ドイツ帝国の誕生
1871年1月18日。仏首都パリは「北ドイツ連邦」と南部ドイツ諸侯四ヶ国による攻囲を受け、市街「無差別」砲撃も始まっていました。間もなくパリ最後の抵抗となる歩兵戦闘も始まろうかというこの日、ドイツ史に残る一大セレモニーがパリ西郊、壮麗なベルサイユ宮殿「鏡の間」で執り行われます。
ナポレオン3世が捕虜となった1870年9月2日のセダン(スダン)の戦いの結果、北ドイツ連邦首相ビスマルク積年の夢・オーストリアを除くドイツ統一・「小ドイツ」成立のまたとない機会が訪れました。史上希に見る大勝利の結果、長年ライバル関係にあり四年前には干戈を交えた南部ドイツ諸邦も同じドイツの民として北部との統一に(たとえそれが北部=プロシア主導によるものであっても)抵抗が少なくなっていたのです。
戦争自体は政変によるパリ国防政府の成立で終戦とはなりませんでしたが、大勝利に浮かれるドイツ各邦の民衆を見て、ある意味「機会主義者」であるビスマルクは精力的に動き出しました。しかし、ドイツの命運を左右するだけの広範な権力を持っていたビスマルクといえどもいきなりドイツ統一国家を出現させるわけには行きません。統一はそれなりの段階を経て行われなくてはなりませんでした。
当然のことながらビスマルクは最初に南部諸侯と密かな交渉を開始します。
この過程は現在では「11月の契約」として知られており、バイエルン王国、ヴュルテンベルク王国、バーデン大公国、ヘッセン大公国と「北ドイツ連邦」との「合意」として結実しました。以下多少詳しく見てみます。
「11月の契約」とは簡単に言えば南ドイツの四諸侯国が北ドイツ連邦への参加を決めた合意ですが、これは必然的に南部ドイツ諸侯の自主性維持を北ドイツ(実質プロシア)がどこまで認めるのかという条件闘争の様相を呈します。
ビスマルクはこれら四諸侯国に対し、新たな「ドイツ国」はプロシア国王を宗主とする帝国ではない、つまり神聖ローマ帝国を再興するのではなく全く別種の国家連邦を成立させるという主旨を示して交渉を始めました*。
11月の契約(筆者としては「11月の合意」と呼びたいところですが)は次の四段階を経て完成します。
(1)1870年11月15日の「ドイツ連邦の成立条件に対する北ドイツ連邦とバーデン大公国並びにヘッセン大公国との合意」
(2)同11月23日の「ドイツ連邦の成立条件に対する北ドイツ連邦とバイエルン王国との合意」
(3)同11月25日の「ドイツ連邦の成立条件に対する北ドイツ連邦とヴュルテンベルク王国との合意」
(4)これら三つの合意を受けての「北ドイツ連邦憲法の修正・発効」とこれを受けた各国の批准(連邦成立は1871年1月1日。南部四邦の批准は追って行われ、バイエルン王国議会のみ1月末までこれを批准しませんでしたが戦争休戦を待って批准したため1月1日に遡及し発効しています)
法的にはこのバイエルン王国の批准を待ち、最終的に様々な再修正を盛り込んだ新「ドイツ帝国憲法」が発表される4月16日が法律上のドイツ「国」成立ですが、1月18日の「戦争中にも係わらず占領された敵国首都近郊の宮殿で強行されたセンセーショナルな式典」の印象が大きく且つ象徴的(最近良く聞く言葉で言えば非可逆的とも)なため、どの歴史書も1月18日にドイツ「帝国」が「誕生」したと告げているのでしょう。
※この新「ドイツ連邦」、正式な国名は当時から「ドイツ人の国(Deutsches Reich)」で帝国を意味するカイザーライヒは後にワイマル共和国と区別するため使われ出しました。この項では一般的にホーエンツォレルン家の皇帝時代を示す「ドイツ帝国」を使用します。
先走りましたので次に南部四諸侯がどのような状態でドイツに「吸収」されたのか見てみます。
大公の后が普国王の長女という閨閥にあったバーデン大公国は、近隣諸国の動向から渋々(?)普墺戦争で敵方となりますが、戦後は一貫「北ドイツ(プロシア)」と仲良く付き合い、軍隊も完全に北ドイツ=プロシア軍と同一の制服・武器・組織で運営されていました。そのため全く無条件で「ドイツ連邦」加入に賛成します。フリードリヒ1世大公とユリウス・ジョリー首相は早くも70年9月3日、連邦(この時点では既存の北ドイツ連邦)への参加を希望しました。実は67年の連邦成立時にも大公は参加を希望しますがこの時はオーストリアやバイエルンの手前(南北ドイツの範囲を定めたプラハ条約もあります)諦めています。戦争前の70年春にも加入を求めますが北ドイツ議会は外交関係の複雑化(特に対仏)を懸念し「時期が早い」と拒否していました。
こういう事情ですからバーデン大公国はビスマルクが持ちかけなくとも「ひとつのドイツ」に諸手を挙げて賛成するのは明らかでした。
ヘッセン大公国の大公ルートヴィヒ3世はオーストリア帝国に同調し「大ドイツ」を希求し続けていました。普墺戦争では当然「(旧)ドイツ連邦」=オーストリア側で参戦しますが、マントイフェル、ゲーベン、バイヤーと普仏戦争でも大活躍の将軍たちにより瞬く間に敗れ去り、戦後は一つの「領域」としては認められるものの南北に分断され、北側(オーバーヘッセン)を普王国支配下に置かれ軍隊も分割されてしまいました。正に国論も二分されますが、公太子・後の大公ルートヴィヒ4世は公国を滅亡させないためにも現実的な「小ドイツ」を支持し、普仏戦争参戦時に国が一つとなった(軍隊も一つの師団として戦うことに)ため政府としても大ドイツ主義を放棄しており、9月以降ビスマルクとの交渉にも抵抗なく臨むこととなりました。
ヴュルテンベルク王国は普墺戦争後も「大ドイツ」とオーストリア帝国支持が見え隠れするビスマルクにとっては厄介な存在で、国内は保守強硬派の「ヴュルテンベルク・ドイツ党」の影響下にあって一筋縄には妥協に応じない態度を崩していませんでした。しかし普仏戦争は諸戦から「独連合軍」の勝利に次ぐ勝利で、国内世論も次第に「鼻持ちならないプロシア」への好感度・支持が増して行きました。
こうした状況下セダンの大勝利が訪れ、直後に「統一を前提とした交渉を行いたい」とするビスマルクの呼び掛けに国王カール1世と内閣は警戒しつつも応じることとなり、9月12日、代表団は普大本営に向かうのです。
バイエルン王国は南部四ヶ国中最も強力で、最もプロシア王国にライバル心を燃やしていた国ですが、時の国王、後には「狂王」との有り難くない呼び名を賜るルートヴィヒ2世は国情以上に「孤独」を好み戦争を嫌悪し自らの審美眼を信じ、専ら城や劇場造りに関心を向ける王様で、政治に無関心なのをいいことに叔父やその取り巻きは王を「操縦」し国の行く末を自分たちに都合のよい方向へ進めていました。
主権国家としての体面と独立を譲るつもりがない彼らは、それでもバイエルンだけが孤立しないよう「新たな憲法下での対等な同盟・独立国家の体面を保持した緒邦連合」としての統一ドイツを目標に交渉へ入ったのです。
バイエルンと北ドイツ(実質プロシア)との「予備交渉」は70年9月22日から26日までミュンヘンで行われ、お互いの腹の探り合いが続いて最終的にビスマルクとルートヴィヒ2世との1対1の密談へ持ち越されました。元よりルートヴィヒ2世の「美」を認めていた(執務室に王の肖像画が飾られていたほどです)ビスマルクは言葉巧みに王を「誘惑」し、様々な「妥協と条件許諾」を示すと、後に歴史の暗部と言われる「裏金」をちらつかせて王から連邦合流の「言質」を得るのでした。
その他三ヶ国との交渉は表裏合わせて70年10月末までに実務者同士の交渉として断続的に行われ、最終的に首脳陣が対等の立場で「合意」を目指す段階に至ります。
この間、「連邦内」でも大幅な自治権限を要求するバイエルン代表にはルートヴィヒ2世に宛てたヴィルヘルム1世普国王からの「貴国の完全な独立と国体護持を保証する」との書簡が渡され、交渉は最終段階に至ります。
70年10月末。ベルサイユにて南部ドイツ四諸侯の特使や所管大臣とビスマルク率いる北ドイツ外交団との交渉が開始されました。この交渉には北ドイツ連邦内で独立を認められていたザクセン王国の代表団も加わります。
交渉の結果、先述通り11月中に北ドイツ連邦とドイツ南部四諸侯との合同が約され、新たな連邦憲法の制定による「ひとつのドイツ」の成立が決定的となります。最後にヴュルテンベルクが連邦加入を承諾すると、ビスマルクの指示で法務・外交・内務担当閣僚により直ちに北ドイツ連邦憲法及び新たな連邦成立に必要な法律が検討され改正案が提出されました。憲法は四諸侯の参加により大きく改訂されなければならず、新たな「ドイツ連邦」では南北ドイツの境界が消えるため今までの「州」を定め直す必要も生じたため、その作業は困難且つ時間もありませんでした。
この「11月の契約」は北ドイツ連邦に参加する諸邦全ての承認を必要とします。
北ドイツ連邦では70年12月9日に「新連邦」関連三法案の投票が行われ、これにはポーランド系・デンマーク系等マイノリティの議員が反対票を投じ、少なくない議員が棄権したものの賛成多数で批准されます。
結果この日北ドイツ連邦議会は、「新連邦」の正式名を「ドイツ人の国」とし、国主は「ドイツ皇帝」を名乗ることに決定するのです。こうして新たな国家「ドイツ帝国」成立関連法案は70年12月10日、連邦議院を通過しました。
紆余曲折はあったものの南部四諸侯はヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセン各国の議会がほぼ満場一致で71年1月21日に批准、バイエルン王国議会は71年1月末に賛成多数で「契約」を批准しました。
この法案では新たに加盟する四諸侯は郵便制度や鉄道、電信網の独立保持、酒税に関して留保権(現状のまま維持していても構わない、と言う権利)を得ましたが、特にバイエルン王国の扱いは格別で、同国は「帝国」内でも大幅な主権を維持し続けることが許され、独自の外国公館の維持や税の徴収も独自、軍隊も独自(注目すべきは他国では認められなかった参謀本部の独立です)となりました。それでもプロシア主導による「ひとつのドイツ」が気に入らないバイエルンの保守派は同国議会で反対し続けましたが結局仏との休戦が始まった1月末になって先述通りこの契約を受け入るのです。
しかし、バイエルンやヴュルテンベルクの超保守派以上に「ドイツ帝国」に難色を示し「ドイツ皇帝」の名に拒絶反応を示したのは、その「皇帝」に推戴される他ならぬプロシア国王ヴィルヘルム1世だったのです。
この「ドイツ皇帝」との名称はナポレオン1世によって滅亡された神聖ローマ帝国国主の称号となる「ローマの王」又は「神聖なるローマ皇帝」を意識しているのは確かですが、反面ビスマルクら北ドイツ首脳部は「新」ドイツ帝国が神聖ローマ帝国の再興と思われてしまうのを避けようと努めていました。
これは神聖ローマの「後継」を自認するオーストリア帝国を刺激しないためであり、また中欧に登場する強大な統一国家が諸外国から侵略的な「世界帝国」の先駆けとなったローマ帝国と連想されるのを避けるためでもありました。
また「ドイツ皇帝」の名称もこの時初めて登場したものではなく、1848年の革命時、ひとつのドイツ」を模索するフランクフルト国民議会が時のプロシア国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を連邦主席に推戴するべく動いた時に誕生しています。この時フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は民主国家の色濃い新連邦を嫌い「全ての国王、君主、自由都市の強制されない同意」が無いことには帝冠を受け入れることは出来ないとして拒絶しています。
ヴィルヘルム1世は「ひとつのドイツ」誕生については逆らえぬ動きとして渋々従おうとしますが、王権神授を尊重する自らとしては先ず「プロシアの王」としての立場に固執し、神ならぬビスマルクらの政略によって誕生する「全ドイツの王」なる地位に嫌悪を感じていたからでした。
ヴィルヘルム1世は「全ドイツの帝冠など汚冠だ」と貶し、「私は光輝あるプロシアの王冠をそのような物に交換する気などない」と吐き捨てていたのです。
また、「誕生する新ドイツ連邦の全ての国主が自分を推戴することに同意しない限り」皇帝にはなれないと駄々をコネますが、国王の操縦法を知るビスマルクは先手を取って再び「汚い手」を使ってヴィルヘルム1世を納得させようとするのです。
これは後に「皇帝書簡」(カイザーブリーフ)と呼ばれるもので、南部四諸侯全てが新連邦に加盟することを承知した2日後の70年11月27日、ビスマルク自身が草案を作成、これを示されたバイエルン国王ルートヴィヒ2世が同月30日にこれに署名を付けた書簡のことで、ルートヴィヒ2世の叔父で王国の実権を握っていたルイトポルド親王によって12月3日にヴィルヘルム1世に手交されました。
「皇帝書簡」抜粋
「親愛なる陛下。南部ドイツが新たなドイツ憲法による連邦へ加盟することを決定したことによって、全ドイツ諸侯は陛下に全ドイツの主席となって戴くことを願っております。私はこのことで連邦加盟諸侯全てが満足しドイツの名の下で団結することに満足しましたが、同時に願うのは陛下が連邦主席として全ドイツの尊厳を守り憲法上の権利を行使し威厳を持ってドイツを代表することです。このため私は陛下がドイツ皇帝と名乗ることをご提案申し上げる次第です」(筆者意訳)
ルートヴィヒ2世(1870年の肖像)
ルートヴィヒ2世がこの書簡に署名したのは、勿論ルイトポルト親王たちからの圧力もありますが、実際は多額の賄賂と引き替えにしたものでした。
多くの歴史書でも明らかなようにルートヴィヒ2世は芸術と建築に興味を持ち続け政治には興味を持ちませんでしたが、結果大変な借金を国に背負わせることとなります。それでも足りないとばかりにルートヴィヒ2世は臆面もなく各国、例えばオーストリア皇帝、ベルギー国王、スウェーデン国王、果てはトルコのスルタンやペルシャのシャーにさえ借金を申し入れる始末でした。また散財は逆に賄賂を受け取り易い状況を生み、ルートヴィヒ王はお金で容易く動くと思われるようになっていました。
反面、ルートヴィヒ2世は未だにプロシア王国よりオーストリア=ハンガリー帝国に親しみを覚え、政治から遠ざかる王は他のドイツ諸侯が積極的にフランスへ行き「ヴィルヘルム1世詣で」をしている中、王国から出ることはありませんでした。
ビスマルクとしてもドイツ二番手の大きさと国力を持つバイエルン王国が参加しない「ドイツ帝国」はあり得ない話で、実際に政治を動かしているルイトポルド親王と密談を重ね、親王は母国に寛大な条件に納得すると王である甥に対し寛大な条件を得たので是非連邦へ参加を、と促しましたがルートヴィヒ2世は頑なに拒否し続けました。
このままではドイツ帝国の成立は危ういか、と思われた11月19日、プロシアのバイエルン駐在大使、フォン・ヴェルターン伯爵がビスマルクへ機密電報を送って来ます。
「ご存じの通りバイエルン王は城館や劇場といった建築に巨額な建造費を支払っているため困窮しております。大臣たちが手を拱けば借財は優に600万南独グルテン(後のドイツ帝国・1,026万金マルク)を超えてしまうはずです。王の側近フォン・ホルシュタイン伯爵は皇帝の宣言に付き話し合いを持つためベルサイユに向かうとのことです。伯爵の話を聞いて見てください」
翌20日、ビスマルクはベルリンで留守番する副首相に会談に応じる旨伝えると、意味深に付け加えます。「私は最後にはバイエルンが参加すると思うが、それに成功すれば『皇帝推戴』への道筋を手に入れることもまた可能となろう」
11月23日。ビスマルクは既述通りルイトポルト親王率いるバイエルン政府代表(ひとまずルートヴィヒ2世は無視されます)に対し大幅な譲歩を行い、バイエルンのドイツ新連邦参加を取り付けました。
2日後の25日、この日はバイエルンの出方を窺っていたヴュルテンベルク王国が新連邦参加を決めた日でしたが、ルートヴィヒ2世の「個人秘書」とも言うべきマクシミリアン・フォン・ホルンシュタイン伯爵がベルサイユに到着します。伯爵はバイエルンの交渉団と会う前に直接ビスマルクを訪問し、密談を行いました。その内容は全く歴史の闇に葬られていますが、その後の展開で察して知る、と言ったところでしょう。
ホルシュタイン伯爵は代表団と共にミュンヘンへ帰還し、11月30日にルートヴィヒ2世と会いビスマルクの「草案」を手渡し事情を説明します。王はここでもゴネますが大金が裏金として渡されることもあり、最後は「皇帝書簡」に署名しました。
多少の手直しを受けた書簡は12月1日に封印されてホルシュタイン伯爵によってベルサイユに戻り、伯爵は「国王からヴィルヘルム王への手紙です」とルイトポルド親王にこれを渡し、親王はヴィルヘルム1世に謁見して手交されたのです。
こうして何も知らないヴィルヘルム1世は「バイエルン国王からの推戴があれば伝統は守られ帝国の正統性が保証される」として大層喜んだと伝わります。
ビスマルクはダメ押しも用意し、北ドイツ連邦議院が「皇帝」を称号とすることに対する審議を行った時(12月9日)、議場で「皇帝書簡」を読み上げさせ、納得した議員たちは諸手を挙げて賛成するのです。連邦議院は議員30名を代表団としてベルサイユに送り込み、代表団はヴィルヘルム1世に対して「ドイツ皇帝の帝冠を是非にお受け下さい」と請願しました。
これを受け、ようやくヴィルヘルム1世も皇帝即位に対し前向きとなるのです。
ここまで漕ぎ着けたビスマルクですが、栄えある新帝国の誕生をどのような形で行うかも慎重に考えました。
先述通りビスマルクは王権神授を信奉するヴィルヘルム1世がここまで抵抗していたため「皇帝書簡」を創作し「皇帝が議会ではなくドイツの国主・ドイツでプロシアに次ぐ実力と伝統ある国王からの推戴で登場した」との「建前」を成立させます。元より名称を「ドイツ皇帝」(Deutscher Kaiser)としたのは先述通り神聖ローマ帝国(その皇帝は国王の上を行く世界統治者)との関連性を薄めて諸外国、特に同じドイツ人が支配層となるオーストリア=ハンガリー帝国を刺激しないようにする意味合いがありました。
同じく帝国の宣言が行われる場所についても慎重な考察があり、候補として上がった「ベルリン」「フランクフルト(=アム=マイン)」について、ベルリンは仏との戦争中に式を挙げるには遠く、しかも南部諸侯はベルリンがドイツ帝国の首都となることについて諦めの気分で認めたものの、式典挙行となれば素直に喜べない空気が漂うのは避けて通れず、中には理由なく欠席する諸侯も現れる可能性があり、「フランクフルト」は常にドイツが「ひとつ」になろうとした時に選ばれた場所でしたが神聖ローマ帝国でもこの地で皇帝戴冠が行われた経緯もあって、ここで帝国の宣言を行うと、先の「ドイツ皇帝」名称と同じく諸外国を刺激するため見送られ、結果、古来ドイツ人が同盟して外国へ出征した折、敵国の主邑で同盟軍の統領を選定したとの故事から「ベルサイユ」が選ばれるのです。
これが仏を刺激しない訳はありませんでしたが、戦争中のこと故か仏に対する侮辱が後々の「憂い」を成す点については軽く見られてしまい、これが「アルザス=ロレーヌ問題」と共にフランス人の「復讐心」を燃え立たすことになり、48年後、同じベルサイユ宮殿・鏡の間で独への意趣返しとしてベルサイユ条約が調印されることとなるのでした。
また式典が行われる1月18日という日は1871年当時の170年前、プロシア王国が成立した日だったのです。
しかし、いよいよ式典という段になって、ヴィルヘルム1世は再びダダを捏ね、「大統領」(Prasident)か「ドイツェラントの皇帝」(Kaiser von Deutschland)と呼ばれたいと名称問題を蒸し返します。
既にこの問題は諸侯、特に南部の四諸侯に示されており、「大統領」についてバイエルンとヴュルテンベルクが「国王」より低位の称号を使用する者には従いたくない、と拒否しており、「ドイツェラントの皇帝」はその支配範囲にオーストリア=ハンガリー帝国領を含む神聖ローマ皇帝を連想させることから使用するには無理がありました。しかしヴィルヘルム1世としては「ドイツ皇帝」という称号を受けるのがどうしても気に食わず、これはニュアンスから「ドイツの中に取り込まれるプロシア」との印象が消えないからでした。
ビスマルクは「またも我がままを」と溜息モノでしたが「既にドイツ皇帝を名乗ることは決定しておりますので」、と取り上げず、明日は必ずご出席を、と念を押したのです。しかしヴィルヘルム1世は癇癪を爆発させ喚き散らしました。ビスマルクは義理の息子であり親友でもあったバーデン大公フリードリヒ1世を呼び出し、ヴィルヘルム1世の説得を始めますが、ヴィルヘルム1世は「明日は生涯最悪の日となるに違いない。プロシア王国が葬り去られてしまう」と涙を浮かべ、遂には「皇太子に譲位して自分はプロシアに帰る」とまで言い出す始末でした。
こうなるともう何を告げてもダメと知るビスマルクは、既に決まった一大セレモニーがどれだけ重大なものかを知っているヴィルヘルム1世がよもや式典を拒否しないだろう、と考え「お心が鎮まるまでそっとして置きましょう」とバーデン大公を誘ってさっさと王の居室から退室してしまいます。ビスマルクはバーデン大公に明日諸侯を代表して祝辞を述べる際「あること」を依頼してこの日は就寝してしまうのでした。
式典前、ベルサイユ宮殿内で整列する諸隊から選ばれた参列将兵
明けて1871年1月18日。ドイツ帝国の皇帝戴冠式典は仏国王が長年居住したベルサイユ宮殿の中でも特に重要な祝典などに使用される鏡の間で厳かに挙行されます。諸侯や大本営付き武官や文官ばかりでなく攻囲網を抜けて来た軍人たちが集まる中、ヴィルヘルム1世が登場しビスマルクもほっと胸を撫で下ろします。
式典前後にはパレード用の制服を着た独兵がベルサイユ宮殿周辺で音楽隊を先頭に行進し、これは占領下のベルサイユ市民も見物することが出来ました。攻囲網の各連隊から選抜された将兵はこの大きな鏡の間に溢れ返ります。彼らは戦闘で引き裂かれた軍旗を掲げ持ちました。
鏡の間中央には祭壇が設けられ、そこでは大本営の従軍牧師が礼拝を行い、その最後に出席者全員が讃美歌を合唱しました。
牧師より祝福を受けるヴィルヘルム1世
しかし直前までヴィルヘルム1世は様々なことに異議を唱えており、壇上に据えられようとしていた玉座を「集まった諸侯を見下すのは無礼だ」として排除させ、式典の即位宣言では全ての諸侯に壇上へ上がるよう促し「全てドイツの君主は平等」であると示すのでした。
最後まで抵抗するヴィルヘルム1世でしたが、ビスマルクが臣下を代表してドイツ帝国成立の宣言を読み上げた時には諸侯(右隣は皇太子、左隣はバーデン大公)に囲まれ威儀を正し直立不動となります。
宣言直後歓声を上げる諸官
直後にバーデン大公フリードリヒ1世が「ヴィルヘルム皇帝陛下万歳!」と声を張り上げるや集まった軍人諸官はピッケルハウベや剣を掲げて3回万歳と叫びました。義理の息子であるバーデン大公が「ドイツ皇帝」と呼ばず「カイザー・ヴィルヘルム」と「何処の皇帝か分らぬよう」に呼んだため、ヴィルヘルム1世(今や皇帝)も文句を言うことが出来ず、この称号問題は式典が終了してもなお宮殿の外から聞こえる万歳の声と共に霧散してしまったのでした。
とは言え皇帝になることを望まなかった「皇帝」は降壇する際、直ぐ壇下にいたビスマルクを無視して通り過ぎ、後ろに並んでいたモルトケや各軍団長などに握手を求めるという、最後まで子供じみた態度を取ったのでした。
この式典には全ドイツの諸侯君主が代理を含めて多く出席しましたが、ヘッセン大公国、ブラウンシュヴァイク公国、両ロイス侯国、シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国、ヴァルデック侯国、リッペ侯国の各君主は欠席し、それは大本営やパリを攻囲する第三、第四両軍以外に従軍していた諸侯や病気・老齢が理由と言われています。
帝国成立宣言を終え段上を降りるヴィルヘルム1世
「ドイツ帝国の宣言」(アントン・フォン・ヴェルナー)3つのヴァージョンについて
アントン・フォン・ヴェルナー「ドイツ帝国の宣言」第1バージョン
Die Proklamierung des deutschen Kaiserreiches(1877・Anton von Werner )
( Wikimedia Commons〝Die Kaiserproklamation 1871, Gemalde von 1877〟より引用 )
アントン・フォン・ヴェルナー「ドイツ帝国の宣言」第2バージョン
Die Proklamierung des deutschen Kaiserreiches(1882・Anton von Werner )
( Wikimedia Commons〝Anton_von_Werner-Kaiserproklamation,_zweite_Fassung_1882-1〟より引用 )
ドイツ帝国の宣言・第3バージョン(アントン・フォン・ヴェルナー画)
Die Proklamierung des deutschen Kaiserreiches(1883・Anton von Werner )
( Wikimedia Commons〝Wernerprokla〟より引用 )
「ドイツ帝国の宣言(Die Proklamierung des deutschen Kaiserreiches) 」
第3(フリードリヒスルー)ヴァージョンについて
左側、壇上中央の白い頬髭がプロイセン国王でドイツ皇帝ヴィルヘルム1世。その左で右手を挙げているのは皇帝の長女ルイーゼ妃の夫バーデン大公フリードリヒ1世(正に「ヴィルヘルム皇帝万歳!」の直後です)。
皇帝の右側で剣を床に突くのがドイツ帝国フリードリヒ皇太子。ほか壇上一番左端、顔だけ見える髭の男性がアドルフ・フリードリヒ (父の代わりに出席したメクレンブルク=シュトレーリッツ大公国皇太子)。その前、白い軍服姿がエルンスト2世 (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)。その右隣白い髭黒い軍服姿がエルンスト1世(ザクセン=アルテンブルク公)。続いて右に順番にゲオルク・ヴィクトル(ヴァルデック侯)、ハインリッヒ14世(弟系ロイス候)、フリードリヒ皇太子の右後ろがカール1世(ヴュルテンベルク国王)。その右がアドルフ1世ゲオルク (シャウムブルク=リッペ侯)。
壇の下、中央白い軍服が宰相ビスマルク。その向って右で横向き参謀を示す赤いライン入りズボンの人物が参謀総長モルトケ大将。ビスマルクの向って左が第三軍参謀長フォン・ブルーメンタール中将、その左で将軍を見ているのがバイエルン王国第2軍団司令・男爵ヤコブ・フォン・ハルトマン歩兵大将。そしてその左が「いるはずのない」プロシア陸軍大臣のローン。いるはずのない、といえば、先述の壇上諸侯の内、ヴァルデック侯、弟系ロイス候、シャウムブルク=リッペ侯は実際には出席していません。
この「ドイツ帝国の宣言(Die Proklamierung des deutschen Kaiserreiches) 」にはこのように3つのヴァージョンがあります。
最初は1877年に完成、3月22日、皇帝ヴィルヘルム1世の80歳の誕生日を記念してベルリン宮殿に飾られました。これは現存する第3ヴァージョンと大きく違い、皇帝の立つ壇上を斜め左からやや俯瞰する形に描かれています。皇帝が壇上に呼び上げた帝国の構成国主たちがはっきりと描かれており、壇の下の臣下、軍人たちを後ろから見る形となり、ビスマルクやモルトケも目立ちません。また、ビスマルクは史実通り青い軍服姿で描かれています。この絵は1945年の第2次大戦末期に爆撃により焼失してしまいました。
2番目のヴァージョンは1882年、下院の壁画として描かれました。このヴァージョンから視点が左真横から見る形となり、ビスマルクが史実と違う白い軍服となります。また、1884年に授与された(この時点であるわけがない)プール・ル・メリット大十字章を付けています。この絵も1944年、爆撃により失われています。
3番目、最後のヴァージョンは1885年3月1日、ビスマルク70歳の誕生日に贈られました。これは現在、ハンブルク東郊のフリードリヒスルーにあるビスマルク博物館に収められています。
この絵では、2番目のヴァージョンに比べ、壇上の諸候たちが更に少なく描かれ、壇の下、ビスマルクの向かって左側で握手していたブルーメンタール、ハルトマン両将軍も握手をしていません。そして一番違うのはこの式典時(1871年1月18日)にはベルリンにいた陸相のローンが描かれていることでした。
これらの絵は全てプロパガンダに絡んだ史実とは違う修正が施されており、また、贈られた人物や場所に相応しい配慮が加えられたと言えそうです。あのナポレオンの戴冠式を描いたダヴィッドも出席していない人物を描く(ナポレオンの母レティツィアなど)など、20世紀に入り写真が発達するまで、絵画は政治と切り離せないものがありました。
(筆者ブログより転載)




