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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・独南軍と仏東部軍
476/534

リゼーヌ河畔の戦い(終)/仏東部軍の後退(1月17日以降)


☆ 南部戦線の戦闘(1月17日)


 この前2日間、激しい攻防が繰り広げられたビュシューレルではフリードリヒ・カール・ヴィルヘルム・ザックス大佐の支隊が、ヨハン・オットー・カール・コルマー・フォン・デブシッツ少将率いる支隊から派遣されたブレスラウ第2後備大隊によって強化されましたが、この日も仏第24軍団の前衛は部落と鉄道堤の独軍に対し、一時は激しい銃砲撃を加え部落はまたもや炎に包まれました。しかし、仏軍は前進することなく緩慢な砲撃を続けるだけで時間ばかりが過ぎて行き、日没を迎えてしまいます。

 その南側、ベトンクールでは前深夜から警戒に就いていたBa擲弾兵第1「親衛」連隊第1大隊が早朝、ラ・グランジ・ダム農家の高地に進んで連隊に復帰し、入れ替わりにデブシッツ支隊のラウバン後備大隊が部落東方の高地に進んで予備隊となります。しかしこの日、ベトンクールでは戦闘らしい戦闘は発生することがありませんでした。


挿絵(By みてみん)

モンベリアールに進む独軍


 モンベリアール市街では、うるさい蠅のように城塞を攻撃する仏第15軍団兵を抑えるため、早朝よりラ・グランジ・ダム高地と市街南縁にある城塞から激しい砲撃が市街地に加えられます。これはほぼ無差別の砲撃で市街地は無惨な有様に変わって行きますが、程なく白旗を掲げた民間人が城塞前に現れ、市長代行を始めとするその「陳情団」は、既に市街地には一切仏軍将兵が存在していない旨を宣言し、「無辜な市民に被害が続出しているので、これ以上の砲撃を止めて頂けないか」と懇願するのでした。これを受け、独軍は朝の内に市街地への砲撃を中止するのです。

 「仏軍、モンベリアールより撤退」との報により、市街地東方に控えていたインスターブルク後備大隊はモンベリアール停車場(現在も同じ位置・市街地東縁に沿ってあります)へ進んでこれを占拠します。そして停車場南隣の城塞まで進んだ後備兵たちは二昼夜頑張り抜いたフォン・オルスチュヴスキ少佐率いる城塞の守備兵と固く握手を交わすのでした。

 しかし、モンベリアール市街は放棄したものの仏第15軍団は未だ進撃の機会を窺っており、モン・シュヴィ農場(モンベリアール城の北西2.3キロ)付近に構えた仏軍砲兵は対面するラ・グランジ・ダムの独軍砲列と激しい砲撃戦を再開するのです。

 午前10時になると、仏軍はモンベリアール西方の諸高地上や森林縁に歩兵を進出させ、ル・ブルジョワの森(モン・シュヴィ農場の北にある森林。現存します)とベトンクールとの中間地帯で前哨同士の小競り合いも発生しました。正午には砲撃戦が一段と激しくなり、これは仏軍の攻撃前兆と捉えたハインリッヒ・カール・ルートヴィヒ・アドルフ・フォン・グリュマー中将は麾下に警戒を命じますが、案の定、程なくおよそ10個大隊と推定される仏軍歩兵の一大集団がブルジョワ森やモン・シュヴィ農家付近から前進を開始、ラ・グランジ・ダム高地からモンベリアール北西部に向かって攻撃展開するのです。


挿絵(By みてみん)

リゼーヌ河畔で散兵線を作る仏軍


 仏軍の先鋒となる散兵群はかなり遠方から射撃を開始し、交互に援護射撃を行いつつ前進を強行しますが、地形によってその進撃方向はラ・グランジ・ダムの陣地に対し斜向していたため、その左翼(北)側はラ・グランジ・ダムの独砲兵から格好の目標となってしまい、完全な側撃を受けてしまうのです。この時、独軍砲列にはBa軽砲第1中隊が加わり、砲火は仏散兵群左翼を散り散りに分断し、ただ少数の仏散兵がリゼーヌ河畔に到達しただけでした。

 一方の仏軍右翼では多くが旧要塞の丘(アンシエンヌ・シタデル。モンベリアール城の北西1.7キロ)まで辿り着き一部は市街地に侵入しますが、停車場と鉄道堤に展開したインスターブルク後備大隊と、後備大隊を追って肩を並べたBa擲弾兵第1連隊第12中隊とによって激しい銃撃を浴び、やがて仏軍先鋒は独兵と白兵に及びました。

 しかし、この攻撃も尻つぼみに終わり、仏軍は午後2時に退却に移りました。但し、一部の将兵は旧要塞の丘に居座り夜に至ります。


挿絵(By みてみん)

ラ・グランジ・ダム高地の独軍


 午後3時に城塞から偵察に出た斥候隊は市街地西の街道口まで進みますが、リゼーヌ川対岸には未だ仏兵が隠れ潜んでおり、短時間ですが川を挟んで銃撃戦も勃発しました。なお、この斥候隊は市街地で民家より銃撃を受け、これを聞き及んだグリュマー将軍は市当局に対し罰金を課しています。

 夕刻になると、最早仏軍の退勢は確実視され、緒戦で大損害を受け南部戦区予備となっていたマリーエンブルク後備大隊はグリュマー将軍の命令により軍団総予備へ送られることとなり、ブルヴィリエに向かって行軍し去ります。ハンス・ルートヴィヒ・ウード・フォン・トレスコウ少将が攻囲網から派遣した第67「マグデブルク第4」連隊の第1大隊もまた夕刻までにブルヴィリエへ至るのでした。


挿絵(By みてみん)

モンベリアールの戦闘


☆ 17日・その他の戦区


 この日もまた、デブシッツ将軍の戦区(クロワ~オダンクール間)では時折銃声が響くのみで終わります。


 独軍の右翼外にある男爵カール・ゲオルグ・グスタフ・フォン・ヴィリゼン大佐支隊は17日早朝、フランツ・アントン・ケラー少将からシュヌビエ奪還攻撃の通報を受け、同時に男爵アルフレッド・エミール・ルートヴィヒ・フィリップ・フォン・デーゲンフェルト少将がフライエ(=エ=シャトビエ)を再占領したことを伝えられると、急ぎシャンパニー(フライエの北西6.9キロ)とロンシャン(シャンパニーの西4キロ)に進んで未だ仏軍が現れていないことを確認し再占領しました。

 一時的(前日16日)にヴィリゼン大佐に同調していたベルフォール攻囲網のテオドール・ヨハン・ゲリッケ大佐隊は、セルママニー(ベルフォールの北6.4キロ)とエヴェット(=サルベール。フライエの東北東4.5キロ)に再展開し北方警戒に戻るのでした。


 独第14軍団長伯爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・レオポルト・アウグスト・フォン・ヴェルダー歩兵大将はこの17日夕刻、ここまでにブルヴィリエへ至った戦況報告と自らの観察結果により、「仏ブルバキ軍はこれ以上の東進攻撃を断念した」と断じました。

 仏軍この日の行動は並べて「危険の少ない方法で退却することに腐心している」と結論付けられ、特にビュシューレルの西方ではこの日午後仏軍(第24軍団)の退却運動がはっきりと認められ、多くの仏軍縦隊が西に向かって出立して行くのを独軍前哨が競って報告したのです。


☆ 仏東部軍(1月17日)


この17日は仏東部軍の命運を決する日となるはずでした。ブルバキ将軍は左翼(北)側の攻勢によって前線全体を活気付け、軍の総力を挙げてリゼーヌ川を突破しベルフォールへ迫るつもりで、更にベルフォールからの守備隊出撃も期待していましたが、結局は全て不発に終わるのです。

 意気消沈したブルバキ将軍の下に、無情にも更なる不幸を予感する報告が届けられました。

「ディジョン方面に敵大軍現る」 

 仏東部軍とヴォージュ軍との連絡、更にはパリ方面との連絡を断たれる恐れが出て来たのです。


 ブルバキ将軍は同17日正午頃、自ら騎行して戦線を一巡し、各地で高級指揮官たちの意見を求めました。将軍は一縷の望みとして敵に一矢を報いる一撃を期待しますが、無情にも一部を除く軍団長以下指揮官たちは口を揃えて「軍の士気は最早回復不能までに低下し、将兵は極度の疲労と飢餓、そして恐ろしい寒気に打ちのめされて戦線を突破することなど不可能となった」と訴えるのでした。


 確かに東部軍の士気並びに兵站物資の状況は時間単位で悪化し弱体化していました。兵士は過労で動くこともままならぬ者が大多数で、何もかもが氷結する寒気によって糧食輸送は絶望的な遅延を招いています。酷使に疲れ果て、ろくな糧秣を与えられていない馬匹はあばらが浮いてまるで骸骨のようで、空腹に耐えかねて目の前の物を何でもかじりました。氷結した細い林道では、人間も馬匹も一度でも倒れたならば二度と立ち上がることが出来ませんでした。

 午後3時。シャジェを望む西側森林高地で仏第18軍団長ジャン=バティスト・ビオ少将が作戦会議を開催し、北方で敵と睨み合うジェローム=イヤサント・パノアット提督を除くエドゥアール・ロマン・フェイエ=ピラートリとボンネ両師団長始め連隊長など第18軍団の主だった指揮官たちが集合します。

 ビオ将軍は「パノアット、クレメー両師団が踏ん張る戦線最左翼側に軍団を集中し、敵右翼を包囲するため更に迂回路を取って北上してはどうか」と問いますが、これに対し「既に兵站補給は瓦解し、特に糧食も絶えているので不可能」との声が挙がり、「左翼に向かえばモンベリアール付近の独軍が攻勢に転じた場合、一気に我が後方連絡を絶たれる可能性がある」との意見も出ました。


 この時の仏東部軍の状態を独公式戦史は以下のように描写します。

「仏軍の状況は極めて劣悪であり、このためブルバキ将軍は最後の攻勢によって僥倖を得ようと期待するもののそれは端から不可能であった。仏軍将兵は極寒の二晩を野営するか徹夜で警戒に当たって前線にあり、この間大多数が糧食を得ず、我が軍によって大損害を被った部隊も数多く、困窮に耐えし将兵はみな徒労に終わる戦闘を忌み疲れ果て、挙げ句フォン・マントイフェル将軍麾下の進撃を聞き及ぶに至った。(筆者意訳)」


 実はブルバキ将軍ら東部軍本営は、「フレシネの忠犬」ドゥ・セールを通じて1月12日にはボルドーから発せられた独第2、第7軍団の進撃情報を得ていました。16日にはコート=ドール県知事より「普軍の先頭イス=シュル=ティーユ(ディジョンの北23キロ)並びにフォンテーヌ=フランセーズ(同北東33.4キロ)に侵入せり」との警報が発せられています。

 この県知事の警報が何時ブルバキ将軍の下に至ったのかは不明ですが、この警報がブルバキ将軍の次の決定に大きく影響したことは確実でしょう。


 ブルバキ将軍はビオ将軍や軍予備団のパリュー・ドゥ・ラ・パリエール准将など未だ闘志を燃やし進撃を訴える一部指揮官の言に対し首を横に振り、涙を浮かべて「総退却に移る」と命じたのでした。


 この夜、ボルドー派遣部に向けて発したブルバキ将軍の報告電文には「本官は諸官の意見を聞き、誠に遺憾ながら現在の戦線を数キロ後方まで後退させ、新たな戦線を構築することに決しました」とあり、また「我が軍の後退時に敵が追撃を行うのであれば、それは我が思う壺であり、軍は再び決戦を挑む機会を得るものと考えます」と些か無理のある文面となっていました。


 独公式戦史は突き放すように記します。

「往々にして軍隊が一旦退却行を開始し、その後速やかに攻勢へ転じることは不可能であることなど老獪な将軍であれば誰しもが理解するところである。ブルバキ軍としても撤退後速やかなる反転攻勢に出ることは無理であること明らかであったが、当軍が窮余幾ばくかの成果を上げるためには、この不可能事を直ちに行うしかなかった。何故ならば数日後には新たな独二個(第2、7)軍団が接近し来てブルバキ軍に対することが予期されていたからで、リゼーヌ流域においてこのままヴェルダー軍団を撃破出来ないのであれば、仏東部軍は極めて危険な立場(東西からの挟撃)となるのである。(筆者意訳)」


 「リゼーヌ河畔の戦い(別名・エリクールの戦い)」3日間(1月15日から17日)における仏東部軍の損失(戦死・負傷・捕虜)は約8,000名、対する独第14軍団は1,663名(馬匹153頭)、内訳は戦死251名(士官12名・下士官兵239名・馬匹86頭)、負傷1,067名(士官48名・下士官兵1,019名・馬匹67頭)、捕虜345名(全て下士官兵)でした。

 なお、最も多くの損害を出した連隊はBa第4連隊で、3日間の総計は戦死48名・負傷169名・捕虜52名、次いでBa第3連隊が戦死53名・負傷177名・捕虜32名と報告しています。

 独軍は約45,000名、砲146門でほぼ3倍するブルバキ仏東部軍を敗退させたのです。

 これによりベルフォール要塞の命運は尽きたと思われ、攻囲網後方連絡の安全も確保されることとなるのでした。


挿絵(By みてみん)

シャジェの1871年戦闘記念碑


☆ 1月18日


 17日夜間。

 モンベリアールの西郊から仏第15軍団は後退し始め、その退却は騒々しく独軍に知られても構わないといった風でした。

 この南方戦線ばかりでなく仏軍前線からは終夜喧噪が聞こえ、多数の馬車の音に混じって何故か土木工事を行っているような騒音も聞こえるのです。

 18日朝。明けて見れば、独軍前哨の前に仏軍の新たな散兵壕や土塁が出現しており、そこでは未だ仏兵が構え、シュヌビエ方面では攻撃前進の前兆と思しき行動も望見されたのでした。このためケラー、デーゲンフェルト両将軍は軍団本営に増援を要請し、警戒態勢を高めます。ところが、午後になるとケラー将軍は斥候から「前線の仏軍がエトボンやベルヴェルヌ(シュヌビエの西南西5キロ)方向へ撤退し始めた」との報告を複数受け、将軍は直ちにシュヌビエへ向けて麾下を進め、午後2時、仏軍の去ったシュヌビエを占領するのでした。


 独軍右翼外、単独行動で警戒を怠らないフォン・ヴィリゼン大佐は、この日ロンシャンで思いがけない増援を得ます。これは去る12日にサン=モーリスへ向かったオットー・エルンスト・グスタフ・ライレ大尉率いるBa第6連隊第2大隊の両翼(第5,8)中隊で、過酷なヴォージュ山脈を降りて来たものでした。

 これ以前にヴィリゼン大佐麾下の予備猟兵は、リュールに至る二つの街道(現・国道N19号線とD438号線)を偵察するため斥候に出、ルコローニュ(ロンシャンの西南西1.6キロ付近。ラアン河畔で南方マニー=タニゴンへの小街道分岐点です)とクレールグット(同南4.1キロ)付近で仏軍の小部隊と遭遇し「小競り合い」を起こしています。大佐は勇敢なライレ大尉の参加を得てこの仏軍を駆逐することを考え、大尉等が暫し休憩した後にBa両中隊に予備猟兵の第1中隊、そして竜騎兵1個小隊を付けてクレールグットに向けて送り出しました。ヴィリゼン大佐はクレールグットを攻撃することでラアン渓谷にあるルコローニュからも仏軍を撤退させ、リュール~ベルフォールの主街道を明け渡させよう、と考えたのです。

 ライレ大尉は麾下Ba両中隊を先頭に猟兵を予備として前進し、クレールグット部落を北方と東方から包囲した後、北郊にあった煉瓦工場に突入して拠点とすると続けて部落内へ乱入しました。

 この戦闘は案外激しく長時間に渡り、銃撃戦は黄昏時まで続きますが、夕闇が迫ると仏軍は次々に持ち場を離れて後退して行きました。ライレ大尉はこの日士官1名・下士官兵60名を捕虜としています(損害はライレ隊が死傷14名、予備猟兵が負傷9名・捕虜1名)。

 ヴィリゼン大佐はこの18日、フライエから前進して来たケラー将軍麾下のオイペン後備大隊、Ba騎砲兵中隊、野砲兵第7連隊の予備重砲中隊、野砲兵第12連隊の予備軽砲第2中隊を迎え入れ、支隊に編入しました。


 仏軍(第18と第20軍団)はこの18日、シャジェ、リューズ、そしてエリクールの前面に対しそれなりの規模の散兵群を出現させ、前日は見せなかった積極性でリゼーヌ川への前進を図りました。対する独軍は砲撃によって対処し、前線の独将兵は散兵線に並んで緊張し待ち受けますが、砲撃を受けた仏散兵群はあっけなく退却してしまうのです。また仏軍は一部砲兵を前進させ対抗砲撃も行わせますが、いずれも短時間で姿を消しています。これは撤退前に一旦攻勢と見せ掛けることで追撃を避けようとする陽動と思われますが、最後まで進撃に拘ったビオ将軍の「足掻き」だったのかも知れません。

 とはいえ撤退運動に入っても未だ仏軍が侮れない戦力であることは変わらず、エリクール以北シャジェまでを管轄する男爵アレクサンダー・エデュアルド・クーノ・フォン・デア・ゴルツ少将は18日早朝、サン=ヴァルベールから歩兵2個中隊(所属不明)を西進させ、この部隊はコミュノの森(サン=ヴァルベール西郊)で強大な仏軍と遭遇、激しい戦闘に巻き込まれ損害を受けて後退しました。同じく早朝、第30連隊の一小隊は15日以来仏軍の前進拠点となっていたクチュナンへ前進し、居残っていた仏部隊と戦闘状態になりますが、午後になって独側が増援を送り込むと仏軍は撤退し部落は3日振りに独軍の手に落ちました。

 後退が始まった仏軍縦隊を砲撃するため、フォン・デア・ゴルツ将軍はムニョ山に砲兵1個小隊を送り、ヴォドワ山中腹に砲台を構えるシュヴェーダー大尉の12センチカノン砲7門もこの砲撃に参加して仏第18軍団主力がいると思われたビャンを砲撃し部落を炎上させました。

 この戦線後方への砲撃は南部戦線でも行われ、モンベリアール城塞の重砲やラ・グランジ・ダムの野砲陣は後退しつつある仏第15軍団の縦隊を狙って射撃を行っています。


 モンベリアールの西方では仏軍後衛と思われる兵力がル・プティ・ベトンクールからサント=シュザンヌに至る円弧状の森林地帯に潜み、モン・シュヴィ農場付近では未だに陣地の強化(交通壕の掘削や散兵壕の強化)が続けられていました。夜に入って独前哨がリゼーヌ沿岸から宿営に引き上げると、旧要塞の丘に再び仏軍部隊が登って来るのが見えるのです。


挿絵(By みてみん)

モンベリアール市街で戦う仏ズアーブ隊


☆ フォン・デブシッツ支隊の攻勢(1月18日)


 対峙する仏軍が数こそ多いものの自軍より士気・装備共に劣ると感じていたフォン・デブシッツ少将はこの日、フォン・ヴェルダー将軍の訓令を得て初めて攻勢に出ます。


 デブシッツ隊右翼(北側)ではエクサンクール(モンベリアールの東南東3キロ)からヒルシュベルク後備大隊長プリンクマン少佐が指揮を執る支隊*がアルブーアン(エクサンクールの南西1.7キロ)へ進み、ドゥー川対岸に陣取る仏軍部隊を榴弾で砲撃しこれを駆逐します。その後少佐は川に沿って南下しヴァランティニー(同南4キロ)の東岸にある複数の民家を占拠すると目前の橋を破壊して落とすのでした。


※1月18日のブリンクマン隊

○ヒルシュベルク後備大隊・第3,4中隊

○ティルジット後備大隊・第3中隊(予備第4師団)

○Ba要塞砲兵・出撃砲兵中隊(砲4門)

○槍騎兵1個小隊(所属不明)


 その後ブリンクマン少佐はダスル(ヴァランティニーからは東北東に4.5キロ)からやって来たキーゼル大尉率いるエルス後備大隊の第2,3中隊と野砲兵第8連隊予備軽砲第1中隊の1個小隊(2門)と合同し、この数日間仏軍が宿営し拠点としていたボンドゥヴァル(同南南東2.1キロ)も占領するのでした。


 同じ頃、リーグニッツ後備大隊長ユリウス・カール・フォン・ゾーテン少佐は一支隊*を率いてヴァンダンクール(ダスルの南南東1.4キロ)を出撃し、ドゥー川支流グラン川沿岸の仏軍拠点エリモンクール(ヴァンダンクールの南南西3.2キロ)を襲撃して仏守備隊を追い出すとこれを占領しました。ゾーテン少佐は逃げる敵を追ってトゥレからロシュ=レ=ブラモン(エリモンクールの南南西4.3キロ)に至り、夕闇迫ったためここで野営に入ります。翌早朝仏軍が奪還攻撃を掛けて来ますが、少佐等は返り討ちにして撃退するのでした。


※1月18日のゾーテン隊

○リーグニッツ後備大隊・第1,2中隊

○ヤウエル後備大隊・第4中隊

○ヒルシュベルク後備大隊・第2中隊

○野砲兵第8連隊予備軽砲第1中隊の2個小隊(砲4門)

○槍騎兵1個小隊(所属不明)


 同じくデブシッツ隊左翼(南側)ではアーペンラーデ後備大隊長伯爵オットー・フォン・デア・シューレンブルク大尉が一支隊*を率いてクロワを出撃し、スイス国境に近いアベヴィエ(エリモンクールの東南東2.8キロ)を襲いました。しかしこの地にいた仏軍は砲兵も擁しており、頑強に抵抗して激戦となってしまいます。シューレンブルク隊は約60名の損害(戦死11名・負傷48名・馬匹10頭)を受けつつも粘り強く戦い、夕刻に至る長時間の激戦の果てに部落とその南方の高地から仏軍を駆逐することに成功するのです。若い伯爵大尉は疲弊しつつも戦意の衰えない部下を率いて敵を追撃し、夜陰に沈む中でグラン川上流のメリエール(アベヴィエの南西2.8キロ)とグレ(メリエールの南1.3キロ)をも占領するのでした。


※1月18日のシューレンブルク隊

○ストリーガウ後備大隊・第1,3中隊

○アーペンラーデ後備大隊・第6,7,8中隊

○ヒルシュベルク後備大隊・第2中隊

○野砲兵第8連隊予備軽砲第2中隊の2個小隊(砲4門)


 夕刻までにグラン川流域を制した各隊は斥候を対岸へ送り、捕虜や住民を尋問しますが、その情報全てが「ドゥー川西岸に仏軍が充満している」と告げるのです。

 この日の成功に満足しつつ、未だ自軍に数倍する仏軍が直ぐ近くに潜むことを知ったデブシッツ将軍は、貴重な部下を夜戦の危険に晒さぬため比較的戦力が高く損害(34名)の少なかったゾーテン隊以外の諸隊を深夜までに元の陣地線(エクサンクール~クロワ)まで引き下がらせたのでした。


☆ ベルフォール攻囲の再開とリゼーヌ戦線の編成変更


 1月18日夕。フォン・ヴェルダー将軍とその幕僚たちは各地から集まった戦況報告を受け、「仏軍は完全に退却状態にあり、翌日もリゼーヌ戦線を離れる行動を続けること確実」と判断、ヴェルダー将軍は手薄となっていたベルフォール攻囲網を再興することに決します。


 ベルフォール要塞に籠るダンフォール=ロシュロー大佐率いる守備隊は「リゼーヌ河畔の戦い」中、16日にエセール(ベルフォールの西3.5キロ)に向けて出撃しますがその兵力は少数で、攻囲網西側にあった第67連隊F大隊により簡単に撃退されてしまいました。そもそもこの出撃は「解囲」を図ったものではなく、西から近付いていると思われる仏東部軍方向へ出撃する場合、攻囲網西側の敵が仏東部軍と戦うために戦力低下しているかどうかを探るためだった、と言われています。ダンフォール大佐としても仏東部軍の前進を期待したものの、自ら出撃する程には守備隊の兵力や野戦能力が高くはなかった、ということでしょう。

 一方、攻囲兵団のウード・フォン・トレスコウ将軍も、麾下の半数程度をヴェルダー軍団本隊に派遣し、攻囲網は危険な程少数の兵力で維持されますが、リゼーヌ河畔で激戦が繰り広げられていた最中でも攻城砲台の増設が行われていました。


※1月10日以降16日までに築造開始された独ベルフォール攻囲兵団攻城砲台

*21号砲台 27センチ滑腔臼砲x2門、21センチ施条臼砲x2門

*22号砲台 仏製(鹵獲)15センチカノン短砲身カノン砲x4門

*23号砲台 15センチカノン砲x4門

*24号砲台 15センチカノン砲x4門

*25号砲台 12センチカノン砲x5門


挿絵(By みてみん)

ベルフォール攻城砲台(21から25号)


 これらの砲台は13日から翌日に掛けて激しい攻防のあったグラン・ボワ森(ベルフォール要塞の南南西3.2キロ付近。現存します)北東端のサヴルーズ河畔(対岸はダンジュータン部落)から西側の鉄道堤までの間に築造され、14日に25号、17日に24号、18日に23号の各砲台が完成、難工事となった22号砲台は21日、21号砲台は28日に完成するのでした。


 1月18日夕には1月11日まで攻囲網で従事していた諸隊が全て攻囲兵団へ復帰し、フォン・デブシッツ将軍はその任地をモンベリアール市街まで広げることを命じられます。

 普予備第4師団のオストプロイセン後備旅団長ロベルト・フォン・ツィンメルマン大佐はモンベリアール北郊からリューズに至るまでのリゼーヌ沿岸を警備する責任者に任命されました。


 危機が去った今、フォン・ヴェルダー将軍ら独第14軍団本営は、先ず多数に及んだ負傷者の救護(厳寒は負傷者の死亡率を高めていました)と兵站と糧食の危機的不足を「待ったなし」に処置することが求められます。攻囲兵団のU・トレスコウ将軍は、攻囲網のために備蓄を進めていたダンヌマリー(独名ダンマーキルヒ。ベルフォールの東19.2キロ)の兵站倉庫群を解放し、欠乏する物資・糧食を各地へ緊急搬送させますが、広範囲に広がる戦場の隅々まで行き渡るには少量に過ぎ、腹を空かせて寒さに凍える前線の将兵は、敵が去ってもまだまだ栄養不足から来る疾病や凍傷の恐怖と戦わねばなりませんでした。

 同時に後衛を残して去った仏東部軍の様子を探り、接触を失わずに撤退方向を確認するという重要な任務もありました。

 とはいえ、先ずは3日間の激戦で各地に分散配置されたBa師団の集合が緊急課題となります。

 19日、モンベリアールの周辺で戦ったBa諸隊は、フォン・デブシッツ将軍の後備兵と交代し、師団長のフォン・グリュマー将軍が直率して北上を開始します。グリュマー師団長は、ブルヴィリエ周辺やシャロンヴィラールで待機していた麾下将兵を縦隊に加えるとフライエ=エ=シャトビエに進みます。将軍はここで軍団本営から「フライエ~エトボン間に向け展開し、その前衛はベルヴェルヌまで進む」よう命じられました。


 シャジェで戦ったフォン・デア・ゴルツ将軍と、エリクール在の予備第4師団長フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュメリング少将は、それぞれの前衛を前進させ、互いに連絡を密としつつソルノ(エリクールの西9.7キロ)とアルセ(同南西9.5キロ)を奪還するよう命じられますが、同時に「いかなる場合でもそれ以上の前進を禁ずる」と厳命されました。

 軍団本営は麾下諸隊に対し、「(敵と接触しても)本格的な戦闘に至らぬよう」「敵を発見したならば接触を継続し、敵の宿営地を発見したならば騒擾を引き起こして敵を疲弊させ、諸街道では落伍兵を捕虜として情報収集に努めるよう」訓令を発します。

 フォン・ヴェルダー将軍としては「満身創痍状態の軍団では未だ数的優位に立つ仏東部軍とこれ以上本格的な戦闘を行うことは無理」、と考え、南下してディジョンやグレーに接近しつつある男爵エドウィン・カール・ロテェス・フォン・マントイフェル騎兵大将率いる「独南軍」主力となる第2と第7軍団と出来るだけ早期に連携することを望んでいたのです。


挿絵(By みてみん)

ヴェルダー将軍と第14軍団幕僚


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