ニュイの戦い以降の第14軍団(12月19日~1月5日)
ベルフォール解囲を狙う仏軍に対する攻囲兵団と独第14軍団の状況を記す前に、この時点に至るまでの顛末を記すため、時計の針を1970年12月19日、「ニュイ(=サン=ジョルジュ)の戦い」直後まで戻します(「普仏戦争/12月中旬・ロンジョーとニュイ=サン=ジョルジュ」を参照ください)。
この時点で独第14軍団はバーデン大公国師団(以下Ba師団)を中核に、予備第1師団、同第4師団、そして男爵アレクサンダー・エデュアルド・クーノ・フォン・デア・ゴルツ少将率いる支隊(歩・騎兵各2個連隊と砲兵3個中隊)を配下に、南はディジョン南郊からドール近郊・北はラングル周辺・東はブズールからベルフォール攻囲陣・西はコート=ドール山地まで非常な広範囲に展開していました。
ニュイの戦い
12月18日。ディジョン南方で西側コート=ドール山地への入り口となる要衝・ニュイ=サン=ジョルジュ(ディジョンの南南西21.6キロ)においてBa師団が仏クレメー師団と衝突し、双方1,000名前後の死傷者を出しBa師団長フォン・グリュマー将軍も負傷する激戦となりました。
翌19日早朝。激闘の末ニュイ市街を確保したBa師団斥侯は仏軍が周囲から完全に撤退したことを確認し報告を上げます。この情報は直ちにディジョン在の第14軍団本営へ伝えられ、軍団長の伯爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・レオポルト・アウグスト・フォン・ヴェルダー歩兵大将はBa師団に対し「直ちにディジョン周辺まで引き上げろ」と命じ、その後仏軍がどう動くのか見極めた後に行動を起こす(つまりは機動防御策を採る)ことに決するのです。
ニュイ 戦闘翌日のBa兵と仏軍捕虜
北方ラングル要塞周辺でフォン・デア・ゴルツ支隊が活動し、南方ニュイでBa師団が中・南仏の護国軍部隊と死闘を繰り広げていた頃。第14軍団でディジョンとベルフォール攻囲兵団の中間を繋ぐ役割を果たすためグレー(ディジョンの東北東43.7キロ)やブズール(同北東90キロ)周辺に展開していた予備第4師団は、仏の護国軍兵や義勇兵らと度々遭遇はするものの本格的戦闘となる前にお互い離脱しています。とは言え全く平穏無事と言うわけでなく、広く展開する独軍に対し数倍する兵力がある仏軍側はこの時、ドール(ディジョンの南東42.7キロ)やブザンソンといった拠点から独軍の前哨がいるグレーへ迫るかのようにペスム(ドールの北21.4キロ)やオートレイユ(ブザンソンの北西22キロ)にまで斥侯が出没していたのです。
このため、12月16日にフォン・ヴェルダー将軍はシュメリング将軍に対して命令を下し、それによれば、「ベルフォール攻囲のウード・フォン・トレスコウ将軍の下へ追加2個(インスターブルクとティルジット)後備大隊を送り、ブズールからラングルへの街道(現・国道N19号線)上にあるコンボーフォンテーヌ(ブズールの北西22キロ)と、グレーからラングルへの街道(現・国道D67号線)上のシャンリット(グレーの北19.8キロ)に宿営していた諸隊をソーヌ川右(ここでは西)岸へ移動させ、同時にディジョンへの後方連絡線・兵站路をソーヌ川沿いに移設して警護する」とのことでした(既述)。
この命令を実行に移すためフォン・シュメリング少将は翌17日、先ずは強力な支隊*をグレーから南方へ進発させ、この部隊はその日の内にオニヨン河畔のペスムに侵入しました。結果ペスムでは約60名の護国軍兵を駆逐し、逃げ出した仏兵を追った予備槍騎兵第1連隊第4中隊の1個小隊は、その殆どを捕虜とするか討ち取ったのです。
※12月17日・グレーからペスムに至った予備第4師団の支隊
◯ 第25「ライン第1」連隊・第1、2大隊(第3中隊欠)
◯ 予備槍騎兵第1連隊・第4中隊
◯ 師団「混成」砲兵大隊・予備重砲第2中隊
独槍騎兵中隊に捕縛された仏竜騎兵(クリスチャン・シェル画)
翌18日、仏軍はオニヨン川沿いに東からペスムへ接近し居残っていた独の支隊を奇襲しましたが、これは仏側が短時間の戦闘で切り上げてドール方面(南方)へ去りました。以降支隊は数日間この地周辺で警戒して別働隊が西方のソーヌ河畔へ進むのを間接援護し、最後にオニヨン川に架かる橋を破壊した後にグレーへ引き上げます。この時、南方ドール方面へ派出された複数の斥侯は何れも目立つ仏軍の行動を見ることはありませんでした。
同じ頃、ニュイで参戦せずディジョンに残留していたBa第3旅団からシャティヨン=シュル=セーヌに向けて偵察隊*が発し、度々義勇兵部隊が出没しているコート=ドール山地を巡回しましたが、義勇兵を発見しても殆ど戦闘にならず相手が逃走するばかりでした。
※12月18日・シャティヨン=シュル=セーヌに向けて威力偵察に出た支隊
男爵リューデル・フォン・ゲルスブルク少佐指揮
○ Ba第5連隊・第2大隊
○ Ba第6連隊・第1大隊
○ Ba竜騎兵第2連隊・第2,3中隊
○ Ba野砲兵連隊・軽砲第2中隊
○ Ba野戦工兵の1個小隊
この頃(12月中旬)、「ベルフォール要塞救援のため仏軍が南方と西方から大挙進撃中」との噂が絶えず聞こえ始め、フォン・ヴェルダー将軍の本営も情報収集に奔走しますが、クリスマスの日に至り「いつでも正確な情報源」スイス首都ベルンの情報筋から重大な至急報が届けられます。それによれば「25,000名を数える仏軍団がベルフォール解囲のためリヨンを発して行軍中」とのことでした。また翌26日、ベルフォール攻囲兵団のU・トレスコウ将軍より報告があり、これは「確実な情報」として「ベルフォールを目指していると思われる仏軍集団はクレルヴァル(モンベリアールの西南西26.1キロ)からイル=シュル=ドゥー付近及びルージュモン(クレルヴァルの北西14.3キロ)の東方に位置し、その策源地たるブザンソンには60,000名に及ぶ軍勢が集中している」とのことだったのです。
同様、ベルサイユ大本営からも情報が届き、「前近衛軍団長・ブルバキ将軍が率いると思われる軍勢はロワール右岸ヌベールよりシャロン=シュル=ソーヌ(ディジョンの南61.5キロ)に向けて行軍を行っていること確実となった」とのことで、その結果「ツァストロウ将軍麾下第7軍団はソーヌ沿岸にある分遣諸隊と合流し仏軍と対峙するためシャティヨン=シュル=セーヌに向かい行軍中」との通報も入るのです。
これら危機的状況を示す情報を吟味したフォン・ヴェルダー将軍は、「現在動員可能な兵力を速やかにブズールとその周辺へ集合させよ」と命じ、26日夕方、この方針に沿った命令をBa師団、予備第4師団、そしてフォン・デア・ゴルツ支隊に対しそれぞれ発したのでした。
この命令に従ったフォン・デア・ゴルツ将軍は28日にラングル周辺より出立し、同日夕までにその行軍先陣がコンボーフォンテーヌに至ります。翌29日に同支隊はフォン・ヴェルダー将軍の追加命令を受けてポール=シュル=ソーヌ(同北西11.2キロ)を占領し、30日にはブズールを通過してリュールに至るのです。
同じくフォン・シュメリング将軍の予備第4師団は同30日までにブズールの南東地方まで到達し、同じくBa師団はディジョンを「棄てて」グレーに至り、その南西側に主力を置いて南方ドール方面を警戒するのでした。この思い切った「ディジョン放棄」はヴェルダー将軍の上申によりベルサイユ大本営の認可で決定したもので、参謀本部モルトケ総長の「目下の情勢ではディジョンを放棄すること止むなし」との判断を受けてのことでした。ベルサイユ大本営はこの認可と同時にデブシッツ支隊の編成とベルフォール派遣をエルザス総督・ビスマルク=ボーレン将軍に命じ、ヴェルダー将軍は27日、守備隊と共にディジョンからブズールへ向かい、後には33名の移動に耐えられない重病傷者と数名の軍医、看護手が捕虜覚悟で残留するのでした。
独第14軍団はこの緊張状態の中で盛んに斥候を繰り出し、特にオニヨン川流域で仏軍の動向を探り続けますが、斥候たち多くが川を越えて左岸(主として南方)へ後退する義勇兵の群を発見・報告するだけでした。
結果ヴェルダー将軍は「仏軍はベルフォールを解放する意志を示しているものの、未だブザンソン~ベルフォール間に解囲兵力の集合を見ない」とするのです。この時、予備第4師団の前衛はルージュモン付近にありましたが、発した斥候はイル=シュル=ドゥー(モンベリアールの西南西17.6キロ)付近のドゥー川諸橋梁が爆破され落とされているのを確認しました。同時にボーム=レ=ダム(ブズールの南南東33.8キロ)方面では騎兵を伴った目立つ仏軍歩兵縦隊と遭遇し発見される前に避難しています。
これだけでなく、諸隊から集まった地方住民への尋問結果や噂、そして諜報を検討するとそれは全て同じ結論となり、つまり「仏軍の強大な兵力が鉄道輸送でリヨンから北上しブザンソンに集合を終えている」ということでした。ヴェルダー将軍は「その時」は今ではないものの年明けには一大決戦があるものと覚悟し、グレーに残したBa第3旅団も12月31日までにブズール周辺へ到着するよう命じました。
ところがヴェルダー将軍はこの大晦日までに偵察や情報集約結果によって「仏軍は現在もドゥー川を越えておらず、支配下地域にある同河川に架かる全ての橋梁も破壊している」ことを確認するのです。
加えてベルサイユ大本営は30日、第14軍団本営に情報を送り、それは「先の情報は誤りで、ブルバキ将軍率いる軍勢は未だブールジュとヌベール付近にあるものと思われ、我が軍の第7軍団はモンバール(シャティヨン=シュル=セーヌの南南西31.6キロ)とニュイ=シュル=アルマンソン(現・ニュイ。モンバールの北西15キロ)間で行軍を中断し待機している」との情報でした。これはブルバキ軍がブザンソン「軍」と連動せず、従って先のドゥー河川落橋の情報と合わせれば、「仏軍はベルフォールの解囲を狙っているものの、未だその時期ではない」との推測が成り立つのでした。
ここでヴェルダー将軍は「慌ててベルフォール方向へ軍を動かしたが時期早尚だった」と考え、第14軍団主力を再び西方及び南西方向へ戻し、ディジョンも再び占領しラングル要塞の監視も行おうと考えるのです。
しかし。軍団が元来た道を戻る前に状況は一変、ヴェルダー将軍と第14軍団は普仏戦争最後の決戦に突入することとなるのです。
ニュイ=サン=ジョルジュの戦闘記念碑
☆ ヴェルダー軍団・1月1日
フォン・ヴェルダー将軍は新年1日、グレーからBa第3旅団がヌヴェル=レ=ラ=シャリテ(ブズールの南西18キロ)に達したとの報告を得ると、「軍団を反転しラングル~グレー~ディジョンの線に戻す前、ボーム=レ=ダム付近で発見した仏軍を攻撃しベルフォール方面の憂いを払拭しておこう」と考えました。そしてこの命令を下した時。
「仏軍の大集団が突如ドゥー川南方地域に現れ、大挙して北に向かい行軍し、その前衛はスイス国境近くブラモン(モンベリアールの南14.3キロ)に達した」との情報が飛び込んで来たのです。
完全に不意を突かれたヴェルダー将軍は、U・トレスコウ将軍のベルフォール攻囲兵団の危機として「直ちにベルフォール方向へ動き、攻囲兵団を救援する」ことを命じたのでした。
※1871年1月1日・ベルフォール攻囲兵団を除く独第14軍団所属諸隊の配置
● ブズール在
◎ 軍団本営
軍団長 伯爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・レオポルト・アウグスト・フォン・ヴェルダー歩兵大将
参謀長 パウル・スタニスラス・エデュアルド・フォン・レシュツィンスキー中佐(バーデン大公国参謀長)
砲兵部長 伯爵フォン・シュポネック少将(バーデン大公国将官)
工兵部長 アルブレヒト少佐(普工兵第2方面本部所属)
● ブズール市街及びその周辺部にあるもの
◎ バーデン大公国(Ba)野戦師団・司令部
師団長 ハインリッヒ・カール・ルートヴィヒ・アドルフ・フォン・グリュマー中将(ニュイの戦いでの戦傷を癒して年明けに復帰しています)
◇ Ba第1旅団
○ Ba擲弾兵第1「親衛」連隊
○ Ba擲弾兵第2「プロシア王」連隊
◇ Ba第2旅団
○ Ba第3連隊
○ Ba第4「ヴィルヘルム親王」連隊
○ Ba竜騎兵第3「カール親王」連隊・第1,2中隊
○ Ba野砲兵連隊・軽砲第3,4中隊(第1並びに第2旅団従属)
◇ 師団砲兵大隊
○ Ba野砲兵連隊・軽砲第1中隊、重砲第1,2,3,4中隊、騎砲兵中隊
● ブズール~ポール=シュル=ソーヌ間にあるもの
◇ Ba騎兵旅団
○ Ba竜騎兵第1「親衛」連隊
○ Ba竜騎兵第2「マルクグラーフ・マクシミリアン」連隊
● ヌヴェル=レ=ラ=シャリテとフレンヌ=サン=マメス(ブズールの西南西23.7キロ)にあるもの
◇ Ba第3旅団
旅団長 フランツ・アントン・ケラー少将
○ Ba第5連隊
○ Ba第6連隊(第2大隊欠)
○ Ba竜騎兵第3連隊・第4,5中隊
○ Ba野砲兵連隊・軽砲第2中隊
● ブズール周辺とその東方カルムーティエ(ブズールの東9.5キロ)間にあるもの
◇ 普独立混成歩兵旅団司令部
旅団長 男爵アレクサンダー・エデュアルド・クーノ・フォン・デア・ゴルツ少将
○ フュージリア第34「ポンメルン」連隊
○ 予備竜騎兵第2連隊
○ 独立混成砲兵大隊・第3軍団予備軽砲第1中隊
● リュール(ブズールの東北東26.2キロ)にあるもの
○ 第30「ライン第4」連隊
○ 予備驃騎兵第2連隊
○ 普独立混成砲兵大隊・第1軍団予備重砲第1中隊
○ 同・第3軍団予備軽砲第2中隊
● ヴィルセクシュエル(ブズールの東南東22.2キロ)とその東郊・南郊にあるもの
◎ 予備第4師団・司令部
師団長 フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュメリング少将
○ オストプロイセン後備混成歩兵第2「第4/第5」連隊
・オステローデ後備大隊
・オルテスブルク後備大隊
・グラウデンツ後備大隊
・トールン後備大隊
○ オストプロイセン後備混成歩兵第1「第1/第3」連隊
・ヴェーラウ後備大隊
○ Ba第6連隊・第2大隊(元・ラシュタット要塞守備隊)
○ 予備槍騎兵第3連隊・第1,2,4中隊
○ 師団「混成」砲兵大隊・予備軽砲第1,2,3中隊
● ルージュモン(ヴィルセクシュエルからは南西へ9.8キロ)とその郊外にあるもの
○ 第25「ライン第1」連隊
○ 予備槍騎兵第1連隊
○ 師団「混成」砲兵大隊・予備重砲第1,2中隊
● ポール=シュル=ソーヌとその郊外
◎ 兵站路守備隊(本来所属はアルザス総督府)
司令 フォン・シャック少佐
○ オイペン(現・ベルギー「ドイツ語共同体」首府)後備大隊(6個中隊制)
○ 予備驃騎兵第4連隊・第1中隊
○ 第7軍団予備重砲中隊
ヴェルダー将軍と戦う後備兵たち(独のプロパガンダ画)
1月2日。
フォン・ヴェルダー将軍は以下の行軍命令を下します。
「オスカー・ハインリヒ・アレクサンドル・ナハティガル中佐(第30連隊長)の「リュール」支隊はエリクール(モンベリアールの北北西7.9キロ)へ、予備第4師団本隊はアルセ(同西10.4キロ)へ、フォン・デア・ゴルツ支隊はヴィルセクシュエルへ、各々向かうように。これら諸隊は以降ベルフォール攻囲兵団U・トレスコウ将軍の指揮下で行動せよ」
この時、ナハティガル中佐の支隊から予備驃騎兵第2連隊の第1,2中隊と第3軍団予備軽砲第2中隊が離れてフォン・デア・ゴルツ支隊に転属、一時的に予備第4師団に属していたBa第6連隊の第2大隊は原隊復帰のためBa師団がやって来るヴィルセクシュエルに残留し、Ba師団はこの先ドゥー川渡河が予想されるゴルツ支隊のために架橋資材を譲っています。
このヴェルダー将軍の命令により、U・トレスコウ将軍は1月3日時点で歩兵29大隊・騎兵17中隊と1個小隊・砲兵14個中隊と1個小隊の兵力を集めドゥー川上流からモンベリアールとベルフォールに向かって来る仏軍に対抗することとなったのです。
同2日。デブシッツ支隊の予備槍騎兵第6連隊・第2,3中隊は仏瑞国境のアベヴィエ(モンベリアールの南東12.4キロ)で仏軍の目立つ集団を発見し、周辺住民が語る数々の「噂」と合わせ「仏のベルフォール解囲に向けた行動の一環」と考えたフォン・デブシッツ将軍は威力偵察のため麾下リーグニッツ後備大隊の2個中隊をクロワ(アベヴィエの東北東3.2キロ)からアベヴィエに向けて突進させますが、仏軍はアベヴィエ~クロワ間の高地上に1個大隊を展開させたものの半数以下の兵力で向かって来る独軍後備兵に対しこの仏護国軍大隊は短時間の銃撃戦で戦闘を切り上げ一気に退却してしまうのでした。この仏軍護国軍兵の一部は国境を越えてスイスに入りスイス軍の国境警備隊に武装解除・抑留されています。
1月3日。
U・トレスコウ将軍はヴェルダー将軍からの増援が先述の目的地に到着したことで余裕が出来、アルセ在の守備隊から3個大隊を引き抜きグランヴィラール(モンベリアールの東北東13キロ)、ボークール(同東南東10キロ)、そしてルベテン(ボークールの東4キロ)と仏瑞国境方面の目的地へ増援を送り出します。しかしこの諸大隊はまとまった仏軍部隊と遭遇せず本格戦闘とはなりませんでした。
一方、モンベリアールの南西側、ドゥー川下流方面を偵察した予備第4師団の斥侯たちは対岸から銃撃を受けるものの、こちらも仏軍が川を越える兆候を捉えることはありませんでした。
とはいえ、幾度も不正確な情報に翻弄されて来たフォン・ヴェルダー将軍は、例え今は前線に敵が見えぬとも必ずや仏軍はドゥー川を越えて来るはずで、ドゥー川南方にはそのための大兵団が存在していることは疑いようのない事実としていました。これにも立派な根拠があり、仏軍に関する情報はこの日も変らずベルンから入っており、それによれば、「リヨンからブザンソンを経由しベルフォール地方に向かう鉄道線は3日まで軍専用に指定され軍用列車が頻繁に往復している」とのことで、また「ブザンソン周辺に集合した仏軍部隊は総数62,000名を下らず」との「確実な」情報もあったのです。同時にその仏軍部隊には南仏やアルジェリア植民地からやって来た連隊(最後まで後置されていた正規部隊)もあるらしく、諜報によるとその部隊番号は「ヴォージュ、アルザス方面の戦場では見たこともないものもある」とのことだったのです。
この日はまたボーム=レ=ダムの北・オニヨン川上流のアヴィレ(ヴィルセクシュエルの南西18.7キロ)やクレルヴァル(ボーム=レ=ダムからは東北東11.1キロ)付近に「仏軍部隊が存在する」との斥侯情報があり、その他ヴォー川北方で住民が語る「噂」は相変らず全て仏軍が「北上又は東進してベルフォール解放を目指そうとしている」との推測が成り立つものばかりだったのです。
ボーム=レ=ダム(ドゥー川)
このヴェルダー将軍の「予断」は程なく正しかったことが証明されました。
同日夜。クーノ・フォン・デア・ゴルツ将軍はヴィルセクシュエルで「敵の強力な兵団が翌4日夜までにルージュモンに至る」との情報を入手し、東進する仏軍の機先を制するため翌朝エスプレル(ヴィルセクシュエルの西南西4.8キロ)南郊に架かるオニヨン川の橋梁を押さえるよう麾下に命じました。
フォン・デア・ゴルツ将軍からの至急報で事の次第を知ったヴェルダー将軍も直ちに「ベルフォール攻囲兵団を救援するため、諸隊は密に集合すべき」として以下の移動命令を下しました。
「予備第4師団とナハティガル中佐の支隊はサン=フェルジュー(ヴィルセクシュエルの東5.8キロ)へ集合、Ba師団主力はヴァルロワ=ル=ボワ(同西10.7キロ)付近で待機、Ba第3旅団はヌレ=レ=ラ=ドゥミー(ブズールの南南東6キロ)周辺に集合、ブズールの防衛は昨日(2日)同地に到着した兵站路守備隊*にこれを委任する」
※1月2日にブズールに入った兵站路守備隊
司令 フォン・パツィンスキー=テンツィン少佐
○ 予備猟兵第1大隊・第1,4中隊
○ ザクセン王国予備軽砲第2中隊(5日にBa第2旅団へ編入)
1月4日。
早朝派出された独軍斥候はルージュモン付近に仏軍の存在がないことを報告します。同じくオニヨン河畔を捜索したBa騎兵旅団の士官斥候もまた敵を発見出来ませんでした。
報告を受けたヴェルダー将軍は首を傾げながらも「敵は一旦ブザンソン方面へ下がったと思われる」として麾下に対し「ブズールとオニヨン川の間に再集合を成せ」と命じ、午前11時には諸隊はやや後退する形で指定地に移り宿営の準備に掛かりました。同時に増援の去ったアルセには再びベルフォール攻囲兵団から守備隊がやって来ました。
ただ、ブズールからブザンソンへ至る道程のリオ街道(現・国道N57号線)上でBa竜騎兵第3連隊の第1中隊がヴィルセクシュエル方面(東)へ進むと思われる仏軍縦隊を発見して攻撃し一旦は撃破しますが、この仏軍はブロワの森(ボワ・ドゥ・ラ・ブロワ。ブズールの南13キロ周辺に広がる森。現存します)北端に踏み留まって陣を敷き、追撃して来たBa軍歩兵と暫し戦闘状態に陥りました。
ニュイの戦いにおけるBa第1連隊
☆ 1月5日・ブズール付近の戦闘
昨夕は夜に入ったため本格戦闘を諦め引き上げたBa師団ですが、5日早朝、ブロワ森の敵情を調べるため森に近いエシュノ=ル=セック(ブズールの南南西9.7キロ)に宿営していたBa第3連隊の第6中隊が出撃しました。すると中隊は森縁に陣取り続けていた仏軍部隊を発見し、更に森の南側外にも驚くべき数の仏軍部隊が存在していることに気付くのです。
この時、仏軍もまた行動を開始し、Ba軍斥候は「歩兵数個大隊と思われる大きな縦隊がオートワゾン(エシュノ=レ=セックの南南東6キロ)からリノ街道へ向かい行軍を始め、他の多くの歩兵がブロワ森北西側のル・マニヨレ(同南西1.8キロ)まで前進している」との報告を上げました。更にブロワの森近くで捕虜にした仏兵の言によれば、「付近には40,000を下らない仏軍がいる」とのことだったのです。
これら報告を聞いたBa師団司令部は「地形的に不利なエシュノ=レ=セック周辺で戦うのは無理がある」としてこの地にあったBa第3連隊第2大隊に部落からの撤退を命じます。この時、エシュノ北郊にあった墓地には前哨として第5中隊が留まり、この中隊の後援と収容を任務として第7中隊がやや北方に待機しました。また、エシュノ=レ=セック周辺部とヴェルフォー(エシュノ=レ=セックの北東2キロ)にあった他のBa第3連隊諸中隊(第1大隊と第6,8中隊)は連隊長クラウス中佐が掌握しヴェルフォーとその周辺に再展開させるのでした。
事ここに至りブズール在のヴェルダー将軍はBa師団主力をヴェルフォーへ、Ba第1旅団とフォン・デア・ゴルツ将軍の支隊をダンピエール=レ=モンボゾン(現・ダンピエール=シュル=リノット。ヴェルフォーの南東8.5キロ)へ、予備第4師団本隊をヴァルロワ=ル=ボワへ、それぞれ前進させました。
ブズールとその南方図
同日正午過ぎ。仏軍の歩兵集団が騎兵少数を同伴させてヴェルフォー南郊に現れますが、これは到着したばかりのBa軽砲第4中隊が榴弾砲撃によって撃退します。その30分後、今度は明らかに護国軍兵の集団と分かる1個大隊級の仏軍がエシュノ=レ=セックに入り、一部がル・マニヨレ付近に陣を敷きました。この仏大隊は日没に至るまでエシュノから盛んに前進を企て、郊外墓地にあったBa第3連隊の前哨と戦い、また増援として来着したアルノルト中佐指揮のBa第4連隊第1大隊(第2大隊は予備として後続)と短時間戦いますが、全て失敗してエシュノへ引き返します。結局仏軍は日没時には諦めて各部落から南方へ撤退するのでした。
この頃、Ba師団長フォン・グリュマー将軍は、ブロワ森南方に展開する仏軍の左翼(西)を突くため、ブズール南郊に残していたBa第3連隊のF大隊をアンデラール(ブズールの南西5.8キロ)を経てルヴルセ(ヴェルフォーの西4キロ)に向け前進させます。同じくBa第3旅団からブロワ森の西側へ進撃を命じられたBa第5連隊のF大隊は、この友軍大隊とヴェルギャンドリ(=エ=ルヴルセ。ルヴルセの北北東1.5キロ)で合流し、そのまま森の西部とルヴルセに向けて片面包囲を仕掛けました。これは数倍する仏軍の抵抗によって少なくない損害(両連隊はこの日死傷者合わせ75名を計上します)を被りますが、Baフュージリア兵は退くことなく果敢に戦い、午後4時45分、ルヴルセに突入して大隊長の一人、ヤコビ少佐は仏マルシェ第42連隊所属の兵士約100名を捕虜としました。他の仏将兵は夕闇に紛れて森を抜け撤退しています。
この日(5日)は他のヴェルダー将軍麾下の諸隊も各地で仏軍と衝突を繰り返しました。
フォン・デア・ゴルツ将軍麾下のフォン・ヘルツベルク少佐が指揮する一支隊(第34連隊第2,3中隊と予備竜騎兵第2連隊第1中隊の3個小隊)はブズール~ベルフォール街道上のエスプレルから確保したばかりのオニヨン架橋を渡って南進、ドゥー河畔のボーム=レ=ダムを目指しました。その街道上オートショー(ボーム=レ=ダムの北北東3.3キロ)までは敵の妨害なく進んだヘルツベルク少佐でしたが、その北西方向のアヴィレ(同北西10.8キロ)には仏軍の存在があることを周辺住民の言から知り、同時に放った斥候からは「ユアンヌ(=モンマルタン。ルージュモンの南9.5キロ)には仏軍歩兵の縦隊と散兵線が展開中」との報告が上がるのです。
この頃、フォン・デア・ゴルツ将軍は本隊を直率してダンピエール(=シュル=リノット)からBa軍が戦うヴェルフォー方面へ出撃し、ヴィ=レ=フィラン(ダンピエールの西2.8キロ)やフィラン(ヴィ=レ部落の北西1.4キロ)周辺にあった仏軍騎兵部隊を襲ってこれを四散させました。
同じ頃、ポール=シュル=ソーヌに本部を置くフォン・シャック少佐の兵站路守備隊は、ブズール西方・ソーヌ河畔のトラーヴ(ブズールの西14.1キロ)に仏軍が進出していることに気付き、これを予備重砲中隊が榴弾砲撃を行うことで駆逐します。しかし仏軍はこの隙を突いて、槍騎兵2個中隊をグレー~ブズール鉄道線(現在は廃線ですが一部軌道自転車で走れるようになっています)沿いに進ませて独軍の鉄道輸送を妨害しようとするのでした。
フォン・ヴェルダー将軍はこの日夕方、各地から集まる情報を吟味した結果、「ブズールから敵の重心方向(南から南西)に続く諸街道及び鉄道線に対し警戒を厳重とせよ」と命じると共に、各隊の疲弊も考慮して「各々現在地至近において適当な宿営を設けて休息せよ」としました。
ところが、貴重な砲兵を有する強大な仏軍部隊がBa師団宿営地の一つベル=ル=シャテル(ブズールの西南西8.6キロ)を襲い、慌てたBa将兵は包囲寸前で辛くも脱出に成功するのです。実はこれ以前の日中、Ba部隊が宿営地を設けるためこの部落に入ったところ、既に仏軍の小部隊が宿営を設けようとしているのを発見し、直ちに捕虜とする「事件」がありました。後にこの仏兵たちを尋問した結果、この仏軍設営隊はアルジェリア植民地からやって来た正規軍のズアーブ歩兵2個大隊と砲兵1個中隊のために宿営地を設けていた、とのことで、Ba部隊はこの仏軍精鋭に襲われたのだと知れたのです。
この1月5日、独軍は約100名の損害(戦死20名・負傷77名・行方不明1名)を出し、仏軍は約500名の捕虜を出しました。
これら捕虜の尋問により、この日の深夜には仏軍の動きが判明し始め、それによれば、「仏第18、20両軍団はブズール奪還を目指して前進しており、新設の同第24軍団もこの行動に加わりつつある」とのことだったのです。また、これら諸軍団はオルレアン失落で分断され2つに再編成された「ロアール軍」の東側集団「第1ロアール軍」に属し、その総司令官はシャルル・デニ・ソテ・ブルバキ中将であること確実となったのです。




