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独南軍・壮絶な行軍の始まり


☆ 1月14日


 この日シャティヨン=シュル=セーヌ周辺は底冷えと濃霧で明けます。

 この街から四方に延びる諸街道の路面はスケートが出来るほどに凍結し、盛大に白い息を吐きだす人間も馬匹も一歩を踏む出すのさえ憚るような朝でしたが、厳格なマントイフェル将軍に従う将兵に否はなく、予定通り行軍を開始しました。

 しかし各縦隊指揮官たちが恐れた通り行軍はたちまち滞り、頻繁に足を取られる道行は縦隊の長さを数倍にまで延伸させ、行軍予定は遅れに遅れるのです。本来であれば陽が高いうちに先行する宿営手配の先鋒が待つその日の宿営地に辿り着くはずが、この日はほぼ全ての縦隊が夕暮れ時から日没後に到着しました。その困難に喘いだ兵員と馬匹の疲弊は甚だしく、指揮官たちは項垂れ肩で息をする部下たちを眺めながら翌日の苦難を思い眉を潜ませ溜息を吐くのです。


 この14日、第2軍団はモンバールからリュスネ=ル=デュック(シャティヨンの南28キロ)までの間に到着し、後置されるフォン・ケットラー支隊の代わりに軍団前衛となり前日はフォンテーヌ=アン=デューモワ(同南23.6キロ)にいたフォン・ダンネンベルク支隊はビリー=レ=シャンソー(リュスネ=ル=デュックの南東16キロ)まで進みました。

 第7軍団では第13師団がルセ(=シュル=ウルス。シャティヨンの南東23.4キロ)、第14師団がアルク=アン=バロワ(同東北東34キロ)へ進み、軍団前衛として東方のラングル要塞都市を警戒しつつ進んだ同師団前衛*は道中ビュニエール(アルク=アン=バロワの東7キロ)付近でラングルから偵察に出ていた仏軍部隊に遭遇しますが、短時間の戦闘で撃退しました。日没後、この日前衛の先鋒となっていた第77連隊第2大隊は仏軍が守備を置いていたマラック部落(ビュニエールの東7.2キロ)を襲撃し、仏軍をラングル要塞方面へ後退させると軍旗一旒を鹵獲するのです。

 残りの諸縦隊は仏軍に遭遇することなく、しかし前述通り凍結した街道に悩まされつつ宿営地に至るのでした。

 この日の南軍の損害(以下行軍による傷病を除く)は戦死6名・負傷5名でした。マントイフェル将軍ら軍本営は予定地ルーグレ(シャティヨンの東17.1キロ)の一つ手前(西1キロ)の部落、ヴレーヌ=レ=タンブリエで宿営しました。


※1月14日・第14師団前衛

フォン・ゲーベン少佐(第77連隊長代理)指揮

○第77「ハノーファー第2」連隊・第1、2大隊

○驃騎兵第15「ハノーファー」連隊・第1中隊

○野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・重砲第2中隊の2個小隊(4門)


☆ 1月15日


 この日は更に寒気が極まります。早朝、気温は零下14度まで下がり、行軍の苦難は昨日より増してしまいました。それでも厳格な軍紀と練成の賜物で諸縦隊は時間こそ掛かったものの指定宿営地に到達しています。

 第2軍団はシャンソー(モンバールの南東30.8キロ)周辺に到達し、本格的な山地に挑んだダンネンベルク支隊は疲弊を押し殺しラマルジェル(シャンソーの東9.3キロ)へ進みます。

 第7軍団は第13師団がオーブリーヴ(ラングルの西南西22キロ)とその周辺へ、第14師団がシャムロワ(ラングルの西16キロ)へ進み、第13師団の後衛と共に進む軍本営はジェルメーヌ(オーブリーヴの北西2.7キロ)に到着しました。

 軍の最左翼(北東方)を警戒する第14師団前衛は雪深い耕作地を南下してマルドール(マラックの南4.5キロ)近郊を抜け、ラングル西郊外のクールセル=アン=モンターニュ(ラングル要塞の西南西8.8キロ。オーブリーブからは北東へ13.3キロ)に到達しました。

 この日は第13師団から第15連隊長ユージン・ルートヴィヒ・ハンニバル・フォン・デリッツ大佐が率いる支隊*が、第2軍団の諸縦隊との間を埋めるため軍団右翼へ派遣され、グランセ=ル=シャトー(=ヌヴェル。オーブリーブの南13.3キロ)へ到達します。


※1月15日・第13師団から派出したフォン・デリッツ支隊

○第15「ヴェストファーレン第2/オランダ王国フリードリヒ親王」連隊・第1、2大隊

○驃騎兵第8「ヴェストファーレン」連隊・第1中隊

○野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・重砲第5中隊の1個小隊(2門)


 マントイフェル将軍はこの日、リゼーヌ河畔のフォン・ヴェルダー将軍からベルサイユ大本営のモルトケ参謀総長へ直接「報告と相談」が送られたことを知らされます(「普仏戦争/エリクールに至るまで~1月13日から14日」を参照ください)。

 自分を飛び越しモルトケ総長に報告を送ったヴェルダー将軍の行動に「カチン」と来たマントイフェル将軍は空かさずモルトケ総長に電信を送り「ヴェルダー将軍の行動に付いては(「委任命令」により自分に命令権があるので)干渉すること無きように」と釘を差し「明日16日正午頃には既に前衛を以て敵と相対する位置まで進む(ので余計な命令は無用)」として、在ブルヴィリエ(エリクール東郊)のヴェルダー将軍にも同じ電文を暗号電信にて送り、暗に「越権行為をするな」と諫めたのでした。


☆ 1月16日


 15日の夜。天気が一変し気温が上昇するとラングル地方とコート=ドール地方を暴風雨が襲い、凍結していた諸街道は一気に泥濘深く渓流が溢れ道を横切る最悪の状況となります。気温が上昇したとはいえ零度前後で風雨により体感温度は零下で変わらず、行軍は更なる困難に見舞われることとなりました。

 しかし独南軍諸縦隊は休むことなく早朝に宿営を払い、疲弊し凍える身体に鞭打って行軍を続け、この日も目標地に到達するのでした。

 夜までに第2軍団はモロワ(シャンソーの東16.4キロ)周辺に到着、ダンネンベルク支隊はディエネ(イス=シュル=ティーユの西3.6キロ)へ、第13師団がプロートワ(ラングルの南20.6キロ)、第14師団がロンジョー(同南10.7キロ)にそれぞれ到着します。同じくデリッツ支隊はスロンジェへ、13師団前衛はラングル高地の渓流のひとつヴァンジャンヌ河畔のダルドネ(プロートワの南東5キロ)へ進みます。

 軍左翼を警戒するゲーベン少佐の第14師団前衛は、ラングル要塞(要塞本体は城壁に囲まれた市街地の南にありました)の南方を回り込む形に行動しますが、途中要塞守備隊の偵察隊と遭遇しこれを撃退しました。この時ラングル要塞の南西分派堡、ラ・ボネル堡から要塞重砲の砲撃を受けましたが損害はありませんでした。その後支隊はコオン(ロンジョーの北東3.4キロ)で宿営に入りますが、一部はその東方にある重要なシャランドレ東郊外の鉄道操車場付近で線路を爆破し電信線を切断しました。

 第2軍団はこれまでのところ心配された仏軍からの妨害なく行軍していますが、右翼ディジョン方面に仏軍が存在するのは確かで、行軍先のラングル~ディジョン街道(現・国道D974号線)方面にはディジョンに逃げ込んだと思われるリッチョッティ・ガリバルディ大佐旅団の痕跡があるのも確認出来ました。これはスロンジェに至ったフォン・デリッツ大佐が聞き及んだ情報で、住民によれば去る14日にガリバルディ配下2,000名がこの地に現れて宿営し、翌15日にディジョンへ向けて出立した、とのことだったのです。ダンネンベルク支隊の斥侯はこの日、イス=シュル=ティーユを偵察して「敵衛無し」を報告しますが、更に南方のエパニー(イス=シュル=ティーユの南南西9.2キロ)には少ないながらも仏守備隊の存在が確認されたのです。


 一方、ノワイエ近郊のサリー(ニュイ=シュル=アルマンソンの南西12.5キロ)周辺に居残ったフォン・ケットラー少将の支隊はこの日アヴァロン(同南西35.3キロ)に向かい強行偵察に及びました。これは同支隊の斥侯がこの地の住民から銃撃を受けた、との報告を上げたからで、将軍はマントイフェル将軍からの13日訓令にあった「攻撃を受けたなら反撃することも可」で「むしろ得策」との積極策を奨励する一文から「常に攻勢状態にあろう」と考えたからでした。

 街に有力な仏守備隊が存在すると知ったケットラー将軍は、強引にもいきなり市街へ数発の榴弾を撃ち込み、市街へ歩兵を突進させる強硬策を採ってバリケードを設けていた街の入り口を占拠します。この街には臨時護国軍2個大隊が守備隊として派遣されていましたが、ケットラー将軍の強硬策が功を奏して市街地から南方の森林地帯へ遁走し、将軍は負傷した約60名と士官2名を含む無傷の60名を捕虜とするのでした。また住民が部下を銃撃した懲罰として街に対し巨額の物品を要求し、これらと捕虜を連れて正午前後に出発し翌17日モンバールに到着しました。この小遠征は戦死2名・行方不明1名の損害だけで済みました。


 マントイフェル将軍はこの日本営を第13師団の宿営地プロートワに移し(18日まで同地)ますが、ここでフォン・ヴェルダー将軍からリゼーヌ川の戦い第1日目の戦況報告が届くのです。


「1871年1月16日南軍本営着

1871年1月15日午後10時58分ブルヴィリエ発

在シャティヨン=シュル=セーヌ*宛マントイフェル将軍

敵はシャジエよりモンベリアールに渡る前線において激烈な攻勢を掛け来たり。特にその砲撃は猛烈であった。敵兵力は4個軍団と思われる。その攻撃は各地点において全て撃退した。従って本官の陣地は全線に渡り突破されず。我が損害300から400名の間に留まる。戦闘は午前8時30分から午後5時30分に及ぶ。敵の暗号電信を入手せり。

    フォン・ヴェルダー」(筆者意訳)

※行軍中電信はシャティヨン経由で前進する本営を追って届けられました。


 マントイフェル将軍としては一刻も早く東方に進み、仏ブルバキ軍の背後を脅かしたいところでしたが、先ずは行軍一日分南西方にある右翼の第2軍団を第7軍団の真横まで招致することが大事です。第7軍団は当初の予定通り明日は両師団とも集結してこの先の行軍に備え、その前衛は更に東方へ進む予定でした。


 この日の南軍損害はケットラー支隊を除き戦死1名、負傷4名と軽微でした。


挿絵(By みてみん)

電信柱を倒す独騎兵


☆ 1月17日


 フォン・フランセキー第2軍団長は軍団の先頭を行くダンネンベルク支隊に対し、「右翼へ進みイス=シュル=ティーユ南方へ進んでディジョン方面を警戒せよ」と命じ、その援護の下、第3師団がコート=ドール山地を抜けてティーユ川の平野部に進出し、イス=シュル=ティーユの内外に宿営を設けました。軍団砲兵隊と第4師団(第7旅団主幹)はゆっくりと高地の出口に進むのでした。

 この日、軍団の右翼遥か後方には擲弾兵第9連隊長ゲオルグ・フリードリヒ・アーダルベルト・フォン・フェレンハイル=グリュッペンベルク大佐が率いる後衛*(次第に離れて行くケットラー支隊と軍団との間に敵が入り込むのを防ぐ役割です)が敵を求めて進み、その一部はロズ川(ディジョンの西・コート=ドール山地を水源にモンバールの南でブリンヌ川へ注ぐ支流)の渓谷内を、その他はその東方を並列して南方へ進むと、ブリニー=ル=セック(イス=シュル=ティーユの西南西29.2キロ)付近とヴェレ=ス=サルメーズ(ブリニー=ル=セックの西5.6キロ)東方の高地で数倍する仏の義勇兵集団と遭遇し、短時間の激しい戦闘で目立つ損害(25名)を受けつつもこれをディジョン方面へ駆逐するのでした。

 フェレンハイル支隊は第4師団に帰還するためサン=セーヌ=ラベイ(イス=シュル=ティーユの西南西25.9キロ)を越えて夜間行軍を行い、黎明前にヴェルノ(同西南西11キロ)に到達し暫し休息を貪ったのでした。


※1月17日・第2軍団後衛ファレンハイル支隊

○擲弾兵第9「ポンメルン第2/コルベルク」連隊・第2、F大隊

○竜騎兵第11「ポンメルン」連隊・第3中隊

○第2軍団野戦工兵・第3中隊


 第7軍団では、第13師団の前衛支隊*がシャンリット(プロートワの南東18キロ)に到達し、周辺住民の尋問から仏軍部隊がディジョン~ラングル間で活動していることを知ります。これは事実で、ここ数日の間、クリスティアーノ・ロビア大佐率いるヴォージュ軍第2旅団の1,200名がラングル要塞へ弾薬を運搬していたのです。

 前衛を率いる伯爵アルベルト・レオ・オットナー・フォン・デア・オステン・ゲナント・ザッケン少将はグレー~ラングル鉄道がシャンリット付近で破壊されており、同時に鉄道に沿った電信線も切断されていることを発見します。また、将軍の部下はピエモン(小部落。シャンリットの北西5キロ)付近でラングル方面に向けて行軍する仏軍歩兵1個中隊に遭遇し、たった数発の銃撃でこの仏軍は混乱状態に陥り、やがて潰走してしまったのでした。

 この日、オステン=ザッケン支隊の斥候は東方ソーヌ河畔に至るまで捜索しますが、この地区には既に仏軍が存在しないことが明らかとなります。


※1月17日・第13師団前衛オステン=ザッケン支隊

○フュージリア第73「ハノーファー」連隊・第2、3大隊

○猟兵第7「ヴェストファーレン」大隊

○驃騎兵第8「ヴェストファーレン」連隊・第3,4中隊

○野砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・軽砲5中隊

○第7軍団野戦工兵・第1中隊


 同じく第14師団の前衛*は、ショードネ(シャランドレの東北東6キロ)へ進み、ラングルの東郊方面にも斥候を派出しました。


※1月17日・第14師団前衛支隊

第27旅団長フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・フォン・パンヴィッツ大佐指揮

○フュージリア第39「ニーダーライン」連隊・第1大隊

○第77「ハノーファー第2」連隊・第1、2大隊

○驃騎兵第15「ハノーファー」連隊・第1中隊

○野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・重砲第2中隊


 この第14師団からはラングル要塞偵察のために一支隊が結成され、早朝ロンジョーから北上しブールを経てラングル要塞に接近しクロワ・ダルル(ブールの北2キロにあった農家。現在はキャンプ場となっています)まで進みます。ここで軽砲中隊が接近する仏要塞守備隊の一部隊を砲撃し撃破しましたが、要塞の南西分派堡、ラ・ボネル堡から要塞砲による砲撃を受け、正午頃に撤退します。支隊に損害はありませんでした。


※1月17日・第14師団のラングル偵察支隊

第53連隊長代理のフォン・グラボウ中佐指揮

○第53「ヴェストファーレン第5」連隊・第1大隊

○驃騎兵第15連隊・第4中隊の半数

○野戦砲兵第7連隊・軽砲第2中隊


挿絵(By みてみん)

吹雪の中を行く仏竜騎兵(ベルネ・ベルクール画)


☆ 1月18日


 この日、第2軍団は軍命令通りイス=シュル=ティーユ、ティル=シャテル、スロンジェの各地点周辺に全て集合を終えます。

 この軍団では第5旅団長ハインリッヒ・ヴィルヘルム・オットー・ユリウス・フォン・コブリンスキー少将が率いる新たな前衛支隊が編成され、

フォンテーヌ=フランセーズ~グレー街道(現・国道D2号線)上のブアン=エ=フル(グレーの北西7.4キロ)まで到達しました。実に1月2日、パリ南郊の包囲網を離れ、一旦モンタルジに達した後、翌7日にシャティヨン(=シュル=セーヌ)に向けて行軍を開始後、約半日モンバール北方で休んだだけでここまで進んだフランセキー将軍麾下には感服します。


※1月18日・第2軍団前衛コブリンスキー支隊

○擲弾兵第2「ポンメルン第1/国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世」連隊(第5旅団)

○第42「ポンメルン第5」連隊(第5旅団)

○竜騎兵第3「ノイマルク」連隊・第1,4中隊

○野戦砲兵第2連隊・重砲第2、軽砲第2中隊

○第2軍団野戦工兵第2中隊と野戦軽架橋縦列


 しかもこの強行軍にもかかわらず、フランセキー将軍はこの日の夕刻、前衛から更に先遣隊をグレーに向けて派出するのでした。


※1月18日夕・コブリンスキー支隊の「グレー先遣隊」

フォン・ノルマン少佐指揮(第42連隊第1大隊長)

○第42連隊・第1大隊

○竜騎兵第3連隊・第1中隊の半数

○第2軍団野戦工兵第2中隊


 ノルマン少佐らはグレー市街の北、ソーヌの街道橋まで到達しますが、グレー市街で警戒警報(教会の鐘連打やラッパ、号砲など)が鳴り響くのを聞き付けました。既にソーヌに架かるラングル鉄道橋は爆破されており(しかしこれは独第14軍団撤退の折に落とされたものです)、グレー付近2つの街道橋の内石橋には爆薬が仕掛けられているのも発見されました。ノルマン少佐はグレーに敵が存在する場合には無理をせず付近に宿営するよう命令されており、少佐は付近の鉄道と電信線を破壊・切断した後、ソーヌ対岸・グレー西5キロのナンティリーに宿営を求めたのでした。


 一方、前衛と警戒隊以外丸1日休めた第7軍団では、第13師団本隊がシャンリットとヌヴェル=レ=シャンリット(シャンリットの南東4.1キロ)へ、フォン・ボートマー将軍率いる前衛がピエールクール(同北東6.6キロ)へ至り、ボートマー将軍は更に騎兵斥候を長躯サヴォユー(同南東19キロ)付近のソーヌ河畔まで進出させ翌日の渡河に備えて流域の諸橋梁を偵察させました。

 第14師団はフレット(シャンリットの北東7.9キロ)まで進み、その前衛支隊はポワンソン=レ=ファイユ(シャンリットの北北東17キロ)へ、軍団砲兵隊(それまでダンネンベルク支隊にあった2個中隊もこの日までに帰隊しています)はレフォン(シャンリットの北北西6.3キロ)まで進んでいます。

 この日ラングル監視の任務を授けられた支隊*は再びロンジョー北のブレンヌ(ロンジョーの北西4キロ)やブール(同北2.9キロ)付近へ進出し、要塞より偵察に出て来た仏軍を蹴散らしました。


※1月18日・第14師団のラングル警戒隊

ゼンケル大尉指揮(第53連隊F大隊長)

○第53連隊・F大隊

○野砲兵第7連隊・軽砲第1中隊の1個小隊

○驃騎兵第15連隊・第3中隊から26騎


 この18日において独第2軍団は第7軍団より1日の行程分後方にありましたが、既に行軍上の最大難関と思われていたコート=ドール山地を通過し広いソーヌ川が作る平野部に出て、その平野にも敵影はなくソーヌ渡河も支障なく行える可能性が高い状況になっていました。

 「第2軍団は何かと障害の多い厳寒期において凍結する悪路を進んだにも係わらず、比較的短時間にてコート=ドールの山地を踏破し、その間何ら不測の事態に遭遇しせず損害も軽微であった。仏軍はディジョンやラングル要塞からこの行軍を直接害する行動を取ることはなく、この時、マントイフェル将軍等の頭にあったのは軍の後方連絡線の心配であった」(独公式戦史・筆者意訳)


 この山地を抜ける困難な行軍当初、未だ出発点にさえ到達していなかった諸隊*もこの数日間でシャティヨン(=シュル=セーヌ)北東方になるヴォール=シュル=オーブ(シャティヨンの北東20キロ)南郊で列車を降り、この地から徒歩によって軍に続行し始めていました。


※1月18日時点で南軍の後方で続行していた所属諸隊(行軍縦隊順)

○野砲兵第7連隊・重砲第3中隊

○同・軽砲第2中隊

○第7軍団野戦工兵第2中隊及び器具縦列

○第77「ハノーファー第2」連隊・F大隊

○第74「ハノーファー第1」連隊・第2、F大隊

○野砲兵第7連隊・重砲第4中隊

○第7軍団野戦工兵第3中隊及び輜重縦列の一部


 ところが、この縦隊のうちの一つ(不詳)が所属団隊に合流する行軍中の17日、ペロニー=レ=フォンテーヌ(ラングルの南西12キロ)付近で独軍の一個補助糧食縦列が敵に襲われ捕獲・拉致された痕跡に遭遇するのです。これは独軍による包囲が無いことを良いことに度々小部隊を出撃させているラングル要塞守備隊の仕業に違いありませんでした。

 後方連絡が日々危険な状態に陥りつつあることを知ったマントイフェル将軍の本営は18日以降、後続する諸隊や諸後方輜重縦列はラングル高原を避け、全てエピナル方面へ迂回・経由することを命じたのです。この命令に相当したのは第14師団の輜重大部分と同師団の諸縦列、そして最後尾にあった第74連隊の第1大隊でした。結局この大隊は2月5日まで所属する旅団に合流することが出来ませんでした。


挿絵(By みてみん)

ヴォージュ軍の捕虜となる独輜重部隊


 この諸隊が迂回することで後方連絡線もまた変更することとなります。

 既に行軍当初からシャティヨン経由よりエピナル経由に後方連絡を変更することを想定していたマントイフェル将軍は、この18日、在ナンシーのロートリンゲン総督府に対し後方連絡の安全を図るため協力を要請しています。またエピナルから行軍予定先となるブズールへ至る南軍の新・後方連絡線の中間、サン=ルー=シュル=スムーズ(ブズールの北北東30.4キロ)へ第7軍団から分遣隊を派出するようツァストロウ軍団長へ命じ、将軍はこれを第14師団に命じるのでした。


 この間、リゼーヌ川の凄惨な戦闘中から勝利後に掛けて、フォン・ヴェルダー将軍とマントイフェル将軍の間で電信が頻繁に往き来します。

 15日にマントイフェル将軍に諮らず直接ベルサイユのモルトケ参謀総長との間で電信の交換を行ったことを責められたフォン・ヴェルダー将軍は、戦いの詳細を次々にマントイフェル将軍に宛て送ったもので、これによりマントイフェル将軍はブルバキ軍がベルフォールを解放し上アルザスへ突破することを断念したらしいことを知ります。


 少し脱線になりますが、この電信の往還を見ると当時の通信連絡がどの程度掛かったのかが分かります。

 例えば1月18日午後、プロートワ在の南軍本営でヴェルダー将軍の17日の報告を受けたマントイフェル将軍は同日午後3時30分にシャティヨンへ向け電信原稿を送り出し、これは連絡騎兵(旧軍は「逸騎哨」と呼びました)によってシャティヨンへ運ばれ深夜(19日)午前12時40分、シャティヨンからヴェルダー将軍本営のあるエリクール東郊ブルヴィリエへ向け電送されます。これはシャティヨンからショーモン、ヌシャトー、エピナル、リュールなどを中継し、19日昼前にヴェルダー将軍の手元へ届けられました。即ち、間に敵軍を挟み、これを迂回した電文は直線距離では110キロ程のところ、馬と電信によりちょうど三倍近い距離を迂回して18、9時間で運ばれたのでした。


「1871年1月19日第14軍団本営・着

1871年1月19日午前0時40分シャティヨン発信

ベルフォール近郊ブルヴィリエ在フォン・ヴェルダー将軍

昨日の経過に付き貴官の電信(17日午後9時55分ブルヴィリエ発の戦闘結果。およそ15時間で届いています)を受領した。貴官及び麾下忠勇なる軍団将兵に対し3日間に及んだ戦闘の勝利に付き祝意を表す。本官の前線部隊は明日グレー~セ=シュル=ソーヌ(=エ=サン=タルバン。ブズールの西北西14.6キロ)線上においてソーヌ河畔に達し、主力はフォンティーヌ=フランセーズ並びにダンピエール(=シュル=サロン。グレーの北北東14キロ)付近に集合し、20日には同地より更に前進する。その前進方向については明日の貴官の報告を待ちこれを決定したいと考える。第7軍団は明日より支隊をリュクスイユ=レ=バン(サン=ルーの南東11キロ)及びサン=ルーの方向に送り、ヴィリゼン大佐(第14軍団の右翼外別動隊として18日にはリュール東方ロンシャンにいました)との連絡を図る予定である。明日においても貴官の電信はシャティヨンに向け送達せよ。

1871年1月18日午後3時30分プロートワ軍本営にて

     フォン・マントイフェル」(筆者意訳)


 この後(18日夕刻)ヴェルダー将軍から続報が届き(18日午前9時3分ブルヴィリエ発信。仏軍が撤退したためか約9から10時間で届いたことになります)、マントイフェル将軍は状況が一気に好転したと確信するのです。

 ヴェルダー将軍のリゼーヌ河畔における勝利は、独軍全体に及ぶ本国との後方連絡線に対する脅威を晴らす結果となり、主要後方連絡はこれまで通り後方部隊だけで警備することが可能と判断されるのでした。


挿絵(By みてみん)

リゼーヌ川の戦い後、ストラスブールへ連行されるモンベリアール市長一行


 独南軍がソーヌ河畔に達する予定の19日時点で、直接後退する仏ブルバキ軍を攻撃することは未だ距離が離れ過ぎで無理がありますが、独第2、第7そして第14軍団がそれぞれの現在地から等距離(4、50キロ)となるリオ(ブズールの南南西23キロ)とモンボゾン(同南南東19キロ)方面を目指し行軍・合流を図ることはそう難事ではありません。しかもこの方向で軍が動けば、それぞれが互いを援助することが可能となり、最早数的優位性だけでブルバキ軍が独南軍に勝利する可能性は少なくなり、ヴェルダー将軍麾下がリゼーヌ沿岸で払った犠牲が活かされることにもなるのです。独公式戦史ではこの作戦の必要性を次のように示します。

「マントイフェル南軍がこのような処置を取らなかったとしたらどうであるか。既にヴェルダー将軍は仏ブルバキ軍に対する追撃を始め、数回の戦闘によって敵に少なくない損害を与えていたが、これはただ仏軍を自然に退却路方向へ圧迫しただけでその勢力を削いだに過ぎず、敵を殲滅することには繋がっていない。もし仏ブルバキ軍が殲滅を免れるとすれば、当時仏国は間断なく軍備を整えようと必死になっていたことを思えば一旦撃破された軍にしても空かさず補充兵を編入し復活すること間違いなしと言った状況にあった」(筆者意訳)


 他方マントイフェル将軍が当初「ブルバキ仏東部軍がヴェルダー将軍に敗れ西方へ後退する場合」に考えていた通り、第2、第7両軍団を仏ブルバキ軍の後方連絡線(ブザンソン~ドール方面)に向けて突進させ、後方からヴェルダー将軍の第14軍団が追撃を続ければ、ブルバキ軍はソーヌ川とスイス国境との間の狭い地帯を南に向けて後退し続けるしかなくなり、その行軍路はアルプス山地の北に連なるジュラ山脈によって制約を受けます。ブルバキ軍がこの最悪の事態を避けるにはドゥー川に沿った数本の街道を急ぎ行軍してディジョンを目指し、ガリバルディ将軍率いるヴォージュ軍と合流するしかなく、先ずは東部軍の拠点ブザンソンへ到達することが必須でした。しかしこの要塞都市へ向かうと言うことは必然マントイフェル軍に接近することとなり、この競争に負ければ新たな会戦が発生する可能性が生じるのです。

 この競争にマントイフェル将軍が勝ち、ドゥー川のブザンソン下流域(ドール方面)において川筋の街道を閉鎖することが出来たとすると、ブルバキ将軍があくまでディジョンを目指すのであればマントイフェル軍と戦うしかなくなり、ブルバキ将軍がそれを避けたとすれば、行軍が絶望的に困難となるジュラ山脈方面へ逃走するしか無くなるのでした。


 但し、マントイフェル独南軍がこの「ブルバキ仏東部軍後方遮断作戦」を実施するには、大きな危険が存在しています。


 それはいくら士気が喪失し崩壊に近い状態とは言え、ブルバキ軍の兵力は未だマントイフェル軍の数倍あり、前述通り時間を経過させてしまうと復活の危険性が増します。

 更に、パリやカール王子への後方連絡は「リゼーヌ河畔の戦い」により安全性が高まったものの、マントイフェル軍のそれはこの時点で万全とは言えず、このままソーヌ、オニヨン、ドゥーの三河川を渡河して南下すると言うことは、堅固なブザンソン要塞とディジョンそしてオーソンヌの小要塞を側面にして、ラングル要塞を後方にすると言うことであり、この方面に存在する雑兵とはいえおよそ6万に及ぶ軍勢に後方を遮断される危険性も増すと言うことでした。

 しかもこの先ブザンソンの南方へ侵入すれば、人口がそれまでより少ない地方に入ることになり、これは野営が不可能に近い極寒の中、宿営を求めるのも糧食を徴発するのも共に困難を予期せざるを得ない、と言うことになります。当然ながら敵が行軍困難なジュラ山脈と周辺の高地へ向かい、それを追う形になれば、独軍もまた後方連絡に苦労し自身の行軍も非常な苦難を受けること明らかでした。


 しかし、そこは独軍でも「唯我独尊」で鳴らすマントイフェル将軍です。麾下を迷いなくこの壮絶な行軍へ導いて行くのでした。

 この決心を知らされたモルトケ参謀総長は「本当に大丈夫なのか」と問うヴィルヘルム1世皇帝に対しこう答えます。

「マントイフェルの作戦は非常に果敢かつ冒険の類ですが、最大限の効果が期待出来るものでもあります。万が一マントイフェルが敗退することがあっても非難すべきではありません。軍事において偉大な成功を収めるためには多少の冒険を要するものですので」


 18日夜の時点でブルバキ将軍が一体何処へ向かうものか、ドゥー川の左岸か右岸か、それはブルバキ将軍しか分からないものでした。このためマントイフェル将軍としてはブザンソンのドゥー川下流で諸渡河点を抑え、時期を逸することなくドゥー両岸で等しく敵と対抗するように麾下を導いて行かねばならないのでした。


挿絵(By みてみん)

斥侯報告(ベルネ・ベルクール画)



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