仏東部軍の混乱(1月24日から27日早朝)
仏東部軍司令官、シャルル=ドゥニ・ソテ・ブルバキ中将は1月23日、思いかけずブザンソン南西の交通要所・カンジェーを独軍の奇襲で失い、また独第14師団のコーゼル大佐が率いる支隊をダンヌマリーで迎撃しますがこれも失敗し、ただでさえ危うい指揮官としての立場が非常に危うくなってしまいます。
既に東部軍は「軍」とは名ばかりの存在で、諸隊からは悲鳴のような「士気喪失・戦闘不能」の報告が相次ぎ、同23日、ブルバキ将軍自身もすっかり自信を喪失し鬱の状態でブザンソンに到着すると、ここでも至る所でボロを纏い意気消沈して項垂れ佇む将兵を目の当たりにして益々陰気の蟲に囚われてしまうのでした。
悪い知らせは続くもので、ブルバキ将軍が命じていたブザンソンでの待機中に消費する糧食状態の回答を持って来た軍経理部長のフリアン経理事務官は、「軍の携行糧食は僅か5日分のみで」あり「もしブザンソン要塞の糧食倉庫を解放しても15から18日分に過ぎない」と語るのです。
ブルバキ将軍はいよいよ進退窮まり、「ここは精鋭だとしても員数に劣る独軍に対し決戦を挑むしかない」と決心し、翌24日ドールへの街道脇にあるフェリーヌ城館(現存しません。ブザンソン西郊外、現在のレ・ソー=デュ・シャザル地区/国道D11号線とD673号線の交差点付近にありました)に軍団指揮官始めとする軍首脳を招聘し、軍事会議を開きました。
ブルバキ
欠席者は2名のみ、ブザンソンの南で独軍と対面している第15軍団長のエミール=フィリップ・マルティノー・デシェネ少将と、遥か南東に離れる第24軍団長のジャン=バティスト・ドゥ・ブレッソル少将で、第15軍団には軍参謀長(前・第15軍団の参謀長だった)ジャン=ルイ・ボレル准将が事前に赴き、マルティノー将軍の意見を聴取して来ました。
ブルバキ将軍は会議冒頭、軍の危機を訴え「南西方への退却路も既に独軍によって遮断されただけでなく、北方からも大いに脅威を受けている」情勢を説明します。ここでマルティノー将軍から状況を聴取して来たボレル参謀長は将軍から託された書状を読み上げ、「第15軍団は麾下3万名中、既に武器を手にする者(ここでは戦闘可能で信頼に足る者、の意もあるでしょう)半数の1万5千に過ぎず」「部下は今後敵との衝突を命じられても戦闘準備を行うことはせず遁走する準備をするだろう」と正にこれ以上はない軍団の惨状を吐露するのでした。
ブルバキ将軍がこの言葉にショックを受けたとしても、それは序の口に過ぎませんでした。直後、各軍団長は堰を切ったように「我が軍団も」と声を上げ、第18軍団長のジャン=バティスト・ビオ少将は「麾下2万5千名中武器を手にする者1万6千」といい、第20軍団のジュスタン・クランシャン少将は「本官麾下はもっと悲惨」として「2万2千名中僅かに1万名」と吐き捨てました。既にドゥー川を渡ってスイス国境にほど近い地域まで進むと想像するブレッソル将軍の第24軍団に至っては想像するしかありません。ただ一人、軍総予備団を率いる海軍中佐(戦時昇進・戦地任命で准将扱い)パリュー・ドゥ・ラ・パリエールは「我が団隊は戦闘に至っても信用して頂いて結構」と陸軍に対する軽蔑を込め、語気を強めて発言するのでした。
軍高級指揮官たちの絶望・憤怒・混迷など様々な負の感情を目の当たりにしたブルバキ将軍は、胸に秘めていた「窮鼠猫を噛む」捨て鉢の一戦を吐露するのを思い留まります。そして将星皆が押し黙ると静かに語り始めました。
「事ここに至り、選択肢は少ない。今やオーソンヌに向かい突破を試みるか、またはポンタルリエに向かい退却すべきか、この二択しか残されていない。本官は後者の退却策を採ることが優位であると考える。この理由としては、このように疲弊した軍を従え攻勢に撃って出たとしても成功の望みは薄く悲惨な結果となることが見えているからだ」
そして居並ぶ将官達の顔を眺め回し、「意見を求める」
重い決断を前にして言葉少なく「ウイ」と答える者、反感あるもののやむを得ないと黙る者など諦めの空気が場を支配しますが、ここで「反対」と手を上げたのはただ一人ビオ将軍でした。
ビオ将軍は立ち上がると「軍は断固オーソンヌに向け突破作戦を実行すべきです。手遅れになる前に」と声を荒げます。するとブルバキ将軍は精気の失せた目でビオ将軍を見上げると「もし貴官が第18軍団を以て再びドゥー下流域に進出するのであれば、本官は喜んで全軍貴官に続くよう命じるのだが」
するとビオ将軍は首を激しく横に振ると「司令官もお分かりのはず。このように不利な突破作戦では全軍による渾身一擲、一挙攻勢が絶対に必要なのです」と反駁しました。
するとブルバキ将軍は「ならば本官は直ちに辞任して東部軍の指揮を貴官に譲ろうではないか」そしてやや声を強め、「本官は先の突破策を自ら命じることなど出来ない」
深と静まり返る中、やがてビオ将軍はブルバキ将軍を睨み付けていた視線をつと外し、「それは叶いません」そして力なく座ると「このような難事においては司令官(ブルバキ)のように経験豊かな将軍にして初めて事を成すことが出来るのですから」
仏東部軍はこの24日夜、ポンタルリエ方面への退却行を決めたのです。
ビオ将軍
この時、ボルドー国防政府派遣部はブルバキ将軍に対し迫る独軍に対する突破作戦を即時実施するよう催促していますが、ブルバキ将軍はこの電信の返信として、ポンタルリエへの退却行軍を決したことを知らせました。フレシネは相変らず実態を無視した実行不可能な命令を送り、それに返答するブルバキ将軍は抗命と受け取られても仕方がない憤怒と諦観が滲む電文を認めたのです。
※1月24日午後・ボルドー派遣部フレシネ陸軍大臣代行とブルバキ将軍との往還電信
「1871年1月24日午後1時59分ボルドー発
陸軍省発信 宛 在ブザンソン・ブルバキ師団将軍
本官(フレシネ)は貴官(ブルバキ)らがブザンソンとその周辺に何時までも留まるのは大いに危険であると断じるものである。同地方での滞在は貴軍がただ衰弱するのみに終わると本官は考える。従って貴官は全力を挙げて現在地を脱出し、第15・第18・第20の各軍団により鉄道に頼らず直ちに徒歩行軍を実行し可及的速やかにヌヴェール(ブザンソンの西約220キロ)へ向かうこと、更に良いのはオーセール、ジョワニー、トネール等を解放すること。貴官らがこれら地方に到達したならば本官が予め手配した2万の兵団が迎えてくれるだろう。
この作戦を行うに当たってはどのような行軍路を採るか等詳細は敵がどのような展開をしているか、また戦地の地形等により貴官自ら決定するのが自然であろう。ただしこの作戦の成功には、ドールを奪還しディジョンの安全を確保しブザンソン以北において鉄道運行を我が軍の意のままにすることが求められる。
貴官は貴軍がこれら作戦行動をするために援護としてクレメー、ブレッソル両軍団(クレメー麾下は師団)に対し最良な陣地に構え援護を実施するようすべきである。
終わりに当たって重ねて貴官に注意する。本官の本意は貴官のため前記三個軍団を直率し迅速に行動することにある。
ドゥ・フレシネ (筆者意訳)」
林間を行くズアーブ兵(銃が旧式タバティエール銃)
「1871年1月24日午後7時50分ブザンソン発信
発 在ブザンソン・ブルバキ師団将軍
宛 在ボルドー派遣部陸軍省
閣下(フレシネ)は本官(ブルバキ)よりの更に詳細な報告に接することにより、そこで初めて本官が緩慢に動いていることの理由を知って本官を責めたことを後悔するものと思います。今や軍人、馬匹共に疲労の極限に達しているとはいえ、本官は前進するにも退却するにも未だ最善を尽くし時間を無駄にはしておりません。
本官は諸軍団長と協議を行いましたが、諸官はみなポンタルリエへ至る諸街道を進むべきであるとの意見であります。これは実に我が軍所属の軍人個々人の体力と志気とを鑑みてのことであり、現在実行可能な唯一の方法であります。12月頭初より我が軍が遭遇した様々な困難は概ね閣下が想像なさる以上であると確信します。本官はカンジェーとムシャールとを敵より先に確保するため列車にて1個師団(実際は1個旅団でした)を送り、他の1個師団をビュジーに送りこの2個師団をマルティノー将軍に任せましたが敵の攻勢により後退を余儀なくされてしまいました。本日(24日)本官はドゥー右岸(北岸)の自軍陣地の状況を検閲しましたがその最中、参謀長のボレル准将はル川の橋梁でビュジーに近い数本を確保するために自ら出陣したいと述べたため、(旧知の)第15軍団一部を任せました。
ドール、カンジェー、ムシャールの各地には敵の第2、第7二個軍団がおり、本官はこれらの敵から防衛に適する部落、地点とポンタルリエに至る街道を押さえるため、明日なるべく迅速に3個師団を出立させようと考えます。
もし閣下がこの処置を気に入らない場合、本官はこれに代わる作戦を持ち合わせておりません。このような最悪の事態において司令官の重責を担うのは、実にその任に当たる者にとっての災禍となることを分かっていただきたい。本官は更にドゥ・ブレッソル将軍に命じてブラモン付近の高原とロモンの高地とを守備させ、同時にクレルヴァルに守備隊を置き、敵が再びドゥー川上流で渡河することを防ごうと考え、ここに1個師団を配置させましたが、たった今、同軍団より守備地を放棄したとの通報を受け、直ちにこれらの失地を回復せよ、と命じたところです。
閣下。もし閣下が諸軍団長で本官より優れる者がいると考えているのであれば、本官の更迭を遅延することなく行って下さい。本官が示した通りビオ、クランシャン、またはマルティノーの誰かを本官の後任とすればよろしい。ただし、ブレッソルと麾下の(第24)軍団は全く信頼出来ないことを申し添えます。
本官はこの重責に堪えることが出来ません。
ブルバキ(筆者意訳)」
ブルバキ将軍がこの「悲鳴」のような返信を送る前。
将軍はポンタルリエへの行軍準備としてブザンソンより南東方面へ進む場合の脅威を出来る限り防ごうと考え麾下に命じました。
既に「フェリーヌ城館会議」の前、24日午前中に第24軍団のドゥ・ブレッソル将軍に宛て「ロモン山地の諸隘路とドゥー川上流の諸渡河点を守備するよう」念を押し、第18軍団はクレメー師団を伴い、第20軍団と共にブザンソンの郊外周囲に集合するよう、軍総予備団は第15軍団の後衛になるためブザンソン市内を通過してドゥー川を渡りブールまで至るよう、それぞれ命令されました。
しかしフレシネへの返信にも記してあった通りドゥ・ブレッソル将軍麾下の第24軍団諸隊は各守備地を放棄して南方へ撤退してしまいます(23日夜・独デブシッツ支隊の攻撃により。「リゼーヌ河畔の戦い以降の仏東部軍(1月23日まで)」参照)。ドゥ・ブレッソル将軍の本営もばらばらに「逃走」した麾下の統一指揮が困難となり、第24軍団はブザンソンの東部軍本営からも一時状況不明となってしまいました。
オルナン(ル川の橋)
ブザンソンのブルバキ将軍は前述通りストレスと重圧から心ここにあらずの感があり、既に周囲から「自殺するのではないか」と疑われてもいて、とても10万の軍を率いる状態ではありませんでしたが、何とか翌25日の命令を発しました。
※1月24日夕刻発令の仏東部軍1月25日のための命令
「1871年1月24日 在ブザンソン・軍本営において
第15軍団の第1並びに第2師団はビュジー、ショヌセ(ル川渡河点。ビュジーの南3.2キロ)、クールセル(カンジェーの東5.6キロ)の風車場(北郊外にありました。現存しません)並びにシャティヨン=シュル=リゾン(クールセルからは南南東に3.7キロ)の鉄工所付近(現在の部落)のそれぞれ拠点陣地を維持して、これら諸点を通過する街道を確保すること。
同軍団第3師団(ペタヴァン将軍)は明日朝オルナン、セ=アン=ヴァレ(オルナンの西5.4キロ)の北高地、エプニー(同西北西9.3キロ)周辺の高地中オルナン(東)側の部分に展開してル川の諸渡河点を監視・防御せよ。同師団は更にル川右岸を警戒しつつ部隊を送り、砲兵のため陣地を構築して左岸にも斥侯を送ること。
第15軍団の砲兵隊はピュジェ(ブールの南南西2.7キロ)西の高地に登攀して駐屯し同軍団騎兵はクレロン(オルナンの西南西6.9キロ)~オルナン間でル川を渡河してクラン=シュル=リゾン(クレロンの南南西7.3キロ)、エテルノ(クランの南2.1キロ)、デゼルヴィエ(エテルノの東3.2キロ)、ルニー(オルナンの南10.3キロ)、アマテ(ルニーの東3.8キロ)、そしてロンジュヴィル(アマテの東2.3キロ)を偵察し、なるべく偵察を終えたこの諸部落とボランド(ロンジュヴィルの西6.6キロ)に宿営せよ。
軍総予備団とクレメー師団並びに第20軍団の1個師団(後刻、第3師団が指定されます)は次の通り行動せよ。
1・軍予備団はヴロットの橋(ブールの北東1.6キロ付近にあるドゥー川の橋梁)を渡りアルギュエル(ブールの南1キロ)とピュジェを経由し高原に至りブザンソン~ポンタルリエの裏街道(現・国道D9~D102~D324号線)を通ってヴィレ=ス=モントロン(オルナンの北西6.2キロ)を経由しオルナンでル川を渡河してシャントラン(同南6.9キロ)、シレ(シャントランの南南西1.6キロ)、フラゲ(同西2.2キロ)で宿営に入れ。
2・クレメー師団はヴロットの橋を渡ってピュジェに至るまでは軍総予備団と同じ行軍路を使用し、ピュジェからはエブニー(クレロンの北北西4.2キロ)経由でクレロンに至ること。同師団は同地にて後命に従い翌26日、アマンセ(同南5.6キロ)又はオルナンへ直ちに移れるよう準備を成せ。
3・第20軍団の1個師団はクランシャン将軍麾下のまま独行し、最初にブザンソン周辺の諸橋梁に斥侯を放って確認した後、利用容易な橋梁を選んでドゥー川を渡河しモレール(ブザンソンの南東3.3キロ)~マミロル(オルナンの北10.3キロ)~ロピタル(マミロルの南東5キロ)を経てエタラン(ロピタルからは南東へ4.8キロ)に至り宿営せよ。
以上の三縦隊はそれぞれ前遠方に向かい偵察を実施しつつ相互の連絡を維持せよ。これら三縦隊はクレメー将軍の指揮下となり行動し、その後方7、8キロに続いて軽輜重縦列を随行させよ。
クレメー師団がヴロットの橋を通過後、先ずは軍総予備団の輜重、次いでクレメー師団の輜重の順で橋梁を通過すること。ドゥー川の通過を援護し尚且つ敵に渡河を覚らせないよう考えられる全ての方策を採るべし。
第18並びに第20軍団は前三縦隊が行軍を始めることで生じる弱点を補うためこれを援護し、また三縦隊が去った後の陣地を保持するため、適当と認められる手段を全て講じ、又、午後若しくは夜間に行軍を開始可能なように準備を行うべし。
第20軍団はそのままシャレーズ(ブザンソンの北東5.9キロ)の橋を守備し、行軍を起こして全て通過し終えたらこれを破壊せよ。軍団長クランシャン将軍は橋梁担当のマイヤール工兵大尉に対し事前に橋の破壊につき明記した命令書を与えること。
第18及び第20軍団は後命あるまで行軍を始めてはならない。その輜重縦列もまた同様とする。
明日出立する縦隊は各々前衛を出すこと。
この前衛は縦隊の出立前、その行軍前方を偵察する任務を有することとする。各隊の糧食は29日までの分を携行すべし。第18軍団が要求していた砲兵用馬匹30頭並びに第20軍団の要求する同馬匹40頭は現時点で支給することが出来ないが、出立迄にサン=フェルジュー(ブザンソンの西2.8キロ)にて用意するのでこれを受領せよ。
軍本営はブザンソンに留まる。
ピュジェ在の第15軍団本営マルティノー将軍は、軍総予備団が行軍予定のブザンソンからオルナンの旧街道の現状を事前偵察すること。もしこの街道が砲兵及び輜重が通行困難と判明した場合、これをパリュー准将に通報すること。この場合、砲兵と輜重はエプニーからカドメーヌ~セ=アン=ヴァレ~メジエールと通過して(現・国道D9~D101号線)オルナンへ至るよう変更せよ。但しこの砲兵隊及び輜重縦列が、このようにル川の上流地域へ進むのは、オルナン及びクレロンが確実に我が軍の支配下にあることを確認した後であること。もしこの街道筋が危険である場合、この砲兵隊及び輜重はエプニーからモントロン=ル=シャトー~メレ(=ス=モントロン)~ヴィレ(=ス=モントロン)~タルスネ(現・国道D102号線)を経てオルナン~ブザンソン街道(現・国道D67号線)に出よ。
クレメー将軍は訓令により相応の処置を行い、また軍総予備団を使用してル川左岸を確保可能か否かを決定するため、自ら先行しオルナンへ進むこと。
軍司令官
命令により 軍参謀長ボレル(筆者意訳)」
クレロン(城館とル川)
この命令により、各団隊諸隊は次々にドゥー川を越え、多少行軍に手こずったものの25日中に目標のクレロン、オルナン、エタラン付近にそれぞれ進みます。
26日。軍総予備団はオルナン付近へ到達し戦闘準備を完了、その騎兵隊はエタラン西の高原上に展開しました。
クレメー師団と第20軍団の第3師団は同26日、サラン=レ=バン北東方の山地に達すると、サラン=レ=バンからシャンパニョルへ至る街道(現・国道D467号線)とポンタルリエへ至る街道(現・国道D472号線)を警戒するため南西方向へ進みました。
軍命令によって軍総予備団と第20軍団の第3師団も併せて指揮することとなり、独第2軍団が迫るムシャール~サラン=レ=バン方面に面して東部軍の翼側を守って軍の後退行軍を援護する任務を受けたクレメー将軍は、自己の師団指揮を参謀長のプーレー大佐に一時委譲しました。
プーレー大佐は26日午前7時、サラン=レ=バンに向かい出立しますが、ナン=ス=サン=タンヌ(サラン=レ=バンの北東10.2キロ)付近に到達した時、サランから発した伝令により「サラン=レ=バンが独軍により陥落した」との急報を受けます。実はこの情報はサラン=レ=バンが降伏する前(午後早く)に発したもの(結果オーライです)でしたが、大佐の放った斥侯が帰還して報告するには「セーズネー(ナン=ス=サン=タンヌの西6.6キロ)付近で銃撃を受け、周辺住民の言ではマントイフェル将軍麾下がアルボワに2万名、サラン=レ=バンに1万5千名来襲している」とのことでした。このためプーレー大佐はサラン=レ=バン行きを断念し、師団に追従していた義勇兵中隊をナン=ス=サン=タンヌに残すと、他の諸隊を率いてヴィルヌーヴ=ダモン(ナン=ス=サン=タンヌの南南東4.9キロ)に進み、クレメー師団の後方を進んでいた第20軍団の第3師団は東へ退行してこの日はデゼルヴィエ(同北東6.2キロ)に至り宿営しました。
因みにこの日サラン=レ=バンで独第2軍団前衛と戦ったのは東部軍に属する部隊ではなく、ジュラ県の臨時護国軍諸隊と元から駐屯していたサン=タンドレ堡塁とブラン砦の守備隊でした。
サラン=レ=バン市街
東部軍で最も騎兵戦力が充実している(書類上は騎兵8個連隊)第15軍団の騎兵師団はサラン=レ=バンからロン=ル=ソニエ方向に対して警戒するため、ルヴィエ(デゼルヴィエの南南東6.5キロ)からノズロワ(シャンパニョルの東北東10.3キロ)に至る約20キロの騎兵幕を張り始めました。この警戒線は翌27日に完成し、ちょうどロラン准将によってブザンソンから「追い出された」臨時護国軍集団がこの面前を通過して行くのでした(「リゼーヌ河畔の戦い以降の仏東部軍」を参照下さい)。
麾下3個師団が統率なくバラバラに退却してしまったドゥ・ブレッソル将軍は24日、ドゥー川の諸渡河点とロモン山地の隘路(現・国道D73号線)を回復せよとの東部軍命令を実行するためボーム=レ=ダムへ戻ろうと考え、一緒に行動していたダリエ准将の第1師団をポン=レ=ムーラン(ボーム=レ=ダムの南3.3キロ)に向かって進めました。しかし同師団の前衛が独軍の前哨(独予備第4師団)を発見すると、戦う気力の失せた将兵は殆ど攻勢に出ることなく勝手に引き返し、師団本隊も軍団砲兵隊と共に何の手立てをすることなく一気にヴェルセル=ヴィルデュ=ル=カンプ(ポン=レ=ムーランの南15.8キロ)まで退却してしまうのでした。
一方、クレルヴァルの遥か南方にあった同軍団第3師団前衛も、師団長のカレ・ドゥ・ビュスロル大佐に率いられロモン山地直下の隘路へ進みましたが、そこに独軍の姿はなく、再び陣地を掌握します。しかし間もなくボーム南方から同僚第1師団が去ったとの通報を受け、孤立を恐れたビュスロル大佐は26日早朝、ロモン山の陣地を放棄してランドゥレス(ボーム=レ=ダムの南東13.4キロ)とピエール=フォンテーヌ(=レ=ヴァラン。ランドゥレスの南東7キロ)まで退却しますが、ここで待っているはずの師団残余は既に24日中、フュアン(ピエール=フォンテーヌの南9.7キロ)を経てスイス国境に近いモルトー(フュアンの南8.5キロ)に向かい出立していたのです。
ブルバキ将軍は命令実行もそこそこに退却してしまった第24軍団の有様を知り、同軍団に対し26日には軍団を立て直し、ドゥー川を渡ってボーム=レ=ダムの南方へ進出した独軍を再度攻撃するよう命じました。同時に、第18軍団をブザンソンから第24軍団の援軍として向かわせることも決します。ところが、第18軍団はドゥー川を渡河するだけで半日以上を費やしてしまうのです。これは街道が凍結して行軍が思うままにならなかったためでした。軍団長のビオ将軍はこの状況から再びオーソンヌへの突破(しばらくは川を渡らずに済みます)を上申しますが、ブルバキ将軍は心ここにあらずと言った感じで取り合いませんでした。軍団は一部が日没前にブクラン(ブザンソンの東16キロ)まで辿り着きますが、ここで独軍の斥侯隊と遭遇し追い払ったものの、日没となったため逃げる敵を追うことまでは出来ませんでした。
ドゥ・ブレッソル将軍もブルバキ将軍からの叱責に近い命令でヴェルセル=ヴィルデュ=ル=カンプにあった第1師団を直率しパッサヴァン(当時独予備第4師団本隊のいたサン=ジュアンから南東へ2.6キロしか離れていません)に向かい前進しつつ第18軍団が現れるのを期待しましたが、その道中会合することはありませんでした。また、師団の各級指揮官たちは口々に「このような状態では敵と戦うことなど不可能です」と訴え、また「もし将軍が攻撃を強行するのであれば部隊は壊乱すること間違いありません」と強く進言する者もあり、厭戦気分が高じて下手をすれば反乱状態にも発展しかねない異常な雰囲気に呑まれたブレッソル将軍も、これ以上敵に接近するのを諦めて再びヴェルセルへ戻ると、留まることなくポンタルリエ街道(現・国道D461号線)まで退却してしまうのです。
同軍団第3師団もこの26日、ドゥ・ビュスロル大佐が率いて再びドゥー河畔に向けて前進を図りますが、その前方からは何も戦場音が聞かれなかったため少時で前進を止め、百八十度転向すると全師団を挙げてポンタルリエ方面へ行軍し去ったのです。
この間、コマーニュ准将率いる同軍団第2師団は軍団の意向や軍本営からの命令一切を顧みることなく退却を続け、既にモルトー(ポンタルリエからは北東へ25.5キロ)に達しており東部軍で一番安全な場所(独軍から一番離れた場所)にいたのでした。
この様に、当時の仏軍高級指揮官たちは部下を信頼出来ず、敵と遭遇し戦闘状態になることを殊更恐れているようでした。
東部軍 悲惨な行軍
この様に26日午前になってもことごとくが上手く行かないブルバキ将軍は、鬱の感情に囚われたままブザンソンの本営で続々と集まる情報を精気の失せた目で眺めていましたが、その中に再びボルドーからの命令電信(1月25日午後2時30分発信)があり、フレシネは未だ東部軍の現状に目を背けたまま「夢」を命じ、その末尾には「先ずは全ての麾下諸隊を集合させること。貴官(ブルバキ)とガリバルディ将軍麾下とが合流するためにはドール、ムシャール、グレー、又はポンタルリエを突破するための十分な兵力が必要となるからである。この突破成功には先ず第24軍団とクレメー師団とをガリバルディ軍団と合流させ、その後貴官は本官(フレシネ)の発した電信中に示した各地点目標に向けて行軍せよ。もし貴軍の状況からとても長距離の行軍を行えないとしたのならば、貴官はシャニー(ディジョンの南南西50.8キロ)に進み同地に駐留するか現地で列車を調達し麾下を乗車させよ」とあったのです。
既に西と南を塞がれドールはおろかムシャールも奪還するのは不可能、グレーに至っては夢物語にもなりません。ポンタルリエに近い第24軍団とその西にあるクレメー師団を「露払い」(というよりは捨て駒)にしようとの意図も現実を無視しており、シャニーなどブルバキ将軍に取っては銀河の果てと同様に思えた事でしょう。
このフレシネの電文は精神的に追い込まれていたブルバキ将軍の心を「折る」に十分だったと思われます。
いくら突破戦闘は不可能と説いても、自ら重責は負えないと訴えてもフレシネは耳を貸さない、と考えるしかなくなったブルバキ将軍は完全にボルドー派遣部を信用出来なくなりました。同時にブルバキ将軍は第18軍団のドゥー渡河を視察に訪れましたが、渡河は街道や橋の凍結で緩慢に進み、行軍する兵士は誰もが疲弊しまるで幽鬼の群れであり、これを見たブルバキ将軍は何も言わずにブザンソンへ帰ってしまうのでした。
この日の昼過ぎ。ブルバキ将軍は自らの解任を申し入れる電信をボルドーに打ちました。
夕刻。将軍は本営の自室で自分の頭を拳銃で撃つのです。*
ボルドー派遣部はこの夜、第20軍団長のクランシャン将軍に東部軍司令官の職を引き継ぐよう命じる電信を送ります。この電信には第24軍団長のドゥ・ブレッソル将軍の更迭も記されており同軍団長の後任は(何故かさっさと逃げ出した)ジャン・コマーニュ=ティボディーン准将が任命されるのでした。
クランシャン東部軍司令官
謀らずも東部軍を率いることになったクランシャン将軍は、悲惨で勝算の無い状況下で10万余りの軍の行く末を決めねばならなくなります。
既述通り東部軍の約半数は「役に立たない」とされ、それ以外の兵員も信用に足る者は微少に過ぎず、クランシャン将軍はどうしたらこの軍を率いて行けるのか考えた結果、次のように現状を捉えました。
つまり「もし東部軍が敵中を突破することを望むなら、それがオーソンヌからディジョンに至るにも、カンジェーからロン=ル=ソニエへ至るにも必ず全兵力をブザンソン要塞の庇護下に集合させる必要があり、これはとても独軍に覚られず実行することは不可能で、この集合を実行するための糧食も十分に得られないため、軍は数日を経ずして崩壊状態に陥ること必至と言える。しかも東部軍の攻撃力は現状全く微力に過ぎず、これも大いに懸念事項である。このため、策は前司令官の作戦を踏襲するしかない」と。
つまりはポンタルリエへの行軍を継続して実施することを決するのでした。
クランシャン将軍はこのように前途多難で絶望しかない今日、軍を率いる不運を嘆きますが、今や軍司令官を辞退するには状況が不安定で返って混乱を増長すると考え、1月27日早朝から覚悟してこの重責を負うのでした。
冬の行軍(ポール・エミール・ブティニ画)
ルゾンヴィルのブルバキ仏近衛軍団長(1870.8.16/Eデタイユ画)
こぼれ話 ブルバキの自殺未遂
第二次イタリア独立戦争(マジェンタとソルフェリーノなど。1859年)でフランソワ・セルテーヌ・ドゥ・カンロベル将軍率いる第3軍団第3師団長として大活躍し、1862年末、権力争いの果てに廃位されたギリシャ王オソン1世(バイエルンのヴィッテルスバッハ家)の後継を探す英・仏・露各国の思惑が交錯する中、ナポレオン3世から候補者の一人として立候補を打診されたもののこれを断った(結局デンマーク王子がゲオルギオス1世として即位)、という華麗なエピソードも持つ誇り高きブルバキ将軍。
普仏戦争勃発時、気鋭の将軍の一人として帝政フランスの近衛軍団を率いるという栄誉を受けますが、結果消極的と後指差される歯痒い指揮と、メッスの包囲から「謎の離脱」をし、亡命した皇后からも拒絶された挙句、共和派支配の国防政府派遣部のガンベタに頭を下げ軍に復帰、中道や左派勢力から疎まれつつも10万を号する東部軍司令官に就任しますが軍は崩壊、この波乱終焉の地がここブザンソンでした。
1月26日に至る数日前よりブルバキの周辺を固める幕僚、副官たちは将軍の激しい鬱状態に気付き心配していました。生真面目で自尊心の高い将軍が軍の有様とボルドー派遣部の無理難題で追い込まれ自殺するのではないか、と恐れていたのです。
側近の筆頭副官、ラウール・ナポレオン・フィリップ・ルペルシュ大佐を始めとする幕僚たちは将軍の携行拳銃を隠してしまい、様々な理由を付けて将軍が帯剣を除く武器を手にしないようにしましたが、将軍は26日の午後、視察に乗じてブザンソン市街に出ると、副官たち監視の目を逃れ密かに拳銃を手に入れようと銃器商人の下を訪れ民生用の拳銃購入を持ち掛けますが、この商人は将軍の異様な態度から自殺するのではと勘繰り、そのリボルバーを売ることはありませんでした。
それでも将軍の意志は固く、26日夕刻、属員の一人から拳銃を手に入れると自室に籠ります。将軍は窓にカーテンを引くと右手で拳銃を持ち、こめかみに銃口を当て左手で銃が跳ねないよう銃身を握りました。
午後7時ちょうど。ブルバキ将軍の居室から一発の銃声が轟き、副官の一人ドゥ・マッサ大尉とノゲ軍医が慌てて駆け付け、大尉が鍵のかかる部屋のドアを破り、室内に飛び込むと将軍が頭を血だらけにしてベッドに伏しているのを発見します。
床に落ちた拳銃と発砲炎で火傷した左掌が全てを物語っていましたが、将軍はまだ生きており、軍医が声を掛けると苦し気に返事をしますが、「私が誰か分かりますか?」との問い掛けに将軍は知っているはずの名前を言うことが出来ませんでした。
将軍は急ぎ担ぎ込まれた市内の病院で診察を受け、ノゲとマティス二人の軍医が驚いたことに、12mmの弾丸は右側頭部に穴を開けたものの貫通せず頭蓋骨に平板となって張り付いて残っていました。この不良品の鉛で作られた(と思われる)銃弾は3、4センチの幅で生え際まで傷付けていましたが、マティス軍医が側頭部を切開し慎重に銃弾を取り除くと、頭蓋骨は陥没もなく骨折すらしておらず、弾丸も砕けずに完全に取り除くことが出来たのです。
将軍は弾丸が頭蓋を叩いた際の脳震盪で一時失語症となり記憶の一部を消失し健忘症になったようでしたが命に別状はありませんでした。奇跡的に助かったブルバキ将軍は2月20日までブザンソンで療養を続けました。
これでブルバキ将軍の戦争は終わりましたが、自殺未遂があった(軍としては職務放棄として軍事裁判ものであり、自殺を許さないクリスチャンとしては非難されるものです)ことは不問に付され、71年6月、ガンベタやフレシネらの仕打ちを知る時の大統領ティエールと陸軍大臣ドゥ・シッセによって新生仏軍第6軍団長に押され(名誉回復のためでしょう)、直後リヨンの軍事総督に異動任命されるのです。
ブルバキ将軍は1881年4月22日に退役し97年9月22日、スペイン国境に近いカンボ=レ=バンで亡くなっています。享年81歳でした。
バイヨンヌの墓地にあるブルバキ将軍の墓




