ルーアン戦線の終焉(1月6日~29日)
セーヌ下流域で遊動しル・アーブルに籠城する仏軍諸隊と対峙する独第1軍団と近衛騎兵第3「竜騎兵」旅団を指揮し、ルーアンに本拠を置いたゲオルグ・フェルディナント・フォン・ベントハイム中将は、セーヌ左岸(ここでは概ね南岸)の仏軍が「ルーアン湾曲部」(ルーアン南方セーヌ川の湾曲部分内側)からリスル川(ペルシュ地方の北、オルヌ県のセー北東付近を水源に北へ流れ、セーヌ河口付近で合流する中級河川)以南へ引き上げた後、複数の強行偵察隊を編成して仏軍との接触を保とうとしました。
この時、セーヌ右岸(概ね北岸)ではフォン・クチェヴスキー大尉率いる偵察隊*がル・アーブルに籠城する仏軍面前のリールボンヌ(ル・アーブルの東31キロ)~フェカン(同北東35キロ)間を捜索して、1月10日には仏軍の「ル・アーブル防衛線」に近いガヌヴィル(同東11.6キロ)で1個中隊クラスの敵を急襲、救援に出て来た敵部隊と共にアルフルール(同東6.8キロ)の堡塁群へ撃退するのでした。同じく伯爵アレクサンダー・フェルディナント・ユリウス・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク少将*率いる近衛竜騎兵旅団は、ディエップ(同北東84.5キロ)に向け長距離偵察隊を複数派出しています。
※1月6日から10日/フォン・クチェヴスキー大尉の偵察隊
○擲弾兵第5「オストプロイセン第4」連隊・第10,12中隊
○竜騎兵第10「オストプロイセン」連隊・第1中隊
○野砲兵第1「オストプロイセン」連隊・騎砲兵第2中隊の1個小隊(2門)
一方、セーヌ左岸では毎日数個の独軍強行偵察隊がリスル川流域に向けて出撃しますが、この方面の仏軍は再びルーアンを脅かすような兆候を示すことなく、従って既述通り1月7日以降13日に掛けて独第一軍本営はベントハイム将軍麾下の第1軍団からソンム河畔へ1個師団に匹敵する兵力を引き抜き、結果ベントハイム将軍は歩兵12個大隊半・騎兵15個中隊・砲兵8個中隊・工兵2個中隊(ほぼ歩兵1個師団プラス騎兵1個師団の部隊数)を率いるだけとなってしまいます。
ベントハイム将軍は仏軍が大人しくなったとはいえ、麾下が半減してしまったため兵力の再展開を余儀なくされました。1月15日には左岸のラ・ロンド~ブールテールド(=アンフルヴィル)~ブール=アシャールの線(ほぼ現・国道D313号線沿い)に歩兵4個大隊・騎兵4個中隊・砲兵3個中隊を展開させ、その後方のメゾン・ブルレ(邸宅。ラ・ブイユの南900m付近。現存しません)とサン=トゥーアン=ドゥ=トゥーベルヴィル(同西3.4キロ)に予備として各1個大隊の歩兵を置きました。
同日、右岸ではデュクレール~バロンタン~パヴィリーの線(ほぼ現・国道D143~142号線沿い)に歩兵4個大隊・騎兵10個中隊・砲兵4個中隊を展開させ、ルーアン市内には守備隊として歩兵2個大隊半・騎兵1個中隊・砲兵1個中隊を駐屯させたのです。
ルーアン(1870年代)
※1月15日時点のフォン・ベントハイム将軍麾下「ルーアン兵団」
◎ 第1軍団
◯歩兵
*第43「オストプロイセン第6」連隊(第2旅団)
*擲弾兵第5「オストプロイセン第4」連隊(第4旅団)
*歩兵第45「オストプロイセン第8」連隊(第4旅団)
*擲弾兵第3「オストプロイセン第2」連隊・第2、F大隊(第2旅団)
*猟兵第1「オストプロイセン」大隊
*擲弾兵第1「オストプロイセン第1/皇太子」連隊・第2,4中隊(第1旅団)
◯騎兵
*竜騎兵第1「リッタウエン/アルブレヒト親王」連隊
*竜騎兵第10「オストプロイセン」連隊
◇近衛騎兵第3「竜騎兵」旅団
*近衛竜騎兵第1連隊(第1中隊欠)
*近衛竜騎兵第2連隊
◯砲兵
*野砲兵第1「オストプロイセン」連隊・重砲第1,2,6中隊
*同連隊・軽砲第1,2,5中隊
*同連隊・騎砲兵第2,3中隊
◯工兵
*第1軍団野戦工兵第1中隊
*第1軍団野戦工兵第2中隊
フリードリヒ・カール王子の独第二軍や、メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世の「大公軍」(後に第13軍団)がペルシュ地方やロアール流域で激闘を繰り広げていた頃、独りセーヌ川左岸でノルマンディ方面を警戒していた男爵カール・ヴィルヘルム・グスタフ・アルベルト・フォン・ラインバーベン中将率いる独騎兵第5師団は、「ヴィオンヴィル死の騎行」で名を上げたフリードリヒ・ヴィルヘルム・アダルベルト・フォン・ブレドウ少将の騎兵第12旅団をフリードリヒ・フランツ2世に貸し、残部2個騎兵(第11、13)旅団で任地にありました。
ヴィオンヴィルのブレドウ旅団
この時期、師団は近衛後備師団から後備近衛擲弾兵第1、2連隊(第1連隊の第3大隊欠/計5個大隊)と近衛予備砲兵の重砲第2中隊を借り受け、共にセーヌ河畔のベルノン(ルーアンの南南東48キロ)、ウール河畔のパシー(=シュル=ウール。ベルノンの南西11.7キロ)、ドルー(パシー=シュル=ウールからは南へ31キロ)、ウーダン(ドルーの東北東18キロ)に駐屯し、セーヌ右岸ではベルノンとボーベの中間点ジゾー(ベルノンの北東30キロ)に第一軍団の派遣隊(第43連隊の第3中隊と近衛竜騎兵第2連隊の第5中隊)が駐在しますが、彼らは神出鬼没の仏義勇兵に多少は悩まされつつも後方連絡路は第一軍の兵站総監部と協力してしっかり守っており、糧食・補給物資の輸送や拠点防衛に大きな障害はありませんでした。
独第一軍がソンム河畔でフェデルブ将軍麾下と激闘を繰り広げた期間(71年1月上旬から中旬)は、ゲーベン将軍やベントハイム将軍にとって幸いにも仏軍がセーヌ河口域で騒動を起こすことはありませんでしたが、再三記した通りその兵力差は大きく開いたまま、仏軍優勢に違いはなかったため、ベントハイム将軍の気が休まる事はありませんでした。しかし南方ではル・マン会戦によってアルフレ・シャンジー将軍率いる第2ロアール軍の勢力が弱まり、その結果ルーアン方面でも独軍優位となる動きが始まったのです。
セーヌ河口域左岸の仏軍は1月4日の「ロベール・ル・ディアブルとメゾン・ブルレの戦闘」に敗れた結果、翌5日に指揮官がロワ准将(実際は大佐で准将は「心得」です)からフェリクス・ギュスターヴ・ソーシエ准将に交代され(ロワ准将はソーシエ将軍の配下/第1旅団長となります)、殆どが臨時召集の護国軍将兵と義勇兵からなるこの集団は、シャンジー将軍の指揮下に組み込まれることとなってその準備を進めましたが、直後「ソーシエ師団」はノルマンディ地方で編成が行われていたポール・アベ=ダルジャン少将率いる「仏第19軍団」に参加することになり、アルジャンタン(アランソンの北北西35.8キロ)へ向かったのです。
1月13日にブール=アシャールから偵察に出た斥候隊はブルヌヴィル(ブール=アシャールの西北西15キロ)でソーシエ師団の一部と遭遇し短時間戦闘状態となりますが、斥候隊はこの敵が本隊の行動を隠蔽する目的の「後衛」であることに気付かず、仏軍がこの土地周辺部から消え去っていることを見落としてしまいます。独軍は3日後の16日になって初めてリスル流域から敵が完全に消え去っていることに気付きました。同日、ソーシエ師団(第19軍団で「第3師団」となります)はリジウー(ル・アーブルの南39.7キロ)付近まで進んでいたのでした。
セーヌ右岸でもこの頃(1月12日)、指揮官の交代が行われ、ル・アーブル「兵団」の指揮は輸送船によってシェルブールから増援を伴い到着したロイゼル将軍が執ることになりました。これで将軍麾下の兵力は3万名に達しましたがその状況は変わらず、士官は圧倒的に不足し兵員は未錬成の臨時召集護国軍新兵や熱意だけは高い義勇兵(一部は外国人)が大多数を占めていて、本格的な戦闘経験のある者はほんの僅かでした。それでもロイゼル将軍はルーアンを奪還するべく計画を立てましたが、セーヌ左岸から友軍(ソーシエ師団)が去り、第2ロアール軍の新たな拠点となったラバルからはル・マンの大敗が伝えられると攻勢計画を白紙に戻すしかなくなったのでした。
13日にボルベック(リールボンヌの北西7.4キロ)を経て前進した独の遊動強行偵察隊*は15日に仏義勇兵中隊と交戦してこれを駆逐した後にル・アーブル~フェカン及びイヴト(ボルベックの東21キロ)への鉄道線をその分岐があるミルヴィル(同北北西4.7キロ)で破壊することに成功しました。同隊は17日にもサン=ロマン(=ドゥ=コルボッシュ。ル・アーブルの東18.5キロ)で短時間仏の守備隊と交戦しますが、この敵はしぶとく撤退する兆候を見せませんでした。15日から偵察隊を指揮していたフォン・フィードラー大尉はル・アーブルの敵兵団が前線部隊を増加させていることを確認し引き返したのでした。
※1月13日から17日・ル・アーブル周辺部への強行偵察隊
○第45「オストプロイセン第8」連隊・第10,12中隊
○竜騎兵第10「オストプロイセン」連隊・第4中隊
○野砲兵第1「オストプロイセン」連隊・騎砲兵第2中隊の1個小隊(2門)
○第1軍団野戦工兵第1中隊の1個小隊
このように戦況はセーヌ河口域でも次第に独軍有利となり、またゲーベン将軍は17日に在ベルサイユ大本営より第13軍団が18日にアランソンを発しルーアンに向かうとの通告を受けました。
サン=カンタンでの決戦を目前としたゲーベン将軍としては少しでも戦力が欲しいところで、この17日夜、ゲーベン将軍はベントハイム将軍に向けて電令を発し、「即時歩兵3個大隊・砲兵1個中隊をアミアンに向けて鉄道輸送せよ」と命じたのです。続けてゲーベン将軍は「第13軍団がルーアンに到着した暁には第1軍団中セーヌ河畔(特に左岸)にある部隊も全てソンム川に向かって出立せよ」と命じるのでした。
サン=カンタン郭外市サン=マルティン郊外にあったトンベル風車場(71.1.19撮影)
☆ メクレンブルク=シュヴェリーン大公と独第13軍団の北進(1月22日まで)
独軍歩兵大将フリードリヒ・フランツ2世大公はル・マン会戦後、カール王子の命令でアランソンに向かって退いた仏軍を追撃しますが1月15日の夜間、大本営より命令が届き、それは「休息と補充を行った後に第13軍団を率いてアランソンからルーアンに向けて行軍せよ」との内容でした。この時第13軍団(第17、22師団基幹)には騎兵第5師団から派遣されていた騎兵第12旅団と野砲兵第10連隊の騎砲兵第2中隊が付されており、同時にヴェルノン~ドルー間に展開していた騎兵第5師団主力にも大公と協力するよう訓令が送られるのでした。
軍団は16日、アランソン市へ入城すると翌17日、市外南方に残留していた隷下諸隊も市内へ入り軍団集合を完結します。なお、第13軍団はアランソン出立後にカール王子の指揮下を離れ、大本営直轄(即ち国王直属)となりました。
大公は未知となるルーアンまでの地域の情報を得るため、幕僚たち(後に参謀本部総長となる当時少佐のシュリーフェン伯爵もいました)に情報収集を命じますが、アランソンとルーアンの間(主にウール県とカルヴァドス県)に関する情報は乏しく、セーヌ河口域・ウール県のブリオンヌ(ルーアンの南西39キロ)付近にソーシエ将軍率いるおよそ1個師団がいること、ル・アーブルにはロイゼル将軍の2個師団がいることなど、既知の情報以外新しいものはありませんでした。
大公としては不明な敵と遭遇戦になることも視野に行軍計画を練るしかなく、肝要なのは行軍正面ばかりでなく左翼(西)側ノルマンディ地方にも敵の存在があること確実として警戒怠らず、また右翼(東)側でもラインバーベン将軍麾下と連絡が取れるまでは慎重に行動するしかない、ということでした。大公は幕僚に対し「出来得る限り広い行軍正面を採り、その前進は慎重を以て諸方面に対する警戒を密にすること」を強調するのでした。
1月18日。
大公は先発として騎兵第12旅団(既に諸兵科混成の小兵団となっていました)の前衛をセー(アランソンの北20キロ)に向けて送り出しました。続いて側方警戒の二個支隊*をル・メル(=シュル=サルト。アランソンの東北東22キロ)とサン=ティレール=ラ=ジェラール(セーの西8.3キロ)へ派遣し、更に同地から斥候をモルターニュ(=オー=ペルシュ。ル・メルの東14キロ)経由でブルタイユ(モルターニュの北東44キロ)方面へ、同じくマルサ(セーの北西11キロ)経由でガセ(同北北東23キロ)を越えて北方へ、それぞれ前進させようと図るのです。
※1月18日の騎兵第12旅団配属諸隊
○胸甲騎兵第7「マグデブルク」連隊
○槍騎兵第16「アルトマルク」連隊(1個中隊欠の2個中隊)
○竜騎兵第13「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊
*騎兵第12旅団の騎兵連隊は当時全て3個中隊編成です。
○フュージリア第90「メクレンブルク」連隊・第3大隊
○野砲兵第10「ハノーファー」連隊・騎砲兵第2中隊
※1月18日の第13軍団前衛左翼支隊
○フュージリア第90「メクレンブルク」連隊・第6,8中隊
○竜騎兵第18「メクレンブルク第2」連隊・第3,4中隊
○野砲兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊・重砲第5中隊の1個小隊
※1月18日の第13軍団前衛右翼支隊
○第94「チューリンゲン第5」連隊・第1大隊
○驃騎兵第13「ヘッセン=カッセル第1」連隊・第3中隊の1個小隊
○槍騎兵第16連隊・第3中隊
○野砲兵第9連隊・軽砲第1中隊の1個小隊
メクレンブルク=シュヴェリーン大公国軍主体の師団、独第17師団はベルネー(ブリオンヌの南西15キロ)を目標に前衛左翼支隊の後方を行軍し、同僚・第22師団は前衛右翼支隊に追従する形でル・メルへ進軍、こちらはムーラン=ラ=マルシュ(ル・メルの北北東17.7キロ)からグロ=ラ=フェリエール(ガゼの東北東23.4キロ)へ向けて行軍することとなります。
これら前衛部隊は午後になるとそれぞれ仏義勇兵の集団と衝突し、左翼支隊はアルジャンタン(セーの北西21キロ)やその近隣で仏臨時護国軍の大きな集団と遭遇しました。しかし既に日が傾く時間帯のためなのか仏軍は本格的な戦闘を避けるような行動を取り銃撃戦を短時間で終えると足早に撤退し、翌19日には迷路のようなボカージュ続く西方ノルマンディ地方へ消え去るのでした。後に判明しますが、これら仏軍部隊はダルジャン将軍麾下で編成途上の仏第19軍団の一部で、この時北方から「ソーシエ師団」もこの軍団に参加するため至近を行軍中でしたが独軍と会敵することはありませんでした。
また、前衛に通報された情報の中には「ベルネーに砲兵の存在が確認される目立つ仏護国軍の部隊あり」というものがあり、その前哨がモントルイユ=ラルジエ(ガセの北東20.8キロ)まで進出していましたが、これは20日に独左翼前衛と交戦し、ベルネーに向けて後退しています。この状況からフリードリヒ・フランツ2世は前衛に対し「明日21日にもし仏軍がベルネー付近に留まって抵抗する兆候があれば、迂回して敵のリジウーへの退路を遮断し、その鉄道線を破壊せよ」と命じます。大公としてはこの場合、軍団主力でこの仏軍を叩くことを決するのでした。
仏騎兵を襲う独驃騎兵
1月21日。
左右両翼が合流した前衛支隊の先鋒は、ブログリ(ベルネーの南南西10.3キロ)で少数の護国軍前哨を掃討すると、その北で仏前哨の親部隊と遭遇、緊急展開した砲兵が発した数発の榴弾で敵を後退させました。しかしその先ベルネー南方の森林地帯には規模不明の仏軍部隊が展開しており、独前衛は森から砲撃も受けたため一旦後退しました。その後追って到着した騎兵第12旅団の騎砲兵中隊は森林地帯を砲撃し、敵の砲撃が絶えた後にフュージリア第90連隊の第3大隊が森へ突入すると仏軍は北方に向けて撤退しベルネーの本隊と思われる仏軍部隊に収容されました。この時、メクレンブルク・フュージリア兵は仏兵が運べず森に遺棄した砲1門を鹵獲しています。
独第13軍団の前衛たちは午後4時、大公の命令により戦闘行為を中止してブログリ北方の諸部落で宿営に入りました。
この日、胸甲騎兵第7連隊の第1中隊は歩兵1個小隊と、工兵の代わりに「火薬の専門家」である砲兵数名を連れてベルネーの西7キロ付近(プランヴィル付近)でリジウーへの鉄道線を破壊しました。槍騎兵第16連隊は第17師団本隊から先遣された猟兵第14「メクレンブルク」大隊と軽砲第5中隊の1個小隊を同行させてオルベックで仏の守備隊を追い出し部落を占領しました。
夜間に至って放たれた独前衛の斥候は、既にベルネーには敵が存在しないことを確認したため、翌22日早朝、前衛支隊はベルネーを占領し、各種小銃数千挺と旧式青銅製前装滑膣砲1門を鹵獲しています。
1月22日。
フリードリヒ・フランツ2世大公は、第17師団をオルベックとベルネー周辺に置いて宿営地を設けさせると、第22師団をブリグリ周辺まで進ませて宿営させました。この両翼には第17師団に同行した騎兵第11、12の両旅団と騎兵第17「メクレンブルク」旅団が進み、敵の存在が確認されていたセーヌ河口のオンフルール(リジウーからは北へ30.4キロ)とリジウーに対し警戒前哨線をブリオンヌ~ル・ファヴリ(ベルネーの北北西11.4キロ)~ティベルヴィル(同北西11.6キロ)間に敷きました。
☆ 騎兵第5師団の行動(1月14日から22日)
1月14日。騎兵第5師団(前述通り騎兵第12旅団は第13軍団にあります)は驃騎兵第10「マグデブルク」連隊の第2,4中隊をシャルトルに送り出しました。これはル・マンの会戦で第13軍団が捕虜にした多数の仏将兵をコルベイユ(=エソンヌ。シャルトルの東北東74.9キロ)まで護送するための派遣でした。
16日には数名がインフルエンザに罹患した野砲兵第4「マグデブルク」連隊の騎砲兵第1中隊を隔離のためパリ在の親部隊(第4軍団)へ送り返します(この行軍自体が隔離でもありました)。この代わりとして19日に同連隊の騎砲兵第2中隊が師団へ到着しました。
17日には、師団が所属する独第三軍(フリードリヒ皇太子指揮)本営より「以降第13軍団と協力し行動せよ」との訓令を受け、胸甲騎兵第4「ヴェストファーレン」連隊の2個中隊をドルー守備に残して残部はこれ以降フリードリヒ・フランツ2世からの命令を受け入れることとなります。また18日にはフリードリヒ皇太子から「派遣されていた近衛後備擲弾兵第2連隊の2個大隊を帰属させよ」との命を受けます。今後師団は歩兵主体の第13軍団と共同作戦を行うため、歩兵を一兵でも欲しいパリ包囲網が呼び戻したものでした。
師団は第13軍団と合流するため、まずはヴェルヌイユ(=シュル=アヴル。ドルーの西32.2キロ)~ダンヴィル(同北西26.3キロ)~エヴルーの線に進もうとしましたが、この時点ではこの線上に未だ仏軍が確保する地方があったためリスル沿岸やブルタイユ(ヴェルヌイユの北10.8キロ)の大森林(ブルタイユの西に広がる森林地帯)に達するまで3日(30キロから40キロのため通常騎馬なら1日、遅くとも2日の行程です)を要してしまいます。これに対し20日、フリードリヒ・フランツ2世から「速やかに合流せよ」との催促が入り、またこの日は第22師団前衛がリスル川上流の複数渡河点を押さえたため、翌21日、騎兵第11旅団は第22師団に隷属してその前衛となりラ・バール=アン=ウシュ(ブログリの南東12.2キロ)へ進みました。同旅団はここから22日にベルネーへ進み、隷属先を第17師団に変更されました。一方の騎兵第13旅団は同22日、エヴルーからル・ヌーブール(ベルネーの東北東23.3キロ)へ進んでいます。
騎兵第5師団長/第22師団長代理 ラインバーベン中将
☆ 第13軍団・第1軍団の行動(1月23日から)
フリードリヒ・フランツ2世は1月23日、麾下第13軍団(と騎兵第5師団)に一日の休養を与えました。第22師団長の男爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・フォン・ヴィッティヒ中将は行軍中の不衛生と過労から疾病を発症し入院となり、同日騎兵第5師団長のフォン・ラインバーベン中将が第22師団長代理として指揮を執り始めました。1月18日にそれまでの功績と年功によって中将へ昇進した騎兵第12旅団長フォン・ブレドウ中将は昇進と同時に騎兵第4師団長代理(師団長の王弟アルブレヒト王子は疾病により入院中です)を命じられていましたが、ブレドウ将軍は作戦行動中のため戦場を離れることが出来ず、改めて空席となった親部隊の騎兵第5師団長代理を命じられました。
この日は騎兵第13旅団のみが一足先にルーアンの第1軍団と連絡を通すためブリオンヌ~ブールテルード(ブリオンヌの北東15.7キロ)街道(現・国道D438号線)の線まで進み、ブールテルードに駐屯する第1軍団前哨と連絡することに成功しました。
翌24日に騎兵第5師団はオルベック~サン=ジョルジュ=デュ=ヴィエーヴル(ベルネーの北17キロ)~ルジュモンティエ(ブリオンヌの北18キロ)の線上に展開し、第13軍団の北上を援護しました。同日、第17師団はサン=ドニ=デ=モン(ブールテルードの南西6.2キロ)まで、第22師団はボーモン=ル=ロジェ(ベルネーの東13キロ)まで、それぞれ前進して周辺部に宿営しています。
若き日のブレドウ(近衛驃騎兵連隊時代)
在ルーアン・独第1軍団のフォン・ベントハイム中将は「25日に第13軍団の先鋒がルーアンに入城する予定」との通告を受けて24日、先ずは左岸に在った猟兵第1「オストプロイセン」大隊をルーアン市内へ召集すると在アミアンの第一軍本営に対し「第1軍団の中でセーヌ沿岸に駐屯中の諸隊は第13軍団と交代を終えた直後に同地を離れアミアンへ向かう」との電信を発しました。しかし、ゲーベン将軍はこの日アミアンで「第1軍団のルーアン出立を延期させよ」との大本営訓令を受けたのです。
1月25日。
猟兵第1大隊に続いて第1軍団でセーヌ左岸にあった諸隊*は全てルーアンに呼び戻されました。ほぼ同時に第17師団前衛がサン=ドニ=デ=モンからブールテルードを通過してセーヌ河岸に達し、フリードリヒ・フランツ2世はその先頭に立つと騎乗して堂々ルーアン入城を果たしました。
この日、第17師団本隊はブールテルード~ルーアン間の諸街道(現・国道D438号線やD3号線など)沿道に宿営し、第22師団はセーヌ河畔に達してエルブフ(ルーアンの南南西18.2キロ)とその周辺で宿営に入りました。
するとこの夜、在ベルサイユ大本営のモルトケ参謀総長より第1軍団長に宛てて電信命令が届き、ルーアンからの撤退が延期となったことを知らせたのです。同時に騎兵第5師団長に対し第13軍団の隷下となることを通告(これまでも大公より命令を受けていましたが正式な軍団配下ではなく、書類上は皇太子の独第三軍傘下のままでした)、同騎兵師団は広くセーヌ左畔に展開して、必要に応じ第一軍と協力して行動するよう命じています。
※1月25日・セーヌ左岸からルーアンへ移った諸隊
○第43連隊・第2、F大隊
○竜騎兵第1連隊・第1,2,3中隊
○野砲兵第1連隊・重砲第2中隊
○同連隊・軽砲第1,2中隊
○第1軍団野戦工兵第2中隊
その後第13軍団のうち、第34旅団・猟兵第14大隊・砲兵2個中隊・騎兵第17旅団は第1軍団予備(という名の任地交代)に指定され1月29日までにセーヌ右岸へ移動しルーアン市北部に駐屯・宿営しました。第33旅団はルーアン市内とその南方「ルーアン湾曲部」内に駐屯します。
第22師団はエルブフ~ブリオンヌ間に宿営・駐屯し、騎兵第5師団はモンフォール=シュル=リスル、ブリオンヌ、ベルネーを拠点として布陣するのでした。
1月下旬。セーヌ河口域は概ね平穏となり、リジウー方面へ繰り返し出動した騎兵第5師団の斥候が時たま仏軍の銃撃を受けるのみで過ぎて行きます。
仏ソーシエ師団もルーアン地方の独軍が強化されるのを見るとやや北方に移動(ル・アーブル兵団との連絡と思われます)し、その前哨とリポウスキー大佐の義勇兵集団のみリジウー周辺に留まりました。仏第19軍団残りの2個師団(バルディン准将師団とソハン/ジラール准将師団)はアルジャンタンとドンフロン(マイエンヌの北32キロ)間に布陣しマイエンヌ北方で第2ロアール軍左翼と連絡しますが、シャンジー将軍も第19軍団のダルジャン将軍も未だ反転攻勢に出ることは出来なかったのです。
独軍では29日に右岸へ第34旅団が動いて来たため任地の変更が行われました。
第1軍団所属部隊のうちルーアンとその北方にあった諸隊は陣地移動を行って第34旅団に明け渡し、宿営地をルーアン~アブビル街道(現・国道D928号線)沿道に求めました。これによって第17師団は前哨線をセーヌ沿岸のデュクレール(ルーアンの西16.8キロ)~バロンタン~パヴィリー(バロンタンの北2.6キロ)に敷いて、それまでこの地方にあった近衛竜騎兵(近衛騎兵第3)旅団と共にル・アーブルを警戒しました。これによりルーアン市内へ居残った第1軍団所属部隊は軍団本営と直属の歩兵1個大隊のみとなりました。
こうしてセーヌ河口域でも占領地維持・防衛強化が促進されますが、その前夜(28日)のこと。在アミアンのゲーベン将軍と在ルーアンのフリードリヒ・フランツ2世に宛ててベルサイユ大本営から重大な電信が届きました。
この28日、ベルサイユにおいて独仏間に正式な休戦協定が締結され1月31日正午から3週間の休戦が決定した、との通報だったのです。
サン=カンタン会戦後心労で倒れるフェデルブ将軍
※こぼれ話
余談で既述(「マルス=ラ=トゥールの戦い/トロンヴィル森奪還と普19師登場」を参照願います)ですが、近衛騎兵第3「竜騎兵」旅団長のヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク少将は三代前の国王・国民曰く「でぶの女たらし王」フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が晩年、貴賎でしかも重婚(愛人でなく婚姻関係にあり第三夫人となります)というありえない状態(王は子沢山で跡取り息子が居なかった訳でもありません)で設けたフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク伯爵の子息です。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク伯爵
因みにこの「ブランデンブルク伯爵」という称号は国王の御落胤が名乗ることが多い称号ですが、幸い伯爵は冷遇されることなく王族「同等」の処遇を得て軍人として出世し、第4軍団長・騎兵大将にまで昇進した後、「反動期(1848年前後)」にプロシア宰相(当時の国王は腹違いの甥に当たるフリードリヒ・ヴィルヘルム4世)となりました。その子息であるヴィルヘルムも双子の兄フリードリヒ共々軍に入ると順調に出世し、普仏戦争時に近衛騎兵第3旅団長を拝命(兄フリードリヒは近衛騎兵第1旅団長)、戦後は二人同時に騎兵大将(1880年)となり同じ年(1892年)に亡くなっています。




