戦争の間奏曲(前)
ギッチンの戦いが収束に向かう6月29日の午後8時、ボヘミアの東、エルベ川の東岸プラスニッツ・カイレ(現・チェコ・ハイニツェ付近/ケーニヒスホーフ北東9キロ)に本営を構えたプロシア皇太子、フリードリヒ王子が夜の軍令を発しようとしていました。
それによれば、
「プロシア第二軍はこの数日奮戦し連勝、また強行軍を続けて来たので翌30日は休息の日としたい。明日朝、各軍団はエルベを渡河する準備を行い、渡河予定地の警備のために前衛を置くこと。その際敵と戦闘になりそうな場合は避けてよろしい。全軍の渡河は7月1日夜明けとする」
となっていました。
更に、最も北にいる第1軍団に、プロシア第一軍が既にイーザー川を渡って我々と合同しようと南下中なので、明朝騎兵を放って第一軍と接触し連絡を取ること、と命令します。
この辺り、電信だけでなく実際にも味方の情報を得ようとする皇太子の思慮深さが伺えます。
この命令に従い、プロシア第二軍の各軍団は30日を兵士の休息と補給に当てました。
この日、第1軍団はピルニコウ(ピルニーコフ)に、近衛第1師団はケーニヒスホーフとその周辺に、近衛第2師団はその北東3キロ、レッテンドルフ(コツベジェ)周辺に、第6軍団はスカリッツに、そして連日の激戦を勝ち抜いた第5軍団はグラドリッツ(ホウストニーコヴォ・フラディシュチェ)でそれぞれ待機に入りました。
一方、ギッチンで悔しい大敗を喫したオーストリアとザクセンの連合軍であるボヘミア軍は、29日深夜から30日早朝にかけてギッチンの南方へと撤退して行きました。
ミンチン(ミレティーン)、ホリク(ホジツェ)、スミダル(スミダリ)の町とその周辺は疲弊した敗残の兵が溢れ、なんとピレー旅団の一部はギッチンから40キロ以上離れたヨセフシュタット要塞にまで逃げ延びました。
ミュンヘングレーツで戦い、ギッチンでは予備に回っていたライニンゲン旅団は特に疲弊が激しく、この夜、他の旅団から自然と離れてしまい、後衛のような格好となってしまいます。
この旅団は明け方まで執拗なプロシア騎兵(予備騎兵軍団に所属する近衛の槍騎兵たち)の追跡、即ち「嫌がらせ」を受け続け、戦闘配備を解かずに退却したのでその緊張から更に疲弊の度を増してしまいました。
一方、規律を保っているザクセン軍の方はスミダルまで整然と後退し、そこで次の指示を待ちます。
その指示は30日午前11時、クラム=グラース将軍がホリクの町に落ち着いた後で発せられました。
それによると、
「後退した各部隊は単位毎に集合し、秩序を回復すること。明朝までにその損害を調べ、部隊を整えること。各部隊は補給をして、食料などが足りない場合は周辺の村落などから徴発してもよいこととする(戦時徴発法という法律がありました)。明朝2時(1日午前2時)に全軍ケーニヒグレーツ方面に向け出発する。部隊に付属する補助部隊は本隊に先駆けて出立すること」
となっていました。
ところがこの命令を発した直後、ホリク北方にプロシア騎兵が現れ南下中、との情報が入ります。未だ将兵は戦いの疲れが癒えず、これに対抗出来る部隊がありません。
グラース将軍は午後1時に再び命令を発し、全軍を更に8キロ南東のサドワ(サドヴァー)村周辺に向け後退させました。
この「プロシア騎兵」の正体はライニンゲン旅団を追跡していた近衛槍騎兵に過ぎず、もちろん彼らもホリクを占領するなどという命令は受けていません。こうしてわずか一千に満たない騎兵を恐れ、2万以上の軍勢が逃げて行ったのです。オーストリア軍はそこまで疲れ、また怯え切っていたのでした。
この更なる行軍で将兵は疲労困憊の極限に達してしまいます。また、輜重(しちょう)部隊(輸送補給部隊)はこれに先立って村々を通過し、延々と続く隊列を見たボヘミアの人たちは驚き慌て騒ぎ出したので、兵士たちが盗難や「危害」を加えられぬよう警戒しなくてはならず、オーストリア軍指揮官たちの苦悩は更に増すばかりでした。
この30日。ベネデック元帥のオーストリア北軍本営(司令部)はようやく開通した電信から入ってくる情報を整理するのに大わらわでした。
まず第3軍団から朝6時に連絡が入ります。
「我が第1軍団とザクセン軍はミンチンへ後退した。ザクセン王もミンチンにやって来た。ギッチンは既にプロシア軍に占領されている」
更に午前7時30分、
「第1軍団は糧食も弾薬も乏しく兵が疲弊しているので戦うことが出来ない。我々(第3軍団)の後方へ向かい露営している」
第3軍団のエルンスト親王は昨日夕方に来た第1軍団の伝令によりギッチンの戦いを知り、その後、深夜から朝にかけて自分の軍団の西側(ホリクやミンチン)に次々と第1軍団の敗残兵がやって来たのを確認、本営へ電信を送ったのでした。
ベネデックがクラム=グラースの敗北を確実に知ったのはこれが最初かと思います。
重ねてエルンスト親王は自分の副官を本営に送り、ミンチンやホリクの状況をじかに伝えさせました。
親王は騎兵部隊をミンチンに送り、軍団西側の防衛強化を図ります。同時に多数の騎兵斥候をホリク周辺に放ちます。
午後2時、親王は斥候たちの報告により、既にホリックにもオーストリア兵の姿はなく、逆にプロシア騎兵がホリク周辺に集まりつつあるのを確認しました。
親王は直ちに本営へ電信を発します。
「報告によれば敵の先陣は既にホリク近郊まで至ったという。既に報告の通り、第1軍団は我々の後方にあり、我々はダゥブラヴィック(ドウブラヴィツェ)からミンチンにかけて陣を敷いている。我々第3軍団は何をすべきか命令を求める」と。しかし本営からの命令はなかなか届きませんでした。
混乱は続き、第3軍団の一部がホリクより撤退して来た味方を砲撃するといった同士討ちまで発生します。オーストリア第1軍団は既に軍の体裁を失い、敗残兵たちは這々の体でケーニヒグレースを目指して去って行ったのです。
さて、三日間の激戦を勝ち抜いたシュタインメッツ将軍のプロシア第5軍団は、休息日に指定された30日も敵に対抗することを止めませんでした。
軍団主力がグラドリッツに到着するやいなや砲兵部隊が町の南に砲を並べ始め、西に野営するのが見えたオーストリア第2軍団に向けて砲撃を開始したのです。時に30日の早朝3時30分と言いますから、砲兵部隊はシュヴァインシェーデルの戦いから休みなしで行動を続けていたことになります。恐るべき闘志ですが、これは蜂の巣を突いたのと同じような反応を呼び起こしました。
オーストリア第2軍団はこの戦争で未だ戦闘に参加していない数少ない部隊で、味方が次々敗れる中、焦燥感を抱きつつ北上して来ました。司令官のカール・グラーフ・ツーン・ウント・ホーヘンシュタウフェン中将は直ちに砲兵部隊で応射するよう命令します。また、これと連動して第2軍団の隣に野営していたオーストリア第4軍団の一部も警戒態勢に入りました。
ツーン・ホーヘンシュタウフェン
この砲兵対砲兵の戦いは午前9時まで続きますが、ここでプロシア側が砲撃を止め、グラドリッツへ引き揚げて行きました。
ところが、午後3時30分、プロシア側に再び動きがあり、小部隊が対峙するオーストリア第2軍団に向けて進み始め、ツーン将軍は再び部隊を前進させ、砲撃戦が再開されました。今度は午後6時まで続き、またもやプロシア軍は撤退して行きました。
この「グラドリッツの砲撃戦」ではオーストリア側が30名の損害、プロシア側が25名の損害でした。
しかしこのグラドリッツの周囲以外では、30日は概ね平穏な日となります。
オーストリア北軍は混乱の中、少しでも休息し補給を得ようと努めました。ちょうどこの日、新鮮な食料もオーストリア本国から届き、兵士たちは久々にちゃんとした食事にありつけるのでした。
オーストリア歩兵




