フォン・ケットラー支隊のディジョン攻勢
フォン・マントイフェル騎兵大将率いる独南軍は1月21日、その本営をオニヨン河畔のペスムに進めます。すると午後3時30分頃、西方ディジョン方面から激しい砲声が聞こえ始めたのでした。これは南軍の最後尾にしてセーヌ川上流方面で仏ヴォージュ軍を警戒していた男爵フリードリヒ・カール・フォン・ケットラー少将の支隊(第4師団の約半数・第8旅団と竜騎兵2個中隊に砲兵2個中隊12門)が引き起こしたものでした。
ヴェルダー将軍の第14軍団が放棄したことで仏軍が奪還していたディジョンについては、難攻不落の要塞都市ラングルと並んでマントイフェル将軍らがその行軍中側面や背後を突かれぬよう常々警戒して来ましたが、そこに存在する仏軍の兵力については噂や推測も様々で、情報収集については仏軍に一歩先んじていると自負する独軍にとっても中々はっきりさせることが出来ないままでした。
当初(70年末)の情報では、ヴォージュ軍と思われるその総兵力は12,000名前後と推測されていましたが、1月18日の時点では斥候報告・地域住民の尋問結果・諜報などによりそれは30,000名前後と膨れ上がっています。諸情報によるとディジョン市にはヴォージュ軍司令ジュゼッペ・ガリバルディ将軍や南仏の護国軍集団司令ヴィクター・ペリシエ将軍が本営を置いており、東方へ進みブルバキ将軍率いる仏東部軍と合流したと思われていたクレメー将軍の師団も戻って来ている、との噂まで飛んでいました。
しかし、これだけの兵力ならば当然「目の前」で側面を晒して東進する独軍に対し何らかの妨害を仕掛けるはず(小人数で長躯シャティヨン=シュル=セーヌを襲ったゲリラ戦に通じるガリバルディたちです)なのに、殆ど邪魔立てをしないのはマントイフェル将軍たちにとっては不思議で仕方ありませんでした。独南軍が短期日でコート=ドールやラングル南方の山地を抜けソーヌ渡河にも成功したのは独軍の超人的な頑張りも大きかったのですが、このガリバルディたちが「何もしなかった」ことも大きな理由だったのです。
これについて独南軍とベルサイユ大本営のモルトケ参謀総長らは「仏ボルドー派遣部のガンベタやフレシネらは、ブルゴーニュ公国の時代から仏南東部の中心地だったディジョンを死守することで対内国・対外国に好印象を与え仏東部における次の作戦の策源地にする気では」と考えていました。
クレメー師団がこのディジョンを発った後、入れ替わる形で市街地に入ったペリシエ将軍麾下の仏南部護国軍将兵は20,000名前後に及び、続いて1月7日以降オータンから進み来たヴォージュ軍も直前の1月5日にはほぼ同数であったと伝わります。
このヴォージュ軍中、若く闊達なリッチョッティ・ガリバルディ大佐に率いられる第4旅団の2~3,000名は既述通り東進する独第7軍団を監視しつつ1月13日にはアヴォ(シャティヨン=シュル=セーヌの南東42.5キロ)にいましたが、独南軍が本格的に始動し東進を始めたため、これ以上接触することなくイス=シュル=ティーユ(アヴォの南南東13キロ)を経由してディジョンへ進みました。
ロビア大佐率いるヴォージュ軍第2旅団は、その一部を旅団長が直率して同13日に独第2軍団の行軍路上となるビリー=レ=シャンソー(イス=シュル=ティーユの西30.5キロ)にいましたが、こちらもスロンジェ経由でフォンテーヌ=フランセーズへ退却します。その後ロビア大佐は迂回路を取り、既述通りラングル要塞へ弾薬輸送を行い成功させました。
ディジョンから動かないガリバルディ将軍(自身はリウマチで馬無しでは動けない状態だったと伝わります)はリッチョッティが帰還すると代わりにその兄メノッティ率いる第3旅団の一部と独立した義勇兵集団数個をサン=セーヌ=ラベイ(ディジョンの北西23キロ)へ進ませました。メノッティ将軍はこの地で独軍の東進を監視しましたが既述通り17日に独第2軍団の右翼後衛(フォン・ファレンハイル=グリュッペンベルク大佐指揮の支隊)に発見されて戦闘となり損害を受けつつ退却しています。
このように「イタリア王国誕生の立役者」で「ゲリラ戦の大家」・希代の英雄との名高いガリバルディ将軍としては不可思議な消極さでしたがこれも無理はなく、既述(『ガリバルディの「ヴォージュ軍」攻勢』を参照願います)ですが元より「赤過ぎる」ガリバルディとその配下をガンベタらボルドー派遣部は毛嫌いし、糧食・弾薬補給や協力も形ばかりで最低限、兵員の補充や増強についても「自分たちには手に余る」義勇兵や無教練で全く使い物にならない新兵や戦意ばかりが高い老兵などを追い出すように与えており、それも武器や装備(特に軍靴と防寒具の欠如は悲惨の極地でした)なく文字通り素手で到着する部隊すら多かったのです。これではさすがのガリバルディ将軍とえども少数先鋭の独軍相手に攻勢へ撃って出られるはずもなく、じっと我慢で烏合の衆の教練を続け、五月雨のようにじれったいほど少量が届く武器や弾薬を蓄積して、1月18日には初めてディジョン郊外の砲兵陣地に雑多な砲12門を設置しました。「戦いたいなら感謝はしますがどうぞご勝手に」と冷たいボルドー派遣部は、1月下旬しれっと「ヴォージュ軍は英雄ガリバルディ指揮の下兵力5万・砲90門」と喧伝していますがこれも大分盛っているようです。
つまりはガリバルディ将軍に百戦錬磨の独軍と正面から野戦に撃って出る余裕も実力もなく、得意とするゲリラ戦も貧弱な装備と武器では冬のコート=ドール山地で仕掛けるにリスクがあり過ぎたのでした。
それでも戦闘未経験の臨時護国軍兵集団であるペリシエ師団がディジョン防衛の要となり、多少経験のあるヴォージュ軍の方が山地や河川の作る広野で戦うよう運命付けられていました。
ジュゼッペ・ガリバルディ
この少し前の1月15日。グレーではヴォージュ軍参謀長で仏におけるガリバルディ将軍の親友、医師でもあるジョセフ・ボルドーネ准将が少数の守備隊を率いて市街を守っていましたが、この日ラングルから「独軍南東方向へ前進す」との情報が飛び込んで来ました。仏人ながらガリバルディ将軍を良く支えていたボルドーネ准将は度々ディジョンのガリバルディに対し増援を要請していましたが「我(ディジョン)も危機に瀕している」との回答があり「援軍は送ることが出来ない」と拒否されてしまいました。このため、独軍の前衛がソーヌ対岸に現れるとボルドーネは「防御に乏しいソーヌ河畔で戦うよりは」と潔くグレーを棄てて南下し、道中街道沿いに残されていた雑多な守備隊を吸収しつつドゥー河畔の主邑ドールに至ります。ボルドーネ将軍はここに急ぎ防御工事を施すと21日、フォン・コブリンスキー将軍率いる独前衛と衝突したのでした。
独南軍の進撃を知ったガリバルディ将軍は1月19日、遂にヴォージュ軍を動かします。この時には既に独軍はソーヌ渡河を終えており、ヴォージュ軍は三本の縦隊に別れてディジョンの北方10キロ前後まで進みましたが、ここで停止してしまいました。もしもガリバルディ将軍が当初の予定通り麾下をイス=シュル=ティーユ付近まで進めていればヴォージュ軍は第4師団の半部(フォン・ケットラー支隊以外。師団長ハン・フォン・ワイヘルン中将が率いました)と衝突したはずで、独南軍全体の行軍にも影響が及んだはずでした。しかしヴォージュ軍は独前哨とも衝突することはなく、ガリバルディ将軍自身はメッシニー(=エ=ヴァントゥー。ディジョンの北10キロ)付近の高地上から独第2軍団の行軍を観察するだけで満足しそれ以上の行動を断念、ヴォージュ軍はメッシニー周辺に守備隊を残すと独軍の遥か南方で踵を返し、単なる長距離の「散歩」に終わった将兵は元気一杯に「ラ・マルセイエーズ」(当時・1871年1月は未だ正式な国歌ではなく革命の歌でした)を唱和しながらディジョンに帰ったのでした。
こうして仏ヴォージュ軍は独南軍との直接衝突を避けますが、ディジョンの防御力を高めるための努力は惜しまず、独第14軍団の放棄(12月30日)後3週間を経るとディジョンはたとえ独軍でも1個師団程度では攻略するに困難な兵力と防御力を蓄える都市へと変貌するのでした。
ディジョン市街南部でウシュ川に合流するシュゾン川の上流西側、フォンテーヌ=レ=ディジョンの部落(ディジョン中心地から北北西へ3キロ)とその南西ウシュ川の北にあるタランの部落(フォンテーヌの南西1.4キロ)にはそれぞれ目立って起立する高地があり、この高地と部落には重厚な防御が設えられ、貴重な野戦重砲陣地も構築されました。このディジョン市街北西方面は、コート=ドール山地の入口に当り、この二つの部落と高地はサン=セーヌ=ラベイやモンバール方面からディジョンへ接近する敵を阻む外堡の役割を果たし、特にフォンテーヌ(=レ=ディジョン)の防御陣地はモロワやイス=シュル=ティーユ方面から攻め上がる敵に対しても有効な阻止拠点となり、更にその東側にあるラングル本街道(現・国道D974号線)をも管制することが可能となっていました。
市街北方郊外の主陣地はサン=マルタン(フォンティーヌの東南東1.7キロ付近)部落とその周辺地にあり、ガリバルディ将軍はここに即席の堡塁群を築き、その左翼西側はラ・フィヨット(フォンティーヌの西500m付近)付近まで、右翼東側はラ・マラディエール(サン=マルタンの東1.5キロ)とラ・ブロドネ(ラ・マラディエールの南南東1.2キロ)付近で市街外郭に連結するまで断続的に散兵・連絡壕が掘削されていました。
市の東側、グレーから続く街道(現・国道D70号線)はサンタポリネール(ディジョンの北東3.5キロ)部落付近に設営された強化陣地で封鎖され、散兵・連絡壕がミランド(市街東部郊外にあった郭外部落。現・ミランド通り周辺)を経て市街南部の防御陣まで続いていました。
これらの防御施設はヴェルダー将軍がディジョンを占領していた頃から独軍によって起工されたものが多くあり、防御を得意とする仏軍はこれを上手に使って強力な攻勢阻止拠点に仕上げていたのです。また、この最前線陣地の後方には大規模な民家や邸宅が多く存在したため、これは簡単に強固な銃撃拠点に変身するのでした。
このように僅か半月で3万名以上が駐屯する「要塞都市」と化したディジョンに対し、強化1個旅団・戦闘員の実数4,000名程度のフォン・ケットラー支隊が正面から進んで行くことになったのです。
ディジョン周辺図(1871年1月)
ケットラー将軍は1月19日、スミュール=アン=ノーソワ(モンバールの南14.9キロ)に到達すべく行動を起こしました。これは前18日夕刻にモンバール在の将軍の下に届いた、去る16日にプロートワ在のマントイフェル将軍が発した命令「ケットラー支隊はオータン並びにソンベルノン方面の敵情を探れ」に従ったものでした。
ケットラー将軍はモンバールに後方連絡鉄道線の守備として第21連隊第5,6中隊を残置し、フォン・コンタ少佐が指揮する第61連隊フュージリア(F)大隊と竜騎兵第11連隊第1中隊に後続する輜重の護衛を任せると、残りの兵力を率いてモンバールを発ちます。ところが行軍幾ばくもなくマントイフェル将軍から変更命令が届き、それによれば「ケットラー支隊は20日その主力を以てソンベルノン~サン=セーヌ=ラベイの線上に達せよ」とのことだったのです(18日プロートワ発の命令)。
ケットラー将軍は直ちに行軍方向を東に転じてこの19日にはダンピエール=アン=モンターニュ(モンバールの南南東27キロ)周辺で宿営し20日、テュルセ(サン=セーヌ=ラベイの南西6.6キロ)とサン=セーヌ=ラベイに到着したのでした。将軍はここで新たなマントイフェル将軍の命令に接し(グレー発20日夕の命令)これによって21日にディジョン市街へ向け出撃することとなったのでした。同じ頃、第2軍団の輜重護衛に残ってこの日はイス=シュル=ティーユにいたフォン・コンタ少佐の部隊も直接ディジョンに向かって行軍するよう命令が下ります。輜重は21日にティル=シャテルからミルボー=シュル=ベーズ(イス=シュル=ティーユからは南東へ20.5キロ)に進んだヴィルヘルム・カール・テオドール・フォン・ショーン少佐の支隊が護衛を引き継ぎました。
これによって21日、フォン・ケットラー将軍は歩兵5個大隊と1個中隊・騎兵2個中隊・砲兵2個中隊*を三つの縦隊に編成してディジョンに向かい、諸隊は北と西二方面から接近することとなったのです。
※フォン・ケットラー少将支隊21日の行軍序列
□第1縦隊
*サン=セーヌ=ラベイよりディジョン街道(現・国道D971号線)を行軍。
◇フリードリヒ・ユリウス・エルンスト・ヴェイラッハ中佐(第61連隊長代理)の先行隊
○竜騎兵第11「ポンメルン」連隊・第2中隊の1個小隊
○第61「ポンメルン第8」連隊・第1大隊
○野砲兵第2「ポンメルン」連隊・重砲第6中隊
○第21「ポンメルン第4」連隊・第7,8中隊
◇ルドルフ・フォン・ローベンタール大佐(第21連隊長)の後続隊
○第21連隊・9,10,12中隊(第11中隊は行李護衛として後方待機)
○野砲兵第2連隊・軽砲第5中隊
□第2縦隊 ルドルフ・ヘルマン・フォン・クロージク少佐指揮
*テュルセよりディジョンへの街道(現・国道D10号線)を行軍。
○竜騎兵第11連隊・第2中隊の3個小隊
○第21連隊・第1大隊
○第61連隊・第2大隊
□第3縦隊 リヒャルト・カール・フォン・コンタ少佐指揮
*イス=シュル=ティーユよりディジョンへの街道(現・国道D903号線)を行軍。
○竜騎兵第11連隊・第1中隊
○第61連隊・F大隊
フランセキー第2軍団長
☆ タランとフォンティーヌ=レ=ディジョン並びにメッシニーの戦闘(1月21日)
21日早朝。ヴァイラッハ中佐の縦隊がサン=セーヌ=ラベイを出立して間もなく、仏義勇兵と臨時護国軍の集団に遭遇し戦闘状態となりました。しかしこの仏軍は戦慣れしておらず、僅か数発の銃声によって壊乱し四散してしまうのでした。シュゾン川の渓谷を行く第1縦隊左翼前哨も同様義勇兵と護国軍の集団に遭遇しますが、独前哨の数倍・400名を下らないこの仏軍も短時間の戦闘で壊走してしまいました。
第1縦隊の先鋒は午後1時30分、「シャンジェの家」(独立農家。タランの北北西2.4キロ。現存します)に達した時、タランとフォンテーヌ(=レ=ディジョン)から激しい銃砲撃を受けます。先頭に立っていた第61連隊第1大隊は急ぎ散開し、ディジョンへの街道(現・国道D971号線)両側に隆起する高地を占拠し、その援護の下、重砲第6中隊は街道南縁に砲列を敷くと左右両翼の敵陣に対する試射を始め、後続した第21連隊の2個(第7,8)中隊は仏軍の展開する二つの部落に相対するデ(シャンジェの家の東900m)を襲撃、短時間の戦闘で仏守備隊を駆逐しデ部落を占領しました。ところがこの時フォンテーヌとタランの陣地に仏の増援大集団が出現したため、ヴァイラッハ中佐隊と共に進んでいたフォン・ケットラー将軍は急ぎ後続するフォン・ローベンタール隊を呼び寄せ、大佐と共に進んで来た軽砲第5中隊を重砲砲列の隣に展開させてタランとフォンテーヌに猛烈な砲撃を加えさせました。
しかし、午後4時になると仏軍は砲撃をものともせずデ部落に対し攻撃を仕掛けて来ましたが独ポンメルン兵は冷静に銃撃を行って仏兵の突撃を粉砕し、第21連隊兵は逃げる敵を追って敵の防衛線間近まで追撃するのでした。この動きに仏軍も独軍左翼(東側)を包囲しようと機動しましたがこれもデ部落から激しい銃撃を浴び断念するしかありませんでした。この間、ケットラー将軍はデ部落の占領を確実にするため増援として第21連隊の第10中隊をデに送りこんでいました。
一方、クロージク少佐率いる第2縦隊は行軍中仏の臨時護国軍兵や義勇兵の小集団に次々と遭遇しますが、全て簡単に退けて進みます。午後に入りコート=ドール山地を抜け、ウシュ川の作る渓谷に出てソンベルノン~ディジョン街道(現・国道D905号線)へ進み出た時、ボワ・ドゥ・ラ・コンプ・オー・ディアブルの絶壁(タランの西南西5.5キロ付近。現・ヴァルリ駅の南東500m付近ウシュ川南岸の森林高地斜面です)とブルゴーニュ運河(セーヌ支流ヨンヌ川とアルマンソン川合流点に始まりディジョン南東29.6キロのサン=ジャン=ドゥ=ローヌでソーヌ川に合流する運河)との間の狭隘な地帯に入り込んでいた臨時護国軍の集団を発見し、フリッツ・ヘルマン・クンメ大尉率いる第61連隊第2大隊の主力が銃撃を行って敵を拘束する間、アルトゥール・フォン・チッツヴィッツ中尉が数名の部下と共に川岸で発見した渡し船でウシュ川を渡り、続けて運河の閘門上を伝い運河も渡ると川岸に展開する護国軍部隊の背後から散兵陣内に闖入し、驚く護国軍兵を次々に捕縛、その手にした武器を奪うと運河に放り込みました。包囲された上にチッツヴィッツ中尉らの豪胆な行動を見せ付けられた仏将兵は敗北を悟り、武器を投げ捨て投降するのでした。この時の捕虜は士官7名下士官兵177名に上ります。
クロージク隊は午後4時過ぎケットラー将軍の本隊(第1縦隊)左翼に連なるプロンピエール(=レ=ディジョン。タランの西2.4キロ)に達し、ここにいた仏守備隊と激しい銃撃戦となり、最後には突撃を敢行して午後5時過ぎに部落を占領しました。
この間、フォン・ケットラー将軍は難攻のタラン部落を攻略するため砲兵2個中隊で仏軍陣地に対する集中砲撃を実行させます。同時にそれまで後方予備として待機させていた第21連隊F大隊の2個中隊と、クロージク少佐が率いて到着した第61連隊の2個(第6,7)中隊を最前線まで呼び寄せました。因みに第61連隊第2大隊中、第8中隊はブルゴーニュ運河で捕縛した仏軍捕虜を監視・護送するために離れており、第5中隊は後続する支隊の車両縦列を護衛していました。
ケットラー将軍は増援の4個中隊(1個大隊)が配置に就くのを待った後の午後5時30分、前線一帯で吶喊攻撃を敢行し、敵陣に飛び込み白兵に及んだポンメルン兵は仏軍に激しい動揺を呼び込みます。形勢は一気に独軍有利となり、仏軍は各個に撃破・駆逐され生き延びた将兵は命辛々ディジョン方面へ逃げ延びて行きました。これを追撃した独の前衛兵はタラン部落のある高地直下の民家群も占拠するのです。
ここで日が暮れ急速に夜陰が迫ったためケットラー将軍は攻撃中止を命じました。将軍麾下が築いた戦線は数的優位にある仏軍が間近に存在する危うい状況下にありましたが、タラン部落とその周辺部に設えてあった陣地は非常に強固で良く出来ていたのでケットラー将軍は退くことなく現在地に止まることを麾下に命じたのでした。将軍は用心のため第21連隊第1大隊を左翼(北側)外警戒のためオトヴィル(デの北1.7キロ)に向かわせ、ここを占領させます。この大隊諸中隊は宿営に就く前、部落内で仏残存兵複数を発見しこれを捕縛した後になってようやく休息することが出来たのでした。
タラン部落の高地からディジョン市街を眺める(20世紀初頭)
ケットラー支隊本隊である第1と第2縦隊この日の弾薬消費量は大きく、この夜諸隊は補充することが出来ない状況にありました。また前線指揮官に死傷者が多く発生し、第61連隊のプリーブシュ少佐とリヒャルト・フォン・ピルヒ大尉、第21連隊の伯爵フォン・プレベンドウ=プレツェベンドウスキ中尉が瀕死の重傷を負っています(全員数日中に亡くなりました)。
タランとフォンティーヌの戦闘は午後6時になって終焉しています。
単独行動していたフォン・コンタ少佐(彼の兄は第9旅団長のベルンハルトです)の第3縦隊は、タランとフォンティーヌの戦闘中も前進を続け同じく仏軍と衝突していました。
フォン・コンタ少佐はディジョンへの前進命令を受けると隊を整え、早朝イス=シュル=ティーユを発します。
当初行軍は順調でしたがやがてメッシニー=エ=ヴァントゥ~ノルジュ=ラ=ヴィル(メッシニーの東4.5キロ)間の本街道沿いと両部落の南方に自分たちの数倍はすると思われる仏軍がいるのを望見しました。少佐は出来る限り本日中にケットラー将軍と合流を計りたいと考え、躊躇せずに第9,11の両中隊をメッシニー(=エ=ヴァントゥ)部落に接するブドウ畑と部落内へ進撃させ、第12中隊をノルジュ(=ラ=ヴィル)部落付近のノルジュの森(ボワ・ドゥ・ノルジュ。国道D903号線とノルジュ部落の間に現在もある森です)に侵入させました。この最後の中隊は森林内を確保した直後、森の南方にあるアニエール(=レ=ディジョン。ノルジュの南西3.4キロ)部落から仏軍部隊の攻撃を受けますがこれを撃退しています。残った第10中隊はサヴィニー=ル=セック(ノルジュの北北西3.2キロ)付近に陣を構えノルジュ方面からメッシニーを狙う包囲攻撃に備えるのでした。この間、南方ディジョンの西郊外から轟く戦場音は明らかに高まりつつありましたが、コンタ隊はそちらに通じるよう動くことは出来ず、数倍する敵兵が籠もるメッシニー部落内でじわじわと拠点を増やすことに勢力を傾けたのです。この市街戦で第61連隊第11中隊長の若き伯爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・コンスタンティン・フォン・シュヴェリーン中尉が銃弾を頭に受けて戦死し、隊付き士官のバウダッハ大尉も重傷を負ってしまいました。
結局夕刻近く午後4時30分頃まで続いた戦闘で仏軍は完全にメッシニー部落から追い出され、シュゾン川を越えてヴァントゥー(メッシニーの南1キロ)へ退却し、その間にシュゾン川に架かる貴重な橋梁を破壊して行きました。しかしノルジュでは未だ仏軍守備隊が居残って頑強に抵抗していたためコンタ隊は数倍する敵に隣接したまま夜を迎えることとなり、少佐らは負傷者を抱えてノルジュの部落と森からサヴィニー=ル=セックへ後退しここで夜を明かすことにするのでした。結局コンタ少佐はこの日、ケットラー将軍と連絡を取ることが出来なかったのです。
1月21日におけるフォン・ケットラー支隊の損害は、士官20名(軍医1名を含みます)・下士官兵322名(戦死84名/馬匹16頭・負傷233名/馬匹9頭・捕虜25名)と大きく(将兵11名に一人の割合)、対する仏軍も捕虜だけで士官7名・下士官兵430名を数えました(市街戦など近接戦闘も多かったため死傷者も独軍と同数前後あったものと推定されます)。この損害は1月上旬に困難な行軍を続け、その後も厳寒の中敵地を遊動していた支隊にとって大きな打撃となります。また弾薬補給もままならず、諸中隊の将兵はこの日も温かい食事にありつくことは出来ませんでした。
この日の激戦で、さすがに麾下将兵が疲弊したと考えたフォン・ケットラー将軍は翌22日、それぞれ現在地より至近の部落を接収し休養するよう部下に命じます。
この動き(運動を認めるも攻撃して来ず)を察知した仏軍側は砲撃やシャスポーの遠距離射撃を試みますが、これは全く効力なくケットラー支隊に損害を与えることが出来ませんでした。それでは、と一部の仏軍部隊は前線の陣地から出撃に及びますが、これは油断せず前哨を置いて警戒していた独軍から激しい銃撃を浴び、攻撃機動に入る前撃退されてしまいました。
しかしこの日、シャンジェの家に置かれていた独第2軍団の第2野戦病院が襲撃され、軍医に看護兵、負傷兵が拉致されるという事件が発生しています(明らかな1864年ジュネーブ赤十字条約第三条第一項違反です)。しかし敵の大軍を目前にしたケットラー支隊はこの日、心配していた仏軍の総攻撃を受けることなく、野戦病院の一件以外目立つ戦闘は発生しませんでした。
また、支隊は休憩中に到着した弾薬縦列により、十分とは言えないもののそれなりに弾薬補充を受けることが出来たのです。
タランの1870・71年戦争記念碑
ジョゼフ・ボサック=オーク(ジョゼ・ボサカ・ハウケ)/1834-1871
ジョゼ・ボサカ・ハウケは1834年3月、ロシア帝国首都サンクトペテルブルクに、フランドル地方を起源とするポーランド貴族の子息として生まれました。激動の18世紀末・1790年に生まれた彼の父ジョゼ(ヨシフ)は16歳でナポレオン帝国軍傘下のポーランド軍団に入隊します。ナポレオン戦争中ティルジットの和約でワルシャワ公国が成立した後に公国陸軍に移籍、オーストリア軍と戦い功績を上げました。しかしナポレオン・フランス帝国は敗北して消滅し、ポーランドは改めてロシア帝国に吸収され、ジョゼ・ハウケもロシア帝国軍に再度移籍、1828年の露土戦争に参戦しました。軍歴の最期にサンクトペテルブルクで皇帝副官の一人として勤務、この時にボサカが生まれるのです。ボサカ3歳の時に父が死去しますが、ロシア皇帝から信任されていた父の影響でボサカも陸軍士官候補生学校(カデット軍団)に入学し、やがて陸軍士官学校(パジ軍団)に進み、卒業後の55年、アレクサンドル2世の副官の一人として軍歴をスタートします。その後、コーカサスで反乱軍と戦いその功績により61年には2つの勲章を授与されました。62年に大佐へ昇進しますがこの頃から祖国ポーランドではロシアに対する独立抗争が表面化し、ボサカ・ハウケは祖国愛からポーランドの蜂起に同調し、同胞を裏切れないと帝国軍に辞表を出しますが拒否されたため長期休暇を申請して軍から離れ、やがて1月蜂起(1863年)が発生すると正式に軍を辞任しました。ボサカは1月蜂起の首謀者ロミュアルド・トラウグトに認められ反乱軍第2軍団(第2クラクフ軍団と呼ばれます)を率い、クラクフ東方ビスワ川の西でいくつかの戦闘を行いますが64年2月のオパトフスカの戦いでロシア軍に大敗し、1月蜂起は実質的に終焉、ポーランドから脱出したボサカは亡命を余儀なくされます。スイスで亡命生活を送っていたボサカは仏第二帝政の崩壊でフランスに渡り、やがてガリバルディが義勇兵を率いて仏に入ると彼の下に馳せ参じ、大佐として第1旅団を任されるのです(70年10月20日)。ガリバルディ軍団が「ヴォージュ軍」として仏国防政府に正式に認知されるとボサカも仏軍准将の階級(ヴォージュ軍では将軍で通ります)を得て、11月下旬のコート=ドール山地での遊撃戦やオータン攻防戦でも活躍しました。
1871年1月21日。フォンテーヌ=レ=ディジョンの強化陣地を任されていたハウケ将軍はダロワから街道をデに向かって進撃中の敵(ケットラー将軍本隊の第1縦隊)を迎え撃とうと護国軍第42「アヴェロン県」連隊を直率しオトヴィル=レ=ディジョンからシュゾンの森(ボワ・ドゥ・シュゾン。デの北北西5キロ付近に広がる森)に入り、独軍に占領されたデ部落を背後から襲撃しようと企て、麾下を整列させ攻撃を開始しますが午後4時頃に逆襲され、その最中銃撃を浴びて瀕死の重傷を負った彼は混乱の中、行方不明となります。ハウケ旅団は直ちに編成中の第5旅団長で第1旅団と共に行動していたステファーノ・カンツィオ大佐が指揮を代わってフォンテーヌへ退却しました。ハウケ将軍の遺体は数日後まで発見されず、ケットラー支隊が去った後に発見された遺体は貴重品が奪われ、死後に受けたと思われる傷が無数に付けられていました。
後にハウケ旅団の生き残った兵士により将軍の最期が語られ、それによれば「午後遅く将軍は自身の周りに200名を集め、残りを散兵として散開させました。戦闘は先鋒小隊の銃撃で始まり、500メートルほど離れた場所に散開する敵に向かって前進しました。しかし激しい銃撃を受け、部隊の半数近くが倒れると将軍も倒れてしまいます。彼の身体は多くの銃弾を受けて血だらけでした。突進して来た普軍兵士たちは、将軍が倒れているのを見て歓声を上げていました。それでも瀕死の将軍は彼の身体に手を掛ける兵士に抗いましたがやがて動かなくなったのです」
重傷を負い独兵に剣を奪われるハウケ将軍
ハウケ将軍の遺体はディジョンへ運ばれガリバルディ将軍は沈痛な面持ちで彼に賛辞を捧げます。ハウケ将軍は家族によってスイスへ運ばれ埋葬されました。現在もディジョンには将軍の記念プレートがあり、オトヴィルのシュゾンの森街道脇(将軍が戦死したと思われる地点。オトヴィルの西2.4キロ)には立派な顕彰碑が建っています。
ボサカ・ハウケ将軍戦死の地に立つ顕彰碑




