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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・独南軍と仏東部軍
462/534

ベルフォール攻囲(前)/本格攻囲の開始


 1870年11月中旬。

 スイスに接するオ=ラン地方(上アルザス。独名オーバーエルザス。以下同)南端の要衝、ベルフォールの攻城準備を命じられた「ストラスブール攻略の功労者」、攻城工兵司令官のカール・ヴィルヘルム・フェルディナント・フリードリヒ・フォン・メルテンス少将と、同じくストラスブール(シュトラスブルク)攻囲時に攻城砲兵司令フォン・デッカー中将の片腕として活躍しヌフ=ブリザック(ノイ=ブライザッハ)攻略では立役者ともなった攻城砲兵部隊司令官フリードリヒ・エルンスト・フェルディナント・フォン・シェリハ中佐はベルフォール包囲網に着任し、攻城砲や要塞砲兵諸中隊も続々とヌフ=ブリザックから到着しました。後に敵であった独軍からも渋々ながら賞賛の声が挙がり、仏人にとっては独に対する抵抗の象徴となるベルフォール要塞の攻防「本番」が始まったのです。


挿絵(By みてみん)

ベルフォール要塞(1870年)


 ベルフォールの街はヴォージュ(ヴォゲーゼン)とジュラ両山脈の間にある古来より交易路として活用されて来たトゥルーエ・ドゥ・ベルフォール(以下「ベルフォール回廊」とします)と呼ばれる幅約20キロの隘路中央にあり、この隘路を横切るサヴルーズ川(ベルフォールの北20キロのヴォージュ山脈南方・標高1,247mのバロン・ダルザス山を源流に南へ流れ、ベルフォールを抜けてモンベリアールの東でドゥー支流アラン川に注ぐ中級河川)中流にありました。

 この場所は前述通り南仏ソーヌ川方面とライン川上流のオ=ラン地方やその対岸バーデン大公国に至るための通路に当たり、古代ローマ以来実に多くの戦役で戦場となった紛争の地でもあります。このため中世来ベルフォールの街は防御工事を度重ね、サヴルーズの東岸に起立する岩山の麓に要塞が、その南面となる岩山の頂上に強固な防御を誇る城塞が造られ、これらは攻城術の進歩と共に改造工事を重ねた塁壁や堡塁に囲まれ、特に城塞は短期日では攻略困難な重城(要塞に取り込んだ城塞)となっていました。

 要塞地区を挟んでサヴルーズ川の西岸にある市街は70年当時人口8,000人と言われますが、帝政が倒れた9月以降疎開が相次ぎこの年末、独軍に囲まれた時には半数の4,000名になっていた、と伝わります。


 70年7月の開戦当時、要塞の姿はヴォーバン式に則った稜堡と塁壁に囲まれた立派なもので、市街も稜堡に囲まれた重厚な防御を誇っていました。要塞の北正面にはサヴルーズの渓谷に突出した前進堡「コルヌ・ドゥ・レスペランス」堡があり、要塞南面を守る岩山頂上の「重城」と連携し強力な防御を作り出していました。この近代化した重城は前述通り幾重にも連なる築堤と塁壁で護られ、その間には多数の要塞重砲が設置され砲兵や守備隊のためにも敵攻城砲火に耐え得る掩蔽が多数設けられていました。


挿絵(By みてみん)

ベルフォール市内から重城を見る


 要塞の北東側にはロップ部落(要塞中央から北東へ5.4キロ)から要塞に向かって目立つ登り斜面となった高地尾根が続き、この高地は要塞の北東1キロ付近で急斜面となって要塞に向かって下っており、その北側には先ほどの高地から分岐した尾根がレスペランス堡の真横まで続いていました。

 防御側から見ればこの高地尾根は重城より標高が高く、敵に奪われれば俯瞰され攻城砲を設置されれば目も当てられぬ状況となること必至だったため、その頂点部分に「ラ・ミオット」分派堡(要塞北東1.4キロ)が造られていました。また、この尾根(以降「北尾根」)の南側にも北尾根より少々低い「南尾根」が走り、ラ・フルシェの林(要塞の東北東2.4キロ。現存します)より重城に向かって走るこの尾根上ラ・ミオット堡の向かい側には「ラ・ジュスティス」分派堡(ラ・ミオット堡の南東530m)が築かれていました。

 この要塞東部を護る両分派堡はストラスブール、バーゼル両街道を管制し重城に対する攻撃を阻止するための最重要施設でもありました。また両分派堡と要塞外郭の間には小堡と塁壁が連なり、この内側に生じた広大な「空き地」は5,000から6,000名の兵士を収容可能な野営地となっていました。


 この一見完璧な防御を見せるベルフォール北東地区に比して、南東方で北方の南北尾根と相対する位置にあるバス・ペルーズ、オート・ペルーズの両高地(重城地区から南へ1.2キロと南東へ1.2キロ)は開戦時全く手付かずの状態で防御施設に類する設備は一切無く、攻撃側とすれば両高地南方に広がるブロスの森(ボワ・ドゥ・ラ・ブロス。バス・ペルーズの南南東1.9キロ)とル・ボスモンの森(同南1.8キロ。両森とも現存します)を占領しさえすればこれを遮蔽に使って両高地を狙うことが可能となる状態でした。オート・ペルーズの高地からは重城だけでなくサヴルーズ川西岸の防御物までもが展望可能で、この地は攻城砲台を設ける最適地となっていたのです。


 要塞の西側、サヴルーズ沿岸の地区は戦争前から防御増設工事が計画されており、東西南北四方向にあるベルフォール郭外市街の一つ・フォーブール=アンセートル(市街北面)の西側を走る鉄道沿線や、その鉄道西側、バール(数件の家屋。現在は住宅街となっています。要塞の西1.6キロ)と市街の間にある高地上にあった「バール」分派堡(現在跡地はベルフォール市のスポーツ施設や文化施設になっています)では、開戦前から防御増設工事が行われ、戦争中も工事を続けましたが帝政下では完成することなく、結果要塞の西側防御は比較的小さな「ベルヴュー」分派堡と市街南西にある停車場に設えた急造陣地に委ねられていました。

 因みに要塞の北西4.3キロに聳える鬱蒼とした森に覆われているサルベール山(モン・デュ・サルベール。最高地点は標高651m)からはベルフォール市街と要塞の全てが俯瞰出来ました。山頂には当然のように分派小堡(フォール・デュ・サルベール)が設けられていましたが、例えこの小堡が無くとも山頂に砲台を設けることは森と斜面のためだけでなく地質も岩石多く難工事が予想され、また要塞までは距離があるため砲撃効果も薄いと思われていました。


 こうして眺めて見るとベルフォール最大の「弱点」は南東側のオート、バス両ペルーズ高地と言えます。さすがに仏軍もこの弱点に気付いており、戦前両高地に防御施設を設置することは急務と考えられ、両高地最高地点に分派堡を築造するための工事が開始されますが、戦争に突入すると工事は全くと言ってよいほど進みませんでした。これは開戦直後にこの地で集合完結し、従ってベルフォール地方の防衛にも責任があったフェリクス・ドゥエー将軍の仏第7軍団が「ヴァイセンブルク」「ヴルト」両会戦の結果北方へ去ってしいまい、ベルフォールに残されたのはわずか5,000名程度の護国軍と地方守備隊だったことが原因でした。


 この問題も多い要地防衛に責任を負ったのは、遡ること6年前よりベルフォール要塞に在職し要塞のことを知り尽くしていた工兵士官、ピエール・マリエ・フィリップ・アリスティド・ダンフォール=ロシュロー大佐でした。


挿絵(By みてみん)

ダンフォール=ロシュロー大佐


 当時48歳になろうか(1月11日生まれ)というダンフォール大佐はパリのエコール・ポリテクニーク(国立工科学校)を卒業後メッスの陸軍砲工科大学で学んだ生粋のエンジニアで、イタリアやクリミアで実戦を経験し、大尉として参加したクリミア戦ではセヴァストポリのマラコフ堡塁最初の攻撃で重傷を負います。復帰後はしばらくメッスで母校の教官として勤務、その後にアルジェリア植民地で勤務し、41歳でベルフォール要塞勤務となり大佐に進級した後に普仏開戦を迎えました。大佐は70年の10月19日、仏国防政府より要塞司令官に正式任命されますが、それまでこの要職は将官(正確には准将)が任命されることが慣習となっており、3代前まで振り返って見ればレオンス・ルドルフ・ドゥ・シャルジェール、イッポリト・アルベール・カンブリエ、ジョセフ・コンスタン・クルーザと普仏戦争で名を残す軍団や兵団を指揮することとなる将軍が名を連ねていたのです。


 ダンフォール大佐は司令官就任直後、「要塞は前地に用意された防御により敵の包囲を困難とし、近距離における攻城砲台構築を阻止して正攻法実施を遅延させる」ことを方針としました。また、セレスタ(シュレットシュタット)とヌフ=ブリザックの陥落状況を伝聞した結果「守備側が弾薬を節約するため砲撃を惜しむのは愚策」と結論し、要塞砲兵は「敵の攻撃に対しては砲身が保つ限り最大射程でも惜しむことなく砲撃を繰り返す」よう厳命するのでした。

 このダンフォール大佐の精力的な活動によって懸案だった両ペルーズ高地尾根上の防御工事も再開・進捗し、独軍の攻囲開始時には頂上の堡塁は竣工しており、下方の防御工事も殆ど完工寸前までに至っていたのです。

 要塞西方・市街の防御工事については、鉄道線に沿って設えた連携堡工事こそ8月中に起工され9月末には完成を見たものの、その他は放置されるか遅延気味でした。ダンフォール大佐はこちらにも目を向け、先ずは西側防御の要・バール分派堡とベルヴュー分派堡の補強工事を急がせ完成させます。次に完成したばかりの「鉄道線連携堡」も郭外市街を横切りサヴルーズ川まで延伸され、これは深さ2mから2m50cm・幅4mの空堀と厚い胸墻からなる急造にしては立派な仕上がりでした。

 また、ダンフォール大佐はそれまで手付かずだった防御線面前の射界を広げる工事にも着手し、邪魔となったり死角を作ったりしていた多くの家屋を情け容赦なく破壊・撤去させ、サヴルーズ川西岸にある郭外市街・フォーブール=ドゥ=フランス(現在も同位置にある停車場付周辺)では多くの家屋が間引かれ、散兵壕とバリケードで完全に封鎖されるのでした。


 要塞本体とその直接・間接防御施設の整備が進む中、ダンフォール大佐は要塞周辺部にある部落を積極的に接収し防御拠点化することを決します。

 この方針によって要塞東方ではペルーズ部落を、南方ではダンジュータン(要塞の南2.3キロ)部落を完全に接収し、家屋や隔壁に補強工事や拠点化工事を行って「小要塞」と化しました。この新たな拠点には護国軍を中心に守備隊を送り込み、彼らには常に任務を与え訓練を続けて遊ばせる事が無いようにして、出来る限り「兵隊」に育つよう目を配りました。また、地元民から徴兵された国民衛兵を中心に敵の状況を探る諜報活動(制服を着用せず一般住民として占領地に潜入したものと思われます)にも力を入れるのでした。


挿絵(By みてみん)

出征するアルザスの臨時護国軍兵


 大佐は同時に要塞の勤務態勢を一新しますが、これは後に独公式戦史でも特筆されたほど用意周到で、それまでの硬直した仏軍士官に見られない斬新で柔軟な思考を以て実施されたもので、独軍の部隊運用を学習した結果ではないかとも思われます。


 大佐は先ず各防衛地区の責任と権限をその地区指揮官に委譲し、指揮官は直上の命令を待たず状況に応じて麾下を自由に動かすことが出来るようにしました。また、ベルフォール隣接周辺地区の国民衛兵を積極的に召集・活用して、独軍の攻囲開始時(70年11月中旬)にはベルフォールに守備隊要員17,000名余りを集中させることが出来たのです(他の地方では国民衛兵を信頼ならぬ武装民衆と捉え、専ら後方の治安や警備に使うのが当たり前でした)。当然ながら錬成未了の者が大多数とは言え、この「数」は兵員補充に苦慮する比較的少数の独攻囲兵団にとって脅威以外なにものでないものとなりました。しかし、武器までは手が回らず、シャスポー銃は正規軍部隊の一部にしか配布されず、多くの兵士は旧式ミニエー銃の改造品タバティエール銃や中古輸入品のスナイドル銃(タバティエール銃と同じ前装銃の後装改造銃)で我慢するしかありませんでした。

 要塞には各種大砲341門がありましたが、大佐にとって頭が痛いことに24ポンド以上の要塞重砲や臼砲にはわずかな数の弾薬しかなく、遂に補充もありませんでした。兵士1名に用意された小銃弾は400発前後で、火薬は400トンの備蓄がありました。これら火薬や弾薬は敵の攻城砲撃に耐え得る頑丈な四棟の火薬庫に備蓄され、またこれも頑丈な倉庫に貯蔵された糧食は、守備隊と住民併せて2万名前後に対し約5ヶ月分と見積もられるのです。


 ダンフォール大佐は包囲され籠城が始まった11月中旬から攻城砲撃がはじまる12月初旬までの間にも多くの防御策を講じました。


 既に基本的な対策が終わっていたバール分派堡、その後方の鉄道線路と停車場、北と西側の両郭外市街、そして南方のダンジュータン部落では止まることなく防御強化工事が続けられ、ベルフォール防衛地区の全てで攻略が困難となるありとあらゆる施策が採られ続けました。

 市街地では砲弾の爆風・破片を防ぐ掩蔽が数多く新設され、新たに砲弾製造所が設けられ、兵営の窓や余分な戸口には厚板が張られ塞がれました。また、観測用の軽気球や探照灯(アーク灯)も試験されて一部運用を開始し、消防隊組織も整備され強化されました。

 ダンフォール大佐はその司令部を重城内部に設置し、あらゆる指揮系統が全て自分に繋がるよう改組し命令が即座に行き渡るよう連絡網を構築したのです。


挿絵(By みてみん)

ベルフォール要塞「重城」


 この独軍にとって恐るべき敵を前にした「ベルフォール攻囲兵団」司令官、ハンス・ルートヴィヒ・ウード・フォン・トレスコウ少将(以降U・トレスコウ)は11月2日の「ベルフォール回廊」到着以来入念な偵察と観察を行い、また仏守備隊と戦いつつ悟った結果「要塞攻囲が大変な困難を伴う難事業」であることを改めて思い知らされていました(「ベルフォール攻囲の開始」を参照願います)。


 このベルフォール地方の大地は土砂が少なく多くが岩石で被われ土木工事が困難なことは最初から分かっていました。それに季節は厳冬期を迎えており、ヴォージュとジュラ両山脈の狭間でスイスアルプスにも近いこの山間部の冬は、寒冷による疾病や事故が相次ぐパリやル・マンで戦う独軍すら羨ましく見えるほど厳しいものでした。また、U・トレスコウ将軍の見立てるところ、ベルフォール守備隊は正規軍少なく多数が訓練未了で未熟、志気も怪しい民間人に等しい者たちでしたがその数は無視出来ず、籠城も長期に渡ること必至と思えました。

 攻囲兵団本営では要塞攻略の「決め手」はオート・ペルーズとバス・ペルーズ両高地に新設された敵分派堡を奪取することと認識され、攻囲兵団がこれを占領すれば要塞自体、重城内部さえも俯瞰可能で正確な破墻砲撃を始めることが可能となるのです。

 しかし攻囲当初、U・トレスコウ将軍の下にはまともな攻城資材や工具が無く、目的達成のためには資材や材料工具が揃うまで待たねばならず、「それでは」とU・トレスコウ将軍は「先に今ある砲撃資材で要塞に対する準備砲撃を行う」ことを決するのでした。


 この砲撃拠点に選ばれたのはエセール(要塞の西3.6キロ)とバヴィリエ(同南西2.9キロ)付近にある高地でしたが、砲撃を安全に行うためにはなお包囲網を要塞に接近させる必要があったのです。


※11月21日における普(独)ベルフォール攻囲兵団の配置


◎攻囲兵団本営 在フォンティーヌ(要塞の東11キロ)

ウード・フォン・トレスコウ少将(予備第1師団長)

◎予備第1師団

◇北方戦区 テオドール・ヨハン・ゲリッケ大佐

 ラ=シャペル=ス=ショー(同北北西8.1キロ)~セルママニー(同北6.4キロ)~エロワ(同北5.8キロ)の線上とその周辺部

・ハルバーシュタット後備大隊

・スタルガルト後備大隊

・予備槍騎兵第2連隊第3中隊の1個小隊

・野砲兵第2連隊予備軽砲第1中隊の1個小隊(2門)

◇西方戦区 ヘルマン・アレクサンダー・スタニスラウス・フォン・オストロウスキー大佐

 エヴェット(=サルベール。要塞の北西6.4キロ)~シャロンヴィラール(同西5.8キロ)~ビュク(同南西6.4キロ)~バンヴィラール(同南南西6.3キロ)を前哨線にその後方へ展開

・イノヴラツラグ後備大隊

・ブロンベルク後備大隊

・ドイツェ=クローネ後備大隊

・ノイハルデンスレーベン後備大隊(1個中隊欠)

・第67「マグデブルク第4」連隊第6,7中隊(正規軍歩兵)

・予備槍騎兵第2連隊第3中隊の3個小隊

・野砲兵第2連隊予備軽砲第1中隊の2個小隊(4門)

◇東方及び南方戦区 男爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・アレクサンダー・フォン・ブッデンブローク大佐

 アンジューテ(エロワの東北東4.7キロ)~スヴナン(要塞の南5.9キロ)~ドラン(スヴナン対岸。バンヴィラールの東1.8キロキロ)

・シュナイデミュール後備大隊

・コーニッツ後備大隊(1個中隊欠)

・グネーゼン後備大隊

・シュテンダール後備大隊

・ブルク後備大隊

・ノイシュタット後備大隊

・第67連隊第1大隊

・同連隊F(フュージリア/第3)大隊

・予備槍騎兵第2連隊第2中隊

・野砲兵第9連隊予備軽砲第2中隊

・同連隊予備軽砲第1中隊の2個小隊(4門)

◇モンベリアール守備隊 マクシミリアン・カール・フリードリヒ・アルベルト・フォン・ブレドウ大佐

・第67連隊第2大隊の両翼(第5,8)中隊

・コーニッツ後備大隊の1個中隊

・予備槍騎兵第2連隊第1中隊

・野砲兵第9連隊予備軽砲第1中隊の1個小隊(2門)

・第2軍団要塞工兵第1中隊

◇ほか分遣隊

*リュール(ベルフォールの西北西28キロ)守備

・ノイハルデンスレーベン後備大隊の1個中隊

*ブルトン(同東北東17キロ)で馬厰開設・編成中

・予備槍騎兵第2連隊第4中隊

※攻囲に参戦した後備歩兵大隊は、各後方占領地総督府の後備大隊が標準としていた6個中隊制でなく野戦軍と同じ4個中隊制を採用していました。

※要塞砲兵隊と要塞工兵隊

 攻囲軍に参入した攻城砲兵諸中隊(最初に5個中隊)はラシャペル=ス=ルージュモン(フォンテーヌの北5.7キロ)やムノンクール(同西北西4.3キロ)に宿営地を得、要塞工兵諸中隊(最初に4個中隊)はフォントネル(同南西5.6キロ)、シェヴルモン(フォントネルの西北西2.5キロ)、エロワ、エヴェット(=サルベール)等包囲網の後方に点在して宿営しました。攻城厰は当初ラシャペル=ス=ルージュモン付近で組織されます。

※攻囲当初の予備第4師団

 予備第4師団の一支隊(レッツェン後備大隊とグンビンンネン後備大隊・予備槍騎兵第3連隊の1個中隊)は11月中旬、攻囲兵団やヴェルダー将軍の第14軍団の後方連絡線を警戒し、また攻囲兵団の背後を哨戒する任務を命じられています。


 包囲網を一段と要塞に近付けようとした独軍は11月22日、仏軍に邪魔されることなく「ベルフォールの北玄関」ヴァルドア(重城の北4キロ)を占領しました。この時仏軍は歩兵を出撃させず占領された部落を要塞砲で砲撃しますが独軍に損害は殆どありませんでした。

 この時ポンメルン州の後備兵を率いてヴァルドアを占領したフォン・オストロウスキー大佐は翌23日、歩兵10個中隊と砲兵1個中隊*で仏守備隊の前哨がいるエセールとクラヴァンシュ(ヴァルドアの南南西2.2キロ)を占領するよう命じられましたが、正に攻撃機動に入ろうかという時に南方のドゥー川方面から「戦場音」が聞こえ始めたため*に急遽中止されてしまいます。オストロウスキー大佐は午後4時になってようやく南方の状況は「助太刀」を要さないことを知り、既に日が暮れ掛かる中「今日中に」命令を果たそうとする大佐は麾下をラ・コート高地(エセールの南方にある高台)やエセールとクラヴァンシュ両部落、そしてその中間に広がる森林高地に面して展開させた後、両部落の攻撃を開始しました。

 この日エセール部落にいた仏軍前哨は比較的少数で短時間の戦闘により駆逐され、その後は分派堡や堡塁の要塞砲で対抗し、独将兵は要塞からの榴弾砲撃に耐えつつ部落を保持しました。

 対してクラヴァンシュの仏軍前哨は激しく抵抗して激戦となり、第67連隊兵を中心とする攻撃隊は鬨を上げて銃剣突撃を敢行し、ようやく部落を制圧するのです。しかしこちらはエセールと違いバール分派堡や前進堡から「丸見え」状態だったために激しい榴弾砲撃を受け、損害が出始めたポンメルンの後備兵たちは一時撤退せざるを得なくなったのです。


※11月23日のオストロウスキー支隊

○ブロンベルク後備大隊(4個中隊)

○ドイツェ=クローネ後備大隊・第6,8中隊

○ノイハルデンスレーヴェン後備大隊・第7,8中隊

○第67連隊・第6,7中隊

○予備第4師団・軽砲第3中隊


 この日の「ドゥー川方面の戦場音」の正体は、モンベリアールに駐屯するフォン・ブレドウ大佐の麾下がブザンソンを根拠地とする仏護国軍部隊と衝突したものでした。


 モンベリアール郊外では11月20日に市街南を流れるアラン左岸にあった独軍の小哨所が仏軍により襲撃され損害を受けます。報告を受けたブレドウ大佐は翌21日、モンベリアールからこの敵の正体を掴むために斥候隊を出撃させ、この支隊は南方のドゥー沿岸で仏護国軍部隊と遭遇、短時間戦闘に至りますがこの時は双方戦闘が拡大する前に退きました。ブレドウ大佐は23日になって後備歩兵4個中隊と砲兵1個中隊の増援を受け、南方のオダンクール(モンベリアールの南東4.4キロ)からヴジュオクール(ドゥー川とアラン川の合流点。同南西4.7キロ)間に出撃して付近に居座っていた仏護国軍部隊を駆逐すると共に、彼らが移動に使用していたと思われる河川艀数隻を発見して破壊し沈めました。ほぼ同時にブズールから増援として進んで来たフォン・シュミット大佐(後述します)は、「ゴールダプ」後備大隊と騎兵1個中隊、それにブレドウ大佐から差し向けられた砲兵小隊(2門)を直率してエリクール(モンベリアールの北北西7.9キロ)から一旦ドゥー沿岸で南西方向のイル=シュル=ル=ドゥー(同西南西17.6キロ)へ進み、ブザンソンの仏軍部隊が進出していないか確認しました。結果この地には仏兵の姿はなく、シュミット大佐と麾下諸隊は24日にモンベリアールに到着しそのままベルフォール攻囲兵団に加わりました。


挿絵(By みてみん)

モンベリアールの独軍


 話をオストロウスキー支隊に戻します。

 23日の夕。仏軍がエセールとクラヴァンシュのちょうど中間にあるル・オー・デュ・モン山(標高約490m。クラヴァンシュの南西1キロ付近)の一部を確保したまま周囲は夜陰に閉ざされ、この強力な仏軍部隊*はまたスー・ラ・モン農家(フェルム・スー・ラ・モン。クラヴァンシュの南960m付近。現存しません)とデ・バール農家(フェルム・デ・バール。バール分派堡の北に隣接していました。こちらも現存しません)を拠点として確保していました。オストロウスキー大佐は夜陰に紛れて仏軍の去ったクラヴァンシュを再占領しますが、仏軍は終夜に渡って農家や山林の拠点に防御工事を行って足場を固め、夜が明けると要塞からの準備砲撃に続いて再三に渡りエセールやクラヴァンシュを襲撃しました。この小競り合いは終日続きますが夕方に至るまで両部落は独軍の手に残っていたのです。

 対するオストロウスキー大佐は、包囲網に突き刺さる棘のようなル・オー・デュ・モン山を占領するべく、この日ヴァルドアに進出して来た野砲兵第2連隊・予備軽砲第1中隊の1個小隊(2門)に援護射撃を要請し、大佐は砲撃で仏兵の頭を下げさせた直後に逆襲を仕掛け、夕刻に同山を完全占領しました。


※1月23~24日/ル・オー・デュ・モン山周辺にあった仏軍部隊

○護国軍第57「オート=ソーヌ県」連隊の1個大隊

○護国軍第16「ローヌ県」連隊の4個中隊

○遅れて到着した同連隊増援の3個中隊


 要塞の北東地区に対して独軍は22日の夜間、フォルジュ池(北尾根の北方斜面下にある自然湖。現存します)北東方のヴェトリニュとオッフモン両部落を襲撃し一時これを占領しますが、ヴェトリニュ部落は占領直後から要塞重砲による激しい榴弾砲撃を受け、オッフモン部落には独軍に数倍する仏護国軍兵部隊が強襲を掛けたため、それぞれ短時間で放棄せざるを得なくなるのでした。

 独軍の想像以上に戦意が高い仏軍守備隊は同日更に要塞南方の独包囲網前線、ムロー、モヴァル、スヴナンの各部落を急襲しましたが、こちらは独軍の前哨部隊により撃退されるのです。


 25日以降数日間は前哨や斥候同士の小競り合いを除き大きな動きはありませんでしたが、28日になってフォン・オストロウスキー大佐は仏軍の不意を突いて要塞南西側の拠点・バヴィリエ部落を急襲しこれを占領しました。仏軍はその夜奪還作戦を発動し激しい攻撃を行ったもののオストロウスキー大佐の部下将兵は必死に防戦し部落を死守するのでした。


 U・トレスコウ将軍は攻囲当初、未だ兵力が充実していなかったためベルフォール要塞に対し完全な包囲網を築くことが出来ませんでした。そのため、麾下諸隊が宿営する第一線各部落・拠点となる農家などには重ねて防御工事を行い、包囲網はその拠点前方に派出した小哨所と歩哨に過ぎない「ザル」状態だったのです。結果、独攻囲兵団は宿営地の間の無人地帯には四六時中斥候や巡視隊を派遣しかろうじてその連絡を維持していました。また遮蔽が多い森林地帯には敵の音声を聴取する聴音哨所数ヶ所を置き、要塞からの出撃に備えたのです。U・トレスコウ将軍は苦肉の策として、敵要塞重砲の射程圏外かつ要塞の望見監視所からも見えるだろう見通しの良い場所で大隊クラスの部隊を幾度も往復させ、いかにも大部隊が到着しつつあるかのような欺瞞作戦まで行わせたのでした。

 

 この間に実際の増援となる予備第4師団所属の諸隊が攻囲網に順次到着します。


 U・トレスコウ将軍は前述通りベルフォールが簡単には陥落しないことを確信すると上司となるフォン・ヴェルダー歩兵大将に対して増援を要請しました。上申を受けたヴェルダー将軍もガルバルディ将軍やブザンソンの集団、そしてリヨン方面からの増援に西方から東へ進みつつある「ロアール軍残党(ブルバキ軍)」など日に日に高まる脅威を受け止めなくてはならず、一兵卒たりとも出し渋りたい戦況でしたが、ここは快くU・トレスコウ将軍の願いを受け入れ、11月18日に増援を認可するのです。


 この増派命令により11月21日、予備第4師団配下の予備槍騎兵第3連隊第1,2中隊と軽砲第3,4中隊が予備槍騎兵第3連隊長のフォン・シュミット大佐に率いられてブズールからベルフォールに向け出立しました。このシュミット隊には逆にベルフォールから交代のためブズールに向けて出立する「オステローデ」後備大隊と入れ替わる「ゴールダプ」後備大隊も同行します。その数日後には「ダンツィヒ」後備大隊と「マリーンエンブルグ」後備大隊、そして予備槍騎兵の一部隊と砲2門がベルフォールへ向かいました。しかし12月初旬に砲兵1個中隊と1個小隊(8門)に騎兵2個中隊が予備第4師団本隊へ帰還したため、予備第4師団中U・トレスコウ将軍の隷下に収まったのは最終的(12月6日時点)に歩兵5個大隊・騎兵1個中隊・砲兵1個中隊と旅団程度となります*。このフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュメリング少将率いる予備第4師団本隊はヴェルダー将軍の命でブズールに駐屯することとなりました。

 予備第4師団からの増援中、後から参加した先の「ゴールダプ」「ダンツィヒ」「マリーエンブルク」の後備歩兵3個大隊は攻囲網西方地区に配属され、西方地区に配されていた「ノイハルデンスレーヴェン」後備大隊は北方地区へ転進しました。残りの予備第4師団増援諸隊は東方地区かモンベリアール守備隊に編入され、一部はミュルーズ地方の警戒に使用されるのです。


※12月6日時点の普予備第4師団・ベルフォール攻囲兵団派遣支隊

○グンビンネン後備大隊

○レッツェン後備大隊

○ゴールダプ後備大隊

○ダンツィヒ後備大隊

○マリーエンブルク後備大隊

○予備槍騎兵第3連隊・第3中隊

◯師団「混成」砲兵大隊・予備軽砲第4中隊


 増援によってU・トレスコウ将軍の麾下は歩兵20個大隊・騎兵5個中隊・野戦砲兵4個中隊となります。これとは別に在ベルサイユ大本営の命により各地から派遣された攻城砲撃に使用する攻城砲50門と要塞砲兵12個中隊に要塞工兵5個中隊は前述のフォン・メルテンス将軍とフォン・シェリハ中佐に率いられて包囲網西方に移動し集合・整頓を終え、U・トレスコウ将軍は本格的攻城の開始に当たり攻城部隊首脳陣と話し合いますが、その結果工兵厰の一部と砲兵厰をエセール西のシャロンヴィラール付近に移動させ、砲撃拠点の防衛として西方地区に歩兵11個大隊を配することにするのでした。この処置で12月2日の夕方にはバヴィリエとエセール間高地上に砲台と砲台護衛隊のための塹壕を開削する準備が整い、攻城工事の第一弾が着手されるのでした。

 この工事には要塞砲兵諸隊を中心に延べではなく実数で2,960名が従事し、砲台は複数同時に起工されて工事は日付が変わる深夜に作業員の交代を行って全く休み無く続行されます。工事護衛のため西方地区に配属されていたポンメルン後備混成第2連隊の「ドイツェ=クローネ」後備大隊はエセールの東方600mまで進んで要塞に対する警戒線を張り、同「イノヴラツラウ」後備大隊はその増援として砲台工事現場周辺で待機しました。この日(12月2日)夜間は晴れて月明かりが工事現場を煌々と照らし各種指揮官たちは冷や冷やしていましたが西方地区に対する仏軍の妨害は一切ありませんでした。逆に東方地区に対し要塞から数発の砲撃がありましたが、これは陽動のため東方地区の包囲網が騒音を立てたためで、損害も殆どありませんでした。

 砲台築造工事は大地が凍結し岩だらけだったにも関わらず3日早朝に7個の砲台を完成させることが出来、速やかに攻城砲が運び込まれるのでした。各砲台は交通壕で連絡され、前述通り周囲に設置された塹壕に護衛の歩兵が配置されるのでした。


※12月3日完成「最初の7砲台」(砲台番号/備砲/設置場所)

*1号砲台 12センチカノン砲x4門 エセール南東高地(標高387m)

*2号砲台 12センチカノン砲x2門・15センチカノン砲x2門 1号砲台東側

*3号砲台 15センチカノン砲x4門 2号砲台東側

*4号砲台 15センチカノン砲x4門 3号砲台東側

*5号砲台 12センチカノン砲x4門 4号砲台東側

*6号砲台 27センチ滑腔臼砲x4門 5号砲台東側でエセール~ベルフォール街道(現・国道D19号線)南側

*7号砲台 鹵獲仏製15センチカノン砲x4門 エセール東郊外・エセール~ベルフォール街道北側


ベルフォールの攻囲(70年12月末)

挿絵(By みてみん)


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