独南軍の誕生
ここで、12月下旬から1月上旬までのロアール川上流域を含む仏南東戦線の状況を「おさらい」します。
既述通り独ベルサイユ大本営は分裂したロアール軍の「東方部分」、シャルル・ブルバキ将軍が指揮を執ると言われる第1ロアール軍の動向をなかなか掴むことが出来ませんでした。
ところが12月もクリスマスを迎え、パリでは独軍が包囲された市民が羨む豪勢な食事とワインを楽しんでいる最中、伯爵ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ歩兵大将・参謀本部総長の下にスイスの情報源から仏軍の動向に関する重大な情報が入ります。それによれば、「ベルフォール要塞の包囲を解くため、仏国防政府ボルドー派遣部はリヨンで編成された一軍団を出立させ、この軍団のためにブザンソンへの鉄道が優先使用されている」とのことだったのです。ほぼ同時期にソローニュ地方(オルレアン南・ロアレ川の南方に広がる森林と湖水が多い地域)で第1ロアール軍に使役されていた複数の御者が独第二軍の偵察隊に捕らえられ、彼らは一様に「22日からブールジュやヌベールよりシャロン=シュル=ソーヌ(ディジョンの南63.5キロ)に向け軍隊の鉄道輸送が行われている」と供述したのです。
これらの情報からベルサイユ大本営は、セーヌ上流・オーセール(ディジョンの北西122.3キロ)在の独第7軍団長ハインリッヒ・アドルフ・フォン・ツァストロウ歩兵大将に対し、「直ちにシャティヨン=シュル=セーヌ(オーセールの東75キロ)に向かい行軍せよ」と命じました。また男爵アレクサンダー・エデュアルド・クーノ・フォン・デア・ゴルツ少将の支隊が行っていたラングル要塞の攻囲準備を中止させ、その上司である独第14軍団長伯爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・レオポルト・アウグスト・フォン・ヴェルダー歩兵大将にも軍団主力をディジョンからブズールへ移すよう命じたのです。同時にモルトケ総長はベルフォール攻囲兵団の兵力不足を解消するため、在ストラスブール・アルザス総督府の伯爵フリードリヒ・テオドール・アレクサンダー・フォン・ビスマルク=ボーレン中将に対しヨハン・オットー・カール・コルマー・フォン・デブシッツ少将の指揮下、一支隊(後備歩兵8個大隊・予備騎兵2個中隊・予備砲兵2個中隊)を編成しベルフォールへ送ってこれをフォン・ヴェルダー将軍の傘下とするよう命じました。
27日になるとスイス・ベルンから更に詳細な情報が入り、これによって仏軍がベルフォールを解放するため大軍を北上させていること確実となります。モルトケ参謀総長はヴィルヘルム国王の名を借りてフォン・ツァストロウ将軍に宛て「万難を排してソーヌ流域へ前進し仏軍が狙う戦線東南部分にてその戦域にある諸隊を統括指揮せよ」との勅令を出すのです。
しかし、東へ動いたはずの「ブルバキ軍」の情報はその後さっぱり入らず、逆に当時ロアール上流ブリアール方面にあったヘッセン大公国師団(独第25師団)の男爵ヘルマン・カール・ディートリヒ(フリードリヒ)・フォン・ランツァウ少将率いる支隊の斥候は、仏軍の大縦隊がブールジュから「北上」しオービニー(=シュル=ネール。ジアンの南南西26キロ)に向かって行軍するのを発見するのです。同時にブリアールが襲われ、ランツァウ支隊はジアンに向けて後退しました(1月1日。既述)。
しかしこの時、第1ロアール軍はやはり東進しており、この本隊警戒のため仏第15軍団の「残党」はブールジュ、ヌベール、そしてロアール上流域に分派点在して独軍を警戒しており、つまりはこの動きが独軍を翻弄していたのです。この「後衛」は規模が大きく、既に多数の兵員をブルバキ軍補充のため割いていたにも関わらず12月末においてその数およそ35,000名と伝えられます。勿論その多くが錬成未了で多種多様・各地からかき集めた人々からなる臨時護国軍や義勇兵でしたが、まさかそんな数の兵員を後に残して本戦場へ進むとは考えられなかった独軍首脳部は「ブルバキ軍は未だソローニュ地方南方とロアール上流にあり」と誤認してしまったのでした。
独軍にとって誤認を招いた要因は他にもあり、既述通りこの年末年始においてベルフォールを狙っているはずのドゥー川南方に展開している仏軍は積極的な行動を見せず、最前線となったモンベリアール南方でも少数の斥候や護国軍部隊が発見されるだけで、それも殆どが独兵の姿を見るだけで逃げ去ってしまうのでした。
結果、フォン・ヴェルダー将軍には新年を迎えても仏軍が動かず却って守勢に入ったようにも見え、またリオン~ブザンソン鉄道は軍専用となっているとの情報があったもののブルバキ軍がブザンソンに入ったとの確実な情報もなく、「仏軍が北上中」との情報全ては住民たちの噂話でしかありませんでした。
ヴェルダー将軍はこれら情報をまとめてベルサイユに送り、大本営はこの情報とロアール上流における仏軍北上の動き、そしてバンドームに対するシャンジー将軍率いる第2ロアール軍の攻勢から、「陥落寸前となっているパリを救援するため、両ロアール軍は近日中に共同して一大作戦(北上してパリ包囲軍と対決する)に乗り出すに違いない」と結論してしまうのでした。
このことからベルサイユ大本営は独第二軍をル・マンへ向かわせ、パリ包囲網から第2軍団を外してモンタルジ(ジアンの北35.3キロ)へ向かわせるという決断を行い、当時ニュイ(=シュル=アルマンソン。シャティヨン=シュル=セーヌの南西30.5キロにあり、当時は重要な鉄道分岐点で「ニュイの戦い」のニュイ=サン=ジョルジュとの混同注意です)とモンバール(同南南西31.6キロ)を拠点にコート=ドール山地で行動中(後述)の第7軍団とツァストロウ将軍には1月2日、暗号電信で「エデュアルド・フリードリヒ・カール・フォン・フランセキー歩兵大将の第2軍団と共同してパリ包囲軍南方に対する援護として今一度オーセールに向かう」よう命令が下ったのでした。
年が明けてもスイス・ベルンの情報筋からは盛んに仏の大兵力北上の報告が届き、更には「アルジェリアから10,000名の将兵が到着している」との情報も飛び込みますが、ヴェルダー将軍は対する敵が自身掌握する兵力よりかなり大きなものであることを疑わなかったものの、1月3日に至っても尚ブルバキ将軍とその配下の動向が判明せず、既述通り一旦ブズールからソーヌの西岸へ引き返そうと考えます。その前に将軍はドゥー河畔の様子を確認するべく4日、ブズール南方に向けて兵力を動かしたのでした。
ブズール
☆ 独「南軍」の誕生
この5日に発生した「ブズール付近の戦闘」により、遂にヴェルダー将軍はブルバキ・第1ロアール軍の存在を確認し、直ちに戦闘詳報と捕虜等の尋問結果を電信でベルサイユへ送ります。
ベルサイユではヴェルダー軍団に驚くほど近付いていたブルバキ軍の動向を見据え、この南方からの脅威に対するため急ぎ対応策を練りました。
その結果、翌6日に独大本営は第2軍団と第7軍団に対して更なる電信命令を発し、それは「両軍団はモンタルジ並びにオーセールの現在地よりニュイ(=シュル=アルマンソン)~シャティヨン=シュル=セーヌの線上に行軍・集合せよ」との内容で、同時に当時(シャルルヴィル=)メジエールからパリ包囲網へ向かうべくミトリー(=モリー。パリ北東24.5キロ)へ鉄道輸送中だった第14師団(既に歩兵3個大隊がミトリーに到着済みでしたが)も方向転換させ、シャティヨン=シュル=セーヌで原軍団(第7軍団)に復帰するよう命じたのです。
そしてベルサイユ大本営とヴィルヘルム1世国王は、ベルフォールからモンタルジに至る長大な戦線で繰り広げられる「多種多様な戦闘」を俯瞰し効率よく統括指揮を行わせるため、仏南東部で戦う諸軍団をして「独南軍」を組織し、その総司令官には仏北軍と戦い始めていた元第1軍団長フォン・マントイフェル騎兵大将を任じたのです。
「ドイツ南軍編成に関するプロシア国王の勅令 1871年1月11日
『プロシア王国陸軍省通達』
朕思う、仏南部にてフォン・ヴェルダー歩兵大将率いる軍団の他、第2、第7両軍団もまた一時仏南部に転進する必要を感じ、これら諸軍団を統合し南軍と称すべきとする。
また、第一軍司令官である男爵フォン・マントイフェル騎兵大将は現在、元より将軍麾下である第7軍団の許にあること、この南軍中最高級士官且つ古参士官でもあることなので同軍司令官に任じることを陸軍省に通達す。これにより指揮官不在となる第1、第8両軍団については、男爵フォン・マントイフェル騎兵大将不在の間、その最古参軍団長であるフォン・ゲーベン歩兵大将が代理として勤めよ。これら諸命令につき陸軍省は関係処々に対し速やかに下達すべし。
1871年1月11日 ベルサイユ大本営にて 御璽 ヴィルヘルム
(以上通達) 陸軍大臣 フォン・ローン」 (筆者意訳)
この勅令が下される以前の12月末、ソーヌ河畔に向け進撃する予定のフォン・ツァストロウ将軍は、先ずはディジョンに向かって前進しようと企てますが、12月30日に電信命令が届き、それによれば「一時ニュイ(=シュル=アルマンソン)とモンバール付近に駐留し、フォン・ヴェルダー将軍とは独立・別途行動し、その周辺(コート=ドール山地)で抵抗する住民に対し武装解除を行うよう」とのことでした。ヴェルダー軍団が情報に振り回され苦慮していることを察していたツァストロウ将軍は、「仏軍の注意を我に集め間接的にヴェルダー軍団を援助しよう」と考え、1月1日、第13師団主力をしてスミュール(=アン=ノーソワ。モンバールの南14.9キロ)~プイユネ(スミュールの東10.6キロ)間の北方に集合し、前衛をしてフラヴィニー(=シュル=オズラン。プイユネの東4.7キロ)とプイユネに先遣させ、右翼端はスミュール、左翼端はダルセ(フラヴィニー=シュル=オズランの北北東5.2キロ)に進入してこれを占領させます。
1月2日には大本営が命じた通り住民を威嚇し義勇兵を遊撃するため混成支隊各1個をサン=セーヌ=ラベイ(ディジョンの北西23.1キロ)とソンベルノン(同西25.3キロ)、そしてソリュ(ソンベルノンの西36.2キロ)方面に向けて出立させました。
この内サン=セーヌに向かった支隊(第72「チューリンゲン第4」連隊第2大隊・予備驃騎兵第1連隊第4中隊・野砲兵第7連隊軽砲第4中隊の1個小隊2門)は、セーヌ渓谷クルソー(フラヴィニー=シュル=オズランの東12.4キロ)の山間部で義勇兵中隊を発見、これを短時間で四散させ、街道沿いにシャンソー(クルソーの南東2.2キロ)に至りますが、ここでガルバルディ将軍率いるヴォージュ軍の一大縦隊に遭遇してしまい、激しい銃撃と突撃を受けた独支隊は命辛辛フロロワ(シャンソーの西6.5キロ)へ脱出するのでした。
前述した、「今一度オーセールに向かえ」との1月2日の大本営令は当日中にツァストロウ将軍の下に届きますが、暗号電信故に途中の通信状態などで一部不明瞭な部分があり、パリ包囲網の援護や第2軍団との共同作戦などはっきり伝わらなかったものの、オーセール行は判別することが出来たため、将軍は直ちに行軍命令を起草し、「第13師団は翌3日、モンバール~スミュール(=アン=ノーソワ)~フラヴィニー(=シュル=オズラン)の間に集合し、偵察次第でノワイェ(モンバールの西北西27キロ)~シャブリ(オーセールの東17キロ。白ワインの名産地として有名です)経由でオーセールに転進せよ」との命令を発したのでした。軍団に隷属していた第60「ブランデンブルク第7」連隊と第72連隊他*は、第60連隊長クレメンス・フランツ・ヴィルヘルム・フォン・ダンネンベルク大佐が率いて残留し、ショーモン~シャティヨン=シュル=セーヌ~ニュイ~トネールの鉄道線を援護することとなります。
※1月3日・シャティヨン=シュル=セーヌ方面に残留した諸隊
○第60連隊
○第72連隊
○予備驃騎兵第1連隊・第3,4中隊
○予備槍騎兵第5連隊・第3中隊
○野砲兵第7連隊・軽砲第3,4中隊
※第60「ブランデンブルク第7」連隊は本来、第29旅団(普第15師団)に所属していましたが、ベルダン陥落時現地に残り、代わりにロートリンゲン総督府麾下だった普第65「ライン第5」連隊が第29旅団に加わったため以降同総督府配下とされ、その後南下する第7軍団に加入を命じられます。しかしセーヌ上流への行軍途上で後方守備隊が手薄となっていたアルザス総督府に「貸し出され」ることとなり、戦列を外れてしまいました。同じく第72「チューリンゲン第4」連隊(普第16師団/第32旅団)はセダン会戦後急速に生じた捕虜の護送と独内国警備を命じられ(代わりに第70「ライン第8」連隊が第32旅団へ)、メッス陥落後に居残った第7軍団配下となり、その後も占領地警備のため正規野戦軍として最後までティオンビルとメッス要塞地域に残留することとなります。両連隊とも年末になってようやく任を解かれフォン・ツァストロウ将軍の下にやって来ました。
シャティヨン=シュル=セーヌ
独第7軍団は1月6日にオーセール周辺へ到達します。直ちに斥候を繰り出したツァストロウ将軍はアヴァロン(オーセールの南東42.5キロ)に義勇兵の集団が、クラムシー(同南37.8キロ)に目立つ仏軍部隊がいることを掴み、南方に対して警戒線を張り前衛をヴァラン(同南6.5キロ)とヴィルファルジョー(同西南西5.4キロ)に派出し南側クラムシー街道(現・国道N151号線)と西側ボニー街道(現・国道D965号線)を見張らせましたが、西側では敵を発見することはありませんでした。
ところが、軍団は休む間もなく再び大本営から国王の勅令(南軍編成の命令)を受け、セーヌ上流域へ引き返すこととなるのです。この頃(7日)、同軍団に復帰すべく鉄道輸送中の第14師団は先頭がシャティヨン=シュル=セーヌへ到着し、最後尾となった師団司令部と補助部隊も11日までに同地へ到着し第7軍団は再び一同に会することとなるのでした。
一方、パリ南東方の包囲網からモンタルジに向かうフォン・フランセキー将軍の第2軍団は1月2日に任地を離れ、ムラン~フォンテーヌブローを経て5日に先頭がモンタルジに入城し翌6日には本隊も周辺部に達すると、フランセキー将軍は前哨線をプラットヴィル城館(シャトー・ドゥ・プラットヴィル。モンタルジの西3.4キロ。現存する美しい城館です)~ヴィルマンダール(現・ル・ヴュー・ヴィルマンダール。同南南西1.8キロ)~アミリー(同南東4キロ)と経てモンタルジ東方のクルトネ街道(現・国道D2060号線)まで展開します。軍団はこの後、南軍編成命令を受けてこの地からニュイ(=シュル=アルマンソン)に向かって行軍するのでした。
☆ 独ヴェルダー軍団の状況(1月6日~8日)
1月6日。
昨日、思わぬ激戦(ブズール付近の戦闘)を経験したフォン・ヴェルダー将軍は、大本営が強力な援軍(第2と第7軍団)を派遣する準備に入ったとはいえ、それは未だ手近に存在しないため、独力で数倍するであろう敵と戦う覚悟を決めるしかありませんでした。
この6日早朝、将軍は麾下をブズールとその北方・デュルジョン川(ブズールの北東16.7キロにあるジュヌヴレ付近を水源にブズールへ流れ同西北西10.3キロのチュミイでソーヌ川に注ぐ支流)の北に集合・展開させます。この即席の陣地帯は町の北に聳えるモット山の斜面を使い、川自体を防衛線にして非常に有効な陣地帯となりました。この時、フォン・デア・ゴルツ将軍支隊だけはこの「ブズール防衛線」に入らず、市郊外南東方に展開し、ブズール市街を目指す仏軍がいたならばその右翼に対して痛撃を与えようとしました。また、ヴェルダー軍団の危機を聞いたベルフォール攻囲兵団のウード・フォン・トレスコウ将軍は「決戦が近い」ことを予測して配下から歩兵5個大隊・騎兵2個中隊と1個小隊・野戦砲兵2個中隊を援軍として包囲網の西側外へ差し向けます。この増援隊はモンベリアール在のアルベルト・フォン・ブレドウ大佐が直率しアルセ(ブズールからは東南東へ39.5キロ)周辺に集合、ブズール方面への突破機会を窺うのでした。
モット山(ブズール)
これら独軍の行動は、ようやくベルフォールの解囲に向け動き出した仏軍にとって出鼻を挫かれる形となりました。
これはほぼ並行して流れる北のオニヨン川と南のドゥー川との間にあってベルフォールを目指す(即ち東進する)仏軍から見れば、1個軍団と予測される独軍がブズールを抑えていることは後背に大きな憂いを残すことになるからで、また、ブズール南方からベルフォールへ至る主街道となるエスプレル(ブズールからは南東へ18.8キロ)を通る街道(現・国道D9号線)はブズール方面の「憂い」を除かない限り通行が危険に過ぎることともなるからでした。
確かにオニヨン川を越えなくともベルフォールに至る街道は主なものでも3本あり、これは①ルージュモン(エスプレルの南6.4キロ)からファロン、クルシャトン、ジュネ、アルセを経てエリクール(ベルフォール要塞の南西10.5キロ)へ至る裏街道(現・国道D486号~D50号~D7号E~D90号~D126号線等を経てD683号線へ至る経路)、②ボーム=レ=ダムからドゥー川沿いにイル=シュル=ル=ドゥーへ抜け、モンベリアールへ出る街道(現・国道D683号~663号線)、③イル=シュル=ル=ドゥーからドゥー川の南を行く街道(現・国道D118号~D297号~D257号~D126号線)の3本ですが、①の「裏街道」は細く起伏もある山間部を行く細い道で、②も同じく寒風吹き荒ぶドゥー川沿いと山間部を行くため大軍の通行には不適であり、最後の③に至っては当時の寒波によって完全に凍結し、しかも坂道が多いために行軍に慣れない錬成未了の兵士では踏破は不可能と言えたのです(あの精悍なカール王子の第二軍でさえ、同時期にル・マンへの行軍で凍結した街道相手に艱難辛苦の連続だったことを思い起こして下さい)。
当時の仏ブルバキ将軍配下の兵士にすれば、主敵は独軍でなくこの「冬将軍」であり、武器装備も十分でなく疲労と空腹に耐え、何より穴の開いた軍靴でありったけの衣類を重ね着した仏将兵が数歩も行けば滑って転ぶ悪路をよろめきつつ進む姿は、見る者多くが哀れを通り越して非情さに怒りを覚えるような光景だったのです。
この情景は地図を読み解くことに長けていたモルトケ参謀総長も頭に浮かんでいた様子で、第7軍団長フォン・ツァストロウ将軍に宛てた命令書に添えた書簡(12月27日付)には「彼ら仏軍にとって死活となる鉄道線より著しく遠隔の地(ベルフォールか)まで行軍することはほぼ不可能であるし、よってこの(装備不十分の)大兵団は酷寒の中で唯々緩慢に行動するしかないであろう」と予言しているのです。
ブルバキ軍の行軍(1871.1.1)
ヴェルダー将軍はこのことから、その正面に対峙した仏軍が独軍のほぼ3倍・3個軍団に膨れ上がっているとはいえ、もし敵がヴェルダー軍団を無視して東進することがあっても「時機を逸せずベルフォールの包囲網を直接に援護出来る陣地に到達可能なように」機動力を発揮出来ると考えていました。しかしこれには仏軍の行動初期において探知し諸隊を素早く始動させることが肝要ですが、それはこのブズールの安全な陣地に籠っていては困難であること必至でした。将軍はこのため、「軍団挙げて先ずはエスプレルとヴィルセクシュエルまで進み」、この「仏軍がどのようなルートを進んでも攻撃可能な地点」へ達することで先の「探知と即起動」が行える、と信じ、これを「ブズール付近の戦闘」が終息した5日夕、麾下の高級指揮官達、即ちフォン・グリュマー将軍、フォン・シュメリング将軍、そしてフォン・デア・ゴルツ将軍に今後の方針として知らせたのでした。
同日6日。ヴェルダー軍団は次の行動に移る前、出来るだけ休息を得るためブズールの陣地帯で一日を消化しました。この日はバーデン大公国より要塞砲兵隊に属する「出撃砲兵中隊」(要塞砲兵にあって「動かない」要塞砲でなく馬匹牽引の「野戦重砲」を扱う部隊)が中隊長男爵フォン・ゼルデネック大尉に率いられブズール市内に入り、Ba師団は直ちに同中隊を師団予備砲兵大隊の「重砲第5中隊」として編入するのでした。
一方、ベルフォール攻囲兵団のフォン・オストロウスキー大佐麾下の一斥候はこの日、イル=シュル=ル=ドゥーの仏守備隊が昨日と変化なく、増員もないことを確認しました。また、この「平穏な一日」では唯一、フォン・デブシッツ将軍麾下の前線部隊から「ボンドゥヴァル(モンベリアールの南南東8.2キロ)にて敵部隊と交戦せり」との報告が上がりますが、これは双方短時間で矛を収め大事に至る前互いに撤収しました。
翌7日午前。ブズール南西郊外にあったBa第3旅団の前哨より「敵の前哨はラーズ(ブズールの西南西11.6キロ)から消えた」との報告が飛び込みます。このラーズにいた仏軍は5日夕に宿営しようとしていたBa部隊をベル=ル=シャテルで襲ったズアーブ将兵で、Ba第3旅団長のフランツ・アントン・ケラー少将は直ちにラーズへ進み、付属のBa竜騎兵第3連隊の騎兵たちはノワダン=ル=フェルー(ラーズの西南西4.5キロ)とメレ=エ=シャズロ(同南東5.8キロ)へ進みますが、彼らは敵の斥侯に遭遇しただけでした。
一方、ブズールの南東にあったフォン・デア・ゴルツ将軍の支隊斥侯は、オニヨン沿岸のボナル(エスプレルの南3.4キロ)に護国軍将兵と義勇兵が存在することを発見しました。また別の斥侯はヴィルセクシュエルへの街道上で武装した住民と一時戦闘状態になりました。フォン・デア・ゴルツ将軍はこれらの報告から「敵の大軍が間近に迫って来た証拠」と結論しブズールのフォン・ヴェルダー将軍に報告しています。
そのヴェルダー将軍もこの日スイスのバーゼルから発せられた諜報報告を入手し、それには「ブルバキ将軍は15万人を数える大軍を率いてベルフォール解囲のため前進中」とあったのでした。
橋で独軍を待ち受ける仏軍
この夜。
ヴェルダー将軍はモルトケ参謀総長から今後を見据えた訓令を受け取ります。
「1871年1月7日・ベルサイユ大本営にて
第14軍団長歩兵大将伯爵フォン・ヴェルダー殿
ブルバキ率いる軍の大部分は今や貴官の方向に向かっていることは諸情報により明確となっている。このことから陛下におかれましてはシャティヨン=シュル=セーヌ~ニュイ(=シュル=アルマンソン)間に第2、第7両軍団を集合させ、同時に仏南東部戦線の諸兵科を統一指揮させるため、両軍団並びに貴官の麾下諸隊を男爵フォン・マントイフェル騎兵大将の指揮下に属すべき、とされた。マントイフェル将軍は近日中にシャティヨン=シュル=セーヌへ赴任することとなる。
マントイフェル将軍が直接この「南軍」の指揮に就くまで、貴官は独立して従来諸隊の作戦を指揮することとし、また報告に関しても従来通り直接ベルサイユに送って貰いたい。
本官(モルトケ参謀総長)は以下の点に付き貴官が留意することを望む。
その一。
ベルフォール攻囲は戦況如何に関わらず中断してはならないし貴官はその援護を続けるべきである。陛下におかれましては貴官がヴォゲーゼン(ヴォージュ)山脈以西の地域を警備する責任を解除し、敵のベルフォールに向かう攻撃を第2、第7両軍団が救援に到着するまで貴官が責任以て援護することを望んでおられる。この目的のため状況如何によってはベルフォール包囲網から比較的必要度の低い諸隊を敵の攻撃阻止のため流用することも認めるものである。また貴官は自軍右翼(南から南東側)への警戒に留意することを望む。これについては左翼(北から北西側)側掩護のためヴォゲーゼン山脈南部に通じる諸街道を通行不能にするためこれに破壊封鎖を行い、相応の支隊を派遣して監視させることもまた必要と考える。
その二。
貴官は敵がヴォゲーゼン山脈以西を北進する可能性にも留意し、これの監視をもおろそかにしてはならない。このため、ロートリンゲン(仏・ロレーヌ)総督と連絡を密にし、共同で事に当たることを望む。ロートリンゲン総督(フォン・ボニン歩兵大将)には既にその旨を通告しているところである。
その三。
貴官の後背地に跋扈する賊(不正規兵)に関してはエルザス総督(フォン・ビスマルク=ボーレン中将)に命じて極力これを鎮圧するよう努めている次第であるが、貴官は占領地において万が一このような破壊工作や騒擾を行う輩を発見次第、軍と地方住民のため、その個人あるいは団体を最も厳格な方法で処罰すべきである。
その四。
貴官はやむを得ず一時撤退することもあるやも知れぬが、この場合でも敵との接触に努め、その所在を明らかにして至近にあるべきである。何故ならば敵が来援する我が第2、第7両軍団に対抗するため貴官の正面から兵力を減退させるや、貴官は直ちに再攻勢を掛け敵に向かって突進しこの行動を妨害すべきだからである。
その五。
敵は糧食並びに弾薬など輜重に関しての編成がすこぶる不備であること明白なため、敵の行動は必ず鉄道輸送の状況で左右するはずである。このため貴官は正面を通過しようとする敵があればその後尾(輜重部隊)を脅かし、このために敵が打撃を受けることに努め時機を逸せず攻勢を取ることが肝要となる。ロートリンゲン総督に対してはラングル~ショーモン鉄道とエピナル~サン=ルー=シュル=スムーズ(ブズールの北30.4キロ)鉄道の線路破壊も止むを得ずとしてその準備を命じ、必要ならば実行せよと命じたところである。ベルフォール~ミュールハウゼン(仏・ミュルーズ)鉄道は未だ不通であるので良しとするが、敵の使用が可能となるならば貴官はミュールハウゼン~バーゼル鉄道も8~14日程度で復旧可能な程度で破壊することを考えておいて貰いたい。
その六。
現在、バーデン大公国陸軍省(大臣は前Ba師団長のフォン・バイヤー将軍)に請求し、内国の補充諸大隊中適当な隊を以て同国南部へ移動し、ライン川の監視と敵の別動隊が渡河を謀る場合に妨害する任務を与えることを望んでいるところである。
伯爵フォン・モルトケ」(筆者意訳)
1月8日。
早朝偵察行に複数の斥候を派出した予備竜騎兵第2連隊を率いるフォン・ヴァルター少佐は、独軍が一旦放棄していたヴィルセクシュエルを仏軍が未だ解放していないことを確認しますが、その東側・サン=フェルジュー(ヴィルセクシュエルの東5.8キロ)付近には仏護国軍部隊がいることも確認します。上司のフォン・デア・ゴルツ将軍もこの朝強力な偵察隊(第30連隊第1,4中隊と予備驃騎兵第2連隊第4中隊)を出し、率いるヴェルナー・エルンスト・アドルフ・フォン・ルントシュテット騎兵大尉(残念ながら?皆さんご存じのゲルト・フォン・ルントシュテット元帥とは家系違いです)はフィラン(ブズールの南11.6キロ)とダンピエール(=シュル=リノット)に向かい「1個師団級・15,000人と推察する諸兵科混成集団が行軍列を組んでオートワゾン(フィランの南西4.4キロ)を発しモンボゾン(ダンピエールの南南東5.3キロ)に向かっている」との報告を上げたのです。
フィラン(城館)
これらの報告を聞いたヴェルダー将軍は「この仏軍の行動はブズールから東方に向けての大移動の一端であり、ベルフォール包囲網攻撃に向けての機動に他ならない」として「軍団はオート=ソーヌから上アルザス地方(オー=ラン県。現在のテリトワール・ドゥ・ベルフォール県も含む)への移動を行い仏軍と対峙する」と決します。この日の夜は晴れて月明かりもあり、ヴェルダー将軍は麾下騎兵諸隊に対し積極的な偵察を命じ、総じれば「仏軍諸隊はブズール南方から姿を消し、ヴィルセクシュエル方面では正に大兵力が集合しようとしている」との報告が上がって来るのでした。同じ頃、ベルフォール包囲陣でも仏軍の動きを感知しており、これは「西側前哨(アルセ守備隊と思われます)に対し仏軍がジュネ(ヴィルセクシュエルの南東12.4キロ)方面より接近中」とのことでした。
事ここに至り、フォン・ヴェルダー将軍も「いよいよ決戦の時迫る」として「仏軍の運動方向を予測してこれを追跡し、同時にヴィルセクシュエルへ前進して敵をこの地に拘束する」と決するのです。
日付が変わって1月9日の午前3時。
ヴェルダー将軍の下に諸隊前哨から仏軍東進に関する朝一番の情報が殺到し、将軍は空かさず以下の通り軍団命令を発します。
「仏軍はヴィルセクシュエルを既に完全占領した模様で、逆にエシュノ=ル=セック方面(ブズール南方)からは撤退している。従ってBa師団本隊は即時出立しヴィ=レ=リュール(エルヴァンの北北東6.5キロ)経由でアトゥザン(=エトロワトフォンテーヌ。ヴィルセクシュエルの北東7.7キロ)へ進め。但しフォン・グリュマー将軍はBa師団中、前哨線に展開中の歩兵2個大隊を抽出しこれを先任中佐か連隊長(大佐級)の指揮に委ねブズールに残置せよ。また、フォン・ケラー将軍のBa第3旅団はブズール南方において警戒・偵察を成せ。
予備第4師団(同師団は8日午後にノロワ=ル=ブール(ブズールの東11.2キロ)まで進んでいます)は本隊を以てエルヴァン(ヴィルセクシュエルの北4.7キロ)へ進みこれを占領・堅持し、前衛は即座にヴィルセクシュエル方面へ進撃せよ。
フォン・デア・ゴルツ将軍は麾下騎兵をレ・モナン(フィランの北2.5キロ。小部落)を経てヴァルロワ=ル=ボワ(エスプレルの西6.3キロ)へ進ませ、麾下本隊は(予備第4師団が出て行った)ノロワ=ル=ブールへ進み、後命を待て。
ブズール防衛には先のBa2個大隊の他、ポール=シュル=ソーヌ(ブズールの北西11.2キロ)にある歩兵6個中隊・騎兵1個中隊・砲兵2個中隊が使用可能である。
本日諸官の報告は当初ノロワ=ル=ブールへ、予備第4師団移動後はフォン・シュメリング将軍の下へ送付すべし。
フォン・ヴェルダー」(筆者意訳)
負傷兵を助け起こすバーデン師団兵士
Ba師団長フォン・グリュマー将軍は命令を受けるやブズールに残留させる部隊をBa第4「ヴィルヘルム親王」連隊とし、連隊長のシュテファン・バイヤー大佐に指揮を任せます。その旨を報告されたヴェルダー将軍は早速大佐に命令を交付しました。
「1871年1月9日・ブズールにて命ず
貴官(バイヤー大佐)はブズールの占領を維持し敵が貴官麾下よりはるかに強大な兵力により奪還攻撃を仕掛けて来ない限りにおいて市街を堅守せよ。また、貴官は市街南方とコンボーフォンテーヌ(西方)方面を警戒し、途切れることなく斥候を派出して偵察に努めること。この目的においてはポール=シュル=ソーヌ在の予備猟兵2個中隊と騎兵1個中隊を指揮下に加え、実施せよ。従って貴官はその部隊使用に付き当該指揮官フォン・パチンスキー=テンツィン少佐に通告せよ。貴官が万が一市街を放棄し退却せざるを得なくなった場合は、その方向をリュクスイユ=レ=バン(ブズールの北東27.5キロ)に取れ。
貴官は状況報告を毎日2回電信によりリュール経由で軍団本営へ送れ。同時に在エピナルの兵站監督官フォン・シュミーデン大佐にも報告せよ。
貴官は現地民政官であるフォン・ラウエルト参事官と連絡を取り合い、同官の管轄内にて宿営を行うこと。
フォン・ヴェルダー」(筆者意訳)
こうして行動を開始した独第14軍団でしたが、諸隊が直ちに動かせる部隊から東進させようと奔走する頃、仏軍の大兵団は「東」ではなく「北東」、正にヴェルダー第14軍団が占領しようとしていたヴィルセクシュエルに向かって進んで来たのでした。
仏マルシェ兵




