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独南軍と仏東部軍・休戦情報による混乱



 独南軍司令官、男爵エドウィン・カール・ロテェス・フォン・マントイフェル騎兵大将は29日の夜、到着したばかりのアルボワの本営にて休戦に関する重大な通報を手にします。しかしそれは全く正反対・二つの出所からなる通報でした。

 一つは在ベルサイユの独大本営。参謀総長名の訓令でした。もう一つは前線から第一報があった仏国防政府の通達。ボルドーのフレシネだけでなくパリのジュール・ファーブルの名も見られると言います。

 実際27日深夜に独仏間で休戦が決定されたことは確かなようでしたが、彼の地より直線距離でも350キロ近く離れた土地にいるマントイフェル将軍としては、例え友軍上層部から発せられた訓令だとしても時間差で情報が古い可能性も否定出来ず、一体どちらが正しいのか判断に迷う場面です。

 しかしこの場合、マントイフェル将軍に迷いはありませんでした。何故ならば、仏軍の情報はパリからボルドー経由で流れて来ている(しかも直接ではなく国内新聞が流す情報です)上に休戦内容は漠然としており、独のそれは直接ベルサイユから将軍宛に届いたもので、しかも休戦内容が詳細に述べられていたのです(残念ながらその本文は筆者には見つけられませんでしたので、これは想像です)。


☆ 1月30日


 マントイフェル将軍は日付が変わった30日黎明前、「敵の情報に惑うことなく、猶予せず命令を実行せよ」と第2、第7、第14の各軍団に訓令を発しました。

 ところが、この命令が各軍団に達するまでには当然ながら通常より時間が掛かり(前線までの電信敷設は間に合わず、伝令は零下極寒の夜間・積雪と凍結・険しい地形・敵の残留兵などで時間が掛かります)、この時間差が今後の両軍の動きに微妙な影響を与えるのでした。


挿絵(By みてみん)

ツァストロウ将軍


 この頃、第7軍団長のハインリッヒ・アドルフ・フォン・ツァストロウ歩兵大将は仏軍からの休戦通告を前に悩んでいました。

 未だこのような情報は軍本営から発せられておらず、とは言うものの、いくら窮地に追い込まれているとは言え後々軍の名誉にも関わる嘘を仏軍が吐くはずもなく、と悩む将軍でしたが、結局、「これは仏軍が未だ通信可能な南方から得たものであり、我が軍団より早く情報を手に入れたのは、自国の軍掌握地域では伝達が早い上に、独軍のように義勇兵部隊の妨害を受けることなく従って迂回しながら達せられる我が軍の通信より早かったに違いない」と結論付けたのです。

 そこでツァストロウ将軍は「翌30日にポンタルリエへ向かって前進せよ、との命令は一旦保留、全軍一時その場で待機せよ」との命令を発するのでした。

 これにより、軍団砲兵隊はルヴィエ付近に集合して留まるよう、輜重はデゼルヴィエとエテルノ(デゼルヴィエの西3.2キロ)まで進み集合待機するよう命令され、麾下全体には「休戦となれば軍団は広い範囲に展開し宿営することが大事となるためこの点に留意し準備せよ」と付け加えるのでした。

 この命令が行き渡った直後の30日午前10時30分、アルボワから南軍命令(「敵が伝える休戦は間違い」)が届きます。しかしツァストロウ将軍はいささかも自身の命令を変更させませんでした。これは時間的に前夜遅く発した自身の詳細報告(敵の文書を添えたソントン将軍の証言など)がこの命令送付前に届いた筈がなく、また仏軍から休戦通達と交渉のため正規の軍使として東部軍参謀士官の一団がマントイフェル将軍の本営に向かっている途中であることをツァストロウ将軍が知っていたからでした。そのため「仏軍と交渉後のマントイフェル閣下から発せられる次の命令を待とう」と副官に告げたのです。将軍は、何れにしても第7軍団が先行して独り敵が集中するポンタルリエに接近していたため、第2軍団が直ぐ後方へ接近するまで待つことも必要だろう、とも考えていました。


 すると昼近くになってマントイフェル将軍午前9時発の命令が届きました。それには「休戦協定が結ばれたとの情報は南軍に関して事実無根であり」と早朝の内容が繰り返されており、「第7軍団はポンタルリエへの前進を続行し、仏軍が南方あるいは北方に後退しようと図る場合にはこれを妨害するものの、こちらから積極攻勢を掛けることは避けること」を命じ、更には「全面降伏を条件とする以外に敵との交渉を行ってはならない」と戒めていたのです。

 慌てたツァストロウ将軍は急ぎ麾下全軍に「対面する仏軍指揮官に対し敵対行為を再開する旨を伝え、特にシャッフォワではこちらの攻撃前に部落内から全て撤退するよう要求して敵の確認を得よ」と命じるのでした。

 その結果、第14師団は同30日の夜、シャッフォワを完全に占領したのです。


挿絵(By みてみん)

ソバンクール・衰弱した仏軍の馬匹を遺棄する独軍


 一方、第2軍団長のエデュアルド・フリードリヒ・カール・フォン・フランセキー歩兵大将は30日、軍団前衛*に対し右翼側ボヌヴォー(シャッフォワの南西13.5キロ)に対する警戒を命じ、同時にフラーヌ(ボヌヴォーの北5.6キロ)を経由してポンタルリエ方面に進ませ、仏東部軍主力の動向を探ろうとしました。


 軍団前衛を率いる第4師団師団長代理、カール・ヴィルヘルム・アルベルト・デュ・トロッセル少将は午前8時にサンソー(ボヌヴォーの西8.9キロ)を発ちますが、程なく仏軍の白旗を掲げた軍使が現れ軍団長への面会を求め、行軍は一時中断されるのでした。

 この軍使はシャンパニョルのフランセキー将軍の下へ送られます。仏の軍使は例のジュール・ファーブルによる休戦を通告する電報の写しを示して休戦の発効を証明したため、フランセキー将軍は同30日夕刻までの休戦を許可すると共に、第2軍団本隊が到達する予定だったフラーヌから仏軍が完全撤兵することと、レ・プランシュ(=アン=モンターニュ)付近など南西へ撤退中の仏軍縦隊の行軍を現在地で停止させることを求めました。しかし、この一時的休戦も昼頃にアルボワから軍命令(前述の「休戦は南軍には適用されない」)が到着したため直ちに取り消され、敵対行為は再開されるのでした。


※1月30日・デュ・トロッセル将軍直率の第2軍団前衛支隊

○擲弾兵第9「ポンメルン第2/コルベルク」連隊

○第49「ポンメルン第6」連隊(F大隊欠)

○竜騎兵第3「ノイマルク」連隊の半数

○竜騎兵第11「ポンメルン」連隊(数個中隊欠)

○野戦砲兵第2「ポンメルン」連隊・重砲第5、軽砲第6中隊

○第2軍団野戦工兵第1中隊


 デュ・トロッセル将軍はフランセキー将軍からの「休戦は間違い」との連絡を受けると同時に行軍を再開し、フラーヌ南西方にある森に展開していた仏軍を攻撃するのでした。

 トロッセル将軍率いる第4師団の先鋒となっていた第49「ポンメルン第6」連隊の第1大隊は、野砲兵第2連隊の軽砲第6中隊による数発の榴弾射撃を待った後、森林縁に潜む仏軍に対してその前面となる街道左右に展開しますが、仏軍はこの独軍の機動を見ただけでフラーヌへ向け撤退してしまいました。同大隊は薄暮の頃にフラーヌ郊外に達し、部落内に相当数の仏軍が存在する事を察知すると、先ずは部落前面に散兵線を築きました。その後夕闇に乗じて部落へじわじわと接近し攻撃の機会を待ったのです。そして夜霧が濃くなったところで部落内の仏軍各拠点に対し比較的少数で奇襲を敢行、成功を収めるのでした。


 この攻撃を実施したのは、竜騎兵第11「ポンメルン」連隊長の男爵ヘルマン・カール・フランツ・ゲオルク・ジギスムント・エーレンライク・フォン・グレツキー=コーニッツ中佐で、手近にいた部下(第3中隊の3個小隊に第5中隊の1個小隊。後に竜騎兵第3「ノイマルク」連隊第2中隊の一部も合流)と第49連隊第6中隊を率いて夕闇迫るフラーヌに向かいますが、歩兵中隊は難なく部落西の高地(フラーヌ西1.5キロ)を抑え、竜騎兵は部落西郊外の陣地から逃げ出した敵を追い、歩兵数個中隊から成る仏軍の後衛を襲撃しました。この仏軍集団は殆ど抵抗せずに降伏します。フォン・グレツキー=コーニッツ中佐はそのままフラーヌ部落へ突入し、既に戦意を失っていた多くの仏兵を捕えるのでした。

 ところが直後に東方から強大な仏軍増援が現れたため、150騎ほどのグレツキー隊は逆に殲滅される恐れが出てしまいます。すると西側高地に陣取っていた第49連隊の第6中隊が十倍はする敵に対し躊躇せずに駆け足で迫ったため、仏軍はその勢いの推され、また後方から独の「大軍」が来るのではないかと恐れて一斉に逃げ出し、逃げる気力も失せた者は投降するのでした。

 連日大活躍のグレツキー=コーニッツ中佐はこの戦闘で戦死2名・負傷5名・馬匹損失11頭の損害を受けましたが、士官12名・下士官兵1,500名の捕虜を獲て、仏軍は「命より大切な」はずの軍旗2旒を鹵獲されてしまうのです。


挿絵(By みてみん)

厳冬の戦闘(クリスチャン・セル画)


 この夜、デュ・トロッセル支隊はサンソー付近とフラーヌに宿営しますが、その宿営準備中に第5旅団の一部(コブリンスキー将軍とは別動していた第42「ポンメルン第5」連隊の一部)もフラーヌにやって来ました。この部隊はフラーヌでグレツキー=コーニッツ中佐らが仏の大軍と衝突したと聞いたフランセキー将軍がサンソーから増援として急派したものでした。

 第2軍団の残り諸隊はそのまま前日と同じ場所(シャンパニョル~ノズロワ間の諸部落)で待機を続けています。これは前日コブリンスキー将軍麾下などがかなり無茶な行軍を行ったことにより休息が絶対に必要となったためでした。


 この30日。ヘルマン・アレクサンダー・ヴィルヘルム・フォン・ヴェデル大佐が率いる支隊が駐屯するレ・プランシュ=アン=モンターニュにも仏の軍使が現れます。しかしヴェデル大佐は軍使に対し「上層部より休戦に関する指令を受けていない」事を理由に会見と書状の受け取りを拒絶しました。この時大佐はクレメー将軍率いる騎兵集団がサン=ローラン=アン=グランヴォー(レ・プランシュの南西9.7キロ)に在り、約1万と噂される仏の「兵団」がフォンシーヌ=ル=オー(同東5キロ)に待機していることを知っており、例え休戦が事実であっても大佐が手を緩めればロン=ル=ソニエ方面と仏東部軍の連絡路が確保されてしまい、休戦が終われば簡単に「脱出路」が開かれてしまうと警戒したのです。


 同じく仏の軍使はフォン・ヴェルダー将軍の第14軍団前哨にもやって来て休戦発効を訴えましたが、こちらも問答無用で追い返されてしまします。ヴェルダー将軍はこの時既に西へ向かったハン・フォン・ワイヘルン将軍とドールに設けられた兵站拠点の指揮官から「仏軍が訴える休戦は事実無根」との連絡を受けていたためでした。

 第14軍団本隊(Ba2個旅団主体)はこの日ブザンソン周辺を詳細に偵察した結果、「仏軍はドゥー右(北)岸から前哨以外殆ど撤退している」との確証を得ますが、ブザンソン市街と要塞地区にはどの程度の兵力が居残っているのか、諸軍団が入り乱れて混成となっていたため捕虜や周辺住民の尋問結果をしてもはっきりさせることが出来ませんでした。

 独南軍の総予備となったフォン・デア・ゴルツ将軍の兵団はこの日、未だ降伏していない堡塁のあるサラン=レ=バン周辺を避けてその南方に迂回して行軍、その前衛はテジー(サラン=レ=バンの南東4.5キロ)に、後衛はアルボワまで進みました。


 この30日にヴェルダー将軍からオルナンへ前進するよう命じられたフォン・シュメーリング将軍は、早朝サンセ=ル=グラン(イル=シュル=ル=ドゥーの南17.1キロ)から南方に向けて行軍を開始します。すると行軍を止める寸前の夕刻にようやく「この日の南軍命令」が届き、それによれば「予備第4師団は仏軍が未だブザンソン~ポンタルリエ街道(現・国道D67号線)以北(実際は東)にある場合、これを第2、第7両軍団が至るポンタルリエ西方方向に駆逐し、そのために強行軍を以て南進せよ」とのことでした。シュメーリング将軍は、本日の行軍は後発の命令通りとしてそのまま行軍を続けさせます。

 この夜、予備第4師団本隊はピエールフォンティーヌ(=レ=ヴァラン。サンセ=ル=グランの南南西9.4キロ)とヴェルセル=ヴィルデュ=ル=カンプ(ピエールフォンティーヌの西南西11.2キロ)周辺に達し宿営に入りました。これら宿営地にも休戦成立の報が届いており、その告知文が役場や広場に張り出されていましたが、シュメーリング将軍は、マントイフェル将軍の命令あるまでは原命令を遵守する、としたのです。

 同じく南進命令を受けていたフォン・デブシッツ将軍は、麾下主力*を率いて30日夕刻までにメシュ(ピエールフォンティーヌの東20キロ)周辺に達しました。また同日、ベルフォール攻囲兵団からフォン・ウーゼドーム大佐旅団の2個大隊*が外れて予備第4師団に復帰することとなり、デブシッツ兵団を追ってロシュ(=レ=ブラモン)とブラモンまで進んでいます。


※1月30日のデブシッツ将軍支隊と攻囲網を外れた2個大隊

*メシュとその周辺まで進出

○ブレスラウ第2後備大隊(デブシッツ兵団)

○ストリーガウ後備大隊(デブシッツ兵団)

○ラウバン後備大隊(デブシッツ兵団)

○グンビンネン後備大隊(ツィンメルマン大佐旅団)

○ゴールダプ後備大隊(ツィンメルマン大佐旅団)

○予備槍騎兵第6連隊・第2,3中隊

○野砲兵第8連隊・予備軽砲第1,2中隊

○第2軍団要塞工兵第1中隊の半数

*ロシュとブラモン

○レッツェン後備大隊(ウーゼドーム大佐旅団)

○マリーエンブルク後備大隊(ウーゼドーム大佐旅団)


 フォン・マントイフェル将軍と独南軍本営はこの日アルボワを発ってポン=デリー、ルミュイ経由でヴィルヌーヴ=ダモン(サンソーの北14.2キロ)に進出しました。その途上、仏の軍使によりクランシャン将軍直筆の「仏国南東部所在両軍の休戦」要請を受け取りますが、将軍は言下にこれを拒絶し突き返すと、「今後流血を避けるための現状に相応しい提案があれば交渉に応じないとは言わない、とクランシャン将軍に伝えなさい」と暗に全面降伏を要求したのです。

 この時、マントイフェル将軍の手元にも様々な情報によって、仏軍の各軍団が混在した大集団となってポンタルリエの周囲に集合し、微弱な一集団だけがムートを経てサン=ローランに向かって脱出した、との確証を得ていました。仏東部軍は正に「袋のネズミ」となってその運命は定まり、絶望の余り自暴自棄となり南軍に対し決戦を挑むか、直ちに武器を棄てて降伏するか、二つに一つと思えました。しかし、北方ディジョンやブザンソンに残留するそれぞれ数万に及ぶ兵団が、こちらも犠牲を覚悟してポンタルリエへ向かう可能性も捨て切れませんでした。

 このためマントイフェル将軍は、いざという決戦時に兵力不足で不覚を取らぬよう、各軍団がポンタルリエに向かって更に緊密に展開するよう、翌31日のための命令を発するのです。


 この命令に因ると「第7軍団はサン=ゴルゴン(ポンタルリエの北13.4キロ)とルヴィエからそれぞれポンタルリエに向かう街道(現・国道N57号線とD72号線)の中間に集中展開しつつモルトー(同北東25.5キロ)への街道(現・国道D437号線)への監視も怠らぬよう、予備第4師団は第7軍団との連絡を取りつつオルナン~ポンタルリエ街道(現・国道D67号線)上に前進し、フォン・デブシッツ将軍兵団はモルトーを経由してポンタルリエ方向へ前進するよう、第2軍団はフラーヌを中心にシャンパニョル街道(現・国道D471号線)に沿って集合展開し、同時にジュラ山脈から南仏へ抜けるスイス国境沿いの諸街道を遮断するよう」とのことでした。


挿絵(By みてみん)

雪の中を行く独軍事郵便輸送隊


☆ 1月31日


 翌31日。デュ・トロッセル将軍率いる第2軍団前衛の先鋒はポンタルリエへ向かう主街道(現・国道D471号線)と裏街道(現・国道D47号線)を進み、サント=コロンブ(ポンタルリエの西南西7.1キロ)とビュル(同西9.8キロ)に至ると、全く戦意が失せ直ぐに手を挙げた守備隊約500名を捕虜にします。この時、独の先鋒隊は主街道沿いに各種兵器や軍需物資が大量に遺棄されているのを見ました。

 プロッツェン中尉が率いる擲弾兵第9連隊の第3中隊は夕刻、連隊が占領したラ・リヴィエール=ドリュジョン(フラーヌの東北東4.5キロ)から出撃しポンタルリエ南のジュラ山地支脈の隘路を抜け、ラ・プラネ(サント=コロンブの南4.3キロ)を急襲しました。まさか極寒の中、山間の隘路を越えて敵がやって来るとは考えていなかったプラネ守備隊は殆ど戦うことなく士官22名・下士官兵500名が捕虜となりました。


挿絵(By みてみん)

ヴォー=エ=シャントグル


 更に南側・ドリュジョン川がジュラ山脈に深く切り込んだボヌヴォー渓谷では、第54連隊の代理指揮官、クリスティアン・オスカー・リーベ中佐(1月18日に昇進)が麾下連隊を中核とする支隊*を率いて渓谷沿いの隘路を支障なく抜けてヴォー(=エ=シャントグル。ボヌヴォーの東5.1キロ)に達し、ここで仏軍守備隊に遭遇します。独軍は直ちに西と北に別れて包囲攻撃を開始し、仏軍守備隊が態勢を整える前に突撃を敢行すると激しい戦闘が始まりますが短時間で仏軍は降伏し、士官2名・下士官兵886名が捕虜となり、残りは南方ラベルジュモン=サント=マリー(ヴォーの南南東4.7キロ)方面へと潰走するのでした。リーベ中佐はこの敵を追撃してラベルジュモンに接近しますが、ここで白旗の軍使が登場し「休戦の通告を受けたはずなのに何故攻撃を仕掛けるのか」と抗議に及びました。しかし中佐は「休戦など聞いていない」とばかりにこれを無視して軍使を追い返し、ラベルジュモンを占領すると動揺した仏軍部隊は更にスイス国境に近いサン=タントワーヌ(ラベルジュモンの東4.2キロ)に向けて逃走するのでした。


※1月31日・リーベ中佐の支隊

○第54「ポンメルン第7」連隊・第1、2大隊

○竜騎兵第3連隊・第3中隊の1個小隊

○野戦砲兵第2連隊・重砲第3中隊


 この日、第2軍団本隊はフラーヌを越えドンピエール(=レ=ティヤール。フラーヌの北東2.7キロ)に達して周辺部落に宿営し、ポリニーに2個中隊・シャンパニョルに1個中隊の守備隊を残置させました。

 第2軍団はこの日戦死7名・負傷23名を出します(全てがリーベ中佐支隊です)が、各所合わせて約4,000名の捕虜を獲得しています。


挿絵(By みてみん)

仏南東戦線・1月31日


 一方、第7軍団の第14師団は休戦の「誤報」により対峙していた仏軍に対し敵対行為を再開する旨通告すると進撃を開始しますが、既に仏軍は後退しており、銃声一発響かぬ中ポンタルリエ西郊外のドマルタンとヴイルサン両部落(どちらもドリュジョン川に掛かる橋があります)を占領し、グー=レ=ズュジエ(ポンタルリエの北西9.5キロ)とラ・ヴリンヌ(農家。現存せず食料品店になっています。グーの東4.8キロ)間の隘路(現・国道D48号線)に進出し、ポンタルリエから北へ延びる諸街道を封鎖します。

 この機動中、第14師団は殆ど損害を受けずに士官若干と下士官兵130名を捕虜にしています。


※1月31日の第14師団左翼前哨隊(ラ・ブリンヌ守備)

○第74「ハノーファー第1」連隊・第6,7中隊

○驃騎兵第15「ハノーファー」連隊・第4中隊の2個小隊

○野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・重砲第1中隊の1個小隊


 夕暮れ時、アルソン(ポンタルリエの北北東5.1キロ)からポンタルリエに向け仏軍の一縦隊が進発しますが、これはラ・ブリンヌから急ぎ進み出た重砲2門の砲撃で阻止しています。

 同軍団の第13師団本隊はこの日、セットフォンテーヌとその周辺に進み、昨日まで前衛を勤めこの日は後衛となっていた諸隊(第25旅団長フォン・デア・オステン=ザッケン将軍の支隊)はアマテ(=ヴェジニュー。セットフォンテーヌの北北東4.8キロ)とルニー(アマテの西3.8キロ)に、軍団砲兵隊はルヴィエにそれぞれ到達し宿営に入りました。

 また、独軍前線から北方ル川沿岸までの間に潜む仏残留兵を掃討する目的で混成一支隊*が北上しますが、支隊はシャントラン(ルニーの北3.4キロ)まで進むものの途上わずかな落伍兵が見られただけでした。付近の住民と捕虜の尋問から北方7キロのオルナンには未だに少数の守備隊が居ることも判明しました。


※1月31日・第7軍団のル川方面捜索隊

指揮官 ユージン・ルートヴィヒ・ハンニバル・フォン・デリッツ大佐

○第15ヴェストファーレン第2/オランダ王国フリードリヒ親王」連隊・第1、F大隊

○フュージリア第73「ハノーファー」連隊・第2大隊

○驃騎兵第8「ヴェストファーレン」連隊・第1中隊

○野砲兵第7連隊・軽砲第5中隊


 第7軍団では他に、北方警戒と南下する予備第4師団との連絡のためウアン(グー=レ=ズュジエの北3.4キロ)に分遣された一前哨隊が夕刻サン=ゴルゴン(=マン。ウアンの北東3.5キロ)まで前進し、ここで前進して来たフォン・シュメーリング将軍麾下の前遣隊と連絡を通しました。これで予備第4師団も南軍主力と直接に連携することになるのです。


 この日は後方担当幕僚がヒヤッとする事件もあり、それは第7軍団の輜重縦列に関するものでした。

 この輜重縦列は宿営地に指定されたボランド(ルニーの西3キロ)に接近した時、突如街道上で誰何され、縦列はあっという間に護衛の数倍はする仏軍部隊に取り囲まれてしまいます。すると失態に青くなり捕縛を覚悟した輜重縦列の隊長に対し、仏軍の一士官が「休戦になったのを知らないのか」と尋ね、「ボランドは休戦発効時に仏軍が保持していたので仏軍の支配下にあり、貴官らは引き返すよう」丁重に要求するのです。休戦は仏東部軍の勘違いと知っていた輜重隊長は態度で悟られぬよう気を付けて礼を言うと回れ右をして引き返し、その後は襲撃されることもなく無事に独軍占領下のデゼルヴィエに到着するのでした。


 この日、南軍総予備となっていたフォン・デア・ゴルツ将軍の兵団はヴィルヌーヴ=ダモン(ルヴィエの西6.7キロ)とその周辺まで進んで宿営し、予備第4師団はヴェルセル(=ヴィルデュ=ル=カンプ)とピエール=フォンテーヌ(=レ=ヴァラン)から前進してノドス(ヴェルセルの南南西10.8キロ)まで進み、その前哨は前述通りサン=ゴルゴンで第7軍団前哨と連絡しました。

 この予備第4師団はノドスに至るまで仏の落伍兵や休戦を訴える少人数の集団を発見するだけでしたが、このノドスで初めて仏軍から強い抵抗を受け、短時間でこれを駆逐しました。

 予備第4師団との共同作戦を行うフォン・デブシッツ将軍とその麾下はモルトーへの街道(現・国道D437号線)をル・ルッセ(モルトーの北東15キロ)まで前進し、前衛は同街道上のラ・シュナロット(同北東8.3キロ)まで至ります。この日デブシッツ将軍麾下諸隊は街道沿いの部落で仏軍の残留兵などから休戦協定違反を咎められ、説明は時間の無駄とばかりに度々武力で排除しつつ進んだ結果、目標のモルトーへ達することが出来ませんでした。


 この31日はブザンソン方面も全く静かな状態で、仏軍に動きが見られないことから南軍本営は同市街と要塞を監視するBa師団に対し、ドールに進んだ兵站集積拠点にも兵力を割くよう命じます。ドールはこの一週間ほどベルンハルト・フリードリヒ・アウグスト・フォン・デア・クネゼベック大佐の旅団から派遣される比較的少数の守備隊によって護られていましたが、グレーからドール間40キロを実数5,000名以下で守らねばならないクネゼベック大佐は、更にソーヌ河畔のオーソンヌ要塞からの脅威にも備えなければならないため苦慮していたのです(要塞からは隙あらばと強力な遊撃隊がドール周辺に出没していました)。

 Ba師団はこの日、砲兵と騎兵によって増強された歩兵2個大隊をドール地方に向けて出立させました。


※1月31日・Ba師団からドール方面に派出された二支隊

*オルシャン(ドールの東北東13.7キロ)にて集合・宿営後2月1日オーソンヌに向けて行軍

◇ブライプトロイ少佐隊

○Ba擲弾兵第2「プロシア王」連隊・第1大隊

○Ba竜騎兵第3「カール親王」連隊・第1中隊

○Ba野砲兵連隊・軽砲第3中隊

*レナン(ドールの北7キロ)に至り駐屯

◇フォン・フォーゲル少佐隊

○Ba擲弾兵第1「親衛」連隊・F大隊

○Ba竜騎兵第3連隊・第2中隊

○Ba野砲兵連隊・重砲第4中隊


 この独軍増援と共にドールの兵站地司令からオーソンヌ要塞に向けて「休戦の情報は諸官の勘違いにつき対敵行動を再開する」との通告が発せられると、ドール周辺に跋扈していた仏軍はオーソンヌ要塞司令の命令で要塞へ引き籠もったのでした。


挿絵(By みてみん)

暴風の雪道を行く仏軍


 31日早朝。ヴィルヌーヴ=ダモン在のマントイフェル将軍の下に再び仏軍軍使が現れ、今度はボルドー派遣部のフレシネが発した休戦協定発効についての訓令電報を示し、敵対行為を直ちに中止するよう請いますが、これも門前払いに近い状態で追い返されます。すると午前9時、今度は白旗を掲げた一団が到着し、一行の長となっていたヴァレーニュ大佐(第20軍団参謀長でクランシャン将軍の東部軍司令官就任により軍参謀長代理となっていました)がマントイフェル将軍の代理として対面した南軍参謀長の伯爵ヘルマン・ルートヴィヒ・フォン・ヴァルテンスレーベン大佐に対し「双方の休戦に関する見解が異なっているため、これを両中央政府に知らせて采配を仰ぐ」ことを提案し「その回答が来る時間を得るため36時間の地域限定臨時休戦を願いたい」と申し入れたのでした。するとヴァルテンスレーベン大佐は「我が軍においては事態を明瞭に理解しているところであり、一点の疑問も存在しないのでその要求は呑めない」と拒否するのです。なおも縋るように懇願するヴァレーニュ大佐に対し、ヴァルテンスレーベン大佐は「本件をベルサイユに通告し休戦の可否について紹介することを許可」しますが「大本営からの回答が到着するまで我が南軍は攻勢の手を緩めることはない」と臨時休戦は拒否しました。

 このベルサイユへの「休戦が有るか否か」の質問電信は「安全なボルドーへの電信線を使用し、ボルドー経由の暗号電信によって送達されたい」とのヴァレーニュ大佐の懇願により、仏軍通信線で先ずはボルドーへ発信されることとなりましたが、この暗号電文にはマントイフェル将軍の命令によって「2月1日を以て独南軍はポンタルリエを攻撃する」(ので至急回答を求む、ということでしょう)との一行が加えられたのでした。


 こうした仏軍の動きにも迷いが無いマントイフェル将軍は午後4時、翌日の「ポンタルリエ総攻撃」のための命令を諸隊に発します。

 この命令では、それまでの命令通り第7軍団はサン=ゴルゴン~ルヴィエ間・即ちポンタルリエへ通じる2本の主街道の間に、第2軍団はフレーヌ~ポンタルリエ主街道の両側に、それぞれ集中して展開し、両軍団はそれぞれ予備を編成・用意した後の正午、ポンタルリエに対する総攻撃を開始することとされました。また、リーベ中佐が率いてポンタルリエ南西方サン・ポワン湖付近にある支隊は一時第2軍団の指揮下となってポンタルリエ攻撃に加わるよう、フォン・デア・ゴルツ将軍の兵団は攻撃開始時間の正午にルヴィエの東郊まで進出・集合して攻撃の総予備として待機するよう、フォン・シュメーリング将軍の予備第4師団もポンタルリエ方向へ前進するよう、それぞれ命じられます。

 マントイフェル将軍は命令の終わりに「この会戦においては特に諸隊組織を越えた相互の援助が特に必要となる」ことと「砲兵を有効活用して攻勢を取るよう」強調するのでした。


 一方、仏東部軍のクランシャン将軍は「ジュラ山中にある東部軍も休戦協定の範囲にある」と信じて1月30日に麾下諸隊の行動を中止させ、現在地で動かぬよう命じます。ただ独軍が進み来るオルナン~ポンタルリエ間の諸街道(現・国道D67号線やD6号線)沿いに使用可能な騎兵諸隊を展開させるよう命じてもいました。これは休戦協定線の確定時、ブザンソンとの連絡が途切れないよう、今のところ独軍が攻略せず後に残したオルナンとの連絡を保持するためでした。

 30日時点でソンバクール、シャッフォワ、ドンピエール、フラーヌと重要拠点を失った仏軍は、休戦成立を信じたがため戦意を喪失し、多くが投降しドリジョン川の右岸へ引き下がって集合します。更に休戦後も南仏との連絡路を失わぬための山道警戒としてボヌヴォーとヴォー(=エ=シャントグル)に守備隊を置き、その南では師団長に追従するためクレメー師団がムートを目標に南下していたのです。


挿絵(By みてみん)

戦闘の後(ルイ・マリエ・バーダー画)



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