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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリ砲撃
480/534

第二次ビュザンヴァルの戦い(モン・ヴァレーリアンの戦い)・前


 仏パリ軍「最後の全力出撃」は既述通り1月19日決行とされ、戦闘員の総計はおよそ90,000名(但し半数近い約42,000名は野戦など想定外のパリ国民衛兵)、これを三軍に分けて各軍同時に独軍前哨線へ突進する予定でした。

 パリ第三軍を指揮するジョセフ・ヴィノワ将軍が指揮官となった「左翼軍」はモン=ヴァレーリアン堡塁直南のブリケテリ農場(サン=クルーの北2.1キロ。現存しません)周辺に集合し、市内第6防衛管区から重砲の援護射撃を貰ってモンルトゥー(同北西600m)の独軍前哨堡塁を抜いてサン=クルー城園へ突入する計画です。

 中央軍はパリ軍でも勇猛果敢(独断専行でもありますが)で鳴らすベルマール将軍が率い、ブリケテリ農場西のフイユーズ農場(ブリケテリ農場の西1.2キロ。現サン=クルー競馬場西に隣接するテニス場辺りになります)付近に集合、ギャルシュ(サン=クルーの西2.3キロ)の丘陵地帯とビュザンヴァル公園(サン=クルー北西に位置する広大なマルメゾンの森東側に造園された公園)の南端を目指します。

 右翼軍はデュクロ将軍が率い、セーヌ対岸シャトウ方面から背後を突かれぬようリュエイ(=マルメゾン。モン=ヴァレーリアンの西2.3キロ)付近に一隊を配するとメゾン・クロシャル(フイユーズ農場の北西1キロにあった邸宅。現存しません)付近から前回の「ラ・マルメゾンの戦い」(70年10月21日)でも激戦地となったビュザンヴァル城館(サン=クルー部落の北西3.4キロ)とポルト・デュ・ロンボオー(ビュザンヴァル公園の北西門)を越えてフォーラン・コッペル(仔馬の飼育場。ビュザンヴァル公園南に隣接する閑地で、現在はラグビー場やゴルフ練習場となっています)を襲撃する予定でした。これら3つの軍が集合するブリケテリ、フイユーズ、メゾン・クロシャル各地区では作戦決定後直ちに防御工事が始まりました。


挿絵(By みてみん)

国民衛兵の出撃


 ところが、この戦争中頻繁に見られた通り仏軍の「作戦」は仕方がないとは言え事前の入念な準備なく拙速に実行され、結果現場の準備が間に合わず、ここでも軍の集合に大幅な遅延を発生させてしまいます。

 第一の原因は独軍によるパリ市街包囲の最初期(9月下旬)、ブローニュの森からモン=ヴァレーリアンへ向かう途上のシュレーヌ地区から以南にあるセーヌ架橋を全て破壊して落としてしまっていたため、パリ市街からナンテール/コロンブの「半島」へ至るにはヌイイ(=シュル=セーヌ)とクリシーに残された架橋を使うしかなかったせいで発生した渋滞でした。またパリ軍ではセーヌ渡河を管制するための方策や渡河に伴う交通整理をするいかなる権限も定められておらず、作戦参加する部隊の多くが無秩序に東郊からパリ市街を抜けて西郊へ進んだためにセーヌ河畔で大渋滞が発生してしまったのでした(同じような光景は去る8月中旬、メッス包囲戦の初期にも見られます)。

 第二の原因は調整手段もなく三軍の移動距離を考えていない攻撃計画で、最も移動距離の長いデュクロ将軍の右翼軍では最長12キロメートルの行軍を夜間に行わなくてはならず、集合地に近いパリ西部から数キロで集合地に到着可能だったヴィノワ軍とは自ずと差が出てしまうのは自明の理でした。しかも行軍路は寸断された鉄道線に破壊の跡や障害物だらけの街道で、これでは練度が比較的高い独軍であっても計画通りに集合出来たものか怪しいものです。

 このような状態では当初三軍の一斉攻撃開始時間とされた午前6時に「スタートライン」から発することが可能だった部隊はほんのわずかで、実質上の総指揮官デュクロ将軍は攻撃開始時間を30分延期とするのでした。

 ところが、自ら総攻撃の指揮を執ることになったトロシュ将軍が渋滞に巻き込まれて前進指揮所となるモン=ヴァレーリアン堡に到着せず、要塞指揮官は「総督が到着しなくては」と午前6時30分になっても「前進信号弾」を発射しなかったため、攻撃開始は更に遅れて午前7時となるのでした。


挿絵(By みてみん)

市内を行く護国軍部隊


 この午前7時において、左翼「ヴィノワ」軍では先鋒となるボーフォート師団だけが戦闘準備を完了し、続行するクルティ師団はシュレーヌ(ブルケテリから1.2キロ北方)を通過中、中央「ベルマール」軍は予定集合地に未だ誰も到着せず、先頭こそフイユーズに迫っていたものの、その行軍縦隊最後尾はヌイイ街道(凱旋門からナンテールへ向かう街道。フイユーズから北東へ4.6キロ付近)に連なっており、右翼「デュクロ」軍に至っては遙か後方クルブボワとアニエール間(モン=ヴァレーリアン堡の北東およそ6キロ)を行軍中といった具合で、先行していた砲兵3個中隊だけがやっとナンテール付近(集合地から3.5キロほど)に達するという体たらくだったのです(これでよくも「攻撃開始を30分だけ延ばそう」と言えたものです)。

 これでは1時間の遅延だけでは「一斉」攻撃など到底不可能でしたが午前7時、遂に攻撃開始の信号弾が発せられ、ほぼ同時にモン=ヴァレーリアン堡に到着したトロシュ将軍はここでデュクロ軍から「右翼未だに集合地へ至らず」との報告を受けました。トロシュは先に到着した左翼ヴィノワ軍に「攻撃待て」の伝令を発しましたが間に合わず、ほぼ全部隊が揃ったヴィノワ軍は戦闘を開始してしまうのでした。


挿絵(By みてみん)

モン=ヴァレーリアン遠景


 この1月19日。独第三軍麾下第5軍団の前哨線には右翼(西側)に第17旅団、左翼(東側)に第20旅団が任務に就いていました。

 独軍は9月末から断続的に重厚な陣地群を築いており、特にル・ビュタール(16世紀中ごろにルイ15世が建てた狩猟小屋。サン=クルーの西5.6キロ。現存しますが保存の危機にあります)付近とエトアール・ドゥ・シャッス(放射状交差点。同南西2キロ。現存します)からポルト・ヴェルト(エトアール・ドゥ・シャッスの西北西2.2キロ)に至る間に堡塁や砲座を幾つも連ねて造ります。防御中央となるマルメゾンの森の西側、ラ・セル=サン=クルーとブージヴァル間は鹿柴と肩墻で「半要塞化」され、その南方のボークレッソン南の高地に肩墻砲台を築造しています。

 当時の軍団本陣地線はサン=クルー公園の南東隅から始まって西へ、ポルト・ジァーニュ(サン=クルーの西1.5キロ。サン=クルー城庭園の北門でした)を経てフォーラン・コッペルまで延びており、その北側にはもう一本、ビュザンヴァル公園東縁とポルト・デュ・ロンボオーからラ・マルメゾン方向に進んでセーヌ河畔に至る陣地線が築かれ、この前線より数百メートル離れたモンルトゥー付近の鉄道堤からビュザンヴァル公園北東側隔壁に沿ってラ・マルメゾンに至るまでに監視前哨線を敷き監視小哨を点在させました。

 この小哨に歩哨を配する当番の前哨中隊はサン=クルー公園北のヴィルヌーヴ(ギャルシュの南西650m)付近とラ・セル=サン=クルー東方の堡塁周辺、そしてブージヴァル部落の東街道口に設けた待機所等に駐在し、ヴィル=ダヴレー、マルヌ(=ラ=コケット)、ボークレッソン、ラ・セル=サン=クルー、ブージヴァルの各部落には「いざ」という時のため即応予備隊が待機しました。前線任務に就かない軍団の残り諸隊はベルサイユの街かマルリ=ル=ロアに至る街道(現・国道N186とD386号線)沿い各部落(ロカンクールなど)に宿営したのです。


挿絵(By みてみん)

ル・ビュタール


 1月19日黎明。ヴィル=ダヴレーとラ・ジョンシェール(小部落。その北東郊外にラ・マルメゾンの戦いで争奪戦となった「ラ・ジョンシェールの家」があります。ブージヴァルの東1.4キロ)北方にあった天文台(当時は天体観測の面より気象を観測・記録する気象台としての役割が大きくありました)は「本日濃霧」を予想し報じます。独第5軍団の前哨はこのまま静かに夜明けを迎え、その音を吸収する霧の中、午前8時15分に至るまで前哨兵は変わり映えのしない一日が再び訪れたと感じていました。

 ところがこの直後の午前8時30分過ぎ、前線の独監視小哨は突如として敵の大きな動きを察知するのです。

 同時刻、第5軍団の右翼側指揮を任されていたフリードリヒ・フォン・ボートマー少将は前線複数の監視小哨から「敵の大軍サン=クルー方向へ前進」との警報を受け取ると、即座に緊急警報を発し、軍団本営も午前9時に左翼の監視小哨から同様の警報を受け取ると、今までに類を見ない規模の仏軍による総攻撃であることが確認されるのでした。


 これにより、本隊待機となっていた軍団の総予備にも緊急集合が掛けられ、ジャルディ(当時は貴族の農場。ボークレッソンの南でル・ビュタールの南東850m付近にありました。現在は住宅地です)とボールガール(城館。ル・ビュタールの西1.5キロ。高速道路建設で解体されました)の前進待機集合地へ向け直ちに出撃を命じられ、軍団長フォン・キルヒバッハ歩兵大将は総指揮を執るためル・ビュタール在の第9師団司令部へ駆けつけます。昨夜は独帝国誕生の祝杯を挙げていた独第三軍司令官フリードリヒ皇太子はベルサイユで急報を受けると「万が一の場合のため」総予備として待機中の後備近衛師団の6個大隊とB第2軍団からの1個旅団強をベルサイユに呼び寄せるよう命じ、セーヌ上流に展開中の第6軍団フォン・テューンプリング騎兵大将に対しては「兵力減となったB第2軍団の包囲網へ必要に応じ援軍を差し向けるよう」命じると、自らは前線指揮を執るため予め戦線中央で最も展望が開けた場所として目星を付けてあったホスピス・ブレザン(ボークレッソン部落内交差点から北東に700m付近にありました。現カーズ通りとガルシュ通り交差点にあった小教会旅荘で現存しません)へ騎行するのでした。またヴィルヘルム1世(今や皇帝)も騒ぎを聞くとこれも展望の利く戦場北西方のマルリ=ル=ロワ(ベルサイユ宮殿の北7.3キロ)付近の丘陵にあった貯水塔(部落の南450m付近にありました。跡地がはっきり残ります)へ向かうのです。


※1月19日・ベルサイユへ集合した独第三軍部隊

◎普後備近衛師団より

◇第1旅団(サクレー/ベルサイユ宮殿の南南東9キロより)

 ○後備近衛歩兵第1連隊・第1、2大隊

 ○後備近衛歩兵第2連隊・第1、2、3大隊

*同・第1連隊・第3大隊はプティ=ジュイ(同南東4.4キロ)に残留

◇第2旅団

 ○後備近衛擲弾兵第2連隊・第1大隊(サン=シル/同西4キロより)

 *残りはサン=シル残留。同擲弾兵第2連隊・第2大隊は元よりベルサイユ警備

◎B第2軍団より

◇臨時混成「強化」旅団

 ○B第7連隊・第3大隊

 ○B第14連隊・第1、2大隊

 ○B第15連隊・第3大隊

 ○B猟兵第3大隊

 ○B野砲兵第4連隊・6ポンド砲第7,8中隊

 ○Bシュヴォーレゼー(軽)騎兵第1連隊第3,4中隊


挿絵(By みてみん)

サン=クルー戦線の独軍前線小哨


 仏ヴィノワ軍の主力・歩兵約15個大隊は三本の縦列を作り砲兵の事前準備砲撃も無いまま濃霧の中を前進し、サン=クルー地区北端となるモンルトゥー付近の堡塁とギャルシュ北東標高112mの高地に向かいますが、そこで初めて独軍に遭遇しました。これは最前線にあった監視小哨の歩哨や斥候兵たちで、彼らは短時間の抵抗後モンルトゥーの堡塁陣地へ退却して行きます。

 モンルトゥーの堡塁は元来仏軍が設営中だったものですが、独軍は9月末にここを占領すると、未完成の堡塁を「方向転換」して再利用することに決め、仏軍側に向く開口部を封鎖して厚い土塁を築造していました。

 この堡塁目指して仏軍前哨が突進して来ますが、モンルトゥー堡塁には第58「ポーゼン第3」連隊本部付士官のフォン・カウフンゲン少尉や小隊長フォン・デューリング少尉を中心に最前線から撤退して来た歩哨や斥候89名が集まり堡塁の防御を頼りにして十数倍に及ぶ敵と銃撃戦を始めます。独軍公式戦史に因ればこの兵士は普第58連隊と猟兵第5「シュレジエン第1」大隊に属する者たちで、敵主力がサン=クルー市街に突入した午前9時45分頃まで頑強に抵抗した後、堡塁を捨てると着剣して士官や下士官を先頭に鬨を上げて血路を開き、負傷者と落伍者若干名を敵に渡したものの本陣地まで生還するのでした。

 仏軍はこの堡塁を歩兵2個大隊で占領し残りはサン=クルーとモンルトゥーの両公園へ突進して行きました。


挿絵(By みてみん)

焼け落ち壁面だけになったサン=クルー宮殿


 この間にベルマール将軍率いる中央軍のフルネ将軍旅団とコロニュー大佐旅団はようやくフイユーズに到着し、直ちに目標であるギャルシュとビュザンヴァル公園に向け前進を開始しました。

 この中央軍左翼はメゾン・ドゥ・キュレ(ギャルシュの北東900m付近にあった旅荘。現存しません)付近の丘陵から独の前哨を駆逐するとギャルシュ部落に取り付いてその外周家屋を占拠しました。同時に軍右翼はビュザンヴァル公園の外周園壁*を数ヶ所破壊して突破口を開き、公園東部に侵入しました。

 この時午前9時を過ぎ、同時に独軍前哨は初めて増援を得るのです。


挿絵(By みてみん)

ビュザンヴァル公園の園壁を乗り越える仏国民衛兵


※ビュザンヴァル公園は当時外周(東壁)と内周(西壁)二つの園壁(一部のみ現存します)があり、外周の壁はポルト・ドゥ・ロンボオー(ポルトは仏語で「門」です)からビュザンヴァル城館を経てラ・ベルジュリ(当時は邸宅。ギャルシュの北西600m付近で現在のサン=クルーゴルフ場南東縁に当たります)まで続き、内周の壁はロンボオー門からガルド・デ・フォレーン(公園内にあった小門)を経て南方へ続き、最後はラ・ベルジュリの北で外周園壁に接続していました。


挿絵(By みてみん)

ビュザンヴァルの戦い(71年1月19日)戦闘図(南方)


 キルヒバッハ将軍は「仏軍が動いた」との報告を受けた際、当時小哨に監視兵を派遣していた猟兵第5大隊に対して「部隊全力で前哨線に進み敵に対して持久戦を挑んで足止めさせ、以て後方予備が本陣地へ展開する時間稼ぎとせよ」と命じましたが、猟兵大隊本部が敵進撃を知った時には既に前哨が駆逐されており、また命令が届くのも遅延したため敵がモンルトゥーとギャルシュに取り付いた頃に集合を終える始末でした。

 午前9時過ぎ、猟兵第5大隊はようやく第2,3中隊がポルト・ジァーニュとグリル=ドルレアン(ポルト・ジァーニュの東南東600m)の陣地に到達し、同じく前線に出動した第58連隊の第2大隊と協調して防御戦闘を開始しました。同時に第58連隊第1大隊はその右翼(東側)外へ展開し、10月に燃え落ち廃墟に近い状態となっていたサン=クルー城とその庭園の防衛を担うのでした。


 出遅れて焦っていた猟兵第5大隊の第4中隊長ギュンター・フォン・ビュノー大尉は部下と共に駆け足で仏軍が侵入し始めていたギャルシュへ突入し、交戦中だった同隊猟兵伍長率いる歩哨二隊と第58連隊第6中隊兵に第59連隊第7中隊兵などと肩を並べて戦い、仏軍を部落縁から追い落とすと、続けてやって来た第59連隊第8中隊と協力して部落北東郊外と墓地を抑えることに成功します。ビュノー大尉は混成となった諸隊を率いて更に進み、一時はメゾン・ドゥ・キュレの丘陵も奪還しますがやがて仏軍が盛り返し、数倍する敵を前に大尉は一旦ギャルシュまで下がりますが、この時左大腿部に銃創を負ってしまいました。

 これ以外の第59連隊第1、2大隊諸中隊はポルト・ヴェルトからフォーラン・コッペル間又はフォーラン・コッペルからギャルシュの間に展開しそれぞれ防御陣地に入りました。猟兵第5大隊の第1中隊長エルンスト・フィリップ・オスカー・フォン・シュヴェムラー大尉も部下と共にビュノー中隊に続いてギャルシュに辿り着き、そのままラ・ベルジュリの重層陣地へ入ります。ここにはフォン・カンプツ少尉が率いていた第59連隊第3中隊の一部も布陣していました。


挿絵(By みてみん)

ビュザンヴァルの戦い 戦う普猟兵第5大隊


※1月19日午前・独第59連隊第1、2大隊の布陣

・第5中隊/ポルト・ヴェルト

・第6中隊/ホスピス・ブレザン

・第1中隊/フォーラン・コッペル南東角の「ヴィルヘルム皇帝堡塁」

・第2中隊/同

・第3中隊/フォーラン・コッペル~ギャルシュ間の陣地帯

・第4中隊/同


 この比較的薄い独の防衛線に対し午前9時30分過ぎ、勇敢なベルマール将軍率いる中央軍の前衛約10,000名が突入したのでした。


 しかし、寡兵とはいえ厳しい練成に耐えて戦慣れし、仏軍に比して恵まれた糧食状態にあった独軍は強く、しかも彼らが守っていたのは誕生したばかりの独皇帝が大本営を構えるベルサイユで、ベルマール将軍やフルネ、コロニューの前線指揮官たちは必死に部下を鼓舞したものの激しくしかも的確な銃撃の前に義勇兵や国民衛兵の脚は止まり、彼らよりはいくらか練成度の高い「正規兵」のマルシェ部隊もなかなか前線突破が適いませんでした。仏軍はポルト・ジァーニュとギャルシュの間で完全に阻止されてしまい、一部では早くも後退まで始まってしまうのです。

 この状況を見極めたのが猟兵第5大隊第3中隊で、彼らは果敢にポルト・ジャーニュの陣地を飛び出すと北進して周辺地区を奪還し、フリードリヒ・ヴィルヘルム・レブレヒト・フォン・ストランツ大尉率いる同大隊第2中隊もほぼ同時にグリル=ドルレアンの陣地から出撃し、ちょうどモンルトゥー堡塁から脱出して来たフォン・カウフンゲン少尉らと遭遇し彼らを収容します。

 独第58連隊第11,12中隊はこの間に、ヴィル=ダヴレーから猟兵が空けたポルト・ジャーニュに入って後ろを固め、その内第11中隊はモンルトゥー付近の「帝国通り」(現・国道D907号の「グノッド通り」)を占拠すると散兵線を敷き、サン=クルー市街へ侵入しようとする仏軍(ヴィノワ軍前衛)を阻止し続けるのでした。


挿絵(By みてみん)

激戦となったサン=クルー市街「帝国通り」


 この独第9師団が担う防衛線の中で最も仏軍から強力な攻撃を受けたのがラ・ベルジュリの陣地で、およそ歩兵5個大隊、工兵1個分隊と推察され、この工兵は「本職」なのか独軍からの銃撃にも臆せず陣地の一部と化していた公園の園壁爆破を勇敢に試みます。しかし使用する爆薬は凍結のため発火せず、爆破は失敗してしまいました。因みにこの爆薬は「ジナミット」だったと言われ、ジナミットは当時鉱山採掘や地雷などに多用される一般的な爆薬でしたが湿気に弱く、湿気ると膨張してしまい、また寒気によって凍結・収縮しその変化中に爆発することもあるという厄介なシロモノでした。

 こうして仏軍が十倍以上はする兵力で攻めたラ・ベルジュリでは前述通り・フォン・シュヴェムラー大尉率いる猟兵中隊とフォン・カンプツ少尉の小隊という僅か200名程度の兵力で守られ、大尉らは途中から参加した砲兵の援護もあって一歩も退かず終日冷静に戦い、遂にこの要衝を守り抜いたのでした。


挿絵(By みてみん)

仏軍工兵


 この戦いで独軍最初に砲撃を行ったのは第9師団砲兵の重砲第1中隊と軽砲第2中隊で、重砲中隊はポルト・ジャーニュ南方、軽砲中隊はホスピス・ブレザンの堡塁に入って砲撃を始めます。この砲撃は仏軍の侵攻阻止に大いに活躍し、続いて同師団砲兵重砲第2中隊がポルト・ヴェルト南東肩墻に、軽砲第1中隊はフォーラン・コッペル付近に砲列を敷き、戦闘に参与したのです。


 一方、サン=クルー市街では仏ヴィノワ軍「ボーフォート」師団によって占拠されてしまった停車場を巡り昼前に激しい争奪戦が発生し、第58連隊第1中隊は既に地歩を固めつつあった仏軍の散兵線に突入し、遂には停車場を奪還するのでした。

 しかし、ハインリヒ・ルートヴィヒ・アドラー・ヴェルネッケ大尉が指揮する市街北部の戦闘は一進一退で市街戦が続き、一気に片を付けようとフォン・ボートマー少将は予備となっていた第58、59両連隊の残部予備4個中隊*を直率して片やグリル=ドルレアンへ、片やサン=クルー市街へ向けて増援としますがこれでも数に倍する仏軍を撤退に追い込むことは出来ませんでした。また、午前11時にはセーブルから急遽派遣された第21師団の増援大隊もサン=クルー市街とグリル=ドルレアンへ前進を命じられます。


※1月19日昼前・ボートマー将軍が率いた諸隊

・第58連隊第9,12中隊

 エトアール・ドゥ・シャッスから前進

・第59連隊第9,12中隊

ホスピス・ブレザンの北方から前進

・第88「ヘッセン=ナッサウ第2」連隊第2大隊(第21師団麾下)

 セーブルより


 歩兵の奮戦を支え、結果、決死の覚悟で迫り来る仏軍の足を止めたのはやはり砲兵でした。


 正午頃、砲撃を続ける重砲第1中隊の隣に同僚の重砲第4中隊が到着し並んで砲を敷きます。ポルト・ジャーニュ南方堡塁の砲列は倍化すると迫る仏軍散兵群に対し榴散弾を連続発射し、これが効果てきめんとなって仏軍の前進は一気に鈍化しました。

 午後1時には軽砲第3中隊もホスピス・ブレザンに到着し、これで第9師団管区の前線には師団の砲力1.5倍となる36門が揃い、的確な砲撃は仏軍前線を叩き続けてその士気を挫き始めるのでした。


挿絵(By みてみん)

戦闘後のサン=クルー市街


※1871年1月19日・仏パリ防衛軍の「サン=クルー攻撃」諸隊戦闘序列


☆軍総司令官 ルイ=ジュール・トロシュ将軍*(共和国大統領・パリ総督)

☆左翼軍 司令官/ジョセフ・ヴィノワ将軍(戦闘員22,000名/内8,000名がパリの「臨時」国民衛兵)

◎「ボーフォート」師団

師団長 シャルル・マリエ・ナポレオン・ドゥ・ボーフォート・ドゥ・ドゥープル将軍

◇ノエル(准将)旅団

○戦列歩兵第139連隊・第1大隊

○ロアール=アンフェリウール県護国軍・独立第4大隊

○工兵1個分隊

○補助工兵*1個中隊

○パリ国民衛兵第2連隊(パリ「臨時」国民衛兵連隊は4個大隊制です)

◇マドロール(准将)旅団

○ヴァンデ県護国軍の3個大隊

○パリ国民衛兵第42連隊

◇師団予備

○所属不詳の臨時護国軍4個大隊

◎「クルティ」師団

師団長 アンリ・ジャン・クルティ准将

○義勇兵(員数不詳)

◇アヴリル・ドゥ・ランクロ(准将)旅団

○戦列歩兵第123連隊

○戦列歩兵第124連隊

○パリ国民衛兵第5連隊

◇ピストゥーレ(准将)旅団

○戦列歩兵第125連隊

○戦列歩兵第126連隊

○パリ国民衛兵第34連隊

◇「メゾン・ドゥ・ベアルン」へ向かう支隊

○イスル県とヴィレーヌ県混成護国軍・独立第3大隊

○パリ国民衛兵第6連隊


◇砲兵隊 各種野砲10個中隊


※補助工兵の「正体」は不明ですが、想像するに国民衛兵か義勇兵を即席で工兵に仕立てた「にわか」部隊と思われます。


挿絵(By みてみん)

前線で指揮を執るヴィノワ将軍


☆中央軍 司令官/アドリアン・アレクサンドル・アドルフ・ドゥ・キャリー・ドゥ・ベルマール将軍(戦闘員34,500名/内16,000名がパリの「臨時」国民衛兵)


◎左翼攻撃縦隊

隊長 ルイ・エルネスト・ヴァレンティン将軍

○義勇兵(員数不詳)

○戦列歩兵第109連隊

○工兵1個分隊

○補助工兵1個分隊

○パリ国民衛兵第16連隊

◇縦隊予備

○戦列歩兵第110連隊

○パリ国民衛兵第18連隊

◎中央攻撃縦隊

隊長 ジャン・マルティン・フルネ将軍

○義勇兵(員数不詳)

○パリ・ズアーブ第4連隊

○工兵1個分隊

○補助工兵1個分隊

○パリ国民衛兵第11連隊

◇縦隊予備

○セーヌ県及びマルヌ県の臨時護国軍混成連隊

○パリ国民衛兵第14連隊

◎右翼攻撃縦隊

隊長 ヴィクトール=マルティン・コロニュー大佐

○義勇兵(員数不詳)

○戦列歩兵第136連隊

○工兵1個分隊

○補助工兵1個分隊

○パリ国民衛兵第9連隊

◇縦隊予備

○モルビアン県の臨時護国軍連隊

○パリ国民衛兵第10連隊

◎軍総予備

司令 ルイ・フランシス・ジョゼフ・アンリオ将軍

○戦列歩兵第135連隊

○セーヌ県の臨時護国軍5個大隊

○パリ国民衛兵第20連隊

◎ヴァレット大佐支隊

○セーヌ県の臨時護国軍3個大隊

○フェニステル県の護国軍・独立第1大隊

○イスル県及びヴァレーヌ県の臨時護国軍・独立第5大隊

○ヴァンデ県の護国軍・独立第4大隊

○パリ国民衛兵第21連隊


◇砲兵隊 各種野砲10個中隊


挿絵(By みてみん)

パリ国民衛兵第194大隊(ベルヴィル地区)の兵士


☆右翼軍 司令官/オーギュスト=アレクサンドル・デュクロ将軍(戦闘員33,500名/内18,000名がパリの「臨時」国民衛兵)


◎左翼攻撃縦隊

隊長 ジャン=オーギュスト・ベルトー将軍

○義勇兵(員数不詳)

◇ボーシェ(准将)旅団

○戦列歩兵第119連隊

○戦列歩兵第120連隊

○パリ国民衛兵第17連隊

◇マリエ・フランシス・ジョセフ・ドゥ・ミリベル(准将)旅団

○ロアレ県護国軍連隊

○セーヌ=アンフェリウール県護国軍連隊

○パリ国民衛兵第8連隊

◎右翼攻撃縦隊

隊長 男爵ベルナール・ドゥ・シュスビエル将軍

○義勇兵(員数不詳)

◇ラゴン(准将)旅団

○戦列歩兵第115連隊

○戦列歩兵第116連隊

○パリ国民衛兵第51連隊

◇クロード=マルタン・ルコント(准将)旅団

○戦列歩兵第117連隊

○戦列歩兵第118連隊

○パリ国民衛兵第23連隊

◎軍総予備

司令 ジョセフ・ファロン将軍(海軍)

○義勇兵(員数不詳)

◇ルイ・コンスタン・ロラン・ドゥ・ラ・マリウーズ(准将)旅団

○戦列歩兵第35連隊

○戦列歩兵第42連隊

○セーヌ県及びオアーズ県の臨時護国軍混成連隊

○パリ国民衛兵第19連隊

◇レスピオ(准将)旅団

○戦列歩兵第121連隊

○戦列歩兵第122連隊

○パリ国民衛兵第25連隊

◎リュエイ停車場支隊

○パリ国民衛兵第44連隊

○パリ国民衛兵第52連隊

○パリ国民衛兵第55連隊


◇砲兵隊 各種野砲10個中隊


※戦時昇進多発のため階級は殆どの者が実際より1から4階級上となっています(例・中佐が将軍)。既述通り仏軍の「将軍(少将)」は率いる隊の規模により中将、大将と変化しますが、終戦間際では任命権もあやふやになっていたため師団以上の指揮官職は全て独軍の中将に当たる「(師団)将軍」にしてあります。

※出撃したパリ軍の総計は戦闘員90,000名(内臨時国民衛兵42,000名)・砲兵30個中隊(砲数不詳。定数通りなら200門前後ですが中隊数すら怪しいものです)


挿絵(By みてみん)

銃弾飛び交う原野を行く仏軍


※1871年1月19日・独第5軍団の諸隊戦闘配置


☆軍団長 フーゴ・エヴァルト・フォン・キルヒバッハ歩兵大将


◎独第9師団

 師団長/カール・グスタフ・フォン・ザントラルト少将

◇前哨支隊と即応予備

 指揮官/フリードリヒ・ヴィルヘルム・アドルフ・フォン・ボートマー少将(独第17旅団長)

*右翼・ヴィル=ダヴレー前哨支隊(フォン・クラウス中佐/第58連隊長)

○猟兵第5「シュレジエン第1」大隊*の前哨線

 (サン=クルー~シュレーヌ街道/現・国道D985号線縁からモンルトゥー堡塁を経てギャルシュ高地まで)

○第58「ポーゼン第3」連隊・第1大隊の前哨線

 (サン=クルー城からグリル=ドルレアンまで)

○第58連隊・第2大隊の前哨線

 (グリル=ドルレアンからポルト・ヴェルトまで)

+以上の即応予備

○第58連隊・F(フュージリア)大隊

 (エトワール・ドゥ・シャッス付近)

○野砲兵第5「ニーダーシュレジエン」連隊・重砲第1中隊

 (ポルト・ジァーニュ南方サン=クルー公園内の肩墻砲台)

*左翼・ボークレッソン前哨支隊(ゲオルグ・アイル大佐/第59連隊長)

○猟兵第5「シュレジエン第1」大隊*の前哨線

 (ギャルシュ高地からビュザンヴァル公園の外周壁に沿ってビュザンヴァル城館まで)

○第59「ポーゼン第4」連隊・第1大隊の前哨線

 (フォーラン・コッペルからギャルシュ高地までの野戦築造堡群)

○第59連隊・第2大隊の前哨線

 (ヴィルヌーブからホスピス・ブレザンまで)

+以上の即応予備

○第59連隊・F大隊

 (ホスピス・ブレザン在)

○擲弾兵第7「ヴェストプロイセン第2/国王」連隊・第1大隊

 (クロ・トゥタン城館/ル・ビュタールの東500m付近で工事中の防御陣地帯)

○野砲兵第5連隊・軽砲第2中隊

 (ホスピス・ブレザンの肩墻砲台)

◇師団総予備

 指揮官/カール・フェルディナンド・ヴィリアム・フォン・フォークツ=レッツ少将(独第18旅団長)

○擲弾兵第7連隊・F大隊

○第47「ニーダーシュレジエン第2」連隊・第1、F大隊

○野砲兵第5連隊・軽砲第1中隊、重砲第2中隊

○野砲兵第5連隊・第2大隊

 ・重砲第3,4中隊、軽砲第3,4中隊


挿絵(By みてみん)

戦場で鉄十字章を授与される下士官


◎独第10師団

 師団長/フリードリヒ・ヨハン・フォン・シュミット中将

◇前哨支隊と即応予備

 指揮官/フーゴー・ヘルマン・オットマール・ルドルフ・ヴァルター・フォン・モンバリー少将(独第20旅団長)

*右翼・『猟師小屋』(ポルト・ドゥ・ロンボオー横にあった猟師小屋のことです)前哨支隊(ルイス・フェルディナント・フォン・ミッヘルマン大佐/第50連隊長)

○第50「ニーダーシュレジエン第3」連隊・第2大隊

○同連隊・第9,10,12中隊

 (ビュザンヴァル城館からラ・ジョンシェールまで)

*左翼・ビュザンヴァル前哨支隊(ゲオルグ・フリードリヒ・アレクサンダー・カール・フォン・ハイネマン大佐/フュージリア第37連隊長)

○フュージリア第37「ヴェストプロイン」連隊・第2大隊

○同連隊・第2中隊

 (ラ・ジョンシェールからラ・マルメゾンを経てセーヌ河畔まで)

+両翼の即応予備

○フュージリア第37連隊・第1,4,9,11,12中隊

○第50連隊・第1大隊と第11中隊

(以上ラ・セル=サン=クルー付近在)

○野砲兵第5連隊・軽砲第5中隊、重砲第5中隊

(以上サン=ミシェル/ブージヴァル南西郊外の衛星部落付近在)

◇師団総予備

 指揮官/グスタフ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヘンニング・アウフ・シェーンホッフ少将(独第19旅団長)

◇第19旅団

○擲弾兵第6「ヴェストプロイセン第1」連隊

○第46連隊「ニーダーシュレジエン第1」連隊 

○竜騎兵第14「クールマルク」連隊

○野砲兵第5連隊・軽砲第6中隊、重砲第6中隊

○野砲兵第5連隊・騎砲兵大隊

 ・騎砲兵第2,3中隊

◆第5軍団麾下で他の任務に派遣されていた諸隊

*パリ南部攻城砲兵第1大隊の護衛隊

○歩兵第47「ニーダーシュレジエン第2」連隊・第6,8中隊

*セーヴル在の第21師団へ派遣

○歩兵第47連隊・第5,7中隊

*ベルサイユ宮殿の独大本営衛兵

○擲弾兵第7連隊・第2大隊

*ベルサイユ大本営に従属

○竜騎兵第4「シュレジエン第1」連隊の2個中隊半

*ヴィル=ダヴレー、ボークレッソン、マルヌ=ラ=コケットの騎兵哨所

○竜騎兵第4連隊の1個中隊半

*サン=シル在輜重護衛

○フュージリア第37連隊・第3中隊

*サン=キュキュファ(マルメゾンの森中央にある池。現存します)付近の防御工事に従事

○フュージリア第37連隊・第10中隊

*レ=タヌリ(サン=ジェルマン=アン=レーの南南東1.1キロ)付近のセーヌ河橋梁補修と守備

○第5軍団野戦工兵第1中隊


挿絵(By みてみん)

ビュザンヴァルの戦い 反撃に出る独猟兵第5大隊


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