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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・独南軍と仏東部軍
475/534

リゼーヌ河畔の戦い/1月16日から17日・シュヌビエ攻防戦


☆ フォン・ヴェルダー将軍と独第14軍団本営(1月16日)


 3倍する仏東部軍と戦うアウグスト・フォン・ヴェルダー歩兵大将は、この日も各地へ臨機に増援を送り出し、そのために減った予備隊を補充するため腐心しました。

 先ずは比較的大きな動きの見られないフォン・デブシッツ少将の戦区*から2個大隊を引き抜くことを決定し、午後5時15分には南部戦線を指揮するフォン・グリュマー将軍に対し左翼諸隊から戦況の許す限り離脱可能な部隊を引き抜き、予備隊に編入させることを命じました。


※デブシッツ支隊はこの日、午後2時と午後4時の2回ダスル~ヴァンダンクール間に現れた仏軍と交戦し、この仏軍(ロラン准将のブザンソン集団)は2回目に砲兵も繰り出して来ましたが終始銃砲撃戦のみで前進することなく、結局日没とともに仏軍は引き揚げました。


 ビュシューレルでは連日の戦闘で危険域まで疲弊し尽くしたダンツィヒ後備大隊に後退命令が下り(予備隊に編入されます)、ブルヴィリエ在の予備隊からBa第5連隊第2大隊が代わって配備に就くこととなります。この交代は16日午後7時過ぎに行われ、それ以前の夕刻にフランツ・アントン・ケラー少将率いるBa第4、同第5両連隊のF大隊とBa重砲第5中隊も前線から一旦ブルヴィリエへ退くよう命令され鉄道堤の前線を離れました。ケラー将軍はこの際にヴェルダー将軍からマンドルヴィラール(ブルヴィリエの北3.5キロ)で新たに編成される軍団総予備の指揮官になるよう命じられたのでした。


 一方、ベルフォール攻囲兵団のウード・フォン・トレスコウ少将は翌日早朝にグリュマー将軍の下へ麾下第67「マグデブルグ第4」連隊第1大隊を送る準備を命じ、また同連隊のF大隊は16日深夜、任地の対壕内で密かに後備兵と交代しシャロンヴィラール(マンドルヴィラールの北3キロ)へ進む準備を成すよう命じられます。U・トレスコウ将軍はこの貴重な正規兵2個大隊をリゼーヌ戦線へ投入することをヴェルダー将軍に具申し、同時に仏東部軍左翼によって脅かされつつあるゲリッケ大佐の北部包囲網を強化するよう命じるのでした。

 これらの命令により、デブシッツ隊の2個大隊はグリュマー隊に加入するためソショー(モンベリアールの東2.5キロ)へ行軍し、同時にグリュマー将軍は2個大隊をケラー将軍の総予備隊に向けて送り出しました。

 しかし、北部戦線の危機を知ったヴェルダー将軍はケラー将軍に指揮権を与えて別任務を命じ(後述)、結果17日早朝に総予備隊は歩兵4個大隊、騎兵4個中隊、砲兵2個中隊となりました。


※1月17日・朝の独第14軍団総予備隊

○Ba擲弾兵第2「プロシア王」連隊・第1、2大隊

○第25「ライン第1」連隊・第2大隊

○ダンツィヒ後備大隊(午前9時に到着)

○Ba竜騎兵第2「マルクグラーフ・マクシミリアン」連隊・第3,4中隊

○Ba竜騎兵第3「カール親王」連隊・第4,5中隊

○Ba重砲第5中隊

○Ba騎砲兵中隊


 16日夜から17日早朝に掛けて、独軍後方諸縦列は残量少ない糧食や危機的な不足状況にある弾薬を出来る限り前線に送って切に補充を願っていた前線諸隊の希望を叶え、前線においても可能な範囲で弾薬を融通し合い再配分して朝に備えたのです。


 この宵の口、ヴェルダー将軍の本営では将軍始め幕僚たちが仏軍今後の行動について検討しますが、一部で仏軍に意図不明な行動が見られたことで困惑してしまいます。

 これは夜に入ってデーゲンフェルト将軍からもたらされた「敵はフライエ=エ=シャトヴィエから撤退した」との報告によるもので、この行動は一見総退却の前兆と想像されるものの、独軍の目を盗んで同地から8キロしか離れていないベルフォールへ迂回して向かう前兆行動かも知れず、またこの日(16日)仏軍唯一の成功とも言える独右翼側戦線の突破によって、これまで全前線で行って来た敵の攻勢が明日は右翼北側に集中して行われる可能性が生じて来たのでした。

 いずれにしてもデーゲンフェルト将軍は現在、「ムーラン・ルージュの丘」でベルフォールへの街道を塞いでいるとはいえ、この陣地はムニョ山のような攻略し難い拠点ではなく、また南方に迂回可能な場所でもあって、疲弊したBa兵2個大隊だけでは2個師団と思われる敵の前進を阻止出来ないこと明らかでした。


 ヴェルダー将軍はこの日の戦況報告に次々と目を通し、参謀たちの意見に耳を傾けつつ、「明日の状況がどうなろうとも」直ちに右翼における不利を解消し戦線を立て直す必要がある、と断じるのでした。


挿絵(By みてみん)

リゼーヌ戦中のヴェルダー将軍と本営幕僚たち(1月16日)


 午後8時。ヴェルダー将軍はケラー将軍に対し「マンドルヴィラール付近に集合した麾下から砲兵を除き直ちに北上し、デーゲンフェルト支隊と連動してフライエを完全に掌握しシュヌビエを奪還せよ」と命じます。同時に全軍に対し、「翌朝7時に各自前日陣地に戻り戦闘準備を終えよ」と命じたのでした。


 しかしこの夜は両軍とも安眠を貪ることが出来ません。


 午後7時過ぎにベトンクールで独前哨交代の際に仏軍が「ちょっかい」を出し一時は激しい銃撃戦となり、ベトンクール部落は猛銃撃を浴びてしまいます。この銃撃音は周辺の前線に伝わってドミノ倒しのように銃撃戦が始まり、不安定な夜戦を避け統制を取り戻そうと躍起になる両軍指揮官必死の努力で夜半前にようやく静まったのでした。

 当時サヴルーズ河畔で万が一の友軍後退時に収容部隊となるためシャトノワ=レ=フォルジュ(ベトンクールの北東4.8キロ)で待機中だったBa擲弾兵第1連隊の第1大隊は、銃声を聞いてベトンクールへ駆け付けますが到着時には既に事態は収まっており、大隊は念のため部落付近で警戒しつつ夜を明かすのでした。

 ほぼ同時刻、ビュシューレルでは逆に独軍が面前に居残る仏軍前哨に対し騒擾目当ての襲撃を仕掛けますが、仏軍は過剰に反応してお返しとばかりにエリクール面前の独軍橋頭堡となっていたムニョ山とサン=ヴァルベールを攻撃するのです。この攻撃は独軍第一線で警戒中だった前哨によって撃退されますが、この騒ぎでエリクール地域を守備するクナッペ・フォン・クナップシュタット大佐麾下諸隊や、リューズ及びシャジェを守るフォン・デア・ゴルツ少将麾下の諸隊は叩き起こされて緊急集合し、大部分が翌朝午前3時まで警戒態勢を取る羽目となり、不運な一部将兵は前線で武器を手に徹夜することとなったのでした。


挿絵(By みてみん)

サン=ヴァルベールの教会(20世紀初頭)


☆ エヴァンの森とシュヌビエの戦闘(1月17日)


 Ba第3旅団長のケラー将軍がヴェルダー将軍から命じられたフライエ確保とシュヌビエ奪還作戦により、凄惨な「リゼーヌ河畔の戦い」も終盤戦に入ります。


 ケラー将軍が軍団本営からの命令を受領したのは、16日午後8時半と記録されています。

将軍は直ちにシャジェ在のフォン・デア・ゴルツ将軍へ連絡士官を送り、自身が受けた命令を伝え「歩兵1乃至2個大隊でシュヌビエ攻撃の助攻をお願い出来ないか」と要請するのでした。ケラー将軍はその返事を待たず(フォン・デア・ゴルツ将軍なら必ず増援を派出してくれるとの信頼でしょう)、午後11時に麾下のBa第4、同第5両連隊のF大隊(ビュシューレルから引き上げた直後に命令が下り、休む間もなく慌ただしく弾薬補給や寂しい食事を取りました)を率いて出立し、日付が変わって夜半過ぎムーラン・ルージュの丘に到着しました。ケラー支隊はそのままフライエへ向かうと、既に同地はシュテファン・バイエル大佐支隊とオイペン後備大隊によって再占領されていたのです。これは仏軍が去ったとの斥候報告を受けたフォン・デーゲンフェルト将軍が命じた結果でした。

 この時、U・トレスコウ将軍が送った第67連隊のF大隊もフライエに到着(包囲網からの離脱に手間を取り遅延したものです)、これでケラー将軍は臨機に歩兵8個大隊・騎兵2個中隊・砲兵4個中隊という増強1個旅団に相当する兵力を指揮することとなったのです。


※1月17日午前2時頃のケラー支隊

○Ba第3連隊・第1、F大隊

○オイペン後備大隊(6個中隊制)

○Ba第4「ヴィルヘルム親王」連隊(3個大隊)

○Ba第5連隊・F大隊

○第67連隊・F大隊

○Ba竜騎兵第3連隊・第1中隊

○Ba竜騎兵第2連隊・第2中隊

○Ba重砲第2中隊

○予備第4師団砲兵・軽砲第3中隊

○野砲兵第12「ザクセン王国」連隊・予備軽砲第2中隊

○野砲兵第7連隊・予備重砲中隊

*Ba竜騎兵第2連隊・第5中隊はフォン・ヴィリゼン大佐支隊との連絡任務で離脱


 ケラー将軍は先ずフライエ西郊にBa第5と第67両連隊のF大隊にオイペン後備大隊を集合させ、シュヌビエ攻略の先鋒(右翼)縦隊とします。同時にBa第4連隊にはリゼーヌ渓谷をクルシャン(シュヌビエ南郊の家屋群。部落中心から南へ1キロ)に向けて行軍することを命じました。

 ケラー将軍は黎明前の暗闇を懸念し集合した諸隊に対して「正に戦闘状態へ突入する時には各自両隣の中隊に注意しその外側へ展開するよう心掛け同士討ちを避けるよう」特に説諭します。

 将軍は更に、出撃する5個大隊以外の諸隊については午前6時までムーラン・ルージュ付近で待機し、その後(明るくなってから)再びフライエへ前進して部落を押さえるよう命じるのでした。

 なお、この夜半にベルフォール攻囲兵団の砲兵指揮官フォン・セリハ中佐はムーラン・ルージュの丘に急造砲台を設け、ここに15センチカノン砲3門を据えさせました(これが外10号砲台となります)。


 午前4時30分。シュヌビエ南北を合撃する両縦隊は密かに出立します。

北方2個のF大隊による右翼縦隊は出立後早くもエシャヴァンヌ南郊で仏前哨と衝突し、先頭に立っていたBa大隊の第12中隊は仏軍の不意を突いてこれを退却させます。しかしこの銃声はシュヌビエ在の仏パノアット師団に対する警報の役割を果たしてしまいました。

 右翼縦隊を率いるBa第5連隊F大隊長、フリードリヒ・ヤコービ少佐は敵が潜むと思われるエヴァン森(エシャヴァンヌの西に広がる森)に対して8個中隊*を展開し、森林内へ侵入を計りますが、突如強い抵抗に遭ってしまいます。未だ闇の中、雪深い森林内では激しい銃撃戦が発生し、敵味方が入り交じって白兵戦となり、状況は混沌としてしまいます。この戦闘でヤコービ少佐は負傷してしまい、第67連隊F大隊長のハンス・フリードリヒ・ハインリヒ・フォン・ラウエ少佐が指揮を代わりました。


挿絵(By みてみん)

エシャヴァンヌ(20世紀初頭)


※エヴァン森へ突入した諸中隊

○Ba第5連隊F大隊

 3個中隊を第一線、1個中隊を第二線にして前進

○第67連隊F大隊

 第一、第二線に各々2個中隊を配して前進

*オイペン後備大隊はエシャヴァンヌ付近で予備・収容部隊として待機


 指揮を代わったフォン・ラウエ少佐は、エヴァン森が未だ漆黒の闇の中だったため同士討ちを恐れ、混戦を解消するため先に左翼(南側)2個中隊を後退させて森から出し、直後に残り6個中隊を続行させて諸中隊を森の縁に再展開させるのでした。


 一方、シュヌビエ南方へ迂回し進んだ左翼縦隊(Ba第4連隊)はエシャヴァンヌ付近から最初の銃声が響いた時、既にコリン水車場まで達していました。銃声によって仏軍が警戒態勢に入ることを予測した縦隊は急ぎ目標のクルシャンに向けて突進します。先頭に立ったのは第2大隊で、1個中隊を右翼縦隊との連絡用に残置したF大隊が続行しました。先行した5個中隊はそのまま鬨をあげてクルシャンへ突入し、残りの第1大隊はシュヌビエ東郊の高地へ進みます。

 北方からの銃声で警戒態勢に入った仏軍でしたが、まさか直後に襲われるとは考えていなかったクルシャン守備隊は文字通り不意を突かれて混乱し、一部勇敢な将兵が抵抗するものの多くは潰走してしまうのでした。

 クルシャンの戦闘は短時間で終了し、仏軍は逃げ遅れた約400名が捕虜となってしまいますが、士官たち必死の叱咤で踏み止まった仏軍部隊は付近の高地森林際に展開してクルシャンのBa将兵に銃撃を浴びせるのでした。


 こうして南北に長いシュヌビエ部落南端を占領したケラー支隊でしたが、北部を担当した右翼縦隊はエヴァン森に拘束されており、暁光によって辺りの視界が開けるとシュヌビエ部落へ増援が次々に到着するのが望見され、更に部落西方に旅団クラスの仏軍が展開しているのも望見されるのです。明るくなったことで活気が戻った仏軍はクルシャン奪還を謀って前進を始め、Ba第4連隊はたちまち苦境に陥りました。左翼隊を直率していたバイエル大佐はエトボンからも諸兵科連合の縦隊が前進して来るとの斥候報告を受けると直ちに戦場を離脱するよう部下に命じます。

 午前8時30分。Ba第4連隊は捕虜を携えて、フェリーの林(ボワ・フェリー。コリン水車場の北東500m付近の小高い森林高地)に展開した第1大隊の援護によってフライエへ後退します。


 この戦闘による損害は大きく、特に士官は大隊長2名(ヴォルフ、コッホ2号両大尉)戦死、1名が瀕死の重傷(ショーンハルト大尉)を負ってしまいました。この日、Ba第4連隊は戦死48名・負傷163名・行方不明52名を報告します。


 後衛となっていたBa第4連隊の第1大隊も引き上げますが、ケラー将軍はフェリー林の高地がシャロンヴィラールへの林道を管制する位置にあったため再びこれを占領するように命じ、引き返したBa兵によって林は占領され、シュヌビエからシャロンヴィラールへの直路を塞いだのでした。


 この少し前、エヴァン森縁に在った右翼縦隊にはクラウス中佐が直率するBa第3連隊の第1大隊が増援として到着しました。一緒にやって来たデーゲンフェルト将軍は右翼縦隊も統括指揮することを宣言し、午前9時、エヴァン森への総攻撃を開始するのです。

 明るくなったエヴァン森へ突入した独軍は抵抗する仏将兵を白兵で排除しつつ犠牲を厭わず前進し続け、午前11時頃、遂に森の全域から仏軍を追い出して森を完全に制圧するのでした。この時の損害も大きく、右手を負傷したBa第3連隊第1大隊長のロベルト・ヘルマン・アウグスト・アンガー少佐と、右耳に裂傷を負って血だらけのフォン・ラウエ少佐は共に後送を拒否して大隊の指揮を採り続けます。

 続けて南下しシュヌビエを北方から襲撃したデーゲンフェルト将軍でしたが、部落の仏軍は既に1個師団に近い数となっており、第67連隊の小隊長ヴェンドラー、シュミット両少尉が部下だけでなく付近の普兵とBa兵を指揮して部落北部の家屋2個を占拠しますがこれも長くは確保出来ませんでした。負傷しつつも指揮を採り続けるアンガー少佐はオイペン後備大隊の2個中隊を借り受け、更にBa兵2個小隊をその先頭に配して「突撃縦隊」を作り、部落に必死の突撃を敢行しますが仏軍の銃撃は厚く激しく、この試みは犠牲者を増やすだけに終わってしまいました。この時、仏軍が急遽部落に招き入れたミトライユーズ砲1門が、突進して来るBa兵に対したった1回の発砲で21名を倒す、という出来事が記録されています。

 デーゲンフェルト将軍はいたずらに犠牲が増して行くのを見ると攻撃を中止させ、諸隊を森の中へ引き上げさせるのでした。その後、諸隊は一向に止まない仏軍の銃砲撃から身を守るため森の縁からも撤退し、森の奥深くに引き上げるのです。

 この日、Ba第5連隊は戦死10名・負傷47名・行方不明15名を、第67連隊は戦死18名・負傷88名・行方不明3名を報告しました(Ba第3連隊は15日から3日間の集計のみ報告しているので後述します)。


挿絵(By みてみん)

ラウエ(晩年の肖像)


 シャジェ在のフォン・デア・ゴルツ将軍は前述のケラー将軍からの援軍要請を受けるとカール・ラング少佐を呼び寄せ、2個(Ba第6連隊第9,11)中隊を直率してシュヌビエへ向かうよう命じました。

 少佐はBaフュージリア兵と共に午前3時30分、シャジェを出て真の闇に沈むリゼーヌ渓谷を北へ進みますが、程なくして凍結した川を跨いで堆くバリケードが築かれているのを発見し、そこに仏兵が潜んでいるのを見ました。激しい銃撃を浴びた少佐らは、犠牲なくしてこの障害を越えられないと感じてシャジェへ引き返しました(後述します)。

 やがてラング少佐はBa第3連隊の第2大隊を率い、先ほどの防御を迂回し深い積雪に苦労して進み、シャトビエ(シャジェの北2.8キロ)を経由すると午前10時過ぎにようやくコリン水車場に到着しました。しかし既にケラー将軍は北へ去っており、ラング少佐は水車場周辺に大隊を展開してシュヌビエの敵と銃撃戦を始めますが、これも数倍する敵からの反撃に遭い、直ちに攻撃を中止させた少佐は敵の攻撃を避けつつフライエへ向かい、この地でケラー将軍の無事を知るとシャジェへと帰還するのでした。

 その後仏軍はフェリーの林に籠もるBa第4連隊の第1大隊を攻撃しますが、これは高地にしっかり陣取ったBa兵によって撃退されています。この攻撃にはシュヌビエ北部の高地上に砲兵も出撃し、Ba兵の陣地を砲撃しますが、大した効果は得られなかったのです。


 こうしてケラー将軍やデーゲンフェルト将軍のシュヌビエ奪還戦は失敗に帰しますが、「負けず嫌い」な独公式戦史はこの戦いを評して以下のように記しています。

「フォン・ケラー将軍によるこの朝の奇襲は成功しなかったが、その後続けて劣勢なまま仏軍と戦い陣地から優勢な仏軍を駆逐するなどと言うことは将軍に与えられた任務ではなく、こうなればただ仏軍がベルフォールへ向かって前進することを妨害することこそ本分であると言うべきであった。その意味において将軍の果たすべき目的は完全に達成されたのである」(筆者意訳)

 なんともはや、苦しい言い訳ですが、これはあながち間違いではなく、ケラー将軍らが仏クレメー師団や第18軍団パノアット師団がフライエやムーラン・ルージュの丘を抜いてベルフォールへの街道へなだれ込むのを防いだのは確かで、双方貴重な戦闘経験のある将兵をすり減らした「シャトビエの攻防戦」は「仏の戦術的勝利・独の戦略的勝利」と呼べるものでした。


 その後、ケラー将軍がフライエ周辺に配した4個砲兵中隊*が仏軍に前進する予兆が顕れ次第砲撃を始めたため、この日仏軍左翼は戦線を突破する動きを示すことなく終わるのです。

 また、エヴァン森に下がっていたケラー将軍の「右翼縦隊」は、午後3時になってエシュヴァンヌへ前進したBa第3連隊のF大隊による牽制銃撃で敵が気を取られている隙に森から脱出し、フライエへ帰還することが出来ました。この時も仏軍は追撃することはありませんでした。


※17日・フライエ付近に展開した砲兵中隊

*フライエ南西にあった水車場北側の丘陵

○予備第4師団砲兵・軽砲第3中隊

○野砲兵第12連隊・予備軽砲第2中隊

*フライエの北方438高地中腹

○Ba重砲第2中隊

*フライエ南方コリン水車場へ続く小街道脇

○野砲兵第7連隊・予備重砲中隊


 この間にフライエには予備隊から更なる増援2個(Ba擲弾兵第2連隊第2・第25連隊第2)大隊が到着しますが、結果的にはこの日戦闘に従事することはありませんでした。

 フライエでは夕暮れ時まで緩慢な砲撃戦が続き、これも夕闇迫る頃にはすっかり沈静します。ケラー将軍は夜間警戒のため、この日は戦うことなく終わった第25連隊に前哨を配置することを求めたのでした。


 この日の戦闘結果によって、仏軍がフライエからムーラン・ルージュに掛けて進出しベルフォールへの街道を押さえるという作戦を放棄したことが想像されました。追加増援も到着したことでケラー将軍はU・トレスコウ将軍が無理を承知で出撃させてくれた第67連隊F大隊を返すことが可能となり、大隊は闇の中ベルフォール攻囲網へと帰って行きました。また、右翼外と後方との連絡を図るため、騎兵諸中隊はフォン・ヴィリゼン、ゲリッケ両大佐の部隊と接触します。

 これによってヴェルダー将軍は右翼端の危機を回避することが出来たのでした。


挿絵(By みてみん)

リゼーヌ川の戦いを描いた独の19世紀絵葉書


☆ 17日・仏東部軍


 ブルバキ将軍は昨日唯一と呼んでも良い左翼(北)端の勝利を確実にすることを望んでいました。

 しかし、その意志に反しパノアット、クレメー両将軍は攻勢を掛けることを早々と断念しこの日は現在地を死守することに努めたのです。

 これは黎明時からケラー、デーゲンフェルト両将軍によるシュヌビエ奪還戦が繰り広げられたことも大きな要因でしたが、既に糧食の充てもなく弾薬補充も危うい前線の仏軍としては前述した将兵の激しい疲弊もあって攻勢を持続するどころでは無くなっていたことが最大の要因と思えます。パノアット、クレメー両師団に出来ることは軍の左翼を独軍が突破することを防ぐことしかなく、この一点に傾注するならば防御戦を伝統的に得意とする仏軍が辛うじて可能だった作戦でした。


 麾下をチュールの森に野営させていたクレメー将軍は17日の早朝、北方から激しい銃声が巻き起こったことで独軍がシュヌビエ(実際はエシャヴァンヌ)を襲撃したことを知り、麾下を起床させ集合を命じましたが、周辺警戒を命じただけでシュヌビエへ動くことはなく、逆にリゼーヌ渓谷下流でシャジェを警戒していた前哨大隊が敵の接近(ラング少佐隊です)を報じたことで増援を南方へ送り出しました。これは夜戦の経験少なく疲弊し尽くしていた麾下の様子から「出来ることを確実に成すことが最善」と判断したものと伝えられます。クレメー将軍は昨日の激戦で潰走してしまい未だ後方に散り散りとなっている諸兵を集めるため一隊を率いてエトボンへ向かいました。従ってパノアット師団がシュヌビエ攻防を戦っていた最中にクレメー師団から増援としてシュヌビエに進んだのはほんの僅かな兵力でしかありませんた。


 結果シュヌビエから一歩も引かずに戦っていたのはパノアット師団だけであり、これに対しては後日独軍も天晴れと賞賛しています。また未だ陽が昇らない攻防戦中、軍団長のビオ将軍が督戦に訪れ最前線で戦う将兵に対し「バーデン将兵臆病なり」と「大見得」を切り、麾下に奮起を促したとも伝えられています。

 パノアット師団はこの夜シュヌビエを保持し、独軍の去ったエヴァン森をも奪還しています。


 しかし、この仏軍左翼端以外ではブルバキ将軍の作戦は全くと言って良いほど実現しませんでした。


 東部軍本営の作戦計画ではこの17日、第18軍団の第1、3師団によりシャジェからリューズ間の独軍前線(フォン・デア・ゴルツ支隊)を突破してヴォドワ山を攻囲する予定でした。このためビオ将軍は第1師団をリューズとヴォドワ山、第3師団をシャジェへ向け突進させようと考え、それぞれの師団長、ボンネ、フェイエ=ピラートリ両将軍に対しその準備を命じました。そして「総攻撃は砲撃を以て開始する」として砲兵に奮起を促しますが、結果から言えば仏軍砲兵は精一杯頑張ったもののこの日も精悍な独軍砲兵に優越することは出来なかったのです。


挿絵(By みてみん)

バーデン砲兵の急行軍


☆ シャジェ、リューズ、エリクール西郊(1月17日)


 前述したラング少佐の「ケラー将軍救援隊」は早朝、リゼーヌ渓谷で仏の強力な前哨(クレメー師団兵)に突き当たり、仕方なくシャジェ北郊の森林縁まで戻りました。するとリゼーヌ渓谷内に仏軍砲兵1個中隊が進出し北方よりシャジェを砲撃し始めます。これを合図に仏砲兵2個中隊がヴァシュリの森(シャジェ南西)縁に設えてあった肩墻に就き、砲撃を開始します。こうしてビオ将軍のシャジェ攻略が始まった、かと思えましたが、シャジェ前面に出現した仏軍歩兵は何時まで経っても前進せず、ただ現在地から銃撃を繰り返すだけでした。この銃撃戦も午前9時30分には仏軍が森林内へ引き上げたことで終了してしまいます。

 これでシャジェの安全が確保されたと見たラング少佐は、部落で予備となっていたBa第3連隊第2大隊を引き連れシュヌビエへ向かいました。

 シャジェではフォン・デア・ゴルツ将軍が部隊の再配置を行い、先ほどまで仏軍のいたヴァシュリの森縁へBa第6連隊の第7中隊と第30「ライン第4」連隊第2大隊の両翼(第5,8)中隊を送って仏軍再進出に備えさせ、増援として到着したBa騎砲兵中隊を部落北東高地上に展開させました。

 午前10時頃になると仏軍は砲数門をナンの森(シャジェ西郊まで迫っている森)南方の谷口へ進め、近距離からシャジェを砲撃します。しかしこれは無謀に過ぎ、Ba軽砲第2中隊と同騎砲兵中隊からたちまち激しい対抗射撃を受けてしまい、仏軍の砲は沈黙してしまいました。

 午前10時30分にはシャジェ南郊に向けて仏軍の前進が見られますが、これも前線独将兵の抵抗により短時間で撃退されてしまい、午前11時30分、更に大規模な突撃が発生しますが、こちらも猛銃撃戦のあげく失敗し、午後に入ると仏軍は砲撃のみ行うだけとなってしまうのです。


挿絵(By みてみん)

シャジェ(20世紀初頭)


 リューズでも仏第18軍団は第1師団主力による強力な散兵群を部落に対面する森林縁まで進めて待機させ突撃の機会を待ちますが、ヴォドワ山麓の野戦砲兵と中腹にある要塞砲兵陣地による正確で激しい榴弾砲撃によって前進の機会を失ってしまいました。しかし対抗射撃による独軍砲兵の被害もあり、野砲兵第3連隊予備軽砲第2中隊長のフィッシャー大尉は壮絶な戦死を遂げています。

 何かと錬成不足で「弱い」と言われる仏軍砲兵ですが、このリゼーヌ川の戦いでは奮戦する隊多く、この日は特にコミュノの森(サン=ヴァルベールの西、ビャン北方の森)縁に砲列を敷いた砲兵諸中隊が独軍を苦しめました。この主な中隊は東部軍の予備砲兵隊だったと言われています。


 ブルバキ将軍が「絶対確保」を願ったエリクール前面ではこの日午前中ただ砲撃戦のみが行われ、一部で憎き重厚な散兵線である鉄道堤への突撃も試みられますが全て前線の独将兵によって撃退され、独前線は揺るぎありませんでした。前線が安定していると見たエリクール守備に責任を持つクナッペ・フォン・クナップシュタット大佐は予備隊から受け入れた第25連隊F大隊を予備隊に帰還させたほどです。

 正午を過ぎると仏軍の砲列は全く応射する事が無くなりますが、午後4時に砲撃戦が再興し、これにはミトライユーズ砲中隊も参加して日没まで続くのでした。


挿絵(By みてみん)

厳寒の林道越え(クリスチャン・シェル画)



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