仏東部軍のポンタルリエ集合と休戦成立の通達
☆ 1月29日
独第2軍団麾下、第2師団・第6旅団を率いるヘルマン・アレクサンダー・ヴィルヘルム・フォン・ヴェデル大佐は命令により支隊*を率いて宿営地のポン=デュ=ナヴォイ(シャンパニョルの西10.3キロ)からルル(同南南西4.8キロ)~ラ・ビヨード(小部落。同南7.9キロ)経由でレ・プランシュ=アン=モンターニュ(同南東12.7キロ)目指し29日早朝出立しました。
※1月29日のヴェデル支隊
○猟兵第2「ポンメルン」大隊
○第54「ポンメルン第7」連隊・F大隊
○第14「ポンメルン第3」連隊・第2、F大隊
○竜騎兵第3「ノイマルク」連隊・第2中隊の半数
○野戦砲兵第2「ポンメルン」連隊・重砲第1中隊
ジュラ山地の街道(レ・プランシュ付近)
大佐の縦隊がシャンパニョル~サン=ローラン街道(現・国道N5号線)に出るとラ・ビヨード付近で下馬して銃を構える仏軍騎兵部隊に遭遇し、これを難なく駆逐した後は妨害もなくレ・プランシュに到達しました。ここにも下馬騎兵の仏軍集団がいましたが、先陣を切ったポンメルン猟兵が短時間で撃破し市街を占領するとヴェデル大佐はシャンパニョルへの街道(現・国道D127号線)とノズロワへの街道(現・国道D17号線)に警戒隊を送り、サン=ローラン(=アン=グランヴォー。レ・プランシュの南南西9.7キロ)とムート(同東北東15.3キロ)に向けて先遣隊を送り出しました。
これら諸隊は夕刻までに途上次々と落伍兵や残留部隊と思われる「数は多いものの戦意に乏しい仏軍集団」に遭遇しますが、多くは短時間の戦闘で逃走し幾分かは戦わず手を挙げ捕虜となります。これら捕虜の尋問から、「仏第15軍団の騎兵師団を含むおよそ8,000名の混成梯団が昨日28日この地区を通過してサン=ローランに進み、本29日はロン=ル=ソニエ目指して西へ向かったらしい」(相当盛られています/後述)とのことでした。
レ・プランシュ=アン=モンターニュ
一方、フォン・コブリンスキー少将率いる第3師団の本隊は夜間ポリニー(アルボワの南南西10キロ)を出立して夕刻までにシャンパニョルに至り、この行軍中第5旅団の歩兵でサラン=レ=バンの戦闘後より第7旅団に隷属していた諸隊が原隊復帰を果たしました。
第7旅団を率い今や第4師団の臨時師団長となっていたデュ・トロッセル少将は、午前7時にポンタルリエ目指して出立し、仏軍と一切遭遇せずにサンソー(シャンパニョルの北東14.3キロ)まで至りました。
第3師団長のフォン・ハルトマン将軍もフォン・ヴェデル大佐らを出立させた後、師団残余を率いてシャンパニョル近辺まで進み、同時に第2軍団残りの諸隊もシャンパニョルまで進んだため、今や第8旅団を主体とするケットラー支隊以外ほぼ全ての軍団諸隊がシャンパニョル周辺に集合することとなり、ここで最先任となったフォン・ハルトマン将軍は諸隊を率いて午後遅くノズロワ(シャンパニョルの東北東10.2キロ)とオングリエール(ノズロワの北北西3キロ)へ前進し、軍団砲兵隊もまたこれに追従して同地至近に至るのでした。
サンソー
この日はコブリンスキー将軍麾下の諸隊が戦史に特記される素晴らしい行軍を見せます。
コブリンスキー隊は前28日、ムシャール近郊のパニョーズで第13師団の到着を待った後にポリニーに向かいました。命令(午前11時までに到達)より随分と遅れて到着した諸隊は宿営準備を成してようやく就寝しましたが、眠ったと思った途端に新たな軍団長命令(シャンパニョル集合)を受けて飛び起き、零下十何度に下がった夜間、凍結してつるつると滑る堅い雪面の街道を黙々と進みシャンパニョル集合を果たします。警戒隊として離れて前哨任務を行っていたある中隊は、その分遅れてポリニーに到達した結果休む間もなく出立し、パニョーズからポリニーを経てシャンパニョルまで、殆ど休まずに24時間でおよそ50キロを踏破したのです(冬季のジュラ山地では驚愕的速度です)。
※1月29日・第2軍団本隊のシャンパニョル集合
○擲弾兵第2「ポンメルン第1/国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世」連隊(第5旅団)
○第42「ポンメルン第5」連隊(第5旅団)
○第14連隊・第3,4中隊(第6旅団)
○第54連隊・第1、2大隊(第6旅団)
○竜騎兵第3連隊(半個中隊欠/第3師団)
○野戦砲兵第2連隊・第1大隊(第3師団)
・軽砲第1,2中隊
・重砲第2中隊
○野戦砲兵第2連隊・第2大隊(軍団砲兵)
・軽砲第3中隊
・重砲第3中隊
○野戦砲兵第2連隊・騎砲兵大隊(軍団砲兵)
・騎砲兵第2,3中隊
○第2軍団野戦工兵・第2中隊(第4師団)
*行李護衛
○第14連隊・第1中隊(第6旅団)
*シャンパニョル市街警護
○第14連隊・第2中隊(第6旅団)
*ドールで防御施設を建設中
○第2軍団野戦工兵・第3中隊(第4師団)
第7軍団では、第14師団が昼近くになってようやくポンタルリエに向かうよう命令が届き、正午頃デゼルヴィエを立ちます。この時、軍団砲兵からやって来た騎砲兵両中隊も縦隊に加わりました。ところが、街道上の積雪は深く時々除雪を行いながら進んだため、行軍は遅れに遅れてしまいます。師団の後尾部隊は午後3時にようやくルヴィエ(サラン=レ=バンの東18.2キロ)に到着するのでした。
同じく午後に命令を受領したセーズネ(サラン=レ=バンの北東3.7キロ)在の第13師団前衛(オステン=ザッケン支隊)もヴィルヌーヴ=ダモンを経由して前進し、道中同じ積雪に悩まされながらも予定通りルヴィエに達しています。この時、砲兵や馬匹牽引車両はとても街道を進む状態になく、セーズネを通る行軍を諦め、比較的雪が少なかったミヨン(セーズネの北7.3キロ)へ迂回し進みました。
こうして第2、第7軍団の主力共に南下したため、その後方で警戒するのはサラン=レ=バンの北西方、あの二個城塞の射程外に居残ったフォン・パンヴィッツ中佐率いる支隊だけとなるのです。
※1月29日・パンヴィッツ支隊
指揮官 フォン・パンヴィッツ中佐
○第15「ヴェストファーレン第2/オランダ王国フリードリヒ親王」連隊・第2大隊(第26旅団)
○第13「ヴェストファーレン第1」連隊・第1大隊(第25旅団)
○驃騎兵第8「ヴェストファーレン」連隊・第3中隊の半数(第13師団)
○野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・重砲第6中隊(第13師団)
ジュラ地方の雪道(サンソー付近20世紀初頭の絵葉書)
驃騎兵第15「ハノーファー」連隊長、フォン・コーゼル大佐が率いる第14師団の前衛支隊*は更にルヴィエの先を目指します。これは第7軍団長フォン・ツァストロウ将軍から第14師団長の男爵エルンスト・ヴィルヘルム・モーリッツ・オットー・シュラー・フォン・ゼンデン少将に下された「ウトー(ポンタルリエの北西郊外)付近でドリュジョン川(ポンタルリエ南西14キロ付近のジュラ山地を水源にポンタルリエの北でドゥー川に注ぐ支流)の線に展開せよ」との命令によるものでした。
※1月29日の第14師団前衛
指揮官 エルンスト・モーリッツ・フォン・コーゼル大佐
○第53「ヴェストファーレン第5」連隊・第1、F大隊(第28旅団)
○第77「ハノーファー第2」連隊・第1大隊(第28旅団)
○驃騎兵第15「ハノーファー」連隊・第1中隊
○野戦砲兵第7連隊・重砲第1中隊
○第7軍団野戦工兵・第2中隊
ル・スイヨで突撃する驃騎兵第15「ハノーファー」連隊の第1中隊
コーゼル隊はル・スイヨ(ルヴィエの東南東6.2キロ)付近に至るまで路肩や部落に仏の落伍兵を見るばかりでしたが、同地で遂に仏の大軍に遭遇します。これはおよそ1個旅団・4、5,000名に及ぶ大部隊で、コーゼル隊のほぼ倍となる軍勢でしたが、コーゼル大佐が重砲中隊に命じ榴弾を2、3発撃ち込むとたちまち恐慌に陥り、仏兵は競うようにポンタルリエ方面へ遁走するのでした。大佐はそのまま敵の後尾に接する形で街道を進むとソンバクール(ル・スイヨの東4.9キロ)南方の森に新たな仏軍が構えているのを発見、これと戦闘状態になりました。コーゼル大佐は数日前までパンの守備隊を率いていたボナベンテュラ・フランツ・ハインリヒ・ゴスヴィン・フォン・ブレーデロウ少佐に命じ、少佐の大隊(第77連隊の第1大隊)に驃騎兵1個小隊と重砲1個小隊(2門)を付け森の南方にあるシャッフォワ部落(ポンタルリエの西6.4キロ)を占領するよう命じるのです。
ブレーデロウ少佐は時既に日没に近く、また霧も発生していたために砲兵の使用を諦め、本隊もソンバクール南の森から仏軍を追い出したのを知って砲兵小隊をコーゼル大佐に返すと、歩兵と騎兵を従えてポンタルリエへの街道上(現・国道D72号線)を前進します。少佐の隊は街道の南東にある高地上から時折銃撃を浴びましたが、その都度反撃の銃撃を行って仏散兵を追い払います。この際、約40名の捕虜を獲ました。
一方、先行し別動した第2中隊はルヴィエからセットフォンテーヌ(ルヴィエの北東5.9キロ)を経由して進みます。道中本隊と同じく仏の落後兵と遭遇しこれを追い払い、少数の騎兵と歩兵からなる後衛と思われる部隊を発見、ポンタルリエへの街道上(現・国道D6号線)を逃げる敵を追撃しつつソンバクールの西側に達しました。
ソバンクール部落は旅団クラスの仏軍により一見強固に守られていましたが、第2中隊を率いていた男爵エデュアルト・ヴィルヘルム・エヴァルト・フリードリヒ・フォン・フィーティングホフ・ゲナント・フォン・シェール大尉は構わず中隊の先頭に立って突撃を敢行、部落内へ突入した大尉らは、まさか二十倍はする自軍に対し突撃を敢行する筈はないと油断していた仏兵の不意を突いたため当初は優勢に戦闘を進めます。しかし圧倒的多数の仏軍は次第に我を取り戻し、数にものを言わせて独兵を追い詰め完全に包囲してしまいました。
その時、南方で戦闘音を聞き付け第2中隊の危機を知ったフォン・ブレーデロウ少佐は、シャッフォワの対処をコーゼル大佐に譲ると麾下3個中隊を率いて突進し、勢いに任せ予備を置かず全員で部落内に乱入しました。この結果発生した短くも激しい戦いはブレーデロウ隊に戦死2名・負傷5名の損害を与えますが、奇妙な事に仏軍は突如として一斉降伏し、将軍2名を含む士官50名・下士官兵2,700名という大量の将兵が投降して捕虜となり、野砲10門、ミトライユーズ砲7門、馬車48輌、馬匹319頭、各種小銃3,500挺という大勝利(仏軍は主に第15軍団の第1師団将兵でした)となるのです。
ブレーデロウ隊は、この大量の鹵獲品と捕虜を監視し奪還を防ぐためこの夜は一睡もせずソンバクールに駐留するのでした。
ほぼ並行してコーゼル大佐の第14師団前衛本隊もブレーデロウ隊を追ってポンタルリエ街道に進み、日没時にシャッフォワへ接近します。するとこの部落にも旅団クラスの敵がいることを発見するのです。
大佐は直ちに重砲中隊に命じて部落への砲撃を開始させ、更には師団本隊から発して間を置かず到着した軍団の騎砲兵第2中隊も街道に跨って砲列を敷き続いて砲撃に参加するのでした。砲撃は激しかったものの急速に夜陰が迫り濃霧も広がったため効果観測は出来ませんでしたが、コーゼル大佐は前衛残りの歩兵全てを使用して攻撃準備をさせ部落を囲むように展開させます。
大佐は先ず第53連隊の第3中隊を街道から部落へ向け直進・突撃を敢行させ、中隊は部落前縁にあった仏軍の前哨陣地を攻撃してこれを蹴散らすと、部落外縁の家屋数軒の占拠に成功しました。同連隊第1大隊残余の3個(第1,2,4)中隊は、部落の両翼(東西)から包囲展開しつつ機会を得たら独断専行して部落内へ突撃せよ、との命令を受け第3中隊の後方を進みます。仏軍はこの第1大隊の攻撃に対し激しく抵抗しますが、コーゼル大佐は間を置かず後方に展開していた第53連隊のF大隊から2個中隊を呼び寄せ、第10中隊は右翼(東)側増援に、第9中隊には左翼(西)側増援に向かわせ参戦させました。この時、師団本隊から第77連隊の第2大隊が到着し、第53連隊兵の後援として展開しました。
仏軍はここ数日間には見られなかった激しい闘志を見せて独軍に対抗しますが、約1時間半が過ぎた頃突如として銃撃を中止し、次々に武器を下すと投降し始めたのです。
コーゼル大佐はこの夜、仏軍士官多数と下士官兵1,800名以上を捕虜とし野砲2門を鹵獲するのでした。
この「シャッフォワとソンバクールの戦闘」で独軍は前述のブレーデロウ隊の損害を含め戦死が士官2名・下士官兵9名、負傷が士官4名、下士官兵45名の損害を受けます(殆ど第53連隊の損害です)が、前述通り仏軍の1個師団に相当する兵力を降伏させる大勝利を獲るのです。
シャッフォワの戦闘
ところが、この「大勝利」には裏がありました。
なんとシャッフォワで投降した第20軍団第2師団長レオン・ソントン准将はコーゼル大佐に対し「我が軍と貴軍との間には既に休戦協定が発効している」と告げたのです。ソントン准将はこの夕、戦闘が開始された後にポンタルリエからやって来た東部軍の参謀士官によって書簡3通を手交され、それには以下のような「事実」が記されていたのです。
※国防政府派遣部より県知事及び郡行政区長に宛てた回覧文
「1871年1月29日午後12時30分 ボルドーにて
在ボルドー政府委員はベルサイユにおける会談に関して今まで外国発の新聞などにより確認するのみであったが、本国新聞各紙は今夜次の電報を全国に発信するとのこと。
以下その電報全文。
『1871年1月28日午後11時15分 ベルサイユにおいて
私は本日ビスマルク伯爵と条約を締結し21日間の休戦を承諾した。2月15日ボルドーにて国会を開催する。
この報をフランス全土に告知し休戦を実行し2月8日までに国政選挙を実施すること。
この件につき国防政府より政府閣僚1名をボルドーに派遣する。
ジュール・ファーブル』
この電文に記載された事項の実施につき詳細は追って政府命令として布告する。
クレマン・ローリエ(ボルドー派遣官僚・総務財務担当)」(筆者意訳)
※国防政府派遣部より各徴兵管区長に宛てた回覧文
「1871年1月29日午後3時30分 ボルドーにて
(派遣部)陸軍省発令
パリ政府は21日間の休戦を締結した。従って貴官らは各相対する敵将と協議を行い速やかに戦闘を停止せよ。
貴官らはこの場合における諸法令を遵守せよ。
相互の前線は確実に地方の河川や運河、丘陵や山、その他はっきりした目標によって速やかに規定せよ。
本休戦境界線の相互承認した協定書面はこれを互いに交換し両軍司令官またはその代理がこれに署名せよ。
休戦中はいかなる軍事行動もこの境界線の外で行ってはならない。軍の給養その他一切の補給もこの休戦境界線の外で行うことは許されない。
義勇兵に対してもまたこの休戦遵守を命じること。
本件に関して将来紛争となるような事態を避けるため、本官は貴官らに対し敵との協定書をしっかり保管しその理由・証拠となる資料の収集・確保につき正確に執り行うことに留意するよう注意を促す。
万が一敵との協議中に困難を生じ休戦の解釈について助言を求めたいと感じたならば、派遣部陸軍省において敵方と協議する時間を予め逆算して大至急電信にてこの内容を送ること。
ドゥ・フレシネ」(筆者意訳)
※シャッフォワ在・第20軍団第2師団長ソントン准将に宛てたクランシャン将軍の訓令書簡
「ソントン将軍
21日間の休戦条約は27日に締結され、本官は今夜この公報を見ることが出来た。従って貴官は銃砲撃を中止し相応の方法によって対峙する敵に対し休戦が成立したことと貴官がその旨を敵に通告する任務を受けたことを知らせよ。
1871年1月29日 ポンタルリエにおいて 軍司令 クランシャン」(筆者意訳)
コーゼル大佐は直ちに師団へこれを通告しますが、彼らは未だ休戦成立を知らされておらず、しかし敵方が自ら銃を下したことから一時的に現状維持を行い敵対行為を中止することにしてこれを大佐に実行させました。結果シャッフォワ部落は仏の減員した1個中隊が守る東縁の3軒の農家を除き残りは全て独軍が占領し、ソントン准将ら「暫定捕虜」の処遇については急ぎ軍団本営に確認した結果、ツァストロウ将軍は「武器を遺棄させた後に解放せよ」との命令を下し、コーゼル大佐は直ちに仏軍将兵をポンタルリエに向け追放するのでした。
この夜。独第14師団本隊もシャッフォワ近郊に進んで、部落内と周辺部落に宿営を求めました(仏軍もいるため、文字通り「呉越同舟」状態だったと思います)。
第13師団はオステン=ザッケン将軍率いる前衛がセットフォンテーヌに至り、師団後衛はヴィルヌーヴ=ダモンに進みました。師団はこの街道上(現・国道D72号線からD41号線)の諸部落に宿営を求めたのです。
騎砲兵両中隊が第14師団に加わり重砲第3中隊も別働(28日にカンジェーで第13師団に加入しています)して既に3個中隊だけになっていた第7軍団砲兵隊は、起伏の多い地形に苦戦(深い雪と凍結した街道)し、ようやくデゼルヴィエに到着しただけでした。
また、ツァストロウ将軍はピエールフォンテーヌ(=レ=ヴァラン。オルナンの東北東32.1キロ)方面から接近する予定のフォン・シュメーリング将軍(予備第4)師団との連絡を図るためル川に沿って上流に向かう一連絡隊を送りますが、この隊は途中オルナンからポンタルリエへ進む仏軍の大縦隊に遭遇し、仕方なく隠れてやり過ごしたためこの日は連絡することが適いませんでした。
南軍総予備に指定され、マントイフェル将軍の本営と行動を共にすることとなったフォン・デア・ゴルツ将軍の兵団はこの日の朝、アルク=エ=スナンから出立しますが、やはり積雪と凍結した坂に苦しみ、ようやくアルボワに達しました。マントイフェル将軍と南軍本営もアルボワに移転しました。
フォン・ヴェルダー将軍の第14軍団ではBa師団がブザンソンの監視を続け、サン=ヴィとマルネーを拠点にブザンソンへ偵察隊を送ります。
※1月29日・Ba師団の偵察隊
*アルノルト中佐指揮の偵察隊
○Ba第6連隊・第2大隊
○Ba竜騎兵第3「カール親王」連隊・第1中隊
○Ba野砲兵連隊・軽砲第2中隊
*男爵リューデル・フォン・ゲルスブルク少佐指揮の偵察隊
○Ba第5連隊・第2大隊
○Ba竜騎兵第3連隊・第5中隊
○Ba野砲兵連隊・軽砲第4中隊
この両偵察隊は直ぐに多数の兵士によって警戒中の強固な仏軍陣地帯に遭遇し、その陣地はブザンソンの外堡の要塞砲から援護射撃を受け、歩兵1個大隊と野砲6門程度の兵力ではとても突破出来るような代物ではなかったのです。
一方、オニヨン河畔に駐在していたルントシュテット支隊他2隊は全くの平穏無事で、巡察以外することがありませんでした。ヴェルナー・フォン・ルントシュテット少佐は命令によりマルネーにも分遣隊(フュージリア第34「ポンメルン」連隊・第11中隊と予備驃騎兵第2連隊・第2中隊の2個小隊)を送り守備することになります。
フォン・シュメーリング将軍の予備第4師団はメシュ(モンベリアールの南28.6キロ)に対しての攻勢を計画していましたが、フォン・デブシッツ将軍の兵団がこの攻撃に協力出来ないことがはっきりしたため中止し、サンセ=ル=グラン(イル=シュル=ル=ドゥーの南17.2キロ)とその周辺に留まりました。これはデブシッツ将軍がU・トレスコウ中将から「ベルフォール攻囲に参加せよ」との命令を受けたからでした。
この命令が出た背景には、第14軍団長のフォン・ヴェルダー将軍がベルフォール攻囲兵団に「貸していた」予備第4師団傘下フォン・ツィンメルマン大佐麾下の4個大隊を「予備第4師団のフォン・シュメーリング将軍に返す」よう命令したからで、U・トレスコウ将軍は攻囲網に穴が開くことを恐れ、それならば、とデブシッツ兵団を呼び寄せることとしたのでした。
ところが、「これから仏軍の本隊と衝突するため増援が必要だろう」とのヴェルダー将軍の「親心」を受けたロベルト・フォン・ツィンメルマン大佐は29日、ベルフォールの攻囲から増援として到着したトールン後備大隊(大佐の麾下ではなくフォン・クナップシュタット大佐の混成旅団所属)を加えただけで前進を開始し、途上仏軍の逃げ遅れた小部隊を駆逐しつつ突進し簡単にメシュを占領してしまうのでした。
ツィンメルマン隊の前進を聞いたフォン・シュメーリング将軍は一隊をメシュとの連絡を狙って進ませ、この隊は夜までにベルエルブ(メシュの西10.9キロ)に達しました。同師団は別にブザンソン方面にも複数の斥侯を放ちますが、仏軍と遭遇することはありませんでした。
フォン・マントイフェル将軍は広範囲に離れた麾下諸隊の状況を余さず掌握しようと軍本営から数名の参謀士官を各地に派遣しました。これは将軍自身が各軍団長に発した例の「各自独断専行で行動せよ」の訓令によって戦線の全貌が見えなくなる恐れからでもありました。
そのマントイフェル将軍に大本営から電信が到着したのはこの日の夕刻5時。軍本営がアルボワに到着した直後の事でした。
それは仏軍から通告のあった休戦協定に関するもので、「休戦協定が結ばれたのは事実であり、前線全てに通告されることとなった。しかしコート=ドール県・ジュラ県・ドゥー県の三県全域にはこれを規定せず、従って南軍はその計画した作戦を継続し完遂せよ」との、思わずマントイフェル将軍が奮い立つような内容(未だ戦うのは南軍だけ)だったのです。
マントイフェル将軍は直ちに南軍命令を発し、休戦が南軍作戦域には適用されないこと、翌30日には第2、第7軍団はポンタルリエに向かい一斉前進を図ること、両軍団は密接に連絡し協働することが命じられたのでした。
この時、フォン・デア・ゴルツ将軍兵団もポン=デリー経由でヴィルヌーヴ=ダモンへ進むよう命じられ、ヴェルダー将軍はBa師団によるブザンソンの偵察行動を継続させるよう、フォン・シュメーリング将軍は麾下をしてもし仏軍部隊が今なおドゥー上流域に残留していたならば、これを第2、第7両軍団の方向へ追いやるよう、それぞれ命じるのでした。
この時(29日夜)にはまだ軍本営に「シャッフォワとソンバクールの戦闘」の状況報告は届いておらず、この戦勝報告は翌30日早朝アルボワに届くのでした(届いていれば捕虜は放免されることはなかったと思われます)。
☆ 仏東部軍・1月27日から29日
先行き不安、というより絶望的な東部軍を率いることとなったジュスタン・クランシャン将軍はブザンソンを後にする際、ブザンソン守備のため第15軍団の第2師団と、元より周辺諸県から補充徴兵された護国軍兵士が多くいた第20軍団の第1師団を残置します。
この27日。第18軍団は先頭がノドス(ポンタルリエの北21.3キロ)、後尾がファルラン(オルナンの東11.4キロ)まで行軍し宿・野営しました。
第20軍団第2師団はオルナンに、第15軍団の2個師団はセットフォンテーヌとエヴィエ(オルナンの南南東13.2キロ)に達し、第24軍団は既に軍団としての形態を保つことが出来ずバラバラに南進して、その先頭はポンタルリエに入りました。
混成の別動隊を率いていたカミーユ・クレメー将軍(「仏東部軍の混乱(1月24日から27日)」を参照ください)は、第20軍団の第3師団をソンバクールに、プーレー大佐率いる「クレメー師団」をルヴィエへ進めましたが、軍総予備団は遅れてシャントラン(オルナンの南6.9キロ)に至りました。
深い森の縁を行く仏軍縦隊
クランシャン将軍は幕僚と共にポンタルリエへ先行しますが、更に先行して参謀士官と工兵若干名を同地に急行させ、地方住民を動員して街道の除雪を行わせました。クランシャン将軍としてはポンタルリエの比較的優位な地形(南北と東に聳える山地・西側に開けた耕作地や荒れ地)を利用して陣地を構築し出来るだけ軍に休息を与えようと考えます。将軍としてはこの先南西へ延びるサン=ローラン街道(現・国道D437号線)を進み、この街道に交わる北方からの諸街道上のヴォー(=エ=シャントグル。ポンタルリエの南西13キロ)やレ・プランシュ=アン=モンターニュ(シャンパニョルの南東12.8キロ)、モリヨン(レ・プランシュの西南西5.4キロ)などの隘路にある拠点を抑えることが出来ればサン=ローラン(=アン=グランヴォー。シャンパニョルの南19.2キロ)、又はシャペル=デ=ボワ(サン=ローランの東12.5キロ)を越えて南仏へ突破することも夢ではない、と考えるのでした。
ジュラ山地の深い渓谷(レ・プランシュ付近ラングエット渓谷)
これまで仏東部軍は幸いにもマントイフェル独南軍と本格的な会戦をすることなくポンタルリエへ到達しつつあり、弾薬縦列も殆ど脱落することなく追従しており、軍経理部長のフリアン経理事務官も、ブザンソンでは難しかった(後方連絡の遮断・元よりいる守備隊と住民)糧食確保もポンタルリエでは十分に可能、と太鼓判を押し、「足りない分はスイスより手に入れることも可能ですから」と、仏語系住民が多数を占めるスイス西部からの密輸で賄うことをほのめかしたのでした(勿論中立国義務違反ですがこの頃、英米も武器を主としてやっています)。
ところが、フリアン経理官の「太鼓判」とは裏腹に、ポンタルリエに到着したクランシャン将軍が幕僚に調べさせたところ、ポンタルリエに現存する糧食は東部軍を支えるのに僅か数日持てば、といった事実が判明し、失望した将軍は「諸軍団が集合するのを待った後、直ちにスイス国境に沿って南下を続行せよ」と命じるのでした。
そしてここで非凡な行動力を発揮したのがクレメー将軍でした。
クレメー将軍はこの27日夜、クランシャン将軍から直接下された命令を受け取りますが、その主旨は「ムートへの街道(前述のサン=ローラン街道)に配置されている第15、第24両軍団の騎兵3個連隊を直率してレ・プランシュ=アン=モンターニュ、サン=ローラン=アン=グランヴォー、そしてモレ(サン=ローランの南東7.8キロ)に先行し、独軍よりも先に同地を確保せよ」とのことでした。
クレメー将軍はこの困難な任務を遂行するため夜間、しかも厳寒の中に出立し深く雪に埋もれた街道にそって進むと各地に駐在し就寝していた騎兵たちを起こして廻り、その騎兵を率いて28日午後には先の三ヶ所に到着して各部落に1個連隊を配するのでした。
普仏戦争末期の仏騎兵
この28日。クランシャン将軍は第24軍団とプーレー大佐率いるクレメー師団の内、第1旅団(ミヨー大佐指揮)をクレメー将軍が率いて先行した騎兵集団の後を追わせ、ブザンソンの2個師団以外全ての東部軍麾下諸隊を28日と翌29日に掛けポンタルリエ周辺に集合させる軍命令を出します。
29日夕刻には第18軍団がウトー(ポンタルリエの北西3.8キロ)とその北方に展開・集合し、第20軍団の第2師団がシャッフォワとビュル(シャッフォワの南西4.1キロ)、同軍団の第3師団とクレメー師団の残り(ルブレ中佐の第2旅団と騎兵・砲兵など)はドンピエール(=レ=ティヤール。ビュルの南西3.7キロ)とフラーヌ(ドンピエールの南西2.8キロ)にそれぞれ集合しました。この内、プーレー大佐は2個大隊をヴォー(=エ=シャントグル)からボヌヴォー(フラーヌの南5.6キロ)間の前述した重要な隘路の守備に就くため前遣するよう命令されました。
一方、第15軍団の第3師団はポンタルリエ市街とその郊外に、同軍団第1師団はソバンクール付近に、そして軍総予備団はビアン=レ=ズュジエとグー=レ=ズュジエ(それぞれソバンクールの北東1.4キロと2.6キロ)にありましたが、第15軍団第1師団は前述の「シャッフォワとソンバクールの戦闘」で独ブレーデロウ大隊の攻撃を受け壊乱し、逃げずに戦った将兵も休戦を知って自ら手を上げ捕虜となり、付近に居た軍総予備団は、ブザンソンで「信頼して結構」と豪語した隊長パリュー・ドゥ・ラ・パリエール准将の言葉も虚しくポンタルリエに向けて退却してしまうのでした。同じくシャッフォワも襲われ、一時ソントン将軍も捕虜となります。
第24軍団とミヨー旅団は、遥か南へ騎行したクレメー将軍との連絡を図るため29日にムートを越えますが、その前衛がクレメー将軍率いる騎兵連隊が駐屯する筈のレ・プランシュ(=アン=モンターニュ)への街道との交差点・フォンシーヌ=ル=バ(レ・プランシュの南東2.5キロ)に差し掛かったところ、独軍部隊に遭遇してしまいます。
この独軍は前述した独第2軍団のフォン・ヴェデル大佐率いる支隊の一部で、レ・プランシュで騎兵連隊を蹴散らした後にムートに向かった部隊でした。
第24軍団の前衛はこの独軍により簡単に排除されてしまい、逃げ帰った将兵は第24軍団長となっていたジャン・コマーニュ=ティボディーン准将に報告し、ティボディーン准将は東部軍のために最後に残った脱出路が既に独軍により遮断されていることを知るのです。
それでも准将は持てる兵力で(全く信頼出来ませんでしたが)塞がれた道を開こうと決心し、30日にレ・プランシュを攻撃する準備を始めましたが、攻撃直前に休戦の急報に接したため攻撃計画を断念し、別動としてスイス国境沿いの裏街道(現・国道D46号線)を警戒していた同軍団第1師団をシャペル=デ=ボワを越えてモレへ進ませることのみ実行させました。これは今後休戦境界線が定まる前にサン=ローランにいるはずのクレメー将軍との連絡を確保しておこうとの考えからでした。
サン=ローラン=アン=グランヴォー
このティボディーン准将が受け取った休戦協定締結の急報もまたボルドー派遣部が発し在ポンタルリエの地方行政府が受信した電報によるものでした。この電報にもソントン将軍が受け取った電報と同じく「コート=ドール県・ジュラ県・ドゥー県の三県全域はこれを除外する」との文言はなく、結果ティボディーン准将らも「戦争は終わった」との感慨に耽っていたのでした。
前述通りポンタルリエのクランシャン将軍もすっかり「戦争は終わった」と、ある意味肩の荷が下りた感を擁き、目前にまで迫っていた独軍との敵対行為を中止し、誠意を以て休戦境界線を定めるための協議に入ろうと試みたのです。
仏南東戦線・1月29日




