パリ砲撃の開始
☆ パリ包囲網北部から東部(年末年始)
仏パリ防衛軍は1870年10月来、独第三軍と同第四「マース」軍(当時独軍は「マース軍」と呼んでいますが、既にマース川は遠く後方で、拙作では今後「独第四軍」と呼称します)による包囲網に対し東西へ交互に突破攻撃を加えますが全て失敗、同時にパリ市内に備蓄してあった様々な時代の要塞砲を各地へ配備するため砲台多数が出現し、事ある毎に包囲網への砲撃を繰り返しました。これに対抗する独包囲網は未だ攻城砲撃の準備が十分ではなく、野砲のみが対抗砲撃を繰り返したのです。
独大本営はザクセン王国軍団(第12軍団)の戦区に突出したアヴァロン山(モン・アヴァロン。シテ島ノートル・ダム寺院の東北東12.2キロ付近の高地。現コトーダヴロン公園の北側部分)に進出し、独包囲網東部を悩ませていた砲台群に対する攻城砲砲撃を命じ、この戦区を統括指揮する独第四軍司令官アルベルト・ザクセン王太子は13個の攻城砲台を準備し、アヴァロン山やその後方にあるパリ東部の外堡の一つロニー分派堡、そして仏軍が居座るヌイイ(=シュル=マルヌ。ヴァンセンヌ城の東北東7.1キロ)などを集中砲撃し年末にアヴァロン山の仏軍砲撃陣を粉砕します。
第二次ル・ブルジェの戦いにも敗れアヴァロン山を失い、前線をロマンヴィルやノアジーの分派堡まで後退させた仏パリ軍は、突破戦闘を一時中止して正攻法(ジグザグに掘り進む対壕を中心に敵陣へ迫る戦術)に切り替え包囲網北東方面へ圧を掛けようとしました。
仏軍は城塞や堡塁の類が存在しないル・ブルジェ(現・ル・ブルジェ空港南端。サン=ドニの東5キロ)に対しても正攻法を採りますが、年末年始に当たってパリ地方では最低気温が氷点下12度に達した寒波が居座り、結果工事は中断されます。同時に仏軍はアヴァロン山の砲撃陣と同様な陣地をロマンヴィルとノアジー分派堡間の高地縁に築き、ここには1月4日までに12センチ以上の大口径要塞砲32門(他に敵斥候などが至近まで迫る時の用心のため4ポンド砲数門)が用意され独軍の砲台と対決し始めます。
独第四軍司令アルベルト王子は去る12月24日、「アヴァロン山の砲陣を退去させた後に攻城砲を現在の陣地両側に延伸配備し我が攻囲網を確実に援護させる」ことを決し、「現在の攻城砲は仏軍が再びアヴァロン山陣地を復活させないよう(アヴァロン山は双方要塞砲の射程内となり当時無人地帯となっています)妨害し、新設砲台はその一方がマルヌ河畔に居座る仏軍を砲撃、他方がボンディ(アヴァロン山の北北西4キロ)周辺の平原とル・ブルジェに対する仏軍の対壕作業を妨害する」との作戦を立てます。アルベルト王子はこれを大本営のヴィルヘルム1世国王に上申し、裁可を得るや作業を開始しました。
ボンディの平原とドランシー(サン=ドニの東南東6.4キロ)を砲撃する第14と第15号のカノン砲台は12月29日夜間に築造を始め翌日に完成、大晦日に砲撃を開始します。
もう二度とル・ブルジェを襲わせないようにする筈の第18、19、20号の三砲台はその後方、モレ川(ル・ブルジェの東8キロのスブラン付近を源流に北西へル・ブラン=メニル~デュニーと流れてセーヌ支流クル川に注ぐ小河川。現在は殆ど暗渠となっています)右岸にほぼ同時に築造開始されますが、これは相手の仏軍が鶴嘴さえ受け付けない凍った大地にお手上げとなったのと同様、猛烈な寒気によって難工事となり、18号は元日夜、他の2砲台は1月4日に完成を見ます。マルヌ河畔「巾着部」を砲撃する第16と第17号も同4日に砲撃準備を終えるのでした。
※12月29日から1月4日にかけて築造された独第四軍攻城砲陣地と備砲、主目標など
砲台(砲台名・備砲・主目標・主目標までの距離)
○ル・ランシー(ボンディの東南東3.5キロ)の高地端・第1号砲台の北側
*第14号砲台 15センチカノン砲x4・ボンディ部落とその周辺平原・距離2,700~3,600m
*第15号砲台 12センチカノン砲x6・ドランシー・距離5,900m
○シュヌビエール=シュル=マルヌ(シャンピニー=シュル=マルヌの南東2.6キロ)の北・マルヌ左岸(ここでは東岸)
*第16号砲台 12センチカノン砲x6・サン=モール「半島」(マルヌ巾着部)とマルヌ流域・距離約5,000m
*第17号砲台 15センチ短(砲身)カノン砲x4・同
○ル=ブラン=メリル(南東2.6キロ)の北東
*第18号砲台 15センチカノン砲x6・サン=ドニ東方の平原、ドランシーとラ=クールヌーヴ、グロレー農場(ドランシーの東1.4キロ付近にあった農場。現存しません)など仏軍拠点・距離5,500m
*第19号砲台 12センチカノン砲x6・同
*第20号砲台 12センチカノン砲x6・同
※第4号砲台を廃止、砲を第17号へ移動。第9号と第10号から各3門を撤去、砲を第16号へ移動、第5・第7・第12・第13号から各数門を撤去、第18・第19・第20号へ移動。
ル・ランシー付近の砲台
シュヌビエール付近の砲台
クル川沿岸の砲台
モレ川の氾濫地域に守られていた普近衛軍団の長大な包囲網は、寒波の到来で地面が凍結し広大な氷原と化してしまい防御の役に立たなくなったため、独第四軍本営は近衛軍団の負担軽減のため独第12「ザクセン王国(以下S)」軍団の右翼をソセ川(スブランの北2.4キロのヴィルパント付近を源流に南西へ流れオネー=スー=ボアでモレ川に合流する小河川。これも暗渠になっています)流域まで延伸するよう命じます。S軍団は仏軍がアヴァロン山の砲陣から撤退した後、前哨をヴィルモンブル(アヴァロン山北麓)に進め監視哨をアヴァロン山頂上に設置しますが、アヴァロン山の監視哨は1月4日、仏軍による襲撃を受けて損害が発生したため廃止されてしまいました。
なお、71年頭からの独第四軍の配置は以下のようになっています。
○第4軍団(グスタフ・フォン・アルヴェンスレーヴェン歩兵大将指揮)
ブゾン(サン=ドニの西10.5キロ)~レ=カルモー(サン=ドニの北北西4キロ。現在のモンマニー南端に当たります)間
○近衛軍団(アウグスト・ヴュルテンベルク親王歩兵大将指揮)
モンマニー~ソセ川間
○第12軍団(ゲオルグ・ザクセン親王中将指揮)
ソセ川~マルヌ川間
○ヴュルテンベルク王国師団(男爵フーゴー・フォン・オーベルニッツ中将指揮)
グルネー(=シュル=マルヌ。アヴァロン山の東南東4.7キロ)~オルムッソン(=シュル=マルヌ。グルネーの南9キロ)間
独軍によるマルヌ川の渡河・通行は1月に入っても変更されず、アヴァロン山から仏軍が撤退し砲撃される危険性がなくなった後にようやくグルネー付近の架柱橋*の使用が再開されます。しかしノワジエル(グルネーの東4キロ)とポンポンヌ(同東8.7キロ)の舟橋は流氷により破壊されるのを防ぐため引き上げて使用不可となる時が幾度かありました。
※ここで言う架柱橋とは野戦架橋材料で作る軍橋ではなく、川中に数本の主柱を立て、この柱間や川岸に板を渡した仮橋のことです。川船が接近時渡り板が簡単に取り外し出来る構造となっており、当時は運河や川船が運航する河川に多用されます。
独軍パリの砲台
☆ 包囲網南部から西部(年末年始)
フリードリヒ皇太子率いる独第三軍は、第2軍団(エデュアルド・フォン・フランセキー歩兵大将指揮)を独南軍に転出させられた後、その「穴」を埋めるためエタンプ(パリ/シテ島の南南西48.6キロ)北方で再編成・休養待機状態に入ったばかりのバイエルン王国(以降B)第1軍団(男爵ルートヴィヒ・フォン・ウント・ツー・デア・タン=ラートザームハウゼン歩兵大将指揮)を急遽包囲網前線に進出させました。
B第1軍団はオルレアン周辺における仏ロアール軍との激闘、特に「クルミエの戦い」により深手を負い、その後もロアール流域でシャンジー軍と激しい攻防を繰り広げた結果、およそ定員の半数にまで戦力を磨り潰してしまったためクリスマスイブにオルレアン近郊を離れ、パリ南郊エタンプ地方へ撤退しました。フォン・デア・タン将軍らは12月27日にエタンプに到着すると独第三軍の予備としてアルパジョン(エタンプの北18.3キロ)からモンテリ(アルパジョンの北5.8キロ)間のエタンプ街道沿いで宿営していたのです。
仏パリ国防政府やボルドー派遣部から「既に壊滅した」ものと思われていたB第1軍団はオルレアン近郊に駐屯していた時点より本国から続々とやって来る補充を受け入れ再編成に従事し、パリ南郊到着後の70年末時点で兵員数17,500名・野砲108門まで回復し、最終的(71年1月末)には兵員数22,500名と定員に近い数にまで回復するのです。
このB第1軍団の布陣は、砲兵を増強したB第2師団がセーヌ川右岸(この地では東岸)で川を挟んで左翼側に普軍第6師団と並列し、同僚師団より戦力回復が遅れていたB第1師団ほか残りの諸隊がその後方イエール、レヴェィヨン両河川沿岸の諸部落(イエール、ブリュノワ、ブシー、ヴィルクレーヌ、マロルサン=ブリ、サントニー等々)に宿営地を求めました。その後前述通り兵員数が充足したため1月24日からB第1師団が前哨線へ前進し、ボヌーイ=シュル=マルヌ(オルムッソンの西4.3キロ)~ボアシー=サン=レジェ(ボヌーイの南南東2.5キロ)~イエール(ボアシーの南4.5キロ)の線より西側、セーヌ川までを担当し、東側、W師団の担当区までをB第2師団が担当しました。
パリ南方・セーヌ川の渡河は12月25日以降ヴィルヌーブ=サン=ジョルジュ(イエールからは西北西に3.5キロ。セーヌ右岸)とジュヴィジー(ヴィルヌーブ=サン=ジョルジュの南西6.3キロ。セーヌ左岸)付近に設置された氷上の渡河点(「モン・アヴァロン砲撃」を参照願います)を使い細々と行われ、この綱渡りの状態で新年を迎えますが、1月9日に天候が少しだけ緩み気温が上がったことを機会と捉えたB野戦工兵第1大隊(B第1軍団に属する野戦工兵3個中隊)は、アブロン(=シュル=セーヌ。ヴィルヌーブ=サン=ジョルジュの西2キロ。セーヌ左岸)とアティス(=モンス。同西南西5キロ)付近に現れた不凍結地点にそれぞれ架橋を試み、1月12日アブロン付近の渡船場に野戦架橋材料と周辺から徴発した資材によって長さ162mの立派な橋を完成させます(アティスでは失敗しました)。この橋は同19日押し寄せた流氷によって流されそうになり急遽撤去されますが、翌20日、再びB軍工兵の手によって架けられました。1月21日までにはヴィルヌーブ=サン=ジョルジュの壊れていた橋が第6軍団工兵によって修理されて通行を再開し、同26日になってアブロンの「B軍橋」もヴィルヌーブの橋上流80mに移設され、貴重な渡河点として独第三軍の後方連絡を支えたのでした。
その他、1月15日にB第1軍団野戦工兵第3中隊が起工したドラヴェイユ(アブロンの南4.3キロ)とその対岸ジュヴィジー(=シュロルジュ)を結ぶ架柱橋がありましたが、これは難工事で完成は2月1日になってしまいます。この橋が出来るまではずっと上流のコルベイユ=エソンヌ(ドラヴェイユの南南東9.8キロ)に設けられた舟橋だけがアブロン以南でセーヌ渡河が可能な場所でした。
独第三軍配下第6軍団が任地とするセーヌ東岸ショアジー=ル=ロワ(ヴィルヌーブ=サン=ジョルジュの北北西4.4キロ。セーヌ左岸)からライ=レ=ローズ(ショアジーの西北西5.6キロ。バラ園で有名です)に至るまでの包囲網に面するビルジュイフ(ライの北東2.3キロ)とその西側オート=ブリュイエールの高地では、仏軍が年末に掛けて防御強化だけでなく対壕作業も進め、独の包囲網を寸断し包囲線を下がらせようとの意図を明確にしました。またオート=ブリュイエールの前進堡塁(現在残る遺構は普仏戦後1874年来のものです)でも防御工事が進み、これは第6軍団の西側に連なるB第2軍団の包囲網をも脅威することになります。ここに至るまで独軍は第6軍団のライ=レ=ローズ守備隊だけでこのオート=ブリュイエール高地とにらみ合っていましたが、この仏軍の強化によって今後はこの地域にも相応の兵力を展開せざるを得なくなるのでした。
オート=ブリュイエール高地の西を流れるビエーブル川の西方では、バニューやシャティヨンの高地にセーブルやサン=クルー城などを支配下に収めようとした独軍が、必然仏軍のパリ外堡とその防衛施設群に接近することとなり、この戦域では前哨ばかりでなく本陣地においても頻繁に仏軍重砲榴弾を浴びることとなります。普第19旅団が司令部を置いていたサン=クルー西のヴィラ・ペスカトーレ城館(ベルサイユ宮殿の北4.5キロ。現ラ・セル=サン=クルー南郊。現存しません)はモン・ヴァレリアン堡塁の24センチ艦載重カノン砲「ラ・ヴァレリ」の榴弾を受けて半壊・炎上し、同旅団はそれまでの戦闘記録をことごとく失う羽目になってしまいました。
敵散兵壕を目前にした前哨は、油断すればたちまちシャスポー銃の銃弾を浴びてしまうため、その交代は夜陰を待って行われます。仏軍の外堡は当時、シャンジー将軍やフェデルブ将軍、そしてブルバキ将軍が必ずや救援に訪れるものと信じ、その砲撃は苛烈を極め短期間で砲弾の備蓄を尽くしてしまうのではないかと思われるほどの勢いだったと言います。この砲撃は激しさに比して独軍に些細な被害を与えることしか出来ませんでしたが、昼夜問わず突然思い出したように開始され同じく突然終了する砲撃は、前線だけでなく宿営地の独将兵に一瞬たりとも緊張を解く時間を与えず、疲弊を促進し士気を低下させる遠因ともなっていました。
この対処としても独大本営は「同じ要塞砲でパリ外堡や市街を砲撃する」ための準備を急がせ、兵士たちに「やられるばかりではない」との印象を与えようと図ったのでした。
皇太子率いる独第三軍はパリ南面に対する攻城砲台を17個、70年末までに竣工していました。これに配備する要塞砲は71年初頭に各砲台へ搬入・設置され、これら砲台は位置によって三つの群に区分けされます。
左翼砲台群はムードン城館(ベルサイユ宮殿の東8.2キロ。現パリ天文台の東側です)の西側に接する公園に施工された第2号、第16号、第3号そして第4号の四砲台で、ムードン高地の急斜面に臨み互いに密接し並んでいました。
中央砲台群はドゥ・ラ・トゥール風車場高地(フォントネー=オー=ローズの西700m周辺)上に築かれた第5から第10号、第13号、第14号そして第17号の九砲台で、右翼砲台群はフォントネー=オー=ローズとバニューとの中間低地に並んだ第11号、第12号、第15号の三砲台となっていました。なお、第1号砲台は砲台群に属さず独りセーブル北方・サン=クルー公園内にありました。各砲台へ送達される砲弾や弾薬は、ビラクブレー(ムードンの南西4.3キロ)の北東郊外にある弾薬倉庫三個から先に五個の「中間弾薬廠」に搬入され、ここから速やかに分配されました。
このパリ外堡と市街を目標とする砲台の他、大本営は第6軍団戦区に補助的な砲撃を行う砲台築造を命じ、このためシュビイ(オート=ブリュイエール堡の南南東2.3キロ)とラリュ(シュビイの西770m。現高速道路の西脇)の間に設置された交通壕脇に二個の砲台が設けられ、ここには野砲ではなく要塞砲が設置されます。これらの砲台はビルジュイフとオート=ブリュイエールの堡塁に対して砲撃を実施することとなりました。
同時に第6軍団とB第2軍団は野砲で仏軍の野砲、特にミトライユーズ砲を沈黙させるよう命じられ、これら野砲陣は敵散兵壕や幕営そして対壕作業に従事する工夫や兵士を砲撃することも合わせて命じられたのです。
※71年頭までに築造された独第三軍攻城砲陣地と備砲、主目標など
砲台(砲台番号と呼び名 設置場所 備砲 主目標 主目標までの距離)左翼から右翼にかけての順・特に明記ない場合は1月5日に砲撃開始(後述)
※備砲の後に/があるものは砲撃期間中/の後の砲に変更されました。
○単独(指揮上は左翼群)
*第1号砲台(サン=クルー) サン=クルー公園南東隅 12センチカノン砲x6/15センチカノン砲x3、12センチカノン砲x4 ビランクール部落、ブローニュ部落、ル・ポワン・デュ・ジュール 距離800~3,600m
○第一群(左翼砲撃陣)
*第2号砲台(ムードン段丘) ムードン西方の公園内 12センチカノン砲x8/15センチカノン砲x4、12センチカノン砲x4 ビランクール部落、ブローニュ部落、ル・ポワン・デュ・ジュール及びブローニュ半島とその橋梁 距離800~4,250m
*第16号「破壊」砲台(ムードン砲列) ムードン西方の公園内 12センチカノン砲x4 イッシー分派堡*と付近の砲台 距離2,600~3,300m
*第3号「縦射・破壊」砲台(ムードン砲列) ムードン西方の公園内 15センチカノン砲x8/15センチカノン砲x6、12センチカノン砲x2 イッシー分派堡南面と西面 距離2,700m
*第4号「縦射・破壊」砲台(ムードン砲列) ムードン西方の公園内 15センチカノン砲x6/15センチカノン砲x4、12センチカノン砲x2 イッシー分派堡南面と西面 距離2,750m
(1月9日に廃されます)
*第19号「破壊・破墻」砲台(フルーリー) フルーリーの東郊 15センチカノン砲x4、15センチカノン短砲身砲x4 イッシー分派堡南側稜堡と南西側築堤及びパリ市外郭 距離1,650m~4,000m
(1月10日に砲撃開始)
*第20号「破壊」砲台(クラマール) クラーマールの西郊 15センチカノン砲x6 バンブ分派堡北西側稜堡の南面とその左面 距離2,500m~2,600m
(1月11日に砲撃開始)
*第23号「擲射」砲台 ノートル=ダム・ドゥ・クラマール(クラマールの北北西850m)付近 28センチ滑腔臼砲x4 イッシー分派堡本郭 距離1,150m
(1月20日に砲撃開始)
セーブルとムードン付近の砲台
○第二群(中央砲撃陣)
*第5号「縦射・破壊」砲台(クラマール砲列) クラマールの南郊 15センチカノン砲x6/15センチカノン砲x1、12センチカノン砲x2、9センチカノン砲x3 イッシー分派堡南側稜堡と南西側築堤 距離2,500~2,900m
*第6号「縦射」砲台(クラマール砲列) クラマールの南郊 15センチカノン砲x6 バンブ分派堡南面 距離2,900m
(1月9日に廃されます)
*第13号「擲射」砲台 ドゥ・ラ・トゥール風車場高地上 21センチ施条臼砲x2 イッシー分派堡本郭 距離1,200m
*第7号「縦射・破壊」砲台(ドゥ・ラ・トゥール風車場砲列) ドゥ・ラ・トゥール風車場高地上 15センチカノン砲x6/15センチカノン砲x1、12センチカノン砲x5 イッシー分派堡西面と南西側側稜堡の左面 距離2,150m
*第17号「破壊」砲台(ドゥ・ラ・トゥール風車場砲列) ドゥ・ラ・トゥール風車場高地上 12センチカノン砲x6 イッシー及びバンブ分派堡間の諸砲台 距離1,850m
*第8号「縦射・破壊」砲台(ドゥ・ラ・トゥール風車場砲列) ドゥ・ラ・トゥール風車場高地上 15センチカノン砲x6 バンブ分派堡南面 距離1,700m
*第14号「擲射」砲台 ドゥ・ラ・トゥール風車場高地上 21センチ施条臼砲x2 バンブ分派堡本郭 距離1,900m
*第9号「縦射・破壊」砲台(ドゥ・ラ・トゥール風車場砲列) ドゥ・ラ・トゥール風車場高地上 12センチカノン砲x8 バンブ分派堡西面と南西側稜堡 距離1,700~1,800m
*第10号「縦射・破壊」砲台(ドゥ・ラ・トゥール風車場砲列) ドゥ・ラ・トゥール風車場高地上 15センチカノン砲x6 バンブ分派堡西面と南面 距離1,725~1,800m
(1月10日に廃されます)
*第21号「破壊」砲台(シャティヨン) シャティヨン西郊 15センチカノン短砲身砲x6 バンブ分派堡の南西面とその横の肩墻 距離1,450~1,550m
(1月15日に砲撃開始)
*第24号「擲射」砲台 ドゥ・ラ・トゥール風車場高地上 28センチ滑腔臼砲x4 バンブ分派堡本郭 距離1,200m
(休戦まで砲撃に至りませんでした)
○第三群(右翼砲撃陣)
*第11号「縦射・破壊」砲台(フォントネー砲列) フォントネー=オー=ローズの北郊 12センチカノン砲x8 モンルージュ分派堡西面 距離2,700m
*第12号「縦射・破壊」砲台(フォントネー砲列) フォントネー=オー=ローズの北郊 15センチカノン砲x8 モンルージュ分派堡西面 距離2,750m
(1月11日に廃されます)
*第18号「破壊・市街砲撃」砲台(シャティヨン砲列) バニューの西郊 15センチカノン砲x6 モンルージュ分派堡とその西側にある肩墻及びパリ市庁舎 距離2,000~7,000m
(1月8日に砲撃開始)
*第15号「擲射」砲台 バニューの西郊 21センチ施条臼砲x2 モンルージュ分派堡本郭 距離2,200m
*第22号「縦射・破壊」砲台(シャティヨン砲列) バニューの西郊 12センチカノン砲x6 モンルージュ分派堡西面とその西側にある肩墻 距離2,100~2,300m
(1月13日に砲撃開始)
ドゥ・ラ・トゥールとバニュー付近の砲台
○第6軍団管区正面に対する助攻砲台
*Ⅰ号砲台 ラリュ~シュヴィ間連絡路上シュヴィ部落から60mの地点 12センチカノン砲x6/12センチカノン砲x4 オート・ブリュイエール堡塁と周辺砲台にビルジュイフ部落 1,900~2,450m
*Ⅱ号砲台 ラリュ~シュヴィ間連絡路上ラリュ部落から40m弱の地点 12センチカノン砲x6/12センチカノン砲x4 オート・ブリュイエール堡塁と周辺砲台にビルジュイフ部落 1,850~2,600m
*Ⅲ号砲台 ラリュ部落南西隅 12センチカノン砲x4 モンルージュ分派堡の南面と分派堡本体、カシャン周辺の小堡 2,150~2,600m
(1月9日にⅠ号及びⅡ号砲台の砲を2門ずつ引き上げて利用しました)
※イッシー分派堡は前段まで「ディッシー分派堡」と呼んでいました。仏語でd'Issyとなっているためでしたがこれは「イッシーの」との意味ですのでここからは「イッシー分派堡」とします。
パリ砲撃と工兵作業の指揮官は既述通り普近衛軍団砲兵部長の公爵クラフト・カール・アウグスト・エドュワルド・フリードリヒ・フォン・ホーヘンローエ=インゲルフェンゲン少将と第14師団長だったゲオルグ・アーノルド・カール・フォン・カメケ中将となり、両将官は砲撃と工兵それぞれの司令部をヴェルサイユ市街に置きました。
実際の本砲撃総指揮は普王国陸軍省のフォン・リーフ大佐が採り、第6軍団戦区の助攻砲撃総指揮は同軍団砲兵部長のベテラン、アドルフ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ラム大佐が採ります。各砲台群(四つ)では1名の日直佐官がそれぞれ指揮を執り、各砲台長の士官又は下士官は24時間の交代制で、勤務後士官は1日、下士官は2日の休暇を貰えることとなりました。
工兵作業は実際の指揮を経験豊富で一家言持つ第三軍工兵部長のシュルツ少将が引き受け、日々の作業は日直佐官1名を現場監督として行う手筈となりました。
着々と砲撃準備が進む中、年明け早々1日の夜にクラマール部落南東に聳え立っていた高塔(トゥール・ア・ラングレー。シャティヨン小堡塁の北西400m付近にありました)が独軍工兵によって爆破・倒壊させられます。これは仏軍砲兵が独砲陣に照準を定める時、この塔が良い「基準」となることを恐れたためでした。
1月2日には各砲台群間の連絡に使用する電信網が完成し、負傷兵のための包帯所も数ヶ所に開設されます。また、工兵たちは分派堡制圧のための対壕掘削の準備も開始しました。
同日、アルベルト王子の第四軍管区ではパリ東面に対する激しい攻城砲撃を行い、同時に諸隊の行動を活発に行ってパリ軍の注意を東に向けるよう努めました。しかしこの2日という日、パリ周辺は一日濃霧に覆われ仏軍は警戒こそするものの独軍が期待したほどには釣られて動くことはありませんでした。
完成した砲台へ要塞攻城砲を搬入する日は翌3日となり、直前の2日夕刻、独第三軍前哨は一斉にベルヴュー~ムードン~フルーリー~クラマールの部落縁とシャティヨン高地の麓まで進出し急ぎ防御態勢を整えました。これは比較的仏前哨線に近い第一と第二群の砲台援護と共に、砲台への要塞砲搬入阻止に出撃するかもしれない仏軍を抑えるための用心で、この準備のため普・B混成の工兵5個中隊が投入され、追加で工兵2個中隊半も参加しました。これら工兵たちは事前に前述の各部落に宿営待機していたものです。
1月3日以降、最前線の前哨は日直に立った1名の将官によって統括指揮され、独第三軍本営は万が一に備え前哨の予備となる近衛後備第1旅団をビエーブル後方のサクレー(ベルサイユの南南東9キロ)に常駐待機させました。
第三軍はこうした準備の後、1月3日午前中には各砲台中仏前哨から直接観察することが不可能な砲台に要塞砲を搬入・設置し、パリの外堡や仏前哨線から望見可能な砲台には同日夜、密かに搬入・設置を完了するのです。この間、仏軍からの妨害はほとんどありませんでした。
交通壕で重砲を運搬する独砲兵たち
1871年1月4日早朝。パリ外(分派)堡と市庁舎を目標とする第三軍管区内の諸砲台合計98門*の砲撃準備は整います。この内28門はイッシー分派堡へ、28門はバンブ分派堡へそれぞれ指向され、10門はこの両分派堡の間にある肩墻など、18門はモンルージュ分派堡に照準を合わせました。残る14門はブローニュやビランクールその他単独の目標に指向したのです。
※1月4日砲撃準備を終えた砲台(第6軍団砲台除く)
○イッシー分派堡とその関連施設を目標
*第3号「縦射・破壊」砲台15センチカノン砲x8
*第4号「縦射・破壊」砲台15センチカノン砲x6
*第5号「縦射・破壊」砲台15センチカノン砲x6
*第7号「縦射・破壊」砲台15センチカノン砲x6
*第13号「擲射」砲台21センチ施条臼砲x2
○バンブ分派堡とその関連施設を目標
*第6号「縦射」砲台15センチカノン砲x6
*第8号「縦射・破壊」砲台15センチカノン砲x6
*第9号「縦射・破壊」砲台12センチカノン砲x8
*第10号「縦射・破壊」砲台15センチカノン砲x6
*第14号「擲射」砲台21センチ施条臼砲x2
○イッシー、バンブ分派堡間の仏軍施設(主として肩墻)を目標
*第16号「破壊」砲台12センチカノン砲x4
*第17号「破壊」砲台12センチカノン砲x6
○モンルージュ分派堡とその関連施設を目標
*第11号「縦射・破壊」砲台12センチカノン砲x8
*第12号「縦射・破壊」砲台15センチカノン砲x8
*第15号「擲射」砲台21センチ施条臼砲x2
○ビランクール部落、ブローニュ部落、ル・ポワン・デュ・ジュール及びセーヌ半島とその橋梁を目標
*第1号砲台12センチカノン砲x6
*第2号砲台12センチカノン砲x8
対する仏パリ軍は年明け早々、独軍が攻城砲撃を行う寸前であることを察知し、独軍要塞砲から安全とは言えない遮蔽物のない地域に駐屯している諸部隊を全て撤退させます。独軍が第1目標とする諸分派堡やパリ本郭内には十分な数の備砲と弾薬があり、対抗砲撃を行うことが可能な重砲は独軍重砲射程内の本郭内部だけで約300門に達し、モン・ヴァレリアン、イッシー、バンブそしてモンルージュの各分派堡にもほぼ同数の砲が構えていました。更には分派堡間に設置された砲台、例えばビルジュイフ付近の堡塁にも40から50門の重砲が独軍陣地に向いていたのです。
※独軍が目標としたパリ市街各防衛区(セクター)と分派堡の重砲
○第6防衛区(パッシー地区/ブローニュの森がある16区)・157門
○第7防衛区(イッシー、バンブの後方/15区)・134門
○第8防衛区(モンパルナス地区/14区)・114門
以上1月20日時点。
○モン・ヴァレリアン分派堡・106門
○イッシー分派堡・90門
○バンブ分派堡・84門
○モンルージュ分派堡・52門
以上12月28日時点。
分派堡には24センチ海軍艦載カノン砲1門・同19センチカノン砲2門があり、その他はほぼ全てが青銅製16センチカノン砲でした。
イッシー分派堡から南方を眺めたパノラマ絵(1871)
独砲陣は4日、砲撃命令を待ちましたが生憎この日もパリは早朝から濃霧に覆われ、これが夕刻まで続いたために発射命令が下ることはありませんでした。
翌5日午前8時30分。
この日は霧もなく晴れ渡り、砲撃計画通り先ずは第8号砲台が号令となる信号弾を発射、高所にある中央・第二群の砲陣が砲撃を開始して遂に「パリ砲撃」が本格始動しました。
ところが、この初手の砲撃は独軍に痛手を与えてしまいます。
それは前述通り数倍するパリ軍の重砲による激しい対抗砲撃で、比較的低地にあった両翼の独砲陣は至近弾を浴び続けたたため照準を合わせることが不可能となり、右翼・第三群の砲陣は午前10時45分、左翼・第一群に至っては正午頃まで砲撃を始めることが出来ませんでした。これにより、仏軍の重砲は榴弾や擲弾が届く全ての重砲が独・中央群の諸砲台に照準され、猛砲撃を加えるのです。結果、中央の各砲台では損害が続出し、初弾を発射した第8号砲台では近衛要塞砲兵を指揮していたホフマン・フォン・ヴァルダウ大尉が重傷を負い、その他第二群内でB軍砲兵の指揮を行っていた男爵フォン・ケスター少佐も負傷するのでした。
しかし、午後に入って独軍が全ての砲台で砲撃を開始すると、次第に仏軍砲台は沈黙し始めます。砲撃効果の確認が比較的容易だった第1と第2号砲台は、ビランクール部落に駐屯していた仏軍前哨が部落を棄て後退するのを確認し、ル・ポワン・デュ・ジュール付近のセーヌ川に進出して来た河川砲艦が至近弾を浴びて射程外まで引き下がるのを見ました。
仏軍も午後1時30分には分派堡ばかりでなくパリ市街の外郭「ティエールの壁」からも重砲砲撃が始まりますが、午後2時になると集中砲火を浴びたイッシー分派堡からの対抗射撃がほとんど無くなり、バンブ分派堡とイッシー~バンブ間の諸砲台も少数が間欠な対抗射撃を行うに留まりました。しかし独軍砲陣から比較的遠距離にあったモンルージュ分派堡だけは盛んに対抗射撃を続けたのです。仏の資料に拠ればこの5日バンブ分派堡で独軍重砲に正対した16門の要塞砲中9門が破壊され、同分派堡守備兵の損害は戦死6名負傷23名だったと言います。
第6軍団戦区で助攻を命じられていた二砲台は、左翼側で本砲撃が始まると追従して砲撃を開始し、同軍団の野戦重砲諸中隊も全てが砲撃に参加しました。
これらの大砲はビルジュイフ周辺の堡塁を制してバニュー付近の独砲兵に対する砲撃を抑制させることに成功しますが、砲撃を陣頭で指揮していたフォン・ラム大佐は負傷してしまいました。
B第2軍団の戦区ではB野砲兵第4連隊重砲第5,6中隊(6ポンド砲)とB野砲兵第2連隊の重砲第12中隊(12ポンド砲)の各3門・計9門がソーの東方にある肩墻からカシャン西郊鉄道線脇の仏軍砲台を目標に砲撃を行い、同軍団は夕刻に前哨線をノートルダム=ドゥ・クラマール付近に出現していた仏軍新設堡塁至近まで前進させて敵の注意を引き付けると同夜独工兵5個中隊*が同堡塁の北方を片面包囲する形で弧を描く対壕を起工するのでした。
※1月5日夜・パリ外郭に向かう対壕を起工した諸工兵
・B野戦工兵の2個中隊
・普第4軍団の要塞工兵2個中隊
・普第5軍団の要塞工兵1個中隊
こうして独軍要塞砲兵たちは正確無比な砲撃力で仏軍を圧倒し、第一目標だった南西方パリ外堡の砲撃力をたった一日で弱体化させることに成功します。特にイッシーとバンブ分派堡は修復困難な被害を被り、以降独攻囲軍に対して最後まで優位に立つことはありませんでした。
ところでこの日、初弾を放った第8号砲台の15センチカノン砲の内1門はパリ中心地(最初の目標は市庁舎)へ榴弾を撃ち込み、これでパリ国防政府に「そちらが降伏しなければ今後市街地に榴弾が雨霰と降り注ぐぞ」との警告を与える筈でした。しかしフォン・リーフ大佐ら現場砲撃指揮官たちは「先に危険な至近の敵分派堡と砲台を始末する」との判断でこれを見送り、この砲台はその後数日間はバンブ分派堡の反撃力を殺ぐことに注力することになります。
また、既に前年10月中旬、独第三軍本営は鹵獲したシャスポー銃や台装銃(塁壁に固定設置する重狙撃銃)を試験的に使用すると、不注意に散兵壕から身を晒した敵前哨や前線視察に訪れた士官を倒すなど好成績を上げたため、第5、第6、第11の各軍団から選抜した下士官兵による250名の台装銃隊を組織し、これは台装銃75丁を装備して活躍するのでした。
イッシー、バンブの両分派堡が次第に沈黙する中、モンルージュ分派堡とイッシー分派堡の東側・高い鉄道堤の後方に設けられた巨大な32センチ臼砲6門を備えた砲台は共に対抗射撃を止めず頑張っており、今後この方面における独軍の目標はこれら重砲陣地とその後方、セーヌ河畔からビセートル分派堡後方のジャンティイまでの「ティエールの城壁」南面直線部分となるのです。
しかし、天候は安定せず濃霧と風雪が続くその後の数日間、砲撃は制約が多く中止される時間帯も増えました。それでも前述通り大損害を受けたイッシーとバンブ分派堡周辺では堡塁の付属施設や散兵壕から仏兵の姿が消えてしまうのです。敵からの銃砲撃が衰えたシャティヨンやクラマールでは9日夜にル・ヴァル(ムードンの東1キロ)~ノートルダム=ドゥ・クラマール~シャティヨンの前哨陣地帯に更なる防御工事を実施し、この工事の援護に付いた第87連隊のF大隊は特に工事の左翼側を警戒しました。この強化されたイッシー、バンブ分派堡に接近すること450から750mの陣地線には、やがて重砲が進出し残ったパリ市本郭の要塞砲との対決や市街地への砲撃に有効な拠点となって行くのです。
独第三軍の第2砲台(1871年1月の実写)
独第三軍のパリ砲撃に関する部隊編成
※官姓後の()内は派遣元原隊
☆攻城砲撃統帥部
・総司令官
公爵クラフト・カール・アウグスト・エドュワルド・フリードリヒ・フォン・ホーヘンローエ=インゲルフェンゲン少将(近衛軍団砲兵部長)
・参謀長
ハイデンライヒ中佐(第12軍団)
・副官
ブラウミュラー中尉(近衛砲兵旅団)、クラウゾン・フォン・カース少尉(同)
☆工兵攻撃統帥部
・総司令官
ゲオルグ・アーノルド・カール・フォン・カメケ中将(前・第14師団長)
・副官
エミール・アウグスト・レオポルト・ペテルス少佐(大本営工兵総監部)、フォン・フリッツェ大尉(同)
※以上の統帥部は第四軍麾下を含むパリ包囲網全ての砲・工兵の指揮を司りました。
☆パリ市南正面に対する攻城砲撃部隊戦闘序列
・対パリ南正面攻城砲兵司令
カール・テオドール・フォン・リーフ大佐(陸軍省)
・同参謀長
パウル・フリードリヒ・ゲオルグ・ミハエリス大佐(砲兵第6旅団)
・副官
ラインホルト・ハインリヒ・エデュワルト・ザルバッハ少佐(陸軍省)、ヨハン・フリードリヒ・エミール・ノイマイスター大尉(砲兵第5旅団)、ニッポルト中尉(砲兵第8旅団)、ストラーセル中尉(砲兵第5旅団)、ほか砲兵諸材料担当尉官1名
・隊付士官
フリードリヒ・アーノルト・ネポムク・カール・フッケ少佐(砲兵第3旅団)
※1月1日付で攻城砲兵連隊第1大隊長に就任します。
ユリウス・ハインリヒ・ルートヴィヒ・クラインシュミット少佐(砲兵第4旅団)
※攻城砲弾薬運搬指揮官としてナンテュイユかショアジー=ル=ロワに駐在しました。
リェッツェガー少佐(砲兵第6旅団)
※11月22日に疾病発症し本国帰還で解任されます。
・砲撃技術顧問
ミュラー大尉(砲兵第2旅団)、カイゼル大尉(砲兵第6旅団)、フォン・ジロンクール大尉(砲兵第6旅団)、キューベル大尉(砲兵第4旅団)、ケーゲル中尉(砲兵第1旅団)、リッツェル少尉(砲兵第3旅団)、ほか火工材料担当尉官1名
・砲兵厰管理
マクシミリアン・アルフレト・クリューガー少佐(砲兵火工主管)
・同副官(攻城厰各部長)
ヴィットケ大尉(砲兵第2旅団)、クルック大尉(砲兵第7旅団)、ボーデ大尉(砲兵第3旅団)
・武器庫担当
砲兵材料大尉1名、砲兵材料尉官2名、火工材料尉官3名
◎ 攻城砲兵連隊
連隊長 ヒックネル大佐(砲兵第4旅団)
○ 普第1大隊
大隊長 フォン・シュメーリング少佐(近衛砲兵旅団)
※疾病発症し12月にウィルケ大尉が代行し1月からフッケ少佐(前述)が赴任。
*近衛要塞砲兵連隊・第6中隊(ハインリヒ・リヒャルト・ホフマン・フォン・ヴァルダウ大尉→ヴェティヘル中尉)
*近衛要塞砲兵連隊・第7中隊(男爵フォン・ウント・ツー・ギザ大尉)
*近衛要塞砲兵連隊・第11中隊(バルヘヴィッツ中尉)
*要塞砲兵第2「ポンメルン」連隊・第7中隊(ヴィルケ大尉)
○ 普第2大隊
大隊長 フォン・デヴィッツ少佐(砲兵第3旅団)
*要塞砲兵第3「ブランデンブルク」連隊・第1中隊(ゴットシャルク大尉)
*要塞砲兵第3「ブランデンブルク」連隊・第2中隊(マッティ大尉)
*要塞砲兵第3「ブランデンブルク」連隊・第3中隊(コルシュ大尉)
*要塞砲兵第3「ブランデンブルク」連隊・第9中隊(ミルリース大尉→ライヒアルト大尉)
*要塞砲兵第3「ブランデンブルク」連隊・第10中隊(ヴィネーケン大尉)
*要塞砲兵第3「ブランデンブルク」連隊・第11中隊(シュルツ中尉)
○ 普第3大隊
大隊長 フォン・ストルプ少佐(砲兵第4旅団)
※進級し別任務に就いたためビューンケ少佐(砲兵第10旅団)に交代。
*要塞砲兵第4「マグデブルク」連隊・第1中隊(マイヤー大尉)
*要塞砲兵第4「マグデブルク」連隊・第2中隊(ヴィッチヒ大尉)
*要塞砲兵第4「マグデブルク」連隊・第3中隊(レオ大尉)
*要塞砲兵第4「マグデブルク」連隊・第4中隊(クレール大尉)
*要塞砲兵第4「マグデブルク」連隊・第14中隊(シュレッカー大尉)
○ 普第4大隊
大隊長 ミュラー少佐(砲兵第7旅団)
*要塞砲兵第5「ニーダーシュレジェン」連隊・第1中隊(カイル大尉)
*要塞砲兵第5「ニーダーシュレジェン」連隊・第7中隊(ブラウンス大尉→ハウプト中尉)
*要塞砲兵第5「ニーダーシュレジェン」連隊・第8中隊(ホフマイヤー大尉)
*要塞砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・第1中隊(ロッホリッツ大尉→シンメルヘンニヒ少尉)
*要塞砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・第9中隊(ヴォンネベルク中尉)
○ 普第5大隊
大隊長 メッツィング少佐(砲兵第8旅団)
*要塞砲兵第8「ライン」連隊・第2中隊(マトネル大尉)
*要塞砲兵第8「ライン」連隊・第4中隊(カウルバッハ大尉)
*要塞砲兵第8「ライン」連隊・第5中隊(キュルレンベルク大尉)
*要塞砲兵第8「ライン」連隊・第13中隊(ノイドルフ大尉)
○ 普第6大隊
大隊長 エック少佐(近衛砲兵旅団)
*要塞砲兵第3「ブランデンブルク」連隊・第5中隊(レンツ大尉)
*要塞砲兵第3「ブランデンブルク」連隊・第13中隊(ティンケンゾンマー中尉)
※この中隊は第6軍団の砲台に勤務し中尉は負傷したためリッヘルス大尉が交代しました。
*要塞砲兵第5「ニーダーシュレジェン」連隊・第12中隊(キューラー中尉)
*要塞砲兵第5「ニーダーシュレジェン」連隊・第15中隊(シュタインメッツ中尉)※最後の2個中隊は砲撃期間途中から参戦しました。
○ 普第7大隊 ※この大隊は1月26日包囲網へ到着。
大隊長 ラウテンベルク少佐(砲兵第5旅団)
*要塞砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊・第1中隊(フォッケ中尉)
*要塞砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊・第2中隊(ステルツェル大尉)
*要塞砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊・第4中隊(エルドマン大尉)
○ バイエルン王国軍予備砲兵第1大隊
大隊長 男爵フォン・ケスター少佐
*B砲兵第1連隊・要塞砲兵第2中隊(リッター・フォン・リンプルン大尉)
*B砲兵第1連隊・要塞砲兵第3中隊(パッサファント大尉)※この中隊は第6軍団の砲台に勤務。
○ バイエルン王国軍予備砲兵第2大隊
大隊長 ツェルラー少佐
*B砲兵第4連隊・要塞砲兵第2中隊の半数(メッツ大尉)
*B砲兵第4連隊・要塞砲兵第4中隊(ゲスネル大尉)
*B砲兵第4連隊・要塞砲兵第5中隊(アンモン大尉)
○ 台装銃隊
隊長 男爵フォン・ヴァンゲンハイム中尉(普第80連隊)
*第5、第6、第11各軍団の歩兵連隊から選抜された下士官兵250名
☆パリ市南正面に対する工兵部隊戦闘序列
・対パリ南正面工兵司令
フーゴ・ヴィルヘルム・フェルディナント・フォン・シュルツ少将(前・第三軍工兵部長)
・同参謀長
ヴュシェル中佐(大本営工兵総監部)
・副官
シューマン少佐(同)、ハイデ大尉(第三軍工兵部)、フォン・クライスト中尉(同)
・塹壕構築担当副官
バイエル少佐(大本営工兵総監部)、ロッテ少佐(同)
・隊付(全員大本営工兵総監部所属)
ベルガー大尉、テーレマン大尉、ボルネマン大尉(後パリ北面工兵攻撃隊付に異動)、ツェッヒ大尉、ジーリッツ大尉、ヴァグネル大尉、オッテン中尉、フェルスター中尉、フォン・カイゼル1号中尉、フォルクマン1号中尉、フランツ少尉
◎ 普軍攻城工兵隊
隊長 ゲオルグ・オットー・ヘルマン・クロッツ大佐(大本営工兵総監部)
○ グール大尉(第6軍団工兵部長)隊
*第6軍団野戦工兵・第2中隊(フォン・ノヴァーグ=ゼーリング中尉)
*第6軍団野戦工兵・第3中隊(グルム大尉)
○ ピルシェル大尉(第5軍団工兵部員)隊
*第5軍団野戦工兵・第2中隊(フンメル大尉)
*第5軍団野戦工兵・第3中隊(ギュンツェル大尉)
○ グスタフ・アドルフ・カール・クリューガー少佐(第11軍団工兵部長)隊
*第11軍団野戦工兵・第2中隊(エッケルト大尉)
*第3軍団要塞工兵・第2中隊(ビルクホルツ大尉)
*第3軍団要塞工兵・第3中隊(ブルーメンザート大尉)
*第4軍団要塞工兵・第2中隊(リュッケ大尉)
*第4軍団要塞工兵・第3中隊(ペーテ大尉)
○ シュルツ少佐隊
*第5軍団要塞工兵・第2中隊(フォン・クレーデン大尉→ステファン中尉)
*第5軍団要塞工兵・第3中隊(ヴェストファル大尉)
*第6軍団要塞工兵・第1中隊(シムリック大尉)
*第10軍団要塞工兵・第1中隊(ペルツ大尉)
*第11軍団要塞工兵・第1中隊(フリューゼ中尉→男爵フォン・アイス中尉)
○ 写真班(ブルハルジー大尉)
◎ B攻城工兵隊
隊長 フォーグト中佐
○B野戦工兵第1大隊から派出
*B野戦工兵第1中隊(イー・ヴァイドネル大尉)
*B野戦工兵第2中隊(ローレンツ大尉)
○B野戦工兵第2大隊(ケルン少佐)
*B野戦工兵第4中隊(シェルス大尉→ディ・ヴァイドネル大尉)
*B野戦工兵第5中隊(ゲルバー大尉→クロイツェル大尉)
○要塞工兵大隊(ヴィンディッシュ中佐)
*B要塞工兵第2中隊(ド・アーナ大尉)
*B要塞工兵第3中隊(ブルカルト大尉)
独第三軍ムードン砲列の第16号砲台




