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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリ砲撃
478/534

パリ市街砲撃


 天候に恵まれない中、仏軍のパリ南方防衛陣に対する砲撃を続ける独攻城砲撃統帥部は1月9日から11日までに第4号、10号、6号そして12号の四砲台を「目的を達した」として廃止し、代わって敵陣に接近して設営された第18号、19号、20号の三砲台が活動を開始、続いて砲撃準備に勤しんでいた第22号、21号の二砲台も砲撃参加を果たします。

 この新たな砲台は32門の重砲を備え、内訳は12センチカノン砲6門、15センチカノン砲26門でした。この内15センチカノン砲は廃止した砲台より調達します。

 また、イッシーとバンブ両分派堡に「止めを刺す」目的の巨大な28センチ滑腔臼砲を4門配する第23と24号砲台も築造が進みますが、臼砲は巨弾を打ち上げて直上から落とす性質上射程が短く従って敵陣近くに設けなくてはならず、作業も深夜に行われ(23号はイッシー堡南でシャスポー銃でも弾丸の届くノートルダム=ドゥ・クラマール付近、24号はバンブ堡至近のシャティヨン部落内にありました)、しかも設置に時間と手間が掛かるため、砲撃まではもうしばらく時間を要することとなります。

 この新設砲台中重要なのはバニュー西郊第15号砲台の西隣に設けられた第18号砲台で、「破壊・市街砲撃」砲台との位置付けをされたことでも分かる通り、大本営砲撃総監部と同工兵総監部が選り卓ったパリ市街砲撃に最適な場所に築造され、1月8日、その初弾を放ったのでした。


 第6軍団管区でも二つの砲台からそれぞれ2門間引いて砲台をもう一つライ=レ=ローズのバラ園近くに設け、モンルージュ分派堡を南方から狙いますが、この位置はビセートル分派堡から望見され、たちまち側面から重砲榴弾を浴びせられてしまいます。しかし要塞砲兵たちは犠牲をものとせず届かないビセートル堡を無視して只管モンルージュ堡の隔壁に向け砲撃を続けました。また、遠くイヴリとシャラントン分派堡も時折第6軍団の砲台と野砲肩墻に向けて重砲を放ちますが、第6軍団は「遠方過ぎる目標に無駄弾を出すよりは」とこれを無視して時折ビセートル堡に向けてだけ砲撃を行ったのでした。

 独軍要塞砲兵はパリ市街の本郭「ティエールの城壁」に対しては距離も遠く崩落させるほどの損害を与えることは出来なかったものの、有効射程内にあって優秀なクルップ製要塞砲の威力を十分に発揮出来るパリ南面分派堡や前哨線の肩墻砲台に対しては完全に圧倒するか注意を集中させ、1月11日以降B第2軍団や第11軍団(第21師団)の前哨や散兵壕には殆ど仏軍の砲弾が落下することが無くなったのでした。


挿絵(By みてみん)

流れ弾に驚く独前哨兵


 仏パリ軍は独軍が攻城砲台を更に前進させて構築していることを察知し、特に自軍前哨線に近く動きの見られるノートルダム=ドゥ・クラマールに対して強行偵察を行うことを決します。

 1月10日早朝。仏軍の有力な偵察隊が密かに前哨線を越え、未だ明けない闇を利してブドウ園内を進み独軍の前哨線に近付きました。このノートルダム=ドゥ・クラマールに包囲前からあった堡塁には当時B第6連隊第8中隊から1個小隊が当番として前哨勤務に就いていましたが、仏軍はこの不意を突いて急襲し、短時間の白兵でB将兵を駆逐してしまいました。この戦闘でB軍は戦死2名・負傷4名・捕虜18名を報告し負傷者の内1名は重傷となった小隊長のヴェストファル少尉で、格闘戦の際6ヶ所に銃創と刺傷を負ってしまうのでした。

 仏軍はここだけでなくB第2軍団の前哨線に向かって複数の強行偵察に及びますが、他の地点では全て撃退され、ノートルダム=ドゥ・クラマールの堡塁からも昼前までには撤退して行きます。これに懲りた独軍は以降3個大隊によってクラマールを守備し、2個中隊をノートルダム=ドゥ・クラマールの堡塁に常時張り付かせるのでした。


 その他、仏軍の前哨線突破に備え1月12日夜間には後備近衛歩兵約300名が警戒する中、B野戦工兵2個中隊・同要塞工兵半個中隊・第4と第5軍団の要塞工兵各1個中隊によりクラマール~シャティヨン間に延長約1,200mに及ぶ散兵壕兼交通連絡壕が掘削されますが、施工中仏軍からは一切妨害がありませんでした。

 ところが、翌13日夜間、仏軍は更に強力な攻撃を企て、国民衛兵1個大隊と海軍歩兵約500名の集団はクラマールに向けて前線を突破し、前夜作られたばかりの散兵壕を破壊しようとします。ところが国民衛兵たちは集合中静穏にしていることが出来ずB軍前哨から音だけで行動が読み取れるような騒音を立てて集まったため、クラマールで警戒待機中のB第15連隊第2大隊は余裕を持って部落外周の防衛拠点に入って仏軍を待ち受け、急を聞き付けて駆け付けた同連隊第1大隊にB第14連隊第8中隊も防衛戦闘に加わることが出来ました。猛烈な銃撃で迎えられた仏軍は、それでも1時間は激しい銃撃戦を行いますが部落内へ突入することが出来ず、この間B第15連隊長フォン・トロイベルク大佐は第9中隊に対し街道上を突進して敵に向かえと命じ、掘削中の対壕にも展開していた味方の側面援護射撃もあって同中隊は大胆にも前進出来ずに停留する敵中に突撃を敢行、驚き慌てた仏軍はほぼ無抵抗なまま四散して潰走するのでした。これを追った一部のB軍兵はイッシー分派堡下の仏軍対壕まで前進した後引き上げました。

 独大本営はB第2軍団の前哨線が攻城砲台の防衛も引き受けていたために手薄となることを考え、この日以降ノートルダム=ドゥ・クラマールの堡塁を普第21師団の任地に加え守備を交代させたのです。


挿絵(By みてみん)

仏軍の偵察隊


 一方、この日までに最も被害を受けた攻城砲台は、サン=クルー公園隅に孤立してあった第1号砲台で、パリの外郭「ティエールの城壁」第63と第67の稜堡やル・ポアン・デュ・ジュール付近のセーヌ河岸に設えた2個の砲台と直接砲撃で渡り合い、7キロの有効射程を持つ厄介なモン・ヴァレリアン分派堡の海軍重砲からも時折巨弾を撃ち込まれたのです。

 同砲台の周囲には岩が剥き出しとなった斜面があり、これはパリ側から見ると灰色に際立ち且つ試射の砲弾が破裂するのを観察し易かったため砲撃には便利であり、第1号砲台は複数の重砲弾着によって幾度も胸壁を崩落させ修繕が間に合わない場合もあり、独軍の要塞砲兵と工兵にとっては間近で重砲榴弾が破裂する「地獄の任地」と覚しき場所だったのです。

 フルーリーの第19号砲台も「ティエールの城壁」から見通すことが出来たため激しい砲撃を受けた砲台の一つで、損害もまた無視出来ないものがありました。またドゥ・ラ・トゥール高地前方の第21号砲台もバンブ分派堡から直射可能だったため時折集中砲火を浴びました。

 また、「ティエールの城壁」に属する稜堡から放たれる砲弾は射程ギリギリの場合が多く落下角度が大きいため、砲台を狙った榴弾は時折胸郭を越えて掩蔽を直撃し、17号砲台では地下掩蔽部で破裂した榴弾により死傷者多数を出し、それが2回発生するという不運がありました。同じく前線に近い第21と23号の両砲台でも後方の火薬庫を直撃され爆破されるという事態も生じます。

 この仏軍対抗砲撃で死傷したのは下士官兵や下級士官ばかりでなく、視察に訪れたB軍のフォン・ヴォルゲムート少佐や指揮中の普攻城砲兵第6大隊長フォン・エック少佐、そして攻城砲兵指揮官のフォン・リーフ大佐(1月15日)までもが負傷し、要塞砲兵第5「ニーダーシュレジェン」連隊第7中隊長のブラウンス大尉は戦死(1月23日)してしまいました。


挿絵(By みてみん)

ティエールの城壁稜角にある仏要塞砲と操作する海兵


※1月5日から18日まで・独第三軍の攻城砲兵の損害

○1月5日 戦死・10名、負傷・35名

○1月6日 戦死・5名、負傷・31名

○1月7日 戦死・5名、負傷・16名

○1月8日 戦死・6名、負傷・24名

○1月9日 負傷・9名

○1月10日 戦死・6名、負傷・14名

○1月11日 戦死・2名、負傷・11名

○1月12日 戦死・3名、負傷・10名

○1月13日 戦死・3名、負傷・6名

○1月14日 なし

○1月15日 戦死・2名、負傷・26名

○1月16日 戦死・3名、負傷・9名

○1月17日 戦死・2名、負傷・20名

○1月18日 戦死・10名、負傷・19名


 しかし、独軍以上に深刻な被害を受けたのは仏軍の方で、バンブ分派堡は砲戦序盤以降独軍砲台が沈黙している間に突然砲撃を仕掛けるのを常としますが、対する独軍砲台が応射を始めるや直ちに砲撃を中止し、以降応射はモンルージュ分派堡や「ティエールの城壁」に任せるのもまた常態となります。1月19日時点までのバンブ分派堡の戦死傷者は戦死12名・負傷58名に及ぶと伝えられています。

 更に悲惨だったのはイッシー分派堡で、こちらはムードンのパリ天文台やドゥ・ラ・トゥール高地の砲台群から堡塁内部が散々に撃ち崩されているのが望遠鏡を使わずとも観測され、砲弾を浴びた後度々火災も発生し要塞守備隊は1月16日に危険を冒して火薬庫の弾薬や貯蔵品を全て要塞外へ搬出するに及ぶのでした(即ち以降砲撃による反撃が不可能となります)。

 この二堡塁に比して被害が少なかったモンルージュ分派堡は、1月15日までに1日最大のべ18門の要塞重砲で500から600発を撃ち返す奮闘振りを見せますが、こちらも次第に胸郭を崩され掩蔽部分にも危険が及ぶようになり、18日までに第4稜堡が崩落し単なる土石の山と化す事態となるのでした。


挿絵(By みてみん)

破壊されたイッシー分派堡内部


 次第に砲戦が「ティエールの城壁」との戦いへと進む中、独攻城砲兵部は信頼するクルップ製15センチカノン砲を使用しパリ市街への騒擾砲撃、現代で言うところの「戦略」砲撃も始めていました。

 このため野砲や山砲に比して浅い仰角で射撃(直射)することを常とする攻城カノン砲を、射程延長させるため30度という急角度にし、このため上部砲架を傾け砲尾を下部砲架の直上に位置させるという無茶な操作を行って達成しますが、これでは砲架が直ぐに壊れるため、やがて運搬時の砲耳受に棍棒を挿入して引き上げ、自然砲尾が下がるように改良します。装薬量も通常よりほぼ倍増の3キログラムとしますが砲身と砲架に対する負荷が大きく短時間で損耗するため、最終的に2.25キログラムに落ち着きました。この結果、最大射程は通常の7,000mから8,000m以上に延び、パリ市街の中心、例えばサン=ミシェル橋、ノートルダム橋、シャン・ドゥ・マルス公園(1867年万国博の会場。現・エッフェル塔前の公園)、ジャルディン・デ・プラント(パリ植物園)そしてサン=ルイ島(シテ島上流の川中島)にまで達し被害を与えたのです。

 この市街砲撃は第18号砲台を中心に行われ、この砲台6門の15センチカノン砲は毎日300から400発の榴弾をパリ市街(16区のオートゥイユ~~カルチェ・ラタンまでのセーヌ左岸)へ落下させました。

 パリ軍指揮官の一人、ジョセフ・ヴィノワ将軍の著書によれば「パリ砲撃期間」(1月8日から28日まで)の兵役に就いていない純粋なパリ市民の損害は死者97名・負傷者278名とのことですが、もう少し大きな数を訴える記述も多数あります。また、トロシュ将軍とモルトケ参謀総長との間で「民間療養施設に対する砲撃」につき非難の応酬がありました。


※モルトケとトロシュのパリ砲撃に関する「書簡応酬」


 1月5日に外堡に対する砲撃が始まり、同8日には遂に市街地への「無差別」砲撃が始まると、既に権威が地に墜ち「死に体」に近い政権を維持する国防政府首班トロシュ将軍は、病院にも着弾があったとの市民からの訴えを取り上げ、独軍に対し警告文を送付しました。


「独軍砲台によるパリ南面への砲撃が始まって以来、多くの榴弾が公共の慈善療養諸施設に落下している。被害はラ・サルペリエール救護院、ラ・ヴァル・ドゥ・グラース陸軍病院、ラ・ピティエ慈恵病院、ビセートル養育院ほか小児が収容されている病院等多数に及ぶ。これら施設に落下する砲弾は常に一定の方向から飛来し、その違わぬ着弾は狙って砲撃をしている証左としか思えない。榴弾は可憐なる婦女子や幼児、不治の病に冒され苦しむ患者や傷病者を殺傷しており、つまり我らはこれが決して偶然によるものではないことと考えている。

本官・パリ総督は独軍参謀総長モルトケ伯爵に対し、これら療養院や病院等は決して従来の目的から逸脱することなく現在も運営されている施設であることを宣言する。

従って独軍においては国際法と人道上の義務を遵守し、その屋上に明白なる標旗を以て示される衛生施設であることを尊重し、これら慈善施設の安全を保障することを求むるものである。

1871年1月11日パリにおいて 将軍トロシュ」


これに対しモルトケは反論を認めトロシュに送付しました。


「本官・独軍参謀本部総長は貴殿による独軍砲台が病院等を目標に砲撃を繰り返しているとの抗議を断固として認めない。

貴軍は9月4日以来戦争の慣行上特異なる性質を帯びて我らに対抗している(義勇兵など非正規兵のことを指しているものと思われます)が、我が軍は可能な限り従来通り人道を遵守し交戦を行っているところである。故にこの如き謂われなき疑惑を公言される理由などなく、潔白であることを確約するものである。

もし霧や風雪による視界の妨害なく砲台が現在地より更に前進(照準が更に正確になります)すれば赤十字の旗を掲揚する高塔及び屋根を識別可能となり、再び偶然の損害を発生させることはないであろう。

1871年1月15日ベルサイユ大本営において

伯爵モルトケ」(筆者意訳・括弧内は筆者注釈)


 モルトケ語るところの最後の節は実際偶発的に病院などに榴弾が落下したことを暗に認めているもので、「偶然に不幸な着弾があったとしてもそれは故意に狙ったものではない」と主張したいのでしょう。

 対外的な同情を買い独軍を貶めたいトロシュと偶発的な「事故」を拡大解釈され名誉を汚されたくないモルトケそれぞれの心情がよく現れており、これは現代の紛争当事者同士の非難合戦にも見られる「人間の性」だと思います。


挿絵(By みてみん)

宿営地の教会尖塔から攻城砲撃を眺める独将兵


 さて、この間にもパリ東方・独第四軍管轄下の包囲網でも激しい砲撃戦が続きました。シュヌビエールからル・ランシーまでの独軍攻城砲台は仏軍の強力な砲台群*に対し怯まず砲戦を繰り広げ、20日前後にはこれを圧倒し沈黙させるに至っています。

 当初この独砲台群は12月末に攻城砲76門で砲戦を開始し、1月4日に58門、1月20日には44門と徐々に減少して行きましたが、これは損害のためではなく限りある要塞重砲が北方サン=ドニへの砲撃用に間引き転用されたためであり、要塞砲兵たちに多少の損害はあったものの独砲撃陣は常に優勢に戦っていました。サン=モール地区(拙作言うところの「マルヌ巾着部」)では一方的に独軍が榴弾を仏軍陣地に発射するばかりで仏軍の反撃はなく、この砲撃戦だけでなく歩兵戦闘も起きませんでしたが、一方的に重砲で叩かれ続けた仏軍(ほぼ全てがセーヌ沿岸出身の臨時護国軍部隊でした)は順次戦力をヴァンセンヌの森へ引き上げて行きました。また、ノジャンからロマンビルに至る東方分派堡群も時折独砲陣に向け激しい砲撃を行いましたが、これも殆どが対抗射撃ではなく偵察や騒擾目的の出撃前準備砲撃に過ぎないものでした。

 この頃の仏軍の前哨線は、分派堡群の直前となる鉄道線路沿い、即ちノジャン=シュル=マルヌ~ロニー~ノアジー=ル=セックの線上となりますが、その左翼前方となるボンディとドランシー付近に設置された前進陣地は死守するとされ、榴弾が降り注ぐ中、決死の覚悟で留まる仏兵の姿が望見されたのです。しかしボンディ周辺に置かれた対ル・ブルジェの砲台群は1月初旬に放棄されるのでした(後述)。


※1月におけるパリ東方郊外の仏軍要塞砲は、諸分派堡とその中間肩墻砲台群、そしてマルヌ巾着部に151門あったとされ、その内47門は19センチカノン砲、42門は16センチカノン砲だったと言われます。しかしその多くは旧式青銅製前装砲でした。


挿絵(By みてみん)

砲撃下のパリ市街俯瞰絵


 仏のパリ第二軍は第二次ル・ブルジェの戦い(12月21日)以降独第四軍の前哨線前に展開したままで駐留し始め、その後しばらくは対峙する独軍を騒擾させるだけに終始します。

 パリ第二軍はこの時、セーヌ川に沿ったクリシー~サン=トゥアン~オーベルビリエ~パンタン地区を結ぶ線上に第1軍団、その左翼端前方のボンディからバニョレ~モントルイユ~フォントネー~ノジャン=シュル=マルヌの線上に第2軍団が、ドランシーとボビニーにファロン予備師団がそれぞれ駐屯していました。

 この情勢に変化があったのは1月13日で、この日の夕刻、パリ第二軍は再び大きな攻撃を企てるのでした。


 仏軍はこの夕べ、オーベルビリエとレスト堡塁そして両分派堡脇に並んだ肩墻から猛烈な砲撃を開始し、午後10時、その援護射撃下でドランシー及びラ・クールヌーヴの陣地から縦隊が出撃しました。これら仏軍歩兵は再びル・ブルジェ部落に向かい包囲を狙って波状攻撃を開始します。しかし「同じ轍は踏まない」との決意を以て従事していたル・ブルジェの近衛部隊*は速やかに5個中隊の増援を受けると重厚な布陣で統率の取れた銃撃を行い、更には攻城砲台の第18、19、20号の三砲台が夜間にも係わらず正確な砲撃(偶然にも前日部落前面に対し照準合わせを行っていました)を開始し、これらによって繰り返し突撃を粉砕されてしまった仏軍は日付が変わった午前2時、たまらず撤退を始めたのです。


※1月13日にル・ブルジェを守備した独軍

*当直していた部隊

○普近衛擲弾兵第3連隊・第2大隊

○普近衛擲弾兵第4連隊・第3中隊

○普近衛シュッツェン大隊・第2中隊

*増援に駆け付けた部隊

○普近衛擲弾兵第3連隊・第10,11中隊

○普近衛擲弾兵第4連隊・第1,2,4中隊


 同様な警報は翌日も、そしてそのまた翌日、翌々日と連続四夜に渡って発令され、その三夜は主としてザクセン軍団(独第12軍団)の前哨線に対して決行された攻撃でした。また15日には懲りずにル・ブルジェにも攻撃の手が及びますが、これらは多くが攻城砲台の重砲によって阻止され、その全てが撃退されてしまったのでした。

 諦め悪くしつこいパリ第二軍に痺れを切らしたアルベルト・ザクセン王太子は17日、仏軍の主要な出撃点となっていたドランシー方面に対してモレ沿岸の砲台により連続48時間に及ぶ一大砲撃を命じます。

 この日、パリは晴れ渡り砲撃には最適の一日となっていました。速やかに準備を整えた18、19、20号の三砲台は18日深夜まで、ほぼ全てのカノン砲砲身が変形し交換するほどの連続砲撃を行い、観測士官から「その効果絶大」と評価されます。これにより19日早朝、実際の効果確認のため約5個中隊の歩兵が偵察隊として前線を越えます。


※1月19日・ドランシー方面への独軍偵察隊

*ドランシー偵察

○普近衛擲弾兵第1連隊・第10,11中隊各三分の一個

○普近衛擲弾兵第4連隊・第10中隊

*グロスレー農場偵察

○普近衛擲弾兵第4連隊・第12中隊

○独擲弾兵第100「ザクセン第1/親衛」連隊・第2中隊

*グロスレー農場南東雑木林方面偵察

○独擲弾兵第101「ザクセン第2/プロシア王ヴィルヘルム」連隊・第10中隊


 結果、ドランシーには未だ比較的多くの守備隊兵士が残り警戒は厳重であることが確認されます。しかし、グロスレー農場に向かったザクセン王の親衛兵は守備隊こそ存在するものの油断し警戒が疎かになっていることを感じ、中隊長のフォン・フリーゼン大尉は2個中隊と覚しき仏兵を躊躇なく奇襲し、これを四散させると逃げ遅れた士官4名・下士官兵109名を捕虜として意気揚々帰還するのです。

 前哨線を叩かれた仏軍は以降、グロスレー農場を放棄し、被害が出たドランシーとボンディからは守備隊を引き上げ前線監視哨を置くだけに留め、夜間にだけ前哨兵を増加してこれを維持しました。また、ル・ブルジェへの攻撃は以降断念し、ル・ブルジェ攻略のため前進配置していた要塞重砲をプティ・ドランシー農場(ドランシーの南西900m付近。現存しませんが地名として残ります)南方まで後退させ改めてこの地に有力な砲台数個を築造するのでした。


 しかし、1月中旬の仏パリ第二軍による独第四軍への夜襲は、実際の効果こそなかったもののアルベルト王子の本営やベルサイユ大本営に懸念を生じさせます。それは攻撃が「本格的な攻囲網突破攻撃の発端となるものか否か」判断に悩むということで、ザクセンや近衛軍団は前哨で「騒ぎ」が発生する度に「最悪の事態を想定して」警戒警報を発令し、後方に休息待機する部隊にも戦闘準備を命じるしかなかったのでした。

 当然ながら毎晩のように繰り返される「狼が来た」同様の警戒警報は後方で休息する将兵にいらぬ緊張と疲弊を招くこととなり、下手をすると「いざ本番」と言う時に全力を発揮出来ない可能性を生じさせていました。

 この「憂い」を取り除くためアルベルト王子はベルサイユ大本営に対し「サン=ドニ市とその前面に展開するパリ第二軍とサン=ドニ軍団を沈黙させるため、こちらにも攻城砲台を築造し重砲火によって目的を達する」ことを誓願するのです。

 この頃(1月中旬)には前述通りモン・アヴァロンに仏軍はなく、再び仏軍が占拠することがないよう重砲が狙い至近にて前哨が警戒していました。同じくヴュルテンベルク王国野戦師団の担当戦区でも一層の防御工事が進んでおり、再び仏軍がヴァンセンヌの森から出撃に及んでも一筋縄にはいかない鉄壁な準備を成していました。このため独第四軍は今後総力を挙げてサン=ドニ方面に対する攻城砲撃作戦の実施に取り掛かることとなったのでした。


挿絵(By みてみん)

砲撃中の独砲台


☆ パリの状況(12月末から1月中旬)


 パリの状況は新たな年が始まると、戦況も生活も止まるところなく悪化の一歩を辿って行きました。

 市民一番の関心は食料ですがこれは公共の備蓄が底を尽き、パリ市庁と国防政府はパンと肉類の需要を少しでも満たそうとして軍の倉庫に手を着けます。パリ防衛軍は貯蔵品から渋々小麦粉と馬匹(食肉用ではありません)の一部を放出しますが、それも到底パリ市民の胃袋を満足させるどころか「どこに消えた」類の幻程度の量でした。既に街角から犬猫鳩の類は見かけなくなり、雄鶏が時を告げる声など久しく聞かなくなっています。巷ではネズミさえ見かけなくなったとのぼやきが聞こえるのでした。

 食料ばかりでなく生命に直結したのは気候でした。この年末年始は寒波が居座っていたため燃料の不足も深刻で、遠に民生用の石炭は尽き、ガス灯に変わる石油灯用の灯油も残り僅かとなっていました。市民は公園や森林から無断で木々を伐採して燃料とし、当然ながら街路樹も真っ先に消えて行きました。1月5日には各分派堡に対し「1日2食2,500名45日分の小麦粉を残し、余り全てを市民向けに放出するため経理部に引き渡すよう」命令が発せられました。更には在庫する石炭より10トンを間引いてこれも経理に引き渡すよう命令されたのでした。

 正規の店舗はどこも商品なく開店休業状態で、主に闇で取り引きされる生活必需品の価格は暴騰していました。こうして市民生活が窮乏の一途にある中、遂にその頭上から独の容赦ない榴弾が降って来るのです。


 砲撃を受けた又は聞き及んだ市民は急ぎ地下室に隠遁し、それがない者は少しでも遠くの街区へと転居し、多くは難民状態となって彷徨っていました。ニュースは絶望的なものばかりで、それも真実か否か誰にも判断出来ず、久しく市外から訪れる者も皆無で、赤十字関係者だけが細々と行き来しますがこれも大抵は市民の目に触れることはありませんでした。

 10月までは何とか市民を宥めて勇壮な告知を続けて「栄光のパリが陥落する事などあるわけがない」と市民に信じ込ませて来たトロシュ達でしたが、政府成立以来勝利の報はクルミエのみでパリ周辺部での突破戦闘は全て敗退し、それが市民全てに「バレて」しまった以上、既にトロシュの言を信じる市民は皆無で、市民は時に激高して「一大会戦」を求め「勝利」に飢えて息巻き、これは包囲下でも休まず刊行し続ける新聞各紙も同調して当局に対し非難轟々、ありとあらゆる困難と危険が全てトロシュのせいにされる始末でした。


挿絵(By みてみん)

居間を直撃され慌てるパリ市民


 既述の通り打つ手打つ手全てが失敗してしまうトロシュは発言も少なくなり、幾度も敗戦の憂き目を見るデュクロ将軍始めとするパリ防衛軍の面々が出撃を訴えても中々首を縦に振らなくなっていました。

 しかし解囲の失敗続きで外部からの攻撃も既に望み薄い状態(ただフェデルブ将軍の北部軍だけが活躍を報じていました)、モン・アヴァロンの喪失は特に痛手で、遂に軍にも食糧難が押し寄せると士気は大いに挫かれ寒気に震え我慢の限界を超えた兵士たちは脱走する者続出し、残る者も疾病発症者も日に日に増大して軍の戦力は戦わずして短期間に三割強を喪失することとなってしまうのです。

 それでも事情を知らされぬ市民からは「何故出撃しない!」「臆病者!」「無為無策の政府は内なるプロシア兵か!」との非難止まず、遂には事情を良く知っているはずの政府部内からも出撃待望論が噴出するのでした。


 年末から年頭に掛けて様々なレベルで高級指揮官会議が開催され、パリ軍としては今後どう戦うかが問われますが、現場指揮官の多くが一致するところ「難敵が構える包囲網を破るには外側からの救援軍が助けることなくば実行不可能」とのことでした。しかしそれ以上にデュクロやヴィノワ将軍らパリ軍の執行部や政府要人たちは「パリ市民の怒り」を恐れており、その出撃待望論はやがて現実の出撃命令へと変わって行きました。

 この出撃準備のため「消極的な対・対壕作業など愚策」とばかりに中止され「直接シャティヨン付近の独砲台を攻撃せよ」との意見も出されました。しかし既に出撃拠点となるバンブやイッシー堡は見る影もなく、結局、ブージヴァルやマルメゾンの森からサン=クルーを経てベルサイユに向け突破攻撃を行う魅力的な「敵の大本営を突く作戦」が裁可されるのです。

 この攻撃は準備出来次第、可及的速やかに実施されることとされますが、1月8日、正に市街砲撃が始まったその日に12月20日以来新年初めての伝書鳩がパリに帰還を果たします。

 差出人はボルドーのガンベタで、内容は「フェデルブ将軍より電報あり。1月3日バポームの地にて午前8時から午後6時に掛けて戦闘があり普軍はその陣地と諸部落から駆逐され、その被害甚大なり」との報告で、更には「シャンジー、ブルバキ両将軍のロアール両軍は間もなくパリに向け出撃する」とのガンベタの「確約」も添えられていたのです。

 何時でも勇ましいガンベタの「言葉」はここでも変わらずパリに対し出撃を要請していました。これを受けて開かれた閣議の席上、内心は既に「負け」を認めているトロシュは一時出撃を見合わせるよう発言します。これはブルバキ将軍の動きに対しパリを攻囲する独軍から分遣隊が発するはず、と読んだトロシュが状況を見極めた後に出撃した方が得策、と考えたからです(正しく読み通りに第2軍団が攻囲網を離れました)。しかしこれも既に負けを認め、ガンベタ等地方の強硬派も「きっと誇大に見栄を張っているに違いなく実際は勝利も疑わしい」と看過していたジュール=ファーブルから異論が出ました。これは即ち「市内の各区長からは独軍の砲撃に市民が激昂しているとの報告も多数あり、彼らは軍の即時出撃を希求している」との意見でした。市当局もこれに賛同しトロシュも渋々15日、モンルトゥー~ギャルシュ~ビュザンヴァルのモン・ヴァレリアン堡塁南に展開する独第5軍団管区の独軍前線に対する攻勢発動を認めるのでした。


 この作戦は当時のパリ軍の状況からすれば唯一成功の可能性がある作戦と言えます。例えば一部過激に主張する者たちが叫んでいた「ムードンからクラマール、シャティヨンの独軍砲台に対する攻勢」や、「サン=ドニから北東方面へ突破しフェデルブ北部軍との連捷を目指す」などは非現実的で、例え7、8万の兵力で突破成功しても糧食も弾薬補充もない状況では「シャンピニーの戦い」同様2日間持てば良い方で、しかも多数の攻城砲台を前に大兵力を集合・展開するのは危険極まりないのです。

 その点、サン=クルー方面には重砲砲台が1個しかなく、しかもモン・ヴァレリアン堡塁の重砲援護も受けられ大兵力を集めるにも安全で十分な余裕がありました。

 練成十分ではなく夜戦の経験もない国民衛兵や臨時護国軍部隊を中心にするしかないパリ軍としては、夜間集合し作戦を実施するのは危険過ぎるため、攻撃は朝から昼間に行われることが決まり、期日も1月19日と定まりました。またパリ第二軍から攻撃主力となる3個師団(シュスビエル、ベルトー、ベルマールの各将軍師団)は国民衛兵と交代してセーヌ河畔の任地から離脱し、パリ北部から東部の防衛指揮官だったオーギュスト=アレクサンドル・デュクロ将軍も、アントニー=アシル・デクセア=デュメルク将軍に後を任せ西側へ移動したのでした。


挿絵(By みてみん)

ベルサイユに到着したヴィルヘルム1世(70年10月/ロンドン・イラストレイテッド・ニュース)



普仏戦争こぼれ話  モルトケの「助さん格さん」~クラアーとブルト


挿絵(By みてみん)

パリ天文台で砲撃下のパリ市街を観察するモルトケと副官

(左/モルトケの甥で義弟、ハンリ・フォン・ブルト大尉 右/オットー・フォン・クラアー少佐)

フェルディナント・フォン・ハラハ画


*オットー・クレメンス・アウグスト・フォン・クラアー(1827-1909)


 有力なユンカーで地方議員の子としてライン河畔のボンで生まれ育ったクラアーは、地元ボン大学で法律を学びますが、卒業間近22歳の時(48年3月革命の反動真っ最中です)、一年志願兵(兵役義務を短縮出来、1年後軍隊に残れば伍長になれる志願兵制度)として竜騎兵第4連隊(シュレジエン連隊)に入隊します。軍隊生活が気に入った彼はそのまま伍長として軍に残り、数ヶ月で見習士官に取り立てられると24歳で中尉、37歳で大尉・戦隊長に昇進し、竜騎兵中隊長として普墺戦争に従軍しました。この連隊はあのシュタインメッツ大将の第5軍団麾下第9師団騎兵となりナーホト、スカリッツ、シュヴァインシェーデル、そしてケーニヒグレーツと栄光の激戦地を転戦し、戦後に赤鷲勲章4級を受勲しました。

 戦間期は第4軍団司令部勤務を経て竜騎兵第13「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊付きとなり、その才を認められ68年6月に参謀本部入り、陸軍大学に入っていなかったにも拘らずモルトケ参謀総長の副官という重責を担うこととなりました(41歳)。直後に少佐に昇進すると総長側近のまま普仏戦争に従軍、戦争中はフォン・ブルト大尉と共に常にモルトケに付き従いました。戦中と休戦直後に第2級と第1級鉄十字章を連続で得ています。

 その後49歳で大佐、55歳で少将と順当に昇進しマグデブルグの軍管区長となりました。60歳で中将になった後に待命、1889年、62歳で予備役編入・退役となります。1905年ベルリンのケーニヒスプラッツでモルトケの記念大理石像*が完成するとヴィルヘルム2世皇帝はその式典に参列した彼に長年の貢献を表して柏葉剣付赤鷲勲章1級を授けました。1909年、死去(享年81歳)。因みに長男は第一次大戦初期に西部戦線で歩兵大将として第7軍団を率いたエバーハルト・ガブリエル・ローレンツです。


※モルトケ大理石立像は彫刻家ヨーゼフ・アプウス作で、当初ケーニヒスプラッツにありましたが1939年4月、ナチスの「ゲルマニア計画」の一環でティーアガルテンのグローサー・シュテルン、これも同時に移設された黄金の女神像で有名な戦勝記念塔の北、ビスマルク像の右側に移されました。因みにビスマルク像の左側はフォン・ローンの銅像で、数奇な運命で会した3人の立像はベルリン激動の歴史を経て現在も同じ位置にあります。


挿絵(By みてみん)

攻城砲台のモルトケ


*ハンリ(ヘンリー)・ヴィクトール・フォン・ブルト(1841-1906)


挿絵(By みてみん)


 家族から付けられた「パンチ」の綽名で知られているハンリ・ブルトは、英国人ジョン・ヘイリガー・バート(ブルトは独語読み)と2番目の妻オーギュスト(綽名グステ)の子としてハンブルクの北・ホルシュタイン公国のイツェホーで生まれ育ちます。母アウグステ(独語読み)はモルトケの9歳下の妹で、父親のジョンは西インド諸島においてサトウキビ栽培で財を成しドイツで成功した商人でした。

 パンチの姉弟は全て姉で、シャーロットとメアリー(マリー)の異母姉と母が同じ2歳違いのアーネスティン(エルネスティン)でしたが、彼がまだ赤ん坊の頃(1842年)にマリーはモルトケ中佐と結婚し、ここで少し複雑な関係(モルトケから見れば義理の弟であり実の甥でもある)が生じました。モルトケはこの年の離れた(41歳差)甥っ子で義弟を大層可愛がります。パンチの父(マリーの父でありグステの夫でもある)はパンチ14歳の時、西インド諸島から帰国する途中にイギリスで亡くなり、彼は叔父夫妻に引き取られてフレンスブルクに移ります。ハンブルクのアルトナ地区へ移った母や姉たちと離れ離れになってしまいますが、モルトケ夫妻は彼の後見(養子扱い)として支援し続けました。

 モルトケが参謀総長となるとパンチも軍に憧れ、17歳でギムナジウムを中退するとベルリンで軍の任官試験に挑戦し合格、ミンデンで歩兵連隊(第60「ブランデンブルク第7」)に入隊します。モルトケの甥っ子としてのパンチは軍でも贔屓にされ入隊からわずか1年で連隊本部付き副官(少尉)となり、姉マリーが早逝(1868年のクリスマスイブ)すると落ち込む参謀総長を慰めるためヴィルヘルム国王自らパンチを大尉(28歳。王族並の出世です)に昇進させて参謀総長付き副官とする(1869年)のです。そのまま普仏戦争に突入すると戦中パンチは常にモルトケの傍にいました。

 しかし戦後、彼は早過ぎる昇進や実績ないままの参謀本部入りなど(妬嫉や陰口、ハラスメントも多かったと想像されます)もあってかプレッシャーから鬱ぎ込み病気勝ちとなり、1883年、休暇とリフレッシュのため母と共にスイスへ旅行した際、遂に重い神経衰弱を発症してしまいます。これを気に病んだ母グステは同年心臓発作で亡くなってしまいました。

 パンチは軍を辞任しエルベ河畔のドレスデンに別荘を構えて早い引退・療養生活に入りますが、モルトケは常に彼のことを気に掛けて度々この「モルトケ荘」を訪問していました。しかし信頼する使用人が射殺されるというショッキングな事件が87年に発生、再び精神状態がおかしくなったパンチは長期入院してしまいます。

 91年に大モルトケが亡くなった頃、パンチはもう一人の「総長の甥っ子」、7歳年下の小モルトケ(大モルトケ4歳下の実弟の子。彼も大モルトケに可愛がられ80年参謀本部入り。パンチに代わり82年から大モルトケの副官でした)と対立しており、軍と小モルトケが取り仕切る葬儀には出席しませんでした。パンチが姉マリーと大モルトケとの往復書簡を編纂して出版すると、小モルトケは直ちに伯父の伝記を出版するといった具合で対立は後々まで続きます。義兄で伯父の死後92年、世間から逃げるようにモルトケ荘を離れたパンチは隠遁し14年後バルト海に面するロストックで独り亡くなります。65歳でした。


挿絵(By みてみん)

パリ市街を眺めるモルトケと副官


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