参謀総長モルトケ
☆ 王族付武官
さて、この1848年から55年にかけてのモルトケは、その後の彼の人生と比し「静かな」時期を過ごします。
元デンマーク人のモルトケですが、兄弟はデンマーク籍のまま前述通り弟アドルフがシュレスヴィヒ=ホルシュタインの行政官に指名されたり、兄弟がデンマーク軍で従軍していたり(独側と戦っていたかどうかなどの詳細は不明です)親族が敵・味方に分かれてしまいました。因みに父ヴィクトールはそれ以前の1845年、ハンブルク近郊のヴァンズベクで亡くなっています(母アンリエットは1837年に死去)。モルトケにもSH軍で指揮を執って貰えないか、との依頼がありましたがさすがにこれは断っています。
この頃のモルトケは当時参謀総長になったばかりのカール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ライヘア中将(陸軍大臣からの横滑り。1848年3月就任)から目を掛けられており、地図課長に抜粋したのも新参謀総長でした。
1848年8月、モルトケ少佐は再び第4軍団(ベルリン西方ザクセン・アンハルト方面/本営所在地マグデブルク)に赴き参謀長を拝命しました。この時、彼の部下には秀才のハンス・アウグスト・フォン・グリツィンスキー少佐(後に陸軍省へ移りローン大臣の下で軍制改革に活躍します)がおり、モルトケはライヘア参謀総長から直接、グリツィンスキー参謀と一緒に「もしもオーストリアと戦う必要が生じた場合の」動員計画を作るよう命じられています。
モルトケを引き立てたライヘア参謀総長
この軍団は翌49年にヴィルヘルム王太弟麾下でバーデン大公国の革命鎮圧任務に出動していますが、モルトケ自身は留守を守り、ヴィルヘルム王太弟が「榴弾王子」と綽名されるようになる悲惨な戦闘(親王は戦闘で情け容赦なく革命軍将兵を殺戮し捕虜も問答無用で処刑したと伝わります)には参加していません。
モルトケはこの辺りから昇進も早まります。1850年9月、中佐に昇進、1851年12月に大佐となりました。
1854年夏の参謀旅行演習では病床にあった参謀総長に指名され、代理で総監督する大任をこなし、秋には第4軍団の年次演習も監督します。
これらの演習を率なく指揮したモルトケ大佐は1855年9月1日、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世から王の甥でヴィルヘルム王太弟の長男、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニコラウス・カール親王(後の第二代ドイツ皇帝フリードリヒ3世)の侍従武官に任じられました(所属は参謀本部となります)。
この人事は先の演習の噂を聞いた国王がライヘア参謀総長に適任かどうか訊ねた結果と思われますが、モルトケ自身は先の演習で満足する結果を出したため、昇進か上級職への異動を期待しており、長らく参謀や副官(スタッフ職)に就いていて、トルコでの実績はあるもののプロシア軍では現場(ライン職)を経験していなかったため、現場で実績を作ろうと連隊長を希望していた(出世するには現場=ラインでの卒ない勤務が必要とされていました)と言われますが、完全にアテが外れてしまいました。
フリードリヒ親王(1855)
モルトケとしては不本意だったかもしれませんが、王族二人目の侍従武官任務は一人目の場合より遥かに重要な任務でした。
プロシア国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はこの時点(1855年)で60歳。エリーザベト・ルドヴィカ王妃は54歳で、夫婦仲は非常に良かったと伝わりますが子供には生涯恵まれませんでした。子供に恵まれなかった原因は国王にあると言われています(ですから非嫡出子もありません)。そのため次弟のヴィルヘルム親王が「王太弟」となっており、その長男がフリードリヒ親王だったわけで、モルトケは「将来国王となる可能性が高い親王」の軍事における相談・教育係となったのでした。
フリードリヒ親王は当時24歳。5年前のロンドン万国博覧会(第1回目)にイギリス女王ヴィクトリア1世と夫アルバート公から招待された際、女王の長女ヴィクトリア王女(当時10歳)が接待役となりました。
イギリスの王女(既に4ヶ国語を操る才女です)は終始ドイツ語で通し、拙い英語で応じるプロシアの親王は感心してしまいます。そして幼くとも賢く探求心に満ちて明るい王女に感じ入ったフリッツ(親王の愛称)はヴィッキー(王女の愛称)と文通する仲となり、モルトケが武官となった直後にモルトケらを伴って訪英し、王女に求婚しました。この行動はクリミア戦争中と言うこともあって両王家や世論からやや批判的(イギリスは強権を行使し絶対王政を譲らない旧弊な新興国プロシアに不信感を抱き、プロシアは立憲君主制の元祖で自由主義に傾く大国イギリスを警戒していました)に捉えられますが、二人は互いに愛情を感じており、またドイツ出身のアルバート公(ザクセン=コーブルク=ゴータ家)やフリッツの母アウグスタ妃ら応援する王族もいて、多くの反対を封じる形で両家から承認されました。
ヴィクトリア王女(1855)
フリードリヒ親王は正式に婚約をするため翌56年5月にイギリス(スコットランド)へ赴き、モルトケも同行しました。
同年8月9日、モルトケは少将に昇進、遂に将官となります。同じ8月、モルトケはフリードリヒ親王と共にクリミア戦争を終えてようやく世界に新皇帝をお披露目することとなったロシア帝国を訪問し、アレクサンドル2世の戴冠式に列席しました。既にロシア軍にもモルトケの著作(特にトルコ関係)が知られており、トルコとバルカンを争うロシア軍の参謀たちと交流があったものと想像されます。
11月には再び婚約者の下を訪れるフリードリヒ親王(ヴィッキーの誕生日を祝うためでした)と共にロンドンへ向かいますが、モルトケは王宮に同行せず、フランスのカレーへ渡ってここで王子の帰国を待つことにしました。モルトケは将来敵国となるかも知れない要衝の街の様子などを観察します。するとホテルで寛いでいたモルトケの下にフリードリヒ親王宛に1通の招待状が届けられました。
ここにモルトケは後日最大の敵となる男に対面することとなります。
親王が招待された場所はパリ。時のフランスは第二帝政が始まったばかり。招待主はフランス皇帝ナポレオン3世でした。
既述通りモルトケは幼少時、ナポレオン3世の伯父ナポレオン・ボナパルトのフランス軍にひどい目に合っており、およそナポレオンという名の付くもの全てを嫌悪していました。
ナポレオン3世ことルイ=ナポレオンは1848年の革命でのし上がって来た男で、それまでの王政に懲りた民衆が「ナポレオン」時代を懐かしむ風潮に乗り、自分がナポレオンの弟の子供であることを最大限に利用、革命後の選挙で大統領になります。
そしてその勢いのまま帝政への移行を企み、反大統領だった議会に対するクーデターを成功させ帝政復活の国民投票を実施してトントン拍子に皇帝になった男でした(第二帝政の開始は1852年12月2日)。
モルトケはフランス由来の1848年革命でも妻をベルリンから避難させる際どい場面を経験しています。皇帝を毛嫌いするなと言う方が無理と言うものだったでしょう。
ナポレオン3世
フリードリヒ親王がカレーに到着しパリへの招待を受けると、モルトケも同行し、皇帝の謁見にも同席しました。
当時の皇帝はクリミア戦争に勝利して勢いがあり、4年前にスペイン貴族の娘ウジェニー・ド・モンティジョと結婚してこの年(1856年)3月に世継(ナポレオン4世)が誕生し、正に絶頂と言えます。
フリードリヒ親王一行がナポレオン3世をチュイルリー宮に訪ねたのは10月13日のことでした。一行が到着すると皇帝自らが出迎え、その夜は大宴会が催されます。
この際の随員紹介の段でモルトケも初めてナポレオン3世と対面しますが、好意的に迎えたフランス皇帝に対しモルトケは義礼の態度を崩さず、愛想は一切示さなかったと言います。
後にモルトケが語ったナポレオン3世評はモルトケの観察眼が分かるので長めに引用します。
「私はナポレオン3世と対面し、一応の傑物ではあることを知った。皇帝の瞳は動かず表情も変わらず、態度は穏和、泰然として微笑む様はその人となりを窺わせる。但しこれはボナパルトの家系に多く見られる特徴ではある。また、皇帝は常に頭を後ろに傾け時に背もたれに置くが、これは心広く落ち着き払い危機にも冷静に対応するように見える。これは感情の起伏が激しいフランス人を敬服させるに十分と思えた。しかし、この落ち着きは空気が読めない(鈍感)、とも考えられる。
皇帝の成し得た事業(クーデターから皇帝、クリミアの勝利など)の結果から見ても大抵の権力者より優れていると認めるしかないだろう。だが、皇帝は宴会場に座っている間、人を圧する態度を示すところがなく(オーラがない)、往々にしてその会話中錯綜するところがあった(話すのが得意ではない)。つまり皇帝はフランスの偉大なる皇帝や大王に価する人物ではないと考える」(ミュラー「モルトケ伝」第一章。筆者意訳・カッコ内は筆者)
帰国後、妻マリーに「ナポレオン皇帝はどのようなお方でした?」と尋ねられたモルトケはポツリと「死んだ魚の様な眼をしていた男」「フランス国民をナポレオンと言う名の魔術でたぶらかした稀代の詐欺師」と語ったそうです。
また、閲兵式の際にフランス軍衛兵の所作をじっくり観察していたモルトケは、武官に「教練を拝見したい」と願って許され衛兵の教練を見学しますが、銃の扱いが乱暴(小銃を「立て銃(つつ)」にする際、銃床を地面に叩きつける動作が見られました)なのを見て「あれでは銃の精度が落ちる」と記しています。
モルトケがナポレオン3世と因縁の対決をするのはこの13年後のことでした。
ウジェニー皇后
1857年に入ると、前半はフリードリヒ親王に軍事や戦史を教えたり、地方視察に随行したり、6月には再びロンドンを訪問したりしていますが、10月、モルトケにとって一大事が生じます。
因みにフリッツとヴィッキーは様々な反対を乗り越え、また将来に不安を残しつつも1858年1月25日、ロンドンはセントジェームス宮殿王室礼拝所で結婚式を上げ、その後にベルリンで盛大な披露宴が催されます。この時モルトケは既に侍従武官ではありませんでしたが招待され列席しました(先にロンドンで結婚式が行われたのは母ヴィクトリア女王の譲れない条件でした)。
結婚当時のフリッツとヴィッキー
モルトケが将来の国王に侍従武官として仕えた経験は、彼の様々な「回り道」、即ち、地図や戦史を担当させられたり、トルコへ行ったり、鉄道を担当させられたり、という経験の中で最も現実的な体験となったことでしょう。
彼はイギリス王女と結婚する親王に付いてヨーロッパ各国を歴訪し、各国の事情や指導者たち、軍人たちをつぶさに観察する機会を得ました。
面白いことに、古今東西で有名となる指揮官や参謀は、同じような回り道や挫折を経験してキャリアのトップに登りつめています。
このモルトケとそっくりな経験をした将軍に、ハインツ・ヴィルヘルム・グデリアン将軍がいます。
このドイツ陸軍(国防軍)の「後輩」は、第一次大戦直前、父の勧めで自分の意向に全く合わない電信部隊に所属させられ、また大戦中は電信部隊から諜報部隊勤務に回され、更には後方担当参謀として兵站業務も経験、大戦間期のワイマール共和国時代には当時(1920年代後半から30年代前半)軍の主流から継子扱いされていた自動車部隊を任されます。華やかで昇進のチャンスに溢れる第一線で活躍することが少なく、グデリアンはクサリもしますが気を取り直して任務に集中しました。
この一見軍の中では地味な部門での経験、これが結実してあの1940年の電撃戦成功となるのです。通信(情報)+兵站+自動車化部隊という組み合わせは、実はそのまま電撃戦の重要な要素なのですから。
では、モルトケの「地図」+「戦史」+「鉄道輸送(新機軸の発明)」+「世界見聞」という足し算は一体どういう効果を生み出したのでしょうか。ここで遂にモルトケが歴史に名を刻む道に進む時が訪れます。
☆ 参謀総長代理
1857年10月7日。彼の能力を高く買っていたライヘア参謀総長が病没しました。71歳でした。
文字通りの苦労人だったライヘア将軍は、何かと軍の覇権争いに巻き込まれていた参謀本部を「静かな場所」にするべく努めた人で、参謀の父・シャルンホルストと彼の「ペトロ」・グナイゼナウが夢見た参謀本部の姿、軍の中枢にあって理知的に軍を指導する立場を目指そうとして来ました。それは様々な制約と旧弊な軍中枢の監視下、少しずつ成し遂げた成果でしたが、参謀本部が本来目指す姿はまだまだ遠くにありました。
この参謀本部を誰が率いるか、という件は王宮の奥で謀られます。そこでは参謀本部の意向など全く無視した話し合いが持たれ、結果、軍事内局(国王の軍事補佐官で軍の人事権を握っていました)長官のエドウィン・フォン・マントイフェル少将(王の取り巻き「カマリラ」の一人で直前まで従兄弟が首相でした)の意見が通ってモルトケに白羽の矢が当たるのです。
この1857年10月という月はモルトケの人事より大きな出来事が発生した月で、それはヴィルヘルム王太弟の「国王代理」就任で、これは兄国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の「精神疾患」のためでした。
国王はこの年、何度か脳卒中を起こして言語不明瞭となり、脳の障害で精神にも障害を来したため「摂政」を置くことが決まりますが、当時、兄国王に対して自由主義的な傾向を見せていた王太弟に不信感を持っていた「カマリラ」が抵抗して「国王代理」という中途半端な役職を作りヴィルヘルム親王に押しつけたのでした。
このように歴史が動き出した時、近い将来固く主従関係が結ばれるヴィルヘルム「国王代理」とモルトケ「参謀総長代理」がほぼ同時に誕生しました。
モルトケが「代理」となったのには意味があり、それまで参謀総長は「中将かそれ以上」の階級の者が就任する伝統だったことと、モルトケが一度も「ライン職」に就いたことがなく、無名に近い状態だったため、国王代理になったばかりのヴィルヘルム親王が「先ずは代理で」と考えたためでした。
10月29日にベルリン中心街、ブランデンブルク門にも近いロシア大使館裏の参謀本部に正式着任したモルトケは、64名の参謀を従え、いよいよ彼の真価が問われる時を迎えました。
時にモルトケは57歳。不穏な時代ではありましたが全軍動員が掛かるような危機は未だ「丘の向こう側」、傑出した軍歴がなければ退役させられても文句を言えない年齢でした。
☆ 参謀総長
翌58年9月18日。モルトケは正式に参謀総長に任じられます(例外的に少将のままでした。中将昇進は59年5月31日)。
この頃の参謀本部は、1825年に陸軍省(クリークスミニステリオム。直訳すれば「戦争省」ですが実態から以降陸軍省で通します)から形式上独立するものの、その存在はずっと小さなままで参謀総長も軍事に関する問題以外に国王と係わることは無く、しかも奏上権が無く諮問に対する回答は必ず陸軍大臣を通して行う決まりでした。従って対外戦争が少なくなると幾度も無駄飯喰らいと言われ廃止が囁かれる始末だったのです。
グナイゼナウの改革も、後を次いだ者たちが権力争いに巻き込まれ、改革自体もナポレオンと戦った旧弊で粗野な老将軍たちの横やりで形ばかりとなり、参謀本部も影が薄いまま、1848年の革命時や続くデンマークとの戦争中でも意見を求められることなどありませんでした。
参謀本部は当時、世界的に見てもプロシアだけが軍隊の中で独立した存在だったのですが、その立場を活かすことが出来ないでいたのです。
グナイゼナウが辣腕を振るった時には、将来きっと誰もが憧れる軍の花形になると思われていた参謀本部は、大元帥である王に直接つながる軍団長(ライン職のトップ。各兵科の大将クラスが就きます)たちから無視され、陸軍大学から選ばれて参謀職となった優秀な士官たちも、数年我慢すれば上級部隊の指揮官、という出世街道の一部としか見なくなるものですから、全く熱意がありません。
こんな不利な状況下でモルトケは組織を率いることになったのです。しかし、彼に迷いはありませんでした。
57歳のモルトケは正に遅咲きの人です。彼は遅咲きの人らしく慌てず焦らず、じっくりと改革に取り組みました。
先ずモルトケは、前任者がそうあろうと努めて来た参謀本部の政治色を薄めようとします。
当時は軍政の二大トップ、「陸軍大臣」(海軍は未だヒヨコで大臣職はありません)と前述の「軍事内局」が軍の主導権を握ろうと正につばぜり合いの状態にありました。
ライヘア以前の総長が政治的発言力を増す手段としてその立場を利用したのと正反対で、モルトケは発言を求められた時以外沈黙を守りました。
モルトケは生涯政治とは一定の距離を置いた人でしたが、総長就任後はその傾向が強く現れ、その後も政治は形の上で上司となる陸相のローンや宰相のビスマルクに任せ、自身は軍備の強化と近代化に邁進しました。
次に断行したのが組織改革で、それまで「本部師団」と呼ばれていた各部署は単純な「課」となり、軍の担当方面別にそれぞれ三つの課が置かれました。
その第一課は東方課とも呼ばれ、ロシア、スウェーデン、オーストリア、トルコなどの東欧北欧が担当、第二課はドイツ課が通り名で、ザクセンやバイエルンなどオーストリア以外のドイツ諸邦とデンマーク、イタリア、スイスなど中欧を担当、最後に第三課は西方課、時に「フランス課」と呼ばれただけあって、フランス帝国を中心にイギリス、オランダ、ベルギー、スペインなど西欧を担当します。これにより参謀たちは、漠然と全体を考えるより効率的に仮想敵国対策に専念出来るようになります。
そしてもう一つ、後に重要な働きを成す部署を創設します。それが「鉄道課」でした。
モルトケが参謀総長に就任した1850年代末期はプロシアの商工業が正に驀進している最中で、工業力の向上は軍隊の武装を最新にし、蒸気機関の一般化による鉄道と船舶の発展は俄然軍隊でも注目されることとなります。この革命的な交通の進歩と製造ラインが「より安く・より精密で・より大量に」武器を産出すると、今までの戦場の常識は通用しなくなり、自ずと戦術の変化が求められることとなったのです。
しかし、ヨーロッパの大国はナポレオン戦争の記憶を留める旧弊で頑固な将軍たちによって支配されており、新時代に合わせた変化を否定する傾向にありました。その中でモルトケは権力争いから全く離れたいわば「静謐な」参謀本部で、その大変革を成し遂げようと少数の秀才たちと共に研究と準備に明け暮れるのです。
新設の鉄道課長は直ちに国内の鉄道を管轄する商工大臣の下に交渉に赴き、鉄道の軍事利用について話し合いを始めます。そして国内外の民間輸送を圧迫せずに軍事に使えるようなダイヤ運行を作り出し、いざという時の軍需輸送力を増強しました。
陸軍大臣のフリードリヒ・フォン・ヴァルダーゼー将軍(任期1854-1858)やエドゥアルト・フォン・ボニン将軍(任期1852-54、58-59)はモルトケから「西部方面にある全ての軍団の宿営地と中央や国境方面を結ぶ鉄道路線を複線で作りたい」と上申されたとき、一体どんな顔をしたのでしょうか?
この時は半ば無視されてしまうモルトケでしたが、ヴィルヘルム王太弟(この頃には摂政でした)が兄国王の死去に伴い国王ヴィルヘルム1世として戴冠(1861年1月2日)し、軍の編制と現役期間に対して国王と意見が分かれたボニン将軍が解任されアルブレヒト・フォン・ローン中将が陸軍大臣(任期1859-73)として就任すると、モルトケの提案は少しずつですが実行に移されて行きました。
同時にモルトケの目は通信連絡の近代化に向きます。
当時、電信(モールス式)は飛躍的に送受信網を広げ、電信線は鉄道や幹線道路に沿って建設されることが多かったため、同じ道路や鉄道を利用する軍隊も利用出来るとモルトケは考えます。
これは実際の事務連絡から緊急時の連絡などにも効果絶大ですが、モルトケが一番重要視したのは「動員」時での活用でした。
普段から軍隊の定数を満たしておくと国庫は破産してしまいます。
軍人一人が活動するのはものすごくお金がかかるものです。常備軍を定数通りに置いておくなどと言うことは、まともな国なら絶対にしません。
緊急事態に備え、定数の半分から三分の一くらいを常備軍として、残りは普通の市民として生活させておく、これが普通のやり方でした。
徴兵制の場合、検査に合格した者を召集し2年から3年ほど軍隊とは何たるかを叩き込み、一端の兵隊らしくなったら予備役として市井に返します。そしていざという時がやって来ると「動員令」が掛かり、兵隊経験者が一定数召集されるのです。
動員の問題となるのはそのスピードです。
「集まれ」と命令が出てから兵士が実際に集合場所まで来るその時間。これが早ければ早いほど敵より有利になるのは当然の理でした。
戦闘の原則、「集中の原則」「機動の原則」(拙作「ミリオタでなくとも軍事がわかる講座」を参照願います)が示す通りスピードは大きな武器なのです。
今までは動員が発令されると、伝令が各地に飛びます。そして「お触れ」が出され、予備役兵士は「こりゃえらいこっちゃ」と身支度し、家族の涙で見送られて出征します。
この伝令の代わりに電信が使えたら……
当時の電信(今で言うところの電報)は打鍵でモールス信号を送るスタイルで、商用に使用された当初は送達距離も短いものでした。通信は途中多くの中継所をリレーしなくてはなりませんでしたが、リレー(継電器)が発明されると送信距離は飛躍的に延びて行きました。
いずれにしても電信は、騎馬伝令や伝書鳩などとは比べものにならない早さで動員令を各地へ伝達することが出来るようになります。
こうして参謀本部は、急速な近代化の流れに軍隊を乗せることに一層注意を払うことになりました。
電信装置(19世紀後半・モールス式)