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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・独南軍と仏東部軍
471/534

エリクールに至るまで~1月13日から14日


 1971年1月13日。


 仏東部軍は正面前衛の全力でアルセ及びモンベリアール南東の仏瑞国境地方に集合した独第14軍団諸隊に襲い掛かります。

 独第14軍団長伯爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・レオポルト・アウグスト・フォン・ヴェルダー歩兵大将は13日早朝、本日中に敵と戦うこと確実な前線諸隊に対し次の主旨の訓令を発しています。

「敵の攻撃に対しては頑強に抵抗を成し敵がその場に展開せざるを得なくさせよ。しかし、敵に諸官の退路を遮断するような運動をさせてはならない」(無理ならば後退を示唆しています)


☆ アルセ、サント=マリーの戦闘(1月13日)


 この日早朝、フォン・ブレドウ大佐隊に代わってアルセ方面の最前線へ進出した独予備第4師団の前衛*は、第25連隊長フーゴ・エドウィン・フォン・ロース大佐に率いられ、ブレドウ大佐の「置き土産」、第67連隊第1大隊をサント=マリー(アルセの南東3キロ)に配すると、第25連隊第6,7中隊がゴンヴィラール(同北西2.7キロ)に、残余の諸隊はアルセに集合しました。


※1月13日・アルセ付近に展開したフォン・ロース支隊

○第25「ライン第1」連隊

○第67「マグデブルク第4」連隊・第1大隊

○予備槍騎兵第3連隊・第2中隊

○予備第4師団砲兵・重砲第1中隊

○同・軽砲第3中隊


挿絵(By みてみん)

アルセ(20世紀初頭)


 同日午前9時。

 仏軍の大縦隊がコルセルへの街道(現・国道D93号線)上に出現し午前10時になると仏軍はモントノワからオナンを経てマルヴリーズに至る7キロ前後の弧状に砲兵5個中隊(約30門)を並べ砲撃を開始しました。しかし、その射距離は長い部分で4キロ以上もあったため砲数の割に効果は薄く、仏軍は準備砲撃もそこそこに歩兵を前進させて、約3個大隊(仏第24軍団第2師団所属と記録されます)がゴンヴィラールを襲うと6、7倍にも及ぶ敵に襲われた独守備隊は急ぎダルセの森(ボワ・ダルセ。ゴンヴィラールの東、アルセの北2キロ周辺に広がる森。現存します)に逃げ込むのでした。

 ほぼ同時刻。仏軍の大集団(第15軍団ペタヴァン、ケステル両将軍の部隊です)がサント=マリーを襲い、守備隊の第67連隊第1大隊は急ぎ1個中隊をラ・コートの森(ボワ・ドゥ・ラ・コート。サント=マリーの東1キロ付近にある森。現存します)に送って退路を確保し、包囲を免れた大隊残余は猛追を受けつつも森の中隊の援護射撃を受けてサン=ジュリアン(=レ=モンベリアール。サント=マリーの北北東1.9キロ)へ逃げ込みました。


 アルセでは郊外に展開した独砲兵がモントノワ~オナン間に展開する仏砲兵と激しい砲撃戦を始めます。

 前衛の重砲第1中隊は最初アルセの北郊に、やがて東郊へと陣地交代しながら断続的に砲撃を行い、同軽砲第3中隊は当初予備として待機しますが、仏歩兵の前進により射程内に目標が有り余るほど現れると、エリクールへの街道(現・国道D683号線)の西脇に砲列を敷き砲撃を始めました。


 アルセのフォン・ロース大佐は仏軍が麾下より数倍以上優勢であることを察知し、後退準備のため第25連隊のF大隊と少し遅れて軽砲第3中隊に対し「デザンダン(アルセの北東2キロ)付近に後退援護の収容陣地を確保せよ」と命じます。しかし、左翼側前線の第67連隊将兵は数に任せて押し寄せる仏軍の猛烈な銃砲撃に拘束され中々危地を脱して退却することが出来ず、この状況を見たデザンダンの収容部隊は味方の脱出機会を得るために不意を突いてサント=マリー前面の敵に対し逆襲を仕掛けました。

 この時、第25連隊の第10,12中隊は最前線へ進み、後方には第9中隊が続きました。この逆襲には前線の第67連隊第2,3中隊も加わり、目まぐるしく変化する戦況に順応する軽砲第3中隊はエシュナン(サント=マリーの北1.9キロ)の西郊まで進んで砲を敷き、ここで肉薄した仏軍から小銃弾を浴びるものの怯まずに敵集団に向け直射を続けるのでした。

 この独軍逆襲で仏軍前線部隊の進撃は鈍り、サン=ジュリアンで包囲され掛けていた第67連隊将兵は39名が逃げ遅れ捕虜となるものの、多くは無事後方リュプト川方向へ脱出する事が出来たのです。

 ロース大佐は午後12時30分アルセ放棄の命令を下し、一時「ロース支隊」は収容陣地を設けたデザンダンで仏軍の出方を窺うと、一気にリュプト河畔まで後退するのでした。

 この時、重砲第1中隊が先行したエブル(アルセの北東4.1キロ)には第25連隊の第1、2大隊が入り、同連隊F大隊はスモンダン(エブルの南750m)を占領します。砲兵2個中隊の内10門はエブル北方の高地に、2門はスモンダン付近のエリクール街道脇にそれぞれ展開しました。また、第67連隊の第1大隊はサン=ジュリアンからレイナン(サン=ジュリアンの北北東1.4キロ)とイッサン(レイナンの南東900m)まで退いたのです。


挿絵(By みてみん)

独軍の逆襲


 仏軍は午後3時前後、リュプト川の独軍陣地正面に姿を現します。そのまま攻撃機動に入り、見る間に戦線両翼から独軍を大きく包囲する態勢を作り出すのでした。ロース大佐は更に仏軍の大きな増援部隊が自軍右翼外のル・ヴェルノワ(エブルの北西1.9キロ)にも現れたことを知ると、手遅れとなる前に「全軍タヴェ(エリクールの南西1.8キロ)に向けて撤退」と命じ、第67連隊第1大隊には「そのまま原隊(フォン・ブレドウ大佐支隊。この日はモンベリアール方面にいました)へ帰還せよ」と命じました。

 ロース支隊は午後4時30分にタヴェ周辺に集合を終え、ここに集中した陣を構えます。仏軍(第24軍団主力)は一部が追跡を行うもののそれも長くはなく、タヴェ付近の森林まで斥候を送っただけでこの日は矛を収めたのです。


 この日、フォン・ロース大佐支隊は139名(戦死13名・負傷80名・行方不明/捕虜46名)の損害を被り、仏軍もほぼ同等の損害を受けたと伝わります。


☆ シャヴァンヌの戦闘(1月13日)


 アルセの北、シャヴァンヌ(アルセの北4.2キロ)まで進出していたフォン・デア・ゴルツ少将支隊の前衛部隊指揮官、オスカー・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・ナハティガル中佐は、南側でロース支隊が攻撃を受けた頃とほぼ同時・午前9時過ぎ、前哨から「コルセル(シャヴァンヌの西南西3.5キロ)とソルノ(同西2.1キロ)、マルヴァル(ソルノの北西2.2キロ)から各々強大な仏軍部隊が接近中」との警報を受けました。


※1月13日・シャヴァンヌ付近に展開したナハティガル支隊

○第30「ライン第4」連隊・第2、F大隊

○予備驃騎兵第2連隊・第2中隊

○野砲兵第3連隊・予備軽砲第1中隊


 ナハティガル中佐は軽砲中隊が砲列を敷くシャヴァンヌ部落西郊外に歩兵第5,6中隊を、その東側部落前に予備として第7中隊を置き、前線2個中隊はヴィレ=シュル=ソルノ(シャヴァンヌの南西1.3キロ)とその北郊でソルノへの街道(現・国道D96号線)を横切る小川(サポワ川。現在、TGVの線路がある付近です)まで前線を延伸しました。

 最初に仏軍と衝突したのは前哨としてマルヴァルにいた第8中隊で、この中隊は本隊へ敵接近の警報を送ると短時間で戦闘を切り上げ、十倍はする敵に包囲される前にマルヴァルを放棄し、北方側面を驃騎兵1個小隊に守られつつその東側にあるソルノ北側の森林縁に再展開しました。残りのF大隊及び驃騎兵中隊本隊はシャヴァンヌ部落内外に控えます。

 前述通り午前11時過ぎには南側第25連隊が守っていたゴンヴィラールが仏軍により占領され、その一部が北向してヴィレ=シュル=ソルノに迫りました。ナハティガル中佐は直ちにシャヴァンヌにあった歩兵7個中隊と驃騎兵を部落からモンの森(ボワ・デュ・モン。シャヴァンヌの南側とデザンダン北側までに広がる森。現存します)西縁までの間に集中展開させ、折しもシャヴァンヌを砲撃し始めた仏砲兵2個中隊による榴弾砲撃を受けつつも接近する仏第24軍団前衛諸大隊に対して銃撃を絶やさず、その前進を数時間に渡って阻止したのです。

 しかし数に勝る仏軍はその右翼(南)がモンの森内に侵入し、ナハティガル隊左翼側に包囲の危険性が増したため中佐は一斉後退を命じ、諸中隊はル・ヴェルノワ(シャヴァンヌの東1.3キロ)から支隊の同僚第30連隊の第3中隊が前進していたシャンペ(同北北東3.3キロ)まで薄く再展開するのでした。

 この近距離まで敵が迫った中での後退は非常に危険なものでしたが、支隊の予備軽砲第1中隊は歩兵と驃騎兵の後退に追従しつつ度々留まって数百m後方までに迫る仏軍に榴弾を浴びせ、追撃・包囲されるのを防いだのです。

 フォン・デア・ゴルツ将軍はナハティガル隊が無事後退するのを確認した後の午後5時、麾下全てを予備第4師団の前線と左翼南方で連なるクチュナンまで後退させ、リゼーヌ川を背面にする文字通り「背水の陣」を敷きました。

 フォン・デア・ゴルツ支隊はこの日108名の損害(戦死・15名、負傷83名、行方不明/捕虜10名)を受け、対する仏第24軍団も同等の損害だったと伝わります。


☆ ダスルとクロワの戦闘(1月13日)


 アレーヌ河畔のデルを本拠として仏瑞国境付近に展開するコルマー・フォン・デブシッツ少将の支隊と対峙するブザンソン在アンリ=モリス・ロラン准将麾下・仏第7師団管区隊の先遣隊はこの日、独軍の駐屯する拠点を襲います。


挿絵(By みてみん)

ブザンソンのサン=ピエール広場で義勇兵中隊を閲兵するロラン准将


 午後1時、独「エルス」後備大隊が「リーグニッツ」後備大隊と交代するためダスル(デルの西南西8.6キロ)に到着したちょうどその時に仏軍の攻撃は始まり、両大隊はヴァンダンクール(ダスルからは南南東1.4キロ)とシャルボニエールの林(ダスルの西1.5キロ付近にある林。現存します)の間に急ぎ展開し、スロンクール(同南西3.2キロ)から進んで来る仏軍をエルス後備大隊の3個(第2,3,4)中隊が迎え撃ちました。

 ところが仏軍は独軍の想像以上に強力で、逆にエルス後備大隊は、乗馬に銃弾が当たって落馬し負傷した大隊長ヴァルデマール・フォン・ミューネンベルク大尉ほか士官5名が死傷してしまうのです。

 なめてかかって(?)押し返されたエルス後備大隊の3個中隊は、ダスル南方の味方前線にあった同大隊第1中隊とリーグニッツ後備大隊の第3中隊によって収容され、前線の独後備将兵は野砲兵第8連隊の予備軽砲第1中隊による援護射撃を受けて逆襲し、迫る仏軍を押し戻すことに成功するのでした。この後、デルよりヒルシュベルク後備大隊の2個中隊が増援として現れ、前線の独軍は引き上げる仏軍をスロンクール郊外まで追撃したのです。スロンクールの仏軍は午後5時、夜戦を嫌ってボンドゥヴァル(スロンクールの南南西2.1キロ)へ退却しています。

 この日は更に南東側仏瑞国境のクロワ(デルの南南西16.1キロ)にも仏「ロラン兵団」の部隊が現れました。こちらは一昨日アベヴィエから追い出された仏軍と思われ、郊外に散兵線を展開すると同行した砲兵中隊が砲撃を始め、独守備隊(「ストリーガウ」後備大隊と野砲兵第8連隊予備軽砲第2中隊の一部)と数時間に渡る銃砲撃戦を繰り広げますが、仏軍部隊はそれ以上前進することなく夕暮れ前に西へ引き上げています。


 独デブシッツ支隊この日の損害は55名(戦死12名、負傷38名、行方不明/捕虜5名、馬匹12頭)で、仏ロラン兵団の損害は不詳でした。


 なお、この13日はリゼーヌ川の独予備第4師団やBa師団の駐在地で騒乱は殆ど発生せず、アルセやシャヴァンヌの戦闘音により武器を取る前哨はあったものの、多くの将兵は自軍陣地の強化に勤しんでいました。


挿絵(By みてみん)

リゼーヌ戦線(71年1月13日夕)


☆ 1月14日


 1月14日午後。モンベリアール西郊外において突発戦闘が発生しました。

 極寒の一日、サント=マリーからドゥー川方面(南東)へ前進した仏第15軍団前衛はプレサントヴィエ(サント=マリーの東南東2.9キロ)を越え、リュプト沿岸にいると思われる独軍を攻撃するため更に東へ進みました。

 午後3時過ぎ。この仏軍はデュン(モンベリアールの西3.7キロ)からバール(デュンの南東2キロ)にかけてリュプト河畔に展開していた予備第4師団の前哨、「レッツェン」後備大隊に対し攻撃を仕掛けます。午後4時にはその一部がル・ベルソーの森(デュンの北1キロ付近に広がる森。現存します)へ迂回し北からデュンを襲いますが、時機良くデュンに到着した独増援の「インスターブルク」後備大隊2個(第1,2)中隊と師団砲兵の軽砲第4中隊がこの敵に猛銃砲撃を浴びせ、仏軍は慌てて退却するのでした。

 この「デュンとバールの前哨戦」では独軍に戦死2名・負傷11名の損害が出ています。


 独第14軍団による「リゼーヌ戦線」最右翼(北方)を担うフォン・ヴィリゼン大佐はヴェルダー将軍の命令を受け、この14日麾下歩兵と砲兵諸隊をBa第1旅団のいるフライエ(=エ=シャトヴィエ)まで後退させ、自身は騎兵諸隊と共にリュール南東、オニヨン川の橋頭堡(現・国道D64号線が同D18号線に合流する地点)に残留しました。

 大佐が橋の袂に到着すると、ちょうど仏軍は騎銃ではなくシャスポー銃を手にした下馬竜騎兵50名ほどの集団を先遣としてリュールに送り込もうとしていたところで、ヴィリゼン大佐は直ちに一斉射撃を命じて仏竜騎兵を駆逐するのです(この騎兵は仏第18軍団麾下と思われます)。

 しかしこの時、仏軍(クレメー師団です)は歩兵部隊を市街南西側の鉄道線沿いに進めてリュール市内への侵入を謀り、また別の一大縦隊がル・ヴァル=ド=グウナン(リュールの南7.3キロ)からリュール目指して進撃中であることが斥候から報告(こちらは第18軍団後衛で、実際はリュールではなくモフォン=エ=ヴァシュレス目指し東進中でした。後述します)されたため、ヴィリゼン大佐は夕闇迫る中、任地を放棄してロンシャンまで退却し、ここで一足先に到着していたフォン・パチンスキー=テンツェン少佐の部隊(予備猟兵2個中隊にザクセン王国の予備軽砲第2中隊)と合流するのでした。


 この14日。午前中の早い時間からリゼーヌ戦線の独軍は前哨線の全面において仏軍の斥候と接触し、お互いの本隊も極至近まで迫り対峙することとなります。

 先述通り川は凍結しており軍事上の障害とはなりません。誰が見ても仏軍はこの14日に総攻撃を始めそうな勢いでしたが、実際この日は互いを視認しただけで何事もなく過ぎて行きました。


挿絵(By みてみん)

リゼーヌ戦線(71年1月14日夕)


 この何時でも「発火」しそうな状況を作り出したのは仏東部軍司令官シャルル・ソテ・ブルバキ将軍その人で、将軍はこの14日に攻撃を始めるべく準備を進めていました。


 ブルバキ将軍は、「独軍は我より寡少であり、その左翼をドゥー川に頼ってモンベリアールからエリクールの北郊外まで薄く展開し、右翼の防御中心はヴォドワ山」と独軍の配置を正確に見抜いていました。将軍は、この敵の「薄い戦線」に対し、まずは大砲射程外となる5、6キロまで自軍を接近させようと考えます。

 この日、右翼から第15、第24、第20の三個軍団は予定通りデュン~エブル~ル・ヴェルノワ(エブルの北西1.9キロ)の線上に到達しました。しかしその北・左翼端を担うはずの第18軍団は前日13日も目標のスナン(アルセの北西7.3キロ)越えを達成出来ず、14日も細い山道に手こずって前衛師団がロモン(フライエの西南西11キロ)へ、最後方はモフォン(=エ=ヴァシュレス。リュールの南東7.6キロ)まで進んだに過ぎませんでした。また、何故かブルバキ将軍配下ではなく独立した存在だったカミーユ・クレメー将軍師団も、12日に入城したヴズールを発し、前述通りリュールに達しただけで未だ遠く離れていました。この仏軍左翼の任務は重大で、ブルバキ将軍は左翼にある第18軍団とクレメー師団を、独の強固な拠点となりつつあるエリクールとヴォドワ山の北側・細い小川程度で夏でも障害とはならないリゼーヌ上流で渡河させ、激戦が予想されるエリクールを北方から脅かして独戦線を崩壊させようと考えていたのです。


 ブルバキ将軍の「リゼーヌ川突破作戦」の第一段階は、モンベリアール前面に至った第15軍団を軸としてほぼ東西に並んでいた諸隊を右旋回させ、南北に並んでから総攻撃を行おうとしたものでしたが、全ての団隊の集合を待つと独軍に時間を与え過ぎてしまうと考えたブルバキ将軍は14日、ロラン将軍の第7師団管区からの4個大隊を第15軍団の攻勢と同期させてモンベリアールを攻撃させ、独軍の注意を南方に向けさせている内に第24、第20両軍団がエリクール前面に無事達し、その後第18軍団とクレメー師団が左翼に到着した時点で総攻撃、と考えたのでした。

 しかしこれは全く机上の空論とも呼ぶべき代物で、第18軍団もクレメー師団も14日中にこの命令を実施するため他三軍団に並列するにはかなり無茶をせざるを得ない状況で、命令実施は不可能と見た第18軍団長ジャン=バティスト・ビオ将軍とクレメー将軍の上申により、作戦実施は15日に延期となるのです。


挿絵(By みてみん)

ブルバキ将軍


※ブルバキ将軍による15日の命令


「1871年1月14日 オナン(アルセの南西4.3キロ)にて

我が軍は明日も攻勢を継続する。将兵には肉入りスープ(仏東部軍としては「ご馳走」です)を配給するのでこれを食した後、午前6時30分、戦闘態勢を完了せよ。

第15軍団は払暁、モンベリアール市街へ突入せよ。軍団は途上の森林地帯もくまなく捜索しつつ伏兵に注意し、右翼(南)側のドゥー河畔に沿う街道も警戒せよ。軍団はモン・シュヴィ農場(ル・モン・シュヴィ。モンベリアール城の北西2.3キロ。小部落になっています)とその北のブルジョワ森(現存します)を収め、ドゥー川右(北)岸に接する諸拠点も確保せよ。また、市街と城塞に対して砲撃を実施せよ。

第24軍団は第15軍団のやや後方を進み、モンヴィラール森(ブルジョワ森の北側)、ル・グラン森(モンヴィラール森の北西側)、タヴェ森(ル・グラン森の北側/タヴェ南郊)、シャノワ森(タヴェ森の北東側)を抑えよ。同時に軍団はリゼーヌ川右(西)岸まで前進し各渡河点を占拠し、対岸(エリクール方面)を砲撃するに適した地点に砲を展開せよ。

第20軍団はタヴェ森で第24軍団と、コワズヴォー(タヴェの北西3.1キロ)~ビャン(同北北西1キロ)間のコミュノ森高地にて第18軍団とそれぞれ連絡を通し、先ずはタヴェを攻略し次にエリクール市街へ向かえ。軍団はエリクール解放を主任務とするが、これは第18軍団とクレメー師団が目標を達成するのを待ち、軍団左翼によって最短の迂回路を取ってエリクールを襲撃することで目的を達成せよ(ヴォドワ山を意識してのことと思われます)。

第18軍団は前述のとおりに右翼が第20軍団と連絡を取り、先ずはクチュナン、リューズ、シャジェを解放せよ。

クレメー師団に対してはリュールから第18軍団の左翼側を(東へ)行軍せよと命じるところである。師団には午前6時頃にリゼーヌ川岸へ到達するべく行動を起こさせ、リュールからシャジェへの街道を使用させるが、シャジェ周辺街道は第18軍団が使用するのでこれを避けて行軍することを命じる予定である。また師団には可能な限りシャジェの上流2キロ付近(実際は1.4キロ付近です)の橋梁を利用しリゼーヌ左岸へ渡れと命じる。師団はエシュナン(=ス=モン=ヴォドワ。エリクールの北北西3.3キロ)及びマンドルヴィラール(エシュナンの北1キロ)を目標に進み、その右翼側シャジェ及びリューズから前進する事になろう第18軍団と同調して行動するよう命令するつもりである。師団はまたベルフォール方面から我が左翼(北)に通じる諸街道を警戒し、特にシャロンヴィラールからフライエへ向かう街道(現・国道D19号線)には最大限注意をさせる。

軍総予備団は第24軍団の行軍の邪魔とならないため、同軍団が全てアルセよりエリクールに向かう街道(現・国道D683号線)右翼(東又は南)に出た後、行動を開始とする。団隊はエブル~トレモアン(エブルの北北東1.6キロ)間に進み、街道はこれを封鎖せず空けておくこと。団隊は如何なる方面にも増援に赴けるよう常に準備しておかねばならない。

戦闘は第15軍団から行うこと。軍団はリゼーヌ河岸に達した時点から左翼の第24軍団を支援せよ。第15軍団の主任務はモンベリアールの解放にあるが、大損害を受けることを避け、また、全軍の作戦目的を阻害しないためにも軽挙妄動をしてはならない。この任務には在ブザンソンのローラン将軍が命じてブラモン(モンベリアールの南南東14.2キロ)から四個大隊の歩兵を増援として派遣しているので、更に有利に進めることが出来るであろう。この四大隊にはグラン川に沿ってエリモンクールへ、更にスロンクール、オダンクールとドゥー川右岸(ここでは東)をソショーに向けて前進し、結果モンベリアールの独軍の退路を断つよう命じたところである。第15軍団は全軍右旋回運動の軸となり、旋回運動は他軍団が行うことを忘れてはならない(モンベリアール付近から勝手に動くな、という戒めです)。

第24軍団は同じく全軍右旋回の軸に近いため拙速に行動せず、先ずはリゼーヌ川の諸渡河点を確実に占拠し、同川左岸に散兵を展開させよ。軍団は特に命令がない限りには全部隊を左岸に渡してはならない。

第20軍団は右翼と中央をエリクールに突入させるのを主任務とするが、先ずは苛烈なる砲撃を同市街に行い、同時に左翼の行動と第18軍団並びにクレメー師団の運動が相乗効果を挙げるまで待ってこれを行うこと。

第18軍団は払暁時に野営を撤収し行動を始めよ。しかし戦闘行動は第15軍団が攻撃を開始した後、その砲声を聞いた後に開始せよ。軍団はクレメー師団と接して同一方向へ行動するため、師団が前進する時機が訪れたならば直ちにクレメー将軍へ通告せよ。

我が軍が主任務を達成(エリクールとモンベリアールの制圧)したならば、クレメー師団には夕暮れまでにアルジエザン(ベルフォールの南西5キロ)とその周辺にある陣地(独攻囲兵団の包囲網)を占領させる予定である。第20軍団はエリクールとその東側諸陣地を占拠せよ。第18軍団は、第20軍団とクレメー師団の中間に進出せよ。第24軍団はエリクールより下流のリゼーヌ河畔に展開し、その右翼はモンベリアールを解放した第15軍団と連絡を取れ。軍総予備団は現地にて宿営地に関する命令を受けよ。

各軍団長は全ての攻撃に先立ち砲兵を活用せよ。また、歩兵縦隊の前方には適度の間隔を設けて常に散兵多数を先行させよ。これは重大に付き麾下に対し明確に命じるべきである。また進軍方向の前方及び側面に対して捜索を絶やさず、敵兵力の存在と築造された堡塁や防御物の類を適宜掌握せよ。敵は最近占領地の森林内に鉄条網を設置すること多々あるので、行軍・撤退共にこれに留意し撤去を心掛けよ。

それぞれの軍団間は地形のためお互いが見えず断絶しているので、相互の連絡には注意を要する。軍団長は隣接軍団との相互連絡を頻繁に行い、あるいは会見し、前進の様子を互いに通知することに留意せよ。河川渡河点は細心の注意を以て偵察せよ。行軍路はその通行を容易とするため、また(凍結しているので)人馬を滑落、転倒させないように整備と準備を念入りに実施せよ。橋梁の架設に要する樹木はこれを速やかに伐採し、その踏板も速やかに準備し、その他の工具と人員も必要と認められる地点に必ず準備し待機させよ。

糧食縦列に関しては後方に残留させよ。予備弾薬縦列も同様とする。弾薬補給は必須となった場合に実行するため、弾薬縦列は糧食縦列の前方に位置させよ。

本日(15日)より糧食並びに弾薬の分配権限は各軍団に与える(これまでは軍本営と後方幕僚の管理でした)。戦闘の最中でも弾薬補給について容易に行えるか否かは、各軍団長と師団長が予備を含む弾薬縦列の位置を明確に知っているか否かにかかっていると思え。

第18軍団は戦闘最中必要に応じてクレメー師団にも弾薬を融通せよ(クレメー師団には予備弾薬縦列が存在していなかったと考えられ、弾薬が不足気味だったと想像されます)。

軍本営は極力エブルとエリクール間の街道(現・国道D683号線)上にあり。

第一軍司令官 ブルバキ中将」(筆者意訳)


挿絵(By みてみん)

仏軍士官斥侯


 ブルバキ将軍は「指揮権外」にあるリュールのクレメー将軍にも14日午後2時に在オナン本営から電信で「指示」を出しており、東部軍総力の進撃が15日に行われることで、クレメー将軍も第18軍団長のビヨ将軍と連絡を取り合い、15日午前6時にはリゼーヌ河畔に到着するべく十分に早く出立するよう「要求」し、前述の軍命令で示したクレメー師団の任務を列記して実施するよう要求しました。また、第18軍団左翼と行軍を錯綜させないため「リュールからエリクールに直接向かう街道を使用する場合は最短で済ますよう、またベルヴェルヌ(リュールの南東13.2キロ)から先この街道(現・国道D438号線)から離れるよう」要求しています。


 余談となりますが、ブルバキ将軍の命令書とヴェルダー将軍の命令書(普仏戦争/エリクールに至るまで~1月10日から13日を参照)を比べてみると、ヴェルダー将軍が簡潔に実行すべき「行動」と「目的」を指示するだけで、そのための「準備」や「方法」を示していないのに対し、ブルバキ将軍のそれは砲兵の活用やら偵察の徹底、果てには架橋のための樹木の伐採を急ぐように、など、独軍ならまるで新米下級士官へ指示するお節介で心配性の指揮官のような命令書となっています。とても数万人を指揮する軍団長クラスへの命令には見えませんが、これこそが仏軍では当然だった上官命令の徹底服従、独軍では当たり前の独断専行は命令不服従として軍法会議ものという現状(それは帝政を終えても変わりません)からこの「手取り足取り」の命令書となるのであって、仏軍の将軍にとってはごく普通・プライドも傷付かない命令書なのでした。


 一方、相手側のヴェルダー将軍はこの14日、自軍団が置かれた厳しい状況をベルサイユ大本営に電信にて申告します。


挿絵(By みてみん)

ヴェルダー(1875年)


※ヴェルダー将軍から14日午後ベルサイユへ送られた電文


「1月14日夕刻・ブルヴィリエより発信

宛・在ベルサイユ将官・伯爵フォン・モルトケ閣下

新参なる敵軍隊は我軍南方及び西方よりリュール及びベルフォールに向かい行軍しました。同時にポール=シュル=ソーヌに敵の新たな集団(クレメー師団)あるを確認しました。敵軍は本日我軍正面(モンベリアール方面)においてバールとデュン付近の前哨を襲うものの失敗に帰しました。このように我軍は優勢なる敵軍の包囲を受けつつありますが、このような状況においても引き続きベルフォールの包囲を維持すべきか考察して頂きたく切に希望致します。本官はエルザス州を我軍が防衛すべきと信じますが、我軍団が消耗し尽くしてしまうのを許すのでなければベルフォールの攻囲をも続行すべきか確信を持てないでおります。ベルフォール攻囲の維持は本官が作戦の自由を得るに当たりその自由を奪うこと甚だしく感じるところであります。諸河川は厳寒によって凍結し通行は容易であります。

フォン・ヴェルダー」(筆者意訳)


 これに対し、ベルサイユのモルトケ参謀総長は折り返し端的な返信を認めました。


※モルトケ参謀総長から15日午後ブルヴィリエへ送られた電文


「1月15日午後3時・ベルサイユより発信

宛・在ブルヴィリエ将官・伯爵フォン・ヴェルダー殿

敵軍の前進はベルフォール攻囲網を援護すべき堅固な陣地帯にて待ち受けここにおいて会戦を行うこと。

リュールよりベルフォールに至る街道はこの会戦において固守すること最も緊急を要する貴軍団の任務である。サン=モーリス(=シュル=モセル。ベルフォールの北24.7キロ)にも監視哨を設置することを本官は望む。マントイフェル将軍の軍も進撃を始めているので、その効果は日を経ずして現れるであろう。

伯爵フォン・モルトケ」(筆者意訳)


 即ちモルトケ総長はヴェルダー将軍にリゼーヌ河畔で「軍団を磨り潰してでも退かず」に会戦を断行せよ、と命じたのです。14日夕に一見「弱気に」後退を示唆したヴェルダー将軍も既述通り既に12日独断でリゼーヌ河畔での迎撃を命じており、この電文のやり取りはヴェルダー将軍が「第14軍団が壊滅を覚悟しリゼーヌ河畔で戦うことがベルサイユ大本営の戦略に則すか否か」を確認し、モルトケ総長が「それは正しい」と答えた、そう言うことだったのです。


挿絵(By みてみん)

ヴィルヘルム1世とモルトケ


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