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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリ砲撃
483/534

休戦



 1月19日。独第三軍参謀長カール・コンスタンチン・アルブレヒト・レオンハルト・グラーフ・フォン・ブルーメンタール中将はその夜、日記にこう記しています。

「朝9時過ぎ、敵の強力な縦隊がモン・ヴァレーリアンより出撃したとの報告あり。その後5分毎頻繁に電信報告が届き、我は躊躇することなく直接後備近衛1個旅団をサクレーより、バイエルン1個旅団をビエーブルより当地(ベルサイユ)に招聘するよう命じた。敵の攻撃はモントルツーにおいて第9師団に、あるいはマルメゾンにおいて第10師団に向けて行われる様子であった。我は昼食後の午後2時、幕僚に所要の命令を下した後に皇太子殿下の共としてマルリ(=ル=ロワ)の貯水塔に向かい馬車を走らせたが、その途上(ヴィルヘルム・ペーター・グスタフ・ゲオルグ・)ドレッゾウ少佐(後に歩兵大将。当時第三軍本営幕僚副官。連絡士官として前線に出ていました)と遭遇し第10師団の戦線では既に敵の攻勢は止んだとの報告を受けた。我らは右に転じてフォッス・ルポズの森(ベルサイユの東4キロ周辺に広がる森)を経由しボークレッソンの宿営(ホスピス・ブレザン)に向かった。この地ではなお砲兵1個中隊がラ・ベルジュリの高地(ギャルシュ北東の高地のこと)を砲撃中であった。その後少々熾烈となった戦闘あり(これに勝利したことで)戦いは終息に向かうものと思われたが午後3時30分、戦闘が再興された。

 敵は砲兵1個中隊をモントルツー付近に配して我が方を砲撃したが榴弾は全て我が頭上を越えるか右手の空き地に落下し、ただ目前で砲手1名が1,500m以上飛翔したシャスポーの流れ弾で負傷したに過ぎなかった。雪や霧はそれほど激しくはなかったが時折我らが視界を遮っていた。状況は不鮮明で少々危機的と見え、我は念のために予備となっていた(ベルサイユに待機中の)後備近衛旅団をフォッス・ルポズの森まで前進させることにした。その後夜を迎えたため、我と皇太子殿下は再び馬車に乗りベルサイユへ帰着した(午後6時)。

 皇太子殿下は一時敵の榴弾砲撃がかなり猛烈であったものの常に泰然として前線に留まっていた」(筆者意訳)


挿絵(By みてみん)

フォン・ブルーメンタール独第三軍参謀長


 また、参謀本部の第二課長アドリアン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ユリウス・ルートヴィヒ・フォン・ファルディ・ドゥ・フェノイス中佐は日誌に「本日、新制ドイツ帝国は血の洗礼を受けることとなった。仏軍は最大戦力によって出撃し我が軍に挑戦、ベルサイユにほど近い前線を襲った。敵襲撃が判明するやモルトケ伯は執務を止め馬車を用意させた。本官はモルトケ伯に同道し先に皇帝陛下が観戦にお進みになったマルリー貯水塔に向かった。仏軍はミトライユーズを含む砲多数を展開させ盛んに砲撃を行った」

と、まるで「他人事の物見遊山」のような記述を残しました。


挿絵(By みてみん)

パリを眺めるヴィルヘルム1世皇帝


 独帝国が創立を宣言した翌日、彼ら独軍首脳のアルコールが抜け切らない中で行われた「パリ最後の全力出撃」に立ち塞がったのは、そのパリ軍の四分の一程度の兵力に過ぎなかった独第5軍団(正確にはその半数)でしたが、独軍首脳陣は「ヴァイセンブルク、ブルトのキルヒバッハ」以下独軍でも「最強」と謳われる「あのナーホトのライオンが率いていた」シュレジエンやポーゼン州の将兵を信じ、落ち着き払っていた様子が伺えます。


 当時、パリ市民の多くを占めたのは下層階級の単純・肉体労働者とその家族であり、彼らは9月4日の帝政崩壊・国防政府成立を大いに喜び持て囃しました。何故ならば、この「お祭り騒ぎ」によって通常の業務や商売は停止され戦時一色の非常時体制となったからで、これは彼ら下層民が「通常の労働」(殆どが低賃金の苦役・劣悪な職場環境)から解放されることを意味していました。彼らの多くが臨時護国軍や国民衛兵として徴集されましたが、それは今までの「奴隷労働」よりはよほどマシで、少ないながらも衣食を保証され、当初は前線で生死を賭ける訳でもなく教練もさほど厳しいものでもなく、ただ警備兵として独軍に囲まれた花の都で独軍精鋭なら「兵隊ごっこ」と呼ぶような生活を送っていれば良かったのです。

 しかし包囲が長引くとその影響から次第に様々な弊害が発生し、特に季節が冬に向かっていたため食糧不足と極寒は生命を脅かし始め、不衛生から疫病も一部発生します。

 やがて陰日向に「無策で鈍重」な政府を糾弾し「何度でも出撃し包囲を解く努力をせよ」と煽る地下に潜った「10月31日暴動」の左翼首謀者たちや、真偽定かでない記事を勝手気ままに書き連ねて発行する新聞社の煽動に乗った市民が「出し惜しみない全力出撃」を訴え、トロシュ将軍らは(それまでの「失態」を糊塗するためにも)「持てる戦力を出し切る」作戦を発動せざるを得なくなるのでした。


 こうして「モン・ヴァレーリアンの戦い」が起こりますが、今までは「正規軍」の仕事であった野戦に彼ら国民衛兵や臨時護国軍兵が駆り出されると、仲間が次々に倒れる悲惨な戦場の現実と戦慣れした恐ろしい独軍を目の当たりにし、這々の体で市街へ帰還した彼ら下層や中流階級の人々は口々にトロシュ将軍始め国防政府を罵り、それはやがてパリ市民の激しい怒りと同調して吹き出す寸前(即ち革命寸前)ともなったのでした。こうなったからには「パリ市民全て(老人も子供も)で決戦に出撃せよ」と叫ぶ者も多くありましたが、その実声無き市民の大多数は、市街地にも榴弾が落ちて来る現状を忌み嫌い「どうでもいいから一刻も早く事態を終息させろ」との思いだったのでは、と考えます。


挿絵(By みてみん)

パリの仏軍砲台


 戦闘翌日の20日。国防政府は「野戦に撃って出る策は潰えた」と断じ、トロシュ将軍は市民に対し声明を発し、その主旨は「今後内側からパリの解囲を試みても断じて成功の望みはない」とのことでした。ただ一つの希望は「外部からの救援」でしたが、この同じ20日、ガンベタからの通信が届き「ル・マンで第二ロアール軍が敗退した(1月12日)」こと、「パリ市が率先して内から解囲を計らねばならない」ことを告げたのです。

 同じ20日。ガンベタが去った後に実質パリ政府を主導していた外相のジュール・ファーブルは市内全区長を召集して会議を開きますが、怒り心頭の市民を目の当たりにしていた各区長は「右左」関係なく口を揃え「降伏などもってのほか、直ちに一大出撃を断行せよ」と訴えるのでした。

 八方塞がりの絶望感に苛まれたトロシュ将軍は翌21日、パリ軍の首脳と首都在の高級軍人を招聘して今後を諮りますが、ここでは逆に大多数の者が口を揃えて「一大出撃など犠牲を増すだけに終わり実行などもってのほか」と首を振り、パリの行く末に対する悲観の声ばかりが聞こえるのでした。トロシュ将軍らは更に血気盛んで未だ闘志衰えない少壮の士官たちにも声を掛けて意見を聴取しましたが、こちらは市民の声に同調し「絶体絶命な状況下でも撃って出れば独軍の不意を突き有利に転じるのでは」などと軍事常識を無視した意見が見られたのです。


 悩むトロシュ将軍やファーブルらに追い打ちを掛けた事件は翌22日に発生します。


 漠然とした不安と飢餓の恐怖で市街の緊張が増す中の22日早朝。マザス監獄(現・リヨン駅前にあった監獄。有名なバスティーユ監獄跡の広場近くにありました。1900年に取り壊されています)を暴徒が取り囲み看守らを拘束すると政治犯を解放しました。この時に放たれた囚人の一人、過激で粗暴な行動が目立つ極左ブランキ派のギュスターヴ・フルーランス(10月31日暴動で逮捕され収監されていました)は下層民が多数を占める第20区役所を占拠し、デモ隊は列を成してパリ市庁舎へ向かいました。しかし10月暴動と違い国防政府の対応は素早く、市内治安復活のためジョセフ・ヴィノワ将軍率いる正規陸軍部隊を出動させ、将軍はデモ隊に対し容赦なく発砲してこれを制圧、多くの参加者は死傷者を後にして逃げ出しデモは解散したのでした。

 トロシュ政権は直ちに集会を禁じ、左派系の新聞は発禁に処されます。左派の顔役で第19区長のルイ・シャルル・ドレクリューズらは逮捕されヴァンセンヌ要塞へ送られました。


挿絵(By みてみん)

10月31日暴動・パリ市庁舎での激論


 しかし、これでトロシュ将軍は「解囲の失敗と首都混乱」の責任から「パリ総督」辞任を決断し、今後は単に「共和国大統領」として名目だけの職に留まり、以後ヴィノワ将軍がパリの総軍司令官として軍事を掌握、同時にデュクロ将軍もそれまでの失敗の責を負って「パリ第二軍」司令官の職を辞するのでした。

 残された政府首脳は同日の閣議で暴動の始末と糧食に関し討議しますが、この場で糧食の数量を精査した結果が報告されると、最早糧食は数日単位で「確実に無くなる」ことが参加した閣僚全員にはっきり認識されました。市民用の備蓄は24日に底を突くことが予測され、またサン=ドニ市に対する砲撃が始まり、その住民が大量にパリ市街へ流入したため糧食の需要は膨れ上がるはずで、今後各分派堡と兵営に蓄えた只でさえ少ない軍隊用の糧食を取り上げて民需として供出することとなり、それもどんなに供出量を絞っても2月中旬まで持たずに潰えること確実となったのでした。ここに至ればパリ市内には本当に一掬いの小麦粉も無くなり、本物の飢餓が始まります。そうなれば食べ物を求め人々は彷徨い争い、現在辛うじて保たれている秩序は崩壊してしまうでしょう。


 死に体となった国防政府に残された「道」はもう「休戦」しかありませんでした。

 事ある毎に「独との交渉は一刻も争う」と訴え続けていたファーブルは独との休戦交渉を行うことを再提案します。閣議にて討論の末に了承されるとファーブルは22日夜、ベルサイユに使者を送りビスマルクから交渉開始の約束を取り付け、翌23日夕刻、お互い白旗の行き来のため残されていたセーブル橋を渡ってベルサイユに向かいます。

 市民だけで200万人以上が閉じ込められたパリの飢餓は目前にあり、この惨劇を避けるためには直ちに外部との通行を回復し物資、特に糧食を市内へ大量に搬入しなくてはなりません。しかし独軍としてはパリが糧食を得る見返りとして「その後再び抵抗することが無いように」するのは当然のことで、交渉相手となったビスマルク(国政・外交に当たることには軍部は口出し無きよう、とヴィルヘルム1世を通じてモルトケらに釘を差しました)はファーブル一行を温かく迎え入れ、前回9月の「フェリエール会談」で提示していた休戦条件を再び提示するのです。

 その主な条件とは、

1・モン=ヴァレーリアン堡を含むパリの分派堡全てとサン=ドニ市を独軍に無条件で引き渡すこと。

2・「ティエールの城壁」の戦備を撤去すること。

3・1月26日夜12時(27日0時)を期してパリ城外の敵対行為を中止すること。

4・パリは随意に諸物資を搬入することを許されるが、その見返りとして軍事物資を独軍に引き渡すこと。

5・仏国の新たな憲法制定会議の招集(その前段階の選挙)を許可するので休戦期間内に実行すること(講和を話し合うに足る正当な政府の誕生)。


挿絵(By みてみん)

アニエール=シュル=セーヌ(サン=ドニ南西)の落とされた橋


 ファーブルはこの条件を一旦パリに持ち帰り検討し、閣議に掛けます。更に交渉の全権を自分に委ねることを要求しました。既に敗北を悟った閣僚らがこれを了承すると25日、ファーブルは再びセーヌを渡ってベルサイユに赴きビスマルクと交渉、諸条件の詳細を詰めた後の26日夕刻、遂にファーブルは休戦条約に署名したのでした(正式には28日付。またパリの境界線等に関する補足協定は29日付けで署名)。


 この21日間の休戦は実際地方戦線への通達猶予期間3日を経て1月31日午前0時に始まります。しかしこの休戦範囲からブルバキ将軍やガルバルディ将軍が戦うドゥ県、ジュラ県、コート=ドール県三県における作戦行動とベルフォールの包囲戦については除かれてしまいました。当時ファーブルら国防政府は地方の戦いに付いてボルドー派遣部のガンベタらが僥倖を当てにして放つ伝書鳩のマイクロフィルムによってのみ情報を得ており、実際どのような状況にあるのかは分からず仕舞いでした。歴史家の中にはこの情報の格差を利用したビスマルクが南東部の戦線を除外し更に占領地を拡大するよう画策した、と断じていますが、これはほぼ正しい(軍部の絶対条件だったのでしょう)と思います。仏北部のフェデルブ将軍も、西部のシャンジー将軍も既にこの28日の時点では攻勢に出る勢いはなく、また当該地の独軍も疲弊が激しくこれ以上の戦闘は双方得るものが少なかったのですが、南東部だけはマントイフェル将軍麾下の第2と第7軍団がヴェルダー将軍の援軍としてディジョンの北方に現れ、うまくすれば数週間でベルフォールも陥落させることが出来そうだったのです。

 この条件を飲んだファーブルは当時、ブルバキ将軍が勝利を得ているものと思い込んでおり、まんまとビスマルクの策謀に嵌ってしまったのでした。


挿絵(By みてみん)

セーブルのファーヴル


 休戦発効によりパリ軍に統括されていた正規軍と護国軍将兵は全て独軍の捕虜扱いとなりましたが、護送先となる独国内には既に20万以上の仏軍捕虜がおり、休戦条約にも捕虜交換の条項があったため実際の護送は見送られ、市内に拘留となります。その内12,000名が治安維持のために使用され、残りは武器を置いて待機となりました。また国民衛兵はそのまま存続し武器を持つことも認められます。ファーブルたちとしてはこれ以上パリ市民を刺激したくはなく、ビスマルクとしても正規軍に敵うはずがない国民衛兵の処置は仏が考えればいい、と思っていたのですが、これが数週間後に始まる一大騒動に繋がって行くことになるのです。

 一方でこの停戦の取り決めはあくまで「休戦協定(条約)」であって戦争終結を約するものではなく、これもパリ市民や地方民衆の蜂起を恐れた「死に体」の国防政府が「戦争終結=仏の敗戦」となる構図を一先ず回避した結果でした。ビスマルクとしても包囲当初の「フェリエール会談」でも指摘したように、「国防政府」は帝政を倒すため便宜的に立った「臨時政体」で、正式に選挙を経てからでなければ国を代表するとは言えない(約束が反故になりかねない)、との立場を通した結果でもあるのです。


 公式には戦争に勝利した訳ではないので、この時独軍はパリに入城(占領)することが適いませんでした。これはファーブルたち国防政府が願ったもう一つの最低条件で、モルトケら軍部としても心情はともかく実際に武器を手にする者も残る200万都市の占領を行うとなれば新たな難問が山積すること確実だったため「落とし所」ではありました。名目上パリは「陥落」せず軍は「投降」せず軍旗も手放しません。これも「詭弁」でパリ市民を宥めようとするファーブルとビスマルクによる窮余の一策でした。


 1月29日午後。独軍は何ら妨害を受けることなくパリ城外の諸分派堡やサン=ドニ市に進駐しました。これでパリは「丸裸」となり、休戦後に刃向かえば市街は火の海となること必至でした。日本に例えればあの「大阪冬の陣」の後の大阪城の有様、と言えば近いのでしょうか?


挿絵(By みてみん)

独軍に引き渡され三色旗を降ろされるバンブ分派堡


 休戦発効により独軍はパリ市内と外堡にあった各種野砲602門、各種小銃177,000挺(うちシャスポー銃は15万挺)、弾薬運搬車約1,200輌を鹵獲し、要塞の諸材料については各種守城要塞砲1,362門、砲架1,680基、その移動用前車860輌を手中に収め、鹵獲した弾薬はシャスポー銃の実包350万発、火薬約350トン、各種ライット式榴弾20万発、各種臼砲用炸裂弾10万発以上でした。


 こうして132日(70年9月19日から71年1月28日)に及んだ仏首都の包囲は終了しますが、戦争はこれで終了とは行きません。パリ国防政府は確かに仏国を代表するもの(既述通り選挙を経ておらず正式ではなく非常時における臨時の形)でしたが、籠城の間に首都以外の実権をボルドー派遣部に委譲する形となっており、独包囲軍の一部はガンベタの出方次第では再び野戦や攻城に出動しなくてはならないのです。

 ベルサイユ大本営は緊張感を解かず残された仏南東方面の戦いに注力することとなるのでした。


挿絵(By みてみん)

パリの独軍攻城砲台と要塞砲兵たち


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☆ 1871年1月28日に署名(合意は26日夜)締結された休戦条約の全文(筆者意訳・()内は筆者の注釈・【】内は原文の注釈です)


条 約

 プロシア王国国王兼ドイツ皇帝陛下の臣下である北ドイツ連邦宰相伯爵ビスマルクとフランス国防政府を代表する外務大臣ジュール・ファーブルは、各々正規全権を帯びて次の条項を約定する。


第一条

 独軍と仏軍間に進行中の作戦動作につき、パリにおいては本日より、地方にあっては3日間の猶予を以て前線に渡っての一般休戦を実施する。

 休戦期間は本日より起算し21日間とする。即ち本休戦を更新する場合を除き休戦は2月19日正午を以ていずれの地においても終了する。

 両軍は境界線を定め、これにより隔離しそれぞれ獲得している陣地を保持する。

 この境界線は以下の通り。

 カルヴァドス県境ポン=レヴェック(ル・アーブル南方。パリの西北西165キロ)から始め、ブリウーズ(アランソンの北西45キロ)とフロマンタル(ブリウーズの東7.7キロ)の中間を通ってマイエンヌ県北東の地リニェール(=オルジェール。同南東21キロ)に向かい、同地でマイエンヌ県に至ると、この地よりモランヌ(ル・マンの南西54キロ)の北方に至るまでマイエンヌ県とオルヌ、サルト両県との県境に沿って進み、この地よりカレ=レ=トンブ(ディジョンの西79キロ)東方のコート=ドール県、ニエーヴル県、ヨンヌ県との境界交点に至るまでとする。なお、サルト県、アンドル=エ=ロアール県、ロアール=エ=シェール県、ロアレ県、ヨンヌ県は(境界線外であっても)全県独軍占領地と成すこと。

 この軍事境界線より右(東)側の境界線画定についてはコート=ドール県、ドゥ県、ジュラ県の三県で進行中である作戦動作の現況詳細を確認したる後、速やかに締約者間において協議する。この境界線を設けるに当たっては前記の三県地域を横断し同地域北方にある諸県を独軍占領下として、その南方の諸県を仏軍に帰属させるように画定すること。

 ノール県とパ=ドゥ=カレー県並びにジヴェ(メジエールの北43キロ。ムーズ下流ベルギー国境突出部)とラングル(ディジョンの北北東64キロ)両要塞【各々周囲10キロメートル以内の土地を含む】、その他ル・アーブル地方海峡沿岸のエトルタ(ル・アーブルの北24.7キロ)からサン=ロマン(=ドゥ=コルボッシュ。同東18.5キロ)までの線外(西方、ル・アーブル側)の部分も独軍占領外の土地とする。

 両戦闘軍並びにその前哨は少なくとも10キロメートル両軍陣地間を隔てること。

 両軍はそれぞれ占領する地域内において権力を保持し、各司令官は目的のため必要とする処置を執る権利を有することを認める。

 本休戦は両国海軍にもこれを適用する。

 ダンケルクを通る子午(経度)線を境界線と定め、この西方を仏国海軍の領域と認める。独海軍軍艦はこの境界線西方海上にある場合、休戦の通報を受けたる後、直ちに当該境界線の東方に退去すべし(即ち閉塞下に置かれている艦船も解放されるという意味があります)。

 本休戦条約締結後、その通報到達前に拿捕された船舶と同期間に発生した戦闘により捕虜となった双方軍人並びに民間人は共に送還すべし。

 ドゥ県、ジュラ県、コート=ドール県三県における作戦行動並びにベルフォールの包囲については、後日定める三県横断の境界線に関し、双方の協定成立に至るまで本休戦の適用外として作戦行動は続行する。


挿絵(By みてみん)

休戦時の独軍占領地と総督府管区


第二条

 本条約の定める休戦は、本戦争を継続するか、あるいは如何なる条件において和平を協議するかの問題を議するため仏国防政府が自由選挙によって議会を招集させるために行うものである。

 その議会はこれをボルドー市において開催すること。

 独軍司令官はその議会を組織する議員の選挙並びに議会招集に関し諸般の便宜を図るものとする。


第三条

 仏国の軍憲はパリ外部の防御を構成する全ての堡塁並びにそれに供する軍事材料を直接独軍に差し出すこと。この防御線の外と各堡塁間にある諸部落と独立家屋は軍事委員の区画する境界線に至るまで独軍がこれを占領する。また、この線とパリ外郭(ティエールの壁)との間にある地域には両軍共に侵入を禁止する。堡塁の還付並びに境界線区画に関する手続きは本条約附属の協定書によりこれを定める。


第四条

 休戦期間中独軍はパリ市内への立ち入りを禁止する。


第五条

 パリ外郭の備砲はこれを撤去し、その砲架は独側軍事委員の指定する堡塁内までこれを運搬せよ。


第六条

 各堡塁並びにパリ守備将兵【正規軍戦列歩兵・護国軍・海軍兵】は、パリの軍憲が市内における勤務のために保有する一万二千名より構成する1個師団を除き全て独軍捕虜となる。

 捕虜部隊はその武器を手離しこれを独軍指定の場所に集積しその種類に従い軍事委員が定める方法によって独軍へ引き渡すこと。捕虜部隊はパリ市内に抑留し休戦中は市外へ出ることを禁じる。仏軍憲は捕虜部隊将兵が市内に留まることに付いて監視を行うこと。捕虜部隊士官は名簿に登録しこれを独軍憲に提出せよ。

 休戦期間の終了に際し、講和条約が未だ締結されていない場合はパリ市内に抑留される捕虜部隊将兵は全員独軍の捕虜となる。なお捕虜となる士官は各自所有の武器携帯を許す。


第七条

 国民衛兵はその武器を保有したままパリの守備並びに治安維持の任務に就くこと。また憲兵並びにこれに準じる部隊でパリ市内に勤務する者、例としては共和国防衛隊・税関兵・消防隊等も国民衛兵と同じ扱いとする。この種の部隊の総人数は三千五百名を越えてはならない。

 義勇兵部隊に関しては仏政府の命令により全部隊これを解散させること。


第八条

 本休戦条約締結後は、諸堡塁・要塞が占領・収容以前であっても独軍司令官はパリの糧食補給を実施するための計画を実行し、またパリに諸物品を搬入するために仏政府がその地方並びに諸外国に派遣する職員委員の類に対し諸般の便宜を図ること。


第九条

 諸堡塁・要塞が占領・収容され、第五条、第六条に規定するパリ外郭とその守備兵の武装解除を終えた後は、鉄道又は水上交通によってパリへの糧食補給を自由に行ってもよろしい。但しその糧食は独軍占領下にある地域から調達してはならない。仏政府は独軍の占領地域を画定する境界線外において糧食調達を行うことを約束すること。但し独軍司令官が特に許可する場合は例外とする。


第十条

 パリ市内から退出を望むものは仏軍憲より発行される許可証にして(境界線を規定通りに通過した証明となる)独軍前哨の検印あるものを所持すること。この許可証と検印は各県を代表する選挙候補者並びに国会議員に対しては無条件で交付すること。

 この許可証を所持する者の市内への出入りは午前6時より午後6時までとする。


第十一条

 パリは二億フランの軍税(賠償金)を独軍に支払うこと。この支払は休戦後15日以内にこれを行う。その方法については独仏の責任部署による話し合いで決定せよ。


第十二条

 前条軍税の担保となる公有の有償物件は休戦期間中些かもこれに変更を加えてはならない。


第十三条

 休戦期間中は武器弾薬並びにその製造に要すると認められる原材料をパリに搬入することを禁じる。


第十四条

 開戦以来発生した仏軍の獲た独軍人捕虜は総じて直接(=上層部に諮らずとも)その捕虜交換に着手すること。

 仏軍官憲はこのためなるべく速やかに独軍人捕虜の名簿を作成し、アミアン、ル・マン、オルレアン、ヴズールにおいて独軍官憲にこれを交付すること。独軍人捕虜の解放はそれぞれ独仏国境最近の地点においてこれを実行すること。独軍官憲は(独軍人捕虜の引き渡しが行われる)同じ地点においてなるべく速やかに同等階級で同数の仏軍人捕虜を仏軍官憲に引き渡すこと。

 独商船船長及び船員等軍人以外の俘虜と、独国内に抑留している軍人以外の仏国人俘虜との交換もこれを実施せよ。


第十五条

 パリと地方との開封信書の郵便事務はベルサイユ大本営を経由して行うこと(=検閲の実施)。


 以上条約の証として下名はこれに署名する。


1871年1月28日 ベルサイユにおいて


ファーブル(署名)

フォン・ビスマルク(署名)


挿絵(By みてみん)

仏海軍砲を調べるモルトケ参謀総長


☆ 1月29日(合意は27日)に署名締結された1871年1月28日の休戦附属協定書全文


第一条 パリ外の軍事境界線

 本境界線は仏軍においてはパリ市外郭(ティエールの壁)と定め、独軍においては次の通りとする。

一.パリ南方の境界線は、サン=ジェルマン島(ムードン北方のセーヌ湾曲部にある川中島)の北端を起点にセーヌ河岸からイッシー溝渠(水道)に沿い、パリ外郭(ティエールの壁)とイッシー、バンプ、モンルージュ、ビセートル、イブリの諸分派堡との中間を(並行して)進むものとする。但し、この境界線はパリよりポート=ア=ラングレ(イブリとビトリの中間付近の地域名。ビトリとアルフォールを結ぶセーヌの橋を指すことが多いようです)に通じる街道(現・国道D152号線)とアルフォール街道(現・国道D148号線)との交差点に至るまでは各分派堡の外郭よりおよそ500mを隔離してこれを設けること。

二.パリ東方の境界線は、一の終点(イブリ分派堡の北側500m)よりマルヌ川とセーヌ川の合流点を過ぎ、シャラントン部落(両川合流点の直ぐ北)の西と北の境界に沿った後、フォントネー門(フォントネー=スー=ボワの南西、ノジャン分派堡の西北西840mにあった外構門。現在のカトリック教会付近です)に直進し、ここよりロニー分派堡の西500mとノアジー分派堡とロマンビル分派堡の南それぞれ500m地点を過ぎてパンタン街道(現・国道D20号線)がウール運河に接する地点(パンタンの北300m)まで北進するものとする。

 ヴァンサンヌ城の仏守備隊は200名の1個中隊と定め休戦中はこれを(他の部隊と)交代させてはならない。

三.パリ北方の境界線は、(二の終点から)オーベルヴィリエ分派堡の南西500mの地点に至り、その後オーベルヴィリエ部落南縁とサン=ドニ運河に沿って進み、同運河の湾曲部(サン=ドニ市南)南方500m地点でこれを横断し、南方にあるセーヌ各橋梁とは一定の距離を隔てて一直線にセーヌ川に至るものとする。

四.パリ西方の境界線は、三の終点セーヌ川交差点よりセーヌ左岸に沿って上流に進み、南方境界線始点であるイッシー溝渠に至るまでとする。

 独軍は警戒上その前哨の配置につき必要となれば多少境界線より下がることも可とする。


第二条 境界線の通過通行

 パリの独軍前哨線を通過通行する許可を得た者は、必ず次に上げる街道を使用するものとする。

 カレー街道(現・国道A14号線)

 リール街道(現・国道A1号線)

 メッス街道(現・国道N3号線)

 ストラスブール街道(現・国道D120号線)

 バーゼル街道(現・国道A4号線)

 アンティーブ街道(現・国道D5号線)

 トゥールーズ街道(現・国道D920号線)

 第189街道(不詳。セーブル付近を通る街道と想像されます)

 その他、セーヌ川に架かる諸橋梁と新たに架橋を許可したセーブル橋とする。


第三条 分派堡と角面堡の引き渡し

 分派堡と角面堡は1871年1月29日午前10時より同日と翌30日の両日において次の方法により引き渡すこと。

 仏軍は各堡塁並びに中立地帯より退去する。但し要塞司令官はその各分派堡に砲兵と工兵による衛兵並びに門衛兵を残置すること。

 各堡塁の撤兵が完了する時、仏軍参謀士官1名は堡塁の最近事情並びに堡塁に達する道路状況につき説明のため最寄りの独軍前哨に出頭すること。

 各堡塁の引き渡しを完了し、また所要の説明を終えた後、要塞司令官は砲兵と工兵の衛兵並びに門衛兵の任を解いて撤収させ、パリにおいてその駐留地に至ること。


第四条 兵器・軍事物資の引き渡し

 兵器、野砲並びに諸軍事材料は本条約締結後15日以内に独軍官憲に引き渡すこと。このため仏軍官憲はこれらをスブラン(サン=ドニの東13キロ)に搬送すること。

 仏軍は2月4日以前にこの兵器・軍事物資につき現存数を独軍官憲に報告すること。

 堡塁に現存する砲架もまた同時期に全て撤去すること。


 以上条約は昨28日の条約附属であることの証として下名はこれに署名する。


1871年1月29日 ベルサイユにおいて


ジュール・ファーブル(署名)

フォン・ビスマルク(署名)


挿絵(By みてみん)

シャンピニー=シュル=マルヌ付近の破壊された橋




挿絵(By みてみん)

ティエールの壁を警備するパリの国民衛兵


パリ防衛の国民衛兵大隊


 1870年8月から仏国防委員会(当時はまだ第二帝政・パリ=カオ政権です)の決定により、パリの国民衛兵大隊は9つの地区(セクター)に配置されます。


 独軍による包囲中、各セクターでは当初こそパリに在住していた陸軍の予備役高級士官が指揮を執りますが、野戦指揮官不足により後には主に海軍の提督がこの任務に就いています。セクターは、市の中心から周辺部に至るまで、ほぼ等しい面積で定められ次のように分類されました。


(セクター№、地区、指揮官、本部の場所、従属大隊の順に示します・1870年9月頃の序列)


第1セクター/ベルシー(ヴァンセンヌの森西側)/ジョセフ・ファロン提督/ミシェル・ビゾ通り25番地


所属大隊

 第14, 48, 49, 50, 51, 52, 53, 56, 73, 93, 94, 95, 96, 99, 121, 122, 126, 150, 162, 182, 183, 198, 199, 200, 210, 212, 254


第2セクター/ベルヴィル(19区・市街北東部)/カイリエ将軍/アクソ通り79番地(1871年5月21日にコミューンの人間が処刑された場所です)


所属大隊

第27, 30, 31, 54, 55, 57, 58, 63, 65, 66, 67, 68, 74, 76, 80, 86, 87, 88, 89, 123, 130, 135, 138, 140, 141, 144, 145, 159, 172, 173, 174, 180, 190, 192, 194, 195, 201, 204, 205, 206, 208, 209, 211, 213, 214, 218, 219, 232, 233, 234, 236, 237, 239, 240, 241


第3セクター/ラ・ヴィレット(モンマルトルの丘東側)/オーギュスト・ヴィンセント・ボセ提督/アニュマーニュ通り・牛競売所


所属大隊

第9, 10, 23, 24, 25, 26, 28, 29, 62, 107, 108, 109, 110, 114, 128, 137, 143, 147, 153, 157, 164, 167, 170, 175, 179, 186, 188, 191, 197, 203, 224, 230, 231, 238, 242, 246


第4セクター/モンマルトル/ポール・コスニエ提督/サン=トゥーアン通り105番地


所属大隊

第6, 7, 11, 32, 34, 36, 61, 64, 77, 78, 79, 116, 117, 124, 125, 129, 142, 152, 154, 158, 166, 168, 169, 189, 215, 216, 220, 225, 228, 229, 235, 245, 247, 252,253, 256, 258


第5セクター/レ・テルヌ(凱旋門の北)/アントニー・ルイ・レ・クリアール・ドゥ・キリオ提督/マクマホン通り74番地


所属大隊

第2, 3, 8, 33, 35, 37, 70, 90, 91, 92, 100, 111, 112, 113, 132, 148, 149, 155, 171, 181, 196, 207, 222, 223, 227, 244, 257, 259, 260, リュエイ(=マルメゾン), アルジャントゥイユ, ベルサイユ, ル・ペック(アルジャントゥイユ半島先端西側)※地名の付いた大隊は郊外衛星都市からの難民によって創設されたものです。


第6セクター/パッシー(市街西部セーヌ右岸16区)/アルフォンス・フルーリオ・ドゥ・ラングル提督/シャトー・デ・ラ・ミュエット


所属大隊

第1, 4, 5, 12, 13, 38, 39, 69, 71, 72, 221, 226, セーブル,サン・クルー


第7セクター/ヴォジラール(市街南西部セーヌ左岸15区)/ドゥ・モンタニャック提督/サンチュール(軍用環状鉄道)・ヴォジラール駅


所属大隊

第15, 17, 41, 45, 47, 81, 82, 105, 106, 127, 131, 156, 165, 178, 187


第8セクター/モンパルナス/マッケ提督/ドルレアン(現ダンフォール・ロシュロー)通り93番地


所属大隊

第16, 18, 19, 20, 40, 43, 46 ,83, 84, 85, 103, 104, 115, 136, 146, 193, 202, 217, 243, 249


第9セクター/レ・ゴブラン(市街南部セーヌ左岸13区北)/ジャン・フランシス・エドゥアール・ウゲット・ドゥ・シャイエ提督/イタリア通り75番地


所属大隊

第21, 22, 42, 44, 59, 60, 97, 98, 101, 102, 118, 119, 120, 133, 134, 151, 160, 161, 163, 176, 177, 184, 185, 248, 251


挿絵(By みてみん)

サン=クルー付近の門 ジェームス・アレクサンダー・ウォーカー画


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