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ベルフォール攻囲(後)/ペルーズ高地の攻略戦


☆ リゼーヌ河畔の戦い以降のベルフォール攻囲兵団


 ベルフォール攻囲兵団司令官のハンス・ルートヴィヒ・ウード・フォン・トレスコウ中将(以下U・トレスコウ将軍)はリゼーヌ河畔の戦い終了後に包囲網へ充てる兵力を増強され、いよいよ要塞攻略に本腰を入れようとしていました。

 この時(1月19日)、U・トレスコウ将軍はレッツェン、ゴールダプ、マリーエンブルク、グンビンネンの4個後備大隊(オストプロイセン後備歩兵旅団の一部。旅団長ロベルト・フォン・ツィンメルマン大佐)を配下に加え、歩兵27個大隊、騎兵6個中隊、野砲兵6個中隊、要塞砲兵24個中隊、要塞工兵6個中隊という軍団クラスの大軍を指揮する身となっていたのです。


※1月19日の独ベルフォール攻囲兵団(詳細は「ベルフォール攻囲(前)/資料その1・戦闘序列ほか」参照)


◎ 普予備第1師団

◯歩兵大隊15個

◯騎兵中隊4個

◯野砲兵中隊4個/22門・バイエルン王国軍(以下B)出撃砲兵中隊(砲4門)を含む

◯工兵中隊1個

◎ デブシッツ支隊

◯歩兵大隊8個

◯騎兵中隊2個

◯野砲兵中隊2個/12門

◎ 普予備第4師団派遣支隊

◯歩兵大隊4個


挿絵(By みてみん)

ウード・フォン・トレスコウ中将


 攻囲兵団は21日付の員数確認で、歩兵17,602名・戦闘用馬匹707頭・野砲34門・要塞(攻城)工兵1,606名・要塞(攻城)砲兵4,699名になりました。

 包囲網北部は後備第61/第66「ポンメルン第4」混成連隊長のテオドール・ヨハン・ゲリッケ大佐が担当し歩兵2個大隊・騎兵1個小隊・砲兵1個小隊によりフォレ・ダルソ森(ベルフォール要塞の北3.5キロ周辺に広がる森林)からヴァルドワ(同北北西3.4キロ)~クラヴァンシュ(同北西2.7キロ)の線を守り、包囲網西部は後備第21/第54「ポンメルン第2」混成連隊長ヘルマン・アレクサンダー・スタニスラウス・フォン・オストロウスキー大佐が担当、歩兵4個大隊・騎兵3個小隊によりオー・デュ・モンの森(クラヴァンシュの南西1キロ付近の森林)~サヴルーズ川(ヴォージュ山脈を水源にベルフォールを抜けアラン川に注ぐ支流)間に展開し、後備第1旅団長の男爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・アレクサンダー・フォン・ブッデンブローク少将(1月18日昇進。この独帝国宣言日に多くの佐官が昇進しています)は歩兵9個大隊・騎兵2個中隊・砲兵3個中隊により東方及び南方を固めました。攻城の諸作業のためには予備第4師団の歩兵3個大隊をトレヴナン(ベルフォールの南7.5キロ)付近に配備し、フォン・デブシッツ少将の歩兵6個大隊をブローニュ(同南南東9.5キロ)付近に集合させました。

 デブシッツ将軍は麾下残りの歩兵2個大隊・騎兵2個中隊・砲兵2個中隊でエクサンクール(モンベリアールの南東2.8キロ)~スイス国境のクロワ(同南東13.6キロ)までに展開し、予備槍騎兵第2連隊長のマクシミリアン・カール・フリードリヒ・アルベルト・フォン・ブレドウ大佐は歩兵1個大隊・騎兵1個中隊・砲兵2個小隊でエリクール~モンベリアール間のリゼーヌ河畔に警戒線を張るのでした。

 また会戦中、このリゼーヌ河畔とアレーヌ河畔(ブローニュとスイス国境デル北方のジョンシュレ)に配備されていた要塞重砲は、それぞれバンヴィラール(ベルフォールの南西6.3キロ)とモヴァル(同南5.8キロ)に置かれた砲厰に返還されたのです。


 U・トレスコウ将軍はグラン・ボワ森(ベルフォールの南南西バヴィリエとアンデルナン間に広がる森)北縁に設置された砲台群(第21~25号。「リゼーヌ河畔の戦い(終)」を参照下さい)が砲撃効果を示し始めるのを待ってから、オート・ペルーズとバス・ペルーズ二つの分派堡塁を正攻法で攻略するための第一平行壕を掘削するよう準備を急がせました。しかし、将軍としては平行壕掘削を安全に進めるため、最初に両堡塁があるペルーズ高地の東側で未だ仏軍が抑えるペルーズ部落と、その南側に広がるル・オー・タイイの森を占領する必要があったのです。


※1月21日・ベルフォール攻囲兵団の配置

*攻囲網北(ゲリッケ大佐隊)

○ノイハルデンスレーベン後備大隊

○スタルガルト後備大隊

○予備槍騎兵第2連隊・第3中隊の1個小隊(40騎前後)

○野砲兵第2連隊・予備軽砲第1中隊の1個小隊(2門)

*攻囲網西(オストロウスキー大佐隊)

○第67「マグデブルク第4」連隊・F大隊

○グネーゼン後備大隊

○ドイツェ=クローネ後備大隊

○イノヴラツラウ後備大隊

○予備槍騎兵第2連隊・第3中隊の3個小隊(120騎前後)

*攻囲網南及び東(ブッデンブローク将軍隊)

○第67連隊・第1、2大隊

○シュナイデミュール後備大隊

○コーニッツ後備大隊

○ブロンベルク後備大隊

○ノイシュタット後備大隊

○シュテンダール後備大隊

○ブルク後備大隊

○ハルバーシュタット後備大隊

○予備槍騎兵第2連隊・第2,4中隊

○野砲兵第9連隊・予備軽砲第1,2中隊

○バイエルン軍(以下B)出撃砲兵中隊(砲4門)

*攻城作業隊

◇予備第4師団

○ゴールダプ後備大隊

○マリーエンブルク後備大隊

○レッツェン後備大隊

◇デブシッツ将軍支隊

○ラウバン後備大隊

○ブレスラウ第2後備大隊

○ストリーガウ後備大隊

○エルス後備大隊

○ヤウエル後備大隊

○ヒルシュベルク後備大隊

*包囲網外(南東・スイス国境まで)警戒(デブシッツ将軍隊)

○リーグニッツ後備大隊

○アーペンラーデ後備大隊

○予備槍騎兵第6連隊・第2,3中隊

○野砲兵第8連隊・予備軽砲第1,2中隊

*包囲網外(西・リゼーヌ河畔)警戒(ブレドウ大佐隊)

○グンビンネン後備大隊

○予備槍騎兵第2連隊・第1中隊

○野砲兵第2連隊・予備軽砲第1中隊の2個小隊(4門)


☆ 1月20日 ル・オー・タイイ森とペルーズ部落の夜戦


 グラン・ボワ森北縁の砲台群は1月20日夕刻までに竣工し備砲や弾薬も搬入を終えました。砲撃開始は臼砲台の21号砲台のみ遅れて29日となりますが、残り(22号~25号砲台)は21日開始と決まります。このため、U・トレスコウ将軍は20日の日中、ル・オー・タイイの森とペルーズ部落に対しル・オー・タイイの森に面する第13号、14号、20号の三砲台による攻撃準備砲撃を行わせ、その後突撃を行い同地を占領するよう命令を下すのでした。

 攻撃隊の指揮官には第67連隊長フリードリヒ・カール・プルス・フォン・ツグリニツキー大佐が選ばれ、大佐には歩兵4個大隊と要塞工兵1個中隊が与えられます。


※1月20日のル・オー・タイイ森とペルーズ攻撃隊

○第67連隊・第1、2大隊

○ブルク後備大隊

○ハルバーシュタット後備大隊

○ヴュルテンベルク王国軍(以下W)要塞工兵中隊


 ツグリニツキー大佐は20日の夜更け、W要塞工兵中隊を伴った第67連隊の第2大隊をル・オー・タイイ森の東と南東側へ前進させ、同連隊第1大隊を援護隊として後続させます。同時に後備歩兵2個大隊を第67連隊将兵出立の1時間後に包囲網東端のベソンクール(ペルーズの東北東3.2キロ)から出立させ、仏軍が潜んでいるレ・フルシュ森(ペルーズの900m)とモルヴォー森(同北東900m。現在採石場となっています)とを攻撃させるのでした。


 一方、仏要塞指揮官ダンフォール・ロシュロー工兵大佐はペルーズが猛砲撃を受けているとの連絡を受けると独軍が今夜中に攻撃を仕掛けて来ると判断し、要塞守備隊の中でも十分に教練されていた「虎の子」諸隊を出し惜しみすることなく派遣することに決め、ペルーズとその隣接するル・オー・タイイ森やペルーズ南西郊外のペルーズ森に急派しました。このペルーズ部落と周辺部の森にはダンフォール大佐らの尽力で土塁や土石による堤や散兵線など頑強な防御施設が並んでおり、大佐は特にペルーズ北東郊の採石場(現在のモルヴォー森のものとは違います。ペルーズ部落中央から北北東270mにあるテニスコートと周りの林がそれとなります)に強力な陣地を造っていたのです。


※1月20日夜・ペルーズ周辺に陣を敷いた仏軍

◯護国軍第57「オート=ソーヌ県」連隊の第3大隊

◯戦列歩兵第84連隊・第4大隊(1個中隊欠の7個中隊*)

◯戦列歩兵第45連隊・第4大隊の1個中隊

◯護国軍第16「ローヌ県」連隊の3個中隊

◯アルトキルシュ(独名アルトキルヒ。ベルフォールの東28キロ)義勇兵中隊*

◯ソーヌ=エ=ロアール県の護国軍1個中隊(工兵中隊として使用)*


 *仏軍は平時1個大隊8個中隊制で、前線に駆り出されなかったマルシェ大隊の第4大隊は戦時(4から6個中隊)でもこの編成を保っている部隊がありました。

 *最後の2つの中隊は休戦時に独軍へ報告されていた部隊記録にありません(仏のベルフォール戦資料にあります)。


挿絵(By みてみん)

ダンフォール・ロシュロー大佐


 独軍ではル・オー・タイイ森奪取を命じられた第67連隊第2大隊長のユリウス・ヴィルヘルム・アウグスト・シュランム少佐が2個(第7,8)中隊を第一線に、第5中隊とW要塞工兵を第二線に配置して南東面から森へ突進させ、残る第6中隊を窪地に沿わせて右翼(東)側から森へ接近させました。

 森の縁には仏軍が展開しておらず、シュランム大隊は簡単に森への侵入を果たします。しかし夜間、積雪の白さで辛うじて陰影が分かる程度の闇の中となった森の中には仏軍が潜んでおり、一時激しい銃撃・白兵戦となりました。それでも練度と統制に勝るマグデブルク兵は次第に仏軍を圧倒し、仏軍は一部が撤退を始めるとあっという間に壊乱しペルーズ部落へと後退するのでした。

 この間にマグデブルク連隊の第1大隊も森縁へ進み、その内の3個(第1,2,4)中隊がW要塞工兵が急造した森の防御拠点に展開して森の占拠を行い、第3中隊は予備としてシェヴルモン(ペルーズの東南東2.5キロ)に留まりました。


 ペルーズへ敗退した森の仏将兵によってル・オー・タイイ森が独軍に奪われたことを知ったダンフォール大佐は、オート・ペルーズ分派堡や要塞東側の防御拠点ラ・ジュスティス分派堡にラ・ミオット分派堡からルー・オー・タイイ森に対し要塞重砲の集中砲火を浴びせさせ、ペルーズ部落からも森に銃撃を行わせました。しかし、いくら事前に照準を記録していた仏軍要塞砲兵でも、夜間の砲撃故に深く遮蔽に籠もった独将兵に与えた損害は僅かでした。


挿絵(By みてみん)

ル・オー・タイイ森とペルーズ周辺図


 同じ頃。ブルク後備大隊長フォン・シュッツ中佐率いる2個後備大隊は同大隊を第一線に、ハルバーシュタット後備大隊を第二線として北東側のドゥネ(ペルーズの北東3.1キロ)からペルーズ北のレ・フルシュ森に接近しますが、森からは激しい銃撃がシュッツ隊に浴びせられました。中佐らは犠牲を出しつつも辛抱強く遮蔽を伝いながら前進し、やがて森林内へ突入します。

 前述通り森林内には塹壕や鹿柴・鉄条網などが設置されており、臨時護国軍や義勇兵よりも練度が高い仏軍部隊も激しく抵抗したため、シュッツ隊は大きな損害を被りますが、ここでも粘り強く確実に前進する独将兵は徐々に仏軍を圧迫し、北側から森へ入ったブルク大隊(第5から8の4個中隊)の第5中隊は、後続する第6中隊と共に犠牲を厭わず怯まずにロップ~ペルーズ間の小路(現・リラ通り)を伝って前進し続け、遂に森の南縁に到達しました。同大隊第8中隊と続行する第7中隊もモルヴォー森を目標に進み、後続したハルバーシュタット大隊(第1から4の4個中隊)の第1中隊から援護射撃を貰いつつ頑強に抵抗するモルヴォー森内の仏軍を西側の採石場へ後退させることに成功します。二つの森を抑えた後備兵たちはこの後採石場に籠もった仏軍と猛烈な銃撃戦を行ったのでした。この時、ブルク大隊の一小隊はレ・フルシュ森からハルバーシュタット大隊の2個(第2,3)中隊を後続させて採石場に突撃を敢行しますが、堅く守られた採石場からの激しい銃撃によって失敗し、大きな損害を受けてしまいます。また、これを見ていたモルヴォー森の後備兵も採石場へ突進しましたが、こちらも阻止されてしまうのでした。


 ル・オー・タイイ森のシュランム少佐はシュッツ中佐隊の採石場攻撃を聞くと、仏軍の砲撃の間隙を突いて麾下を前進させ、ペルーズ部落南東隅に設えた仏軍の土塁陣地から激しい銃撃を浴びせられますが、これを冒して部落内へ突入しました。突入したのは第67連隊の第6,7中隊で、後続した第5中隊も追って部落に入ります。部落内の仏軍も防御物で固めた家屋に籠もって激しく抵抗しますが、南方のペルーズ高地際の森林内にいた仏兵を駆逐し部落へ向った同連隊第8中隊が部落南郊に現れると急に部落を捨て撤退するのです。

 午前2時30分までにペルーズ部落の東半分は第67連隊が占拠し、結果採石場の仏軍はこれまでの北面・東面ばかりでなく南面からも独軍の脅威を受けることとなります。やがて採石場からも銃撃が途絶え、仏軍は一斉に西側へ脱出したと知れるのでした。

 採石場陣地の喪失を知ったダンフォール大佐はペルーズ部落西側に残る仏軍諸隊にも退却を命じ、仏軍は黎明時の午前5時までに全てペルーズと周辺部から消え去るのです。仏軍が消えたと知ったシュランム少佐は麾下第67連隊の第2大隊をペルーズ西半分に進め、これでペルーズ一帯は全て独軍の手に落ちたのでした。

 空かさずペルーズに至ったツグリニツキー大佐は西方のベルフォール要塞地区に対し前哨を配するのです。同時に周辺部の森にも警戒の前哨を配置しますが、要塞地区から容易に接近可能なレ・フルシュ森とモルヴォー森からは一度兵を退かせました(仏軍が奪還に向かわないと判断された24日に至り再び守備隊が送り込まれます)。


 この「ル・オー・タイイ森とペルーズの戦闘(夜戦)」で仏軍は士官5名・下士官兵93名の捕虜を独軍に与えます(戦死傷者は不詳です)が、独軍もまた無視出来ない損害を被り、戦死が士官3名・下士官兵36名、負傷者は士官5名・下士官兵142名に上り、士官では二人の中隊長、男爵ゲオルグ・カール・シェンク・ツー・シュヴァインスベルク大尉(ブルク大隊)が戦死、ヘルムート大尉が負傷しています。


挿絵(By みてみん)

双方の砲撃で破壊されたペルーズ部落


☆ 1月21日


 21日日中と夜に掛け、グラン・ボワ森北縁の四砲台が稼働中の他砲台と同じく、要塞重城、市街の隔壁そしてラ・ジュスティス、ラ・ミオット両分派堡に対し規則正しい間隔で砲撃を開始しました。

 砲撃が始まるとU・トレスコウ将軍はダンジュータン(ベルフォールの南2.3キロ)部落北方を走る鉄道線がベルフォールに向けて90度曲がる大カーブの起点から東へ、占領したばかりのル・オー・タイイ森西縁までの間に設置される延長1,750m・交通壕を合わせ3,300mとなる正攻法の初手「第一平行壕」の掘削を開始させます。しかし付近の土地は一部岩石が露出し積雪の下の地面は30センチ以上の深さで固く凍結しており、難工事が予想されていました。

 この工事に携わるのは前述の作業隊に指定された予備第4師団とデブシッツ支隊の歩兵5個大隊に要塞工兵2個中隊で、平行壕掘削地の始点と終点には両翼警戒のためそれぞれ1個中隊を展開させ、また掘削線の前方40mには護衛の散兵を展開し前方警戒としました。


 この時、砲廠は普軍が前述のモヴァルとバンヴィラールに、B軍がルショット(同南東8.6キロ)にそれぞれ設置しており、Ba軍がシャルモワ(ルショットの南南西2.8キロ)、ムロー(ベルフォールの南南東5.6キロ)、ヴェズロワ(ムローの北東1.8キロ)の三ヶ所に分散設置していました。

 普軍が砲廠を置くモヴァルには工兵廠も置かれており、この地から前線まで正攻法に使用する様々な攻城資材を送ることになりますが、この極寒の日々でモヴァルからボスモン高地森(ダンジュータンの南にある森)を経て第1平行壕の工事現場までに至る街道(現・国道D23号線)は坂が多く、更に例の如く路面は鏡のように凍結しており、資材の搬入は非常な困難に見舞われ工事は大いに遅延してしまいます。仏軍側から工事を妨害する動きはなかったものの、前述通りの地質もあって平行壕は予定の時間内(2日間ほど)に幅員を計画通り仕上げることが出来なかったのです。

 1月21日午後に始まった実際の工事は殆ど突貫で行われ、22日の午前5時に歩兵3個大隊・要塞工兵2個中隊が現場に到着して、へとへとになったそれまでの諸隊と交代し、この部隊がほぼ平行壕を貫通させるとその後は歩兵1大隊により仕上げを行い、2個大隊が完成した塹壕に入って警戒に当たりました。幅員拡大の作業はその後も数日掛けて行われたのです。


 この第一平行壕の施工が急がれていた23日、U・トレスコウ将軍は親部隊である独第14軍団長伯爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・レオポルト・アウグスト・フォン・ヴェルダー歩兵大将から「攻囲網から一時的に外すことが可能な諸隊を使用してドゥー川上流の仏軍を攻撃・拘束するよう」命令されます。U・トレスコウ将軍は「敵の要塞守備隊は活動が弱まっており、いよいよ困窮が極まったのだろう」と考え、ヴェルダー将軍の命令に従いフォン・デブシッツ将軍に平行壕の作業を終えたばかりのブレスラウ第2とラウバン後備大隊を返すとリーグニッツ後備大隊を加えた3個大隊と騎兵1個中隊、砲16門を直率しポン=ドゥ=ロワドとブラモンに向け出撃させます。結果1月23日の「ロシュとグレの戦闘」となりました(詳細は「リゼーヌ河畔の戦い後の独第14軍団」を参照願います)。

 U・トレスコウ将軍はこの「要塞守備隊が弱体化している」との認識から更に「ペルーズ高地のオート、バス両分派堡に対する強襲を企画し、この作戦によって正攻法を有利に進める(時短と作業の簡素化を期待)」ことを決するのです。この決心の裏には、急造された両分派堡が一見本格的な堡塁に仕上がっておらず攻城砲撃によって防備の損害が顕著に観測され、派遣されている守備隊の活動も微弱できちんと任務を果たせないのではないか、と想像出来たことがあります。

 ところが、この23日と24日の両夜に実施された両分派堡(特に咽喉部/堡塁の後部)とその周辺に築かれた塹壕の偵察は、これを二度と実施出来なくなりました。これはこの偵察が仏軍守備兵に発見(2名が捕虜となっています)され両分派堡の警戒が厳重となったためで、このことからもこの両分派堡に対する攻撃は「いかに守備隊の不意を突いて行えるか」に掛かってくるのでした。


☆ 1月26日・オート・ペルーズとバス・ペルーズ両分派堡に対する攻撃


 オート・ペルーズとバス・ペルーズ分派堡は形式的に半角面堡(正面に角面堡、後方が直線の壕か隔壁)に当り、それぞれ南側が正面となっていました。

 オート・ペルーズ堡は側面両側に壕内側面防御用の小突起部がある扁平な凸角型の堡塁で、バス・ペルーズ堡は正面に屈折した中堤(カーテンと呼ぶ障壁です)で結ばれた左右二個の稜堡から成る堡塁です。互いに幅員4~6m・深さ3mの壕を岩石交じりの硬い地面に掘削し、これを堡塁の三面に巡らせ、その両壁は垂直で落ちたらハシゴ無しでは上がることが出来ません。壕の先に聳える胸壁は高さ3m・厚みは平均5mあり、この壁は石塊を積み上げ土砂で覆い固めた代物で、壁の土は岩だらけの周辺地から集めたため稜堡の周囲に土はほとんど無く、高地下からは岩の上に堡塁が聳えるように見えていたということです。両分派堡の咽喉部には長さ40mの要塞砲弾をも防ぐベトンで固めた掩蔽部が2ヶ所設けられていました。オート・ペルーズ堡の掩蔽部後方はただ木の柵で塞がれていましたが、バス・ペルーズ堡のそれは他の三面と同じく壕を掘り後部からの侵入を防いでいました。堡塁内部にも多少砲弾を防ぐ防御部があり、備砲は12センチカノン砲をそれぞれ7門設置していました。また、両堡塁の周囲には断続的に塹壕が掘削されていました。

 バス・ペルーズ堡は高地斜面の開始点より少々後方に在りますが、この南斜面では直下の鉄道線路の切通し部分を除く全ての場所に向けて射界が開け、両分派堡から銃砲の掃射が可能となっています。オート・ペルーズ堡の東と北に迫っていたペルーズの森は分派堡の後背地で600mに渡り、南斜面で300m間を完全に伐採して射界を確保し、仏軍はこの伐採した木の根元30~60センチを残し先端を削って槍状にすると、これに鉄条網を張り巡らせるという手の込んだ障害物を設置していました。


 ペルーズ部落の喪失後、ダンフォール大佐は同地の守備隊だった1個大隊を郭外街のル・フルノー(重城の直下・南にあるサブルーズ川と重層稜角に挟まれた地区です)まで後退させていましたが、この大隊は2個中隊をバス・ペルーズ堡に増援として送り出します。同時に大佐は貴重な出撃砲兵から野砲2門をル・フルノー南面の陣地へ送り込み、独軍がサブルーズ川岸を上ってペルーズ高地の背後(北側)へ回り込まないように努めました。また、夜間にはレ・フルノーから2個中隊を出して塹壕を掘削させ、この両分派堡背後の地を守備させ、更に予備隊を置いて予想される独軍の攻撃に備えたのです。


 1月26日の夕刻。第一平行壕がほぼ完成し、壕内に戦闘を期して将兵を展開させることが可能となると、U・トレスコウ将軍は「直ちに攻撃を開始せよ」と命じました。攻撃は二つの混成隊によって敢行することとなり、その後方で堡塁奪取後直ちに守備と防備増設に入れるよう数個後備大隊が準備と待機に入るのでした。


挿絵(By みてみん)

ペルーズ高地と第一平行壕


※1月26日のペルーズ高地両分派堡攻撃隊

*バス・ペルーズ分派堡攻撃隊

指揮官 アルブレヒト・ヴィルヘルム・エリマル・フォン・マンシュタイン大尉

○シュナイデミュール後備大隊(第5から8の4個中隊)

○第10軍団要塞工兵第2中隊

○要塞砲兵第6「シュレジエン」連隊・第1中隊の一部

*オート・ペルーズ分派堡攻撃隊

指揮官 ハンス・フリードルヒ・ハインリヒ・フォン・ラウエ少佐

○第67連隊・F大隊(第9から12の4個中隊)

○第2軍団要塞工兵第1中隊

○要塞砲兵第4「マグデブルク」連隊・第15中隊の一部

*後方待機・占領後進駐準備

○ストリーガウ後備大隊

○ブロンベルク後備大隊

○ゴルダップ後備大隊

○レッツェン後備大隊


 周辺が夜陰に沈みペルーズ両分派堡を目標に砲撃を行っていた攻城各砲台の砲撃が止む(分派堡の後背地に対する第12号砲台の砲撃は続行されます)と、ダンジュータンの戦闘でも活躍したフォン・マンシュタイン大尉*は午後7時前後、シュナイデミュール後備大隊の第5と第7中隊にそれぞれ士官1名・下士官兵22名からなる工兵隊を配し、両隊はバス・ペルーズ堡の左右側面と咽喉部へ向け平行壕を飛び出すのでした。

 マンシュタイン隊では攻撃二隊の出立5分後にバス・ペルーズ堡を正面から攻撃する第8中隊が残りの要塞工兵と砲兵と共に前進を開始、第6中隊が予備となって続行します。

 バス・ペルーズ堡の仏守備兵は正面から斜面を登って来る独兵に気付き、その距離500m余りで射撃を開始すると銃撃は次第に猛烈となって、独の第8中隊は分派堡の壕から何とか60m~100m間まで進みましたが、ここで前進することが出来なくなりだらだらと続く銃撃戦となりました。しかし先鋒となる散兵小隊を率いたシック少尉は自隊を匍匐で進ませ、これに中隊長代理男爵フォン・リヒトフォーフェン中尉(高名な「バロン」の血縁ではありません)率いる工兵中隊の一部下士官兵が加わって互いに正面の壕に達して飛び込みました。なお、第8中隊に後続する第6中隊は第8中隊の後方約40mで何時でも突進出来るよう留まりました。

 この間、側面と後方(咽喉部)へ向かった第5,7両中隊も仏守備隊に発見され猛銃撃を浴びますが構わず前進して咽喉部の真横まで進み、一気に堡塁側面の塹壕に飛び込んでここを占拠すると、ここを拠点に両中隊の散兵小隊一部が堡塁後方へ回り込み、その勢いのまま咽喉部を守る後方の塹壕へ飛び込んだのです。

 マンシュタイン大尉はその指揮下に加えられた平行壕警備のマリーエンブルク後備大隊から第5中隊を招集し、「バス・ペルーズ堡の右翼(南西)へ進みシュナイデミュール後備大隊の第7中隊を援助せよ」と命じます。更に平行壕で観戦中の攻囲網南・東部担当指揮官のフォン・ブッデンブローク少将に更なる増援を要請しました。マンシュタイン大尉はこれら増援の到着を以て正面で膠着する戦闘を打開しバス・ペルーズ堡の攻略を完遂しようとしますが、この時、ベルフォール要塞の各分派堡や重城からペルーズ高地南斜面に向けて砲火が集中され、結局平行壕からの更なる出撃は(マリーエンブルク後備大隊を含め)危険過ぎたために実施されませんでした。


 砲撃が激しくなり独軍の前進が止まったことで仏軍の逆襲が始まります。

 戦闘当初に塹壕から追い出された仏軍将兵は堡塁後方で再集合すると要塞と堡塁との間に控えていた予備の1個大隊が前進して来るのを目撃し、これと連絡を付けると共に分派堡の両面に回り込んで後部や側面で戦っていた独軍を急襲しました。ここでシュナイデミュール後備大隊の第7中隊は全く不意を突かれ、必死に防戦しますが数で押しまくる仏軍に敵わず殆どの者が武器を逆立て降伏し捕虜となります。一方同中隊でも塹壕で戦っていた10数名の将兵は中隊長ヴィクトール・ミハエリス中尉が急ぎ集合させて戦いながら脱出し撤退することが出来ました。

 同時に堡塁西側から回り込んで来た仏軍の増援の銃撃戦参加により動きを封じられた第6,8両中隊もその圧に耐えられず背進して平行壕まで退却して行くのです。


挿絵(By みてみん)

ペルーズ高地 分派堡前で阻止される独兵


 リゼーヌ河畔の戦いでヴェルダー将軍麾下Ba軍ケラー将軍の増援としてシュヌビエで負傷しつつも活躍したラウエ少佐(「リゼーヌ河畔の戦い/1月16日から17日・シュヌビエ攻防戦」を参照願います)はオート・ペルーズ堡に対しこれを包囲して攻撃するため、第67連隊第9中隊を分派堡の左翼(北東南西)へ、同第12中隊を右翼(南西)へ、同第11中隊は正面へそれぞれ進ませ、同第10中隊は第11中隊に続行し予備となりました。

 要塞工兵と砲兵はマンシュタイン隊と同じく各隊に分散して追従します。ラウエ隊は平行壕からではなく後方の鉄道線切通し部分から高地へ向かったため、戦場までは積雪が凍結した荒野を1キロ余り進まねばなりませんでした。この行軍中、平行壕の東側を警備していたマリーエンブルク後備大隊の第6中隊も攻撃機動に加わり、この中隊は両分派堡の間にあったモン・タイニと呼ばれる廃墟を目標に進みます。

 ペルーズ森内を抜けてオート・ペルーズ堡に向かった第67連隊の第9中隊は堡塁の守備隊に発見されるなり猛烈な銃撃を浴び、前述した杭と鉄条網の「罠」に飛び込むのは自殺行為となりかねないため森から進むことが出来ませんでした。ただ森縁に展開した散兵小隊は分派堡の左側に対して銃撃を加えるのです。

 分派堡右翼に向かった同連隊の第12中隊は、分派堡西側に回ると数個の塹壕に入って戦っていた仏兵を駆逐して堡塁咽喉部に突進しますが、ここでも鉄条網と塁壁からの銃撃に阻まれ中隊長のフォン・デン・ブリンケン中尉が腹を撃たれて戦死、指揮を継いだパンクッフ少尉も戦死してしまい、ここに仏の増援が到着したため一気に形勢不利となり退却行に入りました。同じく廃墟に至った後備兵中隊も孤立を嫌ってこの後退に続いたのです。

 分派堡正面では第11中隊の散兵小隊と要塞工兵がじわじわと堡塁の壕に近付きましたが、斜堤上の胸壁から浴びせられる銃撃に阻止され、またマンシュタイン隊が攻撃を中止し退却に入ったとの連絡を受けたラウエ少佐が全部隊総退却を命じ、諸隊は出発点の鉄道切通しまで一気に撤退するのでした。


 1月26日の「オート・ペルーズ堡とバス・ペルーズ堡の戦闘」における独軍の損害は、

マンシュタイン隊が戦死/士官1名・下士官兵5名、負傷/士官2名・下士官兵30名・捕虜/士官3名・下士官兵262名、ラウエ隊(マリーエンブルク後備大隊含む)が戦死/士官2名・下士官兵11名、負傷/士官1名・下士官兵83名・捕虜/下士官兵36名と独軍としては珍しい「完敗」となりました。

 U・トレスコウ将軍は強襲失敗を反省し、予想以上に激しかった仏守備隊の行動を考え、以降要塞やペルーズ高地に対する直接攻撃を避け正攻法にて確実に落とすことにするのでした。


挿絵(By みてみん)

ペルーズ高地の戦闘


☆ デブシッツ将軍の動き


 フォン・デブシッツ将軍はロシュとグレの戦闘以後25日にもう一度ブラモンへ前進しますが、既に仏軍は去っており再びエクサンクール~クロワの陣地に戻りました。

 その後、仏軍がサン=ティポリット~モルトーの街道に進んで来る、との情報により、デブシッツ将軍はポン=ド=ロワド~サン=ティポリット間のドゥー上流域の橋梁を破壊して通行不能にし、南西のポンタルリエ方面へ通じる諸街道を封鎖する任務を受けます。この任務のため将軍は1月27日に再びポン=ド=ロワドとブラモンへ進みました。この時、攻囲網からストリーガウ後備大隊が外されデブシッツ将軍に返され、また工兵のいないデブシッツ将軍のため第2軍団要塞工兵第1中隊の半数も将軍の下に送られます。

 この後デブシッツ支隊はポンタルリエに向かって前進し*、残った諸隊はベルフォール攻囲網の外で警戒隊として待機に入りました。ほぼ同じ頃、予備第4師団から攻囲網へ送られていた4個大隊も、南軍によるポンタルリエ総攻撃に向かうため師団に復帰し、この時点でU・トレスコウ将軍の指揮下にあるのは、攻城部隊を除き歩兵20大隊・騎兵4個中隊・野戦砲兵4個中隊(Ba出撃砲兵を含む)だけとなりました(ここまでは南軍がポンタルリエへ進むくだりを参照ください)。


挿絵(By みてみん)

ロシュの独後備兵


※1月28日のデブシッツ兵団

*デブシッツ将軍が直率しモルトーを目標に南下

○ラウバン後備大隊

○ブレスラウ第2後備大隊

○ストリーガウ後備大隊

○予備槍騎兵第6連隊・第2,3中隊

○野砲兵第8連隊・予備軽砲第1,2中隊

○第2軍団要塞工兵第1中隊の半数

*ベルフォール攻囲網南東方に残留

○ヤウエル後備大隊

○リーグニッツ後備大隊

○ヒルシュベルク後備大隊

○エルス後備大隊

○アーペンラーデ後備大隊


※同日に予備第4師団

○レッツェン後備大隊

○ゴールダプ後備大隊

○マリーエンブルク後備大隊

○グンビンネン後備大隊


 休戦協定の交渉に入り、仏南東部三県とベルフォールの休戦除外を決していたベルサイユ大本営はこの1月末、U・トレスコウ将軍に直接「ベルフォールを占領することは政治上も重要なことである」との訓令を発しましたが、将軍は「兵力を大きく減らされてはそれも無理」として、攻囲兵団の「無理な攻勢」を抑え、対壕掘削による正攻法一本で要塞攻略を目指すのでした。



※シュナイデミュール後備大隊長、エリマル・フォン・マンシュタイン大尉(当時32歳)は第9軍団長グスタフ・フォン・マンシュタイン歩兵大将の次男で、第2次大戦時「独軍最高の智謀」と言われるエーリッヒ・フォン・マンシュタイン将軍の伯父に当たります(エーリッヒ将軍はレヴィンスキー家からの養子のため血の繋がりはありません)。なお、グスタフ大将の長男ベーノ大尉(第77「ハノーファー第2」連隊中隊長)は緒戦のスピシュランで戦死しています。エーリッヒ将軍の養父は4人兄弟の末弟ゲオルグ将軍(最終階級は中将)でした。

 因みに実の父親はエデュアルド・ユリウス・ルートヴィヒ・フォン・レヴィンスキーで、普仏戦争では第一軍の主席参謀としてマントイフェル将軍に使え、そのまま南軍副参謀長を勤め、最終階級は砲兵大将でした。



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