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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・独南軍と仏東部軍
470/534

エリクールに至るまで~1月10日から13日


☆ 1月10日


挿絵(By みてみん)

ムワメの戦闘(1月9日)


 「ヴィルセクシュエルの戦い」で将兵誰もが眠れぬ夜を過ごした独予備第4師団は、フォン・ヴェルダー将軍の命令に従い10日早朝、第14軍団本隊の東進を援護するためロンジュヴィルより行軍を開始し、アトゥザン(=エトロワトフォンテーヌ。ヴィルセクシュエルの北東7.6キロ)まで進みました。ここで即席の防衛線を展開して仏軍の追撃を待ち受けます。

 同じく早朝にエルヴァン周辺から出立したフォン・デア・ゴルツ支隊は、予備第4師団の北方をベルヴェルヌ(リュールの南東13キロ)目指して行軍し、ヴィルセクシュエル東方のマラストやラ・グランジュ・ダンサン十字路付近で野営したBa師団は、向かい合う仏第18軍団前哨の前から離脱してリュールとロンシャン(リュールの東10キロ。1955年完成の世界遺産ル・コルビュジエ作の礼拝堂があります)を結ぶ街道筋を目標に行軍しました。

 予備第4師団はBa師団やフォン・デア・ゴルツ支隊の目的地到達を知らされると、街道筋の要点・ル=ヴァル(=ドゥ=グウナン。アトゥザンの北北西3.2キロ)とラ・ヴェルジャンヌ(同北北東2キロ)に後衛を残置して後退、モフォン(=エ=ヴァシュレス。同北東4.8キロ)周辺で宿営に入りました。


挿絵(By みてみん)

戦闘の跡 燃え落ちた家屋が残るヴィルセクシュエル市内


 9日はブズールとソーヌ河畔のポール=シュル=ソーヌで敵を警戒していたカール・ゲオルグ・レオポルト・シュテファン・バイエル大佐とフォン・パチンスキー=テンツィン少佐の隊*も10日黎明前にそれぞれの宿営地を発ってヴィ=レ=リュール(リュールの南西5.7キロ)に向かいます。

 バイエル大佐は目的地への行軍前に、先ずは東側ベルフォール街道筋の状況を確かめようとレ・ベル・バラック(ブズールの南東8.6キロ)まで進みました。ここで小休止の後、敵軍団がいると思われるエスプレル(ヴィルセクシュエルの西南西4.9キロ)方面を偵察しようと更に東へ進みますが、ヴァルロワ=ル=ボワ(レ・ベル・バラックの南東4.4キロ)付近で仏第18軍団の左翼端部隊と遭遇し短時間交戦、深入りする前に退却しました。幸いにも追撃はなく大佐と支隊は夕刻無事にヴィ=レ=リュールへ到着しています。


※1月10日のバイエル支隊とフォン・パチンスキー支隊

◆バイエル支隊

○Ba第4「ヴィルヘルム親王」連隊・第2、F(フュージリア/第3)大隊

○オイペン後備大隊(アルザス総督府所属。兵站路守備隊のため6個中隊制です)

○予備驃騎兵第4連隊・第1中隊

○野砲兵第7連隊・予備重砲中隊

○野砲兵第12「ザクセン王国」連隊・予備軽砲第2中隊

◆フォン・パチンスキー支隊(所属はロートリンゲン総督府です)

○予備猟兵第1大隊・第1,4中隊

○Ba竜騎兵第1連隊・第1中隊


 ヴェルダー将軍は10日夜、軍団背後(西方)と北方の兵站拠点エピナルの援護として、Ba騎兵旅団長代理の男爵カール・ゲオルグ・グスタフ・フォン・ヴィリゼン大佐に対し、「一支隊を編成しその指揮官に任ずる」と命じました。ヴィリゼン大佐はバイエル、パチンスキー両支隊を中核に支隊を編成しリュールを根拠地に暫くは偵察警戒活動に励むこととなりました(バイエル大佐は麾下連隊2個大隊と共に原隊復帰目指してリュールを去りました)。


※1月11日/フォン・ヴィリゼン支隊(歩兵8個・騎兵13個・砲兵2個各中隊)

○オイペン後備大隊

○予備猟兵第1大隊・第1,4中隊

○Ba竜騎兵第1連隊

○予備槍騎兵第1連隊

○予備竜騎兵第2連隊

○予備驃騎兵第4連隊・第1中隊

○野砲兵第7連隊・予備重砲中隊

○野砲兵第12連隊・予備軽砲第2中隊


挿絵(By みてみん)

オニヨン川に架かる独軍の仮橋


 一方、ベルフォール攻囲兵団の西方部隊、アルセ在のフォン・ブレドウ支隊はこの10日、倍する強大な仏軍(第24軍団の前衛、第3師団です)が至近に展開し始めたことに気付き、隷下に警戒態勢を採らせますが、この日は遂に攻撃を受けることはありませんでした。どうやら仏軍はヴェルダー軍団と攻囲兵団の間に入り込んで連絡を絶つだけで満足した様子で、時折アルセ市街へ榴弾を見舞うだけでした(野砲による遠距離「嫌がらせ」砲撃で独軍の損害は殆どありません)。

 昨日麾下の野営地に向けて仏軍の前進が見られたフォン・デブシッツ少将はこの日反撃に出て、「アーペンラーデ」後備大隊の3個中隊・予備槍騎兵第6連隊の1個小隊・予備軽砲の1個小隊(2門)を伯爵フォン・シューレンブルク大尉に預けて敵がいると言うアベヴィエ(デルの南西10キロ)へ出撃させました。大尉はここで仏護国軍と義勇兵の大きな集団を発見し果敢に攻撃を仕掛け、一時は激しい戦闘となります。結果仏軍は撤退し部落は占領されました。


71年1月10日夕刻

挿絵(By みてみん)


☆ 1月11日


 この日、Ba師団はフライエ=エ=シャトビエ~シャロンヴィラール間のリュール~ベルフォール街道(現・国道N/D19号線)沿いに、フォン・デア・ゴルツ支隊はシャジェ(ベルフォールの西南西10キロ)、リューズ(シャジェの南1.8キロ)、クチュナン(リューズの南西1.2キロ)に、予備第4師団はタヴェ(同南3.5キロ)とエリクール(同南南東2.8キロ)に、それぞれ到達しました。

 これによりヴェルダー将軍率いる第14軍団は再び集合を成し、リゼーヌ川(フライエ=エ=シャトビエの西方、ロンシャンの南東高地を水源にシャジェ、リューズ、エリクールを抜けてモンベリアールでドゥー支流アラン川に注ぐ支流)の線上に展開し、仏東部軍がベルフォール攻囲兵団の背後(西~南)へ到達する前にその間へ割り込むことが出来たのです。

 この「リゼーヌ戦線」の両翼前面にはフォン・ブレドウ大佐率いる支隊がアルセに、フォン・ヴィリゼン大佐率いる支隊がリュールにそれぞれ駐屯し、仏軍が戦線両翼を通過するのを警戒・監視していました。


 こうして「ヴィルセクシュエル敗戦」の雪辱を果たそうと燃えるヴェルダー将軍と麾下第14軍団は疲弊した身体に鞭打ち、ほぼ3日間短時間の仮眠と緊張感の中で頑張り通し、ブルバキ仏東部軍を迎撃する態勢を作り出すのです。


 将軍は前日10日午後、「次の戦線」に予定されるリゼーヌ渓谷の地形と現状を確かめるため本営幕僚と共に先行し、先ずはロンシャンに至りますが、ここに伝令の猟兵1名(パチンスキー少佐の部下と思われます)が現れ一通の命令書を将軍に手渡しました。

 この命令は7日付の大本営訓令で、ヴィルセクシュエル戦の前日にモルトケ参謀総長が予告していた「南軍編成と第14軍団の今後採るべき作戦」を正式に命じたものでした。将軍は「実施中の作戦は大本営の命令と一致しており現命令に変更なし」として、リゼーヌ渓谷の上流から下流に向けて視察を続けたのでした。


 11日にヴェルダー将軍は予定通り麾下諸隊がリゼーヌ戦線へ到着しつつあるのを確認すると、ベルフォール攻囲網の南西側拠点・アルジエザン(ベルフォールの南西5キロ)に向かい、この地にU・トレスコウ将軍を呼び出して会談を行います。ヴェルダー将軍はここで攻囲兵団が採るべき作戦と第14軍団が行う作戦を伝え、U・トレスコウ将軍がその実行を約束するとヴェルダー将軍はリゼーヌ戦線に戻り想定戦闘陣地帯を念入りに調査するのでした。


 リゼーヌ川はデルを流れるアレーヌ川と共に「トゥルーエ・ドゥ・ベルフォール(ベルフォール回廊)」内でヴォージュ山脈からスイス国境まで南北に走る「断絶線」を作り出しています。この断絶線は防衛適地ともなりますが、リゼーヌ川はその上流において単なる「小川」に過ぎず、フライエ(=エ=シャトビエ)地方では軍事的に障害足り得ません。この川が軍事的に意味あるものとなるのはシュヌビエ(シャジェの北4キロ)の東郊を過ぎてからで、ここで初めて川は幅員6~8m・深さ50センチ~1mになり、所々で2mを越える淵も出現するようになります(この有様は現在でも変わりません)。しかし季節は冬。この後に発生する戦闘時、川は完全に結氷しており、砲撃などで氷を破砕しない限り防御に役立つことはありませんでした。


 リゼーヌ川が作り出した渓谷はフライエ付近では四方を緩やかな高地に囲まれる窪地を形成し、その先シャジェを越えリューズまでは両岸が起立した河岸段丘となり、東西には通行困難な険しく深い森林が広がる山地を抜けて行きます。この先エリクールに至ると川は東西に広がる渓谷を成しますが、この谷間はリューズの南東側、エリクール北方に聳える岩山・ヴォドワ山(モン・ヴォドワ。エリクールの北2.3キロ付近にある普仏戦後の77年に完成した要塞付近が頂上となります)から全て俯瞰されることとなります。エリクールを過ぎると川は再び東西に山地を見る狭い渓谷となり、この渓谷東西にあるのは西側シュノワの森高地(ボワ・デュ・シュノワ。エリクールの南南東2キロ付近)と東側ダナン山の森(ボワ・デュ・モン・ダナン。同東南東2.2キロ)で、ここから川がアランに合流するモンベリアール市街北郊まで6キロほどが渓谷となっています。渓谷の幅はもっとも狭いベトンクールの南郊外で約300m、最も広いところでも700mほどでした。

 モンベリアール市街の北東方高地上にある農家、ラ・グランジ・ダム(モンベリアール城の北1.6キロ付近。現在のテニス場付近にありました)からは渓谷の大部分を俯瞰することが可能で、この高地に砲を展開すれば渓谷を制することが期待出来ました。また、エリクールからモンベリアールに向かう鉄道線はリゼーヌ川の左岸(東)に沿って敷設され多くが堤となっており、高いところでは8mに達する鉄道堤もまた東西に通行を制限する効果的な防壁と成り得ました。


 リゼーヌ川が俄然重要度を増すシャジェから下流域において東側ベルフォール方面へ抜ける街道は、アルセからエリクールを通るもの(現・国道D683号線)と、同じくアルセからモンベリアールへ至るもの(現・国道D33号線)の二本だけで、他は渓谷両岸の高地を抜ける軍隊の行軍には不向きな山道でした。この内後者はモンベリアール市内にある堅牢な城塞のため交通を管制されており、また前者にもエリクール西郊外のムニョ山(現在の陸上・サッカー競技場の南300m付近)や同市街北西・リューズへの街道(現・国道D16号線)西脇にある墓地(現存します)、ブーランゲル水車場(市街南郊の川岸にありました。現在は工場の敷地内になっています)など様々な防御拠点候補があり、守備側に優位を与えました。また、この前面(西)にありアルセ街道のエリクール「玄関口」に当たるタヴェの部落は、西方からの攻撃側にとって有効な掩蔽を与える拠点になり得ますが、この地も砲撃陣地に理想的なヴォドワ山から射程内(実際に築造された砲台からは3,300m)にあり、この他エリクールに迫る裏街道や小道は数条あるものの多くが切り通し状の狭い道筋で日陰が多く、当時は積雪が厚く凍結して通行困難となっていました。


 つまりは当時、現実的に西側からベルフォールに至るにはエリクールを「抜く」か、リュールを陥落させてロンシャン~フライエ(=エ=シャトビエ)へと抜ける街道を行くかのニ択に限られていたのでした。

 また、アルセからエリクールに掛けては森林が広がる山地で遮蔽が多くあり、仏軍は独軍の目を盗んでエリクールやフライエに接近することも出来ましたが、逆に言えば障害物多く行軍は困難で、その砲兵は展開地が限られ且つ設置に難多く、配置出来たとしても数門を置くのがせいぜい、と言ったところでした。


挿絵(By みてみん)

エリクール市街


 このように西面に対して防御に優れたリゼーヌ渓谷でしたが問題もあり、それは現在の第14軍団本隊だけでフライエからモンベリアール北のベトンクールまで(直線距離でも15キロ)を防衛するのは無理があることと、ベルフォール方面からの増援や物資が輸送可能な街道が二本しかない点でした。

 つまり、ヴェルダー将軍は限られた貴重な実働戦力を分散配置しつつ、敵が想定外の行動を起こして防御薄い「まさかの地点」を襲撃した場合に備え、機動防御用の予備戦力もしっかり準備しなければなりませんが、その増援が到達すべき距離は長く且つ凍結して行軍困難だったのです。


 この状況を予め察していたのがベルフォール攻囲兵団長のU・トレスコウ将軍でした。


 将軍は南軍編成が通告された頃(1月7日)、ベルフォール要塞に対する本格的な攻城砲撃を開始すると共に、俄に騒々しくなって来た攻囲網背後の防衛を強化するため、リゼーヌ東河畔やアラン流域、デル周辺のアレーヌ沿岸に砲台を築造する命令を下し、この急造砲台に当座使う予定の無い攻城要塞砲を設置する準備に入ったのです。

 将軍はかねてより攻囲網外側の防御としてリゼーヌ川とアラン~アレーヌ川に注目しており、ヴェルダー将軍と同じく「長い防衛線に少ない展開兵力・機動も制限」される状況から「強力な砲撃で接近する敵を長距離から牽制・粉砕」することを考えたのでした。

 この攻城砲の内7門はヴォドワ山中腹に、5門がモンベリアール北のラ・グランジ・ダム農家の高地西縁に、6門がモンベリアール城郭内に、16門がアラン、アレーヌ両河川後方拠点にそれぞれ配備されたのです。


※ベルフォール攻囲兵団が設けた攻囲網外側の砲台

*外1号砲台 12センチカノン砲x7門

 エリクール北ヴォドワ山南斜面

*外2号砲台 15センチカノン砲x5門

 モンベリアール北東「ラ・グランジ・ダム」高地際

*外3号砲台 9センチカノン砲x4門、12センチカノン砲x2門

 モンベリアール城内(「ベルフォール攻囲(前)/攻城砲撃と攻囲網の前進」を参照願います)

*外4号砲台 9センチカノン砲x2門

 ヴュー・シャルモン(モンベリアールの東北東3.4キロ)付近

*外5号砲台 9センチカノン砲x2門

 アランジョワ(同東北東7.7キロ)付近

*外6号砲台(双子砲台) 15センチカノン砲x2門ずつ

 攻囲兵団本営のあるブローニュ(アランジョワの北北東3.5キロ)部落を挟む西と北東高地上

*外7号砲台 12センチカノン砲x2門

 グランヴィラール(デルの北北西4.3キロ)北方

*外8号砲台 15センチカノン砲x4門

 ジョンシュレ(同北2.3キロ)北方

*外9号砲台 12センチカノン砲x2門

 デル付近

*外10号砲台 15センチカノン砲x3門(1月下旬に追加)

 ムーラン・ルージュ(エリクールの北8.1キロ、ベルフォール街道脇に当時あった風車場。シャロンヴィラールの北西郊外。農家として現存します)付近


 ヴェルダー将軍は念入りな観察の結果、リゼーヌ流域でブルバキ軍を迎撃することを決心し、戦線の中央に当たるエリクールの後方ブルヴィリエ(エリクールの東2.5キロ)に本営を構えると麾下に対して翌12日から防衛線に就き戦線を強固にするよう命じたのです。


挿絵(By みてみん)

フライエ(20世紀初頭)


※1871年1月11日/ヴェルダー将軍の命令


「1871年1月11日午後10時 在ブルヴィリエ本営にて


本官は本日、ベルサイユ大本営在国王陛下勅令によりベルフォール攻囲兵団を直接指揮すべく命じられ、また攻囲兵団を含む第14軍団はフォン・マントイフェル大将指揮の南軍に属すこととなった。このため、諸隊に対し次の通りに配置に付くことを命じる。

フォン・デブシッツ支隊はデル及びボークールそしてエクサンクール(モンベリアールの南東2.7キロ)の従来陣地を保持せよ。但しソショー(同東2.5キロ)に派遣している1個大隊は、予備第4師団が交代を送るので交代兵の到着次第直ちに本隊へ帰還せよ。この際ソショー在のバイエルン王国軍要塞砲兵出撃砲兵中隊は予備第4師団に属するものとする。

予備第4師団は12日早朝から行動を起こし、アルセ在のフォン・ブレドウ支隊と交代せよ。シュメリング将軍麾下で今日まで攻囲兵団にあるものは予備第1師団兵と塹壕守備勤務を交代して本隊へ帰還せよ。この交代においては先にフォン・シュメリング、U・トレスコウ両師団長による協議を要するので手配せよ。

予備第4師団は13日午後12時を目標に1個旅団と砲兵4個中隊にてエリクール周辺を占領し前哨を展開せよ。同時に1個旅団と砲兵2個中隊及びソショーにて隷下となるカイナート大尉率のバイエルン王国軍要塞砲兵出撃砲兵中隊はモンベリアールを占領し、前哨を配置して歩兵2個中隊にて城塞を警備すること。モンベリアール守備隊はまたベトンクールとソショーに各1個大隊を派遣し占領せよ。予備第4師団の戦区となるエリクール~モンベリアール間の陣地には砲兵諸中隊を送り、この砲兵は拠点に設置する肩墻で任に就き、兵員と馬匹の宿営は任地に最も近い部落や家屋に設けよ。なお、フォン・シュメリング将軍は現状を見て最前の前哨をアルセに置くかその後方リュプト川(アルセの北5.3キロのグイヌイエール沼付近を水源にエブル~エシュナン~レイナン~デュンと流れ、モンベリアールの南西2.9キロのバールでドゥー川に注ぐ支流)に置くかを決定せよ。この決定において前提となる貴官の緊急かつ重要な任務は、敵の前進に対し強力な抵抗を行うことにより敵がその場(出来る限りリゼーヌ川から離れた地点)に展開せざるを得ない状況を作り出し、その進撃を阻害することであることを考慮せよ。

フォン・デア・ゴルツ支隊は予備第4師団の北方を戦区として同師団と連携し、前衛をクチュナン、本隊をシャジェとリューズに配置せよ。

Ba師団中の第1旅団と砲兵2個中隊、騎兵1個中隊はシャロンヴィラール、マンドルヴィラール(エリクールの北北東4.3キロ)、ビュク(マンドルヴィラール北東隣)、エシュナン(=ス=モン=ヴォドワ。同南950m)に宿営し、敵襲来の警報によりマンドルヴィラールに集合せよ。Ba第2、第3両旅団はフライエ周辺に集合し、リュール在のフォン・ヴィリゼン大佐とロンシャンを介して連絡を通すこと。Ba師団本隊前哨はベルヴェルヌ方面を警戒しエトボシ(フライエの西南西5.7キロ)に配置すること。同師団の残り砲兵4個中隊は軍団予備砲兵隊としてシャロンヴィラールかフライエに宿営待機とせよ。Ba師団司令部はフライエに構え同地において軍団本営宛の諸通信を受領し検閲して重要なるものと判断すれば伝令騎兵により軍本営に送達せよ。

フォン・ヴィリゼン大佐は麾下と共にリュールに駐留を続け、もし強大な敵に攻撃された場合はロンシャン方向へ退却し、そのままジロマニー(ベルフォールの北11.8キロ)へ向け撤退せよ。

各師団・支隊はあらゆる事変ある毎、なべて互いに通報し合い、各宿営の間には連絡騎兵の哨所を設けて相応の騎兵を待機させよ。騎兵の待機所はなるべく部落の役場かその近辺に設け、誰からも判別可能なように標識を備え夜間は灯火を以て明示せよ。

報告によれば攻囲兵団の工兵らは既にベトンクールとビュシューレル(エリクールの南南東3.2キロ)のリゼーヌ橋梁を爆破したとのこと。今後攻囲兵団はソショー付近と同地から上流のデルに至るまでのアラン、アレーヌ両河川に架かる諸橋梁に地雷を敷設し、付近には工兵を派遣すること。

特別任務を与えるのでU・トレスコウ将軍は要塞工兵1個中隊を選び、同中隊はBa師団の歩兵2個中隊と騎兵1個小隊から成る護衛隊と共に5セントネル(約250Kg)の火薬を携行して、12日午後12時までにショー(ベルフォールの北7.6キロ)へ集合せよ。任務については選抜された中隊長にこれを授ける。

要塞砲兵諸隊はモンベリアール城内の砲を強化し同市外北東高地上に強固な砲台を築造してベトンクール方面の谷を射程に収め、モンベリアール市街も全て掃射可能とせよ。もしこの高地に砲台を置けない場合はベトンクールの北東側高地にこれを設置せよ。

フライエ付近にある輜重は12日朝、各団隊に招致せよ。スポネック伯爵(軍団砲兵部長)は1個歩兵弾薬縦列をエリクールのシュメリング将軍へ送致し、この縦列は弾薬を搬入し空荷とした後ダンヌマリー(ベルフォールの東19.2キロ)まで行軍し補充を受けよ。フォン・セリウス少佐指揮の軍団輜重大隊は12日、ジロマニーに達し、13日にはマズヴォー(ベルフォールの北東18キロ)及びゼントハイム(マズヴォーの東南東4.8キロ)に到達するよう、Ba師団長はこの件を少佐に伝達せよ。

Ba師団はなおロンシャンと同地よりシャンパニー(ロンシャンの東4キロ)までの街道上に待機中の糧食縦列と補助糧食縦列をフライエとマンドルヴィラールへ送り、その車輌は糧食搬入後ゼントハイムへ送るように命じる。

諸師団は諸隊の配置に付き、明日午前11時までに軍本営へ提出せよ。

                                  フォン・ヴェルダー」


71年1月11日夕刻

挿絵(By みてみん)


☆ 1月12日~13日午前


 12日から13日に掛け、第14軍団は前記の命令通りリゼーヌ川に戦線を築き、U・トレスコウ将軍は命じられた諸隊の再配置と共にヴェルダー将軍の「極秘命令」を実行させるため、バイエルン王国要塞工兵第4中隊長のナーゲル大尉を呼び出します。

 ナーゲル大尉は用意された爆薬を馬車に乗せ、部下と共に任地を離れて包囲網の北を抜けショーへ急ぎました。ここで同じく要塞工兵の護衛を命じられてフライエからやって来たBa師団のライレ大尉(Ba第6連隊第2大隊長)と落ち合います。ライレ大尉は部下の第5,8中隊とBa騎兵の1個小隊(所属不詳)を率いており、両大尉はここで「サン=モーリス行」を命じられたのでした。

 ヴェルダー将軍はモルトケ参謀総長からの訓令にあった「敵がヴォゲーゼン山脈以西を北進する可能性にも留意し、これの監視をもおろそかにしてはならない」を実行するため、両大尉に戦線北方にあるヴォージュ山地内の諸街道が集中するサン=モーリス(=シュル=モセル。ベルフォールの北24.7キロ)で街道を遮断するよう命じたのです。

 ナーゲル=ライレ隊は12日正午、朝から続く吹雪の中ショーを発ち、40センチに近い凍り付いた積雪に足を取られつつも進みますが、山地に入るに連れ凍結した坂道は行軍を遅延させ、馬匹も転び車輌も脱輪するなど困難が増し、ようやく辿り着いたマルヴォー(ジロマニーの北4キロ)で当座必要のない携行品や個人装備を置いて行かねばなりませんでした。命令に絶対必要となる250Kgの爆薬は牛6頭を組んだ牛車に積んで慎重に進み、零下20度の厳寒と視界が閉ざされる悪天候の中、吹き付ける風雪はあらゆる物を凍結させ体力を奪い凍傷の危険が増しましたが大尉たちは歯を食いしばって耐え、難関のル・バロン・ドゥ・ダルザス(直訳すれば「アルザス男爵」山。標高1247m)も無事越えて14日、サン=モーリスの南郊に到達しました。ここでモセル川かその支流に架かる橋梁1本を爆破すると、逮捕される危険を承知で反抗する住民や山中に潜んでいるはずの義勇兵を警戒しつつ撤退し、その遠征も間もなく終わるルピュイ(ジロマニーの北2キロ)付近で自分たちが苦労して下って来た街道を爆破(サヴルーズ川に架かる橋でしょうか?)し通行不能とするのでした。


 ヴェルダー将軍ら第14軍団は、「ヴィルセクシュエルの戦い」からこの時点(1月13日)まで仏軍が動く気配がなかったことで貴重な時間を獲得し、折からの大雪にも拘らず短時間で「リゼーヌ戦線」を恐るべき強固な陣地帯へと仕上げて行き、少ない兵力を有効活用するための準備も促進しました。


 軍団本営のあるブルヴィリエから右翼・Ba師団司令部のあるフライエと後方・攻囲兵団本営のあるブローニュ(ブルヴィリエからは東南東へ9.9キロ)との間にそれぞれ電信線を敷設し、各拠点間の連絡を円滑にするための伝令騎兵哨を多数設けるのでした。特に、要塞工兵の出番は多く、全ての中隊が休まず出動して各拠点に散兵壕や肩墻を掘削・築造し、諸橋梁に爆薬を仕掛け、一部はそのまま爆破して落橋させ、更には凍結し通行困難な街道には滑り止めとして可能な限り砂や灰を撒いて精一杯の努力を傾けたのです。


 しかし独軍にとって一番の困難はなんと言っても後方連絡に補給でした。


 糧食と弾薬の輸送はこの時期困難の極致と言える状態に陥っており、ヴェルダー軍団にとってこの時の主後方連絡線はミュルーズ方面からではなくエピナルからで、それも当然、ヴェルダー将軍は1ヶ月前までディジョンにおり、後方連絡は既成の連絡線を延長して行くのが普通であるため、これもつい1ヶ月前までは不穏な状態であったアルザス南部を経由する連絡線はベルフォール攻囲兵団の補給品や攻城資材・弾薬を輸送するだけでも精一杯な状態である以上、第14軍団の主補給路は従来の連絡線を使用するしかなかったためでした。しかもこの時、エピナル経由でアルザス北部へ送った糧食縦列は未だストラスブールにあり、アルザス南部を越えて来た弾薬縦列もようやくダンヌマリーへ着いた頃合いだったのです。ヴェルダー将軍は補充を終えて帰着したばかりのBa師団の弾薬縦列から榴弾2,000発をエリクールのフォン・シュメリング将軍へ引き渡すよう命じたのでした。


 予備第4師団は12日、前衛がアルセで攻囲兵団配下のフォン・ブレドウ支隊と交代しましたが、アルセは既に仏大軍(南西方に第15軍団第3師団、北西側に第24軍団第3師団)が近距離にまで迫っており、ブレドウ大佐は加勢として1個(第67連隊第1)大隊を残置させたのでした。このアルセ北方では、フォン・デア・ゴルツ将軍が仏軍に接近して前哨を置こうと考え、シャヴァンヌ(アルセの北4.2キロ)まで一部隊を進出させました。


 一方、リュールのフォン・ヴィリゼン大佐はこの日、仏軍主力は変わらずヴィルセクシュエル周辺から動かないものの、その前衛と思われる一隊はモフォン(=エ=ヴァシュレス)まで進んでいたことを発見しヴェルダー将軍に報告を上げます。ヴィリゼン大佐は前述通り「敵に迫られた場合はジロマニー方向へ撤退せよ」と命じられていましたが、仏軍はリュールを攻撃する兆候を示さず、支隊はリュールに居座ったまま仏軍の監視を強化するのでした。

 この報告を受けたヴェルダー将軍は参謀総長の「示唆」とも一致すると考え、「仏軍は補給状態から支配下にある鉄道線より遠方に離れることが適わない状況に見える」として「敵の攻撃は我が左翼(モンベリアール方面)と中央(エリクール)に加えられるはず」と読み、右翼方面(リゼーヌ上流)には微弱な兵力を展開させ、右翼担当のBa師団の殆どを中央・左翼の予備としてリゼーヌ下流域後方に展開させることとするのです。


 この決定により、マンドルヴィラールにあったBa第1旅団は13日、軍本営のあるブルヴィリエとサヴルーズ河畔のシャントノワ=レ=フォルジュ(エリクールの東南東7キロ)へ分かれて移動し、代わりにBa第3旅団は騎兵と共にマンドルヴィラール周辺へ進みました。

 軍団最右翼に残留したBa第2旅団長、フォン・デーゲンフェルト将軍はBa第3連隊の第1、F大隊(当時第2大隊はフォン・デア・ゴルツ支隊への増援としてシャジェに居ました)と騎兵1個中隊、砲兵1個中隊を直率するとシュヌビエを中心に展開して駐屯を始めました。フォン・ヴィリゼン大佐はヴェルダー将軍から「万が一退却せざるを得なくなった場合はデーゲンフェルト将軍の待つシュヌビエ(フライエ)方向へ後退せよ」と命じられたのでした(この日、フォン・ヴィリゼン大佐麾下にあった予備驃騎兵第4連隊の第1中隊はリュクスイユ=レ=バン在の兵站守備隊に属することとなりリュールを去ります)。


 迎撃準備が完成に近付くにつれ、ヴェルダー将軍は冷静に敵を待ち受けると共に、巨大な敵に戦線を破られることがあってもサヴルーズ川の左岸(東側)を最終として踏み止まり「これ以上絶対に退かない」と決死の覚悟をするのでした。


※1871年1月12日昼/ヴェルダー将軍の命令


「1871年1月12日午後12時 在ブルヴィリエ本営にて

我が軍団が築いたデル~モンベリアール、同じくエリクール~リューズ間の陣地帯が敵の総攻撃を受けた場合、各師団長は次の方針に従って行動を起こすべし。

敵の攻勢がエリクール、モンベリアール、デルなど主拠点に直接向かった場合は、総予備に指定したBa第1、第2両旅団とBa師団砲兵隊はフォン・グリュマー師団長の命令によってバンヴィラールかシャトノワ(=レ=フォルジュ)に集合せよ。この機動を支障なく行うため、Ba師団は直ちに両地から主陣地に繋がる街道を詳細に偵察・確認せよ。但し、両地至近のアルジエザンとスヴナンは敵要塞重砲射程内にあるため、砲撃を受ける可能性が高いことに留意せよ。

Ba第3旅団は適当と考える地点、一例としてエシャヴァンヌ(フライエの西1キロ)付近に陣地を構築し、敵がフライエに向かって前進する場合は最大限これを阻止せよ。

フォン・ヴィリゼン大佐はロンシャン付近でベルフォールへの街道上にバリケードを築くこと。Ba師団は本日(12日)砲兵2個中隊を抽出してエシュナンへ送り、これをフォン・デア・ゴルツ将軍隷下として預けよ。

敵が万が一我ら陣地帯に攻撃を指向し、戦線突破に成功し軍団が後退を余儀なくされた場合、軍団はサヴルーズ河畔に留まることを極致とする。このため、ベルフォール攻囲兵団の工兵は直ちにシャトノワ付近で対岸ヴルヴナン(シャトノワの東1.4キロ)に渡るための軍橋を設けよ。

本格的戦闘が開始されるか、あるいは敵襲来の警報ある時には、補充用の弾薬車と爆薬積載車を除く各団隊所属の(当座必要ない)馬匹牽引車輌群は全て次の各地へ待避せよ。

予備第4師団、フォン・デア・ゴルツ支隊、軍本営、Ba第1旅団所属車はブローニュ~エシェーヌ(ブローニュの北東4.1キロ)を経てヴェルスコ(ブローニュの東7.2キロ)まで。

Ba師団本隊所属の車輌はグロスマニー(ベルフォールの北9.5キロ)まで。

各師団司令部と軍本営(ブルヴィリエ)に至る間に敷設する予定の電信線は明13日朝までに開通させよ。これにより、デル、モンベリアール、ブローニュ、フライエ間が交信可能となるはずである。しかし電報は伝達する事項が確実とされる時のみに発信せよ。

攻城砲兵は速やかにエリクール北方高地(ヴォドワ山)中腹に要塞重砲を設置しタヴェとビュシューレル(エリクールの南南東3.2キロ)方面を砲撃可能とせよ。バイエルン王国出撃砲兵中隊は当初予備第4師団に属することとしたがこれを取り消し、そのままデブシッツ支隊所属のままとするのでデルへ向かえ。

エクサンクールに在る部隊は万が一退却する場合、対岸のソショーではなく川沿いに東方へ避難せよ。

                             フォン・ヴェルダー」


挿絵(By みてみん)

シャジェ(20世紀初頭)


☆ 仏東部軍/1月10日から13日早朝


 仏東部軍司令官、ブルバキ将軍は1月9日のヴィルセクシュエル攻防戦で最前線まで進出し部下を鼓舞し続け、夜間戦闘においては攻撃陣の中で直接指揮を執ることまでして貴重な「勝利」を得ました。

 同夜、未だ独軍が市街を脱出する前に勝利を確信し戦場を離れた将軍は、本営を置いたブルネル城館に帰ると直ちにボルドー派遣部に対し「勝利」の報告を発信しました。


※1月10日早朝・ブルバキ将軍発信の「ヴィルセクシュエルの戦勝報告」

「ブルネル城館にて・1871年1月10日発

我が軍は命に従い運動を起こし、クランシャン将軍麾下は大いに奮戦してヴィルセクシュエルを奪取し、ビヨ将軍麾下はエスプレルを確保して同地に留まった

ブルバキ」(筆者意訳)


 勝利した仏軍としては、遅くとも翌朝から独軍が構えるエルヴァン~ロンジュヴィルに向けて突進し、兵力差数倍の「数の力」で独ヴェルダー軍団を北方に撃退してトレスコウ兵団との連絡を断絶するか、あるいはヴェルダー軍団を無視してその前を堂々と行軍しトレスコウ兵団と対決するか、二つに一つを選ぶことが可能でした。

 この1月10日時点においては、この二つの作戦はどちらも仏軍有利に展開する可能性があったのです。

 ところがブルバキ将軍は「ヴェルダー将軍は必ずやベルフォールへ向かうためその進路に立ち塞がると考えるだろう我が東部軍に攻撃を仕掛けて来るに違いない」と考え、10日一日をその準備に充て戦闘態勢を整えるためヴィルセクシュエル周辺に留まるのです。


 この時、ブルバキ将軍の「お目付け役」、ドゥ・セールは軍本営にあって目を光らせ、ボルドーのフレシネに宛てせっせと報告を送っていましたが、そこでも「敵がもし自身置かれている状況を察知すれば必ずや会戦を求めるだろう」としており、ブルバキを疑いの目で見ていたドゥ・セールまでもが独軍の見敵必戦を信じ「敵は回避せず向かって来る」と考えていたことが分かります。

 ところが独軍はこの10日ブルバキ軍の前に現れず、それでも仏東部軍は慌てる素振りなく現在地に留まり続けると翌11日も多くが集合のため僅かに右翼(東)側へ移動を行っただけに終わるのです。

 さすがにフレシネもこのブルバキ軍の「鈍い動き」に眉を顰め、11日夕「作戦を再興・活発化し、特にリュールはこれを解放せよ」との電信命令を送り付けましたが、これは「接触を失ったらしいとは言え、未だヴェルダー軍はブルバキ軍にほど近い場所にいるはずで、まだベルフォールとの遮断が可能だろう」という希望的観測から発せられた命令だったのです。


 ところが、仏東部軍は12日になっても何等積極的な行動を起こすことはなく、時間は虚しく過ぎて行ったのでした。

 この状況を独軍の公式戦史は、「察すれば仏軍はこの時、寒冷な気候に山地と森が広がる地勢によって規模の大きい自軍の宿営と補給が困難となり、俄仕立ての軍であることも考慮した総指揮官たるブルバキ将軍が拙速な行動により部下が戦意を低下させることを恐れて積極的な行動を控えたのだろう」(筆者意訳)と推察しています。


 ブルバキ将軍は1月13日、「ヴィルセクシュエルの勝利」から4日を迎えて漸く行動を開始します。


 この仏東部軍の新たな攻勢はアルセを占領するべく動き始めたことから始まり、第15軍団の前衛となった第3「ペタヴァン将軍」師団と第1師団のケステル准将旅団がサント=マリー(アルセの南東3キロ)へ、第24軍団は軍総予備(元・第15軍団の一部)の援助を受けつつアルセとゴンヴィラール(アルセの北西2.7キロ)へ、第20軍団はソルノ(同北北西5キロ)へ、第18軍団は軍左翼(第20軍団)の後方に続いてスナン(ソルノの西4.3キロ)を越え前進するよう、各々命じられたのでした。

 ブルバキ将軍は各軍団長、師団長に対し、「アルセの攻略は先ずゴンヴィラールとサント=マリーを落として両翼を確実に抑えた後に行うべし」とも訓令します。諸隊はこの命令に従って進軍方向を右翼側へ変更し、それまで北方に進む形となっていた行軍を東へと転向するのでした。



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