独南軍の合同
☆ 1月24日・ボーム=レ=ダムの占領
フォン・マントイフェル騎兵大将率いる独南軍本隊である第2、第7両軍団がブザンソンの西と南西を抑えた24日。
フォン・ヴェルダー歩兵大将率いる第14軍団は、前日ロベルト・カール・フリードリヒ・ヴァラート大佐率いる混成支隊が狙い、その北郊外のオートショーで激戦を繰り広げたボーム=レ=ダムへの総攻撃を計画していました。
この作戦のため、同日午前10時までに男爵アレクサンダー・エデュアルド・クーノ・フォン・デア・ゴルツ少将率いる独立混成兵団はヴェルヌ(ボーム=レ=ダムの北5.2キロ)に、フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュメリング少将率いる予備第4師団はヴォイヤン(同北東5.5キロ)に、それぞれ前進するよう命じられます。但しヴェルダー将軍は、どこに敵が潜むか分からない状況から後方への警戒を怠らぬよう、予備師団の後衛をイル=シュル=ル=ドゥーとソワ(イル=シュル=ル=ドゥーの西6.4キロ)に残すよう命じてもいます。
軍団右翼となるBa師団はその一部をメザンダン(ボーム=レ=ダムの北8.7キロ)へ送り戦闘準備を整えるよう、その他はオニヨン川の両岸に展開してリオからコルセル=フェリエール(ブザンソンの西16.2キロ)までの広い範囲に斥侯を放つよう命じられました。
こうして独第14軍団はボーム=レ=ダム攻略の準備を成して24日の朝を迎えましたが、未だ明けない午前4時、仏軍(第15軍団ペタヴァン将軍師団)はボーム市街を放棄して南郊のクルにあるドゥー川の街道橋を渡り、直後にこの橋を爆破、南方に去ってしまうのでした。
※1月24日のボーム=レ=ダム攻略Ba師団派遣隊
○Ba第5連隊・第1,2大隊
○Ba第6連隊・F大隊
○Ba竜騎兵第3「カール親王」連隊・第4中隊の半数
○Ba野砲兵連隊・重砲第1中隊、軽砲第2中隊
ここでヴェルダー将軍は選択を迫られることとなりました。これはボーム市街を占領しドゥー沿岸を抑えたことで、一にはこのまま全軍渡河して敵を追撃するか、二には沿岸を抑えたままマントイフェル将軍の次なる命令を待つか、という二択です。委任命令を遵守する独軍士官としては一の間を置かず追撃に移ることが最適に思えます。事前の命令でも「第14軍団は敵の後方を激しく追い求める」ことが示されていました。しかしヴェルダー将軍はここで「今後の進行についてマントイフェル将軍の次なる命令を待つ」とするのです。
この判断について独公式式戦史では、「第14軍団がこのままドゥーを越えて前進することは敵が急速に退却したことで状況に適さなくなった」とし、「加えてこのドゥー川南方地方では軍の行動並びに給養に困難を覚えることとなる」として、ヴェルダー将軍はこれを察知したからこの方針に決めた、としています。因みにこの時点(24日夕刻)ではヴェルダー将軍は未だ22日発令の南軍命令を受領していません。また前日夕刻、電信により「22日にペスムより命令を送付した」との予告を受けていたため、ヴェルダー将軍としてはこの「鬼将軍マントイフェル」の命令を待たずに行動するのははばかられたのでしょう(既述通りヴェルダー将軍は独断で大本営に命令を求めたことによりマントイフェル将軍から「叱られて」います)。
休養少なく行軍し戦う第14軍団将兵としてはありがたいことだったのかもしれませんが、軍団本営としてはここで無駄な時間が費やされるのでいらいらしたことと思います。しかし幕僚たちがほっとしたことに間もなく正午頃、ヴェルダー将軍宛に件の命令が到着し、これは「これまで以上に攻勢を取り仏東部軍の後退行軍を抑止し、特にモンボゾン付近に在すると思われる敵の兵団がグレーに向かうのを阻止せよ」との主旨だったのです(「普仏戦争/プイイの悲劇・独南軍のドゥー沿岸展開」を参照ください)。
ちょうどその頃(正午)、フォン・デア・ゴルツ将軍とその兵団はボーム=レ=ダム市街を占領します。報告を受けたヴェルダー将軍はフォン・デア・ゴルツ将軍に対し更に西へ前進するよう督促を入れ、Ba師団にも西へ転進するよう命じました。しかしこの際、「オニヨンとドゥー河川間の起伏と森林に富む山地は回避しつつ進むよう」訓令しています。これは仏軍が森や高地に大規模な障害物や防御を設けていることを斥候や諜報から得ていたからでした。
同時にヴェルダー将軍はフォン・シュメリング将軍に対し、「フォン・デア・ゴルツ将軍に代わり予備第4師団をボーム市街へ入城させるよう」、また「居残るBa架橋縦列の助けを借りてドゥー川に架橋するよう」命令を下しています。
この架橋工事が竣工する前、シュメリング将軍麾下のトールン後備大隊の1個中隊が爆破されたクルの橋に長梯子を掛けて渡河を強行し、これに成功すると南行してポン=レ=ムーラン(ボーム=レ=ダムの南3.3キロ)に接近しました。しかし仏軍は既にこの高地際の部落から撤退しており、ヴェストプロイセンの後備兵たちはその先の街道隘路にも既に敵の姿が見えないことを発見するのです。
シュメリング将軍はボーム市街やその周辺の住民の尋問から、この地区に居たのは仏第20軍団と第15軍団の一部で、1月22日にはその全てが、翌23日にはその一部がこの地に居残っており、その撤退方向はブザンソンであることを知るのです。
この日ボーム=レ=ダム周辺では30名の仏落伍兵が捕虜となりました。
この日の午後、フォン・デア・ゴルツ将軍と麾下兵団は休む間もなく西へ進み夕刻にはルラン(ボーム=レ=ダムの西南西10.6キロ)に到達しています。
Ba師団もこのルランとアヴェレ(ルランの北北東12.5キロ)との間に宿営地を設けました。このうちBa第1旅団はオニヨン川を下流側へ進み、先行したスティックラー・フォン・グリュンホルツィッヒ少佐が率いるBa竜騎兵第2連隊の2個(第2,3)中隊はリオ(本隊の居るアヴィレから西へ15キロほどあります)に入って市街地を占領しました。
この間、シュメリング将軍も麾下予備師団本隊によりボーム=レ=ダムとその周辺を押さえて宿営させ、後方ソアにはダンツィヒ後備大隊に予備槍騎兵第3連隊第1中隊から1個小隊を付け守備隊とし、イル=シュル=ル=ドゥーにはロベルト・フォン・ツィンメルマン大佐の支隊を残して軍団後衛としました。
ズアーブを捕虜にする独槍騎兵(クリスチャン・シェル画)
☆ 1月25日
翌25日。フォン・ヴェルダー将軍はBa師団とフォン・デア・ゴルツ支隊のそれぞれ前哨によってヴォルレ=シュル=ロニヨン(リオの南南西10.2キロ)とエテュ(ヴォルレ=シュル=ロニヨンの西北西6キロ)を結ぶ線の北側へ進出させ、本隊はリオとその周辺まで進ませました。この間、スティックラー少佐のBa竜騎兵2個中隊はギー(リオの西19.5キロ)まで進んでいます。
この竜騎兵たちはオニヨン河畔下流域を偵察し「河畔に敵影なく橋梁は殆ど爆破・落橋されている」と報告しました。
Ba師団左翼側(南方になります)ではBa第1旅団が南軍本隊のパン守備隊(フォン・ブレーデロウ少佐が指揮する第77「ハノーファー第2」連隊・第1大隊主幹)と連絡を通し、Ba第2旅団は予備第4師団との連絡を持続させました。
また、軍団はこの日から後方連絡線をブズールを経てエピナルへ向かう線に変更し(南軍本隊と一緒です)、ヴィルセクシュエルとリュールに留め置いた連絡線守備隊(Ba第5連隊のF大隊とBa竜騎兵第2連隊の第4中隊)を本隊へ呼び戻すことが出来るようになりました。
この日はイル=シュル=ル=ドゥーとボーム=レ=ダムでそれぞれ軍仮設橋が完成しています。予備第4師団の本隊は短時間の戦闘で居残っていた仏軍後衛をサン=ジュアン(ボーム=レ=ダムの南7キロ)から駆逐し、完全にドゥー川南岸に移りました。なお、ツィンメルマン大佐の支隊は変わらずイル=シュル=ル=ドゥーに残ります。
予備第4師団25日の損害は戦死2名・負傷8名でした。
仏東部軍がベルフォールとモンベリアールに対して影響を及ぼす可能性が消えたため、ヴェルダー将軍はベルフォール攻囲網を指揮するハンス・ルートヴィヒ・ウード・フォン・トレスコウ中将(1月18日に昇進)に対し「敵はボーム=レ=ダムから撤退した。そのためブラモン(モンベリアールの南14.3キロ)からも撤退したと思われるので確認するよう」命じました。トレスコウ将軍はこの任務をドゥー川上流域を管轄するヨハン・オットー・カール・コルマー・フォン・デブシッツ少将に任せ、将軍はこの25日に麾下と共に前進し軽微な抵抗を受けるもののブラモンを占領、その西のドゥー渡河点・ポン=ドゥ=ロワド(ブラモンの西6キロ)には未だ仏守備隊が居ることを確認した後、損害無く元のエクサンクール~クロワの陣地線へ帰還しました。
この日の午後、ヴェルダー将軍はマントイフェル将軍にここまでの行動を報告書にまとめ送り出しました。しかし、これらの行動は22日の南軍命令に則していたものの、その後24日に各軍団長へ達した「一般訓令」(前項で詳述しています)からは逸脱していました。この一般訓令はこの日午後にヴェルダー将軍の下へ届きます。
マントイフェル将軍は前日、この訓令を記した時点で「第14軍団はドゥー川に沿って敵に接触しつつ追撃しているはず」と信じており、そのため「仏軍がポンタルリエ方面へ退却する場合にも素早く状況を捉え行動するはず」と期待していました。しかし既に仏軍の多くがドゥー南岸へ逃れたこの状況で、第14軍団中このドゥー南岸に進んでいたのは予備第4師団本隊のみで、その三分の一に当たるツィンメルマン支隊は北岸遥か後方に在り、Ba師団とフォン・デア・ゴルツ支隊は遥か北方で西へ(即ち仏軍とは離れる方向に)急速に進んでいる、という現状です。これは仏東部軍がスイス国境沿いに南仏へ脱出することを許す恐れが出る状況でもありましたが、他方、第14軍団主力が第7軍団後衛と合流する動きでもあり、この兵力の集中もまた今後の対ブザンソン、または全軍総じてのジュラ山地進撃など作戦の選択肢を広げることにもなり得ました。
この状況を知ったマントイフェル将軍は25日の午後、ヴェルダー将軍に対し、「第14軍団は第7軍団と連携するため26日にはマルネーを経由して(第7軍団と連絡するように)行軍せよ」と命じ、フォン・ツァストロウ将軍には「第7軍団は第14軍団との連携が完了するまでブザンソンに面するその陣地に留まる」よう、またフォン・フランセキー将軍には「第2軍団はサラン=レ=バンに向かい前進し、ポンタルリエ方面を偵察せよ」との命令が下されるのでした。
☆ 1月26日・サラン=レ=バンの戦闘
第2軍団前衛*は26日、パニョーズ(サラン=レ=バンの北西5.6キロ)の南東数キロ地点で仏軍と遭遇し戦闘となります。ここはシャンパニョルへの街道(現・国道D467号線)とロン=ル=ソニエへの街道(現・国道N83号線)の分岐点であるムシャールの東郊外で、サラン=レ=バンの入り口にあたります。
ブラコン部落(南方)から見たサラン=レ=バンと左右の堡塁
※1月26日の第2軍団前衛支隊・行軍序列
支隊長 ハインリッヒ・ヴィルヘルム・オットー・ユリウス・フォン・コブリンスキー少将(第5旅団長)
◇先鋒隊(ヨハン・ヴィルヘルム・ヘルムート・フォン・ツィーミィーツキー大佐/擲弾兵第2連隊長指揮)
○擲弾兵第2「ポンメルン第1/国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世」連隊・F大隊
〇同連隊・第1大隊
○野戦砲兵第2「ポンメルン」連隊・軽砲第2中隊
○第2軍団野戦工兵第2中隊
○擲弾兵第2連隊・第2大隊
○竜騎兵第3「ノイマルク」連隊・第1,4中隊
◇本隊(フォン・コブリンスキー少将直率)
○第42「ポンメルン第5」連隊
○野戦砲兵第2連隊・重砲第2中隊
サラン=レ=バンの戦闘
先鋒のツィーミィーツキー大佐は敵発見の報を聞くと空かさず軽砲中隊を街道交差点(パニョーズの南東1.7キロにあるD471号線との分岐点)に展開させ、追って到着した重砲中隊もその隣に砲列を敷きました。両砲兵中隊は3キロ以上先のサン=タンドレ堡塁に対して遠距離砲撃を仕掛けましたが、相手は小高い山の上で、尚且つ要塞重砲を備え対抗射撃を行ったため野砲では手に負えず、短時間でパニョーズ南郊まで下がります。しかしポンメルン州の擲弾兵は山間に構える仏散兵や堡塁からの銃砲撃を冒して前進し、尖兵となったF大隊の第10中隊は堡塁へ続く山道を行き、他の3個(第9,11,12)中隊は街道上をサラン=レ=バン方向へ突進しました。特に街道を進んだ中隊は猛銃砲撃を浴びたため無視出来ない損害を被り、次第に小隊毎に散開して前進し、街道両側の険しい山腹に登って銃撃を避ける部隊もありました。時間経過と共に擲弾兵連隊は全ての大隊が攻撃参加することとなり、午後2時15分、鉄道線(現在廃線。国道北に沿ったカブルー通りとマルジアン通りが廃線跡です)に沿って突進した擲弾兵連隊第1,2,12中隊はそのまま終点となるサラン=レ=バン停車場へ突入して占拠し、第8中隊と続いて第9中隊も線路沿いに停車場へ入ります。街道からサラン=レ=バン郊外北1キロのサン=ピエール(小部落)へ突入したのは第11中隊で、間を置かず4個(第3,5,6,7)中隊がそれに続きました。また、第4中隊は堡塁に向かった第10中隊援護のため山道を進みます。
一方、フォン・コブリンスキー将軍は市街地に迫った擲弾兵連隊援護のため第42連隊の2個(第1、F)大隊と竜騎兵の第4中隊を直率して一旦サン=ティエボー(サラン=レ=バンの北北西3.7キロ)へ迂回しつつ裏街道(現・国道D270号線)からオルナン街道(現・国道D492号線)に出てサラン=レ=バンを目指しました。同時にオルナン方面を警戒するため第42連隊第2大隊をセーズネー(同北東3.7キロ)に送ります。コブリンスキー将軍は擲弾兵がサラン市街へ突入した後、ほぼ間を置かずに市郊外へ到達しました。
独軍に増援が到着したことを知った仏軍は抵抗少時で白旗を教会に掲げ、市長がサン=タンドレ堡塁とその反対側ブラン砦に急使を送って抵抗を止めるよう懇願したため戦闘は日没前に終了となりました。
その後、第42連隊の2個(第1、2)大隊は市街地で宿営に入り、他の諸隊はその南方で宿営してシャンパニョル街道(現・国道D467号線)とポンタルリエ街道(現・国道D472号線)に前哨を配置するのでした。
サラン=レ=バンで戦う独擲弾兵第2連隊兵
第3師団の本隊(第6旅団主体)は前衛が前進した後にパニョーズに進みますが、サン=タンドレ堡塁から要塞砲の遠距離射撃を受け始めたため射程外へ下がりました。その後には前衛から「増援を送る必要は無し」との戦況報告が入り、サラン=レ=バンが陥落するとこの日は前日と同じムシャールとヴィレ=ファルレに宿営するのでした。
なお、師団長のマティーアス・アンドレアス・エルネスト・フォン・ハルトマン少将はサラン=レ=バンで抵抗が止んだとの報告を受け、幕僚と共に市街へ騎行しコブリンスキー将軍らと会合しようとしますが、この時近くの民家から一住民が猟銃を手に飛び出し、近距離から師団長を狙撃しようと図りました。正に危機一髪でしたが、ここで師団長の隣にいた副官が咄嗟に飛び付いて相手を倒し取り押さえます。この住民は戦闘直後で興奮し師団長が襲われたことで激怒した兵士らによって殺害されてしまいました(何れにしても非戦闘員の参戦で銃殺される運命でした)。
この「サラン=レ=バンの戦闘」では独第2軍団に戦死15名・負傷96名・行方不明1名の損害が出ています。
エルネスト・ハルトマン
一方、第4師団は更にその南へ進んでアルボワ(サラン=レ=バンからは南西へ8.9キロ)を占領し、斥侯をポリニー(アルボワの南南西8.8キロ)とシャンパニョール(アルボワからは南南東へ20.3キロ)へ送りますが、彼らは仏軍を発見出来ませんでした。ところが、前衛としてポン=デリー(同東南東10.2キロ)に向かった支隊*は道中のイヴォリー(同東6.7キロ)で仏軍の糧食徴発隊を発見しこれをサラン=レ=バン(同地から北北東3.2キロです)方面へ撃退し追撃を図りますが、この先の高地下り斜面には雪が50センチ近く積っており逃げ足の速い仏兵たちを捕捉する事が出来ず諦めるのでした。
フォン・トロッセル将軍率いる支隊(この時師団は将軍の第7旅団だけです)は結局この夜イヴォリーとポン=デリーとの間の諸部落に宿営しました。
※1月26日の第4師団前衛支隊
支隊長 カール・ヴィルヘルム・アルベルト・デュ・トロッセル少将(第7旅団長)
○擲弾兵第9「ポンメルン第2/コルベルク」連隊・第1~6,8中隊
○竜騎兵第11「ポンメルン」連隊・第3中隊
○野戦砲兵第2連隊・軽砲第6中隊
○第2軍団野戦工兵第1中隊
*行李護衛
○擲弾兵第9連隊・第7中隊
第7軍団はこの日再び偵察斥候隊を複数派出しますが、各地で敵と接触し戦闘も複数行われることとなりました。
第13師団のフォン・ランゲン中佐は一偵察支隊*を率いル河畔を遡って前進し、カンジェー東のル川湾曲部内のシャルネ(カンジェーの北東6キロ)とその東対岸、そしてシャティオン=シュル=リゾンの城館(同南東8.8キロ)に仏軍が守備隊を置いていることを望見します。
シャティヨン=シュル=リゾンの城館(20世紀初頭)
ブザンソンの様子を確かめようとしたのはフォン・オステン=ザッケン将軍率いる4個大隊*で、カンジェーを発った将軍等はブザンソンに至る2本の街道を進み、ヴォルジュ=レ=パン(カンジェーの北北東7キロ)とビュジー(その先北東へ1.8キロ)には未だ多くの仏軍部隊が構えていることを発見しました。
※1月26日の第13師団ランゲン支隊
支隊長 ルイス・ヘルマン・フォン・ランゲン中佐(フュージリア第73連隊第2大隊長)
○フュージリア第73「ハノーファー」連隊・第2大隊
○驃騎兵第8「ヴェストファーレン」連隊・第2中隊
○野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・軽砲第5中隊の1個小隊
※1月26日の同師団オステン=ザッケン支隊
○第13「ヴェストファーレン第1」連隊・第2大隊
○第15「ヴェストファーレン第2/オランダ王国フリードリヒ親王」連隊・第1大隊
○第55「ヴェストファーレン第6」連隊・第2大隊
○猟兵第7「ヴェストファーレン」大隊
オステン=ザッケン隊はヴォルジュ=レ=パンとビュジーで仏第15軍団の一部と判明した敵と長時間に渡る銃撃戦を行い、戦死20名・負傷14名・馬匹4頭の損害を出した後、日没が迫ったためにカンジェーへ引き上げます。仏軍もまた同程度以上の損害を被ったものと想定され、他に捕虜50名を与えてしまうのでした。
第14師団もこの日ドゥー川北岸でブザンソン方面の偵察活動を行い、斥候隊は少数の捕虜を獲て引き上げて来ました。
第14軍団ではこの日、イル=シュル=ル=ドゥーに留まっていたフォン・ツィンメルマン大佐がヴェルダー将軍より「ボーム=レ=ダムまで前進せよ」との命令を受けますが、この命令伝達には時間が掛かりツィンメルマン大佐が命令を受領した時には夕刻となっていたため、命令実行を翌日に繰り延べました。大佐の放った斥候はドゥー上流のポン=ドゥ=ロワド(イル=シュル=ル=ドゥーからは南東へ15.9キロ)から敵が消えたのを報告しています。
フォン・シュメーリング将軍は予備第4師団本隊を率いてボーム=レ=ダムを発ち、サン=ジュアン(ボーム=レ=ダムの南7キロ)まで前進しました。その前衛はアイセ(サン=ジュアンの南南西3.1キロ)とパッサヴァン(サン=ジュアンからは南東へ2.6キロ)を占領し、それぞれオルナンへの街道とポンタルリエへの街道を抑え警戒します。同師団からはブザンソン方面へ偵察斥候が放たれ、ブクラン(ブザンソンの東16.1キロ)とエタラン(同南東21キロ)に至り初めて敵の姿を発見しました。同じくオルナンとウヴァン(ボーム=レ=ダムの南東12.4キロ)を偵察した斥候隊も仏軍と遭遇し短時間戦闘を交えた後に後退しました。
後方ソワにあったダンツィヒ後備大隊は予備槍騎兵第3連隊の第2中隊と師団砲兵隊の軽砲第2中隊から1個小隊(2門)を付加され、この日オニヨン河畔のラリアン=エ=ミュナン(ボーム=レ=ダムの北西11.8キロ)とその対岸のオラン、そしてルジュモント(ラリアンの南東2.9キロ)へ分散し宿営に入ります(大隊長プトロイタス少佐が指揮を執りました)。また同師団からは一支隊がドゥー沿岸を進み、師団と第14軍団との連絡を保ち続けました。
この日予備第4師団は約200名の捕虜を獲ています。
仏南東戦線・1月26日
第14軍団が今後左翼南側へ転進する可能性が高まったため、これを援護するのは先に進んだフォン・デア・ゴルツ将軍の兵団となります。同兵団はこの日命令通りヴォルレ(=シュル=ロニヨン)周辺とエテュ周辺に展開し、ここからブザンソン方面へ斥候を出しました。この斥候たちは夕刻までに帰還すると「シャティヨン=ル=デュック(ヴォルレの南3.6キロ)には敵の強力な部隊の存在がありその先、要塞都市近郊の諸部落にも敵を見かけ、特にサン=クロード(シャティヨン=ル=デュックの南5.2キロ周辺。現在の国道大カーブ付近にあった郊外部落です)には大兵力が集合しているとの情報あり」との報告を上げるのです。
フォン・デア・ゴルツ兵団の北方にあったBa師団は、リオに守備隊を置くと南西方向オニヨン川に向けて行軍を開始し、エテュの西からマルネーまでの間のオニヨン河畔に諸隊を展開させました。パン(エテュの南西6.5キロ)周辺に至った一隊はブザンソン方面の監視を行うと共にボナベンテュラ・フランツ・ハインリヒ・ゴスヴィン・フォン・ブレーデロウ少佐が指揮するパン守備隊と交代しました。
これによりブレーデロウ少佐は支隊を率いて親部隊(第14師団)へ帰還するため南下し、オードゥー(パンの南6.8キロ)経由でコルセル=フェリエール(サン=ヴィからは北5キロ)へ向かいます。この地で第14師団の左翼と連絡すると「行軍途上、プイエ=レ=ヴィーニュ(オードゥーの東4.8キロ)の東側に敵の集団を望見した」との情報を知らせるのでした。
この日、マントイフェル将軍ら独南軍本営(在ラ・バール)は諸般の状況と偵察斥侯報告から、仏東部軍はブザンソン防衛にそれなりの兵力を割いているものの、その主力は既にドゥー川を渡河して南岸にあることを確信し、今はドゥー北岸にある第7軍団もドゥー南岸へ送り仏軍主力と対決させることを決定します。また、マントイフェル将軍は23日に発生した「プイイの悲劇」につき詳細な報告も受けました。
将軍はこれまで「先ずは仏東部軍本隊を追撃して撃破し、その後にブザンソンやディジョンの敵と対する」との方針でいましたが、諸情報から「仏軍本隊との対決は現在ドゥー河畔と南方にある兵力で十分である」と断じて、ディジョンで軍旗を奪われたフォン・ケットラー将軍支隊(第8旅団中心)の親部隊・第4師団長のオットー・ルドルフ・ベーノ・ハン・フォン・ワイヘルン中将に対し、屈辱を晴らせとばかりに「師団を一時離れディジョン攻撃の指揮を執れ」と命じました。マントイフェル将軍はこの攻撃に使用する部隊としてケットラー支隊の他、フォン・ヴィリゼン大佐の支隊、フォン・デーゲンフェルト少将率いるBa第2旅団を中心とする支隊、そしてケットラー隊の東でディジョンを監視するフォン・ショーン少佐の支隊を指定しハン・フォン・ワイヘルン将軍の指揮下に加えるのでした。
ハン・フォン・ワイヘルン




