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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・独南軍と仏東部軍
464/534

ベルフォール攻囲(前)/攻城砲撃と攻囲網の前進


 12月3日早朝。

 厳寒期とは言えここ数日は温暖で、濃い朝霧はサヴルーズの渓谷を覆い隠しベルフォールの街や要塞はその輪郭をぼんやりと顕しているだけでした。

 独軍ベルフォール攻囲兵団の要塞砲兵たちが出来たばかりの砲台の中でじっと時を待っていると、午前8時、朝陽が霧を突き抜け急速に遠望が利くようになって行きます。各砲台で目標が視認出来るようになると、攻城砲兵司令のフォン・シェリハ中佐は砲撃開始を命じ、7つの砲台に設置された28門の各種要塞砲は一斉に火を噴きました。


 フリードリヒ・エルンスト・フェルディナント・フォン・シェリハ中佐は当時41歳。リーグニッツ(現・ポーランドのレグニツァ)近郊の普軍士官学校を卒業以来砲兵一筋に軍歴を重ねました。シェリハ中佐は第2次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争に大尉で出陣し、あの「普軍近代砲兵の父」ヒンダーシン将軍の幕僚として活躍、犠牲の大きかったデュッペル堡塁群の戦いでは攻城砲兵の先陣に立ち、勝利の立役者の一人となりました。その後参謀本部勤務を経て第1軍団本営の砲兵幕僚として普墺戦争に臨み、あの頑迷なアドルフ・フォン・ボニン将軍の下、トラテナウからケーニヒグレーツへと戦い続けます。戦後は第2師団の幕僚を勤め、普仏戦争が始まると中佐として第二防衛管区(独西方の第7・8・11の3軍管区を統合した戦時後方留守部隊)でフォン・ビッテンフェルト将軍の副官として働き、やがてストラスブールの攻囲が始まると攻城砲兵指揮官フォン・デッカー中将の参謀に任命され将軍と共に要塞砲兵を引き連れて参戦、工兵隊のフォン・メルテンス少将や攻城軍参謀のフォン・レシュツィンスキー中佐と並びストラスブール攻略の立役者として注目を集め、続けてセレスタ、ヌフ=ブリザックとアルザス地方の主要要塞を次々に陥落させてベルフォールに至るのです。


挿絵(By みてみん)

シェリハ中佐


 シェリハ中佐の攻城砲撃当初、ベルフォール要塞守備隊は11月28日のバヴィリエ陥落以来再び補強を行っていた西側最前線のベルヴュー、バール両分派堡塁から間延びした応射をするだけでしたが、次第に要塞本体の備砲も砲撃に加わり、最後には要塞東方のラ・ジュスティーヌ、ラ・ミオットの両分派堡まで要塞と市街地越しに4,300mという遠距離砲撃を開始するのでした。この東西南北どちらにも8割前後の砲を指向出来ることと、戦前から敵の攻城砲設置位置を予測してその射距離と方向を計測済みだったことがベルフォール要塞砲兵の強みの一つだったのです。

 それでも独の攻城砲撃は犠牲を省みることなく強行され、日中は盛んに、夜間は間歇に昼夜の別なく数日間に渡って続行されますが、要塞側の砲撃に対する準備は出来うる限りを尽くしたと言え、次第に正確となる要塞側の応射は多くの重砲榴弾を独砲台と護衛の塹壕内に着弾させ、攻囲兵団側の損害も初日3日だけで84名*に上るという無視出来ないものとなるのです。

 それに引き換えベルフォール市街地と要塞内部では複数箇所で火災が発生し、守備隊がその対応に大わらわとなる様子が独軍側から望見出来たのでした。


挿絵(By みてみん)

独軍攻城砲台(ストラスブール攻囲時)


※12月3日・攻城砲撃初日の独損害

◇護衛歩兵

○イノヴラツラウ後備大隊/戦死4名・負傷15名

○ドイツェ=クローネ後備大隊/負傷2名

○スタルガルト後備大隊/戦死3名・負傷18名

○ハルバーシュタット後備大隊/負傷3名

○第67連隊/戦死3名・負傷11名

◇攻城砲兵隊

○要塞砲兵第4「マグデブルク」連隊・第7中隊/負傷1名

○同連隊・第8中隊/負傷1名

○同連隊・第15中隊/負傷1名

○要塞砲兵第6「シュレジエン」連隊・第1中隊/負傷10名

○同連隊・第6中隊/戦死1名・負傷4名

○ヴュルテンベルク王国要塞砲兵隊・第1中隊/戦死1名・負傷3名

◇攻城工兵隊

○バイエルン王国要塞工兵・第4中隊/負傷3名


 この時ベルヴュー分派堡では、消火任務に指定されていた護国軍兵士が激しい砲撃に怖気付き、挙って任務を放棄し掩蔽に隠れてしまったため止むを得ず隊を一時解散させるという不服従事件(護国軍第57「オート=ソーヌ県」連隊の1個大隊傘下と伝えられます)が発生し、5日になると西側一部の堡塁や砲台が損害や弾薬切れのため時折応射を中断する事態も発生しました。

 しかし独の攻城砲撃も火災や応射の中断以上に見える効果は薄く、目標のひとつ、岩山山頂の重城からは途切れることなく応射が続いており、要塞本体には全く効果が無いようにも見えたのです。結果、攻囲兵団指揮官ウード・フォン・トレスコウ少将は重城こそがベルフォールの核心であり攻略の焦点であることを再確認するのでした。


挿絵(By みてみん)

ベルフォール要塞 郭外市街フォーブール・フランスより岩山を望む


 ところで、攻城砲台群では東方から吹き付ける強烈な季節風が砲兵や護衛の兵士たちを凍えさせ、この厳寒は時折塹壕や肩墻至近で爆発する敵の榴弾と相まって砲台勤務を地獄の苦しみへと変えました。繰り返し訪れる濃霧や吹雪は目標を蔽い隠し、砲兵に配布された地図も戦前のもので正確さに欠けており、やがては砲弾の供給が追い付かずに一部砲台では仏砲兵同様砲撃休止に追い込まれる事態が発生するのでした。

 このため、U・トレスコウ将軍は「攻城攻撃の目的達成のためには現在持っている材料を使い切ってでも至急バヴィリエ付近や要塞の南方にも砲台を新設し、同時に旧砲台を廃するか移動させて攻城砲撃の威力を増加し、敵の反抗砲撃を分散させることが肝要だ」と考え、幕僚にその方針実施を命じたのです。


挿絵(By みてみん)

ベルフォール攻城砲台の位置(西)


 12月9日夜間。砲撃の合間を突いて独軍は貴重な正規兵・第67連隊の第5中隊をベルヴュー分派堡直近の木材加工場直前まで隠密前進させ、数日前に仏側が撤退したことを察知していたラ・テュイルリー家屋群(バヴィリエの東北東1キロ。現存しません)を占拠しました。

 この頃、仏守備隊司令官ダンフォール=ロシュロー大佐は独軍の注意を北方へ向けるため(西や南で活発に運動する独軍を北面にも分散させるための作戦です)、ヴァルドアやダルソーの森(フォレ・ダルソー。ヴァルドワの東に広がる森)に対し9日から11日まで連日牽制の出撃を命じていますが(実施されます)、その出鼻を挫かれる形で独軍に動かれた大佐は、西側正面でも更に防御工事を充実させ木材加工場も防衛範囲に入れるため守備隊を派遣しました。更に11日の夜間にはラ・テュイルリーに向けて歩兵一隊を突進させ奪還を試みましたが、これは独守備隊によって撃退されてしまうのです。結果、このテュイルリー家屋群は独軍の支配が確定し独仏前哨は以降この地点で僅か250mを隔て対峙することとなりました。

 翌12日夜間には独軍はダンジュータン部落砲撃のためボタン(ダンジュータンの南南西2.7キロ)南東郊外のモンベリアール街道(現・国道D19号線)上に第8号砲台(12センチカノン砲2門)を設置しました。


挿絵(By みてみん)

ベルフォール攻城砲台の位置(南)


 翌12月13日。

 要塞からおよそ5個中隊の歩兵がバヴィリエを奪還するべく出撃し、不意を突かれた独前哨は一時部落内への仏兵侵入を許してしまいます。しかし素早く態勢を整えた独守備隊(第67連隊兵)は仏軍が足場を固める間を与えず逆襲に転じ、短時間の戦闘で侵入した仏将兵は部落から追い出され要塞へと逃げ帰るのでした。

 この日第67連隊は戦死6名・負傷21名・行方不明(捕虜)4名を報告しました。仏軍の損害は不詳です。


 同日夕方には、前日から南方包囲地区の指揮官に転じたフォン・オストロウスキー大佐が一支隊*を直率、出来たばかりの8号砲台から援護射撃を貰って仏前哨部隊の籠もるアンデルナン部落(当時はサブルーズ川を挟んだ街道沿いにありました。ダンジュータンの南1.8キロ。)とル・ボスモンの森高地を襲い奪取に成功します。果敢な大佐はこの勢いのまま1個中隊をダンジュータン部落に向けて突進させますが、さすがにこれは無謀で、この中隊(不詳)は目立つ損害を受け撃退されてしまいました。


挿絵(By みてみん)

郭外市街の防衛(外堀)


※12月13日のオストロウスキー支隊

○ドイツェ=クローネ後備大隊

○グネーゼン後備大隊・第1,3中隊

○シュナイデミュール後備大隊・第7,8中隊

○野砲兵第2連隊・予備軽砲第1中隊の1個小隊

○バイエルン王国要塞工兵第4中隊

○ヴュルテンベルク王国要塞工兵第2中隊の半個中隊


 しかしオストロウスキー大佐とは別に、独りサヴルーズ川の右岸を進んだコーニッツ後備大隊の第1,3中隊は、仏軍の抵抗に遭うことなくグラン・ボワ森(アンデルナン西方の森)深く侵入し、ここで一晩を明かすと翌14日早朝、森林内にあったフロアドヴァル農家(現・フロアドヴァル部落。ダンジュータンの南西2.1キロ。農家は部落東端に現存します)を奇襲しここを守備していた仏軍の士官1名・下士官兵63名を捕虜とするのでした。

 この「12月13日・アンデルナンの戦闘(翌朝のグラン・ボワ占領含む)」で独軍の損害は戦死4名・負傷58名・行方不明7名の計69名、仏軍は先の捕虜を含め140名以上の損害を受けました。


 仏要塞守備隊は14日、フロアドヴァル農家が襲われていた頃にバヴィリエ奪還のため再度出撃しますが、これも昨日同様激しい攻防の末に独守備隊によって阻まれてしまいます。独攻囲側は急ぎル・ボスモン森高地北縁とグラン・ボワ森北縁に前哨線を設け、これは短時間で強固な防衛線となりました。またフロアドヴァルの守備隊は同じく最前線にある北側のル・テュイルリー守備隊と連絡を通し、南・西包囲網を連結させるのです。


 独攻囲側は17日夕刻にひとり離れていた8号砲台の砲をサヴルーズ川左岸(ここでは東岸)に移転させアンデルナン南方の高地上に「第8号a砲台」として再設置しました(8号砲台は廃止となり取り壊されました)。

 フォン・メルテンス少将とシェリハ中佐は更に翌18日夜、バヴィリエ東方高地に重臼砲砲台となる9号砲台の築造を開始させます。しかし、この地区では高台にも関わらずここ数日来気温が上がり激しい降雨もあったためか数十センチ掘り下げただけで水が湧き出て砲台内部が「沼状」になってしまったため、水平に設置することが肝要な要塞重砲を備え付けることが出来ず、湧き水が止まるまでしばらく砲の設置を諦めるしかありませんでした。


 ここで攻囲兵団内で今後の方針を巡る意見の対立が発生します。つまりはこのまま「要塞に対する砲撃力強化のため砲台の増設を進める」のか「今や総力を挙げて正攻法による攻城を開始する」のか、というストラスブールやティオンヴィル攻囲でもあった「攻囲が長引きそうな折りに必ずと言ってよいほど発生する衝突」でした。しかしベルフォール攻囲兵団ではこの時、幕僚参謀たちは熱い議論を重ねたもののこれをU・トレスコウ将軍が素早く取りまとめ、「バヴィリエ付近で行われつつある砲台新設は戦況が許す限り続行、この新設砲台から正攻法の第一歩・要塞に向かう対壕掘削を準備し、ここを正攻法作戦の左翼(西側)とする(即ちダンジュータン方面でも暫時正攻法を始めるということ)」という大方針を決定するのでした。


 こうしている間にも攻囲兵団には続々と攻囲用の人員資材、そして要塞(攻城)砲が集まり、予定された72門の砲と砲台構築や正攻法実施に必要な人材が揃うのです(この経緯はベルフォール攻囲・資料その1を参照下さい)。

 U・トレスコウ将軍と攻囲兵団首脳は12月24日・クリスマスイブの日夕刻、バヴィリエ北方に待望の4砲台(第10,11,12,19号)築造を開始、同時にブロスの森(ボスモンの森東側)東縁にも2砲台(第13,14号)の築造を開始し、こちらは正攻法右翼の到達目標となるペルーズ両高地堡塁に対する攻撃の根幹を成すものでした。


 ところが、独攻囲側にとって不運なことに天候が再び変化して寒気が戻り、泥濘と化していた大地はたちまち固く凍て付いて要塞砲兵や工兵たちを悩ませ始めます。特にバヴィリエ高地上の4砲台築造は仏要塞守備隊前線から丸見えだったため、夜間のみ闇に紛れて作業を行い黎明には止めるという文字通りの「手探り」で行なわれました。このためバヴィリエ高地の砲台築造は寒気と暗闇が原因となる事故が多発する難工事となってしまったのです。

 それでもこの悪条件に真っ向から取り組んだ独軍要塞砲兵・工兵たちは後備兵の援助を受けつつ粘り強く工事を続け、12月28日には砲を設置し終わって砲撃を開始するまでにこぎ着けたのでした。但し19号砲台については特殊な重臼砲陣地だったため、砲撃開始は遅れて1月7日となります。

 逆に東側攻城の根幹を成す第13,14号砲台の築造は仏守備隊からブロスの森が遮蔽となって昼夜に渡る突貫工事を行うことが出来たため、ほぼ1日で完成しクリスマスの日にはオート・ペルーズとバス・ペルーズ両分派堡に対し砲撃を開始することが可能となり、仏守備隊にとってはありがたくない「榴弾の贈り物」を届けるのでした。

 対する仏要塞守備隊もこれら独攻城砲台に応射して、特に28日のバヴィリエ3砲台による砲撃に対するものは数倍返しとなる凄まじい砲撃となります。

 翌29日にはベルヴュー分派堡が全ての備砲を使い全力で独のバヴィリエ3砲台に対抗しますが、その砲撃の激しさに比して独要塞砲・工兵の「血と汗と涙の結晶」である3砲台(第10,11,12)はビクともせず砲撃を続行し損害も大きなものではありませんでした。


 独攻囲兵団はその間も攻城砲台構築を続け、ル・ボスモンの森北端のダンジュータン~ムロー街道(現・国道D23号線)沿いに第16,17,18号の3個、そしてシュヴルモンの停車場南方に第20号の各砲台構築を開始し、12月31日大晦日にもボスモンの高地上に計画されていた第15号砲台の築造を開始するのです。しかし、これら砲台の土地は並べて土木工事に向かない「悪地」で施工は困難を極めたため、その竣工は1月6日から7日となってしまいました。


 あらゆる障害を克服した独要塞砲兵たちは1月7日早朝、第16,17,18,20号の4砲台から(前述の第9号もこの日から)砲撃を始め、翌8日には第15号も砲撃を開始するのです。

 これにより、ベルフォール攻城砲台は「エセール砲台群」「バヴィリエ砲台群」「ボスモン砲台群」の3個群を形成し、更にその南方と東方にも各1砲台(第8と20号)を擁することとなったのです(この日ベルフォール市内には54発が着弾したとのことです)。


※1月7日時点の独ベルフォール攻囲兵団攻城砲台

◇エセール砲台群

*5号砲台 12センチカノン砲x4門

*6号砲台 27センチ滑腔臼砲x1門、22センチ滑腔臼砲x1門

*7号砲台 鹵獲仏製15センチカノン砲x4門

◇バヴィリエ砲台群

*9号砲台 27センチ滑腔臼砲x2門

*10号砲台 15センチカノン砲x4門

*11号砲台 12センチカノン砲x4門

*12号砲台 12センチカノン砲x4門

*19号砲台 21センチ施条臼砲x2門、23センチ滑腔臼砲x2門

◇ボスモン砲台群(ブロスの森縁にある砲台含む)

*13号砲台 15センチカノン砲x4門

*14号砲台 15センチカノン砲x4門

*15号砲台 27センチ滑腔臼砲x3門、22センチ滑腔臼砲x1門

*16号砲台 12センチカノン砲x4門

*17号砲台 12センチカノン砲x4門

*18号砲台 12センチカノン砲x4門

◇アンデルナン付近

*8a号砲台 12センチカノン砲x2門

◇シェヴルモン鉄道停車場付近

*20号砲台 12センチカノン砲x4門


※最初に築造された7砲台中、第1~4号砲台はこの時点で既に廃止されています。

*1号砲台 12/31に砲撃終了・1/1~2に撤去

*2号砲台 12/28に砲撃終了・1/1~2に撤去

*3号砲台 1/4に砲撃終了・1/6~7に撤去

*4号砲台 12/23に砲撃終了・1/1~2に撤去

 第6号砲台は臼砲弾薬不足により他の臼砲砲台に弾薬を回したため時折射撃を中断し、弾薬補充が出来た時どちらかの砲のみが射撃を行っていました。また、この時点でバンヴィラール付近に1個の砲台が竣工しています。

※1月8日には第8a、9号両砲台が廃止され9日には第5号砲台も廃止されました。


挿絵(By みてみん)

ベルフォール攻城砲台の位置(東)


 1月9日以降、独攻囲兵団は攻城砲50門で砲撃を持続します。攻囲側は砲撃戦で優位に立ち、守備側は対抗砲撃を切らさなかったものの次第にその数は減って行きました。昼夜に渡る連続砲撃でバス・ペルーズ分派堡は完全に反撃力を失って沈黙し、ペルーズとダンジュータン両部落では火災が絶えなくなりました。

 そして砲台築造が一段落したことでU・トレスコウ将軍は包囲網前進のため南方で攻勢を仕掛けることを決心するのです。


☆ ダンジュータン攻防夜戦(1月8日)


 既述通りダンジュータン部落はベルフォール要塞地区防衛の要地で、ダンフォール=ロシュロー大佐も防御を重ねたこの部落を独軍が攻城砲で叩き始めても放棄させず守備隊には固守を命じていました。

 独攻囲兵団にとってこの部落は正攻法を進めるために是が非でも手に入れなくてはならない場所で、何故ならばこの地に仏軍が居座り続ければ正攻法によって掘り進める対壕の始点となり防衛拠点ともなる包囲網を要塞に近付けることが出来ず、攻略の鍵となるペルーズの両高地を落とすためにボスモンの森高地から対壕を前進させても、その横合いにこの部落があるため簡単に側撃を受けてしまう可能性が高く、このままでは非常な苦戦が予想されるからでした。


挿絵(By みてみん)

ダンジュータンのサブルーズ架橋(20世紀初頭)


 U・トレスコウ将軍からこの部落占領を命じられた南方包囲地区指揮官のフォン・オストロウスキー大佐は1月7日の夜、シュナイデミュール後備大隊の代理大隊長フォン・マンシュタイン大尉に攻略の指揮を委ね、マンシュタイン大尉は自大隊にイノヴラツラウ後備大隊の2個中隊、グネーゼン後備大隊の1個中隊、そして第10軍団要塞工兵第2中隊を与えられ早速宿営から前線に向かいます。


 日付が変わって8日午前12時30分。

 ボスモンの森高地に入ったマンシュタイン大尉は先ず、シュナイデミュール大隊の第5中隊と工兵半個中隊を直率して北上するとミュルーズ(ミュールハウゼン)への鉄道線に至り、ダンジュータン部落北方でミュルーズ鉄道とベルフォールへの街道(現・国道D23号線)交差踏切にあった鉄道員の番小屋に向かいました。同時に大尉は同大隊の第7中隊と工兵中隊残りの半個をダンジュータン部落東街道口へ、第6,8中隊を予備として後方から続行させます。

 ダンジュータン部落の南部には防御工事で「半要塞化」した工場(現存せず。現在の中学校辺り)を中心に防御線があり、この防御線はサヴルーズ川に注ぐ小川を堀代わりにしていた強固なものだったため、マンシュタイン大尉は当初南方正面を避け、要塞への退路を断つためと要塞からの救援を防ぐために北と東側へ回り込んだのでした。

 大尉は部下に対し「小銃に弾を装填するな」と命じ(誤って引き金を引いても無音とするため)、予め工兵士官が偵察を行って定めた経路上を無音前進させますが、仏守備隊は直ぐに気付いてしまい遠距離から銃撃を加えて来ました。大尉らは遮蔽なく危険極まりない最後の数百mを駆け抜け、第5中隊は鉄道番小屋を襲ってそこに駐屯していたソーヌ=エ=ロアール県の護国軍1個中隊を駆逐し、第7中隊は部落東口にいた哨所を奇襲しここにいた兵士全員を捕虜とします。番小屋を押さえた第5中隊は後着した第8中隊と共に、後備兵が戦っている間に急ぎ要塞工兵たちが構築した鉄道堤の散兵線に展開し、急を聞いてベルフォール東側重城下の郭外市街レ・フルノーから駆け付けた守備隊数個中隊に猛銃撃を浴びせて撃退、部落内にいる仏守備隊と数時間に渡る銃撃戦を始めるのでした。

 部落東側を押さえた第7中隊は工兵と共に部落の中央路を進んで教会至近まで制圧、第6中隊がこれに続きます。両中隊はこの間に仏軍士官4名と約150名の下士官兵を捕虜にし、工兵は占領した地点にバリケード複数を設置して銃撃拠点としました。ところが、満を持して部落南面に向かった第8中隊は苦戦に陥り、マンシュタイン大尉はこの時ボスモンの森北方の鉄道切り通しに進出していたイノヴラツラウ後備大隊の2個中隊を南方に進ませ増援としましたが戦闘は正に膠着状態となってしまうのです。この戦闘で第8中隊長のチャップマン中尉は陣頭指揮を執って前進中に3発の銃弾を受けて戦死してしまいました。結局、独軍は部落北部で多くの民家や防御用のバリケードを占拠したものの部落南部は陥落せず、また仏軍側も喪失した地域を奪還しようと突撃を繰り返しますが、こちらも上手く行かず夜は明けてしまうのでした。マンシュタイン大尉らは要塞からの砲撃を避けるためにも現在地を維持して仏守備隊と近接対峙するしかなくなるのです。

 辺りの見通しが良くなると要塞から数個中隊の救援隊が発しますが、こちらは砲戦を再開したボスモン高地の独砲台から榴弾を浴びてしまいダンジュータンに接近することが適いませんでした。


 ダンジュータン部落で激闘が繰り広げられていた頃、フォン・デア・ゴルツ中尉率いるグンビンネン後備大隊第8中隊(予備第4師団からの増援)はバヴィリエから前進し、ダンジュータン部落の西端となるサヴルーズ川右岸の家屋群を襲います。ここには仏護国軍の数個小隊が駐屯しており、独側にとっては想定外の激戦となりましたがゴルツ中尉らは怯まず戦い抜きました。結局ゴルツ中尉らは黎明まで掛かったものの守備隊を駆逐することが出来、仏士官1名・下士官兵約50名を捕虜として対岸に進出したフォン・マンシュタイン大尉の部下と連絡を通すことに成功(包囲網の連結)しました。しかしその代償もまた大きなもの(戦死6名・負傷19名)だったのです。


 8日午前11時30分。フォン・マンシュタイン大尉らポンメルン州の後備兵に対しダンジュータン部落南部に立て籠もったものの要塞との連絡と救援を絶たれた仏守備隊は武器を投じ、投降した仏軍は士官18名、下士官兵711名となりました(戦死は16名、負傷52名)。

 独マンシュタイン隊の損害は94名(戦死21名・負傷71名・行方不明2名)で、この犠牲と引き換えに包囲網は南部で大きく前進することが出来、右翼側はブロスの森に連絡して左翼はグラン・ボワ森からダンジュータン部落に進み、その最前線は要塞市街地の僅か1,400mに迫ったダンジュータン部落北郊(鉄道線路付近)となるのです。


☆ ベルフォールとその周辺の状況(11月末から1月初旬)


 「ダンジュータンの夜戦」が発生した時、銃声は連続して響き渡り、これは要塞でも聴取されますが夜間の前線当直士官たちはこれを「いつもの前哨同士『夜の挨拶』」と決め付けてしまい、斥候や伝令を発することなく防衛司令部にも伝達しませんでした。この結果、ダンフォール=ロシュロー大佐が事の次第を知ったのは、ダンジュータンから辛くも脱した守備隊敗残兵がル・フルノーへ逃げ込んだことを知らせる伝令到着時で、既に時遅し、大佐はこういう事態を想定して計画してあった救援計画を発動することが出来なかったのです。


 ダンフォール大佐はダンジュータン喪失という一大事に加え、敵の砲撃によって崩壊寸前となっていたベルヴュー分派堡の有様でも明らかな独攻城砲の威力、そして目立ち始めた伝染病(70年末においてベルフォールではチフスや天然痘による死者が一日平均18名出ています)に絶え間ない火災と兵員の未熟や倦怠による事故多発に悩みます。特にフェデルブ将軍率いる仏北部軍同様に軍靴の不足は深刻で、大佐は住民から靴を徴発し軍票を発行するなどあらゆる手を打っていましたが解決の糸口すら見つかりませんでした。この物資不足やそれに伴う相次ぐ徴発は守備隊ばかりでなく一緒に戦う住民の士気にも大いに影響を及ぼし始めていました。


 一方の独攻囲兵団では、後備歩兵大隊の定員を現行の800名から1,002名に増員するため本国から補充兵を受け入れ始め、更にミュルーズ地方の警備を交代するためにエルザス占領地総督府所属の後備兵たちが到着したため任地を離れてベルフォールに向かった予備第1や同第4師団所属の諸中隊到着によって、歩兵の兵員数は12月半ばに見かけ上15,000名となりました。しかし、攻略困難なベルフォール要塞を前にして厳冬期という悪条件もあり、仏軍同様伝染病が蔓延し大隊の平均実働員数はなんと約500名と定員の半数になってしまうのです。

 12月8日におけるある後備大隊の状況を見ると、およそ200名の伝染病患者が入院中で、他にも多くの疾病患者と負傷者が数百人おり、特に20人から25人居なくてはならない士官は殆どが何らかの疾病負傷を治療中で、大隊長の他たった1名だけが無傷で健康、という「壊滅」状態だったのです。


 結果、攻囲兵団からの悲鳴にも似た増援要望に応えるため、既述通りU・トレスコウ将軍の上司となる第14軍団長フォン・ヴェルダー将軍は自身が活用する予定だった貴重な戦力である予備第4師団から半数近くをベルフォールへ転向させ、その最後の動きとして12月20日にはブズールからティルジット後備大隊がフライエ(=エ=シャトビエ。ベルフォールの西北西9キロ)へ、翌21日にはインスターブルク後備大隊がフレンヌ=サン=マメス(ブズールの西南西23.7キロ)からブズールを経てリュール(同東北東26.2キロ)に到着し、ティルジット大隊はエセール付近の包囲網へ加わり、インスターブルク大隊は包囲網の周辺部全域に対する警戒に使用され始めました。同じく12月末にはエルザス占領地総督府から派遣された「デブシッツ」支隊が到着し、ほぼ同時期には要塞砲兵も18個中隊、同工兵も6個中隊に強化され、12月17日にはバイエルン王国からも6個中隊の要塞砲兵が到着するのでした。


 ここに至り攻囲兵団は、もしベルフォールの仏守備隊が解囲に向けて撃って出たとしても十分に対応可能な兵力充実を見ました。ところが、この年末年始に掛けては仏軍がベルフォール解囲に向けて「外から」攻勢を掛ける兆候が濃厚となったため、U・トレスコウ将軍は包囲網外側の防備を至急高めねばならない状況となってしまいました。将軍はこの時(71年年頭)、歩兵30個大隊・騎兵7個中隊・野砲兵6個中隊を持っていましたが、この仏軍解囲攻撃に備え、兵力の半数となる歩兵15個大隊・騎兵4個中隊と1個小隊・野砲兵4個中隊と1個小隊を包囲網西外側とドゥー川の上流域に配備するのでした。


 11月中旬以来、このドゥー川沿岸を警戒し続けるモンベリアール在のフォン・ブレドウ大佐は、11月下旬に仏軍がドゥー沿岸から消え去ると、北方(ベルフォール)の喧噪を余所に比較的平穏な日々を過ごしていました。しかし年の瀬が迫ると西方ブザンソン方面からベルフォールに向け仏軍が動き始めるとの「情報・噂」が頻繁に届くようになり、ブレドウ大佐も次々と斥候を放って情報収集に励んだ結果、「仏軍はドゥー沿岸でブザンソンとモンベリアールの中間付近・ボーム=レ=ダム(モンベリアールの南西37.2キロ)からクレルヴァル(ボーム=レ=ダムの東北東11.1キロ)に展開し、更にイル=シュル=ドゥーとスイス国境に近いサンティポリット(モンベリアールの南21.4キロ)間でも仏軍が行動している。同じく仏瑞国境のポンタルリエ周辺では仏軍の一大野営がある」との情報を得るのでした。


 この仏軍の動きに対し、U・トレスコウ将軍は積極的に対抗することを決心します。


 将軍はモンベリアールにブレドウ大佐支隊(歩兵1個大隊・騎兵1個中隊・砲兵2個小隊4門)を配置していましたが、この街にある城塞は非常に堅牢だったため、街の防衛はそれに頼り度々包囲網に兵力を「借りて」いました。城には強力な要塞砲4門が備えられていましたが、仏軍による南方からの脅威が知られると、この重砲操作には不慣れな野戦砲兵に代わり包囲網から要塞砲兵1個小隊(士官1名・下士官4名・兵卒40名)が送られて任に就き、更に1月12日にはバーデン大公国軍の12ポンド重砲2門とその砲手が到着して城塞に配されるのでした。


 俄に後背が騒がしくなったため、包囲陣南方を指揮していたフォン・オストロウスキー大佐は威力偵察を行うこととなって一時包囲網を離れ、歩兵2個大隊・騎兵2個小隊(半中隊)・野砲兵2個小隊(4門)の支隊を直率してドゥー川上流とスイス国境までの間・グラン川(モンベリアールの南12キロのロシュ=レ=ブラモン付近を水源にグレ~エリモンクール~スロンクールを経てオダンクールの南でドゥー川に注ぐ支流)流域に進み、12月29日にはエリモンクール(モンベリアールの南東10キロ)で仏守備隊を発見、これを駆逐しました。

 年末、ストラスブールから進み来たフォン・デブシッツ少将率いる支隊はベルフォールに至る前、オストロウスキー大佐の東側に進んで仏瑞国境のデル(ベルフォールの南東17.8キロ)に進み、ここから西へボークール(モンベリアールの東南東9.9キロ)まで進んでオストロウスキー大佐から任務を引き継ぎ、大佐の支隊は北上しアラン川を渡河してブロナール(同東北東5.4キロ)まで下がってデブシッツ隊とブレドウ隊の後方を警戒するのでした。


挿絵(By みてみん)

厳冬期の偵察(独槍騎兵)


 ベルフォール攻囲兵団では珍しい正規軍部隊を率いるフォン・ツグリニツキー大佐(第67連隊長)は歩兵3個大隊・騎兵2個小隊(半中隊)・野砲兵1個中隊(6門)の支隊を直率して守備隊1個大隊が守るアルセ(モンベリアールの西10.4キロ)へ向かいます。この包囲網西方では特に仏軍の「圧力」が増し、万が一の時は包囲網から反転し西へ出撃することが考えられ、この地区を担当する予備第4師団ベルフォール派遣隊の隊長ロベルト・フォン・ツィンメルマン大佐は更に3個大隊を指定して素早く動かせるよう差配していました。


 この年頭時点で攻囲兵団は10個大隊を包囲網に充て、残りの部隊(20個大隊と多くの野砲兵に騎兵)は全て解囲に向かって来る仏軍を迎撃するために使用されることとなったのです。この時、野砲を奪われた包囲網に残る野砲兵は要塞砲を充当されています。


 U・トレスコウ将軍は12月28日、その本営をベルフォールだけでなくモンベリアールやドゥー川沿いにも近いブローニュ(ベルフォールの南南東9.5キロ)へ移動させました。そしてベルフォール解囲を狙う仏軍を叩くため、第14軍団がベルフォール地方へ近付いて来るのでした。


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