プイイの悲劇・独南軍のドゥー沿岸展開
☆ プイイ(ディジョン北郊外)の戦闘(1月23日)
ディジョンの北西郊外・仏軍前線から僅か数キロしか離れていないコート=ドール山地際に展開していたフォン・ケットラー少将の支隊は、独仏両軍から殆ど収奪され尽くしたディジョン郊外の寒村でまともな食事にありつけず、また宿営可能な家屋も少なかったため、この劣悪な環境では疲弊した将兵の身心を養うことが出来ないと痛感したケットラー将軍は、ディジョンの仏軍が動かないことを良いことに左翼東側となるシュゾン川とティユ川が作る平野、糧食の徴発も多少は容易であろう部落が点在する地域への移動を考えます。
この行軍は23日午前中に開始されましたが、当初は恐れた仏軍の攻撃はなく、敵前を平穏無事に行軍することが出来ました。
ただし、前衛となった第21「ポンメルン第4」連隊の第1大隊はオトヴィル(=レ=ディジョン)からアユイ(デの北東2.6キロ)へ続く小街道(現・オトヴィル通りとアユイ通り)を行軍中、仏の臨時護国軍部隊と遭遇しこれを簡単に撃破し捕虜十数名を獲るのでした。
この間、メッシニー=レ=ディジョン方面にいたフォン・コンタ少佐の支隊(第61「ポンメルン第8」連隊のF大隊と竜騎兵第11「ポンメルン」連隊の第1中隊)もアユイ近郊で本隊と合流し、ケットラー支隊は午前11時、殆ど妨害を受けずにラングル本街道(現・国道D974号線)脇にあったヴァルミー農場(アユイの東2キロ。現在はディジョンの新興開発地区)の北郊外に集合し農場を占拠しました。ケットラー将軍はここで東方警戒のため竜騎兵をリュフェ(=レ=エシレ。ヴァルミーの東2.5キロ)へ送るのでした。
ケットラー将軍はヴァルミー農場の住人や行軍途中に捕虜とした護国軍兵の尋問から「前日(22日)、仏軍の一大部隊がディジョン市街を出て南東方向ソンヌ河畔の要塞都市オーソンヌ(ディジョンの南東29.8キロ)方面へ行軍し、その運動は今も続いている」との証言を得ます。タランの喪失以来百戦錬磨のガリバルディ将軍が4,000名に欠けるケットラー支隊に対し攻撃や妨害を仕掛けないのは確かに奇異と思え、また前日までは堅固に守備されていたのが確認されていたリュフェやベルフォン(リュフェの北北西1.8キロ)にこの日は敵影なく、これは捕虜たちの言を証明するかに思えました。
これらの情報からケットラー将軍は「敵がディジョンを棄てて動いているのかも知れず、先ずは近隣にある敵を攻撃しつつ、敵本隊の行動を明らかにする」と決心するのでした。
将軍は手始めにヴァルミー農場の南にあるプイイ(当時は庭園付き城館と農場からなる小部落。ディジョン中心地の北3.2キロ)の北側高地(現在の街道交差点)に見え隠れする仏の義勇兵と覚しき集団を掃討しようと考え、この任務を第21連隊のF大隊に下しました。
大隊は直ちに南下してこの義勇兵集団を襲い、短時間の戦闘でこれをプイイの部落内へ追いやりました。しかし部落自体は多数の仏将兵によって守られており、ケットラー将軍は虎の子の砲兵2個(軽砲第5・重砲第6)中隊をこの高地へ送り込むと、部落に対して猛烈な砲撃を加えさせるのでした。
既にサンタポリネール(プイイからは南東へ3.5キロ)にヴァロワ(=エ=シューニョ。同東6.4キロ)からリュフェに掛けては仏の大軍が展開している、との報告を受けていたケットラー将軍は、これらの敵と部下を対峙させようと考え、第21連隊の6個(第1~4,7,8)中隊と竜騎兵第11連隊の第2中隊をエピレ農場(サンタポリネールの北1.3キロ付近にあった農場。現存しません)に向かって前進させました。しかし仏軍陣地からは銃声一発も響かず、暫くするとヴァロワ~リュフェ間に展開していた仏軍部隊はサンタポリネールに向けて急速後退して行きました。左翼側面からの脅威が消えたと知ったケットラー将軍は、既にプイイ北郊に進出していたF大隊の増援として1個(第21連隊第1)大隊をプイイに向けて前進させることとしたのです。
2個大隊となったプイイ攻撃隊は、先鋒が部落郊外にあった壁を巡らせた庭園に突進しました。しかしプイイの農場や城館には想像以上に多くの仏兵がおり、庭園から先部落内では一軒一軒の建物を虱潰しに攻撃して奪取するしかありませんでした。特に目立つ城館に籠もった仏兵の抵抗は強く、しびれを切らした独軍は城に放火して屋根裏に逃げた敵を燻り出す作戦に出て、ようやく制圧することが出来たのでした。
ほぼプイイが陥落したと見た仏軍はフォンティーヌ(=レ=ディジョン)の陣地よりプイイへの砲撃を開始します。同時にディジョン市街北縁の本街道脇にも1個小隊(2門)の野砲が進出して来ますが、これはプイイ北の独野砲陣によって狙い撃ちにされ、慌てて市街へ退却して行ったのです。
ディジョン近郊・家屋の争奪
プイイを制圧したケットラー将軍は、次にプイイの南方・本街道西脇にあった石造りの工場(プイイの南1キロ付近。現在は集合住宅群になっています)を目標にしました。この工場の街道に沿った前庭には高い胸壁が巡っており、頑丈な工場の建物は見るからに拠点となりそうな場所でした。またこの工場付近から西側ラ・フィヨット(フォンティーヌの西500m付近)や東側ラ・マラディエール(工場からは南東へ700m)へ延びる散兵壕や連絡壕には仏軍が充満しており、これは簡単に突破出来そうには見えませんでした。しかし第21連隊のF大隊と第1大隊の一部将兵は危険を顧みずにプイイを出て南下し、味方の突進を見た砲兵両中隊は的確な援護砲撃を行ったのです。
この前進で独の2個大隊は仏軍最前線にある散兵壕から400m足らず(つまりはドライゼ銃の有効射程内)まで接近しますが、仏軍は貴重な野砲をラングル本街道の東側に並べ始め、今度は独軍の阻止砲撃にもめげずに猛砲撃を開始したため、前線の独軍歩兵は路肩に伏せてそれ以上前進が叶わなくなってしまうのでした。
攻勢が鈍化したのを感じたケットラー将軍は思い切り良く予備としていた第61連隊の2個(第1、2)大隊をヴァルミー農場からプイイへ呼び寄せ、第1大隊をシュゾン川と本街道との間に展開させて散兵壕や工場正面の仏兵と対峙させると、第2大隊をシュゾン川に沿って南へ突進させます。この時、第8中隊は第2大隊を離れ左翼側後方警戒のためリュフェに向かって進みました。
1個中隊欠となった第61連隊第2大隊は、第6,7中隊を第一線に、第5中隊を第二線に配して進撃し、工場とラ・フィヨット間の散兵壕から仏軍を追い出してディジョン北方の郭外市街(サン=マルタンなど)へ退却させます。この時、第6中隊の1個小隊はフォンティーヌの東郊に展開する仏軍散兵群から側面を攻撃されぬようシュゾン川の川岸に留まりました。
中隊長のアドルフ・エルンスト・マークス・ルクス中尉に率いられた第7中隊は、街道西側の仏軍散兵と戦い、目立つ損害を受けながらも未完成鉄道の線路に沿って前進します。この線路は工場の北北西600m付近(現・ブルージュ通りとシャルメット通りの交差点付近)まで続いていました。第6中隊の2個小隊と後続する第5中隊も第7中隊に続いて未完成線へ進みます。しかし工場に溢れんばかりの仏軍は開けた場所へ出たポンメルン将兵に対し猛烈な銃撃を浴びせ、これによって前進を阻まれた第61連隊第2大隊長のフリッツ・ヘルマン・クンメ大尉は、部下を集合させ一団となって工場に向かい突進させましたが、その壁に取り付くことはおろか進むことも叶わなくなったのです。
仏軍は「少数の」独軍が突出したのを見て、工場だけでなく街道の西や東からも銃撃を浴びせ続けました。この激しい銃撃戦でクンメ大隊長や第6中隊長のストラウベ中尉が重傷を負って指揮不能となり、ルクス中尉も乗馬を失い負傷しますが後送を拒否して大隊の指揮を代わりました。この時点で第7中隊は半減以下の70名までに減少し、第6中隊は分散し士官の殆どが倒れ、それなりに戦闘力を発揮出来たのは後続した第5中隊だけとなります。
やがて日が暮れ霧も発生し、只でさえ硝煙渦巻く戦場では視界が急速に悪化しました。冷え冷えとして一部は凍った泥濘地に伏せる独将兵の耳には仏軍側の銃声が衰えることなく届き、銃弾はびゅんびゅんと耳元を掠めました。しかしルクス中尉はこの逆境でも後退せず断固攻撃を決意し、南方サン=マルタン(工場からは南西へ450m)方面から聞こえ飛来する激しい銃撃に向かい第6,7中隊の残存兵を展開させ、第5中隊長のヴァイゼ中尉に命じて部下と共に工場へ向かわせたのです。
この時、ヴァイゼ中尉は部下に攻撃意図を説明すると自ら先頭に立ち、文字通りの弾雨へと飛び込んで行きました。第5中隊が大隊主力となったため大隊旗手のビオンケ軍曹は中尉に並んで前進しますが、数歩も行かず敵弾を全身に受け戦死してしまいました。同時に銃弾を受けたヴァイゼ中隊長も倒れ、人事不省に陥った中尉はそのまま後送されてしまいます。
第5中隊が発した未成線のある低地の工場側は急斜面になっており、折からの寒気で表面は街道と同じく鏡面のようにつるつると滑りました。このため負傷や疲労で体力を失っていた多くの兵士がこの斜面を登り切ることが出来ず、工場に向かって進むことが出来たのは中隊の三分の一、僅か40名程度だったと記録されます。
これを率いたのが小隊長の一人パウル・シュルツ少尉で、旗手のいなくなった大隊旗を手に取ると兵士の先頭に立ち、突撃を命じて突進しました。しかし猛烈な弾雨に向かうのは自殺行為で、少尉もたちまち二発の銃弾に射抜かれ即死、落ちた軍旗は直ちに名も記録されぬ兵士に捧持されますが彼も瞬時に戦死を遂げ、更に別の兵士がこれを拾うもまた戦死と、これが幾度も繰り返されます。この時、軍旗の周りで戦死した兵士の名は、この日の大隊記録に残された多くの戦死者と一緒になってしまい判明しません。軍旗が倒れその周囲で全員戦死したのを発見した大隊長副官ブルノ・フォン・プットカマー少尉は、傍にいた数名の兵士を従え前記の斜面を越えて軍旗へ駆け寄り、これを掲げて更に工場直前まで走り抜けました。しかし彼も従った数名の兵士も工場の目前で倒れ絶命したのです。
独第61連隊第2大隊・軍旗を護り戦死する将兵
この工場西側の壁は工場自体の外壁の一部ともなっており、それも全て頑丈な石造りで高さも10メートル以上あり、その壁に穿たれた下層の窓も地面から4メートル近くにありました。工場西側に正式な入り口はなく小さなドアだけだったので、第2大隊の将兵が命を賭けて突進しても砲弾が直撃したり工兵が爆薬を仕掛けたりしない限り元より構内への突入は到底無理があり、工場への攻撃はやはり街道側から行うのが正解だったのです。
これにルクス中尉らが気付けなかったのも責められず、それは視界不良の上に工場西側の土地はうねうねと凹凸が続く土地で、独兵が進んだ未成線線路の斜面上からでも建物の下数メートルを見ることが出来ませんでした。仏ヴォージュ軍の将兵はこの工場の窓と窓の間にも銃眼を開けており、これが必殺の弾雨を生んだのでした。
「このように(工場西側に入り口がなかったため)弾雨を冒して工場へ肉薄した独将兵は一つも得るものがなかった。大多数はただ銃弾に倒されて逝っただけであった。士官がほぼ全員倒れてしまったために大隊を率いることとなった本部付最先任曹長は生き残った兵士を集合させ、これを率いて未成線路の後方へ退却し、そこで初めて軍旗が不在であることに気が付いた。曹長は数名の部下に命じ夜陰に沈み始めた戦場へ軍旗捜索に向かわせたが、未だ弾雨激しく危険な戦場を隈無く探したものの発見されず、捜索隊の兵士も次々に倒され、兵士シューマッハのみ負傷し帰還しただけで残りは全員空しく戦死してしまった。曹長ら大隊の生き残りは皆、プットカマー少尉とそれに従った兵士が全て斃れたため、旗手のいない軍旗は他の部隊(街道側で戦っていた第21連隊)将兵によって回収されたのであろう、と想像しそれを信じていた」(独軍公式戦史/筆者意訳)
バルジー飼料工場
しかし第61連隊の第2大隊旗はプットカマー少尉とその部下の遺体脇に落ちており、工場とその周辺地に展開していたリッチョッティ・ガリバルディ大佐率いるヴォージュ軍第4旅団の一兵卒によって発見され回収されたのです。
独軍がこの戦争で軍旗を喪失したのはこれが二本目でした。
一本目は8月にメッスの西・マルス=ラ=トゥール北方における戦闘中、第16「ヴェストファーレン第3」連隊の第2大隊が喪失した大隊旗で、これを独軍側は「これは戦闘で千切れた大隊旗が棹頭と飾帯ごと旗棹から外れそれが仏兵の手に渡った、つまり旗竿は残ったので喪失に当たらない」としています。しかし今回軍旗は旗竿ごと消え去っており、はっきりと喪失を認めざるを得ない状況で、色々と言い訳の限り(やれ寸裂してぼろぼろだの遺体の下にあったので分からなかっただの)を尽くしていますが、渋々「この戦争において我が軍が軍旗を喪失したのはこの一件のみ」(公式戦史)と認めています。
マルス=ラ=トゥールの旗(アレクサンドル・ブロック画)
ポンメルン軍旗の奪取(エドアール・ジェローム・パピオン画)
一方、この話を仏側は次のように伝えています。
「1月23日。アユイとアニエールから発した独軍はディジョンに向かって前進した。彼らは手始めにヴァルミー農場を占領すると続けてプイイの攻略に向かった。市街北部の戦線が崩壊の危機となり、この独軍の前進を阻止するため市街北郊サン=マルタン周辺に展開していたリッチョッティ旅団は、およそ1,600名の義勇兵を家畜の飼料工場でその臭気から地元住民に「腐った肉」というあだ名で呼ばれていたバルジー工場へ派遣した。
このころ、フォンテーヌに続く散兵壕も襲撃され戦況は仏側にとって一層悪化していた。シャルトルー(マルセイユの一地区)の出身兵(ロビア大佐の第2旅団)で固められていたプイイ北方の街道分岐点陣地(現・国道D903とD974号線の分岐です)が放棄されたため、独兵はペリシエ師団のソーヌ=エ=ロアール県臨時護国軍レギオンの一部により守られていたプイイ部落内へ易々と侵入し、護国軍部隊は短時間で撃破され部落の主要部分、つまりは農場、庭園、城館が次々に陥落した。
ロビア
この城館は短時間の激しい戦闘により屋根裏部屋を除いて敵の手に落ち、屋根裏には最後に残った12名の「オリエント(中東)出身フランス人志願兵中隊(第2旅団所属)」が籠もって投降を拒否していた。城の階段は遺体と死を待つだけの重傷者で塞がっており、損害なしでは屋根裏に突入出来なかった独軍は、城に火を放ち屋根裏の仏兵を燻し出す作戦に出る。これには勇敢な義勇兵もたまらず武器を棄て投降した。結果、プイイは午後3時までに全面占領されてしまった。
プイイを占領した独の第61連隊(ポメラニア州の将兵)次の目標はリッチョッティ旅団兵が構えるバルジー工場だった。ポンメルン兵たちは、この工場も防御や守備隊が大したことはないだろうと踏んで、工場東側となるディジョンへの本街道を進んで来た。しかし、工場は要塞化され兵士で充満しており、その防御は鉄壁に近かった。
行軍を阻止された独軍は工場の防御が厚いことを知り、午後4時から工場西側へ回って波状攻撃が開始されたが、ポメラニア兵はここで200名に上る犠牲を出した上に軍旗を奪われることとなる。
この軍旗は工場の直前まで運ばれ、そこで旗の周囲の独将兵が倒されたため、これを護ろうと将兵が駆け寄ったが士官3名を含む多くが戦死した。
軍旗の奪取に成功したのはリッチョッティ旅団傘下の「モン=ブラン」猟兵隊の兵士で、ジュネーブ南方のアヌシー出身、タッパーズ中隊のヴィクター・キュルタ(クルタ)という者だった。
彼は銃撃戦の最中、目前で独軍将兵の一団が全て倒されたのを目撃し、工場の西側壁にあった出入りに使われていた小開口部から工場を出ると、折り重なる死体の山へ駆け寄り、その中に半分に折りたたまれた状態にあった布を拾い上げる。するとそれは折れた旗竿から下がっていた軍旗だった。
一説では、キュルタが工場に戻ると、ドイツの旗手を倒した(狙撃で?)と主張するドーフィネ猟兵隊の一義勇兵が進み出て「それは俺のものだ」と彼から軍旗を奪ったといわれる。ドーフィネ猟兵隊は戦闘後その旗をリッチョッティ旅団長に捧げたと言う。
これには諸説あり「リッチョッティ自身が軍旗を拾った」「リッチョッティに渡したのはキュルタ自身だった」など今となってはどれが正解かは分からない。
父に奪った軍旗を渡すリッチョッティ
キュルタ自身は後に次のように書き残している。
『軍旗は工場から100メートルの地点にあった。私は工場防衛の任務から一時離れて工場の小さなドアから一人外へ出た。銃火の下、私は倒れ伏してもまだ息があったプロシア兵を発見し、彼が抱えていた軍旗を引き剥がし奪った。夕方4時のことだ。この軍旗の旗竿は半分に折れた。これは私が工場へ戻るとき受けた弾丸のせいだ。私は軍旗と敵から奪った2個の勲章を持って帰った』」(仏の戦記「La guerre franco-allemande de 1870-1871」・筆者意訳)
軍旗を奪うキュルタ
軍旗がキュルタに鹵獲された地点は1894年、71年1月23日の戦闘から生還した独軍の元士官たちによって土地が購入され、4本の檜が植樹されるとその中央に小さな霊廟が建立されました。今日でもシャルメット通りの東側、通りの起点マレシャル・ガリエニ通りの交差点北350mでその跡地に立つ記念碑を見ることが出来ます。
フォン・ケットラー将軍は仏軍の抵抗が思いの外大きく、それはディジョンが未だ大兵力によって護られている証拠、と断じます。このままでは全滅する部隊も、と危惧したケットラー将軍は戦場が夜陰に沈むと戦闘中止の指令を出し、工場の戦闘で半数近くを失った第61連隊第2大隊が集合するプイイ南郊の地に麾下の諸隊を集合させました。仏軍は戦場に闇が訪れても銃撃を絶やさず追撃も始まり、最前線からの撤退は至難でしたが独ポンメルン兵は秩序を維持して切り抜け、午後8時、集合地点に集合を終えます。その後、戦場に残された負傷者捜索・救助のため第21連隊の2個(第11,12)中隊が残留して負傷者を救出、歩ける負傷者は護衛が付いてイス=シュル=ティーユへ発ちました。
ケットラー支隊はこの夜、ヴァントゥ~アニエールの線より北方にある諸部落や家屋に宿営するのです(更に夜が明ける前、少々東へ移動しました)。
この日、ディジョン方面へ動いたのはケットラー支隊だけではありませんでした。
ミルボー=シュル=ベーズ(ディジョンの北東22.5キロ)に進んだヴィルヘルム・カール・テオドール・フォン・ショーン少佐指揮の支隊から、少佐の命令で第49「ポンメルン第6」連隊F大隊の2個中隊がアルク=シュル=ティユ(ミルボーの南西11.2キロ)を越えて行軍します。半個大隊はこの地で砲撃音を耳にすると戦場目指し急ぎましたが間に合わずに夜を迎えました。戦闘が完全に終了した後にサンタポリネールの仏軍陣地と対峙するヴァロワ(=エ=シェーニョ。サンタポリネールからは東北東に4キロ)に到達しましたが、サンタポリネールには敵の気配が濃厚で、余りにも危険なため直ちに踵を返し朝までにミルボーへ帰還するのでした。
ガリバルディ将軍は、愛する子息が飼料工場の防衛に成功し軍旗を奪取するという戦史に残る手柄を立てたことを知ると、独軍に対する一斉攻撃を命じました。この攻撃には貴重な騎兵も動員され、独の残兵狩りに出動しています。
プイイはカンツィオ大佐が指揮を取ったサボイ出身の義勇兵とヴォージュ県の義勇兵によって午後6時頃に奪還され、ほほ同時刻にケットラー支隊はラングル、リュフェ、メッシニーへの諸街道を使って全面撤退します。しかしガリバルディ将軍はそれ以上の追撃許可を出しませんでした。
工場や解放されたプイイの周辺には双方の遺体が散らばり、靴や防寒具のない幽鬼のような義勇兵や護国軍兵士は遺体ばかりでなく瀕死の負傷兵からも身ぐるみ剥いで衣類や金品を奪ってしまうのでした。
カンツィオ
1月23日の「プイイの戦闘」でケットラー支隊は士官16名・下士官兵362名・馬匹24頭の損害を出します。
※プイイの戦闘(1月23日)におけるケットラー支隊の損害詳細
〇第8旅団司令部
負傷・士官1名
〇第21連隊
戦死・士官1名、下士官兵44名
負傷・士官3名、下士官兵104名
行方不明・下士官兵9名
〇第61連隊
戦死・士官2名、下士官兵41名、馬匹1頭
負傷・士官7名、下士官兵138名
行方不明・下士官兵11名
〇竜騎兵第11連隊
戦死・下士官兵1名、馬匹2頭
負傷・馬匹2頭
〇野砲兵第2連隊
戦死・下士官兵1名、馬匹11頭
負傷・士官2名、下士官兵13名、馬匹8頭
〇総計
戦死・士官3名、下士官兵87名、馬匹14頭
負傷・士官13名、下士官兵255名、馬匹10頭
行方不明・下士官兵20名
仏軍の損害は不詳ですが捕虜は士官8名・下士官兵約150名でした。
ケットラー将軍は21日から23日に掛け歩兵4,000名、騎兵260騎、砲12門で歩兵の数8倍の敵に衝突しました(騎兵は同等・砲兵は3、4倍と思われます)。21日から23日までの損害は戦死が士官10名・下士官兵171名・馬匹30頭、負傷は士官27名・下士官兵494名・馬匹19頭、行方不明が士官1名・下士官兵39名に上り、損害総計は士官38名・下士官兵704名・馬匹49頭と、戦闘員の2割近くになりました(これには傷病・過労による離脱が含まれません)。
支隊のディジョン攻撃はドン・キホーテ的、全く無茶な攻勢でしたが独参謀本部戦史課の編纂者は軍旗を失った「大変な不名誉」を糊塗するつもりか、ケットラー将軍とその部下を殊更大きく讃えています。
軍旗を護って
「この一支隊の強力な攻撃と撤退後も毅然として敵正面に宿営した態度はガリバルディ将軍にこの戦闘が独南軍の一大部分との対決だったとの感慨を抱かせ、将軍は以降慎重になって陣地を護ることに専念することとなった。ケットラー将軍は仏の1個軍をディジョンに抑止することに成功し、それがためこの方面からの独南軍に対する脅威を除き、マントイフェル将軍の行動を自由にさせることに貢献した。その功績は大と言うべきである」(独軍公式戦史/筆者意訳)
第三次ディジョンの戦い
ケットラー将軍とポンメルン将兵が全力を挙げ、錬成と秩序に劣るとはいえ戦力差5倍以上の義勇兵や臨時護国軍兵と戦ったことは事実であり流石である、とは思いますが、敵の戦力を見くびり防御力の高い陣地を強襲して犠牲を増やしたのもまた事実であり、この戦史の文面に筆者は、烏合の衆と蔑んでいたガリバルディ軍が意外や戦意が高く侮れない一軍であったことを認めたくない独参謀本部の虚勢が現れているように感じるのです。
また、軍人として国王に仕える入隊時に忠誠を誓う「軍旗宣誓」*を行う普軍人としては、軍旗は神聖かつ絶対的なものであり、戦時に敵の軍旗を奪うことは大変な名誉で、逆に奪われることは軍隊最大の屈辱とされ「軍旗は生命を賭けても護るもの」とされていた(他の国家の軍隊も程度の差こそあれ同じです)ので、何とか屈辱を薄めようとするのは当然な動きとも思え、ケットラー将軍や連隊長らがどれだけ動揺し悲観に暮れたのか察するに余りあるものでした。
※軍旗宣誓(ファンレナイト)
プロシア王国において、新兵や任官した新米士官が左手を所属隊の軍旗に触れ右手を斜め上に差し上げて忠誠を誓うという式典で、独帝国からナチスドイツまで引き継がれ(形式的に現代のドイツ軍にも引き継がれています)、第2次大戦まで独軍人はこの宣誓によって上官への絶対服従を強いられ、ナチスによる戦争犯罪や虐殺などを多くの軍人が抵抗なく受け入れていた元凶とも言われています。
ディジョン市に建てられた「1870-71年抵抗の碑」
☆ 独南軍本隊のドゥー川展開(1月22日)
ケットラー支隊がディジョン近郊で死闘を繰り広げていた頃、フォン・マントイフェル将軍の南軍本隊も休むことなく前進を続けていました。プイイで軍旗が奪われた独軍にとっては屈辱の日(23日)には南軍はブザンソンとリヨンを結ぶ線上に達し、ブルバキ将軍率いる仏東部軍の仏南部への退路を断つことに成功するのです。
フォン・ケットラー支隊(第4師団の約半数)の親部隊、フォン・フランセキー歩兵大将の独第2軍団は1月21日に前衛(コブリンスキー少将支隊)がドゥー沿岸・ドールに達してこれを占領、本隊はその後方ペスムとグレーの間に付けました。この日、マントイフェル将軍は第2軍団の北方にあるフォン・ツァストロウ歩兵大将の第7軍団に対し「22日までにドゥー河畔へ進出し、ダンピエール(ブザンソンの西南西23.2キロ)付近の橋梁を確保せよ」と命じました。
ツァストロウ軍団長は翌朝第13師団の前衛支隊*をサン=ヴィ(ダンピエールの北東6.2キロ)経由でダンピエールへ向かわせます。
支隊は朝、本隊がランテンヌ(=ヴェルティエール。ダンピエールの北北東9.1キロ)、左翼隊がオードゥー(ランテンヌの東北東7.6キロ)を発し正午頃サン=ヴィに至って合流、この間両隊とも敵と遭遇することはありませんでした。
オステン=ザッケン将軍はこの街でブザンソン~ドール鉄道を分断・破壊し電信線を切断すると、遺棄されていた多数の輸送馬車を鹵獲しましたが、その内13輌には糧食が搭載されたままでした。支隊はその後川沿いにダンピエールへ進みます。
この時先発した偵察隊は、ダンピエールを越えてオルシャン(ダンピエールの西6.3キロ)まで進み、この間破壊されずに残っていた4つの橋梁を調査して問題のないことを報告します。この4本の橋梁はフレーザン(同南東1.6キロ)の街道橋(現・国道D73号線)、ラン(同南西1.8キロ)付近にある二本の橋(現・国道D31号線が走るランショとランの橋です)、そしてオルシャンの街道橋(現・国道D224号線)でした。これはツァストロウ将軍にとって天啓とも言えるもので、何故ならば当時第7軍団の架橋縦列は遥か後方を迂回してエピナル経由で行軍中で、使用可能な野戦軽架橋縦列の材料ではダンピエール付近のドゥー川(幅80から120m)に掛けることは適わなかったからで、第2軍団から架橋資材を回して貰う予定(その分渡河が遅れます)だったのです。偵察隊からの報告を受けたツァストロウ将軍は4本全ての橋梁に第13師団前衛から派出した守備隊を急ぎ配置させましたが、前21日にオニヨン河畔やドールで受けたような仏軍の抵抗は全くなく、ドゥーの対岸(ここでは南岸)は静かなものでした。更に進んだ斥侯はトルプ(サン=ヴィの東6.2キロ)やオセル(同南南東5.5キロ)付近で初めて大規模な仏軍部隊を確認し、オステン=ザッケン支隊左翼が去ったオードゥーの東5キロ付近のプイエ=レ=ヴィーニュ(ブザンソンへの街道を抑える位置となります)にも仏の守備隊が確認されています。
※1月22日・第13師団の前衛支隊
伯爵アルベルト・レオ・オットナー・フォン・デア・オステン=ザッケン少将(第25旅団長)指揮
○フュージリア第73「ハノーファー」連隊・第2、3大隊
○猟兵第7「ヴェストファーレン」大隊
○驃騎兵第8「ヴェストファーレン」連隊・第2,3,4中隊
○野砲兵第7連隊・軽砲第5中隊
○第7軍団野戦工兵第1中隊
*なお、前日支隊の増援となっていた
○第13「ヴェストファーレン第1」連隊・第2、F大隊
○野砲兵第7連隊・軽砲第6中隊
はこの朝一旦本隊に帰り、この日(22日夕)に改めて
○第13連隊・第1、2大隊
○野砲兵第7連隊・重砲第5中隊
が増援として加入しました。
第7軍団の片割れ、第14師団ではこの日、フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・フォン・パンヴィッツ大佐が指揮する前衛支隊が修理を終えたパン(オードゥーの北6.7キロ)の街道橋を渡ってオニヨン川を越えて対岸のエマニーに進み、ブザンソン方面の警戒を行いました。師団本隊は昨夜遅くまで活動していたのでこの日は補給と休養に当て、昨夜と同じくエチュとエマニー間で宿営を続けました。
第2軍団本隊はこの日、昨夜と同じ宿営地に留まりましたが、ドールにあった前衛は占領を続けつつ斥侯をドゥー南岸に送り、ル・デショー(ドールの南15.7キロ)までの間を捜索させました。
斥侯たちはこの先、ドゥー川に注ぐクロージュ、ル、オランの各支流に架かる諸主要橋梁が全て破壊され落とされていることを発見し報告を上げました。また、諸街道の隘路部分にはこれも様々なバリケードが設えられ閉鎖されていましたが守備する仏兵は皆無だったのです。これはドールを占領されたためなのか、はたまた元よりここを護る予定はなかったのか、は判別出来ませんでした。ソーヌ河畔のオーソンヌ(ドールの北北西13.9キロ)にはマルシェ歩兵(つまりは護国軍や義勇兵ではなく正規軍の)1個連隊が駐屯している、との噂がありましたが、ドールまで進んだ独軍の後方を脅かすこの要塞都市までの地域には仏軍の存在はなく、ただル川の南岸となるヴィレ=ファルレ(ドールの南東22キロ)には仏守備隊の存在が確認されたのでした。
一方、フォン・ヴェルダー将軍の第14軍団と連絡を通すため20日に派遣された伯爵フォン・ボッホルツ=アッセブルク少尉率いる連絡隊はこの22日、第14師団のいるオニヨン河畔のパンに現れます。ボッホルツ少尉らはノロワ=ル=ブール(ブズールの東11.1キロ)で第14軍団の右翼別動隊フォン・ヴィリゼン大佐の支隊と連絡した後、仏軍と遭遇することなくブズールとリオ(同南南西23キロ)を経てパンへ帰還したのでした。
この日、マントイフェル将軍はブルバキ仏東部軍の状況に関する情報を得ます。
諸情報から仏東部軍の後退方向は概ね南方で、一部はオニヨンとドゥー両河川間をブザンソン目指して一目散に進み、その他はドゥー川の南岸へ退却したものと思われる、とのことでした。また、21日に驃騎兵第15連隊の斥侯によってモンボゾン(リオの東北東15キロ)付近で存在が確認された「3万人に及ぶ仏の兵団」は、独南軍の2個軍団からドゥー川の渡河点を守ることを目的にしているのではないか、と想像されるのでした。
これら仏軍の状況を南軍本営では「仏東部軍はその撤退方向をロン=ル=ソニエ(ブザンソンの南南西72.5キロ)に取り、そこから仏南西部との連絡を図るのではないか」と想定するのです。
そこでマントイフェル将軍はヴェルダー将軍に対し、「これまで以上に攻勢を取り仏東部軍の後退行軍を抑止し、特にモンボゾン付近に在すると思われる敵の兵団がグレーに向かうのを阻止せよ」と命じました。これは勿論第2、第7の両軍団がその兵力を結集し南方に通じる諸街道を遮断する行軍を援助するためでした。
この2個軍団に関しては「ブザンソンからロン=ル=ソニエへ通じる本街道と鉄道線を行軍目標に置いて行動せよ」と命じ、第7軍団には加えて「アバン=デス(サン=ヴィの南東7.1キロ)北郊のドゥー川鉄道橋梁とカンジェー(アバン=デスの南3.5キロ)のル川橋梁は重要な目標である」と強調し「この両橋梁に遅くとも23日中有力な兵力を到達させて占拠または破壊すること」と命じたのでした。
戦うイタリア人義勇兵
☆ 独南軍本隊(1月23日)
マントイフェル将軍は22日夜、この23日夕までに「第2、第7両軍団主力もドゥー川左右両岸に進み展開するよう」命令しました。
具体的には、第7軍団に対して「一個師団によりダンピエール付近に展開し、他方の師団でカンジェー付近まで進みブザンソンに対面するよう」命じ、「アマンセ(カンジェーの南東16キロ)並びにオルナン(同東20キロ)方面を偵察しブザンソンとスイス国境までの間に仏軍の運動があるか確認するよう」、また、「パン~エマニーのオニヨン川渡河点に残って第14軍団との連絡を保ち、同時にブザンソンへの街道(現・国道D232、D15号線など)とリオ方面の監視を行うためオニオン河畔に一小支隊を留めるよう」命じました。
※1月23日・パンに駐留した支隊
ボナベンテュラ・フランツ・ハインリヒ・ゴスヴィン・フォン・ブレーデロウ少佐指揮
○第77「ハノーファー第2」連隊・第1大隊
○驃騎兵第15「ハノーファー」連隊・第3中隊の半数
○野戦砲兵第7連隊・軽砲第1中隊の1個小隊(2門)
第2軍団に対しては「前衛をモン=ス=ヴォドレ(ドールの南南東14.8キロ)へ進め、ここを拠点にサラン(=レ=バン。モン=ス=ヴォドレの東南東21.5キロ)、アルボワ(同南東15.6キロ)、ポリニー(同南南東18キロ)それぞれに至る街道を捜索し、同時にブザンソンからロン=ル=ソニエに至る鉄道線と電信線を切断することに努めるよう」命じます。この軍団本隊については、「同日軍本営が移転するドール周辺で全部隊が集合し後命を待つよう」、また「一個旅団を抽出しドール後方ペスムまでの間に展開させ警戒並びにグレーとの連絡を通すよう」命じました。
このグレーにはベルンハルト・フリードリヒ・アウグスト・フォン・デア・クネゼベック大佐が率いる「旧・ダンネンベルク旅団」がおり、大佐に対しては「ロートリンゲン総督府から兵站路諸部隊が到着し任務を引き継ぐまで守備を続けるよう」命じるのでした。
カンジェー
フォン・デア・オステン=ザッケン将軍の第13師団前衛はこの23日午前中、ビャン=シュル=ドゥ(サン=ヴィの南南東8キロ)に進んでそこに駐留していた仏軍守備隊を駆逐し、更に目標のカンジェーへ進んで短時間の戦闘後、ここでも守備隊を追い出し部落を占領しました。このドゥ川とル川に挟まれた地域には進み来た独軍部隊より数倍する仏軍が居ましたがどれも臨時護国軍部隊や義勇兵に国民衛兵たちで、攻撃を受けると短時間で壊乱しル川の南岸や北東方ブザンソン方面へ逃走して行きました。これらの戦闘でオステン=ザッケン将軍は800名以上の雑多な仏軍将兵を捕虜にしました。前衛支隊は命令通りアバン=デスのドゥー川鉄道橋を爆破し、ブザンソンからやって来たと思われる、ちょうど付近に差し掛かった回復期にある400名の仏軍傷病兵を乗せた列車を鹵獲しています。
第13師団本隊は夕刻までにビャンへ至り、第7軍団砲兵隊はランショ~ランの二つの橋を渡りドゥー左(南)岸へ移って宿営に入りました。
第14師団はサン=ヴィ周辺で集合を終え、ドール~ブザンソン街道(現・国道D673号線)沿いのダンヌマリー=シュル=クレット(サン=ヴィの東北東5キロ)まで前衛支隊*を送り出します。
※1月23日・第14師団前衛支隊
エルンスト・モーリッツ・フォン・コーゼル大佐(驃騎兵第15連隊長)指揮
○第53「ヴェストファーレン第5」連隊
○驃騎兵第15連隊・第4中隊
○野戦砲兵第7連隊・軽砲第2中隊
○第7軍団野戦工兵第2中隊
しかしこの前衛がダンヌマリーへ入り、午後になるとブザンソン方向(東北東)と北方から砲撃を受け始めます。コーゼル大佐も軽砲中隊に砲撃を命じ、この砲撃戦は緩慢に辺りが夜陰に沈むまで続きましたが歩兵による攻撃は一切ありませんでした。
一方、ドールを発した第2軍団の前衛(ユリウス・フォン・コブリンスキー少将指揮)は、途上パルセ(ドールの南7.8キロ)付近で仏軍の偵察隊と遭遇してこれを撃退すると昼過ぎにモン=ス=ヴォドレに入りました。この周辺には様々な防御工事の跡が見られますが、仏軍の姿は影も形もありません。しかし、命令に従ってブザンソン南西方にある「ショーの大森林」(フォレ・ドゥ・ショー)南方に放たれた斥侯諸偵察隊の内、ヴィレ=ファルレ付近に進んだ部隊は仏軍守備隊によって攻撃され、彼らが到達目標としていたブザンソン~ロン=ル=ソニエ街道とディジョン~ポンタルリエ街道の交差点ムシャール(ヴィレ=ファルレの南東4.4キロ)に至ることが出来ませんでした。
アルボワとポリニーを目指した斥侯もまた途中の森林地帯で激しい銃撃を受け、やはり目標まで進んで偵察を行うことが出来ませんでした。
第2軍団本隊では、第3師団主力(第6旅団主幹)がマントイフェル将軍の本営と共にドールに入城し、クネゼベック旅団はオーソンヌに対する警戒と後方連絡線防御のためにペスム~グレー間に分散して宿営に入りました。
マントイフェル将軍はこの日夜に入った日中の報告から、麾下が各地で遭遇した敵がこれまでに接して来た義勇兵中隊や臨時護国軍部隊ばかりではなく、野戦の装備を持ったマルシェ部隊も見られたことから、遂にブルバキ軍の前衛先鋒に出会ったと確信するのです。
ディジョン近郊の戦い(1870.1.23)
こぼれ話
独第61「ポンメルン第8」連隊・第2大隊旗の顛末
普第21「ポンメルン第4」連隊の大隊旗
普擲弾兵第2「ポンメルン第1」連隊第2大隊旗
この軍旗は1821年1月22日、第61連隊の元となったラントヴェーア第21連隊三つの大隊にそれぞれ交付された内の一旒です。旗は金のフリンジに囲まれ金の徽章が付けられており、従軍や戦闘、所属団隊変更など各種イベントを経る度に飾帯が加えられました。連隊は1860年の5月5日、国王の勅令(ローンの軍事改革)によって正規軍の歩兵連隊となります。
第2大隊の軍旗はモン=ブラン猟兵隊の一兵士ヴィクター・キュルタに奪われた後、ディジョンで「最上級の鹵獲品」として見世物となり、この間にフリンジと徽章、僅かに残っていた飾帯が消え失せてしまいました。
休戦直前か直後(独軍の進駐前)、軍旗は小銃の入っていた木箱に納められて急ぎ休戦後の議会が置かれたボルドーへ送られ、ここでも「敗戦のうっぷん晴らし」として見世物となっていました。
コミューンの騒動が一段落した後に軍旗はパリに送られ、一時陸軍省の倉庫に保管されます。アドルフ・ティエールが大統領となった1871年8月末、この旗は大統領の執務室に飾られることとなり、大統領がマクマオンに代わっても執務室の片隅に置かれていました。
1877年、共和党が台頭する頃にこの旗は執務室から消え、やがて砲兵博物館の展示室に現れます。これはマクマオン大統領が国防省に移して飾ろうとしたところ、どういう経緯か間違って博物館に送られたとの説が有力で、マクマオンも政権運営が危機に陥っていたこともあり過ちを正すどころではなかったと思われます。突然展示を求められた博物館も軍旗の由来を確かめもせず、カタログには「第1帝政の戦争に由来する鹵獲品」と間違って記載されました。
1888年4月20日、軍旗は博物館を離れてドーモイ中尉(国防省か参謀本部の士官と思われます)によりナポレオン1世も眠るアンヴァリッド(廃兵院)の礼拝堂に移されて壁面に吊り下げられ、1940年6月末、第二次大戦の仏敗北・独軍のパリ入城まで確かにそこにありました。
ところが軍旗はナチス・ドイツの占領期間中、いつの間にか行方不明となります。
記録も残されていませんが、軍旗の由来を知っていた独軍により祖国へ持ち去られたのではないか、と考えるのが自然と思います。
戦争の混乱に紛れその後の消息は全く分かりません。第61連隊やその継承部隊にも「還ってきた」等の記録はなさそうで、ナチの高官(好事家のゲーリングなど)に盗まれたのではなく、プロシア陸軍の伝統を受け継ぐ独国防軍の士官によって回収されたのであれば、今もどこか部屋の片隅で、などと想像を逞しくしますが……
いずれにせよ運命に翻弄された軍旗は歴史の闇に消え去ったのでした。
鹵獲された第61連隊第2大隊旗




