏東部軍をブザンソンからスイス国境に近いポンタルリエ方面へと追い詰めている最中で、今や総力を挙げて敵との会戦を狙うマントイフェル将軍の頭にはベルフォールの包囲網など二の次となっているはずでした。
U・トレスコウ将軍は疾病に苦しみ極寒と果てのない攻城作業で疲れ果てた部下をこの難攻の要塞に立ち向かわせていたため、時間が掛かり労力をすり減らす正攻法を出来る限り避けたいと考えていました。しかし要塞本体は強固で遠距離からの攻城砲撃だけでは中々落ちるものではなく、やはりその弱点である要塞南面のペルーズ高地に攻城砲を並べなくては落ちるはずもありません。
そのためには高地両端にある二つの分派堡を落とすしかありませんでしたが、そのための正攻法第一歩・平行壕の掘削は想像以上に苦難の連続でした。地質と気候は完全に独軍の敵となり、そこに本物の敵、ペルーズの両分派堡のみならず後方の要塞地区からも激しい妨害がありました。
捕まえた脱走兵の尋問では「オート・ペルーズ堡の守備隊は400名、バス・ペルーズ堡のそれは300名」とのことで、それは堡塁の状況と砲火の様子からも裏付けられます。しかも既に砲撃によって各所に破損が見られるのですからU・トレスコウ将軍の本営でも「一か八か強襲して見れば案外簡単に」という誘惑が芽生えたのでしょう。
また、捕虜の尋問では「両堡塁の壕は幅6m・深さ3m。バス・ペルーズ堡の後方にも幅3mで同様の壕がある。オート・ペルーズ堡の方は木柵のみ。両堡塁とも地雷はない。壕は全て殆ど岩の大地を削って造ってある」とのことで、これは独軍が所有する両堡塁の情報と完全に一致していました。
実はU・トレスコウ将軍の手元には開戦直前1870年7月17日付の仏陸軍省工兵部の命令書がありました。この文書はストラスブール陥落の折、要塞の工兵部に保管されていたもので、それはベルフォール要塞司令官に宛てたペルーズ高地に二つの堡塁を築造する命令だったのです。
そこには「外郭の高さは4m、厚さは4m以上、壕は深さ3m、幅4mで施工せよ」「掩蔽部は二つ、一つに100名収容出来るように。それは後方の壕に沿って設置せよ」等と具体的な寸法や指示が記されていました。U・トレスコウ将軍は両分派堡の状況がはっきりした、と考え、「これならやれる」と考えたのではないかと思います。奇襲が成功すれば面倒な対壕作戦を実施しなくても済み、そうなれば総掛かり4日間の苦難と時間が稼げるのでした。U・トレスコウ将軍は「一か八か」が「成功確率は高い」に変わったと考え、攻撃を命じたのでしょう。
1871年のバス・ペルーズ堡
結果、攻囲兵団は大敗を喫します。その損失は大きく、実際に投入された兵力の四分の一に及ぶ大損害でした。
両分派堡は仏軍の資料通り「大したもの」ではありませんでしたが、独軍が考えていたより損害は小さく、また真剣に防御されていたのです。
1月27日の夜以来、独ベルフォール攻囲兵団は対壕掘削による両分派堡への正攻法作戦のみに集中し作業を続けますが、対する仏ベルフォール要塞守備隊は当初妨害らしい妨害を行いませんでした。ただ27日の夜、オート・ペルーズ堡の東側にあるペルーズの森へ数個中隊の仏将兵が侵入しその南端まで進みましたが、翌28日夜にペルーズ在の第67「マグデブルク第4」連隊の2個(第10,11)中隊が森に向かって前進すると、いつの間にか仏軍は消えており、両中隊は再びペルーズ森を占領するのでした。
独攻囲兵団は1月27日~29日に掛け三晩掛かり切りで対壕掘削を行いますが、対壕先端の進行速度は一晩平均で300m・荒削りだった第一平行壕は仕上げたものの深さ1m・幅1mとするのが精一杯でした。これではすれ違うことも出来なかったため1月30日の日中に拡張工事が行われますが、予定された幅2m、深さ1.25mには到底及びませんでした。
この対壕・平行壕掘削工事は、既述通り地質と寒気の影響で著しく困難だったため作業に多数の人員を要することとなり、「苦役」に使用された8個大隊も全部隊定員割れで半数に近い部隊もあり、結果完成した部分や作業の護衛隊まで土砂の搬出や積み上げに駆り出される始末だったのです。
この様な困難にあっても真面目で頑固な独軍人たちは、同様難工事となる砲台の築造も継続しており(こちらは専ら要塞砲兵と同工兵の作業でした)、1月31日から2月1日には二ヶ所の臼砲砲台が第一平行壕の両端よりペルーズの両分派堡に向け砲撃を開始するのです。
この臼砲砲台はダンジュータン北方・第一平行壕西端の第26号砲台とル・オー・タイイ森西縁付近・第一平行壕東端の第28号砲台で、第26号には28センチ滑腔臼砲を4門、第28号には60ポンド滑腔臼砲4門が設置されていました。なお、1月31日に第11号砲台が備砲の砲身摩耗のため、2月1日には第15号砲台がそれぞれ廃止され、包囲網西のエセール付近に唯一残されていた第7号砲台も一時砲撃を休止しました。
この頃ル・オー・タイイ森南西角・第28号臼砲砲台の東側にも第27号砲台が竣工し、12センチカノン砲4門が配されて同じくペルーズ高地に向け砲撃を始めています。
砲台築造は続き、2月1日にはバヴィリエ(ベルフォールの南西3キロ)南東側、鉄道を挟んで第25砲台の隣にベルフォール市街外壁を目標とする第33号砲台(備砲12センチカノン砲4門)の工事が起工しました。更に攻囲兵団砲兵部長のフリードリヒ・エルンスト・フェルディナント・フォン・シェリハ中佐は、完全に確保したペルーズ森にもラ・ジュスティス、ラ・ミオット両分派堡や重城を目標とする3個の砲台築造を命じ、その設置場所が選定(森の北縁中央)されます。これは第37、38、39号砲台と命名され、それぞれ強力な15センチカノン砲4門が配されることとなりました。しかしこの設置場所はオート・ペルーズ分派堡から僅か500mしか離れておらず、同じくラ・ジュスティス堡からも直射出来たため、作業は砲弾降り注ぐ中行わなくてはならないという悲惨な状況となり、工事は短時間の作業と中断の繰り返しでなかなか捗りませんでした。
このため独攻囲兵団は、月末に起工したペルーズ東郊外・街道(現・国道D419号線)の切り通し縁に造られる第31号砲台(当初は60ポンド滑腔臼砲2門と27センチ滑腔臼砲2門。後に60ポンド滑腔臼砲6門に統一)と第32号砲台(12センチカノン砲4門)が完成次第敵分派堡に砲撃を加えることで何とかしようとするのでした。
仏軍側も独の砲台新設には敏感に反応し、ペルーズ高地の両分派堡間に更なる塹壕と胸壁を造ろうとしますが、これには独軍が日中対壕からの銃撃と夜間砲台からの砲撃で妨害し、こちらもなかなか捗ることはありませんでした。
塹壕で小休止する独後備兵
独軍の対壕作業の方は1月31日夜に第一平行壕とペルーズ高地間の中間地点までに延びる数本の狭い対壕を完成させ、引き続き第二平行壕の掘削が始まりました。現場は堅い岩盤が所々露出する地質でツルハシやシャベルでは歯がたたない岩盤部分では爆薬が仕掛けられ爆破されました。
第二平行壕とその交通壕は幅1.3m、深さ1.1mで造られ、専ら夜間に掘削されています。この作業と同時進行で第二平行壕内となる予定地の東と西に直接近距離からペルーズの両分派堡を狙う軽臼砲砲台・第29号(15センチ滑腔臼砲8門)と第30号(15センチ滑腔臼砲4門)も起工しています。
正攻法と砲台築造が進むに従い、作業の困難もまた比例して増えて行きました。これには天候も影響しており、2月上旬、天気は晴天が多く夜間も月明かりが積雪に映え、真っ白な雪原に攻城作業は黒々と浮かび上がり遠方からでも判別が出来たためで、ベルフォール要塞とその分派堡からは狙い澄ました砲撃が加えられ、独兵の作業は砲撃が中断したり弱まったりした間隙を突いて急ぎ行い、砲撃が激しくなったら運の良い者は掩蔽へ、運の悪い者は地面に伏せて神に祈る、といった具合でした。特に2月1日の夜間は仏軍の砲撃が殊更激しく、これは出撃の予兆とも思われたため独攻囲兵団全体に緊張が走りました(結局未遂に終わります)。このような狙い撃ちの状況のため、対壕掘削作業は目標正面からの銃砲撃がなくとも旧軍言うところの「轅土(えんど)重対壕」掘削(「ストラスブール攻囲戦(後)/第3平行壕と攻囲東部の状況」を参照願います)と同様手間の掛かる面倒な手順で行うしかなくなり、対壕工事先端では土嚢を積み上げ、その両側に堡籃(ほうらん。土砂石を詰め込んだ樽状の柳かご)を並べて弾除けとするのですが、既述通り付近に土砂は少なく土嚢に詰めるための土砂は度々遠方から運び込まねばならなかったのです。
ベルフォール 包囲網の歩哨
とは言え、極寒もこのような土木工事には夏季より都合の良い部分もありますが、2月2日に気温が摂氏マイナス3度から2度に上がり、融雪が始まると状況は一変しました。
翌3日には気温が更に上がり、このため積雪は完全に溶け出して高地上から大量に流れ下ったため、せっかく設えた平行壕内に泥水が充満するという不運が生じました。この排水作業にも疲弊した後備兵を多数投入せざるを得なくなりますが、時間と労力の割に水は引かず、その内に大雨となって水分を含んだ土壁が崩れ、出来上がった壕が塞がってしまう箇所が幾つも発生するのでした。第一平行壕では胸壁が数ヶ所崩れ落ち壕の踏み台は水没して流され、交通壕も崩れて塞がり作業の兵士たちは狙撃の危険を冒して泥と雪の混じった荒れ地を走り抜けたのです。
それまでも兵士たちの間に多発していた疫病・疾病の罹患率は1月末に急速に増え、また不注意からの怪我も増加して人手不足の作業は益々遅延して行くのでした。
独軍が攻城に苦労していることを知ったオート・ペルーズ堡の仏将兵は、断続的に平行壕へ銃砲撃を加え始めたため、独軍は夜間砲撃を強化すると共に、夜間作業に入る直前、護衛の諸中隊が堡塁に激しい銃撃を浴びせるようになりました。
作業隊・要塞工兵・要塞砲兵の宿営地はサブルーズ河畔のダムブノワ(モンベリアールの北東6.3キロ)からブローニュ(ダムブノワからは北東へ4.4キロ)に掛けての各部落(トレヴナン、アランジョワ、メジレ、モルヴィヤール等)にありました。これらの宿営地は攻城作業場所まで約8キロから10キロとかなりの距離があります。
独軍の宿営で下士官兵は小隊毎数十人一組で寝る場所もないような狭い部屋に押し込まれました。宿舎の多くが炊事施設を持たず、堅いパンに水だけという貧しい食事も多くありました。この様な栄養と衛生状態では必然的に疾病患者が増えるのです。
また、攻城作業は断続的に20時間連続する時もあり、輪番は人員が少ないため間隔が短く、兵士たちは濡れた服や靴を乾かす間がありませんでした。ほんの数時間睡眠を貪ったかと思ったら再び叩き起こされ、彼らはまた12時間以上も冷たい雪解け水と泥に膝まで浸かったまま塹壕で苦役を続けるのでした。
当時の独軍宿営用バラック
このように劣悪な環境下、訓練を施した貴重な要塞工兵も病に倒れ敵弾で負傷し疲弊で動けなくなり、次第に数を減らして行きました。
2月2日に新たな要塞工兵2個中隊(第8軍団要塞工兵第1,2中隊)がストラスブールから到着しますが、これは文字通り焼け石に水で、平行壕や砲台増築の作業は員数不足も相まって苦役の連続に陥っています。バス・ペルーズ堡の西側に接近しつつある対壕作業区では2月4日以降ベルヴュー分派堡(ベルフォール重城の南西1.6キロ。現在は墓地となっています)とベルフォール停車場堡塁より砲撃が加えられるようになり、作業の安全を図るために3日から対壕掘削の前に掩蔽を造ることとなって作業が大幅に遅れ出しました。オート・ペルーズ堡に向かう対壕にもペルーズの両分派堡やラ・ジュスティス堡から相変わらず激しい砲撃が加えられたため工兵隊にも損害が続出し、その指揮官にも犠牲が出ます。2月1日深夜には攻囲兵団本営の筆頭工兵部員コッホ大尉(Ba軍士官)が猛銃砲火の中、部下を督戦中に榴弾の破片を浴びて重傷を負い、5日夜にはバス・ペルーズ堡に向かう対壕作業中、最先端で指揮を執っていた同じ工兵部員のミュラー中尉が敵弾を浴びて致命傷を受けてしまいました(翌日死亡)。
独要塞工兵はその威信と粘り強さで困難な作業を完遂しようと努めましたが、工期は遅れに遅れます。それでも一部では戦史に残る作業もあり、これは2月3日夜、右翼(東)側の作業区でアダム中尉(本営工兵部員)の作業班が一晩で135mの対壕掘削に成功した例でしたが、その犠牲もまた大きくB要塞工兵第4中隊の兵卒4名と作業班のグネーゼン後備大隊の歩兵11名が負傷し、アダム中尉もまた負傷してしまったのでした。
デブシッツ隊と予備第4師団兵が包囲網を離脱後、U・トレスコウ将軍は要塞地区の東北西の三方には歩兵7個大隊、南方には13個大隊を配して包囲網の維持を図り、この内攻城作業には9個大隊を従事させています。これは一見十分な数に見えますが、実際は前述通り定員のほぼ三分の二以下となる大隊(稼働人員もまた疲弊していました)が殆どであったため、作業量に比して絶望的な員数でした。
※2月1日・ベルフォール攻囲兵団の配置
*攻囲網東(ベソンクールとロップに駐屯)
○ノイシュタット後備大隊
○ハルバーシュタット後備大隊
*攻囲網北
○ノイハルデンスレーベン後備大隊
○スタルガルト後備大隊
*攻囲網西
○イノヴラツラウ後備大隊
○ドイツェ=クローネ後備大隊
○ブロンベルク後備大隊
*攻囲網南/ペルーズとその周辺森林地区
◇第67「マグデブルク第4」連隊(第1、2、F大隊)
*攻囲網南/ダンジュータン
○コーニッツ後備大隊
*攻囲網南/対壕作業
○ブルク後備大隊
○シュテンダール後備大隊
○シュナイデミュール後備大隊
○グネーゼン後備大隊
○ヤウエル後備大隊
○リーグニッツ後備大隊
○ヒルシュベルク後備大隊
○エルス後備大隊
○アーペンラーデ後備大隊
*攻囲網北では野砲兵第2連隊予備軽砲第1中隊の1個小隊(2門)が独軍攻城砲台からは死角となり且つ砲弾が届かないラ・フォルジュ(ベルフォール重城の北1.6キロ。フォルジュ池の西淵です)を砲撃し、同じく仏軍拠点のオッフモン(同北北東3キロ)には攻囲網東のロップ(オッフモンからは東北東へ3.2キロ)の北西200m・オートリュシュ河畔に設えた肩墻陣地に9センチカノン砲2門が配置され1月30日から砲撃を始めています。
独攻囲兵団は1月下旬、グラン・ボワ森縁の新設砲台による砲撃開始以来、毎日要塞と要所に対し平均1,500発の砲弾を撃ち込みますが、仏守備隊の応射はこのグラン・ボワ森縁の砲台群にのみ集中し、残りは独の対壕作業妨害に向けられていました。独側では2月2日に第30号砲台が、3日に第29号、第31号、第32号の各砲台が砲撃を開始します。この3日にはペルーズの両分派堡間にある仏軍の陣地に対し完成した第二平行壕内に第30号a臼砲砲台(15センチ滑腔臼砲4門)が、第一平行壕の最高標高地点(海抜384m)に第34号砲台(9センチカノン砲2門)がそれぞれ起工しました。
第34号砲台は2月4日夜にオート・ペルーズ堡に対して砲撃を開始します。この効果は覿面で、同堡塁からの砲撃は度々中断するのでした。しかし、分派堡の仏軍も独軍の砲撃休止の間にカノン砲を最大俯角以上に傾けて繰り出し斜面下を直射するため、独軍は両平行壕の間・西側に走る対壕中間点に第35号砲台(9センチカノン砲2門)を急遽築造してこれを翌5日朝に完成させ、オート・ペルーズ堡の西側側面に対する砲撃を開始するのでした。
翌5日の夜、バス・ペルーズ分派堡に対する対壕作業は堡塁からの銃撃が雨霰と降り注ぐ中で敢行され、この夜半、遂に堡塁の外壕に到達しました。
オート・ペルーズ堡に対しても6日中に最終の予定塹壕線に達します。しかし、バス・ペルーズに対する西側工区では、ベルフォール停車場堡塁とベルヴュー分派堡からの砲撃が交通壕を幾度も直撃するようになったため、砲撃の死角となるような角度でもう一本の交通壕を掘削する必要が生じるのでした。
バス・ペルーズ堡に対する対壕作業を妨害していた煩く危険なベルヴュー分派堡を沈黙させるため、6日、第19号臼砲台(21センチ施条臼砲2門と23センチ滑腔臼砲2門)とそれまで要塞の北正面にある前進堡コルヌ・ドゥ・レスペランス堡を目標としていた第25号砲台(12センチカノン砲5門)の内3門がベルヴュー分派堡を目標として砲撃を開始し、これには出来たばかりの第35号砲台から1門の9センチカノン砲を移動させて第二平行壕最左翼(西)に第36号砲台を急造してここからもベルヴュー堡に砲撃を加えたため翌7日に同堡は殆ど砲撃を中止する損害を受けるのです。このため、対壕作業西側工区では作業が捗り停車場堡塁やベルヴュー分派堡方面から死角となる交通壕掘削作業も進展しますが、今度はバール堡塁(要塞西側の王冠堡)から砲撃を受け始めてしまい、独攻城砲台はこの堡塁とも砲戦をしなくてはならなくなり、翌8日以降、バール堡には西側の第7号砲台(鹵獲仏製15センチカノン砲4門)が対抗砲撃を行い始めるのでした。
グラン・ボワ森縁の砲台群とベルヴュー堡
同じ6日、フォン・シェリハ中佐と攻囲兵団工兵部長カール・ヴィルヘルム・フェルディナント・フリードリヒ・フォン・メルテンス少将はペルーズ高地の攻略が最終段階に至ったとして、作業人員に対する誤爆を避けるために第一平行壕東の第28号砲台によるオート・ペルーズ堡に対する砲撃を中止させます。同時に第34号砲台の備砲を重臼砲2門に変更するため砲台の改築と強化を命じました。またシェリハ中佐は、第二平行壕にも重臼砲を設置する砲台2ヵ所(第40、41号)の築造も命じ、これは即日起工されるのです。これらの措置は直線状に堡塁の外壁を突き破るカノン砲の砲撃から、直上からの重砲弾落下で堡塁内部を破壊する攻城臼砲に切り替えるということですが、この日は再び寒気が緩み流水と地下水によって対壕の各所で損壊や浸水が始まり、これは対壕上に設けられた砲台にも被害を与えたため、要塞砲兵たちは備砲を持ち上げたり移動したりして大いに苦労するのでした。
この日には既にペルーズ高地の両分派堡からの銃砲撃は静まり、対壕作業に対する多少の砲撃が行われるのみとなります。但し、要塞本体とその周辺分派堡からは変わらず重砲弾が発射されていました。
第一平行壕後方の砲台
※1月31日以降2月6日までに築造開始された独ベルフォール攻囲兵団攻城砲台
*26号砲台 28センチ滑腔臼砲x4門
*27号砲台 12センチカノン砲x4門
*28号砲台 60ポンド滑腔臼砲x4門
*29号砲台 15センチ滑腔臼砲x8門
*30号砲台 15センチ滑腔臼砲x4門
*30号a砲台 15センチ滑腔臼砲x4門
*31号砲台 60ポンド滑腔臼砲x2門、27センチ滑腔臼砲x2門→60ポンド滑腔臼砲x6門
*32号砲台 12センチカノン砲x4門
*33号砲台 12センチカノン砲x4門
*34号砲台 9センチカノン砲x2門
*35号砲台 9センチカノン砲x2門→同1門(1門36号へ)
*36号砲台 9センチカノン砲x1門
*37号砲台 15センチカノン砲x4門
*38号砲台 15センチカノン砲x4門
*39号砲台 15センチカノン砲x4門
*ロップ北西郊外肩墻陣地 9センチカノン砲x2門
※廃止された砲台
*11号砲台 12センチカノン砲x4門(1月31日に廃止)
*15号砲台 27センチ滑腔臼砲x3門、22センチ滑腔臼砲x1門(2月1日に廃止)
*13号砲台 15センチカノン砲x4門(2月2日に廃止)
第二平行壕と周辺砲台
この時、ペルーズ高地の両分派堡では弾薬や糧食の補給が独軍の接近で殆ど不可能となっており、飲料水に関しても独軍の銃砲撃を冒してヴェルニエ池(バス・ペルーズ堡の北580m付近にあった池。現存しません)まで汲みに行かねばならない状況でした。
独軍の攻城砲撃は既に堡塁内の通行も危険とし、守備隊は炊事も殆ど出来ない状態となりました。頼もしい要塞は直ぐ北にありますが既に敵が分派堡前に張り付いていたためその重砲は6日以降ペルーズ高地の南面へ本格的に指向されることはありませんでした。要塞東のラ・ジュスティス堡もモルヴォー森南・街道切通しにある第31、32号砲台からの砲撃により中々備砲を発射することが出来なくなります。
この頃から要塞内部の守備隊に「仏独間に休戦が交わされたがベルフォールは除外された」との「噂」が広がり、自然と士気が失われて行くのでした。逆に独攻囲兵団にはパリ陥落の報が伝わり、疲弊した中でも士気は高まっていたのです。
2月4日、ダンフォール大佐はU・トレスコウ将軍に白旗の使者を送り「仏国の現状を正確に知るため士官をスイスに入国させたい」と願い、トレスコウ将軍はこれを許しました。スイスに向けて旅立ったのはダンフォール大佐の副官シャテル大尉で、翌5日、尉官1名を伴った大尉はバーゼル目指し出立しますが、遂に開城まで戻ることが出来なかったのです。
堡塁から独軍を眺めるダンフォール大佐
ダンフォール大佐は遡ること2月3日、既にペルーズ高地の両分派堡から軍備を撤収するよう命じていました。これは分派堡が独軍の手に渡った場合、遺留品を再使用されることを防ぐ手立てでした。
これにより守備隊とその後方に控える予備部隊は両分派堡の咽喉部に物品搬出用の通路を切り開き、4日には銃砲弾薬、6日には運搬可能な砲架を持つ要塞砲の搬出を行いました。またこの6日、守備隊のエドゥアール・ティエール大尉*から「分派堡は確実に敵の手に落ちるでしょう」との進言があり、ダンフォール大佐も堡塁の放棄を決心しました。
この日の晩以降、両分派堡には各1個中隊のみを駐在させ、更にはこの両中隊に「敵の総攻撃を受ける事態に陥ったならば銃撃を行いつつ撤退するように」命じたのでした。
しかし、この仏軍の撤退行動は南斜面の独軍からは全く窺えず、逆に搬出の音に気付いた対壕先端の将兵は「堡塁の後方から喧噪の声が聞こえる」と報告し、このため攻囲兵団の本営は「ペルーズ高地に新たなる増援が加わったらしい」と全く逆の判断をして、慎重に両堡塁の攻略を考えるのでした。
※エドゥアール・ティエール大尉は当時27歳、ダンフォール大佐と共にベルフォール包囲を戦い、11月以降ベルヴュー分派堡の指揮官として活躍、「ベルヴューのライオン」とあだ名されました。また独軍の接近を見てダンヌマリー(ベルフォールの東19.2キロ)の有名なバーゼル鉄道陸橋(現存。街の東西2ヶ所にあります)を思い切りよく爆破させたことで知られています。ダンフォール大佐は若く闊達な大尉の意見を傾聴し時には従ったと伝わります。戦後国会議員に転身しました。因みにアドルフ・ティエールとの血縁はなさそうです。
ダンジュータンの1871年包囲戦記念碑




