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独南軍・ドゥー川方面に転進す


☆ 1月19日


 独南軍司令官フォン・マントイフェル騎兵大将が下した1月19日における南軍作戦命令では、「軍はこれまでと変わらず東進を続行する予定」としたものの、「リゼーヌ河畔の戦い」敗戦によってブルバキ将軍率いる仏東部軍が撤退を始めたため「急遽右旋回を要する場合もあり得るので、これに備える」ことも命じていました。


挿絵(By みてみん)

仏南東戦線・1月19日


 この日、フォン・フランセキー歩兵大将の第2軍団前衛は、早朝の斥候報告により前日の夕刻まで仏軍守備隊の存在が確認されていたグレー市街にその形跡が見られなかったため、破壊されずに残っていたソーヌ橋梁二本を利用して市内に進駐しました。前衛は市内を捜索・住民を威圧して街の占領を確実にすると、この日は市街で宿営に入りました。

 第3師団はオートレイ=レ=グレー(グレーの北西8.8キロ)周辺へ達し、それまで左翼(南方)を警戒していたフォン・ダンネンベルク大佐支隊はフォンテーヌ=フランセーズ(同北西18.9キロ)に至ります。軍団砲兵隊はサン=セーヌ=レグリーズ(現/サン=セーヌ=シュル=ヴァンジャンヌ。フォンテーヌ=フランセーズの東4.5キロ)へ、師団長が直率する第4師団の残り半数はダンネンベルク支隊に代わってディジョン方面警戒のためティル=シャテル(イス=シュル=ティーユの東4.8キロ)周辺に進み出て宿営に入りました。この時、ディジョンの仏軍(ペリシエ師団とヴォージュ軍主力)は独軍前哨からおよそ13、4キロ離れたアルソー(ディジョンの北東13キロ)~ノルジュ=ラ=ヴィル(同北北東9.8キロ)~サヴィニー=ル=セック(ノルジュ=ラ=ヴィルの北北西3.2キロ)の線上に前哨を展開していました。


 同日。フォン・ツァストロウ歩兵大将の第7軍団麾下第13師団前衛はソーヌ河畔のサヴォユー(グレーの北東16.3キロ)に達し、同地に架かる鉄道橋(現在廃線のグレー~ブズール鉄道)が無事であることを確認しました。この橋は一度フォン・ヴェルダー将軍の独第14軍団が破壊し落としていましたが、仏軍が修理して復活したものです。この日、前衛の工兵はスヴー(サヴォユーの北1キロ)で破壊された橋(現・国道D5号線の橋)を調査しますが、これは修理不能なまでに徹底破壊されており、やむを得ず貴重な野戦軽架橋縦列の材料を使い一本の軍橋をソーヌに架け、更にもう一本の架橋準備に入りました。

 このソーヌの架橋工事を推進するためツァストロウ将軍は第14師団配下の第7軍団野戦工兵第2中隊を第13師団へ送り、軍団本営の工兵部長トロイマン少佐が架橋の全般指揮に就きました。

 少佐らは午後8時までにスヴーの上流に57m長の軍橋を架けます。この橋は当地のソーヌ川が深かったため浮き橋方式を採り、トロイマン少佐は5個の浮き橋桁を作らせて対応すると、何とか歩兵と騎兵のみ通行可能な橋とするのでした。しかし流氷のため橋が壊れる危険性が高まり、深夜に一度解体せざるを得なくなります。工兵たちは極寒の早朝に再び橋を架け始め、20日朝には再び歩兵が渡河する姿が見られたのでした。

 この日の行軍で第13師団本隊はサヴォユーに至った前衛に追従してダンピエール=シュル=サロン(サヴォユーの西5.2キロ)に進み、右翼縦隊は第2軍団と連絡を取るためヴェルー(同南西7.8キロ)に向かいました。


挿絵(By みてみん)

普軍の野戦工兵(近衛軍団)


 第14師団は第13師団の左翼(北)側を併進して、その前衛はラヴォンクール(サヴォユーの北北東9キロ)に達し、師団本隊はヴァイット(同北北西5.2キロ)に至りました。軍団砲兵隊はこの日シャンリット(グレーの北19.8キロ)まで進んでいます。

 また、前述通りエピナル方面へ変更した新たな後方連絡線を行く諸隊にサン=ルー(=シュル=スムーズ)へ進む予定の第14軍団フォン・ヴィリゼン大佐支隊との連絡を通すため別働隊が派遣されました。

 この連絡隊は驃騎兵第15「ハノーファー」連隊第3中隊のフォン・ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフ中尉を指揮官とする中尉の中隊騎兵約半数(100騎前後)とフュージリア第39「ニーダーライン」連隊の50名からなる小部隊で、この後国民衛兵や義勇兵が跋扈する敵地を横断し21日にサン=ルーに到着しますが、中尉らの出現に驚いた現地の臨時護国軍1個大隊は戦わずに街を捨て、コンフラン(=シュル=ランテルヌ。サン=ルーの南南西9キロ)に向け後退して行きました。中尉らは兵站連絡線を防衛するロートリンゲン総督府部隊やヴィリゼン支隊と連絡を通すことに成功すると第7軍団の輜重縦列や補充兵の行軍を護衛し、オーソンヌ攻撃(後述)に協力した後の2月4日に原隊へ帰還しています。


 マントイフェル将軍の本営はプロートワからフォンティーヌ=フランセーズへ移動し、ここでフォン・ヴェルダー将軍の電信報告を受領しました。それに因ればヴェルダー将軍の第14軍団は同19日に前衛により、翌20日には本隊も後退するブルバキ仏東部軍を追って右翼はベルヴェルヌ経由でリュール方面へ、左翼はソルノやアルセ方面へ、それぞれ前進するとのことでした。その後第二信が届き、第14軍団は20日ノロワ=ル=ブール(ブズールの東11.1キロ)~ヴィルセクシュエル~オナン(アルセの南西4.3キロ)の線上に達する予定、とのことでした。


 フォンティーヌ=フランセーヌに移動したマントイフェル将軍は翌20日の行動命令を次のように発します。


「1871年1月19日 午後6時フォンティーヌ=フランセーヌ発

南軍命令

フォン・ヴェルダー将軍は本日、15から17日まで三日間の戦闘により仏第15、第18、第20、第24軍団(第25軍団も含んでいる可能性あり)から成るブルバキ軍をベルフォール要塞外の陣地にて撃退した。結果、敵の退却は既に17日夕刻には始まったものと推測され、その後の情報によりこれは確実となった。従って敵主力は17日、行軍縦隊に組織され後退に転じたのではないかと考える。18日、敵はフォン・ヴェルダー将軍に対するため約3個師団に相当する後衛を従前の防御陣地に残留させた。しかし敵の後退に関しては、ソーヌ~ドゥー河川間において後退するものか、またはドゥー川とスイス国境との間を後退するものか未だ明らかではない。フォン・ヴェルダー将軍の報告に因れば、本日前衛により、20日本隊によって現地を出立し、進撃方向はヴィルセクシュエルを中心とする南北線上、とのことである。本官はヴェルダー将軍に対し、ベルフォール攻囲に必要な最低限の兵力を残置する以外全力で敵を追うことを命じたところである。

本官は南軍本隊によって状況に応じ、退却する敵の側面を突くか、またはその進路を遮ろうと考えている。このため、明日、諸団隊は次の通り行動せよ。

第2軍団は本隊を以て、グレー付近でソーヌ左岸(ここでは南岸)に集合してブザンソンに至る諸街道を捜索し、前衛を(オニヨン河畔の)ペスム(グレーの南18.6キロ)方面へ進出させること。今日においてティル=シャテル付近に残留する支隊はミルボー(=シュル=ベーズ。同西南西21.2キロ)を経由して軍団に帰還させよ。しかしティル=シャテルにはディジョンを監視し同時にフォン・ケットラー将軍への連絡を通すため適当な兵力を残置させること。

第7軍団は左翼(北又は東)によりブズールを経由してフォン・ヴェルダー将軍の軍団中ソーヌ~オニヨン河川間を前進する諸隊と連絡せよ。この際、サヴォユーとオーテ(サヴォユーの西4キロ)付近においてソーヌを渡河すること。これに使用するため少なくとも一本の橋梁を架設せよ。同本隊はソヴィニー(=レ=グレー。グレーの東11キロ)~シテ(ソヴィニーの南東4.2キロ)間に至り前衛をブザンソン方面へ派遣せよ。同時にリオ(シテの東21キロ。ブザンソンからは北へ21キロ)に対する警戒を行い、これを偵察せよ。

輜重は一時緊急を要するもの以外、明日はこれをソーヌ右岸に留め置き、諸隊の行軍を妨げることの無きよう。

ラングルに対しては第7軍団が、ディジョンに対しては第2軍団が、それぞれ今まで通り監視の任を怠らぬこと。

両軍団の作戦境界はグレー~ショワ~ブザンソンへの諸街道(現・国道D474~D11~D8~D70号線)を以てこれに当て、街道自体と沿道の部落は第7軍団が使用する。

軍本営は明日グレーに転進する。

   軍司令官 男爵フォン・マントイフェル」(筆者意訳)


挿絵(By みてみん)

若い歩哨


☆ 1月20日


 この日。リゼーヌ河畔の戦いの影響を受け、前述の命令通り独南軍本隊は進撃方向を「東」から「南」へ転換します。

 右翼南への軍旋回軸となる第2軍団は、その前衛(第5旅団を中核とするコブリンスキー支隊)がペスム付近で仏軍に遭遇しました。この約200名1個中隊の仏護国軍部隊はオニヨン川の南岸に陣取り、独軍工兵が始めた架橋工事を妨害しようと企てたのです。これに対し独軍は川を越えた砲撃と銃撃で護国軍を叩き、仏兵はたまらず後退して行き架橋は完成したのでした。

 その後方では第3師団の本隊と軍団砲兵隊がソーヌを渡河し命令通り左岸に移ります。フォン・ダンネンベルク大佐の支隊もこれに続きグレーに至りました。第4師団の半数も軍命令に従って一支隊*をティル=シャテルに残置すると、残りはエッセルネンヌ(=エ=スセ。グレーの南西10.1キロ)とミルボー(シュル=ベーズ)間に到達しました。


※1月20日・ティル=シャテルに駐留した諸隊

ヴィルヘルム・カール・テオドール・フォン・ショーン少佐指揮

○第49「ポンメルン第6」連隊・F大隊

○竜騎兵第11「ポンメルン」連隊・第5中隊の半数


挿絵(By みてみん)

仏南東戦線・1月20日


 第7軍団の第13師団はサヴォユー付近でソーヌを渡り前衛をショワ(グレーの南東14キロ)やギー(ショワの東北東4.2キロ)に進ませます。本隊は前衛の直ぐ後方にある諸部落に宿営を求めました。同じく第14師団はサヴォユーとスヴーに架設した軍橋によってソーヌ渡河を行い、この日新設した前衛支隊*をモン=レ=エトレル(ギーの北東6.7キロ)とフラン=ル=シャトー(同北東8.7キロ)へ送り、本隊はサン=ガン(サヴォユーの南東8.4キロ)周辺で宿営に入りました。軍団の砲兵隊もまた第14師団本隊と同じ宿営地に入ります。

 同軍団諸隊から放たれた斥候たちは行軍予定地の前方から仏軍の様々な規模の部隊がブザンソン方面へ撤退する様子を観察し報告するのでした。


※1月20日・第14師団の前衛支隊

フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・フォン・パンヴィッツ大佐(第27旅団長)指揮

○フュージリア第39「ニーダーライン」連隊

○驃騎兵第15「ハノーファー」連隊・第4中隊

○野砲兵第7連隊・軽砲第2中隊

○第7軍団野戦工兵第2中隊


 ラングル監視のため、18日からブール(ラングルの南7.8キロ)付近にあったゼンケル大尉が指揮する支隊(第53「ヴェストファーレン第5」連隊F大隊主体)は、後続して来た輜重の一部と第7軍団の野戦工兵第3中隊を合流させ、共にヴァイット(サヴォユーの北北西5.2キロ)へ進みます。

 この支隊は既に前日(19日)、ブールからロンジョー(ブールの南3キロ)経由でフレット(ロンジョーの南東21.5キロ)に向かい、第53連隊の第10中隊をサン=ミッシェル(ロンジョーの南5キロ)へ分派していました。これは軍本営から直接下された命令の結果で、前述通り支隊はシャティヨン(=シュル=セーヌ)から本隊復帰を目指す第7軍団の最後尾縦隊を最適な行軍路へ誘導するよう命じられていたのでした。


 この日マントイフェル将軍の本営は、フォン・ヴェルダー将軍右翼との連絡を通すために派遣したフォン・ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフ隊とは別に、第14軍団本隊との連絡も通そうと一隊(伯爵フォン・ボッホルツ=アッセブルク少尉を隊長とする驃騎兵第15連隊の30騎と第53連隊の20名)を東方へ分遣しています。


 夕刻。グレーに移動したマントイフェル将軍は翌21日のための行動命令を次のように発しました。


「1871年1月20日 午後5時グレー発

南軍命令

我が軍は明日、ドゥー川に向けて前進を継続する。このため、第2軍団はドール(ペスムの南21.4キロ)を、第7軍団はダンピエール(=シュル=サロン)を、それぞれ前衛の主目標として行軍すること。

第2軍団はオニヨン流域のペスム並びにモンタニー(ペスムの東7.4キロ)付近に集合せよ。ドール方面へ向かう前衛は行軍中、鉄道を出来る限り合流点で破壊し、電信線も切断して敵のリヨンとの連絡を絶つよう努めよ。但しドールより上流のドゥー川諸橋梁については我が軍が利用することを考え確保・警備せよ。なお、ディジョンに対する警戒とフォン・ケットラー将軍支隊との連絡を行っているハン・フォン・ワイヘルン中将指揮の兵団(第4師団の半数)は一時軍団に帰還させ、必要ならばオーソンヌ要塞に対して警戒を行うようにせよ。同兵団には明日、ディジョンへ向かうよう命じる予定である。またグレーとソーヌに架かる橋梁は引き続き占領と警戒を続行するのでこれに備えよ。

第7軍団はマルネー(モンタニーの東8.3キロ)からオードゥー(マルネーの南東8.1キロ)周辺までに到達しブザンソン方面に対する警戒を行うこと。また前衛から一支隊をダンピエール(=シュル=サロン。マルネーからは南へ15.2キロ)へ派遣しその先鋒は可能な限りドゥー沿岸まで進んで渡河点を偵察し、出来ればこれを占領せよ。また後衛の一支隊をリス周辺に残置し、フォン・ヴェルダー将軍の前衛と連絡を通すこと。

明日はグレー~ダンピエール鉄道線をして第2、第7軍団の作戦境界とする。それぞれ輜重を呼び寄せるか否かについては軍団本営に任せる。

本官と軍本営は明日ペスムに進むこととなる。

   軍司令官 男爵フォン・マントイフェル」(筆者意訳)


挿絵(By みてみん)

寒気の中で


☆ 1月21日・独第2軍団/ドールの戦闘


 この日第5旅団長ユリウス・フォン・コブリンスキー少将率いる第2軍団前衛は、軍命令に従いドールを目指して前進し、午後2時30分前後にドール市街前面に達します。市街偵察のために先行した擲弾兵第2連隊本部付のアレクサンダー・フェルディナント・ルドルフ・フォン・クアスト少尉(後の歩兵大将で第一次大戦では第6軍を指揮しました)は竜騎兵第3連隊から1個小隊を借り受けてドール市街に接近すると、全員下馬して郊外の一民家を襲いこれを接収しますが、仏守備隊に気付かれて銃撃戦となり、ドライゼ騎銃の弾薬が心許なくなったため急遽退却(負傷2名)しました。先鋒隊を指揮するフォン・ツィーミィーツキー連隊長は「敵はおよそ1個大隊」との少尉の報告を聞くと直ちに守備隊を攻撃すべく前進したのです。


挿絵(By みてみん)

クアスト(大佐時代)


※1月21日・第2軍団前衛支隊の行軍序列

ハインリッヒ・ヴィルヘルム・オットー・ユリウス・フォン・コブリンスキー少将指揮

*先鋒隊 ヨハン・ヴィルヘルム・ヘルムート・フォン・ツィーミィーツキー大佐(擲弾兵第2連隊長)

○竜騎兵第3「ノイマルク」連隊・第1,4中隊

○擲弾兵第2「ポンメルン第1/国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世」連隊・第2大隊

○野砲兵第2「ポンメルン」連隊・軽砲第2中隊

○擲弾兵第2連隊・F大隊

○擲弾兵第2連隊・第1大隊

*本隊 フォン・コブリンスキー将軍直率

○第42「ポンメルン第5」連隊

○野砲兵第2連隊・重砲第2中隊


 ドール攻撃を決心したツィーミィーツキー大佐は、先ずは定石通り市街に陣取る仏軍陣地を砲撃させますが、歩兵は未だ砲撃中に急速前進して市街の外周部分に突入しました。

 砲撃が止んでから独軍が来るものと考えていたであろう仏軍守備隊は遮蔽に隠れて警戒を怠っていたため完全に不意を突かれ、慌てて陣地を捨てて市街地に入り、民家や外壁を盾に街路で防衛戦を展開します。これに住民の一部も加勢したため一時激しい戦闘となりました。しかし戦慣れした独軍に対し抵抗も長くは続かず、次第に押されて恐慌状態となった仏兵や市民は壊乱し郊外へ遁走するのでした。

 市街制圧後に入城したコブリンスキー将軍はドゥー川に架かる街道橋を調べさせますが、橋は破壊を免れて健在で独軍はドゥー川左岸へ渡って橋頭堡を築いたのでした。

 この戦闘でコブリンスキー隊は士官1名・下士官兵33名(戦死7名・負傷27名)の損害を受け、1,000名程度と見積もられた仏軍は45名の捕虜を含め百数十名前後の損害を受けました。

 しかし戦闘の勝利と市街占領以上にコブリンスキー将軍を驚喜させたのは、停車場を中心に鉄道線路上に遺棄された230輌に及ぶ貨車の中味で、それは敵味方双方喉から手が出る程に切望している満載された糧食と軍需物資でした。これは恐らくリヨンからブザンソンへ運び入れる途上だったと思われ、仏軍に人員損害以上の打撃を与えたものと想像されるのでした。


 コブリンスキー将軍麾下以外の独第3師団はこの日、モワセ(ドールの北11.8キロ)周辺まで進み、ダンネンベルク大佐支隊はソーヌ橋梁警備と市街守備のためグレーに1個大隊(第72連隊第2大隊)を残置するとラ・グランド=レジー(ペスムの北6.2キロ)に達します。

 なお、この地でダンネンベルク大佐はこの臨時集成旅団の指揮を離れ、以降ベルンハルト・フリードリヒ・アウグスト・フォン・デア・クネゼベック大佐が指揮を代わりました。また、それまで支隊に属していた砲兵と騎兵はそれぞれ原隊に帰還すべく隊を離れています(これで支隊は第60「ブランデンブルク第7」連隊と第72「チューリンゲン第4」連隊だけとなりました)。


 第4師団はアプルモン(グレーの南南西6.8キロ)付近に渡橋に耐える一本の橋梁を発見し、これを使用してソーヌを渡るとこの日はオービニー(アプルモンの南7.3キロ)とその周辺農家に宿営しました。また、ティユ=シャテルに駐屯していたディジョン警戒隊はミルボー=シュル=ベーズに、第2軍団砲兵隊はペスムに、それぞれ進みました。


☆ 1月21日・独第7軍団/オニヨン河畔の戦闘 


 コブリンスキー将軍がドールで市街戦に挑んだ頃、ブザンソン方面へ進んだ第7軍団もまたオニヨン河畔で仏軍の妨害に遭遇しました。


 フォン・デア・オステン=ザッケン少将率いる第13師団前衛は、進行方向に強力な敵の存在が予想されたため強化*され、オニヨン川の重要な渡河点であるマルネー(ブザンソンンの西北西20キロ)で仏の護国軍1個大隊と遭遇、これを撃破して駆逐しました。この仏軍は撤退時、オニヨン川に架かる橋梁を爆破して左岸に下がりますが、破壊は十分ではなく橋は半壊の渡河可能状態で残ります。独の前衛たちは直ちに橋の補修に従事し、落橋を防ぐ応急処置を施した後に橋を渡り、午後10時前後にランテンヌ=ヴェルティエール(マルネーの南6.3キロ)とオードゥー(同東南東8.1キロ)に達し、両地で仏守備隊を駆逐すると約50名の捕虜を獲得しました。なお、師団本隊は翌日のオニヨン渡河を目指してマルネー周辺まで前進しています。


※1月21日・オステン=ザッケン支隊(第13師団前衛)への増援

○第13「ヴェストファーレン第1」連隊・第2、F大隊

○野砲兵第7連隊・軽砲第6中隊

*支隊はこれで歩兵5個大隊・騎兵2個中隊・砲兵2個中隊・工兵1個中隊と混成旅団級になります。


挿絵(By みてみん)

オステン=ザッケン


 一方、フォン・パンヴィッツ大佐が率いる第14師団の前衛支隊は同じくオニヨン河畔のエテュ(マルネーの東北東14.3キロ)付近で約1個大隊(800名)の護国軍部隊と遭遇してこれを対岸まで撃退しました。この仏軍守備隊もブザンソン方向へ逃走し、オニヨン川を渡った後に人道橋を破壊しますが、急いたためかこれも十分ではなく、半壊した橋は兵一人であれば順番に渡れるだけの強度を保っていたのです。このためパンヴィッツ大佐は追撃隊(フュージリア第39連隊・第5,6中隊と第7軍団野戦工兵第2中隊の半数)を組織して橋を渡らせ、この部隊は対岸のキュセ=シュル=ロニヨン(エテュの南1.2キロ)を占領しました。

 大佐はこの夜、対岸に渡った部隊に警戒させつつ半壊した橋を修理させ、残りの本隊を下流へ進ませてパン(同南西6.5キロ)に至ると、同地ではちょうど第13師団の先鋒(第55「ヴェストファーレン第6」連隊の第1,3中隊)が仏軍と交戦中でした。偶然とはいえ強力な増援の登場で仏軍部隊は急ぎオニヨン川を渡り、対岸のエマニー(パンの南1キロ)へ撤退するのです。この仏軍はしばらく川を挟んで独軍と対峙しますが、夜陰に紛れて南方へと消えたのでした。

 仏軍が撤退に当たって破壊したエマニーの橋梁は闇の中では修理出来ず、両師団前衛や追って到着した第14師団本隊は渡河出来ずにエテュ~マルネー間の右岸一帯で宿営しました。エマニー橋は翌朝、連日架橋に大活躍するパンヴィッツ支隊の第7軍団野戦工兵第2中隊半数が人馬共に渡れるよう修繕しています。

 この日。第7軍団砲兵隊は第13師団の行軍列後方に続行してアヴリニー(マルネーの北5.1キロ)まで進みました。

 第14師団から発した驃騎兵第15連隊の斥侯は、ヴェルダー軍団本隊との連絡を狙い、リオを通過して更に東へ進み、モンボゾン(リオの東北東15キロ)付近で仏兵数名を捕らえて尋問すると「3万人に及ぶ兵団が付近にいる」との供述を得ます。ブルバキ将軍はこの日の命令を「ドゥー川右岸においてボワ・ラ・ヴィル(モンボゾンの南東15.8キロ)~ラ・ブルトゥニエール(同南9.5キロ)又はピュサン(同南東6.3キロ)を経てシャティオン=ル=デュック(ブザンソンの北8キロ)やミスレ=サリーヌ(同北北西6.7キロ)に至る広範な陣地を占め、前哨をオニヨン川の諸渡河点へ先遣せよ」としています。捕虜の言う「3万の兵団」とはどの軍団を示すのか不明ですが、これでブルバキ軍の前衛が独前衛と接触し一部では戦うことになったと知れました。

 同じくこの日はヴェルダー軍団のバーデン竜騎兵斥侯も早朝ノロワ=ル=ブール(ブズールの東11.1キロ)を発して南西へ進み、夕刻無事にマルネーへ到着(直線距離でも60キロ近くあります)しました。バーデン騎兵斥侯はオステン=ザッケン将軍に対し「ブズールに敵影無し」を伝えています。

 また、フォン・ボッホルツ=アッセブルク少尉を隊長とする驃騎兵と歩兵の一隊もこの21日にノロワ=ル=ブールに到着しフォン・ヴィリゼン大佐の騎兵旅団と出会うことが出来ました。これで東西に離れていた独南軍が繋がり、マントイフェル、ヴェルダー両将軍は遂に直接連絡を通すことが可能となったのでした。


挿絵(By みてみん)

ツァストロウ第7軍団長


 この日、マントイフェル将軍はフォン・ヴェルダー将軍に対し次の書簡を発しています。


「1871年1月21日 在グレー南軍本営にて

先ほど第2、第7両軍団長に発した命令に付き、その写しを貴官に送付したところである。これによって貴官は、本官が麾下諸団隊を率いて、おそらくはブザンソンに向かいその後リヨンに向けて退却行を行うであろう敵の進路を遮断し、その前にブザンソンと敵軍との連絡をも断つよう努めることを知るであろう。この間、貴官は鋭意前進を継続し敵の後衛を捕捉するか、あるいはその主力をも捉えて退却運動を遅延させるよう努めて貰いたい。敵の主力がドゥー川の両岸何れかで迎撃可能かは未だ判明しないが、本官はそれが左岸(南岸)ではないかと考えている。何故なら、本官麾下の(敵に近いはずの)左翼第7軍団からは東方において敵と接触したとの報告は皆無で、逆に南方へ進んだ右翼第2軍団の前衛からは昨日ペスム付近にて護国軍及び義勇兵と衝突し、オニヨン川の渡河点を巡って戦闘に至った、との報告があったからである。本官の判断は貴官より20日朝発信された電信報告によって高められたと考えている。

現在、本官は貴官の進む地方における情勢を知悉していないため、貴官に対し明確な命令を下すことは出来ない。しかし本官は貴官が敵に接近してその主力が撤退する方向へ急行し、同時に貴官の右翼が本官麾下左翼との連絡を求め、またそれを保つことに努めることを期待し、貴官の続報に接することを切に求める。情勢が許すのであれば、現在貴官の右翼に先行するヴィリゼン大佐の支隊か少なくともその騎兵と砲兵を強行軍にてペスム経由で本官の下に前進させて貰いたい。この理由として、本官には更なる騎兵が必要で、これは敵の後方連絡線を攻撃するため極めて重要で急を要することでもあるからである。

21日に本官はオニヨン、ドゥー両河川渡河のためペスム~マルネー~ダンピエール~ドールの線を抑えたところである。本官はこの線からベルフォール~リヨン間の連絡線であるロン=ル=ソニエ街道(現・国道N83号線)に対し偵察隊を派遣しようと考える。この偵察結果により今後の作戦を決定するところである。

   軍司令官 男爵フォン・マントイフェル」(筆者意訳)



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