サン=カンタンの戦い(後)
☆ 独軍左翼(西側)の「後半戦」(承前)
独騎兵第3師団長の伯爵ゲオルク・ラインハルト・フォン・デア・グレーベン=ノイデルヘン中将が率いる兵団は、スランシー東方の仏軍(ロペン准将師団)による逆襲で前進を阻止されますが、その左翼(南側)で戦う第15師団長、ルドルフ・フェルディナント・フォン・クンマー中将の兵団は攻勢を成功させ、サン=カンタン西・北方戦線でも戦局は独軍有利へ傾きます。
サン=カンタン 戦場のパノラマ
この時、独第30旅団は第一線となって戦い、同第29旅団は第二線となって続行しました。
第30旅団の右翼(南)にはフュージリア「オストプロイセン」第33連隊の2個(第1、3)大隊と第65「ライン第5」連隊の第2大隊が進み、左翼(北)では連隊長の男爵ヴィルヘルム・カール・ゲオルク・ヘルマン・フォン・デルンベルク中佐が直率する第65連隊のF大隊が「北森」に突入、居残っていた仏後衛を駆逐すると森を完全に占領してその東側に進出し、後続する砲兵2個(野砲兵第8「ライン」連隊・重砲第1,2)中隊は先ず「北森」の西750m付近に砲列を敷いて「北森」の東側高地上にある仏軍散兵線を砲撃しました。
続く第29旅団は仏軍からの猛砲撃を受けつつ縦列横隊で進みますが、この砲撃のため一部は次第に密集が解けて横隊に広がりつつ仏軍の散兵線目指しました。
このクンマー師団の一斉前進はサヴィー~サン=カンタン街道(現・国道D68号線)に跨がる形で展開し最終的に48門となった独軍の砲列*による強烈な援護射撃を得て仏軍を圧倒し始めます。
※午後4時前後・サヴィー東方の独軍砲列
○野砲兵第8「ライン」連隊・軽砲第1中隊
○同連隊・重砲第1中隊
○同連隊・重砲第2中隊
○同連隊・重砲第4中隊
○同連隊・軽砲第3中隊
○同連隊・騎砲兵第1中隊
○同連隊・騎砲兵第2中隊
○同連隊・騎砲兵第3中隊
風車場と独軍の砲列
猛砲撃の直後に独軍の突撃を受けた仏ラグランジュ旅団とイスナール旅団は、独散兵群が自軍散兵線へ殺到する前に退却しますが、歩兵と並んで砲を敷いていた仏砲兵は後れを取り、突進して来たフュージリア第33連隊兵に1門の砲を奪われてしまうのでした。特にカンブレの臨時召集護国軍部隊将兵が大多数となるイスナール旅団は、この攻撃以前にフランシイから東進して来た独擲弾兵第1連隊諸隊によって右翼を攻撃され浮き足立っており、正面からの攻撃が加わったことで潰走状態に陥り、一部はサン=カンタン市内にまで敗走するのでした。
午後4時。第29旅団兵はサン=カンタン西郊外のロクール水車場(市街中心から南西へ1.6キロ。現存しません)西側の高地にあった仏散兵線を完全に制圧します。
際どいところで高地を脱した第23軍団の砲兵たちは、一時ロクール水車場周辺で踏み留まり急ぎ砲列を敷くと迫り来る独軍に対します。しかし同じく危険を省みず前進し、敵の小銃射程内にまで入ってサン=カンタン市西部を射程に収めた独軍砲兵も戦意が高く、仏軍砲列は猛烈な集中砲火を浴びて忽ちの内に砲撃を止め後退せざるを得なくなるのでした。
ブロニコウスキー少佐はこの間、麾下を引き連れ前進を続行してオエストル(グリュジーの北北西1.8キロ)とその北方高地を占領しました。仏第23軍団は午後5時に至ってロクール水車場周辺の陣地からも撤退し、郭外市街フォーブール・サン=マルティン(市街中心から南西へ820m)へ下がります。これを追撃したのが第28「ライン第2」連隊と猟兵第8「ライン」大隊でしたが、これら独軍諸隊はサン=マルティンの街道入口に巨大なバリケードが築かれているのを発見し、また家屋に潜んだ仏軍から激しい銃撃で迎えられ第28連隊第8中隊長のミュラー大尉らが戦死してしまうのでした。このため独軍は後方から増援が到着するまでロクール水車場周辺を占領しフォーブール・サン=マルティンの敵と銃撃を交わすだけに止め、仏軍が再び市街地から出撃に及ばないよう監視と防戦に努めることとするのです。同じく後方から到着し始めた第29旅団の残部も仏軍が堅く守る市街地外周の拠点と銃撃戦を始め、砲兵6個中隊は順次砲を敷くと仏軍や市街地に適当な目標を定めて砲撃を開始するのでした。
一方、サン=カンタン南方戦線でフォーブール・イスルを抑えたフォン・メアーシャイト=ヒュレッセム中佐は、麾下が集合し整頓を終えた午後5時30分、市街地と郭外市街を隔てるソンム運河に架かる橋梁に施されたバリケードを取り除き、橋を渡って遂にサン=カンタン一番乗りを果たします。しかし激しい抵抗を予想して警戒しつつ進む中佐たちは、僅かな抵抗や散発的な狙撃を受けるのみで、やがて市街には予備として後置されていたり西方戦線から撤退して来たノール県の護国軍兵を中心とする第23軍団の一部が居残っているだけと判明するのです。
サン=カンタンの戦い~最前線で指揮を執るフェデルブ将軍
仏北部軍総司令官フェデルブ将軍はこの日の午前中、ソンム川左岸に渡ってドゥ・トゥ・ヴァン風車場などで観戦し適宜指揮を執っていました。将軍はルコアント将軍の第22軍団が、南方から迫る独軍(フォン・バルネコウ将軍の兵団)に対し上手に戦っていることを見て安心するのです。そこで将軍は正午過ぎ、この地はルコアント将軍に任せてポールズ・ディボイ将軍の第23軍団の様子を見るため市街を抜け西郊外へ向かったのでした。その後フェデルブ将軍はサン=カンタン西方の戦いを観戦していましたが、午後3時から4時に掛けて「戦いの潮目」が変わるのを感じ、残念ながらこの戦いが敗北に終わることを確信するのでした。ところが元より訓練が完全でなく軍規も緩み勝ちな仏北部軍のこと、戦闘が夜間に及んで追撃を受けつつ後退行軍を行えば混乱と士気の崩壊を招くこと必至だったため、将軍としては速やかに全軍後退を命じたいところではありました。しかし厳寒の下、長時間に及んだ戦闘で将兵の疲弊は危険な域にまで達しており、敵を目前にして直ちに長距離の後退を行うこともまた問題の多い行動と言えるのです。
フェデルブ将軍は珍しく逡巡し一旦南部戦線の様子を確認するため午後4時30分に市街へ戻りました。ところがここでルコアント将軍と遭遇し、既に南部戦線が崩壊して敵がソンム沿岸にまで進んでいることを知るのでした。フェデルブ将軍は西方戦線でポールズ・ディボイ将軍ら必死の防戦により何とかフォーブール・サン=マルティン周辺で独軍を止め前線を維持していることから、午後5時、ルコアント将軍に対し「麾下全軍の撤退を許可するので、秩序維持に努めつつル・カトー(=カンブレシ。サン=カンタンの北北東34キロ)方面へ行軍せよ」と命じたのでした。同時にポールズ・ディボイ将軍に対する「秩序を保ちつつカンブレ方面へ後退せよ」との命令を伝令に託すのです。
ドゥ・トゥ・ヴァン風車場のフェデルブ将軍
このポールズ・ディボイ将軍に対する伝令は既に市街外縁にまで進んでいた独軍のため苦労しつつ進み、午後6時、郭外市街で指揮を執るポールズ・ディボイ将軍を見つけ出しフェデルブ将軍の命令書を手渡しました。しかし既にこの時、独軍の猛攻で追いつめられていた将軍は右翼北側で戦うポリー、ミシュレ両旅団(ロペン師団の一部部隊も含まれていたと思われます)に対し独断で戦闘中止とカンブレへ向けての後退行軍を命じた後で(中央と左翼側は東側、即ちサン=カンタン市街にしか退路はありませんでした)、逃げることが可能な者は逃がそうとした将軍は、下手をすれば命令違反と敵前逃亡教唆の嫌疑で軍法会議物だったところをこの命令書で救われほっとするのでした。
面前の敵の銃砲撃が弱まり、やがては消えて行くことに気が付いたフォン・デア・グレーベン将軍は午後6時、スランシーで防戦に努めていた諸隊を戦火によって燃え盛るフェイエ部落に向け突進させましたが時既に遅く、部落ではすっかり戦意を無くし放心状態となった敗残兵や負傷兵が弱々しく手を挙げるだけだったのです。
一方、フォーブール・サン=マルティンに留まって戦うラグランジュ旅団、イスナール旅団そしてロペン師団の一部将兵は、いつの間にか自分たちが北部軍後退のための「捨石」にされたことに気付かぬまま勇戦を続け、その多くが後方の市街地に回り込んだ独軍によって包囲され、結果後背からも銃撃を受けた挙句「降伏しろ」との声を聞いた将兵達は、諦めて銃を逆さに持って立ち上がり降伏の意を伝えるのでした。彼らと一緒にいたポールズ・ディポイ将軍も独軍が迫る中、一時は投降も頭を掠めますが、ここで機転を利かせた一部住民の手引きによって密かに戦場を離脱、文字通り虎口を脱してカンブレへ向かう麾下に合流することが出来たのです。
フォーブール・サン=マルティンのバリケード
激戦だったフォーブール・サン=マルティンでは、最終段階で南方からソンムを渡りなだれ込んだベッキング隊の独第41連隊だけでも士官54名・下士官兵2,260名の捕虜を獲得し、砲4門を鹵獲したと報告書に記録しました。同じくフォン・ブロニコウスキー少佐麾下の内2個(猟兵第8大隊第1・第28連隊第5)中隊はロクール水車場付近から運河沿いに前進して郭外市街へ一番乗りで侵入し、後に続いた第68「ライン第6」連隊第2大隊とフュージリア第33連隊の第3大隊は郭外市街を抜けてサン=カンタン市内へ侵入すると、先に南方から侵入し掃討戦を実施中のヒュレッセム隊と共に、戦意衰えず居残って戦い続ける仏軍将兵や頭に血が昇って銃を手に即席の狙撃手となった一部市民(その多くは不正規兵として銃殺される運命にありました)を狩り出し、表立った戦闘は午後6時30分に終了してサン=カンタンは独軍の手に落ちたのでした。
サン=カンタン 独第41連隊の前進
ゲーベン将軍麾下諸隊はこの夜、サン=カンタン市内の捜索と敗残兵狩りを行った後に市内及び周辺部落で宿営し、東方からの市内突入を阻まれた後にフォーブール・イスルで待機中だった騎兵第12「ザクセン王国」師団は、オアーズ河畔のヴァンデュイユ(サン=カンタンの南南東15キロ)まで一気に下がってその周辺部に宿営し、パリ包囲網からやって来た増援・第96「チューリンゲン第7」連隊の第1大隊と遅れて到着した同連隊第2大隊を迎え入れたのでした。
「サン=カンタンの戦い」で独軍は士官97名・下士官兵2,304名*という仏北部の会戦中最も大きな損害(ル・マンの戦いと同等の規模)を受けます。
仏軍はフェデルブ将軍の回想によれば約3,000名の戦死・負傷者と捕虜7,000から8,000名としていますが、独軍は翌日までにサン=カンタン市内とその周辺部だけでも約3,000名の仏軍負傷兵を発見(多くが住民や神職者から手当を受けていました)し、負傷していない捕虜だけでも約9,000名を数え、砲6門の鹵獲を記録しています。
サン=カンタンの戦い~猛攻の独軍と降伏する仏軍
※サン=カンタンの戦い(1871年1月19日)における独軍の損害
*第1軍団
戦死/士官3名・下士官兵93名・馬匹22頭
負傷/士官17名・下士官兵523名・馬匹6頭
行方不明(殆どが捕虜)/下士官兵37名
計/士官20名・下士官兵653名・馬匹28頭
*第8軍団
戦死/士官19名・下士官兵229名・馬匹66頭
負傷/士官44名・下士官兵997名・馬匹70頭
行方不明(殆どが捕虜)/下士官兵12名
計/士官63名・下士官兵1,238名・馬匹136頭
*第12軍団
戦死/士官2名・下士官兵24名・馬匹12頭
負傷/士官4名・下士官兵39名・馬匹9頭
行方不明(殆どが捕虜)/下士官兵6名・馬匹3頭
計/士官6名・下士官兵69名・馬匹24頭
*予備第3師団
戦死/士官3名・下士官兵73名・馬匹22頭
負傷/士官4名・下士官兵222名・馬匹4頭
行方不明(殆どが捕虜)/下士官兵10名
計/士官7名・下士官兵305名・馬匹26頭
*その他(近衛騎兵・騎兵第3師団・パリからの増援など)
戦死/下士官兵4名・馬匹7頭
負傷/士官1名・下士官兵28名・馬匹25頭
行方不明(殆どが捕虜)/下士官兵7名・馬匹3頭
計/士官1名・下士官兵39名・馬匹35頭
サン=カンタンの戦い 独軍損害総計
戦死/士官27名・下士官兵423名・馬匹129頭
負傷/士官70名・下士官兵1,809名・馬匹114頭
行方不明(殆どが捕虜)/下士官兵72名・馬匹6頭
計/士官97名・下士官兵2,304名・馬匹249頭
サン=カンタン市内 中央広場に集合する独軍
☆ ソンム川流域/1月末まで
「サン=カンタンの戦い」は終盤が夜間(午後7時前後)に至ったため、独軍としては追撃を翌日に延期せざるを得ませんでした。厳冬期、北仏の夜はとても戦闘が出来る環境でなく、ただでさえ疲弊した状態で追撃を行えば戦闘に至らなくとも将兵の損耗は厳しいものとなります。フォン・ゲーベン将軍も麾下に無茶をさせるつもりはなかったものの、「追撃は翌日に延期する」と命じた後の深夜午前12時、全軍に本日20日の命令を発し、それによれば「本日中に全軍5ドイツマイル(37キロ強)の行軍を命じる」とのことでした。これは休養十分・戦意最高の軍団においても個人装備を外して漸く達成可能か、と思える強行軍です。しかしゲーベン将軍としては、敵北部軍がル・カトー(=カンブレシ)やカンブレへ退き、おそらく彼の地は中継点で最終目的地は北部仏白国境の要塞地帯であろうと考え、また一部は意表を突いてギーズ(サン=カンタンの東北東25キロ)方面にも逃走したのではないのかと疑い、ここは麾下に多少の無理を強いても運があれば敵が要塞地帯へ逃げ込む前に一部なりとも捕捉し撃滅出来るのではないか、と考えた結果なのでした。
サン=カンタンの戦い~退却する仏軍を襲う独騎兵
1月20日。
払暁時、前日の戦いによる将兵の疲弊が消え去らない中、ゲーベン将軍麾下の諸隊は損害を補うことなく弾薬中心に最低限の補給を受けて宿営地を発ちます。
フォン・クンマー将軍が率いる左翼側兵団のうち、昨日の会戦で比較的損害と疲弊の少なかった伯爵フリードリヒ・ジークマル・ツー・ドーナ=シュロビッテン少将率いる騎兵第7旅団は、他の騎兵部隊に先立ち午前6時、前夜の宿営地でオミニヨン河畔のメスミー(ファイエの北西5.3キロ)を発ちました。将軍らはサン=カンタン~カンブレ街道(現・国道D1044号線)を驀進してエスコー河畔のル・カトレ(同北15キロ)を越え、カンブレを目指します。その途上、数百に上る落伍兵を捕虜にしますが、カンブレ南郊のリュミリー(=アン=カンブレシ。カンブレの南5.7キロ)とカンブレとの間に横たわる高地上に布陣する仏軍を発見、これに対し同行した騎砲兵小隊(4ポンド騎砲2門)が砲撃を加え仏前哨を要塞市街へ駆逐するのでした。
その後ツー・ドーナ将軍らはカンブレ南西側の「パリ門」とその郭外市街(ポルト・ドゥ・パリ地区。門は遺跡として現存します)に肉薄しましたが郭内市街から激しい銃撃を受けて停止すると、日没が迫って来たためマスニエール(カンブレの南6.7キロ)を経由してリベクール=ラ=トゥール(同南西10.3キロ)まで退き宿営に入りました。
この日、フォン・ガイル将軍麾下の混成師団は宿営地こそ出立出来たものの、会戦の「後遺症」で敵を追撃するどころではなく、苦難の行軍の果てに午後6時リュミリー(=アン=カンブレシ)へ到着、ツー・ドーナ将軍麾下の宿営地東側諸部落に宿営を求めたのでした。
同じくクンマー将軍の第15師団はオルノン周辺の宿営からカンブレ街道の西側で仏の落伍兵を捕らえつつ進みましたが、午後に入ってランピール(ル・カトレの西5.5キロ)に至るとこちらも疲弊が激しく大休止せざるを得なくなり、結局この日は同地周辺部に宿営しました。
サン=カンタン 独軍の行軍
一方、独軍の右翼(東)側ではフォン・バルネコウ将軍が右翼全部隊(第16師団に予備第3師団、近衛騎兵混成旅団、フォン・ベッキング支隊など)を掌握し、フォン・ストランツ将軍の下に予備騎兵第3旅団と騎兵5個中隊(近衛槍騎兵第2連隊と驃騎兵第9「ライン第2」連隊の第4中隊)、そして昨日のフォン・ベッキング大佐支隊が合流し前衛支隊となりました。
この「ストランツ隊」はスラン(サン=カンタンの北20.1キロ)を経由してル・カトーを目指しましたが、スランに達した時には既に仏軍主力はここを通過した後で、仏軍後衛はその先のリニー(=アン=カンブレシ。スランの北8.2キロ)付近でカンブレへの鉄道本線を守備していました。結局バルネコウ将軍も昨日の激戦の後では部下に無理強いすることも出来ず、本隊をクラリー(スランの北北東6.2キロ)まで進めた後に周辺部で宿営に入るのでした。
ゲーベン「軍」の最右翼はこの日も変わらずザクセン騎兵師団で、トゥール・リッペ将軍は麾下を二列の縦隊に仕立て、この日の内に左縦隊がボアン=アン=ヴェルマンドワ(サン=カンタンの北東19.6キロ)、右縦隊がギーズに達します。こちらも行軍中仏の落伍兵を見るばかりで会敵出来ませんでした。
昨日の会戦で大活躍したフォン・ブロニコウスキー少佐の支隊(この20日、ヴィレ・ボカージュから行軍して来たフュージリア第33連隊第2大隊と驃騎兵第9連隊第1中隊が加入します)はサン=カンタン駐屯となり、ゲーベン将軍とその本営は前進する諸隊後方からベリクール(サン=カンタンの北13.3キロ)まで進みました。
この日、遂に仏北部軍の「尻尾」を捕まえることが出来なかった独第一軍本営は、翌日の行軍命令を次のように発します。
「ザクセン騎兵師団はサン=カンタンからカンブレ、ル・カトーそれぞれに向かう鉄道の分岐付近(ル・カトーの南西8.6キロ付近)に布陣し、1個混成支隊を設けてこれをル・カトーに進駐させよ。バルネコウ将軍はザクセン騎兵の左翼(西)で兵団を率いル・カトー~カンブレ街道(現・国道D643号線)を挟んでコドゥリー(ル・カトーの西北西9.7キロ)~ベトンクール(コドゥリーの北北東2キロ)の線まで進み布陣せよ。クンマー将軍の兵団(フォン・デア・グレーベン兵団を含む)はサン=カンタン~カンブレ街道沿道でマスニエール~マルコアン(マスニエールの西2.7キロ)の線まで進み布陣せよ」
1月21日。
黎明にカンブレ周辺の偵察に出た独軍左翼の諸斥侯は、数多くの列車がカンブレから仏白国境要塞地帯の要衝、ドゥエ(カンブレの北北西24キロ)方面に向けて出発するのを望見し、カンブレ~アラス街道(現・国道D939号線)上のマルキオン(カンブレの北西11.3キロ)でも北西へ進む仏軍の行軍縦隊を望見しました。また、中央では仏軍の前哨がカンブレ要塞の南方に展開しているのを望見するのです。
この日、血気盛んなヘッセン大公国公子ハインリヒ大佐は、直属の近衛騎兵を中核とする諸兵科混成の強行偵察隊を率いてル・カトーの西をソレム(ル・カトーの北9.6キロ)に向かって北上し、道中多くの仏落伍兵を捕らえました。
右翼(東)ではザクセン騎兵師団*が北方のエーヌ=ノール県境を越えて複数の斥侯隊を送り、その一隊は要塞地帯の一角、ランドルシー要塞(ル・カトーの東北東10.7キロ)の斜堤にまで迫りました。
※騎兵第12「ザクセン王国」師団はこの21日、フュージリア第86「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊の第3大隊も迎え入れますが、パリ包囲網から派遣されていた残りの第16旅団(第4軍団第8師団所属)諸隊(フュージリア第86連隊の第2大隊、第96「チューリンゲン第7」連隊の第1、2大隊)共々、第一軍本営から届いた電信命令によって別任務(後述)に就くためザクセン騎兵と別れ旅団集合となりました。
この21日。カンブレとル・カトー中間のコドゥリー(ル・カトーの西9.7キロ)に進出したゲーベン将軍の本営では、次々に到着する斥候報告や諸情勢報告から「仏北部軍はその大部分がアラス~カンブレ~ル・カトーの線より北、リール~ドゥエ~バランシエンヌの要塞地帯へ退却済み」と判断します。従って、しばらくは仏軍が攻勢に出ることはない、と考え、また、独第一軍としては手元に攻城材料がないためこれら要塞の包囲並びに攻城は無理とし、そもそも第一軍の任務はソンム川以北に進出し占領することではなく、主戦場にない要塞を数個落とすためだけにこれ以上の「出血」を見ることは何ら大本営の戦略に寄与するものではない、と結論付けました。
そこでゲーベン将軍は今後の方針として「先ずは軍の休息と補充が第一」とし、「その休息期間中に仏北部非占領地の電信と鉄道の破壊工作を行い、その後に順次諸隊をソンム河畔まで後退させる」ことに決します。
将軍は方針決定後の夕刻、翌22日の行動として麾下に次の主旨の命令を発しました。
「第15師団は(第8)軍団砲兵隊の重軽砲大隊に騎兵第3師団の胸甲騎兵第8「ライン」連隊を編入してバポームに向け行軍しアラスに対する警戒を成せ。本日付けで軍直轄総予備となったフォン・デア・グルーベン将軍麾下の兵団はカンブレの南方に展開・駐留せよ。第16師団*は予備第3師団と共に現在の宿営・展開地(ベトンクール~コドゥリー間)を南方のカンブレ鉄道を越えクラリー(コドゥリーの南5.1キロ)からプレモン(クラリーの南7.2キロ)に至るまで拡張せよ。トゥール・リッペ将軍は麾下にベッキング大佐支隊を加え、サン=カンタン~ル・カトー鉄道線東方に展開・駐留せよ。現在第一軍の傘下にある第16旅団の4個大隊*は今後ラ・フェールに駐屯する予定のため現在地から鉄道で当地に向けて出立せよ」
※22日に第70「ライン第8」連隊の第1,2中隊は後備部隊と交代してアム守備隊の任を解かれ第16師団に帰着しました。ゲーベン将軍は別途第69「ライン第7」連隊の第1、Fの2個大隊にペロンヌ要塞守備を命じ、また本隊に戻るためアミアンから行軍中だった第70連隊の第2大隊はペロンヌ要塞で留められ一時守備隊に編入となりました。
※22日、フュージリア第86連隊第2、3大隊がラ・フェールに向けて行軍を開始、第96連隊の第1、2大隊は翌23日に行軍を始め、それぞれ24日と25日に専用輸送列車に乗車、ラ・フェールに到着しました。
この22日、「カンブレ要塞が降伏する兆候あり」との真偽不明の情報がフォン・デア・グレーベン将軍に届き、将軍はツー・ドーナ将軍の騎兵第7旅団に野砲兵第7連隊の騎砲兵第1中隊を付して要塞南郊へ進ませます。現地に至ったツー・ドーナ将軍は要塞司令官に白旗の使者を送り開城を促しましたが、司令官はこれを拒絶したため使者は手ぶらで帰り、騎兵旅団もまた元の宿営地へと戻りました。
ゲーベン将軍はこの日本営をサン=カンタンまで下がらせます。
前進するゲーベン将軍と幕僚たち
1月23日。
独第一軍は少数の破壊工作隊や斥候による複数の鉄道破壊と電信線切断工作のほか、ザクセン騎兵による目立つ行動を記録しています。
トゥール・リッペ将軍はこの日、仏軍の2個大隊が北部要塞地帯の一要塞ル・ケノワ(カンブレの東北東30キロ。比較的当時の姿・星形稜堡の形状を留めている街として有名です)からランドルシーに向けて行軍中との「確実な」情報を得て、この部隊到着で要塞守備隊が強化される前に要塞を攻略してしまおう、と考えました。そこでルーアン(セーヌ河口域)南郊の諸戦闘に続いてサン=カンタン会戦でも活躍したフォン・メアーシャイト=ヒュレッセム中佐に対し、歩兵1個大隊・騎兵1個中隊・砲兵1個中隊を率いル・カトーから、部下の騎兵第23「ザクセン騎兵第1」旅団長、カール・ハインリッヒ・タシーロ・クルーク・フォン・ニッダ少将に対し猟兵第12「ザクセン」大隊と騎兵1個中隊、砲兵1個中隊でカティヨン=シュル=サンブル(ル・カトーの東南東7.7キロ)から、それぞれ進発させ共にギーズ街道(現・国道D934号線)上をランドルシー要塞目指して前進させるのです。
※1月23日・ザクセン騎兵「兵団」によるランドルシー攻略隊
*メアーシャイト=ヒュレッセム隊(ル・カトーより)
○第41「オストプロイセン第5」連隊・第2大隊
○槍騎兵第17「ザクセン第1」連隊・第3中隊
○野砲兵第1「オストプロイセン」連隊・重砲第3中隊
*クルーク・フォン・ニッダ隊(カティヨン=シュル=サンブルより)
○猟兵第12「ザクセン第1/王太子」大隊
○ザクセン王国近衛「ライター」騎兵連隊・第3中隊
○野砲兵第12「ザクセン」連隊・騎砲兵第2中隊
百戦錬磨の指揮官に率いられた両縦隊は午後2時、ランドルシー要塞近郊に到着し、要塞稜壁上に構えた守備隊と短時間ですが激しい銃撃を交わしました。その後先行したヒュレッセム隊の第41連隊第7中隊は仏守備隊の遊撃隊をランドルシー停車場から駆逐しますが、この間に北西から接近していた仏増援の2個大隊は独軍に妨害されることなく要塞北方口から要塞内に入城してしまい、守備隊が自分たちより倍以上となってしまった独の両支隊は潔く直ちに踵を返しル・カトーに向け撤退行軍に入ったのでした。
1月24日。
在サン=カンタンのフォン・ゲーベン将軍は予備第3師団(この時点でも予備騎兵第3旅団はバルネコウ将軍の第16師団傘下となっています)に対し「近衛混成騎兵旅団と共にル・カトーまで退く」よう命じ、ペロンヌ要塞守備隊中第16師団の3個(第69連隊第1、Fと第70連隊第2)大隊に対し「ソンム左岸カピー(ペロンヌの西13キロ)及びブレイ=シュル=ソンム(ソンム右岸。カピーの対岸・北西3キロ)に行軍し親部隊(第16師団)を待て」と命じました。更にブレイ付近のソンム川に架橋しこれを防御するよう命じ、同時に第28連隊でサン=カンタンに居残っていた2個大隊と野砲兵第8連隊の軽砲第2中隊をペロンヌ付近まで行軍させ、第15師団に帰属させるのでした。
1月25日。
独第一軍は殆どの部隊がソンム河畔まで下がることとなり、退却行軍を仏軍に悟らせぬため、フォン・デア・グレーベン兵団はカンブレ南方に布陣して仏軍の斥侯が南方へ進むのを阻止します。
第16師団は予備騎兵第3旅団を引き連れてソンム流域に向けて出立し、予備第3師団も後退行軍を続けました。また、ザクセン騎兵師団を中核とするトゥール・リッペ将軍麾下の諸隊はル・カトー周辺からサン=カンタンに退却します。
1月26日。
サン=カンタンに居残っていたフォン・ブロニコウスキー少佐の支隊(この時点で猟兵第8大隊、フュージリア第33連隊第2大隊、驃騎兵第9連隊第1中隊、第8軍団砲兵の騎砲兵大隊)は後をザクセン騎兵に任せて第15師団の待つペロンヌ周辺に向け出立しました。同じくカンブレ南方に展開していたフォン・デア・グレーベン兵団(この日解隊・原隊復帰となります)も後退行軍に入り、フォン・ガイル将軍率いる混成師団はル・カトレ~ファン(ペロンヌの北北東14キロ)の線上へ、騎兵第7旅団は一気にコンブル(同北北西10.2キロ)まで退きました。
1月27日。
この日独軍は目的地へ行軍中の諸隊を除き休息日となります。
1月28日。
主力の集合を終えた第15師団が更に西へ動き、騎兵第7旅団はアミアン西方の警戒部隊に指定され、ボヴェル(アミアンの西11キロ)に向け長距離行軍を行いました。
こうして独第一軍主力は1月29日の時点でほぼ全部隊がソンム河畔における指定駐留宿営地に至りました。
独第一軍の配置(1月29日)
※ 独第一軍・71年1月29日における展開配備
右翼(東)より左翼(西)へ
□ 騎兵第12「ザクセン王国」師団
師団長 伯爵フランツ・ヒラー・フォン・トゥール・リッペ=ビースターフェルト=ヴァイセンフェルト中将
*クレルモン(アミアンの南58.2キロ)へ派遣していたライター騎兵第3連隊が復帰し、第41連隊(旧ベッキング隊)と共にサン=カンタンに駐留。ベッキング大佐と野砲兵第1連隊の重砲第3、軽砲第3中隊は第1軍団混成師団に転属しました。
□ 第1軍団混成師団
師団長 男爵ヴィルヘルム・カール・フリードリヒ・フォン・ガイル少将
*ヴェルマン(サン=カンタンの西北西10.4キロ)とロワゼル(ヴェルマンの北北西8.5キロ)周辺に駐屯。
□ ペロンヌ要塞守備隊
*後備歩兵2個大隊を中心に以下の守備隊を編成。
○後備「グライヴィッツ(現ポーランド・シロンスク県のグリヴィツェ)」大隊・第1,2,3中隊
○後備「コーゼル(現ポーランド・オポーレ県のコジレ)」大隊
○槍騎兵第5「ヴェストファーレン」連隊・第3中隊
○第8軍団野戦工兵第3中隊の1個小隊
○要塞砲兵第1連隊・第11中隊
○要塞砲兵第5連隊・第13中隊
□ 第16師団
師団長 男爵アルベルト・クリストフ・ゴットリープ・フォン・バルネコウ中将
*予備騎兵第3旅団を配下に加えペロンヌの西・ブレイ=シュル=ソンム~モンディディエ街道(現・国道D329号線)の沿道両側に展開・駐留し、第31旅団支隊がソンム諸渡河点・橋梁を守備し、第32旅団支隊はアミアン~サン=カンタン街道(現・国道D1029号線)との交差点周辺に宿営、予備騎兵第3旅団は両歩兵旅団の間で待機。
□ 予備第3師団
師団長 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニコラウス・アルブレヒト親王中将
*近衛混成騎兵旅団(30日に近衛驃騎兵連隊の第2中隊が合流しました)を配下に加え第16師団の後方予備となり、ショルンヌ(ブレイ=シュル=ソンムの南南東14.7キロ)周辺に駐留。
□ 第8軍団砲兵隊
隊長 カール・ルイス・フランツ・アマルリック・ウルリヒ・フォン・ブリュッヒャー大佐(野戦砲兵第8連隊長)
*アミアン~サン=カンタン街道上のヴァルフッセ(現・ラモット=ヴァルフッセ。ヴィレ=ブルトヌーの東5.7キロ)とヴィレ=ブルトヌーに駐屯。
□ 第15師団
師団長 ルドルフ・フェルディナント・フォン・クンマー中将
*第16師団と連絡しつつソンム右岸(ここでは概ね北岸)でアシュー=アン=アミエノワ(バポームの西22.8キロ)周辺に第30旅団支隊が、ヴィレー=ボカージュ(アミアンの北11.6キロ)周辺に第29旅団支隊がそれぞれ駐屯(アラス方面を警戒)。
□ アミアン守備隊
*歩兵5個大隊・騎兵1個中隊・要塞砲兵1個中隊・工兵1個中隊。
○フュージリア第33連隊
○猟兵第8大隊
○後備「ラーティボーア」(現ポーランド・シロンスク県のラチブシュ)大隊
○槍騎兵第7「ライン」連隊・第3中隊
○第1軍団野戦工兵第3中隊
○要塞砲兵第11大隊・第8中隊
□ 騎兵第7旅団
旅団長 伯爵フリードリヒ・ジークマル・ツー・ドーナ=シュロビッテン少将
*ボヴェルにてアミアン西方警戒(前述)
□ 混成支隊(シェンク支隊)
指揮官 フォン・シェンク少佐
*ソンム沿岸のピキニー(アミアンの北西12キロ)にてソンム下流域アブビル方面を警戒。
○擲弾兵第3「オストプロイセン第2」連隊・第1、2大隊
○槍騎兵第5連隊・第1,2中隊
○野砲兵第1連隊・重砲第1中隊
□ その他第一軍諸隊(ルーアン方面のフォン・ベントハイム将軍麾下除く)
○擲弾兵第1連隊・第1大隊
*第1師団に帰属するため行軍中。
○擲弾兵第3連隊・F大隊
*アミアン~ルーアン鉄道警備
○第81連隊・第2大隊
*ラ・フェール要塞守備
○予備驃騎兵第3連隊・第4中隊
*ネル(ペロンヌの南19.3キロ)駐屯
○後備「グライヴィッツ」大隊・第4中隊
*アム駐屯守備
○後備「リブニック」(現ポーランド・シロンスク県のリブニク)大隊・第1中隊
*ショルンヌ駐屯守備
○後備「リブニック」大隊・第4中隊
*エリー=シュル=ノワイエ(アミアンの南南東16キロ)駐屯守備
○後備「リブニック」大隊・第2,3中隊
*ボーヴェ駐屯守備
アウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン歩兵大将と第一軍の本営は26日、アミアンに帰還し以降この地で「宿敵」フェデルブ将軍の次なる動きに備えたのでした。




