リゼーヌ河畔の戦い後の独第14軍団
☆ 1月19日
伯爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・レオポルト・アウグスト・フォン・ヴェルダー歩兵大将は1月19日、麾下独第14軍団に対し会戦によって分散した団隊の集合・整理を実行させ、前線から後退しつつある仏軍に対し出来得る限りの追撃を行うよう命令しました。(「リゼーヌ河畔の戦い(終)/仏東部軍の後退」を参照ください)
バーデン大公国(Ba)軍の騎兵旅団長、男爵カール・ゲオルグ・グスタフ・フォン・ヴィリゼン大佐が率いる軍団右翼支隊*は軍団長の命令を受ける前から行動を起こし、ロンシャン(ベルフォールの北西18.7キロ)から攻勢を以て前進しエピナル街道(現・国道D438号線)に沿ってロワ(ロンシャンの西南西7.5キロ)及びリュール(ロワの北西4キロ)に進みます。支隊はこの両市街近郊で仏軍の小部隊を発見すると、ヴィリゼン大佐は砲兵部隊に砲撃を命じ、数発の榴弾を発射しただけで敵は潰走し大佐らは簡単に市街を占領、この日はリュール周辺の諸部落に宿営すると斥候をブズール(西)とヴィルセクシュエル(南)方面へ派出しました。
この斥候の内、南方を探った一隊が帰還して報告するには、「敵の強大な集団がセ川(ヴィルセクシュエルの東北東5.2キロ付近でオニヨン川に合流する支流)の南方にあり、ちょうど縦隊を作って出立するところだった。ヴィルセクシュエルにも強力な部隊が居るのを発見した」とのことでした。なお、この斥候隊はラ・ヴェルジャンヌ(リュールの南8.6キロ)とアトゥザン(=エトロワトフォンテーヌ。ラ・ヴェルジャンヌの南南西1.9キロ)付近でまとまった数の仏軍集団に遭遇しましたが、敵は短時間で戦闘を止め後退して行きました。
しかし、ソ(ブズールの北東12.2キロ)を経由しポール=シュル=ソーヌ(同北西11.2キロ)を目指し、更に西方にいるはずの独南軍左翼との連絡を図った斥候数隊は全て悪路や数倍する敵に阻まれて引き帰ざるを得ませんでした。
リュール(オニヨン河畔)
※1月19日のフォン・ヴィリゼン支隊
○オイペン後備大隊(6個中隊制)
○予備猟兵第1大隊・第1,4中隊
○予備竜騎兵第2連隊
○予備槍騎兵第1連隊
○Ba竜騎兵第1「親衛」連隊
○Ba騎砲兵中隊
○野砲兵第12「ザクセン王国」連隊・予備軽砲第2中隊
○野砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・予備重砲中隊
*以下、臨機に隷属していた諸隊
○Ba第6連隊・第5,8中隊(オットー・エルンスト・グスタフ・ライレ大尉の「サン=モーリス遠征隊」)
○Ba竜騎兵第2「マルクグラーフ・マクシミリアン」連隊・第2中隊の1個小隊
ヴィリゼン
この19日。Ba師団の前衛支隊*は激戦地のシュヌビエを発ってフロテ=レ=リュール(ロワの南南東1.9キロ)へ進み、本隊は宿営地をフライエ=エ=シャトビエ(ベルフォールの西北西9キロ)から西方のエトボン(フライエ=エ=シャトビエの西南西5.7キロ)まで拡張しました。
※1月19日・Ba師団前衛支隊
男爵アルフレッド・エミール・ルートヴィヒ・フィリップ・フォン・デーゲンフェルト少将指揮
◇Ba第2旅団(Ba第3連隊・Ba第4「ヴィルヘルム親王」連隊)
○Ba竜騎兵第3「カール親王」連隊・第1,5中隊
○Ba野砲兵連隊・軽砲第2中隊、重砲第5中隊
同じく、男爵アレクサンダー・エデュアルド・クーノ・フォン・デア・ゴルツ少将率いる独立混成旅団はシャンペ(エトボンの南6.4キロ)を占領、フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュメリング少将が指揮する予備第4師団は前衛をエブル(シャンペの南4キロ)へ進め、更に前哨をリュプト川沿岸へ派出展開させます。この師団本隊はエリクール付近で集合し宿営に入りました。
この日独軍は戦線北部(軍団左翼)の至る所で多くの仏傷病兵や落伍兵に遭遇し、特にヴィリゼン支隊は無傷の約300名と傷病者700名余りを捕虜としました。ヴィリゼン大佐は仏の傷病兵に対し野外で出来る限りの手当を施した後、周辺部落の仏住民や聖職者に引き渡し任せます。これはヴィリゼン隊ばかりでなくその他の諸隊でも同じ光景が現出したのです(独公式戦史はこの点を強調し、仏の記録に一部見られる独第14軍団将兵による捕虜や負傷兵に対する虐待・殺害などは発生していないことを暗に主張しています)。
モンベリアールから発してドゥー川右(北)岸沿いの偵察を命じられたのは、オストプロイセン後備歩兵旅団長のロベルト・フォン・ツィンメルマン大佐でした。ベルフォールの攻囲から一時的に離れていた大佐は、自身の支隊から抽出した歩兵3個大隊と1個中隊・騎兵1個中隊・砲兵2個中隊で2個の縦隊を作りアロンダン(モンベリアールの西北西4キロ)とデュン(アロンダンの南1.7キロ)とに別れて街道を進みます。
※1月19日のツィンメルマン旅団分遣隊
*アロンダン経由の縦隊
◯インスターブルク後備大隊
◯ゴールダプ後備大隊・第6,7中隊
◯予備槍騎兵第3連隊・第3中隊
◯予備第4師団「混成」砲兵大隊・予備軽砲第4中隊
*デュン経由の縦隊
◯レッツェン後備大隊
◯ヴェーラウ後備大隊・第6,7中隊
◯ブレスラウ第2後備大隊・第4中隊
◯予備第4師団「混成」砲兵大隊・予備重砲第2中隊
支隊の出立に先立つ黎明時、モンベリアールに残るゴールダプ後備大隊の第8中隊は先日の会戦でも激戦を繰り広げたモン・シュヴィ農場(モンベリアールの北北西2.2キロ)に対し強行偵察に出、居残っていた仏軍後衛を包囲すると、士官2名・下士官兵60名を捕虜にしましたが、直後に西方より猛烈な銃撃が開始されたため、強力な仏後衛が至近に展開していると察したオストプロイセン後備兵は捕虜を連れて急速後退しました。直後、農場は再度仏軍の手に落ちますが、アロンダン経由の独縦隊が動き出し、その左翼端を成したインスターブルク後備大隊の第3中隊が再び農場を襲い、今度は仏将兵を徹底的に叩くと約100名を捕虜にしました。
その後、両縦隊はほぼ同時にサント=マリー(モンベリアールの西7.8キロ)付近に到着し、同時に砲兵を展開すると部落とその西方の林に構えていた仏軍を砲撃して、約2個大隊と推定される仏軍を撤退に追い込みました。ツィンメルマン支隊はこの地で約400名の捕虜を獲ると槍騎兵中隊は直ちに追撃に移ります。この騎兵達はドゥー河畔まで敵を追いますが、その帰路、やや後方(モンベリアール寄り)のパヴァンやヴォジュオクールに未だ仏軍守備隊が展開するのを見るのでした。
フォン・ツィンメルマン大佐はこの日を以て再びベルフォール攻囲隊に戻ることとなり、後備大隊の一部は直ちに包囲網へ展開することとされたため、サント=マリーに進んだ分遣隊は夕刻にモンベリアールやビュシューレル(エリクールの南南東3.2キロ)へ引き返し宿営しました。
この日独第14軍団は負傷3名・行方不明2名のみの損害でした。
こうしてヴェルダー将軍の第14軍団主力は19日夕刻においてもリゼーヌ河畔の旧前線からさほど離れていない地点で宿営に入ります。しかし仏東部軍の後退はこの日疑う余地がないほどに立証されました。これは仏軍の抵抗が前日に比べ明らかに微弱となったこと、捕虜が多数に上りその多くが抵抗せず武器を捨てたこと、武器や軍需物資が路肩に打ち捨てられている情景が多発したこと等から明らかでした。
ブルバキ将軍麾下東部軍の将兵
この夜、ヴェルダー将軍はベルサイユの大本営から次の主旨の命令を受けます。
「リゼーヌ河畔の会戦により一時緩んだベルフォールの攻囲を強力に再興するべく努めると共に、ヴェルダー将軍自身は主力を率いて退却中の敵に対し全力を挙げて追撃を行うこと」
これには直接の「上司」となるマントイフェル将軍も同感で、南軍本営からも同じく追撃の督促が入るのでした(「普仏戦争/独南軍・壮絶な行軍の始まり」を参照願います)。
大本営はなおも「ベルフォールの攻囲は予備第1師団とデブシッツ将軍の兵団だけで充分」と伝え、第14軍団の残り全てでブルバキ東部軍の追撃を行うよう命じますが、これにはヴェルダー将軍が反駁し、「フォン・シュメリング将軍麾下の予備第4師団の一部も転用しないことには包囲網の維持は不可能」と返しました。
結果ヴェルダー将軍は折衷案を取り、ベルフォール攻囲兵団に返そうとしたフォン・ツィンメルマン大佐の部隊のうち、後備歩兵4個大隊(大佐が率いるオストプロイセン後備歩兵旅団の約半数。後述します)のみを包囲網へ充当することに変更し、残りの大佐麾下諸隊はフォン・シュメリング将軍の予備第4師団主力の左翼側を追従するよう命令するのでした。
この日の前線部隊による諸報告からヴェルダー将軍は「敵は未だモンベリアールに接近して展開しており、サント=マリーでツィンメルマン支隊に対し抵抗したことからも、敵はブザンソンのドゥー川上流地域からこれを渡河し、南方への脱出を謀っている」と考えるのです。
このため将軍は翌20日から21日に掛け軍団を左翼南側へ転向させドゥー川に対面することを決心するのでした。
命令は19日深夜に発せられ、軍団最右翼のフォン・ヴィリゼン大佐には「騎兵を先行させてブズール街道(現・国道D13号線)を出来得る限り遠くまで前進し、21日夕にはフロテ=レ=ブズール(ブズールの東2キロの衛星部落)並びにヴァルロワ=ル=ボワ(同南東13キロ)に達していること」との命令を出し、Ba師団には「20日にはオニヨン川上流域にてリュール~ヴィルセクシュエルの街道上まで進み、21日にヴィルセクシュエルからエスプレル(ヴィルセクシュエルの西南西4.8キロ)までに集合を成すよう」命じました。
また、フォン・デア・ゴルツ将軍の兵団については「20日中にスナン(同東10.6キロ)並びにサン=フェルジュー(同東5.8キロ)へ進むよう」、フォン・シュメリング将軍(予備第4師団主力)に対しては「出来得る限り速やかに前衛をオナン(スナンの南南東6.2キロ)へ、本隊をアルセ(オナンの北東4.3キロ)へ進め、イル=シュル=ル=ドゥー(同南6.4キロ)方面へ偵察隊を出すよう」に命じます。
一旦ベルフォール攻囲兵団へ帰還するよう命じられていたフォン・ツィンメルマン大佐は、麾下で残った歩兵4個大隊・騎兵2個中隊・砲兵2個中隊により軍団最左翼になり先に進む予備第4師団を掩護するよう命じられたのです。
※1月19日夜・オストプロイセン後備歩兵旅団の分裂
*フォン・ツィンメルマン大佐が直率しドゥー河畔へ
◯ティルジット後備大隊
◯ヴェーラウ後備大隊
◯インスターブルク後備大隊
◯ダンツィヒ後備大隊
◯予備槍騎兵第3連隊・第1,3中隊
◯予備第4師団「混成」砲兵大隊・予備軽砲第4中隊
◯予備第4師団「混成」砲兵大隊・予備重砲第2中隊
*ベルフォール攻囲網へ
◯グンビンネン後備大隊
◯レッツェン後備大隊
◯ゴールダプ後備大隊
◯マリーエンブルク後備大隊
ヴェルダー将軍はこのツィンメルマン大佐支隊についてそれ以上の命令を下しませんでした。これは大佐自身がこの19日日中に見た通り、モンベリアール西側のドゥー下流域でそう遠くない地域に仏東部軍の本隊が潜んでいると考えられたため、前進すれば自ずと敵に接触すると信じられていたからでした(独軍には「委任命令」があるのでそれ以上の指示は要さないと言うことでしょう)。
☆ 1月20から21日
20日朝。フォン・ヴィリゼン大佐はリュール~ブズール街道(現・国道N19号線)以北に強行偵察隊を送り仏軍の行方を探りましたが、仏兵の姿は義勇兵を含め一切見かけませんでした。逆に同街道上で多くの仏軍落伍兵が肩を落として座り込む姿を目にするのです。
同じく街道南方に進んだ強行偵察隊*はヴィルセクシュエル市街で仏軍の姿を見ず、その先マラスト(ヴィルセクシュエルの西3.7キロ)やエスプレルに仏軍集団の姿が見えましたが、どちらも同行していた砲兵小隊が榴弾を数発撃ち込んだだけで仏軍は逃走するのでした。
ところが、更にオニヨン川を下流に進むと仏軍の一大兵団がポン=シュル=ロニヨン(ヴィルセクシュエルの南西4.8キロ)やボナル(ポン=シュル=ロニヨンの南西2.9キロ)に集合しており、小規模だった偵察隊はこれ以上ロニヨン沿岸を捜索することは不可能、として元来た道を下がるのです。この時、エリクール~ブズール街道(現・国道D9号線)上をヴィラルジャン(ヴィルセクシュエルの東4キロ)からヴィルセクシュエルに向かって仏軍の一大縦隊が進んで来ますが、これに気付いた先ほどの独強行偵察隊はヴィルセクシュエル中心の教会から東方へ500mほど進んだ丘陵上に布陣して進み来る仏軍縦隊に銃砲撃を加えました。するとこの長大な師団クラスの縦隊は高地手前のヴィレ=ラ=ヴィル(ヴィルセクシュエル東2.2キロ)付近に砲12門を敷き歩兵数個大隊を展開させてヴィルセクシュエルの独軍を牽制すると、独偵察隊は無理をせずサン=シュルビス(同北北東1.9キロ)へ下がって距離を置きました。これを見た仏軍の主力は更に南方へと迂回し去って行ったのです。
その後、Ba師団の前衛がモフォン(=エ=ヴァシュレス。ロワの南4.5キロ)からアトゥザン(=エトロワトフォンテーヌ)を経てセ川とロニヨン川の合流点付近まで進んで来ると、これに気付いたヴィレ=ラ=ヴィルの仏軍も急ぎ砲を前車に繋いで南方へ去りました。
※1月20日・ヴィルセクシュエルの東方に布陣した独軍強行偵察隊
グスタフ・ライレ大尉指揮
○Ba第6連隊・第5,8中隊
○Ba竜騎兵第2連隊・第2中隊の1個小隊
○野砲兵第12連隊・予備軽砲第2中隊の1個小隊
Ba師団は前衛がヴィルセクシュエル東郊外に至ると本隊もロニヨン川を越えて南方に去った仏軍を警戒しつつ一旦ヴィレ=ラ=ヴィル西側の高地に展開しました。日が暮れると最後までヴィルセクシュエル方面を見張っていたル・プティ・マニー(ヴィルセクシュエルの南2.2キロ)の仏軍前哨も南へ撤退します。
この夜、Ba師団前衛は前哨をヴィルセクシュエル市街とブヴジュ(同東3.9キロ)に置き、前衛本隊はセ川の北方沿い諸部落に分散し宿営しました。師団の本隊は更に北へ戻り、広くリュールまでに宿営するのでした。
第14軍団その他の部隊(フォン・デア・ゴルツ兵団・予備第4師団・ツィンメルマン支隊)はこの日、全て行軍中に遭遇した仏将兵を簡単に排除してそれぞれの目標に達して宿営します。夜間、これら諸隊の前哨はフォン・デア・ゴルツ旅団がBa師団に連絡するサン=フェルジュー(ブヴジュの南東2.5キロ)に、予備第4師団がファンブ(オナンの南1.6キロ)に、ツィンメルマン支隊がブタル(ファンブの南東2.7キロ)にそれぞれ進みました。
各隊が発した斥侯はこの夜、「仏軍は我らの前線から先ドゥー川までの間から消え、沿岸の諸部落まで後退しており、特にイル=シュル=ル=ドゥーを堅守している」と報告するのでした。
この20日、第14軍団の損害は負傷者2名のみでした。
イル=シュル=ル=ドゥー(1869年)
フォン・ヴェルダー将軍はこの20日、本営をブルヴィリエからソルノ(エリクールの西9.7キロ)に移しました。
なお、将軍がブルヴィリエで払暁に受領した19日午前9時30分プロートワ発信の南軍電信命令には相変わらず厳しい調子で「万難廃し本格的な戦闘を期して敵を追え」とあり、麾下がリゼーヌ河畔での損害も癒えぬまま作戦行動を続けているヴェルダー将軍としては、文句や弱音の一つも吐きたいところだったでしょうが、「狂犬」とも陰口を叩かれる「鬼将軍」マントイフェル(同時に皇帝の信任厚い極右絶対王権主義者です)に逆らう訳にいかず、また第14軍団に劣らず激しい行軍機動で疲労困憊しているはずの第2、第7軍団将兵に協力しない訳にも行かず、20日夕、心を鬼にして翌21日の命令を下すのです。
それを一言で表せば「軍団主力の行軍を続けヴィルセクシュエル~メルセ(ヴィルセクシュエルの南東5.6キロ)~クルシャトン(メルセの東3.8キロ)の線上に至り集合せよ」とのことでした。
結局、21日は第14軍団にとって「特に記することなし」な一日となります。
諸隊は予定通りの行軍で命令通りの目的地に達し、前衛はキュブリアル(ヴィルセクシュエルの南6.5キロ)、ジュネ(オナンの西南西2.3キロ)、オナンにそれぞれ進みました。
右翼遥かに先行して独立し行動するフォン・ヴィリゼン大佐支隊はこの日ノロワ=ル=ブール(ヴィルセクシュエルからは北西へ12キロ)に到達します。すると夕刻、西方から見慣れた独軍の驃騎兵たちと馬車の一群が現れたのでした。
これは南軍本隊第7軍団から発した軍団二番目の連絡隊で騎兵30騎・歩兵20名、伯爵フォン・ボッホルツ=アッセブルク少尉が率いていました。彼らは前日にサン=ガンを発ち、ブズール南方を進んで来たものでした。
友軍との邂逅
なお、ヴィリゼン支隊はこの21日から順次、リゼーヌ河畔の戦い以降臨機に行動を共にしていた諸隊を返還し始め、ロートリンゲン総督府から派遣されていたフォン・シャック少佐率いるオイペン後備大隊と野砲兵第12連隊の予備軽砲第2中隊、野砲兵第7連隊の予備重砲中隊は20日からリュールとロンシャンへ後退し、その後数日を経て兵站基地のあるエピナルへ帰還して行きました。同じくロートリンゲン総督府所属の予備猟兵第1大隊の2個(第1,4)中隊も22日から23日に掛け支隊を離れ総督府の持場に帰ります。
グスタフ・ライレ大尉が率いるサン=モーリスへ遠征した後たまたまヴィリゼン支隊と遭遇し同行していたBa第6連隊の2個(第5,8)中隊とBa竜騎兵第2連隊の1個小隊も21日に親部隊へ帰り、予備槍騎兵第1連隊も同日、親部隊の予備第4師団本隊を目指し去って行きました。
結果23日以降、フォン・ヴィリゼン大佐の指揮下にはBa竜騎兵第1連隊に予備竜騎兵第2連隊、そしてBa騎砲兵中隊だけが残ったのです。
各隊から発した斥侯たちはこの日も敵を求めて西へ南へと走り、オニヨン河畔のルージュモン(キュブリアルの西南西4.4キロ)からモンボゾン(ルージュモンの西7.3キロ)にかけて偵察を行いましたが敵を見ず、また南方ドゥー川沿岸方面まで進出した斥侯も敵を発見せず、昨日まで敵の大軍が存在したイル=シュル=ル=ドゥーでは「今朝方仏軍は市外から南方へ撤退して行った」との情報を得て、街近隣のドゥー川架橋がことごとく爆破され渡河不能となっていることを発見するのでした。
☆ 1月22日
フォン・ヴェルダー将軍はこの22日、軍団主力諸隊に対し1日の休日を与えます。
軍団は19日から3日間の行軍で一日平均10キロ程度しか移動していませんが、幾度も紹介したようにヴォージュ山脈に続く起伏の多いこの地方の冬は厳しく、街道は凍り付き、または泥濘に沈み、糧食事情も悪く量も少なく、殆ど横になる隙間がないほど込み合った貴重な屋内で行う宿営は心労も多く、リゼーヌ河畔の戦いで判明した敵は味方の5倍以上で、練成未了の未熟な軍隊ではあるものの、森林が多いこの地域では何時攻撃を受けるか緊張の連続で、行軍は常に戦闘準備を維持したままだったため、これも心身共に疲弊を招く原因となりました。
この様子を見かねた士官たちからの懇願も多くあったため、ヴェルダー将軍としてもこの先本格的な野戦が再び惹起した場合、軍団は本来の実力を発揮出来ないばかりか大損害を受ける可能性も無視出来ない、として、全団隊一日を休養に充て後続していた弾薬縦列と糧食縦列を待ち補給を受けるよう命じたのでした。
それでも斥侯活動だけはこの日も盛んに行われ、ドゥー河畔の要衝クレルヴァル(イル=シュル=ル=ドゥーの南西9キロ)やボーム=レ=ダム(クレルヴァルの西南西11.1キロ)には未だ仏軍の大部隊が存在していることが判明するのです。
また、イル=シュル=ル=ドゥーの対岸から工兵士官がドゥー川の破壊された橋梁を視察した結果、軍団全部の架橋材料を使用すれば、との条件付きですが4から5時間で渡渉橋を竣工可能との見込みが出る一方、爆破や破壊により落橋または閉鎖された従来の橋梁を修繕し歩兵が渡れるようになるまでは最低36時間を要する、との見込みが示されました。
この日午後、ヴェルダー将軍は翌23日のための命令を次の主旨で発します。
「予備第4師団はソワ(イル=シュル=ル=ドゥーの西6.5キロ)まで前進し、イル=シュル=ル=ドゥーの渡河点を確保するよう、フォン・デア・ゴルツ将軍の兵団はメザンダン(ルージュモンの南5.6キロ)へ進み、前衛をボーム=レ=ダム近郊に進めて市街とドゥー沿岸を警戒するよう、Ba師団は2個(第1、2)旅団でオニヨン河畔両岸を行軍し各旅団はそれぞれアヴィレ(モンボゾンの南4.5キロ)とモンボゾンへ進み、フランツ・アントン・ケラー少将率いる同第3旅団は軍団砲兵隊と共にその後方のルージュモンに進むよう、但しリュールとヴィルセクシュエルに若干の守備隊*を後置するように」
※1月23日にリュール及びヴィルセクシュエルに残置された諸隊
○Ba第5連隊・F大隊
○Ba竜騎兵第2連隊・第4中隊
ヴェルダー将軍がこの命令を各団隊に発した後、在グレーの南軍本営から1月21日発マントイフェル将軍の署名付き筆記命令書が到着します。
この命令主旨は「南軍本隊は右翼へ転進し速やかに敵東部軍の後方連絡線を突くので、ヴェルダー将軍に望むのは敵主力に出来る限り接近し敵の退却方向に対し追撃することにある」とのことでした。また、「第2、第7軍団は騎兵が不足しているのでそれを補うためフォン・ヴィリゼン大佐が率いる騎兵2個連隊と騎砲兵1個中隊をペスムまで急行軍させ、暫く南軍直轄としたい」とも指示したのです。
占拠した農場で寛ぐ独士官たち
☆ 1月23日
ヴィリゼン大佐は軍司令官の命令に従い23日、ブズールを経由して南西方面へ急行軍しました。
このブズール市街では無視出来ない数の仏落伍兵や義勇兵が居たため、比較的少数のヴィリゼン支隊は初めに騎砲兵中隊による短時間砲撃を行い、続けて竜騎兵を下馬させて騎兵銃で銃撃を加え動揺した仏兵を四散させました。
ヴィリゼン支隊はこの日40キロ以上の行軍を成し、夕刻に目標のペスムまで残一日行程のフラン=ル=シャトー(ブズールの南西26.5キロ。ペスムまでは道程およそ34キロ)に達し宿営するのです。支隊はこの日騎砲兵中隊に3名の負傷者を出しただけでした。
早朝にヴィルセクシュエル北東方の宿営地を発ったBa師団の第1旅団は、正午頃に前衛をコニエール(ヴィルセクシュエルの南西12.5キロ)へ進めますが、先行し行軍路を調べていた竜騎兵中隊から「モンボゾンより銃撃を受け、その周辺部の森林や部落にも敵の散兵が潜んでいる」との報告が上がります。Ba第1旅団長代理の男爵カール・ルドルフ・ハインリヒ・フォン・ヴェマール大佐は随行する砲兵中隊を先行させ、街道脇に砲を敷かせると市街や森林に向けて数発の榴弾を発射させました。すると仏将兵は一気に退却を始め、Ba将兵は損害無く進むことが出来ました。しかしここで数時間停留し夕刻となってしまったため、前衛は予定したルラン(=ヴェルシャン。モンボゾンの南西4.6キロ)に進む事は出来ませんでした。
モンボゾン
Ba師団残りの2個旅団はこの日敵に遭遇することなく予定宿営地に達します。夕刻には前哨を配布し、その一つ竜騎兵2個中隊はブズール~ブザンソン街道(現・国道N57号線)上のヴェルフォー(ブズールの南8キロ)へ進みます。
この騎兵2個中隊はブザンソンへの街道を抑える任務と共にヴィリゼン大佐の騎兵に代わってここから第7軍団との連絡を付けるため派遣されたものでした。この第7軍団との連絡士官にはブランドアイス少尉が選ばれ、少尉は直ちに出立しモンボゾンからリオを経て、途中義勇兵の一団を発見しこれを撒くために大きく迂回しつつパンまで騎行し、第14師団の守備隊と出会うことが出来ました。この前日にはフォン・ヴィリゼン大佐の支隊と連絡した後にブランドアイス少尉とほぼ同じルートで進んだ伯爵フォン・ボッホルツ=アッセブルク少尉率いる連絡隊もこの地に至っています。ブランドアイス少尉はしばらく休憩した後再び敵中を単騎で駆け抜け(往復行程は迂回路を取ったため120キロに及びました)、24日午後、無事本隊に帰還しています。
フォン・デア・ゴルツ将軍の兵団もこの日午後モンボゾンに達しました。将軍はこの地でヴェルダー軍団長と対面し、「出来得る限り本日中にボーム=レ=ダムを占領せよ」との口頭命令を受け、フォン・デア・ゴルツ将軍は麾下の普混成歩兵旅団長代理、ロベルト・カール・フリードリヒ・ヴァラート大佐に対し「歩兵2個大隊・騎兵1個中隊・砲兵2個中隊を率いて直ちにボーム=レ=ダムへ向かえ」と命じたのでした。
※1月23日にボーム=レ=ダムに向かったヴァラート支隊
○フュージリア第34「ポンメルン」連隊・第2、3大隊
○予備驃騎兵第2連隊・第3中隊
○野砲兵第3連隊・予備軽砲第2中隊
○野砲兵第1連隊・予備重砲中隊
ヴァラート大佐隊は午後3時30分にモンボゾンを発し、急行軍で夕刻(午後6時前後)までにオートショー(モンボゾンの南東13.6キロ。道程では19キロに達します。ボーム=レ=ダムまでは3.4キロ)北郊に達します。ここでオートショー南郊の急斜面を成す高地上に仏軍が陣を構えているのを発見し、西郊外にポツンと存在するラ・ヴレヴィル農場の南西側高地(オートショーの教会から南西へ2.3キロ付近)には砲列もあって独縦隊はここから榴弾を浴びてしまいました。ヴァラート大佐は部隊を散開させるとポンメルンフュージリア兵の第3大隊を街道とその西側に展開させて高地に銃撃を加え、砲兵2個中隊もその後方に砲を敷くと高地の仏砲兵と対決します。銃砲撃戦が激化すると大佐は予備としていたフュージリア第2大隊の第8中隊を戦線右翼のラ・ヴレヴィル農場へ送り、残り3個(第5,6,7)中隊は左翼オートショー部落南郊へ進んで戦線を強化、激烈な砲撃戦で仏軍砲列は先に沈黙し、すると独軍右翼は第9,11中隊を先に第8中隊が後続して高地へ突進、短時間ですが激しい白兵戦の後に独将兵は仏兵を駆逐しラ・ヴレヴィル農場南方高地を占拠しました。同時に左翼から進んだ3個(第5,10,12)中隊も崖を爆破して狭隘地を塞いで造った仏軍陣地を襲いこれを占拠しましたが、第3大隊長のジンテニス大尉と男爵フォン・ヴォルフォーゲン少尉が銃弾を浴び戦死してしまいました。結果、この高地の仏軍も南方ドゥー河畔のレーグル(オートショーの南2キロ)付近の高地へ後退しました。
戦闘は夜陰に沈んだこの時点で終了し、ヴァラート大佐もこれ以上の前進を諦めます。支隊はこの夜仏軍が至近にあることを考慮して戦闘態勢のままオートショー部落内に集中し窮屈な宿営を行いました。
支隊はこの「オートショーの戦闘」で戦死5名・負傷8名を出しています。
ヴァラート大佐らが捕虜を尋問した結果、この日戦った相手は仏第15軍団所属の部隊で、主力の2個師団は未だボーム=レ=ダムに居るものと思われるのでした。
一方、予備第4師団の一偵察隊もこの日、仏軍と衝突します。
フォン・シュメリング将軍はドゥー河畔で両岸を高地で狭められた要衝クレルヴァル(ソワの南5.7キロ)を偵察するため、ゲオルグ・ルートヴィヒ・レオポルド・フランツ・フォン・スパンゲンベルク少佐が率いる第25連隊のF大隊に予備槍騎兵第3連隊第2中隊と師団混成砲兵大隊の軽砲第1中隊を付けてソワから送り出しました。
スパンゲンベルク少佐らは午後遅くクレルヴァルに達しますが、ここでドゥー両岸に跨る市街の北西(右岸)に設けられた散兵壕に籠る仏軍兵士と一時激しい銃撃戦を交わしますが、短時間で仏軍兵士は崩れ対岸に撤退し市街を繋ぐ橋梁を爆破したのです。F大隊はこの日1名の戦死を記録しています。
同じ頃、予備第4師団の前衛支隊は目標のソワに留まらず、フォンテーヌ=レ=クレルヴァル(ソワの南西2.9キロ)に進みました。
フォン・ツィンメルマン大佐支隊はこの日、仏軍を見ずイル=シュル=ル=ドゥーの右岸側市街を占領し、支隊前衛は渡船を利用し一部は爆破された橋梁の橋桁を伝って対岸に渡り左岸市街に進駐し前哨をランとブリュッサン(それぞれイル=シュル=ル=ドゥー左岸市街の南西3キロと南南東2.7キロ)の線上に展開させました。しかし斥侯が更に先を偵察すると仏軍部隊が付近の高地に駐屯しているのを発見したのです。この間、第7軍団の要塞工兵第2中隊(予備第4師団所属)とBa野戦工兵中隊の軽架橋縦列が爆破された橋梁の修繕工事を行いました(結局、架橋材料は軍橋を架けるには足りませんでした)。
フォン・ヴェルダー将軍と軍団本営幕僚たちは、この夜に集まった報告を吟味した結果、仏東部軍は独軍の追撃を阻止し本隊を逃がすため強力な後衛・殿軍をボーム=レ=ダム付近に留めていることを確信し、この仏殿軍を撃破するため本格的な交戦を図るため前進する覚悟を成すのでした。
しかし、第14軍団がブザンソンより上流のドゥー川流域で渡河を試みる場合、スイス国境に近いブラモン(モンベリアールの南14・2キロ)付近に未だ残留すると思われる元はブザンソン駐留の仏第7師団管区所属の臨時護国軍部隊や義勇兵の集団を警戒することも重要となって来ます。
ベルフォール攻囲兵団のウード・フォン・トレスコウ中将はこの23日午前、ヴェルダー将軍より「攻囲網から一時的に外すことが可能な諸隊を使用してドゥー川上流の仏軍を攻撃・拘束するよう」要求されました。
トレスコウ将軍はこの仏軍の対処を、モンベリアールの南方とグラン河畔を抑えているフォン・デブシッツ将軍に任せます。デブシッツ将軍は23日の夕刻、夜間を厭わず命令を実行することにして麾下から歩兵3個大隊・騎兵1個中隊と半個小隊(実数20騎ほど)・砲兵2個中隊と2個小隊(16門)を出動させ、これを直接指揮しました。
※1月23日夜間・デブシッツ将軍直率の三個縦隊
*左翼縦隊
伯爵オットー・フォン・デア・シューレンブルク大尉指揮
○アーペンラーデ後備大隊
○予備槍騎兵第6連隊・第3中隊の半個小隊
○野砲兵第8連隊・予備軽砲第2中隊の2個小隊(4門)
*中央縦隊
フォン・シュミット大尉指揮
○ブレスラウ第2後備大隊
○予備槍騎兵第6連隊・第2中隊(1個小隊欠)
○野砲兵第8連隊・予備軽砲第1中隊
○同連隊・予備軽砲第2中隊の1個小隊(2門)
*右翼縦隊
キールシュタイン少佐指揮
○ラウバン後備大隊
○予備槍騎兵第6連隊・第2中隊の1個小隊
○野砲兵第2連隊・予備軽砲第1中隊の2個小隊(4門)
*占領地(ロシュ)警備(1月23日夜まで)
○リーグニッツ後備大隊
○予備槍騎兵第6連隊・第3中隊(半個小隊欠)
ブラモン
この内、右翼と中央縦隊はそれぞれボンドゥヴァル(モンベリアールの南南東8.2キロ)とエリモンクール(ボンドゥヴァルの東2.6キロ)の陣地帯を発してロシュ(=レ=ブラモン。ブラモンの北2.8キロ)を目指し、夜間にも関わらず順調に行軍し目的地に達すると、同地にいた仏軍に対してほぼ奇襲と呼べる榴弾砲撃を行いました。驚いた仏軍は殆ど戦うことなく部落を棄てて逃走し、デブシッツ将軍はロシュを簡単に占領します。この時、仏軍は既に退却中だった模様で、ロシュの周辺部には露営の跡が数多く見られ殆ど抵抗しない300名余りの捕虜も獲たのです。
これに対してクロワ(エリモンクールの東5.5キロ)からグレ(ブラモンの北東3.8キロ)を目指した左翼縦隊は、メリエール(グレの北1.3キロ)付近でグラン川の作る深い渓谷の底にある街道へ辿り着いた途端、暗闇に潜んだ敵から側面と背面を同時に攻撃されてしまいました。この奇襲で指揮官のフォン・デア・シューレンブルク大尉が致命傷を負って倒れると次席のツァーベレー中尉も重傷を負い、統率を欠いて混乱した隊は壊走状態となってクロワに向け退却するのでした。
デブシッツ将軍は占領したロシュにおいて、敵は予想していたブザンソンの臨時護国軍部隊だけでなくドゥー川を越えて南下して来た仏第24軍団の部隊も確認し、同軍団の大部分は未だ直ぐ南方に存在することを知ります。またグレに向かった縦隊が敗退したとの急報に接すると、同夜中にブラモンを奇襲する作戦計画を破棄して元の陣地帯へ諸隊を引き返させるのでした。
23日におけるデブシッツ兵団の損害は士官3名・下士官兵53名に上りました。
前線視察(アンリ・ルイ・デュプレ画・部分)




