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独南軍ブザンソンを遮断せり


挿絵(By みてみん)

ブザンソン俯瞰図(19世紀末)


 独南軍本隊となる第2と第7軍団はブザンソンの北方と南西方に進んで仏東部軍の南下阻止を図りましたが、更に敵を追ってブザンソンの南方地方へ作戦域を広げようとすると大変な困難が待ち受けることとなります。


 仏南東部・スイスとの国境付近に起立するジュラ山脈はブザンソンの南方近くまでその支脈を延ばし、特にサン=マルタン=デュ=モン(リヨンの北東53.3キロ)から始まりロン=ル=ソニエ(ブザンソンの南南西72.1キロ)を経てブザンソン、ボーム=レ=ダムへと続く山脈はドゥー川下流域とソーヌ河畔に広がる平地に対してはっきりとした段差を作りその斜面はかなり急となっていました。

 この山脈の東側は大概が高原となっていますが、所々で横切るドゥーやソーヌの支流が深い渓谷を作り出し、多くが北東から南西に掛けて走るジュラの支脈がこの渓谷を複雑に蛇行させ、またその両岸は往々にして絶壁となって人々の通行を不能としていました。

 これら支脈の谷間にある天然の障害物・両岸が深く切り立つ渓谷はそう長くは続きませんが、南へ進む街道は限られており、10万近いブルバキ将軍ら仏東部軍がブザンソンからの南下を期すとなると、通行可能な街道はアルボワを経るロン=ル=ソニエへの本街道(現・国道N83号線)か、オルナン(ブザンソンの南南東17.3キロ)へ迂回しサラン=レ=バン(カンジェーの南18.2キロ)を経てシャンパニョル方面へ至る街道(現・国道D67~D492~D467号線)が本命となり、それ以外は既に仏第24軍団の一部が使用するモンベリアール~サンティポリット~ポンタルリエ街道(現・国道D437号線)を進み、ポンタルリエから先はロン=ル=ソニエを目指すシャンパニョル街道(ブザンソンから追い返された護国軍集団が使用中の現・国道D471号線)や、スイス国境に平行して南下するサン=ローラン=アン=グランヴォーへの街道(先のD437号線の続き)を使用することが考えられました。


挿絵(By みてみん)

サラン=レ=バン(左手にブラン砦)


 スイスとの国境至近の街・ドゥー川上流域の中心地でもあるポンタルリエはジュラ山脈中の主邑で、街道が四方から集まる交通の要衝でもありました。街の直ぐ南にはラ・クリューズ=エ=ミジューの部落(ポンタルリエの南南東4.2キロ)があり、その西郊にはスイス国境付近の交通を管制するジュー城塞(フォート・ドゥ・ジュー)とマレ城塞|(フォート・マレ・デュ・ラルモン・アンフェリュール)があります。この付近、深い渓谷に沿った街道の周囲は樹木が密生した森林と登攀至難な高地で、冬ともなれば30センチ以上の積雪が更に人馬の足を引っ張るのでした。


 1月23日時点で独南軍はブザンソンからロン=ル=ソニエへ通じる本街道上の要衝カンジェーを抑え、オルナンからサラン=レ=バンやポン=デリー(サラン=レ=バンの南7.8キロ)へ至る街道にも迫り、この街道も仏軍にとって最早安全とは言えなくなりました。


 これでブルバキ将軍ら仏東部軍が多少なりとも独軍の妨害なく南仏へ脱出出来る可能性が残ったのはポンタルリエへの街道だけとなります。フォン・マントイフェル将軍ら独南軍の最重要任務としては当然、このポンタルリエ街道やそれを補完するジュラ山脈内の林道を遮断することととなりますが、その前に仏東部軍が「窮鼠猫を噛む」の例え通りにブザンソン西と南側に展開し始めた独軍を襲い突破する可能性は捨て切れず、マントイフェル将軍ら独南軍本営としてはこの「憂い」を潰しておく必要がありました。


挿絵(By みてみん)

ジュー(右)とマレ(左)城塞/左下はラ・クリューズ部落


☆ 1月24日


 フォン・マントイフェル騎兵大将は1月23日夜発令の南軍本営命令に「明日(24日)、第7軍団が先ず成すべきは、ブザンソンより突破を図る敵をドゥー川の左右両岸何れでもこれを阻止することである。第2軍団はル川南方に沿って走るドール~サラン=レ=バン街道(現・国道D905~D472号線)上を前進し、前衛はムシャール(サラン=レ=バンの北西7.3キロ)に至ること」と記しました。


 明けて24日。

 第7軍団傘下の第14師団はヴィルヘルム・フォン・ヴォイナ少将率いる1個混成旅団(歩兵5個大隊・騎兵1個中隊半・砲12門)*をドゥー川左岸(南)へ渡し、ブザンソン南西の大森林「ショーの森林」(フォレ・ドゥ・ショー)の北端に当たるダンピエール(ブザンソンの西南西23.4キロ)とヴィラール=サン=ジョルジュ(カンジェーの北西4.8キロ)を結んだ線の北側となるドゥー川の湾曲部内に展開させ宿営させました。

 第14師団の残りは前哨を出して警戒しつつドゥー右岸(北)をダンピエールから川を挟んでヴォィナ支隊と連絡するサン=ヴィ(ダンピエールの東北東6キロ)とその周辺まで進んで宿営に入りました。


※1月24日の第14師団

◇師団右翼・ヴォイナ支隊

ヴィルヘルム・フリードリヒ・フォン・ヴォイナ少将(第28旅団長)指揮

○第53「ヴェストファーレン第5」連隊(第28旅団)

○第77「ハノーファー第2」連隊(第1大隊欠・第28旅団)

○驃騎兵第15「ハノーファー」連隊・第3中隊の半数と第4中隊

○野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・重砲第2中隊、軽砲第2中隊

◇師団左翼・本隊

男爵エルンスト・ヴィルヘルム・モーリッツ・オットー・シュラー・フォン・ゼンデン少将(師団長)直率

○フュージリア第39「ニーダーライン」連隊(第27旅団)

○第74「ハノーファー第1」連隊(第1大隊欠・第27旅団)

○驃騎兵第15連隊・第1,2中隊

○野戦砲兵第7連隊・重砲第1中隊、軽砲第1中隊(1個小隊欠)

○第7軍団野戦工兵第2中隊

◇オニヨン河畔/パン(サン=ヴィの北北東16.2キロ)守備隊

ボナベンテュラ・フランツ・ハインリヒ・ゴスヴィン・フォン・ブレーデロウ少佐指揮

○第77連隊・第1大隊

○驃騎兵第15連隊・第3中隊の半数

○野戦砲兵第7連隊・軽砲第1中隊の1個小隊(2門)

◇エピナル~ブズール間で後方連絡線を警戒しつつ行軍中(本隊復帰は2月5日)

○第74連隊・第1大隊


 前日(23日)に前衛支隊がカンジェー~アバン=デスを占領した第13師団ではこの日、本隊もカンジェー周辺に到着して宿営します。到着後、師団長のルートヴィヒ・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ボートマー中将は強行偵察隊を用意させ、この偵察隊はドゥー川左岸をブザンソン方向へ前進し、途中殆ど抵抗を受けることなく夕暮れ時にビュジー(ブザンソンの南西9.9キロ。カンジェーからは北東に8.5キロ)へ達します。ここで前方に数え切れない焚火や灯火を望見した彼らはカンジェーへ引き返すと「ブザンソンには未だ大兵団が存在せり」と報告するのでした。

 また別の斥侯は、カンジェーからオルナン方面を偵察しようと東へ進みますが、ル川の大湾曲部東側に強大な敵がいることを発見し、「ル川上流域にも兵団あり」との報告を上げるのです。

 一方、第13師団は右翼側を東進する第2軍団との連絡も図り、連絡隊をムシャールに向けて進めました。師団本隊の行軍中左へ離れたこの部隊はル川の湾曲部内を南下(現・国道D12号線を進んだと思われます)、ル川の渡河点ポール=レネ(ムシャールの北北東3.6キロ)で仏軍の守備隊を駆逐して夕刻前、ムシャール付近で第2軍団(第3師団)の前衛と無事連絡しました。


 この第2軍団は第3師団が命令通り前衛をムシャールに向けて前進させ、ドールから発した本隊はこの後方に続きます。この前衛は途中殆ど仏軍の妨害を受けず正午前後にムシャールに達し、続いた師団本隊も夜までにヴィレ=ファルレ(ムシャールの北西4.4キロ)に達して宿営に入りました。

 前日はペスムとドール間にあった第4師団主力(第6旅団主体)も第3師団を追い、ドールを経て南下するとル川を渡河した後に左折してモン=ス=ヴォドレ(ヴィレ=ファルレの西11.5キロ)周辺にまで至ります。軍団砲兵隊はその後方、スヴァン(モン=ス=ヴォドレの西北西4キロ)で宿営に入りました。


 フォン・ヴェルダー将軍麾下から南軍本営直轄として臨機に移籍したフォン・ヴィリゼン大佐率いる竜騎兵2個連隊と騎砲兵中隊は24日、フラン=ル=シャトーからモテ=ベッシュ(ペスムの東北東8.2キロ。フラン=ル=シャトーから27キロ程の行軍となります)へ移り、翌朝ペスムへ進みました。以降ヴィリゼン大佐は、ペスムとグレー間に展開するクネゼベック大佐の旅団も併せて指揮することとなります。


挿絵(By みてみん)

ペスム


 この24日、南軍本営はブザンソンへの攻勢拠点となったダンピエールに近いラ・バール(ダンピエールの西4.5キロ)へ転進しました。同時にマントイフェル将軍はシャティヨン=シュル=セーヌと南軍本営とを結んでいた連絡騎兵線(旧軍言うところの「逸騎哨」)を廃止します。これはヴェルダー将軍の第14軍団がドゥー沿岸まで達し南軍本隊にほぼ一日行程まで接近した結果、直接相互連絡が可能となったからでした。また同日、第14軍団の後方連絡線の防衛任務がロートリンゲン総督府管轄諸隊に移管されました。

 この日の独南軍本隊の損害は戦死6名・負傷9名・行方不明(捕虜)0名・馬匹1頭と少数でした。なお、この日遥か後方シャティヨン=シュル=セーヌ~ニュイ~サンスに至る後方連絡線の防衛任務に就いていた予備驃騎兵第1連隊の一部隊が仏義勇兵集団に奇襲され、士官1名・下士官兵17名・馬匹17頭が捕虜となる事件が発生しています。


挿絵(By みてみん)

義勇兵の待ち伏せに遭い捕虜となる独連絡騎兵


 この24日の時点で仏東部軍は正に絶体絶命の状況に陥っていました。


 当時ブルバキ将軍としては一縷の望みとしてなおもオーソンヌを目指し、ソーヌ渡河に成功したならばディジョンへ向かうことも夢見ています。

 しかしこれは将軍自身も内心では諦めていたと思われる通り絶望的で、もし東部軍がドゥー川に沿って西方へ突破を図ろうものなら、たちどころに第14師団本隊(第27旅団主体)と衝突し、これを退けたとしてもその先ペスムにはヴィリゼン大佐率いる竜騎兵「旅団」とクネゼベック旅団が控えていて、これらと戦っている間に第7、第2軍団の諸隊も順次南方から参戦して来ること間違いないところでした。

 既に言い尽くしている通りブルバキ「東部軍」なる集団は練成不足の寄せ集め集団であることも大きな欠陥ですが、それ以上に致命的だったのは糧食縦列の存在がないことで、糧食補給は南方リヨンからの鉄道に頼っていましたが、この鉄道線も既に独軍によって遮断されてしまい、糧食事情は悪化の一歩を辿っていました。また奇跡的にディジョンへの突破に成功したとしても、彼の地にいるガリバルディ将軍率いる将兵たちも状況は似たり寄ったりで、その糧食事情も全く東部軍と変わらなかったため、ボルドー派遣部のフレシネらが望む結果(東部軍とヴォージュ軍の合同)となったとしても皆ディジョンで「飢える」しかなくなるのでした。

 ならば、と独軍の後方連絡を狙ってがむしゃらに北方へ撃って出る(当時独軍は東部軍から見て東、西、南西を抑えています)のは自殺行為で考えられず、またブザンソンから動かない選択肢も、この要塞の糧食備蓄が心許なかったため、十万近い大軍の籠城はたちまち飢餓を呼ぶこと間違いなしだったことから諦めざるを得ないのでした。

 つまりブルバキ将軍が取れる唯一現実的な選択肢は、今なら「開いている」南東方向に突進し糧食が尽きる前に補給が受けられる可能性が残る鉄道線末端停車場まで至ることでした。その鉄道は当時ジュラ山脈内を蛇行しつつ進みスイス・ヌーシャテルへ至る国際鉄道線しかなく、ブルバキ軍に最も近い停車場はシャンパニョルかポンタルリエになりました。


挿絵(By みてみん)

仏南東戦線・1月24日


 マントイフェル将軍からすれば、前線にある仏の前哨兵などに惑わされることなく放って置き、ブルバキ将軍の意図を想像し主力の行軍方向を見定めることがこの際最も重要なこととなります。

 そこでマントイフェル将軍はこの日の夜、各軍団長に対して訓令を送ろうと考えました。

 この書簡は現在の状況を説明し将軍が考える仏軍が取り得る様々な行動に対する対処を命じるもので、同時に将軍は「諸団隊長は上官の命令を待つことで時機を逸することがないよう、独断専行して状況に対応すること」を強調しています。


※1871年1月24日・フォン・マントイフェル騎兵大将からフォン・ツァストロウ歩兵大将、フォン・フランセキー歩兵大将、フォン・ヴェルダー歩兵大将に宛てた書簡


1871年1月24日 ラ・バールにて

南軍命令


本日受領した報告による戦況は以下の通り。

第14軍団[予備第4師団の歩兵11個大隊を含む]は昨日モンボゾン~グレナン(イル=シュル=ル=ドゥーの南7.8キロ)の線上に達した(実際はモンボゾン~オートショー~クレルヴァル~ブリュッサンが前哨線となります)。本日の予定によればドゥー川の両岸に渡ってそれぞれボーム=レ=ダムの南北延長線上まで達するはずである。バーデン(Ba)師団は軍団右翼端で前進しリオ(ブズールの南南西23キロ)を経て第7軍団と連絡を通す予定となる。

ベルフォール要塞に対する包囲網には予備第4師団の一部(歩兵4個大隊)、予備第1師団、デブシッツ将軍の支隊が配置に就いている。攻撃重心であるラ・ペルシュ分派堡に対する対壕はダンジュータン~ペルーズの線に設けられた。

第7軍団は昨日短時間の戦闘でカンジェーの街道交差点を確保しブザンソンに対して防御工事を行い占領を確実とした。同軍団はカンジェー~ダンピエールの線にありドゥー川の右岸には前哨をブザンソンに対面したダンヌマリー=シュル=クレット~ルテル(ダンヌマリーの南4.5キロ)の線上に展開した。一方でオニヨン河畔に一支隊を配しこれによりブザンソン~グレー街道を監視し第14軍団との連絡を取っている。

第2軍団は3個旅団によりドールからヴィレ=ファルレへ行軍中で、本日同地よりヌヴィー=レ=ドール間に宿営する予定である。同軍団第4の旅団[クネゼベック大佐指揮]はドール~グレー間を警戒警備し順次オーソンヌ又はブザンソン方面に対する予定である。なお、この地方には第14軍団より分離したヴィリゼン大佐の騎兵旅団も到着する予定で本日フレンヌ(=サン=マメス)からボンボイヨン(ペスムの北東12.4キロ)を経てペスム方面へ行軍中である。

遠方、後方にはフォン・ケットラー少将の混成旅団があり、後方連絡線援護等の独立任務を遂行中で、モンバール~ディジョン間にて作戦中である。

敵、ブルバキ東部軍[第15、第18、第20、第24軍団又は第25軍団も]の主たる後退方向はブザンソンであり、現在主力の殆どがドゥー左岸に移った。ベルフォール近郊における3日間の会戦(リゼーヌ河畔の戦い)以来の損害は合計1万名に及ぶと思われる。敵は一昨日(22日)までは大軍でボーム=レ=ダムとクレルヴァルに陣を敷いていた。同じくブラモン周辺とその北方[デルからモンベリアールに対して]も無視出来ない数の兵力を展開していた。ブズールには昨日でもなお本隊より離れた集団が数個あるのを確認している。敵本隊の先頭はドゥー川とスイス国境との間に走る諸街道を行軍中であるのは確実であるが、果たして今何処に到達しているかは未だ判明していない。

21日、22日、23日と連続で第2、第7両軍団と戦闘した敵は殆どブザンソン在の護国軍部隊兵と義勇兵であった。これらの戦闘によって我が軍は大量の敵物資を鹵獲し、またドールとカンジェーを占領したため、敵がロン=ル=ソニエを経てリヨンへ至る最短の撤退路を遮断し、ブザンソンよりリヨンに通じる二本の鉄道もまた橋梁を破壊し線路を撤去するなどの破壊工作を行いこれを断絶した。

フォン・ケットラー将軍が21日に実施したディジョンに対する「強行偵察」は激戦となったが、この結果ガリバルディ兵団の兵力は少なくとも2万5千を数えること、そして重砲20門を備える砲台があることが明らかになり、捕虜500名を得ることが出来た。

第14軍団は明日25日にボーム=レ=ダムからブザンソン方向に一日行程を進むことから計算し、この状況から(敵の行動を)次の(ように分析し)判断を下す。

第一。敵は南方に退却行を続ける。しかしヴィレ=ファルレを経由する街道は既に我が軍により遮断されていることから、この場合敵はヴィル=ファルレとポンタルリエとの中間にある諸街道を進むはずである。これに対し第2、第7両軍団は直ちに前衛により敵の側面を突くか、または別動隊を配して敵の進路を遮断するようにすべし。

第二。敵はカンジェーとダンピエールを経由して(ロン=ル=ソニエ方向へ)突破を図る。この場合は第7軍団は1個師団ずつドゥー川の両岸に配し、これが阻止線となり、第2軍団はドゥー川両岸に置いて状況に応じて敵の後方より参戦すること。

前記第一と第二の場合に置いて第14軍団は北方より敵の後衛を激しく攻撃すること。

第三。敵はブザンソンからペスム方向へ進みディジョンのガリバルディ兵団との連絡を図る。このために敵はブザンソン~オードゥー(ブザンソンの西北西11.8キロ)、同じくパンまたはエテュ(同北北西14キロ)を経由する三本の街道を前進する。

この場合にはこれら街道に最も近い諸隊、即ち第14師団とクネゼベック大佐旅団が敵行軍縦隊の左翼に対し、またBa師団は敵右翼に対して各々前進して敵行軍を妨害阻止し、その他諸隊は状況に応じて全部または一部により先行した諸隊を援助し左右より進出して敵を包囲すること。

第四。敵は第14軍団に対して再び対面して攻撃する。この時は第2、第7両軍団は南方より敵を攻撃せよ。

第五。敵がもしスイス国境に向かい退却を図った時。我が三軍団は前衛によって敵を追撃しやがて全軍を挙げて敵に会戦を強い、または敵が国境を越えざるを得ないようにする。

第六。敵はブザンソンとその周辺に集合し留まり、我が軍の攻勢を待つ。この場合は我が軍は強固なブザンソン要塞に対し敢えて攻撃することはない。仏軍は長く耐えることは出来ず必ず攻撃に出ることであろう(糧食欠乏や戦意が完全に喪失する前に撃って出るはずと読んでいました)。

目下の状況から我が三軍団は直接に相互の援助を頼みとすることは不可能である。むしろその弱点故に、本官は前に掲げた諸条件において予め見解を諸官に示し、これをして以降各位が変移する戦況を見極めて速やかに対策を講じ、本官の発する命令を待つことなく随時独断専行を行うことを希望する。


 軍司令官 男爵フォン・マントイフェル

 フォン・ツァストロウ、フォン・フランセキー及びフォン・ヴェルダー各将軍宛(筆者意訳)


挿絵(By みてみん)

ブザンソン市街図(1899)


☆ 1月25日


 独南軍本営は24日夜、先のマントイフェル将軍による三軍団長に対する訓令以外に命令を発し、オニヨン、ドゥー両河川間における仏軍の作戦に関し「封じ込め」を確実とするため、ドゥー川左岸へ渡ったヴィルヘルム・フォン・ヴォイナ将軍の第28旅団を25日に右岸へ戻してダンピエールとオルシャン(ダンピエールの西6.3キロ)に展開させるよう、またヴォイナ支隊は一時マントイフェル将軍の直轄とし、その後方では第27旅団を前哨を置いていたサン=ヴィへ集合させるようにしたのです。


 25日早朝。マントイフェル将軍は大々的な偵察活動を実施させました。

 第2軍団では数個斥侯隊がサラン=レ=バン(ムシャールからは南東へ7.3キロ)、アルボワ(同南8.2キロ)、更にはポリニー(アルボワの南南西8.8キロ)にも進んで偵察を行います。斥侯隊はこのポリニーでは仏兵の姿を確認出来ませんでしたが、アルボワでは約400名(東部軍の状況から1個大隊と思われます)の歩兵と交戦し、これをサラン=レ=バン方面へ撃退しました。サラン=レ=バンには強力な部隊がおり、先の敗残兵はこの強大な守備隊に収容されます。


 サラン=レ=バンはル川支流のフュリーズ川が作る深い渓谷の中にあり、その西に聳えるサン=タンドレ山に同名の堡塁を備え、東側のブラン山にもブラン砦があるという難攻の街でした。サン=タンドレ堡塁、ブラン砦共々絶妙な位置にあり、サラン=レ=バンを通る街道はその南のブラコンで東と南に別れますが、ブラン砦はこの分岐点付近からも至近(直線で800m)で、西へ向かう北と南二つの街道(現・国道D105とD94号線)もサン=タンドレ堡塁から2キロ以内で完全に俯瞰されました。この通りサラン=レ=バンを攻略するには本格的な攻城部隊が必要で、多数の要塞砲も必要となってしまいます。当時サン=タンドレ堡塁とブラン砦には要塞砲と守備隊がおり、街自体にも2,000名の独立守備隊がいました。

 第2軍団の3個旅団はこの日、ムシャール~ヴィレ=ファルレ間に集合し密接して宿営しました。


挿絵(By みてみん)

サン=タンドレ堡塁(サラン)


 第7軍団もこの日命令に沿って斥侯隊を多数派遣し、第13師団では偵察隊が右翼側ル川に向かって前進し、同じくブザンソン方向にも偵察隊が派遣されます。このブザンソンに向かった2個中隊はヴォルジュ=レ=パン(ブザンソンの南西11.5キロ)で仏軍部隊と遭遇して戦闘となりました。この仏軍は歩兵3、4大隊と強力で砲も数門備えて独偵察隊に対し激しい銃砲撃を加えました。

 この戦闘はかなり激しいものとなり、圧倒されつつあった独偵察隊は救援に現れた諸隊*に収容され、独軍はここで暫く銃撃戦を続けた後にカンジェーへ撤退します。この戦闘では独軍に戦死17名・負傷52名・行方不明(捕虜)3名の無視出来ない損害が生じ、フュージリア第73連隊の中隊長男爵アドルフ・フォン・ビューロウ大尉が戦死しています。


※ヴォルジュ=レ=パンの戦闘に参戦した諸隊

*ブザンソン方面の偵察隊

○フュージリア第73「ハノーファー」連隊・第10,11中隊

*救援に進んだ諸隊

○第13「ヴェストファーレン第1」連隊・第2大隊

○フュージリア第73連隊・第5,9,12中隊

○猟兵第7「ヴェストファーレン」大隊・第3,4中隊


 第14師団の一士官斥侯はこの日、単騎ドゥー川右岸を前進してブザンソンからおよそ6キロの地点(アヴァンヌ付近と思われます)まで至りますが、ここまで目立つ仏軍部隊は見られず数人の「迷える兵士」を捕らえて引き上げます。ところがこの捕虜の尋問で仏軍の陣容がはっきりし、仏軍は第15、18、24の各軍団が依然としてブザンソン周辺に宿野営し、第20軍団だけが遥か南方に向かって後退して行ったことが分かったのでした(これは間違いで、南方へ独り離れていたのは既述通り第24軍団です)。


 この日の夕刻。独りオニヨン川沿岸のパンに居残っていたボナベンテュラ・フランツ・ハインリヒ・ゴスヴィン・フォン・ブレーデロウ少佐から報告があり、それによれば、「オニヨン河畔に見られた仏軍陣地から仏将兵が消え、一昨夜まで多く見られた野営の焚火も昨夜は全く見られなかった」とのことだったのです。


挿絵(By みてみん)

「忘れ去られた英雄」(銃殺されるスパイや義勇兵)ブティニ画




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