仏東部軍のスイス越境(後)
☆ 2月1から2日
ラ・クリューズの戦闘を観戦していた独第2軍団長、フォン・フランセキー将軍はこの戦いに関わった部隊以外の軍団本隊をグランジュ=ナルボ(ジュー城塞からは西へ5キロ)からポンタルリエへは向かわせず、南側高地森林の林道を進んでオワ=エ=パレ(同南西3.5キロ)を経て、前日リーベ中佐が率いる第54「ポンメルン第7」連隊が占領したラベルジュモン=サント=マリー(オワの南南東10キロ)方面へ進むよう命じます。
この少し前(1日午前)、軍団本隊を率いていた第3師団長、マティーアス・アンドレアス・エルネスト・フォン・ハルトマン少将は、ポンタルリエに進んだデュ・トロッセル少将の前衛が停車場を簡単に制圧したと聞き、仏軍が逃走路に使うと考えられるサン=ローランへの街道(現・国道D437号線)へ先回りするショートカットを図るため南面する高地越えを考えていました。しかし斥侯に確かめさせたところ、街道上のオワ=エ=パレへ至る林道は坂が多く雪も50センチ以上積って除雪もされておらず、とても大部隊で行軍出来る状態ではないことが分かり、この過酷な道には2個中隊のみを送って、本隊はポンタルリエ経由でオワに達しようと考えます。ここで先の軍団長命令が届き、命令こそ予想通りだったものの、ラ・クリューズの戦闘が予想外に激しく苦戦と聞き及び、ハルトマン将軍はトロッセル将軍を援助出来るよう直ちにポンタルリエへ進み出しますが、ここで再び軍団長命令が届き、これも将軍の予想通りポンタルリエへ前進して待機だったため、先に進み出していた擲弾兵第2連隊主力をそのままラ・クリューズへ向かわせると、自身も残余諸隊と共にポンタルリエへ向かいました。この時、後方に居た軍団砲兵隊もポンタルリエに向け続行するのでした。
雪のポンタルリエ市街(20世紀初頭)
一方、ジュラ山脈の支脈が作る高地を越えオワ=エ=パレへ先行するよう命じられたカール・テオドール・エヴァルト・フォン・カイゼルリンク大尉は擲弾兵第2連隊の第10,11中隊を率い、積雪を掻き分け疲労困憊しつつも午後遅く(夜間)に高地を越えてオワに近付きました。しかしこの林道上でオワを守備していた仏軍前哨と遭遇してしまうのです。カイゼルリンク大尉にとって不幸だったことに、ちょうどここへラ・クリューズから退却して来た仏第18軍団の騎兵部隊とアフリカ軽歩兵連隊が現れ、オワ守備の仏軍と共に猛攻撃を開始し、敵わないと悟った大尉らは戦闘を切り上げ夜陰を味方に離脱すると再び漆黒の闇の中をレ・グランジュ=デシュ(グランジュ=ナルボの南東1.3キロ)に向けて退却、ここで第14師団のフュージリア第39「ニーダーライン」連隊兵に救助されました。この連隊は1日夜にポンタルリエへ到着したフォン・マントイフェル将軍により派遣され南方警戒中だったのです。
カイゼルリンク大尉らは損害を受けつつ(内容は不詳です)も2日、ラ・クリューズの本隊へ戻ることが出来ました。
独第7軍団はこの1日、軍命令通りドリュジョン川沿いに集合し、第14師団と軍団砲兵隊はウトー(ポンタルリエの北西3.5キロ)周辺に、第13師団はポンタルリエ北郊にそれぞれ達します。第13師団は前哨二個支隊をアルソン(同北北東5.1キロ)とオルナンを北方に望むグランジュ・マイヨ城館(ルヴィエの北北東4キロ。現存します)に派遣しています。
この第13師団に先立って、南下して来た予備第4師団がドゥー(ポンタルリエの北2.5キロ)付近に到達しました。師団長フォン・シュメーリング将軍はこの日早朝、ポンタルリエに向かい前進せよ、との南軍命令を受け、直ちに前進し途中仏側からの妨害を受けることなく正午頃にドゥーへ到達します。将軍は更にポンタルリエ市街へ前進しようとしましたが、既に市街は第2軍団前衛(デュ・トロッセル将軍麾下)によって占領され、戦闘も終了していたためこの地に留まったものでした。同師団の一部はオルナン目指して西へ進み、夕刻までにオルナンへ達しますが、既に仏軍は消えていたのです。
予備第4師団の後方を進んでいたフォン・デブシッツ将軍兵団はモルトー(ポンタルリエの北東25.5キロ)に到達し、軍総予備とされたフォン・デア・ゴルツ将軍の兵団はルヴィエの東方、ポンタルリエへの街道が南東方に曲がる地点まで進み待機しますが、やがてマントイフェル将軍から「会戦は以降発生する可能性はなく、ラ・クリューズの戦闘も明らかに後衛戦に過ぎない」としてルヴィエ周辺に戻って宿営に入るよう命じられました。
マントイフェル将軍は日没が迫る前にラ・クリューズで戦う諸隊以外のポンタルリエ周辺に至った部隊に対し、出来得る限り屋根の下で休むよう命じるのでした。
昨日はヴォー=エ=シャントグルから仏軍を追い出し、サン=ローランへの街道上のラベルジュモン=サント=マリー(ジュー城塞の南西13キロ)を占領したリーベ中佐隊はこの日、同街道や周辺を捜索し昨日壊乱した仏軍の落伍兵を数百人捕らえますが、「裏街道」(現・国道D45号線)上のサン=タントワーヌ(ラベルジュモン=サント=マリーの東4.3キロ)やロシュジャン(同南3.3キロ)には未だ仏の大軍が存在していることを発見し、この夜はレ・グランジュ=サント=マリー(ラベルジュモンの北1キロ)で宿営に入りました。
レ・プランシュ(=アン=モンターニュ)に居座り、サント=ローランへの街道を警戒するフォン・ヴェデル大佐はこの日、前日まで街道上のフォンシーヌ=ル=バ付近に居た仏軍部隊が朝には消え去っており、ここからサン=ローランに至るまでの街道上からも一切敵が消えているのを発見するのでした。2,000から3,000名と思われる敵(クレメー将軍の騎兵集団)は前日休戦について否認する大佐に抗議を申し入れて来ましたが、夜間にモレ方面へ逃走したと思われました。
これらポンタルリエ~サン=ローランまでの仏軍情報はこの日中にマントイフェル将軍の下に届かず、従って仏軍がスイス国境を越え始めていることも知らないままでした。このためマントイフェル将軍は敵に近い第2軍団に対し、「翌2日は兵力を集中してレ・グランジュ=サント=マリーとムート(ラベルジュモン=サント=マリーの南西9.8キロ)を経てサン=ローラン街道を進撃せよ」と命じ、第7軍団とフォン・デア・ゴルツ将軍の兵団には「フラーヌを経由する街道(現・国道D471号線)にて第2軍団の左翼側を併進せよ」、予備第4師団には「早朝デュ・トロッセル将軍麾下と交代してレ・ヴィリエール方面に対する監視を行うよう」命じました。
しかし、ラ・クリューズ部落からは仏軍が消えたもののジュー城塞とヌフ堡塁では未だ守備隊が頑張っており、独軍が動けば直ちに砲撃を行ったためトロッセル隊とシュメーリング師団との交代は難しく、負傷者を収容しようと赤十字旗を振り翳しても砲撃されたため、独軍は両堡塁に白旗の使者を差し向けましたが、これにも銃撃が加えられ交渉を拒否する始末だったのです。
その一方でマントイフェル将軍は未だディジョンに在すると思われていたガリバルディ将軍の軍(仏ヴォージュ軍)に対しても決着を付けようと考え、翌々日以降第7軍団をアルボワに、第2軍団はロン=ル=ソニエに、フォン・デア・ゴルツ将軍の兵団をポリニーにそれぞれ集合させ、ポンタルリエ周辺の仏軍掃討と捕虜及び鹵獲品の後送は予備第4師団とデブシッツ兵団に任せるよう構想するのでした。
そんなマントイフェル将軍の本営に何時ものベルサイユ大本営ではなく首都ベルリン陸軍省から至急電が届いたのはこの1日深夜でした。それによれば「スイス国軍総司令官ヘルツォーク将軍と仏東部軍司令官クランシャン将軍との間で仏東部軍のスイス国境通過に関する協定が結ばれた」とのことでした。
マントイフェル将軍が気付かぬ間にこの1日、仏東部軍将兵は次々とスイス国境を越えて中立国へ入国していたのです。
武器を投じて収容所に向かう仏兵の行軍列
輜重や糧食縦列、傷病兵など「脚の遅い」諸隊を逃がすためにポンタルリエを死守し敵の脚止めを命じられた軍総予備団。熱血漢の「フリゲート艦長(海軍中佐)」、戦争が無ければ大西洋に居たはずのパリュー・ドゥ・ラ・パリエール准将は部下を鼓舞して「最後の任務」に就きましたが、既に戦意を完全に喪失していた多くの兵士たちはポンタルリエ周辺からジュー城塞の庇護下へ向かう馬車の長大な縦列に紛れ込み、その混乱に乗じて戦場を離脱する者が続出、脱走する者はそのまま雪深い国境方面の森林へ逃走してしまいます。パリエール准将と士官たちは逃げ出す兵士たちに威嚇の発砲をしますが、混乱に乗じた脱走や勝手な退却は独軍の接近により拍車が掛かり中々止めることが出来ません。何とか混乱を収め将兵の動揺を鎮めた時にはポンタルリエは陥落し、准将たちはビオ将軍が死守するラ・クリューズの防衛線まで下がって来ていたのでした。
フランセキー将軍の前衛による激しい攻撃を受けるものの、最後の気力を振り絞って前線突破を防いだ第18軍団は(後に仏野戦軍最後の輝きと称賛する者もいましたが)、戦いを終えた1日の夜、軍総予備団と共にスイス国境を越え、日中既にレ・ヴィリエール=ドゥ=ジューから越境を果たした第20軍団や第15軍団主力、そして見る影もない第24軍団残存兵の後を追いました。
この時パリエール准将は未だ戦意衰えず、同行を願った数名の将兵と共に敗残の列を抜け森の中へと消えて行きました。その後パリエール准将一行は同じくスイス入りを潔しとしないプーレー大佐(クレメー師団)らと遭遇して合流、彼らは人目につかぬよう街道を避け森の中を進み、苦難の末に「本物の休戦」で守られている仏支配下のアン県(ジュラ県の南に隣接。県都ブール=カン=ブレス)へ無事脱出するのでした。
このパリエール准将と同じくアン県へ脱出したのはクレメー将軍とその騎兵集団(第24軍団の騎兵師団主幹)、第15軍団の騎兵師団、親部隊から離れた場所に配置されていた騎兵数個連隊、そして最も南に離れていた第24軍団の第1師団でした。この師団は将兵の離脱(傷病や脱走)が相次いでおり、この時点で僅か200から300名の下士官兵と若干の士官が残っているだけでした。
これら部隊の中には複数の高級士官も混じっていました。パリエール准将に続いてスイス越境直前で隊列を離れて姿をくらませた第18軍団長のジャン=バティスト・ビオ少将、崩壊した第24軍団の前・軍団長ジャン・バティスト・ドゥ・ブレッソル少将、同軍団第3師団長アルマン・ルイ・アンリ・カレ・ドゥ・ビュスロル大佐(准将とも)、そして第18軍団第3師団の第1旅団長グリー工兵大佐が主な面子でした。
他に前・第15軍団参謀長のデ・プラ大佐がアン県への脱出に成功しています。大佐は末期状態の東部軍にあって野戦指揮官不足から参謀長の職を離れ、一混成旅団を率いることとなりサンティポリット(ポンタルリエの北東57.7キロ)に居ましたが、予備第4師団とデブシッツ兵団の前進により部隊は崩壊してしまいます。大佐は付き従った部下を引き連れ独軍の目を逃れて南下し、親部隊からはぐれた将兵や落伍兵などを加え見事アン県への脱出を成功させたのでした。
雪の街道を行くマルシェ兵
この2月1日夜。仏東部軍は事実上消滅し、残されたのはブザンソンとベルフォール要塞でした。その運命もこれでほぼ決まりとなるのです。
明けて2月2日。
この日の第2軍団前衛を率いることとなった第5旅団長、ハインリッヒ・ヴィルヘルム・オットー・ユリウス・フォン・コブリンスキー少将は麾下第42「ポンメルン第5」連隊と師団騎兵の竜騎兵第3「ノイマルク」連隊から第3中隊を借り、レ・グランジュ=サント=マリーを越えて前進しましたが、街道沿いからは仏軍の姿は全く消え失せていました。
同じ頃、レ・プランシュ(=アン=モンターニュ)のフォン・ヴェデル大佐も早朝の斥候報告により最早スイス国境まで敵が消えていることを知ります。
第2軍団本隊はこの日、ポンタルリエ~シャンパニョル街道(現・国道D471号線)より東側(正確には南側)でレ・グランジュ=サント=マリーまでの地域に分散して宿営し、第7軍団はポンタルリエ周辺に、デブシッツ兵団はモルトー周辺にそれぞれ留まりました。アルボワを目指すフォン・デア・ゴルツ兵団はアンドロ=アン=モンターニュ(シャンパニョルの北12キロ)へ至ります。
命令が変更されたのはシュメーリング将軍で、予備第4師団はブザンソンを半包囲するBa師団本隊との連絡を図るため北西へ進みオルナン周辺に至るのでした。
マントイフェル将軍の本営はそのままポンタルリエに留まり、仏軍スイス越境の実態を確かめるため情報収集に励みました。また丁寧にもシャッフォワで仏軍が休戦を信じて手放していた小銃1,000挺を「クランシャン将軍に返還する」として馬車でスイス国境まで運ばせ、国境で警戒中のスイス軍に引き渡すのでした。
この日はもう一つ大きな出来事があり、それは西側から速報として伝えられたもので、「ハン・フォン・ワイヘルン将軍がディジョンを占領した」との吉報でした。
これで計画し始めていたディジョン総攻撃の必要は無くなり、マントイフェル将軍にとっての関心は休戦から取り残されたコート=ドール、ジュラ、ドゥーの三県全域の完全制圧と、ベルフォールの降伏となったのでした。
国境で対話するスイス人(兵士と住民)と独軍
☆ スイスの「ブルバキ軍」と赤十字活動
仏東部軍のスイス越境・抑留という事件は、永世中立国スイスという国家とスイスに本部を置くことになる国際赤十字が、欧米社会に対する絶対的信頼を得るきっかけとなった重要なエピソードでした。
普仏戦争の勃発以来、スイス連邦とわずか7年前に成立したスイス赤十字は国を越えてその象徴的な旗の下(赤十字旗は創立者アンリ・デュナンに敬意を表して彼の母国スイス国旗の色を逆にしたものを用いています)慈善活動を開始、仏と独各国の赤十字組織に援助を申し入れ、スイス人の医師・看護士・修道女、そして多くのボランティアたちが激戦地や包囲された都市などに赴き、人道の名において救済活動を積極的に行いました。
また、スイス国内では各カントンが義援金を提供し戦災にあった公共施設再建や物資購入に活用され、これは民間人負傷者やパリ在住のスイス人、ストラスブールからの仏避難民にも与えられます。
そしてこれら無償のボランティア活動は戦争末期に発生した仏東部軍(スイス人は「ブルバキ軍」と呼び、これが定着します)のスイス越境における国を挙げての救済活動へ結び付くのでした。
スイス赤十字の馬車
ヴェリエール協定の成立後、仏東部軍はスイス入国が可能となりますが、その入国ルートはポンタルリエから最も近いルートのラ・クリューズ~レ・ヴェリエール(仏側/現・国道D678号線)、レ・フルグ(ジュー城塞の南南東4.6キロ)~オーベルソン(サント=クロアの西郊外国境)のルート、そしてジューニュ~バロルブのルート(仏側/現・国道N57号線)の三本が主となります。
スイス赤十字の記録ではヌーシャテル州とヴォー州でジュラ山脈を越え入国した仏軍は、士官2,467名・非正規の士官(義勇兵など)と下士官兵85,380名、各種馬匹11,800頭、軍用馬車1,158輌、砲285門、小銃140,000挺と膨大な数となりました(仏側の記録では士官2,110名・その他82,271名となっていますが、これは抑留を終え無事仏に帰還出来た人数かも知れません)。
国境で集積される仏軍の小銃
レ・ヴェリエールの国境では仏東部軍将兵は除雪して雪壁に挟まれた街道を越えてスイスに入ります。先ず兵士たちは弾薬盒の付いたベルトを外し小銃を街道の脇に投げ捨てます。数日間で武器と弾薬の山は2メートルを超えました。兵士の列は48時間途切れることはなかったと伝わります。
最初に国境を越えて来たのは砲兵部隊で、疲弊し尽くした者は弾薬車と砲とその前車に腰掛け項垂れ、何とか歩ける者はその脇と前を進んで来ました。先頭にいたのは背が高くハンサムな青年士官で、身なりは最近の行軍と戦闘で汚れていましたが応対するスイス軍士官に対し毅然とした態度を示しており、それでも表情にはほっとした安堵が窺えました。仏軍士官らは彼らの階級に見合った尊厳を崩しませんでしたが、疲労は隠し切れませんでした。彼らは他国の軍の前で弱みを見せまいと必死になっていたのかも知れません。
スイス軍は仏砲兵が遺棄せず必死で運んで来た大砲と装具を街道脇の急ぎ除雪された空き地に運び入れ置いて行くよう命じ、仏砲兵たちも黙って指示に従います。
疲れ果てた仏軍将兵に対し次々に金属製のカップが渡され注がれたホットワインを貪るように飲む兵士の前で士官たちは「メルシ」と感謝し、その中の一人が「お願いですが、我々に続く者たちにも残して置いて下さい」と頭を下げるのでした。
スイス領に入り安堵する仏東部軍将兵
しかしどこでもこのような光景だったかと言えば嘘になり、主要な三本の越境街道だけでなくありとあらゆる場所から仏将兵は国境を越えて来ました。ヴェリエールの秩序ある砲兵と同じく矜持を崩さず礼節を持って堂々と行進する部隊もありましたがそれはごく少数で、多くは難民の群と変わらず、兵士たちは無秩序にとぼとぼと歩く者がほとんどで、むっつりと無言で通り過ぎる者、追われる恐怖からの解放のせいか奇妙に明るい者、寒気と疾病で今にも倒れそうな者が延々と列を作って国境を過ぎて行きました。
「兵士たちは何千もの馬車や馬の間に挟まって行軍していたが、所々では渋滞を作り出し、鉄道線路にもはみ出して前へ前へと進んでいた。それは既に軍隊とは呼べない。ナポレオン1世のロシア撤退もこれ以上に悲惨だったとは言えないだろう。
士官たちの多くは乱れた秩序の回復を試みようとすらしなかった。軍旗もどこかに棄てたか無くしたか、部下と変わらず無秩序に振る舞う者たちもいた。
兵士たちは雪道には不都合な木靴を履き、室内用スリッパを履き、衣類を引き裂いて裸足に巻き付けて歩いていた。軍靴を履く者は僅かだった。彼らは膝まで雪に没してゆっくりと進み、背を曲げ、頭を垂れ、眼を赤くして唇は青く膨れていた。
竜騎兵、槍騎兵、猟騎兵、ズアーブ、義勇兵、砲兵、そして歩兵と兵科は様々だがその差などはなかった。
運良く厚手のコートを羽織る士官、赤い防寒具、白い防寒具、茶色のコート、ブルーのジャケット、婦人服を纏う者、ベッドカバーを巻き付ける者、カーテンを纏う者が続いて行く。頭髪も多彩でアラブの帽子やピレネーのベレー帽まで様々な帽子のパレードが行われていた。ただ、竜騎兵や胸甲騎兵が被る鉄製のヘルメットだけは見ることがなかった。
零下10度以下の寒気のため、会話は抑えられていた。だがこの群衆から漏れ聞こえる言語も衣類や帽子に違わず豊かで、アルザス訛りとオーヴェルニュ訛りが交錯しアフリカ訛りも聞こえていた。
しかし彼らはまだ幸運で、途中街道に斃れる者も多かった。雪道で遅れを取り誰からも省みられなくなったらそれで終わりだった。倒れ伏す者の隣を通り過ぎる者が居たとしても誰一人助けることはなかった。誰もが自身生き抜くことで精一杯だった。あと僅かで国境というところ、糧食もなく、導くものもなく、路傍で背嚢を枕に小銃を胸に抱きしめ眠ったように亡くなっていた兵士が何人か発見されている。
馬匹はもっと悲惨で、飢えて細った馬は凍った街道を進むことが出来ず倒れるとそのまま棄てられた。国境へ続く街道には棄てられた馬の死骸が点々と続いていた」(ヨアヒム・アンベール「ガリアとドイツ」より・筆者意訳)
ジュラ山地の街道で息絶える馬匹たち
余談ですが一言。これを記していて全く同じような文面を見た気がした筆者ですが、それが直ぐにイン〇ール関連だったと気付き、気温が真逆なのに同じ情景、またもや人は学ばない、と感じた次第です。
この悲惨で数も多い最早「難民」と呼ぶに等しい東部軍将兵を温かく迎えたのがスイス人でした。
スイス軍は越境して来た仏軍の四分の一しかいない状態で、高級士官から一介の兵士に至るまで奮迅の働きをしました。彼らは無秩序になっていた仏将兵を励まし時には叱り、厳重に監視しつつ秩序を取り戻す手助けをします。結果スイス人に仏兵が乱暴狼藉を働いたという逸話は聞かれません。
また、抑留者にいた多くの疾病や負傷者の中から特に重傷だった約5,000名が直ちに病院へ運ばれ治療が開始されました。
その他の将兵に与えられた待遇も驚くほど寛容で、入国した将軍たちは自ら仮の住まいを選ぶことが出来、士官たちは選ばれた6都市(チューリッヒ、ルツェルン、ザンクト=ガレン、バーデン、インターラーケン、フリブール)に住むことが許されました。その他の兵士たちの待遇も「抑留」という言葉が嘘のように快適でした。1つのカントン(ティチーノ州)を除くスイス全土で兵士らは迎えられ合計188の収容施設で暮らすことになります。彼らはスイス軍兵士と同じ待遇が与えられ1人1日25スイスサンチーム(4分の1スイスフラン。実質銀本位制の当時は1.125グラムの銀と同額とされます)の割り当てでおよそ6週間、抑留中の経費が賄われました。
スイス兵に誘導され収容所に向かう仏兵
動員時に軍の不備を露呈した連邦政府は、ここでも多くを与えることが出来ず、仏将兵に対する「もてなし」は各カントン政府や住民一人一人の善意によって成されるのです。
休戦となった仏からも心配した将兵の家族などから大量の物資や郵便物がスイスに送られましたが、これもスイス郵政の超人的努力で迅速かつ間違いなく当人に届きました。
最初は投げやりで頑なだった仏軍将兵もスイス人の献身に心を開いて行きます。仏兵は元気を取り戻すとスイス人たちに深く感謝し友好が芽生えて行きました。彼らは秩序を取り戻し紳士として行動しました。連邦議会は後日クランシャン将軍に対し「抑留中の貴軍の士官と兵士の秩序を守らせたこと、将兵が善行を成したことに対し敬意を表します」との手紙を送りました。
事実仏軍人もスイス人のために善行を成そうとします。インターラーケンに収容された士官たちはパリ包囲に逢ったスイス人のため手持ちの154フランを寄付しました。このような例では殆ど「一文無し」状態の兵士たちがポケットに残っていた5サンチームを寄付した等の話が伝わっています。
後に連邦政府は東部軍将兵の抑留中に掛かった経費1,500万フランを仏に請求(仏政府は72年8月最終的に1,200万フランにまけて貰います)しますが、善行を成したスイスの民間人が払った経費は殆ど省みられませんでした。
移動中施しを受ける仏騎兵
抑留された将兵に対する親切の話はきりがないほど伝わります。
兵士たちはボロボロになって到着後、直ぐに温かい風呂に浸かるよう促され、漏れなく新しい衣服に靴、寝具そして焚き火用の藁と木材が用意されました。食事も立派で新鮮な肉と野菜、温かいスープは仏兵が1ヶ月以上味わったことがないものでした。
医療従事者も献身的に看護し、収容中の仏軍死亡者数は劣悪な環境で長時間野外で過ごし大勢が健康を害していたことを思えば極端に少なく、1,700名(全体の約2%)という少なさでした。
兵士の収容所はどこも快適で、食事時には近所の子供たちが食堂に訪れまるで家族のように一緒に食事を楽しんだ、という温かい逸話を残した者がいました。
仏兵に渡す物資を運ぶスイス人の夫人と監視のスイス兵
ある越境地点ではスイスの住民が路傍に並び通り過ぎる仏軍将兵に葉巻やチーズの塊、ソーセージやワインなどを次々に渡し、武器を棄てた手に抱えきれないほどの品物を貰った者も少なくありませんでした。
小さな谷間の寒村では兵士を受け入れる公共施設が無く、それではと住民は自分の家を開放し、部屋という部屋、納屋、厩にまで仏軍兵士が溢れました。
ある老婦人は自分の寝室を明け渡し6名がぎゅう詰めとなったため、彼女自身は干した洗濯物で一杯のキッチン(冬のスイスでは外干し出来ません)で一晩空かすこととなりましたが文句一つ言いませんでした。
また、別の婦人は凍傷に掛かった兵士が殆ど裸足の脚を引きずり通り過ぎるのを見て、その場で靴とストッキングを脱いで兵士に渡し、自身は裸足で雪道を1時間掛けて家に帰りました。
ある農場主は自分の農場へ50頭の馬匹と共に700名の将兵を迎え入れ、農場主は惜しみなくパンやオートミールを振る舞い、馬匹には冬には貴重な干草を与えました。翌日、農場の備蓄倉庫は空っぽになっていたと言います。
スイスの農家に介抱される仏兵
こうしたことはスイス全土で限りなく起こっていたことでした。
特に元・普王の領地だったヌーシャテルの人々はスイス国内と仏人から賞賛される活躍を成しました。
ヴェリエールから進んだ多くの仏将兵は先ずこの街を目指して進み、ヌーシャテルはあっという間に大砲の前車や馬車、馬匹、そしてボロを着た大軍に占領されてしまいます。しかし住民たちは直ぐに行動を起こし、あらゆる公共の建物が解放され、仏兵は手際よく収容されたため混乱は短時間で収まりました。あらゆる階層・あらゆる宗教を超え全ての人々が困惑しつつも傷付き憔悴した仏軍に手を差し伸べたのでした。
この都市の献身は直ぐにスイス全土に伝わり、負けじと多くのカントンがそれに続いたのです。
ローザンヌでは東部のカントンに回される列車に載せられた仏将兵が僅か5分間、停車場での待ち時間に車窓から外を眺めていましたが、突然窓やドアから様々な「贈り物」が投げ込まれ、それはパンやワイン、鍋に入ったスープ、葉巻等のごちそうからハンカチや聖書まで幅広い贈り物でした。
こうした有様を伝え聞いた独人はある者は呆れ、ある者は賞賛し、ある者は憤りを隠しませんでした。独政府はスイスによる「過剰な接待」を度々「やり過ぎ」と指摘しますが、独としても国際的に認められ始めた赤十字精神とスイスの人道主義を真っ向から非難出来るわけもなく、これも一部頭に血が上った右翼に対するガス抜きでしか有りませんでした。
帰還が決まり街を去る仏兵を見送るスイス軍と民衆(スイス・フリブール)
抑留は約2ヶ月続きますが3月中旬に独占領当局の許可が下り仏将兵の帰還が始まりました。既に仏軍人と親密になっていたスイス人は古い友人との別れのように涙を浮かべていました。元気を取り戻し新しいフランスに帰る人々もまた感傷に浸っていたのです。
この壮大で心に残るエピソードは、当地の芸術家たちをいたく刺激し、画家たちはこぞって「ブルバキ軍」を主題にその光景を描き続けました。
共にシャルル・グレールのパリのアトリエで指導を受けて大成したヌーシャテルの画家、オーギュスト・バシュランとアルベール・アンカーは、この「ブルバキ軍」の悲劇とスイスの慈愛を不滅にするべく多くの絵画をものにします。
同じくジュネーブの画家、エドゥアール・カストルも東部軍を題材とする多くの油彩・水彩画を描きますが、これが大パノラマの原画となりました。
パノラマ作成中のカストルら
カストル自身フランス赤十字のボランティア募集に応募し担架運搬人として従事していましたが、その最中、越境する「ブルバキ軍」を目の当たりにしていました。
ブルバキ軍が去って10年後(1881年)、カストルと12人の若い画家たちはそれまで書き溜めたスケッチや絵画を元にして、仏東部軍将兵がジュラ山脈を越えレ・ヴェリエールに至るまでの長い行軍(この地を通過した仏将兵は約34,000名)を記録した長さ110m、高さ14mの大パノラマを5ヶ月かけて製作し、これは実業家ベンジャミン・ヘンネベルクの手によりジュネーブで発表されます。その後ジュネーブでの客足が落ちたことで「ブルバキ・パノラマ」は1889年にヘンネベルクの故郷ルツェルンへ移設されました。
ブルバキ・パノラマの下絵(カストル画)
ルツェルンで建設中のブルバキ・パノラマ館
この円筒形一大芸術の見世物は、1793年、アイルランドの画家ロバート・バーカーによって始められ、19世紀を通して様々な情景を描き欧米各国で流行(普仏戦争ものとしてはセダン会戦やグラヴロット会戦、シャンピニー会戦など)しますが、やがて写真の大衆化に幻灯機、止めが映画と見世物界の強力なライバルの登場で姿を消して行きます。しかし、ルツェルンのブルバキ・パノラマはスイスの重要な歴史を語る上で欠かせない「生き証人」でもあるためか廃止されることはなく、2000年には綺麗に修復され現代でも見ることが可能な貴重な文化遺産となりました。
ブルバキ・パノラマは前景に精緻な人形と実物大の小物や模型(銃の山や木の柵に焚き火、貨車まで)を配し、背景と前景の境は見事に溶け合って、3D全盛の今日でもリアルに当時を「見る」ことが出来る得難い施設となっています。
ブルバキ・パノラマの一シーン




