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ギッチン(イチン)の戦い(中)

 プロシア第一軍のカール王子は28日午後遅く、ミュンヘングレーツが大方「片付いた」後で前述の通り第3師団の支隊を偵察(スタール支隊、命令済み)に、そして第5師団に第2軍団の一部を加え、ギッチンへ先行させようと準備をしていました。残りの師団は各自適当な場所まで前進し、待機を命じます。

 また、ミュンヘングレーツを「抜いた」エルベ軍のビッテンフェルト将軍は、自軍の二個師団を南西方面のユング・ブンスラウ(現チェコ/ムラダー・ボレスラフ)へ向け、戦果拡大のため行軍させようとしていました。


 ところが、ここでベルリンのモルトケ(参謀本部)から電信が届きます。

「フリードリヒ皇太子の第二軍は連戦連勝とはいえ、困難な状況を迎えている。貴軍はこれを援助するため、速やかに軍を南へ進めるように」

 

 第一軍の南方で戦うプロシア第二軍。

 シュタインメッツの第5軍団と近衛軍団の活躍でオーストリア軍を南へ流れるエルベ川上流の線まで追い込みましたが、実際に戦っているのはこの二個軍団だけ。特に第5軍団は三日間の激戦で疲れ果て兵力も低下しています。


 一方、彼らと共に戦うはずの第1軍団と第6軍団。

 第1軍団は出鼻をくじかれた(「トラテナウの戦い」参照)後、のろのろと近衛軍団の後ろに続くだけ。第6軍団に至っては第22(ホフマン少将)旅団を「代表選手」にしてシュタインメッツに差し出し、本隊の方は29日、やっと先頭がナーホトの町に入ろうかというマイペースぶり。

 そのホフマン旅団にしても、シュタインメッツは第6軍団長ムーティウス大将を意識してか、予備として自分たちの後ろから付いて来させるだけで最前線で使おうとはしません。


 ここ数日が山場と見たモルトケは、どうもちぐはぐな第二軍の様子を心配し、第一軍とエルベ軍に更なる南下を促したのです。

 オーストリア北軍ベネデック元帥は連戦連敗により「東の敵」プロシア第二軍が気になり、この辺りで東側の兵力を厚くするはず。第一軍が南下することでベネデックが「北の敵」プロシア第一軍にも軍団を差し向けざるを得なくなる、それにより第二軍に掛る「圧力」を弱める、それを狙った命令でした。


 この電文命令を受けたカール王子はエルベ軍ビッテンフェルト将軍と話し合い、命令を変更します。

 29日午前9時、第一軍司令部は所属の各部隊に向け次の電文命令を発しました。


 第5師団(テューンプリング中将指揮)はギッチンへ向け即刻出立、ギッチンを本日中に占領すること。


 第2軍団のシュミット中将は本日昼12時に第3師団(ヴェルダー中将指揮)を以て出立、先行するスタール支隊を追ってゼーロウ(現・ジェフロフ)南部の森林地帯を抜け、ポドコスト及びソボトカを攻略、ギッチンへ向かうこと。


 第4師団(F・ビッテンフェルト中将指揮)は第5師団にに続いて出立し、ツルナウ(トゥルノフ)からリブン(リブニ)を越え同じくギッチンに向かうこと。


 騎兵第1師団(アルヴェンスレーヴェン少将)は第4師団に続くこと。また(戦線の後方になる)ツルナウ市にも(警戒のため)一個大隊を派遣し、既に警戒に当たっている第7師団(フランセキー中将指揮)の大隊と交代、この大隊は第7師団に復帰すること。


 第6師団(マンシュタイン中将指揮)は午後8時30分オーベル=バウツェン(ホルニー・ボウソフ)到着を期して出立、この周辺に残置する予備砲兵部隊を援護すること。


 第7師団は第3師団に続いて出立し、オーベル=バウツェンとソボトカを経由してポドコスト方面から退却する敵の残兵を掃討し、本日中にギッチンかポドーラド(ポドフラディー/ギッチン南西4キロ)に至ること。


 第8師団(ホルン中将指揮)は午後8時ウンター=バウツェン(ドルニー・ボウソフ)到着を期して出立、第6師団と共に南西側からギッチンに向かう敵がいる場合に備えること。


 また、エルベ軍のビッテンフェルト将軍はユング・ブンスラウへ向けて出発した二個師団(第15と第16)をバコウ(バコフ・ナト・イゼロウ/ミュンヘングレーツ南西4キロ)で停止させ、他の指揮下部隊もミュンヘングレーツ付近で待機、第一軍によるギッチン攻撃の推移を見守り、第一軍が苦戦なら応援する準備をしました。


 29日午後1時30分。多少手間取りましたがテューンプリング中将のプロシア第5師団はようやく野営地を出発し、午後3時30分、その先頭はリブン村に接近、ここでオーストリア軍の騎兵部隊に発見されます。リブンにはポシャッハー少将旅団から前哨(部隊より前方に出て敵がやって来るのを監視する兵士)も出ていて、彼らもプロシア軍が近付くのを発見、騎兵に続いてオーストリア第1軍団へ敵発見の報告が入ります。


 クラム=グラース将軍は直ちにザクセン軍アルベルト王子に援軍を要請、アルベルト王子はザクセン第2師団を指揮するスチグリッツ中将に北へ前進するよう命じました。

 また、同時にギッチンに一番近くまで迫っていると思われたオーストリア第3軍団(エルンスト親王指揮)及び本営へ向け、敵来襲を知らせ援軍を頼むため副官を派遣しました(午後4時)。

 これは電信がうまく機能していないと感じたグラース将軍の機知でしたが、この士官は幸運にも午後6時30分、およそ30キロ東に離れた場所にいた第3軍団のエルンスト親王の下に辿り着き、これでギッチンで戦いが始まることを北軍幹部の一人が知ることになります。


 しかしこの時、エルンスト親王も大忙しでした。この午後6時半と言う時間、「ケーニヒスホーフの戦い」が両軍エルベ川を挟んで睨み合いに入った直後で、第3軍団はその半分の兵力をエルベ西岸の高台へ配置したばかりだったのです(「ケーニヒスホーフの戦い」参照)。

 エルンスト親王は、2時間半も休みなしで騎乗し30キロを走破、疲れ切ったグラース将軍の副官を労りながらも、彼が携えた援軍要請は却下せざるを得ませんでした。

 この情報が北軍司令部に伝わったのかどうか、私には調べられませんでした。


 さてギッチンへ目を転じると、午後4時頃、オーストリア各部隊は一斉に食事を取り、直後に発生するだろう敵との戦いに備えます。「腹が減っては戦は出来ぬ」とのコトワザは古今東西、万国共通です。

 山の上にいるオーストリア兵たちは、食事を取りながら迫り来るプロシア第5師団の行軍列を見て、敵の数は多いだろうがこちらには地の利があり、有利な場所に陣取っているのだから、と自分たちを鼓舞したのです。


 対する第5師団のテューンプリング師団長。彼は地形と見え隠れするオーストリア兵の配置を見るなり、まずは敵の右翼(向って左側の平地)に集中して攻撃を仕掛けようと決心します。

 そこでテューンプリングは指揮官たちを街道横の高台に呼び寄せると、遥かに見えるギッチン市を指さし、

「諸君、あれを見たまえ!」

 何事かと指揮官たちがギッチンを見やると師団長は、

「諸君。あの尖塔が見えるかね?」

 確かに西日に輝くギッチン市の中ほどに尖った塔が見えます。テューンプリングは声を張り上げました。

「君たちの目標はあの尖塔だ。攻撃の最中、方角を見失ったらあの尖塔を見つけ、目標を確認すること。では諸君、あの尖塔の下で再び会おうではないか!」

 指揮官たちは雄叫びを上げ、再会を誓うのでした。

 この尖塔は、今もイチーン市の中央、ヴァルドシュテイン広場の南西角にそびえる古い聖堂か、南東角にある時計台のどちらかと思います。


 師団長の鼓舞により士気の上がった第5師団の将兵は、直ちに進撃を開始します。

 冴え渡るテューンプリング将軍は、手始めに前衛の二個大隊を散兵として街道周辺に放ちます。これで敵歩兵の注意を引きつけ、敵が散兵と戦い始めると、ギッチンへ向かって流れるシドリア川(エルベ支流)の渓谷へ、主力第9旅団(シンメルマン少将指揮)に騎兵一個連隊を付けて送り込みます。

 この渓谷はデレク部落周辺やブラダ山に布陣するオーストリア砲兵から死角になっており、砲撃を避けたプロシア部隊は下流に向かって急進、ザメス(ザーメジー)とデレク(ディールツェ)付近で渓谷を上がると、オーストリア第1軍団直轄の砲兵部隊や騎兵部隊と衝突しました。


 オーストリア・ポシャッハー旅団を回避し、いきなり軍団直轄予備部隊の砲兵と騎兵という後方部隊を襲われたクラム=グラース将軍は慌てます、が、手を打つ前に事態はどんどん進んで行きました。

 歩兵の護衛が少なかった砲兵部隊は、自ら慣れない銃を持ち、また至近距離から榴弾を発射してプロシア部隊を抑えようとします。騎兵部隊も突撃を繰り返し、渓谷から平地に出たデレクの空き地で騎兵同士の激突も発生、激戦となりました。


 午前中にギッチンの西からデレクへ進出していたオーストリア第1軽騎兵師団のうち二つの旅団、アッペル大佐騎兵旅団とワリース大佐騎兵旅団はここで奮戦、ザメスを巡って壮絶な騎兵対歩兵の戦いが発生します。オーストリア騎兵は馬を放って歩兵となり、駆け付けたザクセン騎兵たちと共にプロシア軍と戦いました。


 しかし、ここでも他の戦場で見られた光景が繰り返されます。ザメスから北に延びる丘陵を抑えたオーストリアとザクセンの騎兵たちは、何波にも渡るプロシア歩兵の突撃に対し猛射撃で応じますが、プロシア兵が手にするのはあのドライゼ銃。彼らが一発撃てば二発返って来る状況では、数に勝るプロシア兵に分があります。押された丘の兵士たちは救出に訪れたオーストリア騎兵が突撃で援護する中、南へ撤収して行きました。


 プロシア第5師団の攻勢は着々と進行します。ザメス部落を確保した第9旅団はデレク部落北側から西へ展開、ギッチンへの街道を狙います。そしてギッチンの北3キロにあるポドルス(ポドゥールシー)部落でオーストリア・ポシャッハー旅団の二個大隊と激突、激しい撃ち合いの末、プロシア側が負傷者を抱え後退することになりました。ここを抜かれるとギッチン郊外まで障害はなく、ポシャッハー旅団の兵士たちも必死でした。


 この頃、ポドルスの西側、ブラダ山の攻防も佳境を迎えます。このプロシア第5師団右翼を構成するのは第10旅団。旅団長カミンスキー少将は前衛の二個中隊によりイノリック(イノリツェ)とその近郊の森林を占拠させ、街道方面からやって来る敵に備えます。また、本隊を西のヤウォルニック(ヤヴォルニツェ)からブレスカ(ブジェズカ)を経て山間部の山道を通ってプラショー(プラホフ)へ向かわせます。これによりポシャッハー旅団本隊が布陣するブラダ山を迂回しようとする作戦でした。


 しかし、オーストリア軍もここで奮起し、ポシャッハー旅団の後方で待機していたライニンゲン旅団から一個大隊、また、アベル旅団から一個連隊がプラショーへ駆け付け、ここの谷間の森で激戦が発生します。この樹木が生い茂る深い森で、次第に日が西に傾く中、至近距離での銃撃戦と銃剣による白兵戦が行われました。その結果、プロシア第10旅団は撃退されてしまいます。ここでもオーストリア軍は辛うじて敵の突破を防いだのです。


 ここまでの戦いはプロシア第5師団が、オーストリアの騎兵集団と砲兵、そして合計すればおよそ二個の歩兵旅団と正面から力比べをした様相です。


 しかし、戦いはまだまだ中盤だったのです。


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