仏東部軍の誕生
ヴィルセクシュエル周辺図
シャルル=デニ・ソテ・・ブルバキ将軍は第2次オルレアンの戦いによって東西に分断されてしまったロアール軍の「東側半分」、崩壊寸前となっていた第15軍団の主力と第18、20軍団を臨機に指揮し、独軍の追撃を振り切ってロアール川左岸へ待避させると仏国防政府派遣部(この時はトゥール在で直後にボルドーへ移転します)からこのロアール軍半数の指揮に任ぜられます(12月6日)。
この時点ではブルバキ麾下8万ほどの将兵は大敗による士気の低下と物資不足、そして疲弊によって軍紀も大いに乱れており、何事にも真面目に取り組むブルバキ将軍は軍の建て直しに躍起となりますが、首府に籠城する国防政府に代わりパリ以外の戦線で指揮を執る派遣部首班レオン・ガンベタや、軍の経験なく実質の陸軍大臣として命令を下すシャルル・ルイ・ドゥ・ソルス・ドゥ・フレシネは、ブルバキ将軍の希望を撃ち砕くような現実無視の出撃命令を連発するのです。
ブルバキ自身、その指揮権と立場は非常に危ういものでした。
帝政時代(まだ僅か4ヶ月前までのことです)、気鋭の将軍として開戦以来近衛軍団を率いたブルバキ将軍は、残念なことにメッス近郊での三会戦(コロンベイ、マルス=ラ=トゥール、グラヴロット)で活躍することなくアシル・バゼーヌ大将と共にメッスに籠城することとなりました。ところが既述通り包囲戦末期、バゼーヌ将軍の密命を帯びて極秘に陣中を脱し、イギリスはロンドン近郊チズルハーストに隠棲していたウジェニー皇后を訪ねて「パリ国防政府を無視した帝政下での休戦」を画策し失敗、メッスへ戻る術もなく孤立して仕方なくガンベタの下に現れ釈明し国防政府に忠誠を誓い軍に復職します。しかし共和派が主体の国防政府派遣部面々は将軍のことを「ナポレオン3世の忠犬」や「隠れ王党派」ではないかという疑いの目で見ており、結果最初に赴任した共和派が強いノール県では北部軍の育成に取り掛かったものの周囲から信頼されず自ら身を引く羽目となり、次いでロアール戦線で第18軍団を率いることとなってオルレアン戦に登場しました(正式赴任は12月3日。詳しくは「メッス包囲戦(後)/糧秣強奪作戦とブルバキ将軍の離脱」及び「普仏戦争/アミアンの戦い(後)」を参照願います)。
共和派にとって信頼性に疑問符が付くブルバキ将軍が、なぜガンベタから重要な指揮官として登用されたかについては様々に語られていますが、実際のところ軍単位の大規模な野戦軍の指揮を任せられる人材に乏しく、背に腹は代えられない現実がブルバキ将軍をして十数万の軍勢を率いることとなった、と言えそうです。
多少の贔屓目もあったにせよ、ブルバキ将軍について伝えられる当時の評判には「清廉潔白」「忠信」「勇気」「生真面目」といった単語が並んでおり、有能な軍人であったことは間違いないところと言えます。また、休戦工作に失敗した後、英国や米国に亡命するか中立国で「グズグズして」戦争終結を待ったり、わざと独軍の捕虜となりマクマオン将軍らと同じ立場になったりする手もあったはずですが、「祖国のために戦う」決意で逮捕される可能性もある共和派主導の国防政府に進退を預けた行動は、やはり「勇気」や「愛国心」抜きでは語れないものがあると思います。
実際に普仏戦争中パリ以外の地方で帝政・国防両政府が軍団以上の指揮権を委ねた(中佐が少将になるといった)臨時昇進や予備役ではない唯一「本物」の現役将軍(この時点で中将格)がブルバキ将軍でした。
とはいえブルバキ将軍もガンベタ=フレシネ組も本心は相手を信頼しておらず、フレシネは腹心の一人オーギュスト・ドゥ・セール=ヴィエチュフィンスキをブルバキの下に送って「監視」させました。このドゥ・セールも軍人ではなく当時29歳の鉄道技師(フレシネも技師出身でありドゥ・セールは上手に取り入ったのでしょう)でしたが、ドゥ・セールはこの後「政治将校」並にブルバキ将軍の作戦にケチを付け、将軍がフレシネの命令をわざと曲解して麾下に命じた時には密かに命令を改竄することまで行うのです。
こうしてブルバキ将軍は孤立無援(唯一主席副官のラウール・ナポレオン・フィリップ・ルペルシュ大佐だけには心を許していたそうですが)で何もかもが不足の軍を率いつつ、フレシネが連発する無茶な「パリへの」進撃命令に反対し、現実的な作戦を実施させるよう懇願しました。しかしパリ解放を夢見るフレシネは命令を変えず、また「グズグズしている」ブルバキ将軍に圧を加えて命令実施を迫ったのです。
フレシネには「グズグズ」に見えてもブルバキ将軍は何もかも、時間さえもが不足していました。
「第1ロアール軍」は陣容こそエミール・フィリップ・マルティノー・デシュネ准将が率いることとなった「再編」第15軍団、ブルバキ将軍から指揮権を受け継いだジャン=バティスト・ビオ准将が率いる第18軍団、ジョセフ・コンスタン・クルーザ将軍(実際は准将)からジュスタン・クランシャン少将(同じく准将)に指揮権が移った第20軍団、そしてリヨンで新設されたジャン・バティスト・ドゥ・ブレッソル将軍の第24軍団が加わり、最終的には総数およそ14万、砲370門前後という大軍となりましたが、その内情は例によって軍備不足、物資不足、錬成未了、士気最低という難問だらけの烏合の衆、更には殆どの指揮官が戦時昇進組で経験不足・ブルバキに対し疑念や反感を抱いている、というこれ以上はない最悪の状況でした。
第2次オルレアンの戦いでオルレアンとその郊外にあって大損害を受けた仏第15軍団は、その多くがロアール川を渡ってロアレ川方面へ脱出しましたが一部は捕虜に、一部はシャンジー将軍の下へと分裂状態となってしまいます。それでもソローニュ地方へ逃げ延びた軍団主力では、未だ作戦行動に耐えられる部隊を中心に第1ロアール軍の「総予備団」が結成され、給養と補充を要する残存部隊は順次臨時召集の護国軍兵士等を加えてビエルゾンやブールジュ周辺に集合し、再編を急ぎました。
オルレアンの東側、シュリー=シュル=ロアールやジアン方面からロアールを渡河し独軍の追撃を逃れた第18と第20両軍団も補給と給養を経てブールジュやヌベール周辺に再集合を成します。
その後、ロアール河畔のトゥールからガロンヌ河口のボルドーへ移転した派遣部は、包囲下のパリを救うため再びシャンジー将軍とブルバキ将軍率いるロアール両軍をパリ近郊へ突進させようと考え、第1ロアール軍にもその実行命令が届きました。
ブルバキ将軍は「軍の再編も終わらない中、軍事常識無視の夢想に過ぎない命令」としてこれにも反対しますが、危うい立場上長くは抵抗出来ず、12月19日、麾下に対し北上を命じたのでした。
この作戦では、第1ロアール軍主力はヌベール付近でロアール川を渡り、その右岸(ここでは東岸)を北上してモンタルジに至り、その後ロワン河畔を北上してフォンテーヌブローを目指すこととなっていました。
しかしこの頃(17日前後)、フレシネはロワール(Loir。シャルトル西方からシャトーダン、バンドームを経てアンジェ北方でサルト川に注ぐ一級河川)河畔からオルレアンに急ぎ引き返して来たカール軍(独第二軍)の動きを知らされ脅威と感じ、「このままでは第1ロアール軍の側面(左翼)が攻撃される」と考えて方針を変更、第1ロアール軍を「東部軍」と称しアルザス地方解放のために転進させるよう画策し、ガンベタにその「作戦」を具申するのです。
※第1ロアール軍の今後取るべき作戦計画に関する意見書
「閣下(ガンベタ)。
軍務委員たる私(フレシネ)は以下の通り具申致します。
時下の戦況(カール王子軍のオルレアン帰還)から判断すれば、第1ロアール軍がパリに向けて行軍すること、断念せざるを得ないと言えます。この際、第18並びに第20軍団を第15軍団から引き離し列車輸送に頼り速やかにボーヌ(ディジョンの南南西36.5キロ)へ送ること得策と考えます。この2個軍団はガルバルディ将軍のヴォージュ軍及びクレメー将軍の独立師団と共同でディジョンを解放すること、合計70,000の兵力で敵35,000乃至40,000の兵力(ヴェルダー将軍の独第14軍団)を圧倒すること間違いないかと考えます。
この間にブレッソル将軍の第24軍団は列車輸送でブザンソンを目指し北上、この地に既にある守備隊15,000乃至20,000名を加えれば彼の軍団は45,000乃至50,000名に達します。
これでディジョンを解放した70,000の軍勢にこの50,000が協力して行軍すればベルフォール要塞の包囲を解くこと間違いないかと考えます。この約110,000名に及ぶ大軍はその後敵のあらゆる妨害をはねのけてアルザスを開放し、東方ドイツに通じる敵の連絡線を遮断することも可能と言えるのです。
この大軍の出現は北方に孤立する諸要塞を包囲する敵を脅かし、この機に乗じて行動を起こすであろうフェデルブ将軍の北部軍はこの要塞守備隊と共闘することが可能となるはずです。
要すればブルバキ麾下の東部軍が敵の兵站線を絶つことは確実と言えるのです。
この際第18、第20軍団と分離される第15軍団はビエルゾンと周辺の森林によって防御を高め、ブルバキ東部軍の背後・ブールジュとヌベールを固守する任務を与えるべきでしょう。
軍務委員 フレシネ」
この意見書は12月19日の午前中、ドゥ・セールによってブールジュに来訪したガンベタへ渡され、一読したガンベタはドゥ・セールに対し「モンタルジに向けて行動を開始したブルバキ将軍とこの件につき協議せよ」と命じました。ドゥ・セールは直ちに行軍を始めたばかりのブルバキ将軍を掴まえ、フレシネからの「命令」として意見書を渡し、内心「厳冬期にヴォージュ山地へ向かうなど画餅で無謀なシロウトの計画」と一蹴したかったであろう将軍はしかし、これを承諾してしまうのでした。
ブルバキ将軍としては、これ以上抗命すれば罷免は免れず最悪逮捕されてしまい、そうなれば崩壊状態の部下諸隊は未熟な「俄か将軍」に率いられ悲惨なことになるのは目に見えており、ならば指揮権を温存して機会を待ち何とか軍を立て直そう、という判断だったのではないかと思われます。
19日夜、ガンベタの下に戻ったドゥ・セールは得意気に「ブルバキが承諾した」と伝え、ガンベタも「フレシネの作戦」を承認し、これは直ちに軍務関係者と実行部隊の将官(殆どが引退予備役か戦時2段階昇進組です)に回され、彼らもガンベタに逆らうつもりもなく一様に賛成するのでした。
フレシネの作戦は翌20日から実行に移され、ここに「ブルバキ東部軍の悲劇」が始まったのです。
東部軍(アルフォンス・チゴ画)
この12月20日、ブールジュにあった第18軍団とヌベールやラ・シャリテ(=シュル=ロアール。ヌベールの北北西23.4キロ)にあった第20軍団は鉄道によって各々シャニー(ボーヌの南南西14.2キロ)及びシャロン=シュル=ソーヌ(シャニーからは南南東へ16キロ)へ輸送されることとなり、突然に大軍の輸送を命じられた鉄道各社(全てが私鉄です)は慌てて列車を用意し、22日に一部輸送を開始、翌23日には本格始動しました。ところが、拙速に作られたダイヤは端から綻び、折からの酷寒による積雪と氷結によって遅れに遅れ、各地で大幅な遅延や渋滞、運休が生じ始めます。これに給養不十分で士気も低い将兵が不満たらたら・ノロノロと行動するため列車は各地で長時間の停車を余儀なくされました。当然ながら軍隊の移動には兵站物資も続くため、特に糧食の輸送が滞り、寒気に震え腹を空かした兵士たちはいつまで待っても暖かい寝所や食べ物に有り付くことが出来ませんでした。
例え初期の目的地であるボーヌ地方へ辿り着けても、その先敵のいるブズールやベルフォールへ至るには一部以外徒歩での行軍しかなく、兵站物資や大砲・弾薬輸送に必須となる馬匹も絶望的に不足を来していたため、その困難な行軍は誰にとっても殆ど希望を持てないものとなったのでした。
それでも民間鉄道員の献身と熱意を秘めて黙々と従う一部の真面目な将兵、そして記録には残らない地元住民の助力で鉄道輸送は予定の数倍時間を掛けても途切れることなく続いて行きます。
先ずはブールジュ周辺から第18軍団がシャニーに向けて進発しますが、机上の計画では2日間の予定が1週間掛かり、憔悴仕切った最後尾の将兵がシャニー停車場に降り立った時には12月30日になってしまいました。この軍団を優先させ、2日ほど始動を控えたロアール河畔の第20軍団は待機の間、多くが凍える原野に野営するしかありませんでした。彼らも先行する第18軍団を追う形で順次進発し、同じく30日にシャロン=シュル=ソーヌへ到着しています。
この間、リヨンからは第24軍団がブザンソンへ輸送されますが、こちらも様々な弊害で輸送が遅れ、ブザンソンに集合を終えた時には年を越していました。更に独ヴェルダー軍団がディジョンを放棄しブズールへ向かった事に気付いたフレシネは、「ディジョン解放は近くに待機するクレメー師団で事足りる」として第18、第20両軍団を第24軍団近くに移し3個軍団をドール~ブザンソンの線上に並列させようと考え、降り立ったばかりの両軍団に対し「ドール(シャロン=シュル=ソーヌからは北東へ59.5キロ)並びにオーソンヌ(ドールの北北西13.8キロ)方面へ向かえ」と命じたのです。
しかしこれも難題で、この時シャロン(=シュル=ソーヌ)~ドール鉄道は未完成で工事の最中、代わりとなるマコン(シャロン=シュル=ソーヌの南53.2キロ)~ロン=ル=ソニエ(同東南東54.7キロ)鉄道も大きく迂回する上に山地を通過するため勾配の急な区間があって輸送に制限があり、大軍の輸送には不向きだったのです。
フレシネやドゥ・セールはこれを知ると鉄道管理部門の尻を叩き始めますがそんなことで現状が変わるはずもなく、それでも「ゴール」に降り立った瞬間にそのゴールが離れてしまった両軍団将兵は、不満を抱えつつも疲れた身体を再びぎゅうぎゅう詰めの列車に押し込み、目的地へ向かったのでした。
両軍団がソーヌとドゥー両河川間に到着したのは4日後、1月2日でした。
※1月2日の仏東部軍
○第24軍団と軍総予備団/ブザンソンとその周辺
○第20軍団/ドゥー河畔・ダンピエール(ドールの東北東19.9キロ)周辺
○第18軍団/ソーヌ河畔・オーソンヌ周辺
○クレメー師団/ディジョン(正確にはブルバキ将軍指揮下ではありません)
○軍本営/ブザンソン(1月4日まで)
ブザンソンに至ったブルバキ将軍はビエルゾンやブールジュに残した第15軍団も東部軍に加えるようフレシネに懇願し、この許可を得ます。しかし再編中の第15軍団は直ぐには動けず、1月4日になってようやく鉄道輸送に取り掛かりました。しかしブールジュからブザンソンへ、更にドゥー川を東へと輸送されたこの軍団も鉄道網の混乱と厳寒期の障害によって大きく遅れ、全軍がドゥー河畔に到着した時には1月16日となっていました。
一方、ディジョン~ブザンソン間に集合した東部軍は休む間もなく1月2日から行動を開始します。
計画では、第18軍団が北東へ進みペスム(オーソンヌの北東16.3キロ)付近でオニヨン川を渡り、同時に第20軍団はマルネー(ダンピエールの北15.2キロ)で同じくオニヨンを渡河するはずでしたが、斥候が調べたところマルネー付近では橋梁が破壊され渡河は困難だったため更に東の渡河点ヴォルレ=シュル=ロニヨン(ブザンソンの北11.6キロ)目指し迂回行軍しました。
ブルバキ将軍は4日にブザンソンで指揮官集合を掛けて軍議を開き、諸官の意見も聞きつつ「独軍が集中するブズールを攻撃する」ことを決します。将軍は直ちに本営幕僚を引き連れて第20軍団が渡河を試みるヴォルレ=シュル=ロニヨンに向かい、ここに本営を移転しました。
ブルバキ将軍はこの日(4日)夜、翌5日にブズールへ迫るとして命令を発し、結果第24軍団はマルショー(ブザンソンの北東12.7キロ)を経てオニヨン河畔のモンボゾン(マルショーの北東18.5キロ)とエスプレル(モンボゾンからは北東へ11.5キロ)へ向かって渡河点を抑え、同日午後に前衛が敵と接触した第20軍団はその前衛が踏み止まるブロワの森北の独軍拠点・エシュノ=ル=セック(ブズールの南9.7キロ)を目標に前進、第18軍団はその左翼後方からグランヴェル=エ=ル=ベルノ(エシュノ=ル=セックの南西10キロ)へ進むこととなります。
明けて5日。仏東部軍は目標へ向けて進撃しますが、諸街道は厳寒のため多くが凍結し、あるいは積雪に覆われて通行困難となっており、只でさえ馬匹が不足する仏軍の歩みは遅く、明るい内に目的地へ達したのは各縦隊の半数に満たない有様でした。結果独ヴェルダー軍団の前哨はこの仏第20軍団の前衛にその左翼後方に展開した第18軍団の先行部隊と対戦することとなり、これが5日の「ブズール周辺の戦闘」となります。
この5日夕、仏第18軍団本隊はメレ=エ=シャズロ(ブズールの南西12.3キロ)、ロゼ(メレ=エ=シャズロの北北西3.5キロ)、グランヴェル=エ=ル=ベルノに達して宿営し、前哨が独軍と戦った前線のルヴルセ(メレ=エ=シャズロからは東北東2.8キロ)~ベル=ル=シャテル(同北7キロ)間に展開します。仏第20軍団はル・マニヨレ(エシュノ=ル=セックの南西1.8キロ)、オートワゾン(同南南東6キロ)、フィラン(同東南東5.2キロ)に宿営、第24軍団は第3師団のみコルセル(=ミエロ。マルショーの北東5.7キロ)とショード・フォンテーヌ(同北東2.8キロ)に達して宿営します。旧第15軍団の一部から作られた軍予備団はリオ(ブザンソンの北21.3キロ)に進みました。
氷点下20度の野営地で身支度する仏軍士官
この頃フレシネらボルドー派遣部が期待していたブルバキ東部軍の行動は、「ヴェルダー軍団の左翼東側を抑えて半包囲し、ベルフォールを包囲するトレスコウ兵団との連絡を断つ」ことでした。この期待(=圧力)を受けたブルバキ将軍は斥侯報告で「ヴィルセクシュエル方面に敵の強大な部隊が向かいしつつあり」との情報を受け、「ヴェルダーとトレスコウの連絡を断つには更に右方(東)へ迂回しなくてはならない」と決心しました。
この仏軍の東進は8日早朝からヴェルダー軍団の各斥侯が捉え、これによりヴェルダー将軍は既述通りブルバキ軍との決戦を覚悟し、その準備に入るのです。
一方、仏東部軍はこの日、第18軍団がモンボゾンへ、第20軍団がルージュモンへ、第24軍団がキューズ(=エ=アドリサン。ルージュモンの東2.8キロ)へ到達、ようやく鉄道輸送が軌道に乗った第15軍団はドゥー河畔のクレルヴァル(同南西14.4キロ)で先着順に下車を開始しました。
不思議なことに結局東部軍には属さないとされていたクレメー将軍師団は、ヴェルダー軍団を追って1月2日にディジョンからフォンテーヌ・フランセーズ(ディジョンの北東33.5キロ)へ進みますが、北方シャティヨン=シュル=セーヌに独軍が現れた(独第7軍団です)ため、裏を取られぬよう再びディジョンに引き返します。この8日、クレメー将軍にも再度ブズールへ向かうよう命令が下りました。
同日、モンボゾンへ前進したブルバキ将軍は夕刻、以下の通り翌9日の命令を発します。
「1871年1月8日 モンボゾンにおいて
明日9日、我が軍はこの数日来継続する行軍を続行せよ。
第15軍団において下車を終え行動準備を完了した諸隊はフォンテーヌ(=レ=クレルヴァル。クレルヴァルの北北西4キロ)を経て(東へ、イル=シュル=ル=ドゥーへ抜け)アルセ方向へ行軍し、ラ・ガンゲット(アルセの南西5.6キロ)からオナン(ラ・ガンゲットの北2.4キロ)までを占領し陣地展開せよ。
第24軍団は最右翼をセ川(オナンの北6キロのスナン南郊からミニャビエを経てアトゥザンの南でオニヨン川に注ぐ支流)に置き、ヴェルシュヴルー(=エ=クルブナン。ヴィルセクシュエルの東8キロ)を抑え、左翼はジョルファン(ヴェルシュヴルーの西2キロ)からグラモン(同南南西3.5キロ)まで延伸せよ。
第20軍団はヴィラルジャン、ヴィレ=ラ=ヴィル、レ=マニー(それぞれヴィルセクシュエルの東4キロ、同2.2キロ、南南東2.7キロ。レ=マニーはル・グラン・マニーとル・プティ・マニーの双子部落)を占領せよ。
第18軍団はヴィルセクシュエル、オートレイ=ル=ヴェ(ヴィルセクシュエルの南西2.7キロ)、エスプレル(オートレイの西2.3キロ)を占領、シャセの森(ボワ・ドゥ・シャセ。エスプレルの西に広がる森)にも進出せよ。
軍予備団はアブナン(ヴィルセクシュエルの南5.8キロ)とキュブリー(アブナンの西2.2キロ)を占領し、予備騎兵はファロン(同東2.3キロ)に宿営せよ。
明日、軍本営はブルネル城館(キュブリーの南南西900m付近。現存します)にあり。
諸隊が無事に目的を達成するため、敵に察知されずに行動すること、また諸隊相互に連絡を密とすること等、数日前に行った訓令を遵守すること。
第18軍団は輜重をオニヨン川左岸に留めること。同川右岸に残る諸隊は万が一有力な敵が襲来し止むを得ず後退し同川を渡る時は必ず我が訓令を待つこと。
諸隊斥侯は遠隔地へ出て偵察は緻密に行うこと。
軍団長諸官は各自定めし本営の所在を軍本営在本官に報告せよ。
ブルバキ」
ブズールからベルフォール/1月8日から9日
◎ 仏東部軍戦闘序列 (1871年1月初旬/ヴィルセクシュエルの戦い前)
※戦争末期で敗北側ということもあり序列は資料によって様々に異なっています。ここでは独軍の公式戦史の附則資料を基にしました。独公式戦史では東部軍の兵員数について「連隊の歩兵大隊数、騎兵中隊数、砲兵中隊の砲数などは実態不明」とし、更に「指揮官についても任命あっても赴任していない者もあり諸説あるので疑問ある場合にはXを付す」となっています。ここでもそれに従います。指揮官の階級にしても戦時昇進が乱発され「自称」もあり、殆どが1から3階級上になっていると思われます。
☆ 軍本営
軍司令官 シャルル=ドゥニ・ソテ・ブルバキ中将
参謀長 ジャン=ルイ・ボレル准将(前第15軍団参謀長)
筆頭副官 ラウール・ナポレオン・フィリップ・ルペルシュ大佐
砲兵部長 X(不明か空席)
工兵部長 ドゥ・リヴィエール准将
経理部長 フリアン経理官
ブルバキ将軍
☆ 仏第15軍団 (総兵員数約35,000名・砲兵20個中隊/114門)
軍団長 エミール=フィリップ・マルティノー・デシェネ少将
参謀長 デ・プラ大佐
砲兵部長 エティエンヌ=ガブリエル・ドゥ・ブロア・ドゥ・ラ・カランド准将(1/19まで)1/20~ユゴー大佐
工兵部長 オディ中佐
◯ 第1師団 エリザベス・ジャン・ヒュアキントス・ドミニク・ダステューグ准将
◇ 第1旅団 ミノ准将
*マルシェ・ズアーブ歩兵第1連隊
*護国軍第12「ニエーヴル県」連隊
*サヴォイ県の護国軍1個大隊
◇ 第2旅団 ケステル准将
*アルジェリア・ティライヤール兵部隊(大隊規模)
*護国軍第18「シャラント県」連隊
*マルシェ猟兵第4大隊
◇ 師団砲兵/3個中隊
*工兵1個分隊
◯ 第2師団 ルビヤール准将
◇ 第1旅団 ル・カミュ准将
*戦列歩兵第39連隊
*外人部隊(大隊規模)
*護国軍第25「ジロンド県」連隊
*マルシェ猟兵第5大隊
◇ 第2旅団 ショパン・メルシ准将
*マルシェ・ズアーブ歩兵第2連隊
*マルシェ歩兵第30連隊
*護国軍第29「メーヌ=エ=ロワール県」連隊
◇ 師団砲兵/3個中隊
*工兵1個分隊
◯ 第3師団 ペタヴァン少将
◇ 第1旅団 ドゥ・ヤコブ・ドゥ・ラ・コッフィニエール准将
*戦列歩兵第16連隊
*マルシェ歩兵第33連隊
*護国軍第32「ピュイ=ド=ドーム県」連隊
*マルシェ猟兵第6大隊
◇ 第2旅団 マーティネス准将
*マルシェ歩兵第27連隊
*マルシェ歩兵第34連隊
*護国軍第69「アリエージュ県」連隊
◇ 師団砲兵/2個中隊(1個中隊はシャンジー将軍の下へ)
*工兵1個分隊
◯ 騎兵師団 ルネ・オーガスティン・ガラン・ドゥ・ロングリュー少将
◇ 第1旅団 師団長直率
*猟騎兵第11連隊
*竜騎兵第6連隊(1個中隊は第24軍団へ派遣)
*驃騎兵第6連隊
◇ 第2旅団 マリエ・ポール・オスカー・ドゥ・ボエリオ准将
*マルシェ猟騎兵第1連隊
*槍騎兵第2連隊
*胸甲騎兵第9連隊
◇ 第3旅団 ティロン准将
*槍騎兵第5連隊
*マルシェ胸甲騎兵第1連隊
◇ 軍団砲兵隊 ティシエ中佐
*8ポンド野砲4個中隊
*4ポンド騎砲4個中隊
*ミトライユーズ砲2個中隊
*4ポンド山砲2個中隊
☆ 仏第18軍団 (総兵員数約30,000名)
軍団長 ジャン=バティスト・ビオ少将
参謀長 ドゥ・サシー・ドゥ・フールドリノア大佐
砲兵部長 シャルル大佐
工兵部長 ドゥ・ラ・ベルジュ大佐X(辞任している可能性大)
ビオ
◯ 第1師団 エドゥアール・ロマン・フェイエ=ピラートリ少将
◇ 第1旅団 ルクレール大佐
*マルシェ第42連隊
*護国軍第19「シェール県」連隊
*マルシェ猟兵第9大隊
◇ 第2旅団 ロベール准将
*マルシェ第44連隊
*護国軍第73「ロアレ県/イゼール県」連隊
◇ 師団砲兵/3個中隊
*工兵1個分隊
○ 第2師団 ジェローム=イヤサント・パノアット海軍中将
◇ 第1旅団 ペリン准将
*マルシェ第52連隊
*護国軍第77「タルヌ県/メーヌ=エ=ロアール県/アリエ県」連隊
*マルシェ猟兵第12大隊
◇師団第2旅団 ペロー准将
*戦列歩兵第92連隊
*マルシェ・アフリカ軽歩兵第1連隊(2個大隊)
※アフリカ軽歩兵連隊は後日騎兵師団に隷属となり、旅団には代わりにマルシェ第49連隊が配属となります。
◇ 師団騎兵
*マルシェ竜騎兵第5連隊の1個中隊
◇ 師団砲兵/3個中隊
*工兵1個分隊
○ 第3師団 ボンネ准将
◇ 第1旅団 グリー工兵大佐
*マルシェ・ズアーブ歩兵第4連隊
*護国軍第81「シャラント=アンフェリウール県/シェール県/アンドル県」連隊
◇ 第2旅団 ブレメ大佐
*マルシェ第53連隊
*護国軍第82「ボークリューズ県/ドローム県/リヨン市」連隊
◇ 師団砲兵/3個中隊
*工兵1個分隊
○ 騎兵師団 ギヨーム・ジョセフ・ドゥ・ブルモン=ダール少将
◇ 第1旅団 シャルルマーニュ准将
*マルシェ驃騎兵第2連隊
*マルシェ槍騎兵第3連隊
◇ 第2旅団 ギヨン=ベルニエ准将X(辞任している可能性大)
*マルシェ竜騎兵第5連隊(1個中隊欠・第2師団へ)
*マルシェ胸甲騎兵第5連隊
◇ 軍団砲兵隊 ドゥ・ミリベル中佐X(辞任している可能性大)
砲兵7個中隊
☆ 仏第20軍団 (総兵員数約25,000名)
軍団長 ジュスタン・クランシャン少将
参謀長 ヴァレーニュ大佐
砲兵部長 シャティヨン大佐X(辞任している可能性大)
工兵部長 ピコラー大佐
クランシャン
○ 第1師団 カミーユ・アルマン・ジュール・マリエ・ドゥ・ポリニャック少将
◇ 第1旅団 ゴドフロア准将X(赴任していない可能性大)
*「ロアール県」の護国軍2個大隊
*マルシェ第50連隊
※この連隊は戦列歩兵第85連隊の補充中隊による2個大隊が元となっており、12月中旬までは「戦列歩兵第85連隊」を名乗っていました。
*護国軍第55「ジュラ県」連隊
◇ 第2旅団 ブリザック大佐
*護国軍第67「オート=ロアール県第2」連隊
*護国軍第24「オート=ガロンヌ県」連隊
*「ソーヌ=エ=ロアール県」の護国軍独立第4大隊
*「オ=ラン県」の義勇兵中隊
◇ 師団騎兵
*マルシェ槍騎兵第2連隊
◇ 師団砲兵/2個中隊
*工兵1個分隊
○ 第2師団 レオン・ソントン准将
◇ 第1旅団 ユーグ=フィルマン・ドゥ・ベルナール・ドゥ・セニュヤール准将
*護国軍第34「ドゥー=セーブル県」連隊
*「サヴォイ県」の護国軍独立第1大隊
*マルシェ猟兵第25大隊
◇ 第2旅団 ヴィヴァノー大佐
*マルシェ・ズアーブ歩兵第3連隊
*護国軍第68「オ=ラン県」連隊
◇ 師団騎兵
*猟騎兵第7連隊
◇ 師団砲兵/2個中隊
*工兵1個分隊
○ 第3師団 セガール准将
◇ 第1旅団 デュロシャ准将
*マルシェ第47連隊
*「コルス(コルシカ)島」護国軍連隊
◇ 第2旅団 シモネン准将
*戦列歩兵第78連隊
*護国軍第58「ヴォージュ県」連隊
*「ピレネー=オリアンタル県」の護国軍2個大隊
*「ムルト県」の護国軍1個大隊
*「アリエ県」義勇兵中隊
*「ニース市」義勇兵中隊
◇ 師団騎兵
*マルシェ胸甲騎兵第6連隊
◇ 師団砲兵/2個中隊
*工兵1個分隊
◇ 軍団砲兵隊 ドゥーヴェルニュ中佐
砲兵3個中隊
※12月中に増加したとの説あり
村の防衛
☆ 仏第24軍団 (総兵員数約25,000名)
軍団長 ジャン・バティスト・ドゥ・ブレッソル少将
参謀長 ティシエ大佐
砲兵部長 ワルター大佐
工兵部長 X(不明か空席)
○ 第1師団(旅団編成なし) アドリアン・ポール・アルフレド・ダリエ准将
*マルシェ第63連隊
*マルシェ猟兵第15大隊
*護国軍混成「オート=ガロンヌ県/タルヌ県/ガロンヌ県/オー=ラン県」連隊(3個大隊)
*「ローヌ県」護国軍第3レギオン(遅れて参加します)
◇ 師団砲兵/2個中隊(4ポンド野砲)
*工兵2個分隊
○ 第2師団 ジャン・コマーニュ=ティボディーン准将(戦時任命・大佐)*
◇ 第1旅団 イルランド准将
*マルシェ第60連隊
*マルシェ第61連隊
*マルシェ猟兵第21大隊
◇ 第2旅団 ブラマ准将
*護国軍第14「ヨンヌ県」連隊
*護国軍第87「ロゼール県/タルヌ県/ガロンヌ県」連隊
◇ 師団砲兵/4ポンド野砲2個中隊・4ポンド山砲1個中隊
*工兵分隊?
○ 第3師団(旅団編成なし) アルマン・ルイ・アンリ・カレ・ドゥ・ビュスロル大佐
*「ローヌ県」護国軍第1レギオン
*「ローヌ県」護国軍第2レギオン
*護国軍第89「ヴァル県」連隊
*「ロアール県」の護国軍独立第4大隊
◇ 師団砲兵/4ポンド野砲2個中隊・4ポンド山砲1個中隊
◇ 軍団騎兵隊
*マルシェ混成騎兵第7連隊
*竜騎兵第6連隊の1個中隊
*竜騎兵第10連隊の1個中隊
◇ 軍団砲兵隊(ブザンソン到着時には存在せず、1月初旬に編成されたとの説があります)
*12ポンド野砲4個中隊
*4ポンド騎砲1個中隊
*4ポンド山砲1個中隊
※ジャン・ティボディーン大佐(実際は中佐)はマルス=ラ=トゥール戦後に戦列歩兵第67連隊長(フロッサール将軍の第2軍団)となりメッス籠城に加わりますが要塞は降伏、彼は不戦宣言せず捕虜となりマインツ要塞に送られます。この地で不逃亡宣誓をして監視の緩い軟禁状態(制服を着て帯剣し監視無しで散歩も可能です)で捕虜生活を送りますが紳士の誓いを破って脱走、仏に脱出すると再び軍に戻りました。この時、苗字を妻方の「コマーニュ」に変えていますが独軍はこれに気付いて激怒し、欠席裁判で彼に死刑を宣告しています。
ティボディーン
☆ 軍総予備団(総兵員数約10,000名)
司令 パリュー・ドゥ・ラ・パリエール准将(海軍中佐)
参謀士官 ドゥ・モーミニ少佐
*戦列歩兵第38連隊
*マルシェ第29連隊
*マルシェ海軍歩兵第2連隊
*マルシェアフリカ猟騎兵第2連隊
*砲兵3個中隊
*工兵1個分隊
☆ 第7師団「ブザンソン」管区(総兵員数不詳)
司令(ブザンソン要塞司令兼任) アンリ=モリス・ロラン准将(海軍大佐)
ロラン
*「ドゥー県」の護国軍・3個大隊(後にマルシェ第54連隊)
*「ヴォージュ県」の護国軍・1個大隊
*「オート=アルプ県」の護国軍・1個大隊
*「オート=ソーヌ県」の護国軍独立第4大隊
*「オート=ソーヌ県」の臨時護国軍集団(練成中)
*「ロワール県」の工兵隊
*マルシェ槍騎兵第5連隊
*野戦砲兵1個中隊
※その他、東部軍の補充兵として臨時護国軍9個大隊(「エロー県」「ヴォクリューズ県」「ドローム県」)が一時宿営していたとされます。
☆ 仏クレメー師団(総兵員数約15,000名)
師団長 カミーユ・クレメー少将
参謀長 プーレー大佐
砲兵部長 カム少佐X(辞任している可能性大)
工兵部長 ルモール大尉
◇ 第1旅団 ミヨー大佐
*「ジロンド県」の護国軍・1個大隊
*マルシェ第32連隊
*マルシェ第57連隊
◇ 第2旅団 カロ=トヴィス准将・後にルブレ中佐
*護国軍第83「オード県」連隊
*護国軍第86「混成」連隊
◇ 師団砲兵/5個中隊(各種砲32門)
*工兵1個中隊
*騎兵1エクレルール隊
※実際はブルバキ将軍の麾下ではありません。
敗れて…(アルフォンズ・チゴ画)




