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ドゥー、ジュラ、コート=ドール三県の占領(2月3日から14日)

休戦協定成立時の両軍位置(北部1871.1.28)


挿絵(By みてみん)



休戦協定成立時の両軍位置(南部1871.1.28)


挿絵(By みてみん)




 1月末にボルドー派遣部の陸軍長官フレシネが下した命令により、リヨンからロン=ル=ソニエへ送られた15,000名の兵団は、同地到着後市内で待っていたヴィクター・プリシエ将軍(ディジョンから追い出された後、ロン=ル=ソニエにて兵団創設の任を受けました)の指揮下に入ります。当地には前後してブザンソンのローラン提督から「厄介払い」された臨時護国軍将兵も到着し兵団に組み入られました。更に仏東部軍がスイスに越境し、その残兵がロン=ル=ソニエやその南方にもやって来ますが、こちらもまた命辛々逃げ延びて来た敗残の兵であり、再び命のやり取りをさせるには無理があったのです。


 この「プリシエ集団」は2万名を超える戦闘員を持つ独南軍にとっては無視出来ない存在となりますが、前述通り所詮訓練未了の本格野戦には使用出来ない兵力であり、プリシエ将軍も端からポンタルリエやブザンソンに向けて進撃するとか、東部軍を救援するとかそのような「大それたこと」は考えておらず、ただ単に現在支配下にあるロン=ル=ソニエ地方などを保持し、近く行われるはずの休戦未確定三県の休戦交渉において出来るだけ多く仏の支配地域を残しておこうとの一点だけを考えていたのでした。


 しかし相手の独南軍司令官、男爵フォン・マイトイフェル騎兵大将は当然ながらドゥー、ジュラ、コート=ドールの三県全域を独の占領地とするべく考えており、必然ジュラ県に属するロン=ル=ソニエ地方とそれ以南の地域も手に入れるつもりだったのです。

 将軍はプリシエ将軍からの休戦申し入れも、同じ頃にサラン=レ=バンの二堡塁司令官から発せられた「サランを休戦地域とする」建議も言下に断り、サランの司令官には直ちに降伏するよう、プリシエ将軍には「今後再び流血の惨事を招かないように仏軍はジュラ県から出て行くよう、その場合独軍は撤退行動を妨害しない」との返信を認め仏の使者に手交するのでした。

 マントイフェル将軍は同時に今後の方針を一切変更せず、予定通りにアルボワからロン=ル=ソニエへの前進を開始させ、軍の一部は更にジュラ県をその名の山脈に沿って南下し、一部はスイス国境に沿って警戒させることと決するのでした。


挿絵(By みてみん)

スイスの仏東部軍


☆ 2月3日


 ハインリッヒ・ヴィルヘルム・オットー・ユリウス・フォン・コブリンスキー少将率いる第2軍団の前衛支隊は、ヘルマン・アレクサンダー・ヴィルヘルム・フォン・ヴェデル大佐の支隊に援助され、仏兵と遭遇することなくレ=グランジュ=サント=マリーからムートに行軍し、その間、サン=ローラン街道上に遺棄されていた仏軍の野砲6門とその前車20輌を鹵獲しました。

 第3師団長マティーアス・アンドレアス・エルネスト・フォン・ハルトマン中将が直率する一隊はフラローズ(ムートの北西8.3キロ)まで、カール・ヴィルヘルム・アルベルト・デュ・トロッセル少将の支隊はボヌヴォー(同北10.9キロ)までそれぞれ前進し、第2軍団砲兵隊はフラーヌ付近に留まります。


※2月3日の第2軍団

◇ヴェデル大佐隊の前哨支隊(コブリンスキー隊を支援)

指揮官 マクシミリアン・フォン・レノウアルト少佐

○第14「ポンメルン第3」連隊・第9,10中隊

○第54「ポンメルン第7」連隊・F大隊

○竜騎兵第3「ノイマルク」連隊・第2中隊の1個小隊

◇第2軍団前衛支隊

○第42「ポンメルン第5」連隊

○第54連隊・第1、2大隊

○竜騎兵第3連隊・第3中隊

○野砲兵第2「ポンメルン」連隊・重砲第3中隊

◇ハルトマン集団

○擲弾兵第2「ポンメルン第1/国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世」連隊

○竜騎兵第3連隊・第1,4中隊と第2中隊の2個小隊

○野砲兵第2連隊・軽砲第1,2中隊と重砲第2中隊

○第2軍団野戦工兵第2中隊

*第2軍団砲兵援護

○第14連隊・第3,4中隊

*第2軍団行李護衛

○第14連隊・第1中隊

*シャンパニョル守備隊

○第14連隊・第2中隊

◇デュ・トロッセル支隊

○擲弾兵第9「ポンメルン第2/コルベルク」連隊

○第49「ポンメルン第6」連隊・第1、2大隊

○竜騎兵第11「ポンメルン」連隊・第3,5中隊

○野砲兵第2連隊・軽砲第第6中隊と重砲第5中隊

○第2軍団野戦工兵第1中隊


 第7軍団ではこの日(3日)、第14師団がポン=デリー(サラン=レ=バンの南7.7キロ)周辺、第13師団がルヴィエから先南西方面の各部落、軍団砲兵隊はテジー(同南東4.5キロ)、ルミュイ(テジーの南東2.9キロ)、ヴィルヌーヴ=ダモン(ルミュイからは北東6.7キロ)に別れてそれぞれ前進し、サラン=レ=バン周辺には変わらず監視隊が留まりました。


 軍総予備の男爵アレクサンダー・エデュアルド・クーノ・フォン・デア・ゴルツ少将率いる兵団はポリニーに至り、ここを拠点としてロン=ル=ソニエ方面に対する偵察と監視を開始しました。予備第4師団はマントイフェル将軍の命令によりヨハン・オットー・カール・コルマー・フォン・デブシッツ少将の兵団に送られていた4個後備大隊を帰還させました。これにより師団はオニヨン川渡河点のラリアン=エ=ミュナン、ドゥー河畔のイル=シュル=ル=ドゥー、同じくボーム=レ=ダムに置いた守備隊以外全て集合となったのです。

 同師団長フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュメリング少将は、麾下予備第4騎兵旅団長のエミール・ユリウス・フォン・トレスコウ少将に半個師団に当たる兵団を預け、レ・ザルマン(現・レ・ザリ。ポンタルリエの北東8.6キロ。les Allemandsという名前を嫌って改名したものと思われます)からレ=グランジュ=サント=マリー~バレーグの街道(現・国道9号線~N57号線)までの仏瑞国境警戒を命じました。

 同じく混成歩兵旅団長のユリウス・クナッペ・フォン・クナップシュタット大佐にはブザンソンの東側監視(西側はBa師団本隊)を命じて師団の残りを与え、シュメリング将軍は師団司令部をポンタルリエに置くのでした。

 師団配下の予備槍騎兵第3連隊の一中隊長ヨアンネ大尉はこの3日、レ・ザルマン付近を巡回中仏軍が遺棄した旧式野戦カノン砲3門を発見し鹵獲しました。これにより独南軍が鹵獲した仏東部軍の野砲は合計で28門となりました。


 この日、マントイフェル将軍は本営をフラーヌに進めています。


※2月3日のサラン=レ=バン監視隊と予備第4師団

◇サラン=レ=バン監視隊

指揮官 フーゴ・エドゥアルト・フォン・パンヴィッツ中佐(第15連隊第2大隊長)

○第15「ヴェストファーレン第2/オランダ王国フリードリヒ親王」連隊・第2大隊

○第13「ヴェストファーレン第1」連隊・第1大隊

○驃騎兵第8「ヴェストファーレン」連隊・第3中隊の2個小隊

○野砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・重砲第6中隊


◇予備第4師団のE・トレスコウ兵団

○第25「ライン第1」連隊・F大隊

○オルテスブルク後備大隊

○ティルジット後備大隊

○ヴェーラウ後備大隊

○グンビンネン後備大隊

○レッツェン後備大隊

○ゴールダプ後備大隊

○マリーエンブルク後備大隊

○予備槍騎兵第3連隊・第1,2,3中隊

○予備第4師団砲兵隊・軽砲第1,3中隊、重砲第2中隊

◇予備第4師団のクナッペ・フォン・クナップシュタット兵団

○第25連隊・第1、2大隊

○オステローデ後備大隊

○グラウデンツ後備大隊

○トールン後備大隊

○予備槍騎兵第1連隊

○予備第4師団砲兵隊・軽砲第2,4中隊、重砲第1中隊

◇ラリアン=エ=ミュナン、イル=シュル=ル=ドゥー、ボーム=レ=ダム守備

○インスターブルク後備大隊

○ダンツィヒ後備大隊


挿絵(By みてみん)

街道沿いで捕虜となる仏軍


☆ 2月4日


 この日、第2軍団はフラーヌからポンタルリエを経てスイス国境へ向かう攻撃機動により団隊が錯綜し将兵が他団隊に混入したため、先ずはこの解消に向け整理を行いました(具体的には不明ですが遅れていたり他の部隊に一時編入されていた部隊が帰隊するまで宿営地に留まったものと思われます)。その中で麾下(第6旅団)を集合させたフォン・ヴェデル大佐は野砲兵第2連隊の重砲第1,3中隊と竜騎兵第3連隊の第2中隊からの1個小隊を加えてサン=ローラン(=アン=グランヴォー)まで進み、第3師団の残りはル・フラノワ(シャンパニョルの南12.2キロ)、ムーラン・デュ・オー(ル・フラノワの北西3.8キロ)、レ・プランシュ=アン=モンターニュの各地へ進みました。

 デュ・トロッセル将軍は第4師団の約半数(第7旅団主体)となる前述の支隊を率いてポン=デュ=ナヴォイ(シャンパニョルの西10.2キロ)とシャンパニョル間へ進め、同軍団砲兵隊はシャンパニョルに宿営しました。

 また、オットー・ルドルフ・ベーノ・ハン・フォン・ワイヘルン将軍はこの日、麾下諸隊により森林高地を除くコート=ドール県主要部分の占領を達成しています。

 フォン・ハルトマン将軍率いる第3師団主力の斥候は前述のシャンパニョル南方地方で一切仏軍や義勇兵を発見出来ませんでしたが、トロッセル将軍が放った斥候の内、竜騎兵第11連隊の第5中隊はミルベル(シャンパニョルの西南西14.8キロ。部落北東方に高名な城塞址があります)の東郊で仏の騎兵隊に遭遇してこれを蹴散らしますが、この部落周辺には仏軍部隊が存在することを確認し引き上げるのでした。


 この4日、第7軍団の第14師団はアルボワへ、第13師団はアンドロ=アン=モンターニュ(サラン=レ=バンの南南東10.5キロ)へそれぞれ進みます。同軍団砲兵隊はポン=デリーとアルボワ間の諸部落に分散して宿営に入りました。また、ラングル要塞守備隊や周辺に跋扈していた義勇兵のため大迂回を余儀なくされ、遠路エピナル経由で苦しい行軍を続けて来た軍団輜重とその護衛となった第74「ハノーファー第1」連隊第1大隊がアルボワ周辺に達し軍団に合流を果たしています。


 南軍本営はこの日シャンパニョルへ移動しました。

 マントイフェル将軍は「ジュラ県内には未だ仏軍が存在しているが、東部軍がスイスに逃亡した結果これら部隊は仏において全くその存在価値が無くなっている」と考え、シャンパニョルにて麾下全軍に対し「残存する仏軍に対しては勝敗を決するような戦闘を仕掛けることなく、この数日間非常な労苦を重ねた諸隊は出来得る限り休養と補給を行い、これ以上戦闘による損害を重ねることを禁止する」として「翌5日、第2軍団はロン=ル=ソニエに対して偵察を行うものの敵との戦闘に至らぬよう注意してこれを行い、他第7、第14軍団と併せ5日は休養と補給を実施し特に可能な限り被服と装具の補充と修繕を行うこと」を命じたのでした。

 

☆ 2月5日


 この日。マントイフェル将軍はシャンパニョルの本営にてヴィルヘルム1世皇帝からの直接電信命令を受領します。そこには将軍の戦勝を祝し麾下諸隊の功績大であることを称えその将兵には十分な休養を与えるよう記されており、「但し、ベルフォールの攻囲だけは緩むことなくマントイフェル将軍としては最も効果的な援助を攻囲兵団のウード・フォン・トレスコウ将軍に与えるよう」命じていたのです。

 この日はポンタルリエ周辺で行なわれていた鹵獲品の整理と処分・仏東部軍捕虜の後送・戦場の清掃・占領地軍政の開始業務などが一段落します。そのため、これら作業に従事していたフォン・シュメリング将軍麾下の諸隊から、仏瑞国境の警戒や占領地の巡察を行う以外の兵力を再びベルフォール攻囲に送り出すこととなり、オストプロイセン後備歩兵旅団や砲兵2個中隊が配置を外れモンベリアール方面へ向けて行軍を開始しました。

 結果、シュメリング将軍は広範囲と多くの業務に少なくなった兵力で臨むために諸隊の再配置を行ったのです。


※2月5日・予備第4師団の再展開

*ベルフォール攻囲兵団(U・トレスコウ中将)へ転属

○ティルジット後備大隊

○ヴェーラウ後備大隊

○グンビンネン後備大隊

○レッツェン後備大隊

○ゴールダプ後備大隊

○マリーエンブルク後備大隊

○予備第4師団砲兵隊・軽砲第3中隊、重砲第2中隊

*ポンタルリエと周辺部守備

○第25連隊・F大隊

○オルテスブルク後備大隊

○オステローデ後備大隊

○予備槍騎兵第3連隊・第1,3,4中隊

○予備第4師団砲兵隊・軽砲第1中隊

*オルナンとその周辺部守備(ブザンソン東方警戒)

○第25連隊・第1、2大隊

○グラウデンツ後備大隊

○トールン後備大隊

○予備槍騎兵第1連隊

○予備第4師団砲兵隊・重砲第1中隊、軽砲第4中隊、軽砲第2中隊の2個小隊(4門)

*イル=シュル=ル=ドゥー守備隊

○インスターブルク後備大隊

*ラリアン=エ=ミュナン守備隊

○ダンツィヒ後備大隊

○予備槍騎兵第3連隊・第2中隊

○予備第4師団砲兵隊・軽砲第2中隊の1個小隊(2門)


 この5日、昨日は敵を見たミルベルにデュ・トロッセル将軍は再び斥候隊(第49連隊第4中隊と竜騎兵第11連隊第5中隊の1個小隊)を送りましたが、既に仏軍は消え失せていました。竜騎兵小隊は更に西へ進んでクランソ(ミルベルの西5.2キロ)東郊に至るとちょうど馬車の縦列が騎兵に援護され西へ出発するところでした。しかし彼らポンメルンの竜騎兵たちは「敵を発見してもこちらから仕掛けるな」との命令を受けており、仏軍の縦列がロン=ル=ソニエ方向へ消えて行くのを黙って見送ったのです。


挿絵(By みてみん)

白旗の軍使


☆ 2月6日


 ロン=ル=ソニエ在の仏軍司令官プリシエ将軍は5日、「独軍の先頭部隊がミルベルに現れた」との報告を受け、独マントイフェル将軍の堅い意志を知らされていた将軍は戦っても無益と考え、休戦が及ぶ仏軍支配地域へ撤退することを決意しました。先ずは麾下2万を6日夜までに独軍が遮断を狙うであろうリヨンへの主街道(現・国道D1083号線)を避け、一旦西のボールペール=アン=ブレス(ロン=ル=ソニエの西12.5キロ)へ移し、その後地方街道を辿りつつ南下してブールカン=ブレス(ロン=ル=ソニエの南南西57.8キロ)を目指すことに決します。仏軍は5日午後には動き出しロン=ル=ソニエを後にしました。


 6日朝の斥候偵察によりロン=ル=ソニエから仏軍が消えたことを知ったデュ・トロッセル将軍は直ちに麾下全部隊でロン=ル=ソニエを目指し、途中後方警戒としてミルベルに擲弾兵第9連隊の第1大隊を残すと、残り本隊は午後にロン=ル=ソニエに到着し難なく市街を占領しました。

 この日、第3師団はシャティヨン(ロン=ル=ソニエの東13.5キロ)~クレルヴォー=レ=ラック(サン=ローランの西15.6キロ)の線に到達し、第2軍団砲兵隊はポン=デュ=ナヴォイへ入りました。


 第7軍団は第14師団をモン=ス=ヴォドレ(ドールの南南東15キロ)へ向け行軍させ、第13師団はアルボワに至ります。軍団砲兵隊はマトネとモランボ(モン=ス=ヴォドレの南東7.7キロ付近)周辺に進み宿営しました。

 コート=ドール県を制圧したハン・フォン・ワイヘルン将軍は、ディジョンの西方においてプレシー=ス=ティル(ディジョンの西55.4キロ)、ソリュ(プレシー=ス=ティルの南南西13.4キロ)、プイイ=アン=オオワ(ディジョンの西37.2キロ)に、南方においてボーヌ、サール(ソーヌ河畔。ボーヌの東23.6キロ)にそれぞれ拠点駐屯守備隊を置き、未だ降伏しないオーソンヌを包囲するため支隊を送り出します。

 オーソンヌの要塞司令は度々守備隊を出撃させ、ドール~グレー間の独後方連絡線を脅かしていましたが、2月第一週にもパントル(オーソンヌの東7キロ)とフラーヌ=レ=ムリエール(パントルの北東2キロ)に遊撃隊を送り込んでいたのです。これを知ったフォン・マントイフェル将軍はドール~グレー間を知悉するフリードリヒ・アウグスト・ベルンハルト・フォン・デム・クネセベック大佐に対し「ワイヘルン将軍の派遣した包囲諸隊に協力しオーソンヌ周辺に出没する敵を駆逐せよ」と命じました。


※2月6日の対オーソンヌ諸隊

◇包囲隊

指揮官 ヴィルヘルム・エデュアルト・クラウス中佐(Ba第3連隊長)

○Ba第3連隊・第2、F大隊

○Ba竜騎兵第1「親衛」連隊・第5中隊

○Ba砲兵連隊・重砲第2中隊

◇攻撃隊

○第72「チューリンゲン第4」連隊・F大隊

○野砲兵第2連隊・軽砲第2中隊の1個小隊(2門)


 クネセベック大佐は6日、スールから出撃しオーソンヌ周辺で索敵を行いましたが仏兵は既に要塞地区に逃げ込んでおり、戦闘は発生しませんでした。

 ワイヘルン将軍麾下はこの日アルネ=ル=デュック(プイイ=アン=オオワの南南西15.5キロ)とスミュール=アン=ノーソワ(プレシー=ス=ティルの北11.7キロ)も占領し、これら前線部隊はボーヌからディジョンを経てニュイ(=シュル=アルマンソン)に続く後方連絡線を守る兵站守備隊と連絡を取り合い、コート=ドール県の占領地維持を確実とするのです。


 この6日、マントイフェル将軍は本営をポリニーへ進めました。


☆ 2月7日


 この日。独南軍はドゥー、ジュラ、コート=ドールの休戦範囲外三県を完全制圧したとして、全域これを独占領地と宣言しました。

 これ以降マントイフェル将軍は駐留軍となる南軍将兵のための宿営駐屯地の整備拡張・充実に乗り出し、宿営地域の範囲拡大や糧食・物資の徴発区域拡張を諸団隊に許可するのです。同時に将兵の気の緩みを警戒し「完全なる戦闘準備を整えたまま、未だ仏軍が降伏せず対峙する地域(ブザンソンやサラン=レ=バンなど)では必要な警戒包囲態勢を構築するよう」命じるのでした。


 同日、独南軍本営は各軍団の担当地域の割り当てを発表し、結果第2軍団はジュラ県(ドール、シャンパニョル、ロン=ル=ソニエ)、第7軍団はコート=ドール県(ディジョン、ボーヌ、モンバール)、第14軍団はドゥー県(ブザンソン、ポンタルリエ、モンベリアール)が占領担当地域となりました。フォン・デア・ゴルツ将軍の兵団は編成を変えてBa第1旅団と元々フォン・ヴィリゼン大佐が率いていたBa騎兵旅団(Ba竜騎兵第1連隊、同第2連隊、Ba騎砲兵中隊)とし、変わらず軍の総予備としてドールに集合し駐屯することとなります。フォン・デア・ゴルツ将軍はこの地にて第2と第7軍団の連絡を受け持ち、同時にオーソンヌとサラン=レ=バンの警戒監視を行うという重責を担うことになりました。また、フォン・ヴェルダー将軍の第14軍団はブザンソンの警戒と最後に残った休戦除外地域のベルフォール攻囲を続行しスイス国境にも目を配るためポンタルリエにも相応な守備隊を置くことなったのでした。

 軍本営はこの日モン=ス=ヴォドレへ進みました。


挿絵(By みてみん)

赤十字による仏軍傷病兵の輸送


☆ 2月8日から14日


 ドゥー、ジュラ、コート=ドール三県への南軍展開は2月10日までに実施されます。但し、ハン・フォン・ワイヘルン将軍の臨時集成兵団が解散し原隊に復帰するのには時間が掛かったため、第7軍団がワイヘルン将軍と交代してコート=ドール県に展開を終えたのは12から13日となっています。


 実はマントイフェル将軍は2月6日にベルサイユ独大本営からラングル要塞包囲も命じられていました。これは休戦地域に指定されたにも関わらずこれを認めず、未だ独軍占領地に遊撃隊を出撃させ続ける要塞に対して実力行使に出るための準備命令でした。

 ラングル要塞に対しては1月25日にロンウィー要塞を陥落させた諸隊を充てることとなっており、その指揮官である前第13軍団参謀長パウル・カール・アントン・フォン・クレンスキー大佐は大本営命令により配下の後備歩兵6個大隊・予備騎兵2個中隊・予備野砲兵2個中隊・要塞砲兵6個中隊・要塞工兵3個中隊に攻城資材と要塞砲とを列車に載せ先を急ぎます。またラングルが所轄となるロートリンゲン総督府にも、後備歩兵10個大隊を占領地業務から引き抜き攻囲に参加させるようベルサイユから命令が届くのでした。

 マントイフェル将軍はラングルに2万前後の兵員がいるとの情報から、更にクネセベック大佐の旅団もいざとなったら投入するべくグレーに集合させました。

 ところが2月8日、ロートリンゲン総督のアドルフ・アルベルト・フェルディナント・フリードリヒ・フォン・ボニン歩兵大将から「ラングル要塞司令が休戦を承諾したとの情報が入った」との至急報が届き、ほぼ同時にヴィルヘルム1世皇帝からも「既に実施された占領地の軍隊配置は、やむを得ず敵対行為が必要とされ作戦が開始されるまで変更してはならない」との勅令が届くのです。これには、ようやくのことで休戦が成立し仏の選挙が開始されたこの重要な時期に、大して重要ではない地方での衝突で全てをご破算とされては叶わない、と考えたビスマルク首相(彼はかつて極右のマントイフェルを「狂犬」と呼んでいます)の姿が浮かんで来ます。このことに感付いたのかどうかは分かりませんが、マントイフェル将軍は尚も勅令を無視するかのようにフォン・デア・ゴルツ将軍の兵団をグレーを経てラングル南方のシャンリット(グレーの北19.8キロ)、プロートア、フォンテーヌ=フランセーヌ(同北西18.9キロ)の各部落とその周辺に駐屯・展開させました(ゴルツ将軍麾下は軍の総予備のため表向き駐屯地を持たない遊軍で、動かすことは軍司令官の一存、として勅令違反にはならないと考えたのでしょう)。

 マントイフェル将軍は10日に本営をドールとサン=ジャン=ドゥ=リスルを経て第7軍団も本営を置くディジョンに移しラングルへの攻囲準備を急がせました。なお第2軍団本営は9日からポリニーに、第14軍団本営はドールにそれぞれ移動しています。


 しかし幸いにもラングルでこれ以上の衝突は発生しませんでした。

 何故ならば2月14日にマントイフェル将軍の下へ「前13日、仏南東部における休戦協定が成立した」との通報が届いたのです。

 これにより休戦除外三県も休戦範囲とされ(ほぼ全域が独軍占領地)、ようやく仏全土で休戦が発効するのでした。


 2月14日。マントイフェル将軍は戦時における最後の軍命令を発し、その主旨は「南軍に属する各人の功績を賞賛する。勝者は全敗に帰した敵将兵に対する接遇・対応に留意し寛容であらねばならない」とのことでした。


※2月13日に改訂し2月15日に署名された独仏休戦協定(仏南東部に関する追加条約)


「1月28日に締結された休戦協定の全権委任状を携行する下記の者は、同休戦協定におけるドゥー、ジュラ、コート=ドールの三県及びベルフォール地区における作戦行動の停止並びに独軍の占領地域とヨンヌ県カレ=レ=トンブ(ディジョンの西79キロ)を起点とする仏軍支配地域との間の休戦境界線確定を後日定める、との条文に基き次の追加条項を締結する。


第一条

ベルフォール要塞はその軍備に属する軍需物資と共にこれを独の攻城軍司令官へ受け渡すこと。

ベルフォールの守備兵はその武器、装備、守備隊に属する軍需物資並びに軍関連図書を携行し軍事上の名誉を保持して同地を退去すること。

ベルフォール要塞司令官並びに攻城軍司令官は、この条項の実施並びに実行に要する細事並びにベルフォール守備兵が安全に休戦境界線を越えて仏軍支配地に到達するための方向と行程などについて協議を行うこと。


第二条

ベルフォールに存在する独軍捕虜はこれを解放すること。


第三条

ヨンヌ、ニエーヴル、コート=ドールの三県(実際はジュラ、アン県も含みます)に接する地点に線引きされる休戦境界線は次の通り。

(カレ=レ=トンブ東郊より)コート=ドールの南方県境に沿い、ヌベールからオータン~シャニーを経てシャロン=シュル=ソーヌに至る鉄道線がコート=ドール県境を越える地点(シャニーの西郊5.3キロ付近)に達するまで。本鉄道線は独軍の支配下に置かれない。休戦境界線はこの地点から鉄道線より1キロ北に離れて並行しシャニーの東からはコート=ドール県の南県境に沿う。更にソーヌ=エ=ロアール県並びにジュラ県との県境に沿ってルーアン(ロン=ル=ソニエの西26キロ)からロン=ル=ソニエに至る街道(現・国道D678号線)を横断し、マルレ(同南西9.2キロ)付近の高地でジュラ県境を離れ、ロン=ル=ソニエの南11キロ付近(ソネット川の鉄道橋付近)でロン=ル=ソニエ~ブールカン=ブレス鉄道を横断し、この地点よりクレルヴォー(=レ=ラック。ロン=ル=ソニエの南東18.6キロ)への街道のアン川橋梁(クレルヴォーの西北西4.2キロのポン=ドゥ=ポワット付近)に進み、ここからサン=クロード(クレルヴォーの南南東22.6キロ)郡の北境に沿ってスイス国境に達するまで(ジュネーヴの北25キロ付近となるスイス国境とジュラ、アン両県との三叉点)。


第四条

ブザンソン要塞はその守備隊のため要塞都市周囲10キロの地域を保有する。オーソンヌ要塞の周囲3キロはこれを中立地とする。但しこの地域を通過するディジョン~グレー、同じくディジョン~ドール鉄道線は独軍が使用し、軍事及び占領地行政のために利用することが可能となる。


第五条

ドゥー、ジュラ、コート=ドール三県は休戦期日その他の事項について1月28日締結の休戦協約の条項全てが適用され、只今から1月28日より実行中の休戦に内包されることとなる。


1871年2月15日ベルサイユにおいて

          フォン・ビスマルク

1871年2月15日ベルサイユにおいて

         ジュール・ファーブル

(筆者意訳)」




独仏休戦境界線(仏北部・1871.2.28休戦終了時)


挿絵(By みてみん)


独仏休戦境界線(仏南部・1871.2.28休戦終了時)


挿絵(By みてみん)



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