リゼーヌ河畔の戦い/1月16日・一進一退
1871年1月15日の夜から翌16日朝に掛けての一晩は、仏東部軍にとって最悪の夜となります。
気温は零下18度前後。敵前線は目前1キロ前後でも、敵・独ヴェルダー軍団は前線付近に部落や農家があり、前哨以外多くは屋根の下で寒さを凌ぐことが出来ました。ところが仏東部軍の野営地は南方モンベリアール付近の第15軍団戦区以外多くが森の中で、仏将兵は凍死の危険に臨み粗朶束や切り倒した生木に火を点け、うまく燃え上がった焚火の周りを囲んで寒気を凌いだのです。この夜は無情にも強風が吹き荒れたため雪片は鋭い氷塊となって吹き飛び、最下級の馬卒から将軍までもがありったけの布を巻き付けて着膨れし、誰しもが寒さに震えが止まりませんでした。
この状況ではただでさえ中身が乏しい糧食も前線に送ることが困難で、特に兵站路から遠く離れていて東部軍にも属していなかったクレメー将軍の下には一切届きませんでした。この猛烈な寒気の中の野営はこの日に限ったことではありませんでしたが、疲弊し尽くし赤痢や肺炎が蔓延していた東部軍には止めに近い一晩となります。
将兵はこの寒さとの戦いでも消耗し、殆どの者が一睡も出来ませんでした。そして夜が明け寒気との戦いが一時休戦となると、今度は本物の死闘が始まるのです。
☆ モンベリアール、ベトンクール、ビュシューレルの戦闘(1月16日)
モンベリアール戦線(1月16日)
1月16日。独第14軍団諸隊は午前6時30分、宿営地から前線に戻ります。諸隊の配置は前日と大差なく、ただ一部に変更がありました。
ベルフォール攻囲兵団のウード・フォン・トレスコウ将軍は、南部戦線を統括指揮するフォン・グリュマー将軍の要請を受けて予備が待機するグラン=シャルモン(モンベリアールの北東2.7キロ)へ第67「マグデブルク第4」連隊の第1大隊と野砲兵第2連隊の予備軽砲第1中隊の2個小隊(4門)を攻囲網から外して送り出します。また、ブルヴィリエ周辺に待機する軍団総予備は以下の通りとなりました。
※1月16日早朝・ブルヴィリエ周辺待機の独第14軍団総予備諸隊
(歩兵5個大隊・騎兵5個中隊・砲兵3個中隊)
○Ba第4「ヴィルヘルム親王」連隊(Ba第2旅団)
○Ba第5連隊(Ba第3旅団)・F(フュージリア)大隊
○第25「ライン第1」連隊・第2大隊
○Ba竜騎兵第2「マルクグラーフ・マクシミリアン」連隊(1個中隊欠)
○Ba竜騎兵第3「カール親王」連隊・第4,5中隊
○Ba重砲第5中隊
○Ba騎砲兵中隊
○予備第4師団砲兵・軽砲第3中隊
独軍の諸斥侯は夜間も盛んに敵情を探りますが、至近距離に仏東部軍が野営していたため至る所で遭遇し小競り合いが続きました。その斥侯たちは戻って来ると口々に「仏軍は森林地域に集中して野営し、各所で即席の砲台や肩墻を構築中」と報告するのでした。
この日の戦端は南部戦線で切られます。
午前7時30分。
朝霧が街を覆う中、仏第15軍団から白旗の使者がモンベリアール城塞に現れます。城門の手前で停止を命じられた仏軍の軍使は、グンビンネン後備大隊長アドルフ・ヘルマン・エルンスト・セラフィム・フォン・オルスツェヴスキー少佐率いる独守備隊に降伏を勧告しますが、これを言下に拒絶したのは城塞で6門の要塞砲を指揮するザウエル少尉でした。少尉は使者の姿が消えるなり旧要塞の丘(アンシエンヌ・シタデル。要塞址。モンベリアール城の北西1.7キロ)に見え隠れする2個中隊と推定される仏軍の砲列に対し榴弾砲撃を開始しました。この砲撃はザウエル少尉麾下の要塞砲兵の力量を十分に示し、午前10時には仏砲兵は全て旧要塞地区から撤退するのです。丘には砲手と曳馬を全て喪失してしまった2門が遺棄されていました(この夜仏軍によって回収されます)。
モンベリアール市内では城塞を囲む家屋に銃座を設けた仏軍が城に対して激しい銃撃戦を挑みました。この銃撃はザウエル少尉たちの砲撃を邪魔し、応射するオストプロイセン州の後備兵たちを傷付けますが、城塞自体はびくともせず、仏軍も迂闊に接近することが出来ませんでした。
仏軍に包囲されるモンベリアール城塞
一方、旧要塞地区から追われた仏砲兵はル・モン・シュヴィの農家周辺に下がって砲列を敷き直しますが、これもラ・グランジ・ダム高地上の独軍砲列から激しい砲撃を受けてしまいます。この砲撃戦は正午辺りまでは緩慢に続きますが、仏軍が増援としてミトライユーズ砲中隊を含む砲兵3個中隊を送り込むと激しさを増しました。しかし、独砲兵の応射は正確無比で、仏砲兵は急造した肩墻に頼っているとはいえ損害も大きく、逆に仏軍野砲からの砲撃は城塞や野砲列に微弱な損害しか与えなかったため仏砲兵は次第に追い込まれ、何度か陣地転換を余儀なくされてしまいます。
砲撃戦は仏軍が幾度かの中断を挟み夕暮れ時まで続きました。また仏軍は城塞に対し四方から間断なく銃撃を浴びたものの奪取を試みることはありませんでした。
ベトンクール、ビュシューレル戦線(1月16日)
ベトンクールでは昨日来ゴルダップ後備大隊が同じ陣地を保持し、Ba擲弾兵第1連隊の第5中隊によってル=プティ=ベトンクールの橋頭堡が強化され、同連隊第6中隊はベトンクール北方森林の林縁に、第7,8中隊は予備となって部落後方の高地縁に待機していました。
南方モンベリアールで戦闘が開始された直後、仏軍はベトンクールに向けても砲撃を開始します。同時に歩兵の大きな集団がル・ブルジョワ森(モン・シュヴィ農場の北にある森林)に集合しつつあることが望見されました。この日もラ・グランジ・ダム高地上に陣取ったフォン・グリュマー将軍は、ベトンクールへの攻撃が近いことを悟り、グラン=シャルモンから更にBa擲弾兵第2連隊の第1大隊と、昨日もベトンクールで奮戦したBa軽砲第1中隊、そしてベルフォール攻囲網から到着したばかりの野砲兵第2連隊予備軽砲第1中隊の2個小隊をベトンクールへ派遣するのでした。
ベトンクールの独砲兵
午後1時。
到着したBa軽砲第1中隊はベトンクール後背の高地縁に砲列を敷こうとしますが、モン・シュヴィ農家付近の仏第15軍団の砲列とヴィアン=ル=ヴァルの仏第24軍団の砲列から十時砲火を浴びてしまい、中々砲を並べることが出来ませんでした。しかし、午後2時に敵砲火が一時弱まったのを機にベトンクール北方に何とか砲を敷くことが出来、応射を開始します。この頃に到着した予備軽砲の2個小隊もベトンクールとグラン=シャルモンとの間にある森の片隅に砲列を敷き、砲撃戦に参加しました。
午後3時になると仏軍の砲撃に間隔が開き始め、するとブルジョワ森から3個大隊の仏軍歩兵が飛び出し、そのうち2個大隊は間隔を狭めた散兵隊形でベトンクール南部とル=プティ=ベトンクールに向かい、1個大隊は森の縁に止まって友軍の援護射撃を開始しました。独砲兵は目標を歩兵に変えて激しい砲撃を繰り返しますが、この日の仏軍は犠牲を厭わずに突進を止めず、遂にル=プティ=ベトンクールに取り付くことに成功します。しかし、この小部落のBaと普後備兵の2個中隊は毅然としてこれを迎撃し、乱れぬ一斉射撃の繰り返しで仏軍の突撃を粉砕し部落への侵入を阻止し続けるのです。突撃の先陣に立つ士官や兵士が次々に倒れて行き、僅か十数分で驚くべき犠牲を出した仏2個大隊は突然夢が醒めたかのように戦意を喪失し、兵士達は恐慌状態となると四散しつつ西に向かって遁走し始めます。後には茫然自失して座り込んだ落伍兵や惨たらしい遺体にうめき続ける負傷兵が雪上に赤と黒で散りばめられるという地獄絵図が見られるのでした。
この攻撃失敗の30分後、諦めない仏軍は新たな3個大隊を繰り出して愚直にも前回同様、一斉突撃を以てベトンクール北部を目指しますが、こちらも先ほどと全く同じ光景が展開し仏軍は潰走するのでした。
ベトンクールの戦闘 鉄道堤で迎え撃つ独予備第4師団兵
しかしこの日の仏軍は犠牲を無視してあくまでリゼーヌ川を突破する気でいるらしく、午後4時に三度目の攻撃を仕掛けるのです。
この攻撃は30分前の2回目の攻撃同様ベトンクール部落北側を狙ったものでした。ブルジョワ森北東角から出撃した仏軍は独軍の推定1個旅団に及ぶ強力な攻撃でしたが、独軍も直前にBa第2連隊第7中隊を増援として配置しており、鉄道堤に沿って展開する独軍散兵線からの情け容赦ない猛銃撃と、それまでの砲撃で目標までの射程・発射角を捉えた独砲兵の正確な榴弾砲撃により、仏軍は先の2回の突撃よりかなり手前で留められ、またもや攻撃は挫折して仏将兵は再び森へと遁走するのでした。
独軍公式戦史は最後の攻撃について、数こそ多かったものの前2回の攻撃失敗によって折り重なり斃れた遺体に覆われた雪原の光景は攻手の戦意を大いに殺いだのでは、と記しています。
この三度に及ぶ「死の突撃」を行い壊乱状態となったのは、昨日も1個大隊が「消える」ほどの損害を受け、数少ない貴重な正規軍の戦列歩兵第16連隊(軍団第3/ペタヴァン少将師団)を増援として加えた仏第15軍団第1「ギュスターヴ准将」師団と伝えられます。
モン・シュヴィ農家付近でズアーブ第1連隊を呼び出すアルジェリア総督デュリュー将軍
その北方、ビュシューレル付近では、前日同様仏第24軍団が独軍(ダンツィヒ後備大隊とBa第5連隊の第1、2大隊にBa軽砲第4・同重砲第4中隊)と対峙しました。
午前8時過ぎ、仏第24軍団の砲兵5個中隊が昨日同様ヴィアン(=ル=ヴァル)付近に展開し始め、その後方森林内の空き地には約1個師団と思しき一大兵力が集合するのが望見されます。Ba砲兵2個中隊はビュシューレル北方の高地縁に砲を敷き、先ずは砲兵相手に砲撃戦を開始しました。
「敵1個師団がヴィアン後方に集合中」との情報は直ちにブルヴィリエの軍団本営に伝えられ、フォン・ヴェルダー将軍はビュシューレルに予備隊中Ba第4・第5両連隊のF大隊をフランツ・アントン・ケラー少将(Ba第3旅団長)に直率させて送り込みました。同時に増援として先行したBa重砲第5中隊は午前10時15分に戦場へ到着し、直ちに砲撃中の同僚両中隊の砲列右翼(北)に砲を展開し砲撃戦に参加するのです。すると仏軍の砲撃はたちどころに減少し、やがて西方へと撤退するのが見え、森林内に集合していた歩兵も徐々に西へと退却するのが観測されるのでした。
正午頃になるとビュシューレルに対面する高地上にあるヴィアン部落には後衛と思しき少人数の仏部隊が見えるだけとなりますが、この仏軍部隊は未だ戦意旺盛で、家屋に穿った銃眼から絶え間なくビュシューレル部落後背・部落南北端の鉄道堤に構える独ダンツィヒ後備大隊の散兵線を狙撃し、ビュシューレル部落ではこの銃撃を主因とする火災が発生し、消火活動も行われなかったため部落全体が炎上するのでした。
リゼーヌの戦い 戦うヴェルダー軍団(リヒャルト・クネーテル画)
正面の敵が撤退したとはいえ、ビュシューレルの両翼・エリクールとベトンクールでは変わらず仏軍の攻撃機動が続いており、午後3時過ぎ、ベトンクールに対する仏第15軍団の攻撃(前述)が開始されるとBa第5連隊のF大隊は部落南北に構えるダンツィヒ後備大隊の左翼(南側)に移動して連なり、鉄道堤に一線となって展開すると午後3時30分、仏軍二回目の突撃に対しBa第2連隊とゴルダップ後備大隊を助けて仏軍左翼に銃火を浴びせたのでした。同じく増援のBa第4連隊F大隊はエリクール側・ダンツィヒ後備大隊の右翼に連なっていましたが、目前に敵は現れず、この日は最後まで一発の銃弾も発射されることはありませんでした。
このビュシューレルの銃砲撃戦でも独軍の損害は軽微で仏軍には大きな損害を与えます。日が暮れ銃声が収まった後、ヴィアンには仏軍の砲2門が遺棄されているのが望見されるのです(この砲も夜間に仏軍が回収しています)。
☆ ムニョ山、エリクール、リューズ、シャジェの戦闘(1月16日)
エリクール戦線(1月16日)
リゼーヌ流域はこの日も深い朝霧に包まれました。この一寸先も見通せない霧はしぶとく午前11時過ぎまで残りますが、仏軍はこの霧を利用するつもりもなく(戦闘経験の浅い兵士達にとって、霧は利することより害となることの方が大きいからでしょう)、歩兵の戦闘開始を大いに遅らせます。
それでも仏軍(第20軍団)砲兵は早朝よりタヴェ周辺の高地から砲撃を始め、対する独軍は「弾薬の無駄」とばかりに僅かな数の応射を行うのみでした。
午前9時。
濃霧の中ビャン(タヴェの北北西1キロ)からサン=ヴァルベール(ビャンの北東1.1キロ)に対して仏軍歩兵の攻撃がありますが、サン=ヴァルベールを守るフュージリア第34「ポンメルン」連隊第11中隊とオステローデ後備大隊の第1中隊は濃霧の対策として視野の狭い家屋や銃座に頼らず、あらかじめ部落周辺の高台に上がって散兵線を敷いており、突如霧の中から現れた仏軍が部落に向かって進むのを見ると急射撃を浴びせ、銃剣突撃を敢行したのです。思いもかけない場所からの攻撃に驚愕した仏軍は急ぎビャンに向け退却するのでした。それでも仏軍はビャンより第二の攻撃陣を出撃させますが、こちらは部落を出た途端、先ほどの銃声で警戒中のムニョ山麓にあった独軍前哨から銃撃を浴び、慌てて部落へ引き返したのです。
独軍はサン=ヴァルベール周辺で「アルザンシエンヌ・エ・ロレーヌ(アルザス&ロレーヌ)」の名を冠したレギオンの中隊旗2旒を鹵獲しますが、これは旗手を失い濃霧の中で喪失に気付けなかった仏義勇兵のものと推察されたのです。
その後、霧が晴れると孤立を恐れたサン=ヴァルベールの2個中隊は本陣地に引き上げましたが、第34連隊のある半個小隊のみコミュノの森南方にあった砂利採取場(サン=ヴァルベールの北西500m付近にありました)に隠れて敵の行動監視を続けたのでした。
ここまでの攻撃は仏第20軍団第1師団(ドゥ・ポリニャック少将)のものでしたが、早くも攻撃が衰退して行くのを感じた軍団長クランシャン将軍は新たに第2師団(ソントン准将)を前進させ、タヴェとタヴェ森からムニョ山に対し強襲を掛けさせるのです。
この攻撃は3個から5個大隊によるもので、午前9時30分にムニョ山陣地の西と南に向かって波状攻撃を仕掛けました。応じる独軍はオルテスブルク及びグラウデンツの両後備大隊主力で、昨日の戦闘中にも強化を続けた散兵壕に展開し迎え撃ちます。この時、南面する前哨拠点・マリオンの家からオルテスブルク後備大隊の第4中隊も本陣地へ駆け付け、この中隊と最前線任務を交代したばかりのグラウデンツ後備大隊第2中隊も本陣地に戻って迎撃に参加するのでした。しかしヴォドワ山周辺の独砲兵は濃霧のため同士討ちを恐れて僅か数発を放ったのみに終わります。
この戦闘は仏軍側が30分ほどで攻撃を中断し、一時戦場に不気味な静けさが戻りました。しかし午前10時30分、ムニョ山南面に対する攻撃が再開され二線に走る独散兵壕に向かって突撃しますが、対する独軍は沈着冷静に応じて仏軍の戦線突破を防ぎ切るのでした。
戦うグラウデンツ後備大隊将兵
午前11時過ぎ。前述通りようやく霧が晴れ始めます。諸高地上からも戦場を見渡すことが可能となり、ル・サラモン高地の独軍砲兵も仏の大軍が潜むと思われるタヴェ森へ榴弾を送り込むことが出来るようになりました。これに反応してか仏軍(第24軍団第3師団と思われます)はシャノアの森(ボワ・デュ・シャノア。ビュシューレルの北西側、現在TGVの線路が横切る森)から飛び出してエリクール市街方向へ突進しますが、市街南西郊外に展開していたオステローデ後備大隊の第2中隊は各所からやって来た増援兵を加えて敵を足止めし、数時間に及ぶ銃撃戦の末に仏軍は撤退するのでした。
仏第20軍団のある1個大隊は低地や川岸に濃霧の名残があることを利用し、独前線から発見されず市街南郊・ブーランゲル水車場の至近にまで迫ります。ところがここを守っていた第25連隊の第2中隊は、斥候の報告によって既に敵接近を知っており、同中隊はエリクール南郊に展開していた同連隊第4中隊からの増援も得て仏軍を迎え撃ち、奇襲のつもりが逆手に取られて猛銃撃を受けた仏大隊は短時間で退却する羽目となり、またこの間に霧も全く消えてしまったため正面するル・サラモン高地からも砲撃を受け、損害を受けつつ西へ去ったのでした。
こうしてエリクールの西方では正午過ぎに戦闘は休止しますが、午後2時になると仏軍は砲撃を再興し、午後4時にムニョ山に対する歩兵の攻撃も再開する様子を見せるのです。しかしこれもル・サラモン高地からの的確な砲撃によって仏軍は前進適わず、ただ砲撃戦のみが日没に至るまで緩慢に続いたのでした。
エリクールの北、リューズ方面ではこの日目立つ歩兵戦闘は遂に発生しませんでした。
前日にヴォドワ山西麓からリューズに送られた野砲兵第3連隊の予備軽砲第1中隊はこの日もリューズ近郊で砲列を敷き(野砲兵第1連隊の予備重砲中隊はヴォドワ山麓に戻ります)、予備隊から送られたBa軽砲第2中隊もリューズ北東郊外に砲列を敷きます。対する仏軍もヴァシュリの森縁やコミュノ森の北方クチュナンの正面に砲列を敷き、一部は急造した肩墻に入りましたが、砲撃戦の開始は霧もあって午後2時過ぎと遅く、弾薬節約を強いられた独砲兵はこれを半分無視する形で仏軍歩兵が出現した時のみ、その散兵群に対してだけ限られた時間に効率よく砲撃を行って前進を阻止するのでした。
シャジェ、シュヌビエ、フライエ、シャンペニー(1月16日)
シャジェでもこの日は昨日と打って変わって平穏と言ってもよい時間が過ぎて行きます。
リューズとシャジェに向かったのは前日同様仏第18軍団の前線2個(ボンネ、フェイエ=ピラートリ)師団でしたが、その前進も程なく中止されます。何故ならば指揮するビオ将軍は左翼後方のエトボンに残りの第2師団(パノアット海軍中将)を送ったにも関わらず左翼が気になって仕方がなくなっていたからで、これは後述するシュヌビエでの激しい戦闘音が続いたためでした。しかもブルバキ軍本営から指示されたリゼーヌの渡河点となるシャジェには前日夕刻から続々と独軍の増援が出現し、これを見たビオ将軍は自軍団の有様(前日の行軍と戦闘、そして厳寒下の野営による損害と疲弊)を考慮してシャジェ攻撃を断念するのです。
※1月16日・シャジェ戦線にあった独軍諸隊
*シャジェ部落と周辺
○Ba第6連隊・第1、F大隊と第7中隊
*ブリゼの森(シャジェ直ぐ北方の森)南西角の高地
○Ba第3連隊・第2大隊
*ジュネシエ(シャジェの北東1.6キロ)
○第25連隊・第6中隊
☆ シュヌビエの戦闘(1月16日)
前日夜にクレメー将軍師団に代わり早朝エトボンに向かうよう命令を受けたパノアット提督はこの日午前11時に現地へ到着しました。パノアット師団の前進を知らされたクレメー将軍は早速提督と会談し、両者協調して延び切った敵前線最右翼に痛撃を与えれば、寡兵の独軍を撃破し戦線を突破してベルフォール攻囲網とヴェルダー軍の間に楔を打ち込むことが出来る、と考えたのです。
相手となるフォン・デーゲンフェルト将軍は昨夜と変わらず南北に細長いシュヌビエ部落にBa第3連隊の2個(第1、F)大隊とBa竜騎兵第3連隊第1中隊、そしてBa重砲第2中隊と野戦砲兵第12「ザクセン王国」連隊の軽砲第2中隊(ロンシャン在のフォン・ヴィリゼン大佐配下で、15日午後に増援として到着しました)を展開させていました。
攻防の鍵を握る砲兵は部落北端東郊外の高地に砲列を敷いています。歩兵の配置は変わらず、北方右翼に第1大隊、南部にF大隊が展開していました。
シュヌビエのバーデン第3連隊
この日の戦闘は濃霧にも関わらず(と言うより濃霧だったからかも知れませんが)早朝、前哨同士の小競り合いから始まりますが、本格的な戦いは午前11時過ぎ、パノアット師団砲兵2個中隊がエトボン付近に砲を展開し砲撃を開始したことで始まります。
クレメー将軍は晴れ始めた霧を見て「攻撃の機来る」と宣し、コラン水車場(シュヌビエ中心から東南東へ1.2キロ。現在は小麦粉などを扱う乾物店になっています)付近に見える独軍前線左翼に対して集中攻撃を掛けるよう命じました。このシュヌビエ南部は至近まで森林が広がり、通行困難な積雪も深い森の中ですが、敵から遮蔽された安全な通路となっており、また敵が南方シャジェとの連絡やベルフォール方面への退却に使用するフライエ(=エ=シャトビエ。)~エリクール街道(現・国道D16号線)を遮断するにも絶対に必要な地点でした。
このため、耕地や荒野が広がるシュヌビエの正面(西側)に対しては牽制動作を見せて敵を引き付けるよう命じ、また、シャジェ死守を図ると伝わる独軍(クレメー将軍に影響するのはBa第3連隊第2大隊)を警戒するため、マルシェ第32連隊の第2大隊と貴重な砲兵1個中隊を割いてブリゼの森に面して展開させました。
これ以外の仏砲兵(3個中隊程度と思われます)は正午過ぎ、順次チュールの森北縁まで移動して砲列を敷き直し、エトボン在のパノアット提督師団砲兵もこれに同調して、歩兵攻勢の準備砲撃を開始します。砲撃は午後2時頃まで続き、するとクレメー師団参謀・プーレー大佐がマルシェ第57連隊と混成護国軍連隊を直率し、横長に展開してチュールの森から出撃しました。大佐は地形を利用して独軍に発見されず南北に長いシュヌビエ部落南部郊外へ接近し、午後2時30分遮蔽地物から飛び出してシュヌビエ南部に点在する農家群へ襲い掛かるのです。
突如現れた仏軍に驚いたBa将兵でしたが、この地点を守るBa第3連隊の第9中隊は猛射撃で仏軍の突撃を迎え撃ち、やがて予備だった同連隊第12中隊が駆け付けて参戦、この中隊長ルッツ中尉が先頭を切って逆襲し、短時間といえども壮絶な白兵となった戦闘は双方大きな損害(Ba側はルッツ中隊長と小隊長2名が重傷を負い、小隊長の一人リッケル少尉が中隊指揮を代わります)となりますが、ここにBaの第9中隊も家屋や散兵壕から出て吶喊し、およそ1個大隊の仏将兵を半数以下の兵力で部落南部の高地から追い落としました。しかし付近に仏大軍がいることに気付いていたBa将兵は深追いせず再び元の陣地に引き返したのでした。
仏マルシェ第57連隊の攻撃
一方、パノアット提督は麾下師団を率い、クレメー将軍の前進に合わせ前進を始めます。エトボンからは戦列歩兵第92連隊とマルシェ猟兵第12大隊がシュヌビエの南西郊外へ、マルシェ第52連隊の2個大隊はエトボンから北上しモンテダンの森(ボワ・ドゥ・モンテダン。シュヌビエの北西2キロ付近に広がる森)に入ってからシュヌビエ北部を狙いました。
しかしフォン・デーゲンフェルト将軍は三方から迫る仏軍に対し、部落北西側でモンテダンの森入口付近に点在する民家へBa第3連隊の第2中隊を配し、この戦線を右翼(北側)へ延伸するため、フライエ=エ=シャトビエ(シュヌビエからは北東へ2.9キロ)から増援としてオイペン後備大隊の2個中隊を招聘し、エヴァンの森(ボワ・ドゥ・エヴァン。シュヌビエの北北東1キロ付近に広がる森)へ侵入させます。また、オイペン後備大隊は2個中隊をフライエに残すと、残り2個中隊は野砲兵第7連隊の予備重砲中隊と共に戦線左翼の増強として先ずはエシャヴァンヌ(シュヌビエの北東1.9キロ)に進むよう命じました。
しかしこの独軍左翼はクレメー将軍が攻撃重心と決めており、プーレー大佐の攻撃失敗後、オイペン後備大隊が到着する前に護国軍第83連隊とマルシェ第32連隊の第1大隊、そしてジロンド県の護国軍独立大隊を直率してチュールの森を出ます。
先陣に立った護国軍の第83連隊は森から出るなりBa兵から猛銃撃を浴び、連隊長と多くの下士官兵を失ってしまいます。このため指揮官を失い出鼻を挫かれた連隊は自然と滞留してしまいますが、その隣を進んで来たニュイの戦いでも健闘したジロンド県の護国軍大隊は、当時46歳、ブルボン王党派で帝政時代は公職追放状態にあったフィリップ=マリエ=ジョセフ・ドゥ・カライヨン=ラトゥール(少佐の階級が与えられています)に率いられ、大隊は先頭で鼓舞する少佐と共に敢然と前進を続け、この姿を見た諸隊は再び奮って前進を再開するのでした。対するシュヌビエ南部を抑えるBaフュージリア大隊はおよそ5倍の兵力差でも善戦しますが長くは抵抗出来ず、大隊長ヒルベルト大尉が重傷を負い、多くの将兵を失いつつ部落北部に向かって撤退し、同僚第1大隊に救出された後、そのままエシャヴァンヌへ向かって下がりました。
カライヨン=ラトゥール少佐たちを鼓舞するクレマー将軍
カライヨン=ラトゥール
クレメー師団渾身の猛攻で部落南部を抑えられ、デーゲンフェルト支隊は重要な退路となるシャロンヴィラール(シュヌビエからは東へ5.4キロ)への林道を遮断されてしまいます。しかもモンテダンの森からは仏マルシェ第52連隊主力が森の突破に成功してBa第3連隊前哨に銃撃を浴びせ始めました。ここでフォン・デーゲンフェルト将軍は潔くシュヌビエ放棄を決心し、「全軍直ちにエシャヴァンヌへ撤退せよ」と命じ、ザクセン王国の軽砲中隊とBa第3連隊の第3,4中隊に後退援護を命じるのでした。
撤退は整然と行われ、援護を命じられた歩砲兵はニュイの戦いでも活躍した第1大隊長のロベルト・ヘルマン・アウグスト・ウンガー少佐が直率し、本隊が全て北方へ撤退した後に陣を棄ててエシャヴァンヌへ向かいましたが、途上モンテダンの森から仏マルシェ兵大隊が突進して来たため、ウンガー少佐は手近にいた部下80名余りを集めて果敢に反撃すると、驚いた仏将兵は再び森へと遁走するのでした。
フォン・デーゲンフェルト将軍は午後3時30分、エシャヴァンヌも危険と見なしてオイペン後備大隊を含めた支隊をフライエ=エ=シャトビエ付近まで後退させますが、フライエに残っていたオイペン後備大隊の守備隊から「仏軍が既にエシュノーの森(フライエの南郊外に広がる森)を抑えてフライエを狙っている」との報告を受け、フライエ部落は東を除く三方を高地に囲まれた盆地で防衛戦には向かないこともあって、将軍は更に後方(東)、小高い丘の上となるシャロンヴィラールへの街道筋のムーラン・ルージュ(風車場。フライエの南東2.3キロ。農家として現存します)付近に下がり、陣を構えました。
午後6時になるとブルヴィリエの予備隊からBa第4連隊長、カール・ゲオルグ・レオポルト・シュテファン・バイエル大佐率いる支隊*が到着し、フォン・デーゲンフェルト将軍はようやく肩の荷を下ろすのでした。
※1月16日夕刻・ムーラン・ルージュに集合した諸隊
*デーゲンフェルト隊
○Ba第3連隊・第1、F大隊
○Ba竜騎兵第3連隊・第1中隊
○Ba重砲第2中隊
○野戦砲兵第12連隊・軽砲第2中隊
○オイペン後備大隊(6個中隊制)
○野砲兵第7連隊・予備重砲中隊
*バイエル隊
○Ba第4連隊・第1、2大隊
○Ba竜騎兵第2「マルクグラーフ・マクシミリアン」連隊・第2中隊
○予備第4師団砲兵隊・軽砲第3中隊
仏軍・クレメー師団とパノアット師団は午後6時以降追撃を中止し、この日だけで約1,000名の損害を受けたと言われるクレメー師団はチュールの森の前夜野営地へ戻り、パノアット師団はシュヌビエとその周辺へ展開し夜を迎えたのです。
シュヌビエが仏軍支配下に入った頃、フォン・デーゲンフェルト将軍は独り離れてロンシャンとシャンパニーで警戒していた男爵カール・ゲオルグ・グスタフ・フォン・ヴィリゼン大佐に対してエシャヴァンヌへ退いた時点で警告を発し、大佐は直ちに任地を放棄して事前の計画通りジロマニー(フライエ=エ=シャトビエの北北東10.9キロ)方面へ撤退しました。この内、フライエでデーゲンフェルト隊と連絡を取っていた予備竜騎兵第2連隊の第2中隊はセルママニー(ジロマニーの南5.6キロ)へ撤退し、同地で攻囲兵団北部包囲網を指揮していたテオドール・ヨハン・ゲリッケ大佐の指揮下に入り、他のヴィリゼン隊はこの夜プランシェール=バ(シャンパニーの北東4キロ)、オクセル=バ(プランシェール=バの北東4キロ)、そしてジロマニーで宿営に入ったのでした。
シュヌビエの戦闘・1871年1月16日(アルフォンス・マリエ・アドルフ・ドゥ・ヌーヴィル画)




