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ギッチン(イチン)の戦い(後)

 

 ギッチンの西に展開するオーストリア軍にもプロシア軍が迫ります。


 午後5時、早朝にポドコストで戦ったスタール大佐の支隊が帰還したプロシア第3師団(ヴェルダー中将指揮)がギッチン西方に現れました。その前衛はウンター・ロンコー(ドルニー・ロホフ)で再び早朝の敵、リンゲルスハイム少将旅団と激突します。


 オーストリア砲兵の砲撃から始まったこの戦闘では、最初砲兵同士の砲撃戦となります。これに勝ち、一旦敵を退散させたオーストリア軍でしたが、プロシア第3師団長のヴェルデル将軍は配下の第5旅団(ヤッショウスキー少将指揮)主力をして南からウンター・ロンコーを攻めさせ、これを一旦占領させました。


 しかしリンゲルスハイム旅団の反撃も激しく、白兵戦の後、プロシア軍は部落を追い出されてしまいます。数では劣勢のオーストリア軍でしたが、このリンゲルスハイム旅団の闘志は強く、プロシア軍はどうしてもこの部落を取ることが出来ません。

 

 また、戦いはその北東800mのオーベル・ロンコー(ホルニー・ロホフ)でも行われ、こちらも一進一退、なかなか決着が付きません。プロシア軍は遅れて到着した第6旅団(ヴィンターフェルド少将指揮)を投入、更に攻撃を強めますがオーストリア軍は頑強に二つのロンコー部落を護ります。

 しかもリンゲルスハイム将軍は午後7時30分に逆襲まで演じ、迂回して背後からオーベル・ロンコーを攻撃しようとしたプロシア軍を撃退しました。

 

 この激しい二時間以上の戦いでは双方共に損害が多く、負傷兵たちのうめき声が夕暮れに染まる街道や山林に溢れました。

 結局午後8時、オーストリア側に停戦命令が届き、リンゲルスハイム旅団は負傷兵を引き連れて退却戦に入り、午後9時、お互いが離れたことでようやくロンコーでの戦いが終わりました。

 

 目を東に転じます。


 午後6時に至るまで、ザクセン軍は本格的に参戦していません。

 例外的にザクセン軍の砲兵部隊と一部騎兵部隊は、オーストリア砲兵と騎兵部隊の指揮下に編入され、一足先にプロシア第9旅団と戦っています。


 ザクセン二個師団のうち、第2師団がクラム=グラース将軍の要請でギッチン西郊に達したのは午後5時頃。アルベルト王子は師団にそのまま北上し、デレク周辺でオーストリア騎兵と戦う敵を討つよう命令しました。

 6時30分ごろ、第2師団所属のザクセン第1旅団は、部隊を二つに分け二列縦隊となって北上開始します。


 一方、プロシア第5師団はその頃、その力点を西のブラダ山に向けていたため、このデレクの平原には小規模な部隊しか残っていませんでした。このためザクセン軍は数分の戦いでプロシア軍を蹴散らし敗退させ、このデレク部落を占領、部隊をデレクからクベルニック(クベルニツェ)にかけて展開しました。


 最も東にいたオーストリア・ピレー少将旅団も同じ頃に動き出し、アイゼンスタブルの町に一個大隊と砲兵部隊を残すと、旅団のほとんど全力を北のザメス部落へ向け、居座るプロシア軍を追い出そうとしました。

挿絵(By みてみん)

ピレー

 しかし、ザメスのプロシア軍はデレクの部隊とは違います。こちらは砲兵等の増強を受け、6時頃には、ほぼ5,000人規模になっていました。この第9旅団主力はデレクが敵に奪い返されたと知るや直ちに進撃し、北上するピレー旅団と正面から衝突することになりました。

 この激しい銃撃戦はプロシアが勝り、ピレー旅団は多数の負傷者を抱え、ザメスの南で釘付けにされてしまいます。


 7時30分にはプロシア第4師団(F・ビッテンフェルト中将指揮)がリブンに入ります。これでプロシア軍有利は揺るぎなくなりました。


 その頃、クラム=グラース将軍の下にようやく北軍本営の使者が訪れます。電信ではラチがあかないと本営が発した伝令がようやくたどり着いたのです。


 伝令の少佐はベネデック元帥の命令を伝えます。

「強敵との激戦を避け、ボヘミア軍(第1軍団とザクセン軍)は本軍の方向(南)へ退き合流すること」


 クラム=グラースは怒りを抑え命令を受領します。そして配下の部隊へ命令を発しました。

「停戦し、直ちにギッチンへの退却戦に入れ」と。


 混乱はこの29日深夜まで続きました。各旅団とザクセン軍は敵の前衛と味方の後衛が戦う中、一斉にギッチンへ退却しました。


 中にはピレー旅団のように敵に押されている最中に退却命令を受けた部隊もあり、このピレー旅団は退却戦で更に多くの落伍者を出すことになりました。

 デレクの平原で旅団長が戦死したザクセン第1旅団は整然と退却し、ギッチンを抜けると直ちに南下して行きました。

 オーストリアの各部隊はそうはいかず、ピレー旅団と同じく、プロシア軍の騎兵に追われ落伍者を増やした部隊も多くありました。

 

 ギッチンの街はオーストリア兵で溢れ、また退却命令により軍団が一斉に南下の仕度に入ったため、その混乱は想像を絶するものとなりました。


 結局、オーストリア軍は整然と退却して行ったザクセン軍を追い掛けるようにしてギッチンを後にします。

 後衛はなんとザクセン軍の親衛旅団(ザクセン王の近衛部隊。第2師団所属)。彼らはザクセン第1旅団の後方にいましたが、後退命令後は先に第1旅団を引かせ、自分たちは後衛としてギッチン北方に留まっていたのです。そしてボヘミア軍として一番最後、夜11時30分頃にギッチンに入り、未だ退却が続く街を護ります。


 程なくして、プロシア第5師団が入城して来ました。あの尖塔を目指せ、と自軍を鼓舞した師団長のテューンプリング将軍の姿はありません。将軍は激しい戦いの最中に銃弾を受けて倒れ、後送されていました。代理師団長のカミンスキー少将が指揮を執り、ザクセンの後衛と戦います。続いて西から第3師団も入城し、これを見たザクセン親衛旅団も潮時と退却に移りました。


 プロシア軍も深夜を迎え、これ以上の追撃は出来ませんでした。彼らはギッチンを占領するだけで、この日は矛を収めたのでした。


 この戦いは激しいものでしたので、人的被害もまた大きなものでした。

 オーストリア軍は士官184名、兵士4,714名を失い、

 ザクセン軍は士官26名、兵士566名を失いました。

 対するプロシア軍は、士官71名、兵士1,185名を失います。


 この戦いは、北方でもオーストリアが完敗してしまったことを示します。リングスハイム旅団のように勇猛果敢に戦った部隊もありましたが、結局、退却命令によりその士気はガタ落ちとなってしまいました。


 もう、オーストリア軍には起死回生の一戦しか残されていなかったのです。



ギッチンの戦いに参加した主な部隊


☆オーストリア・ボヘミア軍  

○第一軍団 30,000 

 司令官 クラム=グラース騎兵将軍

 参謀長 リッツェルホーフェン大佐

 

 ピレー少将旅団6,400

 ポシャッハー少将旅団6,500

 リンゲルスハイム少将旅団6,500

 ライニンゲン少将旅団6,000

 アベル少将旅団6,400

 槍騎兵4個中隊700騎


第1軽騎兵師団 6,500騎 エデルスハイム少将


○ザクセン軍 アルベルト・フォン・ザクセン王太子大将 

参謀長 ファブリース少将


○歩兵第1師団 9,200 シンプ中将

歩兵第2旅団ハーケー大佐 4,600

歩兵第3旅団カルロヴィッツ少将 4,600

師団騎兵隊300騎

師団砲兵隊300 

○歩兵第2師団 9,300 スチグリッツ中将

親衛歩兵旅団ハウゼン大佐 4,600

歩兵第1旅団ボックスベルヒ大佐 4,600

師団騎兵隊300騎

師団砲兵隊300


○騎兵師団 2,400騎 フリッチェ中将

騎兵第一旅団ゲオルク親王少将1,000騎

騎兵第二旅団ビーデルマン少将1,000騎

師団砲兵隊300 


○砲兵第一旅団

○砲兵第二旅団



☆プロシア第一軍 95,000

司令官 フリードリヒ・カール・ニコラウス親王

参謀長 レーツ中将


○第二軍団  司令官;シュミット中将


第3師団 15,100 ヴェルダー中将

 第5旅団 ヤッショウスキー少将 6,100

 第6旅団 ヴィンターフェルド少将 6,100

 猟兵第2大隊1,000

 騎兵600

 砲兵580 砲24

 他


第4師団 13,500 F・ビッテンフェルト中将

 第7旅団 シュラブレンドルフ少将 6,100

 第8旅団 ハンネケン少将 6,100

 騎兵600

 砲兵580 砲24

 他


○第三軍団(司令部なし名称のみ)


第5師団 14,100 テューンプリング中将

 第9旅団 シンメルマン少将 6,100

 第10旅団 カミンスキー少将 6,100

 騎兵600

 砲兵580 砲24

 他


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