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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・独南軍と仏東部軍
472/534

リゼーヌ河畔の戦い/1月15日(前)


 フォン・ヴェルダー将軍と第14軍団主力がリゼーヌ河畔で仏東部軍を迎え撃つ準備に奔走していた時。ウード・フォン・トレスコウ少将もまた麾下予備第1師団と共にベルフォールに対する攻囲を揺るぎなく続行していました。しかし、U・トレスコウ将軍はヴェルダー将軍と会談した(既述。11日に攻囲網の西、アルジエザンで)折に約束した通り、包囲網から引き抜くことが可能な部隊をリゼーヌ戦線へ送る準備も始めていました。


 1月8日の「ダンジュータン攻防夜戦」以来、ベルフォール攻囲網では特筆すべき戦闘は発生しませんでしたが、籠城するベルフォール要塞守備隊長ダンフォール=ロシュロー大佐は13日、近隣のある郡長から「9日にヴィルセクシュエルで戦闘があり、ブルバキ将軍が勝利を得、ベルフォールに向け行軍中」との情報を伝えられます。この戦いの砲声はベルフォールでも聞こえており、要塞守備隊でも解放の期待が高まっていたところで、ダンフォール大佐は守備隊の士気を高めるため、更にベルフォールが未だ戦闘に耐え得る兵力を維持していることを接近する「解囲軍」に伝えるため、砲台長たちに「歓喜の意を示す」ので夜に至るまで断続的に(砲1門につき5発の)空砲を放つよう命じたのでした。攻囲網の独軍がこれをどう聞いたのかについて、公式戦史は勿論、戦後発行の各種手記でも「本音」で語った者は殆どいなかったと言えますが、「気持ちの良いものではなかった」ことは確かで、焦燥にかられた者もいたことでしょう。


 1月15日早朝。

 リゼーヌ戦線では独軍が対戦準備を完了し、静かに仏軍の総攻撃を待ちました。

 ヴェルダー将軍は最後にリゼーヌ本流の結氷数ヶ所でこれを破壊し堤を切り氾濫地帯を設けます(氷は厚くとも結氷の下では水流があります)。また戦闘中でも防御工事を強行し、新たに川が結氷する度にこれを砕こうとして工兵を主要箇所に分散配置するのでした。


※1月15日午前・独第14軍団の戦闘配置


■右翼(北方)

◆ロンシャン、シャンパニュー

□臨時集成騎兵集団

男爵カール・ゲオルグ・グスタフ・フォン・ヴィリゼン大佐(Ba騎兵旅団長代理)指揮

○Ba竜騎兵第1連隊(Ba騎兵旅団)

○予備槍騎兵第1連隊(予備第4師団)

○予備竜騎兵第2連隊(フォン・デア・ゴルツ兵団)*

○予備猟兵第1大隊・第1,4中隊(フォン・パチンスキー=テンツィン少佐隊)

○野砲兵第12「ザクセン王国」連隊・予備軽砲第2中隊(同)

*この中で予備竜騎兵第2連隊の1個中隊はベルフォール北方攻囲網との連絡任務、同1個中隊はフライエに駐留しデーゲンフェルト支隊(シュヌビエ在)との連絡任務に就きました。

◆フライエ=エ=シャトビエ

○オイペン後備大隊(アルザス総督府より派遣。6個中隊制)

○野砲兵第7連隊・予備重砲中隊

◆シュヌビエ周辺*

男爵アルフレート・エミール・ルートヴィヒ・フィリップ・フォン・デーゲンフェルト少将(Ba第2旅団長)指揮

○Ba第3連隊・第1、F大隊

○Ba竜騎兵第3「カール親王」連隊・第1中隊

○Ba重砲第2中隊

*この15日早朝、Ba歩兵6個中隊とBa竜騎兵第1中隊がエトボン(シュヌビエの西3キロ)に陣地を構え敵を待ちましたが、仏クレメー師団の第1旅団が押し寄せたため包囲される前にシュヌビエの本陣地まで退却しています。

◆シャジェ、リューズ、ヴォドワ山西麓

男爵アレクサンダー・エデュアルド・クーノ・フォン・デア・ゴルツ少将(普王国独立混成兵団長)指揮

○第30「ライン第4」連隊

○フュージリア第34「ポンメルン」連隊

○野砲兵第1連隊・予備重砲中隊

○野砲兵第3連隊・予備軽砲第1,2中隊

○Ba第3連隊・第2大隊(Ba第2旅団)

○Ba軽砲第3中隊(Ba師団)

○Ba重砲第1中隊(Ba師団)

○予備驃騎兵第2連隊(この時点でリューズ在・日中エシュナン=ス=モン=ヴォドワへ後退)


■中央

指揮官 フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュメリング少将(予備第4師団長)

◆サン=ヴァルベール(エリクールの北西1.1キロ)、エリクール、ル・サラモン高地(同東1.2キロ付近)、モン・ダナンの森(ボワ・デュ・モン・ダナン。同東南2キロ付近。ル・サラモン高地の東側)西縁

◎予備第4師団

□混成歩兵旅団

旅団長 ユリウス・クナッペ・フォン・クナップシュタット大佐

○第25「ライン第1」連隊・第1大隊

○オストプロイセン後備混成歩兵第2「第4/第5」連隊

・オステローデ後備大隊

・オルテスブルク後備大隊

・グラウデンツ後備大隊

・トールン後備大隊

○予備槍騎兵第3連隊・第4中隊

○師団砲兵・軽砲第1,2中隊

◆タヴェ

フーゴ・エドウィン・フォン・ロース大佐(第25連隊長)指揮

○第25「ライン第1」連隊・第2、F大隊

○予備槍騎兵第3連隊・第2中隊

○師団砲兵・軽砲第3中隊

○師団砲兵・重砲第1中隊

◆総予備/ブルヴィリエ

フォン・ヴェルダー軍団長直率

○Ba第4「ヴィルヘルム親王」連隊(Ba第2旅団)

○Ba第5連隊(Ba第3旅団)

○Ba第6連隊(3個中隊欠/Ba第3旅団)*

○Ba竜騎兵第2「マルクグラーフ・マクシミリアン」連隊

○Ba竜騎兵第3連隊・第4中隊

○Ba軽砲第2,4中隊

○Ba重砲第4,5中隊

○Ba騎砲兵中隊

*この中でBa第6連隊の第5,8中隊はサン=モーリス(=シュル=モセル)に向かい破壊工作に従事中(既述)、同第6中隊は輜重護衛。

*Ba竜騎兵第3連隊の第5中隊はこの日右翼側との連絡を通すためフライエへ派遣されました。


■左翼(南方)

指揮官 ハインリッヒ・カール・ルートヴィヒ・アドルフ・フォン・グリュマー中将(Ba師団長)

◆ビュシューレル(エリクールの南南東3.2キロ)、ベトンクール、モンベリアール

□オストプロイセン後備歩兵旅団(増強)

旅団長 ロベルト・フォン・ツィンメルマン大佐

○オストプロイセン後備混成歩兵第3「第1/第3」連隊

・ティルジット後備大隊

・ヴェーラウ後備大隊

・インスターブルク後備大隊

・グンビンネン後備大隊

○オストプロイセン後備混成歩兵第3「第43/第45」連隊

・レッツェン後備大隊

・ゴールダプ後備大隊

・ダンツィヒ後備大隊

・マリーエンブルク後備大隊

○予備槍騎兵第3連隊・第1,3中隊

○師団砲兵・軽砲第4中隊

○師団砲兵・重砲第2中隊

◆グラン=シャルモン(モンベリアールの北東2.7キロ)

フォン・グリュマー将軍直率/南部予備

□Ba第1旅団(増強)

○Ba擲弾兵第1「親衛」連隊

○Ba擲弾兵第2「プロシア王」連隊

○Ba竜騎兵第3連隊・第2中隊

○Ba軽砲第1中隊

○Ba重砲第3中隊


■左翼外

指揮官 ヨハン・オットー・カール・コルマー・フォン・デブシッツ少将

◆アレーヌ川南方方面(モンベリアール東方のエクサンクール~仏瑞国境クロワまで)

○後備第7「ヴェストプロイセン第2」連隊

・第1「ヤウエル」大隊

・第2「リーグニッツ」大隊

○後備第47「ニーダーシュレジエン第2」連隊

・第1「ラウバン」大隊

・第2「ヒルシュベルク」大隊

○後備第50「ニーダーシュレジエン第3」連隊

・第1「ブレスラウ第2」大隊

・第2「エルス」大隊

○後備第10「シュレジエン第1」連隊

・第1「ストリーガウ」大隊

○後備第84「シュレスヴィヒ」連隊

・第2「アーペンラーデ」大隊

○予備槍騎兵第6連隊・第2,3中隊

○野砲兵第8連隊・予備軽砲第1中隊

○野砲兵第8連隊・予備軽砲第2中隊

○バイエルン王国要塞砲出撃砲兵中隊(砲4門)


☆ モンベリアールの戦闘(1月15日)


 仏第15軍団はブルバキ将軍の作戦計画に則って15日早朝、モンベリアール西の独軍陣地に向かって発進しました。


 同軍団の第3師団(ペタヴァン少将)はデュンを経由してサント=シュザンヌ(モンベリアール城の西2キロ)を目指し、第1師団(ギュスターヴ准将)はプレサントヴィエとサン=ジュリアン=レ=モンベリアールからアロンダンを経てル・モン・シュヴィ農場(同北西2.3キロ)を目指します。両師団は軍団砲兵からそれぞれ2個中隊を増加されて強固なモンベリアール城塞と市街の砲撃を狙うのでした。同軍団第2師団(ルビアール准将)は予備として後方待機となります。


 この仏2個師団の目標には前述通りオストプロイセン後備歩兵旅団の第一線部隊が展開していました。

 サント=シュザンヌにはレッツェン後備大隊が配置に就いて西方を警戒していましたが午前10時、仏軍のかなり大きな縦隊が西側の森林から現れて撃ち掛け、部落外にあった独小哨は急ぎ本陣地へ撤退して行きました。同じくモン・シュヴィ農場を守っていたゴールダプ後備大隊の前哨は遠巻きに銃撃を仕掛ける仏軍に対し果敢に銃撃戦を挑み、寡兵にも関わらず午後に入るまで現状を維持するのでした。

 本隊から離れてベルフォール攻囲網の一部を構成し、「リゼーヌ川の危機」により麾下と共に攻囲網を離れて原隊復帰、モンベリアール方面に移動していた後備第43/第45「オストプロイセン第3」混成連隊長、エドゥアルド・フォン・ウーゼドーム大佐(当時64歳と予備役から戦時復帰した大ベテランです)はこの時、新任地である前線を視察中でしたが、直ちにサント=シュザンヌ内外にあった麾下歩兵中隊(レッツェン後備大隊の第1,3,4中隊とマリーエンブルク後備大隊の第7中隊*)に集合を命じました。この間、押し寄せる仏軍と戦ったのはレッツェン後備大隊の第2中隊で、同中隊長ニクトヴスキー中尉は中隊を部落北西方の高地縁に急遽展開させ、この俄か防衛線は兵力差十倍以上の仏軍に対し一歩も退かず、同僚諸隊が集合するまで仏軍を部落に攻め込ませませんでした。しかし、この防戦中、陣頭指揮のニクトヴスキー中尉は壮絶な戦死を遂げてしまいます。

 この時間稼ぎで周辺諸隊が集合し、これを指揮して仏軍に突撃を敢行したのはこの日レッツェン、マリーエンブルク両後備大隊を統括指揮するよう命じられていたマリーエンブルク後備大隊長のフォン・ハルダー少佐(数日前に昇進したばかりです)で、少佐は前述の4個中隊を率いて第2中隊の戦線へ駆け付け、激しい逆襲を受けた仏軍(ペタヴァン師団の前衛)は一旦デュン(リュプト河畔)まで後退し、ハルダー少佐は元の前線を復活するのでした。


モンベリアール付近の戦闘図

挿絵(By みてみん)


 このサント=シュザンヌの攻防戦闘中、マリーエンブルク後備大隊の残り3個(第5,6,8)中隊はアラン川左岸(ここでは東)のクールセル=レ=モンベリアール(モンベリアール城の西南西2.1キロ)にあってアラン川とそれに並行するローヌ=ライン運河の渡河点を守り、バールから前進したペタヴァン師団の右翼と銃撃戦を始めますが、予備なく全戦闘員で運河の堤防を壕の代わりとして散兵線を敷いた後備大隊は仏軍の前進を阻止し、同時にサント=シュザンヌへの前進をも妨害して敵を釘付けにするのです。

 しかし、正午を過ぎるとこのハルダー隊前面の仏軍は数を増加させ、一旦退いた部隊も再び復帰して圧力を高めました。特にアロンダンから続々と増援を送り出したギュスターヴ師団はモン・シュヴィ農場に圧を掛け続け、サント=シュザンヌのレッツェン後備大隊は敵の散兵群に右翼側へ回り込まれて再度包囲の危機に陥ります。すると午後2時、遂にモンベリアールから退却命令が届き、大隊はそれまで一緒に戦って来たマリーエンブルク後備大隊の第7中隊と共にクールセル守備隊からの援護射撃にも助けられて整然と後退し、アンシエンヌ・シタデル(17世紀まであった要塞跡。サント=シュザンヌの北北東1.3キロ。現在は住宅地)の高地でインスターブルク後備大隊と予備軽砲第4中隊によって救出されます。この砲兵中隊は急速に迫る仏軍歩兵と、アロンダンから出撃しサント=シュザンヌの北西郊外からモン・シュヴィ農場西側までの間に砲列を敷き始めた仏ギュスターヴ師団砲兵に対し砲撃戦を挑みました。しかし、ここまでの戦いでレッツェン後備大隊とマリーエンブルク後備大隊の損害はそれぞれほぼ1個中隊(四分の一)を失ったに等しく、特に落伍して捕虜となった者が目立つのでした。


※1月15日のレッツェン後備大隊とマリーエンブルク後備大隊の損害

〇レッツェン後備大隊 戦死/士官1名・下士官兵13名、負傷/士官2名・下士官兵71名、行方不明(殆どが捕虜)下士官兵132名

〇マリーエンブルク後備大隊 戦死/下士官兵13名、負傷/士官3名(内軍医1名)・下士官兵66名、行方不明(殆どが捕虜)下士官兵66名


挿絵(By みてみん)

17世紀のモンベリアール(中央奥丘の上にシタデル)


 午後1時過ぎ。モンベリアールで指揮を執るフォン・ツィンメルマン大佐にヴェルダー将軍の命令が届きます。それは、リゼーヌ川右岸から全ての部隊を左岸へ撤退させ、市街も城塞以外放棄するという思い切ったもので、大佐は該当する諸中隊に対し「モンベリアール市街後方(東)の本陣地(ソショー周辺)へ向けて撤退せよ」と命じるのでした。前述のレッツェン後備大隊の後退はこの命令によるもので、同時にクールセル=レ=モンベリアールのマリーエンブルク後備大隊の3個中隊にも撤退命令が届きます。しかしこの時にはモンベリアール市街南のラ・プティット・オランド(モンベリアール城の南西800m)にある運河とアラン川の橋が爆破された後だったため、同大隊はアラン川沿いに更に東へ後退し、エクサンクールとソショーを結ぶアラン架橋(ソショーの南1.1キロ。現在はアラン河畔にある物流会社の専用橋となっています)を渡って退却しました。

 諸中隊の退却はモンベリアール城塞の要塞重砲による牽制援護射撃の下で行われ、後退諸隊の直接援護は市街西縁と北縁に陣を敷いたグンビンネン後備大隊の第6,8中隊と、市街とラ・プティット・オランド付近に展開したヴェーラウ後備大隊によって行われました。これら援護隊は援護射撃を切らさずに、退却諸隊がその西と北にある高地から俯瞰され銃撃されるのを防ぎました。援護射撃は撤退諸中隊が市街を無事に東郊へ抜け切るまで続けられ、その後援護隊は自分たちも市街を抜けて退却したのです。

 結果モンベリアール市街には城塞を守備するフォン・オルスチュヴスキ少佐率いるグンビンネン後備大隊の第5,7中隊と、ザウエル少尉率いる普軍とBa軍の要塞砲兵が操作する要塞砲6門(普軍9センチカノン砲4門とBa軍12ポンド砲2門)だけが居残ったのでした。


挿絵(By みてみん)

モンベリアール城(1871年)


 リゼーヌ戦線南部を統括指揮するBa師団長、フォン・グリュマー将軍はヴェルダー将軍の作戦に沿って、モンベリアールを「外から」守る(市街はリゼーヌ川とアラン川が作る平地によって東西の高地から俯瞰され、城塞以外では銃砲撃戦で不利となります)ため、Ba第1旅団をモンベリアール北東高地へ進め、Ba軽砲第1中隊と同重砲第3中隊、そして予備第4師団砲兵の重砲第2中隊と同軽砲第4中隊をラ・グランジ・ダム農家の高地に上げ、要塞砲兵の砲台(外2号砲台)横に砲列を敷かせました。

 この時、Ba第1旅団のBa擲弾兵第1連隊の2個(第1とF)大隊はこの一大砲列の両翼に展開して砲兵を守り、Ba擲弾兵第2連隊のF大隊はモンベリアール市街の東街道口まで進んで陣を敷きました。残り3個(擲弾兵第1連隊の第2、同第2連隊の第1、2)大隊とBa竜騎兵第3連隊の第2中隊は北東高地の後方に隠蔽される形で待機となります。

 インスターブルク後備大隊は1個中隊を砲陣左翼(南)に分派すると残り3個中隊でラ・グランジ・ダム農家を守備し、ヴェーラウ後備大隊は同高地北方の森林に入って展開、ベトンクールの部落守備隊(ゴールダプ後備大隊)と連絡を保ちます。残りの諸後備大隊はラ・ショーの林(ソショーの北西郊外に現在もある東西1キロほどの林)とソショー部落周辺まで退却し集合・待機となりました。


 こうしてガラ空きとなったモンベリアール市街に対して、仏第15軍団はサント=シュザンヌの西郊高地からモン・シュヴィ農場の北側までに砲兵8個中隊以上(ギュスターヴ師団砲兵5個中隊とペタヴァン師団砲兵3個中隊。他に軍団砲兵数個中隊が参加したと言われます)を順次展開させ、午後3時30分、市街と城塞を目標に猛烈な榴弾砲撃を開始しました。この砲撃は夕闇が迫るまで続き、市街では多くの家屋が倒壊し火災が発生します。対する独軍は城塞とラ・グランジ・ダムの外2号砲台の要塞砲のみ応射を行い、野砲については目標までの射距離が長かったこともあり、弾薬を節約するためこちらには殆ど砲撃を行いませんでした。

 砲撃戦は戦時召集の仏軍砲兵より錬成度が遥かに上で、しっかりとした陣地と城塞に展開していた独軍有利に展開し、仏軍砲兵は撃破を免れるために幾度も陣地転換を繰り返さなくてはなりませんでした。

 このため15日の砲撃戦は派手な割に独軍の損害は軽微で、これは潔く市街を放棄した結果とも言え、特に砲兵には損害が見られず歩兵に多少の負傷者が出た程度だったのです。


挿絵(By みてみん)

モンベリアール城を攻撃する仏第15軍団将兵


 砲撃戦の終盤、モンベリアール市街から独兵が去ったことを知った仏軍は、前線にあったアルジェリア・テュライアール兵の一中隊(ギュスターヴ師団第2旅団)が先陣を切って市内へ突入し、その一角を占拠します。夜陰が深くなるとペタヴァン師団の1個旅団が市内へ入り、散兵が未だ独軍が確保する城塞周囲の家屋に侵入して壁面や隔壁に銃眼を穿ち、市街の東部にも侵入して東郊に潜む独軍と対峙しました。しかし、市街を抜けて東側に進出出来た部隊は皆無で、更に仏軍が切望して止まない市内の食糧・備品貯蔵倉庫群にも手が届きませんでした。これは城塞に籠城するザウエル少尉率いる普・Ba混成の要塞砲兵による正確な榴弾砲撃に邪魔された事が要因で、城塞では市街東郊の友軍とも敵陣を越えて密かに連絡を取り合い(城塞には秘密の通路でもありそうです)、斥候の一人は敵中を突破して城塞隊長のフォン・オルスチュヴスキ少佐に翌日の命令書を届けたのでした。


 この夜。ベルフォール地方は零下20度前後と強烈な寒気に見舞われ、独軍将兵は不運な前線勤務の将兵以外サヴルーズ川までの間にある諸部落や農場の家屋に分散して宿営し、疲弊し凍えた身体を少しでも休ませようとするのでした。


挿絵(By みてみん)

モンベリアール城の戦い


☆ ベトンクールの戦闘(1月15日)


挿絵(By みてみん)

ベトンクールの教会(20世紀初頭)


 仏第15軍団ギュスターヴ准将師団の第2旅団(ケステル准将)は、午後2時過ぎ、独軍がリゼーヌ右岸から市街方向へ撤退し始めるのを見ると2個大隊がモン・シュヴィ農場に向かって突進し、午前中からこの農場を守っていたゴールダプ後備大隊の前哨をようやくのことで駆逐します。

 これで左翼側に敵を見なくなった仏軍は前述通り、モンベリアール北西の高地上に砲兵8個中隊以上を進めてモンベリアール市街を砲撃し始めますが、その一部はベトンクール部落をも砲撃し、こちらにはヴィアン=ル=ヴァル(ベトンクールの北西2.9キロ)付近に進んで砲を敷いた仏第24軍団の砲兵も一部砲撃参加するのでした。

 この援護射撃を受けた仏ギュスターヴ師団第1旅団(ミノ准将)は午後3時過ぎ、ル=プティ=ベトンクール(ベトンクールの南440m。リゼーヌ川右岸)に向けて前進を開始します。

 対するベトンクール方面の独軍はフォン・ノルマン少佐率いるゴールダプ後備大隊で、少佐は第7中隊(フォン・ベルケン少尉指揮)をル=プティ=ベトンクールに、残り3個(第5,6,8)中隊をベトンクールとその周辺に布陣させ、第5,6中隊の一部を鉄道堤に、残りを部落西と南縁に展開させました(第8中隊は予備として部落内待機となります)。この部落にはBa要塞工兵の第2中隊が駐屯していましたが、ノルマン少佐に従って隊を二分し後備兵の散兵線両翼に展開します。Ba工兵たちは目前の結氷した川に手を加え氾濫地帯を作り出し、石橋を爆破するのでした。これで対岸の第7中隊は孤立してしまいますが、橋の70m下流にある砂防堤(現存します)を徒渉可能なようにして、辛うじて連絡を確保しました。

 また少佐は部落東郊の高地縁に急ぎ散兵壕を掘らせ、鉄道堤の第一線後方に第二線陣地帯を構築するのです。

 この仏軍の東進を見ていたのがラ・グランジ・ダム農家の高地上で指揮を執っていたフォン・グリュマー将軍で、将軍は仏軍の強大な縦隊がル・ブルジョワの森(モン・シュヴィ農場の北にある森林。現存します)に入って行くのを目撃すると、Ba擲弾兵第1連隊の第2大隊とBa軽砲第1中隊を急ぎベトンクールへ増援として派遣しました。


挿絵(By みてみん)

ベトンクール前面で負傷し部下を見送る仏士官


 この時、仏ミノ旅団は2個大隊をル=プティ=ベトンクールへ向け突進させますが、ゴールダプ後備大隊第7中隊は統制一斉射撃でこれに対抗し仏軍の突撃の勢いを削いで、やがては後退させることに成功するのです。これにはラ・グランジ・ダム高地上の野砲兵や外2号砲台を任されるユリウス・オスカー・ヴァイスヴァンゲ大尉率いる要塞砲兵第4「マグデブルク」連隊第15中隊の援護射撃も大きく貢献しています。

 大損害を受けた仏軍は多くがル・ブルジョワの森に逃げ込みますが一部はル=プティ=ベトンクール部落北方のリゼーヌ川右岸にある墓地(ベトンクールの西南西670m。現存します)に立て籠もり、隔壁や墓石を盾に激しい銃撃戦を始めました。仏軍は独軍の強烈でいて正確な銃撃に対し犠牲を増やし続けますが、怯むことなく激しい抵抗を見せました。しかし時間経過と共に劣勢となって行き、遂にベルケン少尉と第7中隊兵がこの墓地に突撃を敢行すると、包囲され弾薬も残り少なく疲弊し切った仏兵たちは次々に手を挙げ、士官1名・下士官兵60名余りが捕虜となります。

 ゴールダプ後備大隊この日の損害は戦死1名・負傷6名・行方不明(捕虜)3名と激戦の割には軽微で、逆にこの地を攻めた仏軍(マルシェ・ズアーブ歩兵第1連隊とサヴォイ県の護国軍独立大隊と伝わります)は士官15名・下士官兵444名の大損害(戦死・負傷・捕虜含む)を被ったのでした。


挿絵(By みてみん)

急遽展開し砲撃を始めるバーデン野戦砲兵中隊


 一方、増援としてベトンクール付近に至ったBa歩兵が到着した頃には戦闘は終了しており、大隊は1個中隊を部落へ、1個中隊を砲兵中隊に付け、残り2個中隊はビュシューレル(ベトンクールからは北北西2.1へキロ)へ向かいましたがこちらでも戦闘は終了しており、ベトンクールへ引き返します。Ba軽砲中隊は二手に分かれて東側高地上の陣に就き、対岸の仏軍に対して有効な射撃を辺りが夕闇に閉ざされるまで続けました。

 仏軍の攻撃が止んだ後、翌朝までこの周辺地域は平穏に過ぎます。零下20度に達した猛烈な寒気の中、Ba要塞工兵は終夜リゼーヌ川の結氷を破砕し続け、川岸には最近大量に出回り始めた鉄条網を張り、散兵壕の防御を高める工事を続けたのでした。


ベトンクール、ビュシューレル戦闘図

挿絵(By みてみん)


☆ ビュシューレルの戦闘(1月15日)


 ベトンクールの独軍右翼(北)側、リゼーヌ右岸(概ね西側)で独軍の橋頭堡の形となっていたビュシューレルでは午後に入ってから仏軍の攻撃が始まります。

 ここを目標に前進して来たのは仏第24軍団の前衛でしたが、作戦計画通りにモンベリアール方面からの銃砲撃音を聞いてから進発したものの、タヴェの南方にあるタヴェの森を抜けるのに手間取り、森を東へ抜けた先のヴィアン=ル=ヴァル(ビュシューレルの西1キロ)に達した時には午後2時を回ってしまいました。

 このビュシューレルを守備していたのはダンツィヒ後備大隊でしたが、大隊長代理のコサック大尉は数倍以上する敵を迎えるに当たり川の右岸では防戦不利と考え、潔く部落を放棄して左岸に移り、部落北口と東口にある橋梁を爆破しました。大隊は第1中隊が部落北口の爆破した橋の対岸(北)にある水車場(現存しませんが付近に「水車」の名が付く店舗があります)に、残り3個中隊を鉄道堤にそれぞれ展開させ仏軍を待ちます。しかし大隊の守備範囲は広く、予備収容部隊としては僅かに1個小隊を用意することしか出来ませんでした。


 仏第24軍団前衛師団は4個大隊でビュシューレルに向かいますが、独軍を警戒し最初は遠距離からの銃撃で戦闘を開始しました。やがて独軍の反撃が薄い(ドライゼでは距離が遠過ぎ)ことに気付いた仏軍は順次接近し恐る恐る部落へ侵入し始めます。仏軍は独軍が右岸にいないことを確認すると安心したのか鉄道堤から銃撃を始めたダンツィヒ後備大隊に対し部落から猛烈な銃撃を浴びせます。やがて仏軍は独軍左翼(南側)に向かって凍結した川を越え突撃を敢行しますが、これはさすがに無謀で兵が次々と倒されるのを見た仏軍指揮官たちは攻撃を中止し一旦遮蔽に向け引き返したのでした。

 仏軍は時を経て独軍散兵線中央にも同様の攻撃を繰り返しますが、これも損害を受けて失敗してしまいます。雪と氷で真っ白となった川と岸辺には様々な装いの仏兵が点々と倒れている凄惨な光景となりますが、覚悟を決めた仏軍は夕闇迫る前に最後の攻撃を企て、これは北口前の水車場を目標に、ヴィアン西郊に展開した砲兵の援護射撃も借りて開始されます。この時、ベトンクールで二手に分かれて展開していたBa軽砲第1中隊が砲撃を始め、突進する仏散兵群に有効な射撃を見舞うのでした。

 すると北方からも仏軍に砲撃を浴びせるものが現れるのです。これはフォン・ヴェルダー軍団長の総予備に指定されていたBa部隊で、フリードリヒ・カール・ヴィルヘルム・ザックス大佐に直率されたBa第5連隊の第1、2大隊とBa重砲第4中隊に同軽砲第4中隊がブルヴィリエから救援に駆け付けたのでした。


挿絵(By みてみん)

氷点下、リゼーヌを渡河する仏マルシェ猟兵第15大隊(第24軍団)


 救援のBa2個砲兵中隊は仏軍を目視可能な地点まで辿り着くなり砲を展開し、先ずは急射撃で敵を牽制します。続いて攻撃前進を続ける仏散兵群と後方の森林から出撃した縦隊に対し正確な砲撃を始めるのです。

 次第に正確となる敵榴弾の着弾に恐慌状態となった仏軍縦隊は右往左往して逃げ回る兵士を諫め集合させようとする士官たちの姿もまた慌てふためくように見え、やがて仏軍は踵を返して森の中へ消えて行くのです。この砲撃では特に先鋒となった重砲第4中隊の榴弾砲撃が有効となりましたが、この中隊もまた猛烈な砲撃と銃撃を浴び、損害もまた大きなものとなりました(Ba野戦砲兵全体では戦死3名・負傷17名・馬匹損失30頭)。この砲撃中にザックス大佐の歩兵2個大隊も射程内に敵を捉え、混乱する敵に銃撃を浴びせて恐慌を更に大きなものとするのでした。

 水車場では猛銃砲火を浴びつつも目標まで迫った仏散兵が銃撃を浴びせつつ幾度も突撃を敢行しますが、これはフォン・ホルン少尉率いる後備第1中隊兵による沈着冷静で正確な銃撃により全て失敗に終わりました。


 こうして大損害を受けた仏軍は辺りが夕闇に閉ざされると攻撃を中止し、この夜は再び攻撃を企てることはありませんでした。この日のBa第5連隊の損害は戦死5名・負傷23名で、ダンツィヒ後備大隊の損害は戦死1名・負傷4名と軽微でした。


挿絵(By みてみん)

戦うマルシェ・ズアーブ兵




※独後備大隊の中隊番号


 独軍の後備大隊は要地守備や兵站路守備任務の大隊が6個中隊、野戦や攻囲任務の大隊が正規軍と同じ4個中隊編成を基本としています。この野戦任務大隊の上部組織として後備歩兵連隊、後備歩兵旅団が編成されました。この後備歩兵連隊は通常2個大隊編成ですが、正規軍歩兵の連隊(3個大隊制)が中隊番号を「第1から第12」と通し番号としているところ、後備連隊は「第1から第8」となっているケースと、大隊毎「第1から第4」となっているケースに分かれました。これは連隊に属せず大隊単位で独立して編成され、後に「混成連隊」(こちらは予備師団用に2個後備連隊を合わせ4個大隊制でした)として編入されるケースと、最初から連隊編成で任地に派遣されるケースが混在したため、前者は後に連隊の「第2大隊」となっても中隊番号が「第1から第4」のまま変わらず(レッツェン後備大隊やダンツィヒ後備大隊などがそう)、後者は最初から「第5から第8」となっていました(マリーエンブルク後備大隊やグンビンネン後備大隊、ゴールダプ後備大隊などがそれです)。拙作では独公式戦史に従い、各大隊独自の中隊番号を使用します。4個中隊しかなくとも「第5から第8」中隊となっている後備大隊がありますので注意してください。



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