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戦争の間奏曲(後)

 実戦部隊の兵士たちが双方休息日となったこの日、指揮官たちにとっては反省と次の段階へのスタートの日となりました。


 プロシア首都ベルリンでは参謀本部総長モルトケ大将が国王ヴィルヘルム1世と面会し、「いよいよ決戦の時が来ます。前線に出て指揮を執りましょう」と声を掛けます。国王も連戦連勝の報告が次々とやって来ることで機嫌が良く、直ちに出発を命じました。これには宰相ビスマルクも同行します。


 国王は移動途中でボヘミアで戦う第一、第二、エルベの三つの軍に重大な命令を発しました。

「第二軍(皇太子指揮)はエルベ上流左岸(東側)に留まり、その右翼をして第一軍(カール王子指揮)の左翼と連結すること。第一軍は渋滞を避けながらケーニヒグレーツに進路を取り、その右側に敵がいた場合はこれをエルベ軍が攻撃し南側の敵主力と引き離すこと」


 この命令を受けた第一軍は直ちに全軍が南下を始めます。またエルベ軍もその右翼(西側)に連なって進み始めました。また、第一軍の騎兵部隊は東側に斥候を出して敵を探ると共に第二軍の前衛を捜して進みます。そしてついにアルナウ(ノベーザームキー付近)で第二軍第1軍団の前衛と出会うのです。これで第一軍と第二軍の連絡が出来ました。


 第二軍は命令通り動かず、ケーニヒスホーフ付近での「にらみ合い」とグラドリッツでの「神経戦」が続きました。


 一方、オーストリア北軍の本営では……


 この戦争開始以来、北軍司令官のベネデック元帥は日に日に憔悴の度を深めていきました。なにしろ勝てない。初期は防衛戦に徹するとの方針なので、「受け身」の戦いであるのは構わないのですが、その防衛戦が連戦連敗でした。せめて敵の損害が大きければ割に合うのですが、これも味方が敵の二倍から五倍の損害と兵力はどんどん消耗して行きました。


 ベネデックが描いた防衛戦闘の後に各個撃破という「戦略」自体は間違っていません。逆にプロシア側の「分進」の方が危険度が高いのです。

 慣れた自国領で防衛戦闘を行う軍と、敵国で兵力をほぼ二分して戦う軍のどちらが優位性を持っているか、深く考えずとも分かろうと言うものです。


 ベネデックは最初、集結地から動員を完了次第続々とやってくる軍団を一箇所に集め、その数が自軍の半分程度と見られるプロシアの第一とエルベ両軍を叩こうと考えていました。

 ところが、ベネデックの思惑に反し、プロシア軍は兵力の高い東の第二軍より北の第一軍とエルベ軍の方が軍としての統一感と機動力が良く、クラム=グラース将軍のボヘミア軍は後手に回って撤退に次ぐ撤退となります。

 逆にプロシア第二軍の方は半分の兵力(第5軍団と近衛軍団)が活躍するだけで後は存在感の薄い状態。

 特に6月27と28日はベネデックにとってチャンスでした。

 東側の敵進入路二つを北は第10、南は第6の二軍団で塞ぎ、その間にギッチン方面で北の敵と戦うべく四つの軍団(第8、4、3、2の順番で北上中でした)が進撃していたのです。

 27日に発生したトラテナウ、ナーホト二つの戦いに勝っていれば、プロシア軍は窮地に落ちていたのかもしれません。しかし、トラテナウは限りなく引き分けに近い勝利、ナーホトは負けという結果でした。


 それでもまだ28日の戦闘で食い止めていれば勝機がありましたが、この日のスカリッツにおいて、ベネデックは痛恨のミスを犯してしまいます(「スカリッツの戦い」を参照)。

 あの朝、犠牲を恐れず強気で第8軍団に第6軍団を合わせ、後からやって来た第4軍団を加えればさすがのシュタインメッツ第5軍団も敗れ去ったことでしょう。これは確かに全くの後知恵ですが、シュタインメッツに続いていたプロシア第6軍団のスローペースを見たら、ボヘミア南部はその後ヴィソコフ高地に陣どる一個軍団で完璧に守り切れたのではないかと思ってしまいます。

 しかし、ベネデックはオーストリア第6軍団長ラミンク将軍の進言をすぐには実行せず、なおも軍議を続けた後で進言を却下してしまいました。


 この時ラミンクの進言に異議を唱えたクリスマニク作戦参謀の言に従ったにしても、曖昧な命令など出さずに直ちに町を捨て行動していれば、スカリッツの戦いはまた別の様相を呈していたはずです。

 そしてヨセフシュタット要塞を捨てる位の覚悟で全軍団を北に向かわせていれば、29日にはクラム=グラースの第1軍団は少なくとも第3軍団や第4軍団の援軍が期待出来たはずです。東の側面は第10に第6や第8軍団を加えてエルベ上流のライン(ケーニヒスホーフ周辺)で敵を食い止める。しかし、全ては絵に描いた餅で終わりました。


 このオーストリア大敗の最大原因は「逐次投入」という最大の悪手をベネデックが行ったためです。

 トラテナウとナーホトは仕方がないとしても、スカリッツとシュヴェインシェーデルは全くの場当たり的兵力の逐次投入でした。


 ケーニヒスホーフやギッチンを含め、全ての戦いは一個軍団のみで戦われ、二個軍団以上が敵に対した合戦はここまで事実上ありません。

 あのスカリッツにせよ、エルベ川に架かる橋がひとつで東側で戦うのが難しかったのなら、一端町の東を捨て西側で二個軍団を併せ、敵と向き合えば何とかなった可能性があるのです。


 また最初から、武器の性能と通信情報の優秀さ、参謀や指揮官の判断力に勝ったプロシアには分がありました。

 オーストリア側にしても、敵のドライゼ銃とクルップ砲の優秀さが分かって来たのなら、進撃してくる敵に対し無闇に銃剣などで立ち向かわず、陣地をしっかり構築し待ち受けた方がまだましだったはずです。


 オーストリア敗北の背景には他にも、オーストリア側通信の遅れやあいまいな命令などで本営が描く作戦が末端まで行き届かず、各軍団はほとんど独自の判断で戦っていたと言っても過言ではない状況にあったということもあります。


 とにかく、ここまでのオーストリア北軍の損害は恐るべきものでした。

 戦争にはつきものの戦いに因らない病気やけがによる死亡を含まず、純粋な戦闘での死亡数だけで29日までに三万を越えました(ザクセン軍含む)。

 特に第1軍団と第10軍団は八千人前後の死亡と、軍団の三分の一の戦闘員が消え、その激しい損耗から精神に異常を来す者も現れ始め、まともに戦えない状態でした。


 ベネデックはこの30日、本営をドゥベネックからケーニヒグレーツに移動しました。そして全軍をケーニヒグレーツの北、サドワ村付近からケーニヒグレーツにかけて広がるクルム高地に集合させる命令を下しました。


 この命令の電文にはベネデックの悲壮感が漂っています。

 クルム高地への撤退の理由を一大決戦の準備のためと強調し、特に規律と秩序の維持を各司令官に求めています。流言飛語や士気が弛緩するのを許すなと命じ、秩序を守らない者は一切の酌量なしで処罰しろと命じます。そしてヨーゼフ皇帝への忠義と、この苦難に耐え美名を発揚せよ、と記していました。


 午後5時30分。ベネデック元帥は北軍がケーニヒグレーツに後退することを首都ウィーンに報告しました。


 ベネデックはギッチンでの大敗を知って後、苦悩の数日を過ごします。

 傍目から見てもベネデックの苦悩は分かりました。憔悴し切って人を遠避け、独り悩む姿は痛々しいものでした。


 ベネデックも一国の運命を担うという地位に配された人物です。おべっかや売名行為だけでこの地位に上り詰めたわけではありません。

 後の日露戦争でロシア帝国バルチック艦隊を率いたロジェストヴェンスキー提督もベネデックと同様、無能なのに王の覚えが目出たかったからこの地位にありつけた、等と言われますが、これらは後生の人間の後知恵というものです。


 どんなにエコヒイキだろうが一国の命運がかかった総司令官などという地位は簡単に与えられるはずはありません。コネやエコヒイキが効くのは候補に挙がるまでで、その候補から選ぶとなれば当代一流の人物にその地位が与えられるものです。そして司令官等というポジションは戦略や戦術に長けるだけでは勤まらず、多少のカリスマ性や人心掌握術などに優れた人物が指名されるものです。

 ベネデックは誰よりも適任だと考えられたからその地位にあった、と考えるのが自然でしょう。だからこそ彼は自分の失敗を誰よりも知っていて、誰よりも深く悩んだのです。


 休息の30日が明けて7月が始まります。


 ベネデックの本営には、皇帝の側近から戦況視察員として派遣されていたフォン・ベック中佐がいました。皇帝にギッチン敗戦とケーニヒグレーツへの退却が伝わる前に、ベネデックはベック中佐を介して皇帝からの勅語を受けます。

「27、28日ヨセフシュタットより、29日はドゥベデックより送信された戦況報告以来、詳しい戦況を聞かされていないが、朕(ちん/皇帝)は卿(ベネデック)が忠誠を誓って奮闘し戦果を挙げ、また軍の規律を維持しているであろうことを信じている」


 多分、フランツ・ヨーゼフ皇帝は戦況の悪化を良く知っていたのではないかと思います。これはそれを承知でベネデックを慰め、奮起させようとの電文ではないでしょうか。


 しかし、この電文を受けてもベネデックの気分は回復しませんでした。

 彼はこの1日午前11時30分、密かに独りで次の電文を皇帝宛に発信しました。


「皇帝陛下。私は伏して願います。利、不利を問わず無条件でプロシアとの講和をお急ぎください。我が北軍はこの先勝利が望めません。ベック中佐はお返しします。(詳しくは彼からお聞きください)」


 しかしこれを受けた皇帝は首を縦に振りませんでした。まだ無傷の軍団(第2や第3)があり、3万名を失ったとはいえ、未だ20万名に及ぶ軍があるのです。確かに北軍の士気は最低で疲弊が激しいとはいえ、全軍集合し数日休めば再び敵と戦うことが出来るはず。突然講和会議を開けと言っても、最後の決戦なくして講和など出来ない。プロシアと話すのはまだ早い。


 皇帝はベネデックに対し、短い回答を送ります。

「和議は開かない。退却は了解する。この後どう戦うか報告して欲しい」


 皇帝が講和しない、というのなら軍の司令官としては戦うしかありません。

 ベネデックもこれで諦めたのか、皇帝からの勅語を了解し、一大会戦の準備に入る、と回答しました。

 しかし、その電文には、プロシアのドライゼ銃の威力や兵力の激減などをつらつらと述べていて、ベネデックが戦闘の続行に乗り気でないことがよく分かります。


 しかし、彼のやる気に関係なく、事態は動いて行きました。

 皇帝からは北軍参謀長ヘニックシュタイン中将と主任作戦参謀クリスマニク少将の解任・召還を命じて来ました。

 更にボヘミア軍司令官兼第1軍団長クラム=グラース騎兵将軍の解任・召還命令が続きます。電令には、彼らの後任はベネデックが信用する者を北軍の中から選び任命せよ、とありました。


 ベネデックは「前」参謀長と作戦参謀を庇おうとし、ヘニックシュタインをグラースの後任として第1軍団長に、クリスマニクを第3軍団付きに「左遷」したいと奏上しますが、これを皇帝は許しませんでした。

 

 後にこの三人は今で言う軍法会議に掛けられますが、この時にクラム=グラース将軍はギッチンにおいて精一杯の指揮を執ったと再評価され、名誉を回復、敗戦の責任は問われないことになります。逆にヘニックシュタイン、クリスマニクの二将官は弾劾され、軍を追われることになりました。(1866年10月)


 参謀長の後任は第3軍団の司令部付き将官、バウムガルテン少将に決まり、また、少し遅れて第1軍団長には同軍団付きだったゴンドルクール少将が中将に戦時昇進し任命されました。

 バウムガルテン「新」北軍参謀長は7月3日、ケーニヒグレーツに置かれた本営で就任します。


 同じ日、罷免され召還されるクラム=グラースら三人の将軍は、ケーニヒグレーツの停車場でウィーン行きの列車に乗り込みます。しかし、この日はオーストリア北軍にとって「最悪の日」でした。「終わった」三人の将官へ割ける人員や余裕もありません。将軍たちは見送る士官の敬礼も兵士の捧げ銃もなく、寂しく戦場から去って行ったのです。



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