ディジョン陥落
☆ プイイの戦い(1月23日)以降のディジョン周辺
仏在ボルドー国防政府派遣部(実質首都パリ以外の実権を握り、レオン・ガンベタの独裁政権のようなものです)のシャルル・ルイ・ドゥ・ソルス・ドゥ・フレシネ(実質陸軍大臣)は1月下旬に至っても尚、在ディジョンのヴォージュ軍統帥ジュゼッペ・ガリバルディ将軍に対し増援兵力(無論錬成未了の臨時護国軍部隊や義勇兵ばかりです)を派遣し続けていましたが、1月25日、ディジョン防衛を巡ってガリバルディ将軍との諍いが絶えず、プイイの戦いで不仲が公然となった「ディジョン防衛兵団」長ヴィクター・プリシエ准将を罷免し、この兵団もガリバルディ将軍に預け、コート=ドール県にある全ての諸隊を将軍の指揮下にすることにしました。
ディジョンのガリバルディ(セバスティアーノ・デ・アルベルティ画)
独南軍が出現した後、フレシネが常々願っていたのはこのイタリアの英雄が活躍(言い換えれば騒擾)することにより独南軍の兵力を東西二分し、兵力が更に弱小となった独軍を各個撃破することでしたが、フレシネ再三再四の要請にも拘わらず当のガリバルディ将軍はここまで一大野戦に撃って出ることを拒み続け、「兵力はディジョン維持にのみ使用する」という態度を崩さなかったのです。
この1月末ともなると「フォン・マントイフェル率いる軍勢が大軍を以て仏の後方連絡線を断とうとしている」との報告が頻繁に到着していたため、この25日フレシネはガリバルディ将軍に対し「独軍占領下のドール及びムシャール(サラン=レ=バンの北西7.3キロ)に対し果敢なる出撃を望む」との訓令を出しますが、ガリバルディ将軍はドールに対しおよそ700名の義勇兵を派遣しただけで、しかもこの義勇兵たちはドールに達するどころかディジョンを出た直後に行方不明(=脱走)となってしまうのです。
1月26日。フレシネはガリバルディ将軍の出撃を容易にするため、リヨンにあって新兵力創出の任に当たっていたジョセフ・コンスタン・クルーザ将軍(前・第20軍団長)に対し「臨時護国軍15,000名と野戦砲兵数個中隊によって一兵団を作り、これをロン=ル=ソニエまで前進させるよう」命じます。また同じく「ガリバルディ将軍を援助するため」編成中の第26軍団から1個旅団を抽出し編成地シャテルロー(ヴィエンヌ県。トゥールの南64.5キロ)から鉄道輸送でボーヌ(ディジョンの南南西36.5キロ)へ送るよう命じました。
この準備を経て翌27日、フレシネはガリバルディ将軍に対して「8,000から10,000名をディジョンに残しその総力を挙げてドールを超えて東へ進撃するように」命じますが、ガリバルディ将軍はこの命令も守ることをせず、将軍の長男ドミニコ・メノッティ将軍が率いる第3旅団から一部(多く見積もっても1,000名)を割いてサン=ジャン=ドゥ=ローヌ(ドールの西17.5キロ)へ進めただけでした。
戦闘中に指示を出すガリバルディ将軍
実はガリバルディ将軍はこの日から29日までに第3旅団の残りと第1旅団を鉄道輸送でブールカン=ブレス(ロン=ル=ソニエの南南西57.5キロ)方面へ送り出し、ディジョンの南・コート=ドール県南部の諸重要拠点(ボーヌなど)にもヴォージュ軍の残存諸隊を配しました。これでディジョンには元のディジョン防衛兵団とヴォージュ軍の第2、4、5旅団それぞれの一部だけが残ることとなります。
この29日にはディジョンに12門の砲台用重砲が届き、これはヴォージュ軍参謀長のフィリップ・トゥーサン・ジョセフ・ボルドーネ准将が設置を監督、密かに南方ブールカン=ブレスへ去ったガリバルディ将軍に代わり以降ディジョンの防衛を指揮するのでした。
1月23日のプイイの戦いによって深手を負った男爵フリードリヒ・カール・フォン・ケットラー少将は、数日掛けて部隊を建て直し、恐れていたヴォージュ軍の反撃も全くなかったためマルサネ=ル=ボワ(ディジョンの北13.7キロ)の南郊に留まり続けて態勢を整えることが出来ました。ケットラー将軍は頻繁に斥候をディジョン近郊へ送り出しますが、斥候報告ではディジョンは全く平穏で仏軍も沈着の様子だったのです。
25日に将軍は1個支隊*をプロートア(ラングルの南20.5キロ)に向けて送り出します。これは独後方連絡の伝令騎兵が度々ラングル要塞から出撃する仏軍遊撃隊に捕まるための警戒配置でした。
※1月25日のプロートア警戒隊
指揮官 クリース大尉(第61連隊第2大隊長代理)
○第61「ポンメルン第8」連隊・第5,7,8中隊
○竜騎兵第11「ポンメルン」連隊(第1,2中隊)の数騎
1月28日。隊を整えたケットラー将軍はイス=シュル=ティーユ(ディジョンの北22.9キロ)を経てアヴァロン(同の西87.3キロ)に向け行軍を始めます。これはシャティヨン=シュル=セーヌやニュイ(=シュル=アルマンソン)の独軍後方重要拠点がラングルとアヴァロンより脅威を受けつつあるとの噂が高まっていたための処置で、南軍本営が命じたものでした。
しかし出立後にこの噂は誇大に過ぎることが判明し、ケットラー将軍は途上転向しイス=シュル=ティーユへ引き返しますが、ここで予想だにしなかった戦闘が発生するのです。
この日の朝。プロートアのクリース大尉は南軍本営から直接「本隊へ帰還せよ」との命令を受けます。これは南軍の前進と第14軍団との合同が成ったためシャティヨン=シュル=セーヌ経由の騎馬伝令線を廃止することが決定したためでした。ところがクリース大尉らが出立準備を終え、正に部落を後にしようとしたその時に強力な仏軍による攻撃が始まったのです。
この仏軍はやはりラングル要塞から出撃した遊撃隊でした。その数は優にクリース隊3個中隊に倍するもので、大尉は直ちに防戦を命じると共に東方に隙を見つけて後退戦を行い、何とかケットラー将軍の本隊(運の良いことに前述の理由で付近まで来ていました)に収容されるのでした。クリース大尉は中隊長のルクス、アルトゥル・フォン・チッツヴィッツ両中尉と共に負傷し、死傷者は士官5名・下士官兵77名に及びました。この時、使用していた馬車は曳馬を射殺し遺棄せざるを得なく、大尉らは正に全滅か降伏ぎりぎりのところだったのです。因みにクリース大尉率いる第61連隊の3個中隊はあの第2大隊です(プイイの悲劇参照)。負傷者の一人アドルフ・エルンスト・マークス・ルクス中尉は軍旗喪失にも一枚噛んでおりその時も負傷し傷も癒えぬままこの日を迎えています。後日鉄十字章は貰ったものの運が無いとしか言いようがありません。
この事件もあってケットラー将軍は急ぎ踵を返し、翌日にはディジョン前面のサヴィニー=ル=セック(ディジョンの北12.1キロ)からサン=ジュリアン間に展開するのでした。
プイイの戦い(71.1.23)
☆ ハン・フォン・ワイヘルン将軍の行軍
1月27日に第4師団長オットー・ルドルフ・ベーノ・ハン・フォン・ワイヘルン中将はドールにおいて正式にディジョン攻撃の指揮を執るよう命令されますが、その麾下となるフリードリヒ・アウグスト・ベルンハルト・フォン・デム・クネセベック大佐率いる混成旅団と野砲兵第2連隊の軽砲第4中隊、そして男爵カール・ゲオルグ・グスタフ・フォン・ヴィリゼン大佐率いる第14軍団の騎兵集団とBa騎砲兵中隊は同27日、オーソンヌ要塞から脅威を受けていたグレー~ドール間の街道(現・国道D475号線)に沿って集合しました。同じく男爵アルフレッド・エミール・ルートヴィヒ・フィリップ・フォン・デーゲンフェルト少将率いるBa第2旅団とBa重砲第1中隊はワイヘルン将軍の指揮に従うよう命じられペスムに向けて行軍を起こします。
麾下諸隊がドールの北へ向かうことが決定すると、ワイヘルン将軍はドールで兵団の司令部を立ち上げました。しかし斥候の報告ではサン=ジャン=ドゥ=ローヌのソーヌ街道橋は落とされており、当初はオーソンヌを避けて「南方」に廻りソーヌ渡河を敢行する筈だった作戦を「北方」に変更し、諸隊はアプルモン(グレーの南南西6.8キロ)でソーヌ川を渡河しミルボー=シュル=ベーズ(ディジョンの北東22.4キロ)周辺で集合することに決定するのです。
ワイヘルン将軍
1月29日、ワイヘルン兵団は前日からこの日に掛けて無事ソーヌ渡河を終えるとエッセルネンヌ=エ=スセ(ミルボー=シュル=ベーズの東12キロ)とミルボー=シュル=ベーズまでの間で集合を果たしました。
ミルボー=シュル=ベーズには従来ヴィルヘルム・カール・テオドール・フォン・ショーン少佐率いる第49「ポンメルン第6」連隊F大隊が駐屯していましたが、ハン・フォン・ワイヘルン「兵団」が集合するに当たりこれを援護するため事前にティユ=シャテル(ミルボー=シュル=ベーズからは北西へ16.8キロ)へ前進しています。
ワイヘルン兵団が編成されヴィリゼン大佐の騎兵旅団がソーヌ沿岸に達した時、グレーから予備竜騎兵第2連隊の第2中隊がソーヌを渡河してショーン少佐の下に来着し指揮下に加わりました。これはそれまでショーン隊とクネセベック大佐旅団に分散隷属していた竜騎兵第11連隊の第5中隊が原隊(デュ・トロッセル将軍率いる第4師団主力)復帰となったための交代処置でした。その後前述のプロートアでの戦闘が発生、戦闘後グレーから長駆偵察に出た予備竜騎兵第2連隊の第3中隊もまたティユ=シャテルに至り少佐麾下となっています。
ワイヘルン兵団がソーヌを渡ってしまったため手薄になったグレーからドールまでの守備はクネセベック旅団から抽出された諸隊を中核として臨機に集合した混成集団*により行われました。
※1月29日のグレー~ドール守備隊
○第60「ブランデンブルク第7」連隊・第1大隊
○第72「チューリンゲン第4」連隊・第2大隊
○予備竜騎兵第2連隊の第1,4中隊
○第2、第7両軍団に向かう途中だった補充兵集団(臨時の2個大隊に編成)
ディジョン戦線1.29
フォン・マントイフェル将軍はディジョン攻撃の端緒についたワイヘルン将軍に対し訓令を発し「ディジョンの攻略にはその南面及び南東面より攻撃を行うのが肝要」と説きます。その理由は単純かつ明快で、「この方面からの攻撃は仏軍の後方連絡を脅かすこととなり、同時に仏軍前哨のオーソンヌ及びシャティヨン=シュル=ソーヌそれぞれに通じている鉄道線も遮断可能となる。ケットラー将軍らが身を呈して示した通りディジョンの西及び北面は防御が強力なこと明らかである」からでした。
その他マントイフェル将軍は、ケットラー隊の壮絶な経験を再現させてはならないと「ディジョンの占領は必ずしも必要ではなく、もしこの攻撃が多大の犠牲を伴うと予想されるのであれば、後方連絡線を断ち切ってこの都市を単に孤立させるに止め、南軍本隊が仏東部軍を殲滅した後に確実な方法と十分な兵力とで再度攻撃を仕掛けるのも可とする」と、ワイヘルン将軍が部下(ケットラー将軍)の敵討ちに躍起とならないよう釘を差すのでした(とは言うものの当初ケットラー将軍の悲劇に我を失ったのはマントイフェル将軍の方で、ケットラー将軍の上司たるワイヘルン将軍をわざわざ前線から引き抜いてディジョンへ向かわせたことにそれが現れています)。
このマントイフェル将軍の「親心」を知ったワイヘルン将軍は「ティユ川に沿って全軍南下してオーソンヌ~ディジョン間に進み、ここで都市自体を攻撃するかブルゴーニュ運河に進んで南方からの連絡を断つか、どちらかを実施する」と決したのでした。
☆ ディジョン攻略(1月30日から2月2日)
ディジョン戦線1.31
1月29日夕暮れ時のこと。
ワイヘルン兵団の前哨線に仏軍の白旗を掲げた軍使が現れ「独仏間に休戦が成立したので通告する」と告げます。翌30日早朝にはディジョン防衛を担っていたボルドーネ准将自身が前線に現れ、ワイヘルン将軍との会談を要求し「休戦条約に基付き休戦中立線の画定交渉を要求する」としましたが、ワイヘルン将軍はボルドーネ准将と会おうとせず、副官を通じて会談を拒否するのでした。これは既に後方連絡線を通じて正確な休戦条約の内容を知っていたから、とも、マントイフェル将軍から休戦の命令は受領しておらず確実になるまで拒絶せよと内々命じられていた、とも想像されますが詳細は不明です。
何れにせよこの30日、ワイヘルン将軍はケットラー支隊に対し兵団右翼(ディジョン北)側へ集合するよう、その他諸隊はティユ川に沿って展開するよう命じています。この日仏軍の前哨線はノルジュ川(ディジョンの北と東郊を流れる小河川)のディジョン側にありました。
翌31日。
ケットラー支隊はサン=ジュリアン(ディジョンの北東12キロ)周辺に集合し、兵団の残り諸隊はアルク=シュル=ティユ(同東11.4キロ)周辺に集合を終えます。ただフォン・ショーン少佐隊は「ディジョン~オーソンヌ間の連絡線を遮断せよ」との命令を受けて別動しました。
この日の早朝にもボルドーネ准将がワイヘルン将軍を訪ねてミルボー=シュル=ベーズまでやって来ますが、ワイヘルン将軍は前夜にマントイフェル将軍から「敵が休戦を示しても断固拒絶し攻勢を続行せよ」との命令を受けており、これを理由に再び追い返してしまうのでした。
ケットラー支隊はこの日午前10時、ヴァロワ=エ=シェーニョ(アルク=シュル=ティユの西4.4キロ)へ向かい前進を開始し、同時刻、クネゼベック大佐旅団はクテルノン(ヴァロワ=エ=シェーニョの南南東2.3キロ)を経由してクウェッティニー(ディジョンの東5.8キロ)に向かって前進しました。クネセベック旅団の前進中、独野砲が仏軍陣地に向けて数発榴弾を撃ち込むと、仏軍は一斉に前哨線を放棄し堡塁もあるサンタポリネール(ヴァロワ=エ=シェーニョの南西4キロ)からミランド(サンタポリネールの南1.5キロ付近)までの強力な本陣地線まで後退してしまいました。
独軍の前線では「ディジョンは簡単に落ちる」との感触を得ますが時間は既に薄暮時で、ワイヘルン将軍は攻撃中止を命じたのでした。
この日、デーゲンフェルト支隊とヴィリゼン支隊は予備としてアルク=シュル=ティユに留まりました。
命令に従ってショーン少佐隊はウシュ川に向かい前進し、途中幾多の仏軍を見掛けますが、仏軍諸隊は独軍を発見するなりディジョンかオーソンヌに向けて逃げ足早く撤退するのでした。このため少佐は難なくフォヴェルネ(ディジョンの南東10.8キロ)に達し、南郊外のウシュ川に架かる街道橋を占領しました。また少佐隊はこの橋の東5.8キロのジャンリも襲い、仏守備隊を駆逐して同じ頃オーソンヌ監視のためにウシュ沿岸へ前進していた諸隊*を間接援助するのでした。
※1月31日・オーソンヌ警戒監視のために前進した諸隊
指揮官 ヴィルヘルム・エデュアルド・クラウス中佐(Ba第3連隊長)
○Ba第3連隊・F大隊
○Ba竜騎兵第1「親衛」連隊・第5中隊
○Ba野砲兵連隊・重砲第2中隊の1個小隊(2門)
この日の夜。ディジョンのボルドーネ准将は、いくら説いても休戦を承諾しない独軍の様子から休戦の実効性を疑い(休戦範囲にコート=ドール県が含まれていないことを確認出来ていたかどうかは不詳です)、ディジョンを放棄して麾下を独軍から離れた地域まで撤退させることを決断します。後衛にリッチョッティ・ガリバルディの第4旅団を指名し、残り諸隊は可能な限り鉄道を使用して南方へ、鉄道使用が出来なかった諸隊は徒歩行軍にてオータン(ディジョンの南西70キロ)やボーヌ、サールへの諸街道(順番に現・国道A38、D974、D973号線)を使用して退却するのでした。
ヴォージュ軍の騎兵
2月1日早朝。
ハン・フォン・ワイヘルン将軍はサンタポリネールからミランド間の本陣地帯から仏軍が消えているのを知り、最右翼となっていたケットラー支隊に市街へ突入するよう命じます。
ケットラー将軍はプイイの屈辱を少しでも晴らすべくディジョン一番乗りを許してくれた師団長に感謝しつつ先般の激戦地を横目に市内へ入り、続いてデーゲンフェルト将軍のBa旅団も入城して独軍は殆ど抵抗を受けることなく約1ヶ月振りに市街を占領するのでした。
この時、竜騎兵第11連隊の第1中隊はドライゼ騎銃を手に下馬して停車場へ向かいますが、ちょうど最後の軍用列車が発車するところに出会しました。騎兵たちは数発の威嚇銃撃だけで駅舎を占拠すると、重量を減らして速度を増し独軍から逃れるために最終列車から切り離されてしまった数両の客車と弾薬を積載した貨車を鹵獲するのでした。
この間にクネセベック大佐の混成旅団はミランドとロンヴィック(ディジョンの南南東4.4キロ)を通過して市街南郊へ進みボーヌへの街道を抑えます。
ショーン少佐隊は早朝から行動を起こしてフォヴェルネでウシュ川を渡ると更にウージュ(フォヴェルネの西5.3キロ)でブルゴーニュ運河も渡りました。少佐が先遣させた騎兵中隊と工兵はペリニー=レ=ディジョン(ロンヴィックの南西4.8キロ)付近で鉄道を破壊しますが、残念ながら前述の最終列車が通過した後でした。
フランスの砲兵(1896,アンリ・ジョルジュ・カルティエ画)
ルドルフ・フォン・ローベンタール大佐(1月中旬に昇進)は一支隊*を率いてプロンビエール=レ=ディジョン(ディジョンの西北西5.7キロ)へ転進してコート=ドール山地方面を警戒し、ケットラー将軍は自身の支隊主力*とクネゼベック、ショーン両部隊を指揮下に組み入れジュヴレ(=シャンベルタン。同南南西12キロ)へ行軍しました。
※2月1日のローベンタール支隊とケットラー支隊
*フォン・ローベンタール大佐隊
○第21「ポンメルン第4」連隊(3個中隊欠・番号不詳)
○竜騎兵第11連隊・第1中隊
○野砲兵第2連隊・軽砲第5中隊
*フォン・ケットラー少将本隊
○第61連隊(1個中隊欠・番号不詳)
○竜騎兵第11連隊・第2中隊
○野砲兵第2連隊・重砲第4中隊
*ニュイ(=シュル=アルマンソン)守備
○第21連隊の2個中隊
*イス=シュル=ティユ守備
○第21連隊の1個中隊
*ティユ=シャテル守備
○第61連隊の1個中隊
2月2日。敵と狙うヴォージュ軍を追うケットラー将軍とその兵団はこの日ソンベルノン(ディジョンの西25.3キロ)とニュイ=サン=ジョルジュ(同南21.6キロ)を占領しますが、この街や周辺部落にも街道沿いにも仏軍の姿はありませんでした。先行させた騎兵斥候が帰還して告げるには「敵の姿はボーヌ市街にも無し」とのことで、この日中、逃げ足早いヴォージュ軍と旧・ディジョン防衛兵団はコート=ドール県を脱し、休戦が保証されるソーヌ=エ=ロアール県やニエーヴル県へ逃れていたのでした。
同日。フォン・ヴィリゼンとデーゲンフェルト両将軍麾下はディジョンに入城し留まったのです。
独南軍の戦いはこれで一段落となりました。
フォン・ヴェルダー将軍の第14軍団が驚異的な活躍を成して勝利を得たリゼーヌ沿岸の戦いから半月でマントイフェル将軍は仏東部軍を壊滅させ、ヴォージュ軍をコート=ドールから追い出したのです。残されたラングル、ブザンソン、そしてベルフォールの三要塞(そしてサラン=レ=バンの両堡塁やジュー城塞など)は最早大局に影響を与えるものではなく(ベルフォールだけは「別の意味」で大切な場所となりましたが)、将軍麾下諸隊はこの1月、正に超人的活躍を記録するのでした。
「マントイフェル将軍以下、各指揮官の英断と諸隊将兵の驚くべき忍耐は、この地方の困難な地形と過酷な季節において、地の利がある仏軍に対し甚だ不利となる状況であっても数え切れぬ困難を排してなお敵を圧倒した」
「第2軍団はパリからスイス国境まで殆ど一気に行軍し、その間第5旅団などは34日間で休息日は2日のみ、戦場から宿営地までの往復を含まず実に640キロの行軍を成し得た。第8旅団(ケットラー将軍)は1月16日アヴァロンへ向かう行軍において一日で40キロを行軍し、フォン・ノルマン少佐(第42連隊第1大隊長)が率いた支隊は1月18日グレーまで50キロを踏破した(他にもコブリンスキー隊29日の24時間50キロ踏破があります。ここまで第2軍団)。第7軍団でも行軍力の優れたるところを余すことなく示し、南軍の当初集合時オーセールからシャティヨン=シュル=セーヌへ向かう行軍で実力を示した(実質3日間で75キロ踏破)。ここで刮目すべきは距離だけでなくその踏破した行軍路は多くが凍結しあるいは積雪が深い山道・林道であったことで、これは後に困難の一部となった諸物資運搬が大きく遅延し前線に至らず、将兵が補充無くして戦わねばならないことにつながっていた。特にその被服と糧食については悲惨の極致に至り一部では惨状を呈することとなる(仏軍でも頻発した軍靴と防寒具の不足・それによる凍傷と肺炎など重疾病)。ジュラ山地に入る時点では各人の行李(マントイフェル将軍以下将官のものも含む)を後方に残置せざるを得なく、上から下まで各人身なりに構わず転戦することとなった」(独公式戦史/筆者意訳)
ジュゼッペ・ガリバルディ将軍については、大体の歴史書に「連敗続きの仏軍にあって彼の指揮下にあったヴォージュ軍だけは精悍な普軍に対して無敗であった」などという記述が多数見られます。
これはここまで見て頂いた通り、例え独側に傾いた既述であっても「仏側から全面的な協力を得られなかったにも拘らず、独軍を翻弄し時には痛手を与えた」事実があり、これはシャンジー将軍やフェデルブ将軍が一瞬の輝きを得た「一大野戦」には並びようがないとは言え、彼らと違い「敗けなかった」からでしょう。
しかしその実態は、「蜂の一刺し」のように敵の隙や油断を突いて「ヒットエンドラン」を行うゲリラ戦のお手本を示すような戦いを行い、「負けると分かっている戦いは絶対にしなかった」ということでした。そして特筆すべきは「逃げ足は天下一品、殆ど尻尾を掴まれたことがない」ことで、それは最後のディジョン放棄に良く表れており、つまりは「負けると分かっている戦いを一切せず、敵の意表を突いた少数による後方攪乱や拠点襲撃を重視、敵が本気で掛かって来ればやり過ごすか逃げ足鋭く思い切り遠くまで逃げる」ことで無敗を誇ることとなったのでした。
これはそれまで多くの不利な戦いを切り抜けて来たことにより得たガリバルディ将軍の哲学・信念から導き出された「正解」、味方の損害を局限させ敵を疲弊させる「非正規兵が行うべき戦闘のバイブル」と言えるのでは、と思うのです。
「ディジョンのガリバルディ」将軍をピックアップした別絵画




