マントイフェル独南軍の始動
1月9日。パリ市街への砲撃も本格化(前日開始)したこの日の夜。鋭い眼差しと威厳ある髭を蓄えた将軍一行がベルサイユ宮殿の門を潜ります。
独南軍創設に従い司令官就任の内示を受けた独第一軍司令官、男爵エドウィン・カール・ロチェス・フォン・マントイフェル騎兵大将は、それまで自軍の参謀長代理を勤めていた伯爵ヘルマン・ルートヴィヒ・フォン・ヴァルテンスレーベン大佐を引き連れ国王に拝謁し正式に南軍司令官を拝命、ヴェルテンスレーベン大佐も同軍参謀長に任命されました(正式な勅命は11日付)。ここでモルトケ参謀本部総長から口達されたのはごく一般的な全般戦況と、第14軍団でブズールからベルフォールまで広範囲に展開しブルバキ将軍率いる数倍すると思われる仏東部軍と、別動するガリバルディ将軍率いるヴォージュ軍と戦うフォン・ヴェルダー将軍に対する直接の増援は必ずしも必須ではないこと(ヴェルダー将軍は既に敵と接触しておりどんな方法によっても今後発生するであろう会戦には間に合わない、ということです)、とはいえ、ヴェルダー将軍らはベルフォールの包囲を厳守するだろうから、敵ブルバキ軍の後方連絡を脅かせばその効果は増援同様となるはずなので、その手段はマントイフェル将軍に一任する、との訓令を受けます(後刻書面で手渡されました。詳細は「附・ベルサイユ大本営から南軍司令マントイフェル将軍に宛てた書簡」を参照)。
将軍一行は丸一日ベルサイユでフェデルブ将軍との激闘の疲れを癒すと、マントイフェル将軍は病気療養を終え北部戦線に帰還直前の第一軍参謀長フォン・スペルリング少将(第一軍司令官代行となったフォン・ゲーベン将軍の参謀長として復帰します)を誘い10日夜、ベルサイユ市街にある第三軍本営を表敬訪問しました。将軍らはフリードリヒ皇太子に就任の挨拶をした後、旧知の間柄である第三軍参謀長フォン・ブルーメンタール将軍と暫し談笑します。
二人は翌朝北と南に別れてそれぞれの戦場へと旅立ちました。
ヴァルテンスレーヴェン独南軍参謀長
☆ 独南軍・1月12日と13日の状況
マントイフェル将軍は主に鉄道を使用して1月12日の夕刻、セーヌ川上流における交通の要衝シャティヨン=シュル=セーヌ(ディジョンの北北西70キロ)へ到着します。独南軍はこの地を中心に集合し南下する計画ですが、この時点でマントイフェル麾下諸隊は未だ移動中の部隊もあり、この街を中心に直線距離およそ70キロの範囲に点在していました。
エデュアルド・フリードリヒ・カール・フォン・フランセキー歩兵大将率いる第2軍団は記述通り1月6日、モンタルジ(オルレアンの東62キロ)より東方へ進むべく命令を受け、翌7日から8日に掛け順次出立しますが、行軍は厳寒期と積雪、悪路のために行軍正面を広く取り、多くの縦隊に分かれて実施されました。行軍方向は概ねジョワニー(シャティヨン=シュル=セーヌの西89キロ)とトネール(同西44.7キロ)を経て東進するルートを中心にニュイ(=シュル=アルマンソン。同南西30.5キロ)とノワイエ(ニュイの西16.8キロ)方面へ進むよう設定され、マントイフェル将軍がシャティヨンへ到着した同じ12日、道中敵に妨害されることなく目的地、アルマンソンとスラン両河川間のニュイとノワイエ付近に到達しました。
第7軍団を率いるハインリヒ・アドルフ・フォン・ツァストロウ歩兵大将は同じく1月6日夕刻、オーセール(シャティヨン=シュル=セーヌの西75キロ)付近でフォン・ヴェルダー将軍から援軍要請を受け取り、将軍は直ちに麾下(この時点で第15師団のみ)に出撃準備を命じました。ところがその準備の最中(7日)、ベルサイユから暗号通信が届き、これが一部通信障害で不明瞭な内容となっていたため、ここで1日無駄に過ごしてしまうのです。翌8日、今度は明確に「シャティヨン=シュル=セーヌに向かえ」との命令が届き、軍団はようやくオーセール周辺を発つことが出来ました。リシェール=プレ=エグルモン(オーセールの東南東23キロ)経由で南方警戒に向かった支隊に側面を守られた本隊はシャブリ(同東17キロ)~トネール~レーニュ(シャティヨン=シュル=セーヌの西15.6キロ)を経て東進し、11日までにシャティヨン=シュル=セーヌ周辺へ到達します。
これに先立ち同軍団を離れティオンヴィル、モンメディ、メジエールの各要塞都市を陥落させた第14師団の先遣隊は1月7日、鉄道輸送でシャティヨン=シュル=セーヌへ到着しましたが、残る師団本隊はメジエール要塞攻囲の撤収と鉄道車両不足によって遅れに遅れ、シュラー・フォン・ゼンデン師団長と幕僚は1月11日になってシャティヨンへ到着し、師団はようやく13日になって同地に到達しました。
※71年1月13日に鉄道にてシャティヨン=シュル=セーヌへ集合を終えた第14師団後続諸隊
○第74「ハノーファー第1」連隊
○第77「ハノーファー第2」連隊・F大隊
○野砲兵第7連隊・軽砲第2中隊
○同・重砲第3,4中隊
○第7軍団野戦工兵・第2,3中隊
※それまで軍団に隷属していた予備驃騎兵第1連隊は勅命によりカール王子の第二軍兵站総監部に転属となりますが、その1個中隊は一時シャティヨン=シュル=セーヌと前進する南軍本営との間で騎兵哨として使用されました。
(ここまでの顛末は「独南軍の誕生」を参照ください)
こうして独南軍は「スタートライン」に着きますが、未だ広範囲に散らばる形であり、その上この先ブズールへ向かう街道はラングル高原を抜ける雪深く凍結した坂道が続く難所でした。ここで誰しもが考えることは、先ず南方のコート=ドール山地を縦貫する比較的整備された数本の街道(現・国道D959号やD901号、D971号など)を利用してディジョンを目指し、義勇兵中心と思われるガルバルディ軍団を追い出してここを制したならば東へ向かう比較的平坦な街道を使いソーヌを渡りグレーを経て東進することで、これは当時仏の新聞多数が「独軍の去った仏南東部の古都をガリバルディ将軍らが奪還した」と騒いでいたので尚更魅力的な選択肢でした。
しかしマントイフェル将軍をして急ぎ解決しなくてはならないのは、やはりベルフォール攻囲兵団の安全確保でした。
フォン・ヴェルダー将軍との間で交わされた電信により、ヴェルダー第14軍団はベルフォール前面のリュール~エリクール~モンベリアール~デルに連なる前線を維持し、12日の時点で敵ブルバキ軍は静穏であるもののドゥー、オニヨン両河川間に展開終了して攻撃寸前の状態にあることが知らされます。シャティヨン=シュル=セーヌからリゼーヌ川の戦線までは直線でも160キロ以上あり、前述通りヴォージュ山脈南端に連なる山地を抜ける行軍は数日どころか1週間は掛かる難事で、決戦までに両軍団が間に合うよう行軍することは絶望的不可能事でした。とはいえ、5万前後の新たな軍勢がブルバキ将軍の背後を突く形となる行動を起こせば、敵の攻勢に影響を与えることもまた確実でした。南軍本隊(この時点でヴェルダー将軍麾下もマントイフェル将軍配下となっています)としては一時も無駄にせずブズール方面へ進むことが急務といえ、ディジョンの再占領は後回しにすることが南軍本営でも多数の意見となります。
ここでマントイフェル将軍は「万難を排し一直線に敵主力に向かう」ことを決意しました。将軍は、この行軍中にブルバキ軍とヴェルダー軍団が衝突し、その結果ヴェルダー軍団が上アルザス(オ=ラン県)地方へ後退することがあれば南軍本隊は急ぎブルバキ軍の後尾・背後を攻撃し、ヴェルダー軍団がブルバキ軍を撃破し敵がブザンソン方面へ後退すれば南軍も右旋回して敗走する敵側面やその後方連絡路を攻撃することを計画するのでした。
しかし前述通りこの極寒期ブズールへの行軍は、同じ頃(1月上旬)あのカール王子の第二軍がル・マンへの行軍で経験したものと同様、風雪に耐え凍結した街道を進む「地獄の道行」となるのは確実で、当時既にラングル高地は雪深くほとんど街道の一般通行も絶えており、マントイフェル将軍らは相当の覚悟を以て進まねばならないことになったのです。
実際、ラングル高原を源とする多くの小河川はセーヌとソーヌ両大河へ注ぐまで、ブズールやグレー方面へ進む街道を横切り、これは深い渓谷となっている場所も多く渓谷越えは積雪が凍結した急坂となっていたために馬匹を以てしても通行は困難を極めました。また高地上の街道はこの渓谷に沿って走るものが多く、それは概ね北西から南東に掛けて通じていたため、これは東へ進みたい今回の行軍には遠回りとなる行路でした。山間部で深い森林の中を通る細道を進む行軍は各縦隊間の連絡・相互警戒を不可能にし、それぞれの縦隊は警戒のため四方に偵察斥候を放ってゆっくりと進まねばならず、しかもこの地方には部落が少なく宿営可能な家屋も僅かで、ようやく高原の東斜面に至って家屋や耕作地が増えて多少行軍が楽になるのでした。
マントイフェル軍が警戒すべきは天然の要害や気象ばかりでなく、有力な仏軍が確保する難攻のラングル要塞都市と仏軍が回復したと思われるディジョンの間を進むため、敵による強力な妨害も想定内に入れなくてはならなかったのです。
また、第2軍団はモンタルジから、第7軍団は半数がオーセール、残りはパリ近郊や遙か北方のメジエールからそれぞれ急行軍し、本来であれば各縦隊に少しでも休息を与えたいところでしたが、バリバリの王権信者(極右と呼んでも差し支えないでしょう)で「鬼将軍」のマントイフェル将軍はそれを許しません。それどころか、以降もほとんど休むことなく行動を予定し第2、第7両軍団では軍靴がボロボロとなって凍傷になる者が続出し、馬匹も蹄鉄の破損が相次ぐ事態となります。
その苦難と犠牲が予想される中、先発していた南軍前衛は12日夜、モンバール(シャティヨン=シュル=セーヌの南西31.5キロ)~サン=マルク=シュル=セーヌ(同南18キロ)~ルーグレ(同東南東17キロ)~オーブピエール(=シュル=オーブ。同東北東27.7キロ)の線上にあり、それまでの街道筋の状態を見極めた結果、間もなく出立する主力諸縦隊の行路を塞ぐ障害物を除くため各縦隊に工兵を派遣従属させることが決まります。その後の行軍計画ではモンバールとシャティヨン=シュル=セーヌ間を起点に後続主力がスロンジュ(モンバールの東63.7キロ)とロンジョー(シャティヨン=シュル=セーヌの東56キロ)で山地を抜け、ソーヌ川の作る広大な谷地平野へと進出、このため第2軍団はシャンソー(ビリー=レ=シャンソーの方です。ディジョンの北西35.5キロ)とイス=シュル=ティーユ(同北23キロ)を経由する街道(現・国道D971~D19~D901号線)、第7軍団はその北方の諸街道が主行軍路に指定されました(後述します)。
この間、電信にてフォン・ヴェルダー将軍からリゼーヌ川に戦線を築きブルバキ軍を迎撃することが伝えられ、またフォン・マントイフェル将軍もヴェルダー将軍に対し返信を送り、14日にブズールへ向け主力を率いて出立することを知らせるのでした。
一方、独南軍でも独立して(一応第7軍団に隷属しています)動いていた第60連隊長クレメンス・フランツ・ヴィルヘルム・フォン・ダンネンベルク大佐率いる旅団クラスの支隊は13日、ベニュー=レ=ジュイフ(ヤティヨン=シュル=セーヌの南29キロ)の北西近郊に集合します。
この旅団は既述通り仏軍が入ったらしいディジョン方面を警戒し、同時にニュイ(=シュル=アルマンソン。以下略)とシャティヨン(=シュル=セーヌ。以下略)を経由する重要な鉄道沿線の警備、そしてシャティヨンに集合しようと急ぐ同僚諸隊に対する側面援護の任に当たっていましたが、このため度々仏ヴォージュ軍の偵察部隊と遭遇していました。
仏ヴォージュ(ガリバルディ)軍は去る12月、オータン(ディジョンの南西70キロ)近郊に再集結した後、義勇兵中心の諸隊をディジョン~シャティヨン間に薄く展開させ、特にガリバルディの子息、「シャティヨン襲撃(70年11月19日)」で名を挙げたリッチョッティ・ガリバルディ大佐は麾下第4旅団を率いて独第7軍団の動向を監視していました。
リッチョッティ旅団は北方を行く敵第7軍団を横目にクルソン(=レ=キャリエール。オーセールの南21.1キロ)からアヴァロン(トネールの南41キロ)、プレシー=ス=ティル(モンバールの南26.6キロ)へと移動し、1月5日にはスミュール=アン=ノーソワ(同南14.9キロ)にいました。この行軍はオータンからディジョンへ向かった父の軍勢に対する北方援護だったのです。
この時、ダンネンベルク大佐支隊はモンバール~ニュイ間とシャティヨンを警備していましたが、この日鉄道守備の交代として後続諸隊の到着が予告されたため、更に南下してアリーズ=サント=レーヌ(モンバールの南東15キロ)~ベニュー=レ=ジュイフ間に前進しようと考えます。
ガリバルディ将軍
※1月4日のフォン・ダンネンベルク大佐支隊
*シャティヨン守備
○支隊司令部
○第60「ブランデンブルク第7」連隊・第1、2大隊
○予備槍騎兵第5連隊・第3中隊
○野砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・軽砲第3中隊
*モンバール在
○第72「チューリンゲン第4」連隊
○予備驃騎兵第1連隊・第3,4中隊
○野砲兵第7連隊・軽砲第4中隊
*ニュイ並びにラヴィエール(ニュイの東側・アルマンソン対岸)在
○第60連隊・F大隊
ダンネンベルク大佐は南下の準備としてモンバールに増援を送り始めますが、同時(1月7日)に同地からフォン・ヘルテル騎兵大尉率いる混成支隊*が偵察のためスミュール(=アン=ノーソワ)への街道(現・国道D980号線)を下り、道中のシャン=ドワゾー(モンバールの南7.8キロ)付近で仏軍と遭遇し、双方短時間の戦闘で引き返しました。
※1月7日のヘルテル支隊
○第72連隊・第9,12中隊
○予備驃騎兵第1連隊・第3中隊の半数
○野砲兵第7連隊・軽砲第4中隊の1個小隊(4ポンド砲2門)
報告を受けたモンバール守備隊司令アーダルベルト・レーベンベルガー・フォン・シェーンホルツ中佐(第72連隊長)は翌朝、麾下第1大隊長のバンゼ少佐に命じ、第1大隊に驃騎兵1個(第4)中隊、軽砲2個小隊(4門)を併せスミュールへ向かわせました。
ところがこの時、スミュールのリッチョッティ大佐もモンバール方面の敵を探りあわよくば撃破しようと前進を始めており、ゲリラ戦術に長けた彼らは敵バンゼ隊に悟られることなくその西側山中の雪深い林道を進み、モンバールの西郊外に出て街を奇襲しましたが、これはたちまち態勢を整えたシェーンホルツ中佐らによって撃退されてしまいました。リッチョッティらはしばらくモンバール近郊で再度攻撃の機会を待ちますが、夕刻、スミュールから引き返して来たバンゼ隊に発見されて猛攻を受け、リッチョッティ本人は危うく捕虜となるところでしたが辛くも逃走に成功し、旅団も独軍の追撃を避けて南東方向へ脱出、ブリンヌ川(ディジョン西方のコート=ドール山地を水源に北西へ流れニュイの南方でアルマンソン川に合流する支流)沿いにフラヴィニー=シュル=オズラン(モンバールの南東19.2キロ)まで逃れて友軍に収容されています。
リッチョッティ旅団の行動を報告されたダンネンベルク大佐は、ひとまず南下を諦め、シャティヨン周辺に集合する南軍諸隊に対する南方からの脅威に備えて9日、麾下をモンバール~サン=マルク(=シュル=セーヌ)の線上に集合させ、第2軍団が到着するまでニュイを中心に展開し鉄道援護を行いました。
ヴォージュ軍のイタリア人義勇兵たち
1月11日。ベニュー=レ=ジュイフで糧食の徴発を行っていた第60連隊の第4中隊が、突如強力な仏軍に襲われ駆逐されるという事件が起こります。襲ったのはリッチョッティ旅団の一部で、ダンネンベルク大佐はすかさず一支隊*を送りますが、リッチョッティらは独軍がやって来るのを確認すると12日にエネ=ル=デュク(ベニュー=レ=ジュイフの北東9.6キロ)方面へ退却し、逃げ足早く13日にはアヴォ(同東27.5キロ)まで進んだのでした。
※1月11日・ダンネンベルク大佐がベニュー=レ=ジュイフへ向かわせた支隊
○第60連隊・第1,2,9,11中隊
○第72連隊・第1,3,9中隊
○予備驃騎兵第1連隊・第3中隊の1個小隊
○予備槍騎兵第5連隊・第3中隊の1個小隊
○野砲兵第7連隊・軽砲第3中隊の1個小隊
○同連隊・軽砲第4中隊の1個小隊
同日、ダンネンベルク支隊は臨時に第2軍団に隷属し前衛となることとされます。
これは第2軍団の想定行軍路の前方に大佐の諸隊が展開する形となっていたからで、大佐の任務は男爵フリードリヒ・カール・フォン・ケットラー少将率いる第8旅団(第4師団傘下。第21「ポンメルン第4」連隊と第61「ポンメルン第8」連隊。)が代わり、将軍は師団から竜騎兵第11「ポンメルン」連隊の2個(第1,2)中隊と野砲兵第2「ポンメルン」連隊の軽砲第5と重砲第6中隊を増派されました。
ケットラー支隊はロアール、サルト両河川沿いに展開するカール王子の独第二軍の「生命線」、後方連絡路のひとつシャティヨン~ニュイ~トネール鉄道線を守備し始めます。この鉄道は前進する第2、第7軍団も使用するため、神出鬼没のガリバルディ麾下の義勇兵から死守しなくてはならないものでした。因みに数週間後、独南軍の後方連絡はエピナル方面の鉄道線に切り替わります。
1月13日。ケットラー将軍はマントイフェル将軍から直に命令を受けました。
「1871年1月13日 シャティヨン=シュル=セーヌ在南軍本営にて
フォン・ケットラー少将支隊に与える訓令
我が軍がコート=ドール地方を通過する間、または通過後、軍右翼(南西)及び後方連絡線に対し南方より敵がこれを攻撃し来ることが想定される。この敵はこれまでに報告のあったオートンを根拠地に各地へ遊撃に出ているガリバルディ一派のみならず、ディジョンにあるという敵の新たな兵団(ヴィクター・ペリシエ准将の師団。後述します)からもこれを行う可能性が否定出来ない。
フォン・ケットラー少将の任務としてはこの攻撃を独自で防戦することにある。この時、反撃して攻勢に出ることも許す。むしろこれは得策となり得る。先ず気を付けるのはガリバルディ兵団で偵察によって叶う限りその所在・兵力・作戦を探るようにせよ。
なお、我が軍はコート=ドール地方を経由する兵站線路を出来る限り敵が籠もるラングル*並びに南方の敵に対し安全が担保される路線に設置するよう努めるところである。しかし、シャティヨンの倉庫並びにシャティヨン~ニュイ鉄道線路を引き続き守備することはケットラー支隊の主な任務となることに変わりはない。このため、支隊は第二軍兵站総監部配属の予備驃騎兵第1連隊(ニュイ在)と連絡を取り、これと協力すべきである。
また、支隊において万が一想定外に優勢なる敵によって攻撃を受けるようなことがあれば、支隊はシャティヨンを可能な限り守備し、それでもやむを得ず退却せざるを得ない場合はシャティヨン~ブレーム(ショーモンの北、サン=ディジエの北西16キロ)鉄道線路に沿って退却し、同線沿線に展開するロートリンゲン総督府に属する諸隊や兵站諸隊と共に同線路を死守し、場合によってはこれら諸隊を併せて反撃に転じるか、またはラングル北方において我が軍の後方連絡線守備隊に連絡することを計ること。
軍司令官 男爵フォン・マントイフェル 」(筆者意訳)
※当時ラングル要塞都市は既述通り仏軍が確保しており、その守備隊は12,000から15,000名と推察されていました。後の仏資料では「12月末に15,600、1月15日で16,800名」とされています。
同13日午後5時。今後雪深く行軍困難で連絡も途絶するであろう高地を行く軍のため、マントイフェル将軍は作戦の意図を示した全軍宛命令を発布します。
「1871年1月13日午後5時 シャティヨン=シュル=セーヌ在南軍本営にて
南軍命令
第2、第7両軍団は明日、コート=ドール山地(ラングル高地)を通過して前進する。その主力はスロンジュ~ロンジョーの線上において山地を抜けよ。
このため、第2軍団はモンバール~シャンソー~イス=シュル=ティールを経る街道を使用し、第7軍団はその北方の諸街道を使用せよ。
行軍は情勢に変化なき場合、別紙に掲げる行軍計画表に従うこと。同表に掲げる各地点は、ほぼ各本隊主力が通過すべき地点として示す。各前衛は本隊より離れて遠くに前遣せよ。特に(先行する形の)第7軍団においてはこれが重要となる。この理由としては、なるべく速やかに山地を脱してその出口を押さえ、この地点を警戒して敵がディジョン方面より攻勢を掛けて来る場合に、(後続する)第2軍団も山地を脱しているように計るためである。
諸縦隊前衛が山地の出口に至ったならば、主力進出のため防御態勢を直ちに整えること。
軍本営は第7軍団の右翼縦隊に同行するものとする。第7軍団はラングル要塞都市に対し、その攻撃から自らの行軍並びに輜重を確実に防御するよう手配せよ。
南方に在る敵に対して、軍の行軍並びにその連絡線と倉庫群、更にシャティヨン~ニュイ鉄道線路を警戒させるためフォン・ケットラー少将の指揮せる一個支隊を残置する。この編成は第2軍団所属の第8旅団ほか砲兵2個、騎兵2個中隊とする。同支隊はモンバールにおいて編成を完了しその作戦行動は別紙訓令によって示す。また、同支隊は予備驃騎兵第1連隊との連絡を保持すること。同連隊は第7軍団から第二軍兵站総監部に転属し先ずはニュイへ差配されたところである。
男爵フォン・マントイフェル
行軍計画表
◎第7軍団(各本隊を以て到達すべき月日)
○第14師団
*1月14日 アルク=アン=バロワ(シャティヨンの東北東34キロ)
*1月15日 シャムロワ(ラングルの西16キロ)
*1月16日 ロンジョー
*1月17日 (同地で待命)
○第13師団
*1月14日 ルセ(=シュル=ウルス。シャティヨンの南東23.4キロ)
*1月15日 オーブリーヴ(ラングルの西南西22キロ)
*1月16日 プロートワ(同南20.6キロ)
*1月17日 (同地で待命)
◎第2軍団(各先鋒を以て到達すべき月日)
*1月14日 リュスネ=ル=デュック(シャティヨンの南28キロ)
*1月15日 シャンソー(モンバールの南東30.8キロ)
*1月16日 クルティヴロン(イス=シュル=ティーユの西11.1キロ)
*1月17日 スロンジェ
◎軍本営
*1月14日 ルーグレ(シャティヨンの東17.1キロ)
*1月15日 ジェルメーヌ(オーブリーヴの北西2.7キロ)
*1月16日 プロートワ
*1月17日 (同地在) 」(筆者意訳)
命令では諸隊が極力速やかに山間を抜けて平野の出口に達し、確実にこの出口を抑え、前衛は出口の左右に展開して後続部隊も容易に平野部へ進出可能なようにすることが重要としています。
マントイフェル将軍は13日、フランセキー、ツァストロウ両将軍を本営に招き懇談し、今後の作戦詳細を話し合ったのでした。
独南軍の行軍(1月14から18日)
☆「ヴォージュ」軍 1871年1月中旬(戦闘兵員25,200名)
司令官 ジュゼッペ・ガリバルディ少将
参謀長 フィリップ・トゥーサン・ジョセフ・ボルドーネ准将
◇第1旅団 ジョゼフ・ボサック=オーク(ジョゼ・ボサカ・ハウケ)少将
*グレー(ディジョンの東北東43.3キロ)・エクレルール大隊
*エジプト人猟兵中隊
*ミディ(仏南西部)義勇兵中隊
*ローヌ・ヴォロンテーヌ(義勇兵)中隊
*アルプ=マリティーム県(コート・ダジュール地方・県都ニース)護国軍連隊の1個大隊
*護国軍第42「アヴェロン県(南仏オクシタニー地方)」連隊
◇第2旅団 クリスティアーノ・ロビア少将(実際は大佐)
*マルセイユ・エガリテ(平等)第1大隊
*マルセイユ・エガリテ第2大隊
*マルセイユ志願兵中隊
*オリエント(中東)出身フランス人志願兵中隊
*臨時護国軍ガール県(南仏地中海沿岸)第1大隊
*ローヌ・エクレルール(義勇騎兵)中隊
◇第3旅団 ドメニコ・メノッティ・ガリバルディ少将
*アルプ=マリティーム県(イタリアとの国境にあります)護国軍連隊・第2大隊
*バス=アルプ(現・アルプ=ドゥ=オート=プロヴァンス県・アルプ=マリティーム県の北側)県護国軍連隊・第1大隊
*バス=ピレネー県(現・ピレネー=アトランティック県・スペイン国境)護国軍・第1大隊
*イタリア・ヴォロンテーヌ(ボランティア/義勇兵)レギオン
*アルプ(サヴォワ地方)猟兵レギオン
*混成義勇兵中隊
*オ=ラン県(アルザス南部)義勇兵中隊
*フランシュ=コンテ(スイスとの北西国境地方)義勇兵中隊
*ヴォクリューズ県(コート・ダジュール地方)義勇兵中隊
*アルジェ=ガリバルディ義勇兵中隊
◇第4旅団 リッチョッティ・ガリバルディ大佐
*アルプ猟兵中隊
*ドーフィネ(南仏東の地方)猟兵2個中隊
*ヴォージュ県義勇兵中隊
*ドール(ディジョンの南東42キロ)義勇兵中隊
*ドゥー県(スイスの北西国境に接した県)・エクレルール義勇兵中隊
*ル=アーブル猟兵中隊
*「ニコライ少佐」の義勇兵隊
*トゥールーズ(南仏オート=ガロンヌ県都)義勇兵中隊
*アヴェロン県(南仏オクシタニー地方)義勇兵中隊
*「モン=ブラン」猟兵隊
*「ロアールの共和主義者」猟兵隊
*アリエ県(南仏オーヴェルニュ地方)・エクレルール義勇兵中隊
*ジェール県(南仏オクシタニー地方)義勇兵中隊
*ラ・クロワ(ニースの西側地方)義勇兵中隊
*ロワール=エ=シェール県(オルレアンの西側。県都ブロワ)・ヴォロンテーヌ中隊
*カプレーラ島(地中海サルディーニャ島北端部沖/ガリバルディ家の住所です)・エクレルール中隊
*クレセント(ナント市の地区)義勇兵「クロワッサン」中隊
*コート=ドール県義勇兵中隊
*モンターニュ(ジロンド県中央・ボルドーの東の地方)決死隊
*プティ・ミトライユーズ砲中隊
◇第5旅団(編成途中) ステファーノ・カンツィオ大佐
*ジェノヴァ・カラブリエ騎兵隊
*マルサラ(シチリア島)のイタリア人レギオン
*スペイン人義勇兵中隊
*「フランスのスペイン人」中隊
◇独立諸隊
*ラ・モルト(ローヌ=アルプ地方・グルノーブルの南)の義勇兵中隊
*ラ・ルヴァンシュ(リヨン南方)の義勇兵中隊
*「パリの孤児」大隊
*ローヌ県架橋兵中隊
*パリのアルザス人大隊
*コルマール(オ=ラン県都)義勇兵中隊
*ほか補充兵諸隊
*イゼール県(南仏・アルプ地域)臨時護国軍レギオン(ペリシエ師団より派遣)
◇騎兵隊
*仏正規軍・猟騎兵第7連隊の1戦隊
*驃騎兵1個中隊
*「教導騎兵」中隊
*ローヌ・エクレルール騎兵中隊
*シャティオン(リヨンの北東にある湖沼地域)・教導騎兵中隊
(後にマルシェ騎兵第11連隊から4個中隊が参加)
◇砲兵隊
*メーヌ=エ=ロアール県(ロアール下流・ナントの東側)臨時護国軍の1個中隊(4ポンド砲)
*正規軍・砲兵第2連隊の1個中隊(ライット4ポンド砲)
*同連隊の1個中隊(ライット12ポンド砲)
*ブーシュ=デュ=ローヌ県(南仏。県都マルセイユ)護国軍の砲兵隊2個中隊(ライット12ポンド砲)
*4ポンド山砲中隊
*義勇砲兵1個中隊(ミトライユーズ砲)
☆ヴォージュ軍隷属のペリシエ准将師団 1871年1月17日(戦闘兵員22,732名)
ヴィクター・ペリシエ
1811年生まれ。パリの軍工科学校(エコール・ポリテクニーク)を卒業、砲術士官として勤務しレンヌの砲兵廠長などを歴任、1864年戦隊長(少佐格)の階級で予備役編入。70年普仏戦争勃発で軍に復帰し准将の階級でソーヌ渓谷(ロン=ル=ソーニエ)の臨時護国軍兵師団長。後にディジョンの臨時護国軍兵師団長を歴任します。
◎ディジョン防衛
◇ジュラ県臨時護国軍レギオン(7,188名)
◇ソーヌ=エ=ロアール県臨時護国軍レギオン(8,900名)
◇アン県臨時護国軍レギオン(2,100名)
◇オート=サヴォア県臨時護国軍レギオン(1,144名)
◎オーソンヌ守備隊
◇ロアール県臨時護国軍レギオン(1,100名)
◎ヴォージュ軍へ派遣
◇イゼール県臨時護国軍レギオン(2,300名)




